モデュラスという名前の、帽子をかぶったアデリーペンギンがいます。このブログのあちこちにもその絵を貼ってあることからもお分かりのように、私は彼をたいへんに好きでいたのですが…。ところが最近、呼んでも出てこない。彼はどこかへ行ってしまって、私はいまごろになって「そう言えば、最後はいったいいつだっただろう」と別れたのがいつだったかもよく思い出せないことに気が付いたのでした。
別れ、というのはしかしそういうものなのかもしれません。まさかそれが最後だとは思わずにいつも別れ続けている。そしてずいぶん後になってから、あれがそのひとに会った最後であったということに気が付くのです。つまり、思い出した時にだけ、別れが発生する。思い出しもしない人や物とは、そもそも出会ってさえいないということでしょうか。そう考えると、別れはそうネガティブなものでもないように思えてきます。そもそも「出会った」という事実の方が、私には重く感じられます。何度も繰り返される同じ人との別れの感触よりも、出会った最初の、一度きりのその事実の方が、より決定的に思えるのです。いや待て、そういう出会いの衝撃があるからこそ別れの悲しみがあるのであり、そう考えると、やはり出会いは別れでもあり、どちらがどうとは切り離せないのかもしれません。いつも春にはこんなことばかり考えている気がします(もう春です)。
私のなかには小さな町があって、それは石造りのごく小さな町で、小さな港と大きな森を持つ町です。そこにはおとなしくてぼんやりとした動物たちがすんでいて、私もまたそこに日常を持っています。ネコやペンギンやキツネや犬、ときには穀物や野菜などまでが人格を持って、くだらないことをしたりしなかったりするのを見ています。
よくよく考えると、モデュラスは最初から「その町の外から来たひと(ペンギン)」でした。彼は定住地を持たず、南極で生まれましたが今は赤道直下で暮らしています。そこからまたさらに遠くへ行くつもりでいるようです。
そうだった。彼は「いつもそこにいるひと」ではなかった。そこを愛したのだった。私が近くばかりを見ている間は、彼のところにまで思いが届かないだけだ。また会えるだろう。「会いたい」という気持ちは、不思議と相手に通じることを、私は幸運にも幾度も経験させてもらって知っています。良かった、彼はまたここへやってくるに違いない。
そうか。会いたいと言って思い出すうちは、まだ別れたことにはならないのかもしれない。そのひとの思い出とともに肝心なことを思い出す私は、そのひとと別れ続けているのではなく、出会い続けているのかもしれない。
どちらも同じことかもしれなくても、やはり出会いの方が明るいよな。ならば私はできるだけ明るい方を採用したい。明るい方へ。このことを教えてくれるのがつまり、いつもモデュラスなのでした。
まとまりのない、春の雑感。
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