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『牛への道』

2009年09月08日 | 読書日記ー日本

宮沢章夫(新潮文庫)




《内容》
人間にとって最もだらしがない気分とは? カーディガンを着る人に悪人はいないのか? 新聞、人名、日常会話、あるいはバレリーナの足に関する考察から、その裏に潜む宇宙の真理に迫る。牛に向かってひたすら歩き続け「牛的人生」を探求する岸田賞作家が、独自の視点で解き明かす奇妙な現象の数々。本書を一読すれば、退屈な日常がなんだかシュールで過激な世界に変わってくる!

《この一文》
“「女の膝に万一塵でも落ちかかったら、指で払いとってやらなければならない。もし塵がぜんぜんかからなかったら――なくともやはり払いたまえ」
 勇壮である。「払いたまえ」ときた。確かに言葉は勇壮だが、やっていることはどこかちまちましている。
  ――「なくともやはり払いたまえ」より ”



近日中に書棚を整理することを迫られている私は、書棚を整理するつもりで、まず書棚に収まりきっていない部分の書物から整理することにしました。それで、整理するつもりで発掘作業を始めたところ、いきなり大昔に買ったまま読まずに放置してあった本書に行き当たりました。あー、そう言えば持ってたな。どうして買ったんだっけ? どういう内容なの? と、ページをめくってみると、結構面白そうでは無いですか。軽い語り口が読みやすそうです。

私は実はまだ最初の部分しか読んでいませんが、「なくともやはり払いたまえ」のエピソードがあまりに面白かったので、これで十分満足した私は、ここでもうレビューを書いてしまおうという魂胆です。

「なくとも払いたまえ」は、著者が友人の会社を訪問した際、待合室に置かれていたただ一冊の文学全集が「古代文学集」で、それがギリシア・ローマの文学を収めてあるものだったことから始まるお話です。そこに収録されていたオウィディウスの『アルス・アマトリア』におけるオウィディウスの語り口が高飛車かつ勇壮で、いかにもローマ時代らしくて良い、というようなことを著者は面白可笑しく書いているのですが、私はこれにとても納得してしまいました。

勇壮な口ぶりなんだけど、落ち着いて考えると結構せこいことを言ってるぜ、みたいな。というか、結構せこいことを言っているのだけれど、正々堂々と雄々しく述べられると、つい納得させられてしまうというか。そういうところはあるかもしれないなーと私も思います。つまり、物は言いようということでしょうか。訳の分からぬことでも、ついそのまぶしさのために圧倒させられてしまう人間というのは、実に仕方の無い生き物なんですね。ローマ時代からそれが変わっていないというのが、残念なような、微笑ましいような。たまにはローマものを読みたくなってきました。セネカでも読み返して、熱狂と落胆を繰り返そうかしら。


ちらっと目を通した感触では、結構楽しめそうな一冊です。続きはそのうち読もうと思います。まずは書棚の整理を……あー、もういいか、別に。





『うつつにぞ見る』

2008年08月21日 | 読書日記ー日本
内田百間(ちくま文庫「内田百間集成18」)


《内容》
「総理大臣などと云うものは好きではない。そう云う人の所へこっちから出掛けて行くなぞいやな事で、第一、見っともなくて、滑稽ではありませんか。……来る心配はないが、来ても家が狭いからお通しするのに迷惑する。まあそんな事はよしましょう」(「丁字茄子」より)吉田茂、徳川夢声、菊池寛、初代吉右衛門、三代目小さん、蒙禿少尉……有名無名を問わず百間先生独特の人間観があふれる人物論集。


《この一文》
“「ここだ、ここだ」と云う声がした。
 豊島が座席から起ち上がり、窓縁に両手を突いて窓の下を見た。
「あっ、女が轢かれている。君、若い女らしいよ」
 急いで窓を開けて、半身を乗り出した。
 私は不意に全身が硬ばった様な気がした。身動きも出来ない。
「君、そんなものを見るのはよせ」
「なぜさ」
「よしたまえ。気持が悪いじゃないか」
「我我はあらゆる現実の事相に直面しなければいけないんだ。そうだろう。君ものぞいて見たまえ」
「いやだ」
「胴体が腰のあたりから切れているんだ。赤い腰巻をしているよ。一寸見て見たまえ」
「沢山」
「腰から上の方はそっち側かな」と云いながら、彼は通路を跨がって向う側の窓をのぞいた。
「ないね、きっと僕達のこの下だろう」
    ―――「黒い緋鯉」より ”



そういうつもりはなかったのですが、このごろの風はどこか秋めいて胸は高鳴るも頭の方は大分とすっきりしてきた私は、長らく雑然とさせるままの書棚を整理しようと思った矢先、思わず本書を手に取り読み進めてしまいました。書棚の整理はまあまた今度。

本書は以前にもすでに何度か読んだことがあるので、あちらこちらに読んだ覚えがありました。しかし幸いにして、忘れっぽい私の頭はすべてをきれいに覚えているわけではなかったので、今回も十分に楽しめます。どちらかというと、まるで初めて読むように楽しめました。

どれもこれも、ちょっと信じられないくらいに面白い。どうしてこれっぽっちの何でもないことについてをこんなに面白く書くことが出来るのか、まるで魔術のような文章に、例によって目が眩み、動悸はますます激しく打ちます。このまま心臓がこわれて死んでしまうのではないかと思うほどです。もしそんなことになったら、どうか皆さん悲しんだりしないで「よくやった!」と拍手を送ってください。名文の前に薄ら笑いを浮かべたまま絶命。そいつは最高だ。
しかし、どきどきするのは最初のほうだけで、そのうちに一転落ち着いてきます。あまりに集中していて、どきどきも忘れるようです。百間先生の文章は結局のところ私を鎮静させるので、やはり私は長生きしそうな気がしてきます。


さて、人を馬鹿にしたような相変わらずの面白さや、弟子や恩人の死に接して淡々としたなかにも深い悲しみを綴ってあったりするなかでも特に、今回とりわけ「おや」と思ったのは、「黒い緋鯉」。副題に「豊島与志雄君の断片」とあります。豊島与志雄氏といえば、私が先日読んだユーゴーの『死刑囚最後の日』の訳者の先生ではありませんか。こんなところでそのお名前に出くわすとはついぞ思いもしませんでした。前に読んだときは豊島先生を知らなかったので気がつきませんでした。この人は、この時代の人だったのか。ついでに、お二人とも機関学校で教職に就いたのは、先に英語の教師として赴任していた芥川龍之介の紹介なのだそうです。こういうふうに、人間はつながっているのですね。

それで、「黒い緋鯉」を読んでみると、さすがに『死刑囚最後の日』を訳されるだけのことはあるなと、豊島先生の人となりに関してとても腑に落ちました。『死刑囚~』はギロチンによって処刑される一死刑囚の手記という体裁の作品ですが、「黒い緋鯉」のなかで豊島先生は、百間先生とともに横須賀の機関学校へ向かう汽車に乗っていて、ある時その汽車が若い女性を轢いてしまい、ふたつに分かれてしまった胴体を、青ざめる百間先生をよそに、窓から身を乗り出して見物したそうです。なるほど、すごく分かります。
ついでに驚いたことには、当時まだ若かった百間先生をその後長く続くことになる借金生活の第一歩へと導いたのが、この豊島先生だったのだそうです。やはりユーゴーの『レ・ミゼラブル』を翻訳したのを50万部だか売って大儲けした、浪費家だったらしい豊島先生。この人についても、かなり知りたくなってきました。

面白いから最後まで一息に読んでも良かったのですが、この豊島先生の段で十分満足してしまったので、今回はここでやめました。でも、ちょっと気になったので、中を飛ばしておしまいの方をめくってみたら、そのあたりは「読んだことがあるけど忘れている」というレベルではなく、本当に初めて読んだのだと思います。表題の「うつつにぞ見る」もたぶん今になってようやく読みました。

こんな感じで、百間先生の本には、たちまち満足させられてしまうのでした。だからいつも全部を読んでしまうことが出来ません。好きで好きでたまらなくても、そればかりはどうしようもないのでした。


『富豪刑事』

2008年05月23日 | 読書日記ー日本
筒井康隆 (新潮文庫)


《内容》
キャデラックを乗り廻し、最高のハバナの葉巻をくゆらせた“富豪刑事”こと神戸大助が、迷宮入り寸前の五億円強奪事件を、密室殺人事件を、誘拐事件を……次々と解決してゆく。金を湯水のように使って。靴底をすり減らして聞き込みに歩く“刑事もの”の常識を逆転し、この世で万能の金の魔力を巧みに使ったさまざまなトリックを構成。SFの鬼才がまったく新しいミステリーに挑戦する。

《この一文》
“ ここで突然、鎌倉警部は回転椅子をくるりとまわし、読者の方へ向きを変えて喋りはじめた。「さて、読者の皆さん。ここでわたくしからひとこと皆さんにご挨拶申しあげます。この小説は、このあたりでちょうど前半を終ったところでありますが、賢明な読者諸氏の大方におかれましては、この事件の犯人の犯行手段及び密室のトリックがいかなるものであるか、もうすでにちゃんとおわかりのことと存じます。なにぶんこの作者、本格推理など書くのは初めてのことですから、文中へ伏線をたくみにまぎれこませるなどといった芸当はとてもできぬらしくて、今までの部分で謎の解決に関係のある事件のたいていのデータはまっ正直に投げ出しております。……」
  ―――「密室の富豪刑事」より  ”




『ロートレック荘事件』に続き、筒井先生のミステリ小説です。
それにしても、『ロートレック』のときほど込み入ってはいないものの、こちらの『富豪刑事』もまたなんともメタな……。面白いじゃないですか。とにかく、登場人物が突然「読者への言い訳」をしはじめるのが笑えます。「ミステリってあまり書いたことがないんですけど、がんばりました!」みたいな。こういうとぼけたところが素敵なんですね、筒井先生は。

全部で4つあるお話の中では「ホテルの富豪刑事」が私は一番面白かったです。






『われ大いに笑う、ゆえにわれ笑う』

2008年05月22日 | 読書日記ー日本
土屋賢二 (文春文庫)


《内容》
名作「わたしのギョーザをとって食べた人へ」をはじめ「胃カメラからの生還」「妻への詫び状」「論よりだんご」「女性を徹底的に賛美する」「わたしの教えた学生ワーストテン」など、常識の垣根を取り払い、森羅万象をユーモアと諧謔で解きあかした、お笑い哲学エッセイ集。著者自身によるイラスト多数収録。

《この一文》
“一般には知られていないかもしれないが、哲学をやっている者も思索する。
   ―――「時間の効率的活用法」より  ”



実は私はユーモア・エッセイというやつが好きです。私の書棚には日本人作家による本はあまり並んでいないのですが、その少ないもののうちでもエッセイがほとんどを占めています。一番多いのは言うまでもなく内田百間先生の随筆(エッセイというよりはやはり「随筆」と言いたい)。そして次に多いのがこの土屋先生のエッセイです。なんだかんだで買い集め、気が付けば5、6冊は持っています。ついつい御布施してしまったなあ。

土屋先生は哲学科の先生ですが、内容はそんなに哲学のことを意識しなくても楽しく読めます。しかしやはり哲学科の先生だからなのか、もともとの性格がそうでいらっしゃるのか分かりませんが、細かいことをいちいち粘着質に述べられています。そのありさまはとても面白い。

「わたしのギョーザをとって食べた人へ」というお話は、土屋先生が行きつけの中華屋さんでギョーザを頼んだ時、ふと気が付くとお皿の上のギョーザが4切れしかない。なんだかいつもより1切れ足りない気がする……。隣の席には中年の夫婦らしい二人組。ギョーザは先生とその二人のちょうど中間に置いてあり……。
「ひょっとしたら食われたんじゃないだろうか、いやそれとも……」と嵐のようにわき起こる疑惑の念をやはりねちねちと書き綴ってあって爆笑です。
ギョーザたった一切れをめぐって、まあよくここまでこだわれますね。と思いつつ、気持ちは分からなくもないので、そのあたりが絶妙なんですね。


土屋先生の本はどれも読みやすく、にやっとすること請け合いです。さらに良いことには、いずれも面白いお話ばかりであるにも関わらず、読み終えてしばらくするとその内容をきれいさっぱり忘れてしまうので、何回でも楽しめるところでしょうか。私などはこの『われ大いに笑う…』を買う時、中身をぱらぱらとめくってみて、「何か以前に読んだ気がする…」と2度買い覚悟で買ってきたのでしたが、実際はまだ持っていない本であることが分かったので良かったです。要するに、いくつかのお話は内容が似ていて区別のつかないものもありそうだとも言えるかもしれません。でも面白いので、「気軽な読み物」としては最適であることは間違いないことでしょう。



『ロートレック荘事件』

2008年04月16日 | 読書日記ー日本
筒井康隆 (新潮文庫)


《あらすじ》
夏の終わり、郊外の瀟洒な洋館に将来を約束された青年たちと美貌の娘たちが集まった。ロートレックの作品に彩られ、優雅な数日間のバカンスが始まったかに見えたのだが……。二発の銃声が惨劇の始まりを告げた。一人また一人、美女が殺される。邸内の人間の犯行か? アリバイを持たぬ者は? 動機は? 推理小説史上初のトリックが迷宮へと誘う。前人未到のメタ・ミステリー。



ミステリーです。
ミステリーの場合、ネタをバラさないように気を遣うと、あまり書くことがありません。なので、この作品はとても面白かったのですが、なかなか書くことを思い付けません。うーむ。

そうは言ってもせっかくなのでちょっと書いてみると、解説で佐野洋氏も書いておられましたが、その他の作品においてみられる『戦う筒井康隆』像が、このミステリー作品にもうかがえます。

そもそもトリックのあり方からして凄い。私はミステリーを読みなれているわけではありませんが、こういう方向のトリックはあまり、というか全く経験がありません。さすが筒井先生。ミステリーとしては王道から外れているのかどうかは分かりませんが、まったくよく考えたなーという感じです。

実は私はこの作品を読みはじめるなり、読みやすい筒井作品にしては珍しく大いなる違和感を感じていたのですが、なし崩し的に物語を読み進めるうちに(それでもやはり面白いので)、いつの間にかその違和感はなくなっていきました。ところが、それがまさかああいうことになろうとは! いやー、凄い。あ、もうこのあたりでやめておこう。未読の方のこれから読む楽しみを損ねてしまう。

ついでに、この物語では何か「痛み」のようなものを物語っているような気がして、胸が痛みました。たぶん、ミステリー仕立てにしなくても十分に痛かっただろう筋書きは、この独特のトリックのためさらに一層痛さを増しています。はー、参った。

また、この文庫にはタイトルにもある「ロートレック」の絵が何枚かカラーで挿入されていて、それを見られるだけでも結構なお得感があります。こういうのは楽しいですね。


「あまり書くことがない」と言いつつ、結構書いてしまったか。



『小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所』

2008年04月10日 | 読書日記ー日本
原作:秋本治(集英社)

《内容》
大沢在昌・石田衣良・今野敏・柴田よしき・京極夏彦・逢坂剛・東野圭吾。当代の人気作家7人がそれぞれの『こち亀』を描く。

《この一文》
“ 今、こうしてティーガー2の質感を再現しようとする試みは、私に新たなる地平を与えてくれるような気がした。世界が広がったのだ。 
    ―――「キング・タイガー」(今野敏) より ”




ちょっと思い出せないくらい以前に、図書館へ予約を入れていたこの本。人気殺到で、昨日ようやく私のところへ順番がまわってきました。それで、さっそく読みました。もう読み終えてしまった。漫画と同じようにずんずんと読んでしまえるぜ。私の後にもまだ待っている人がいるだろうから、さっさと返さねば。

『こち亀』と言えば、言わずと知れた超長寿漫画です。私も100巻あたりまではよく読んだものです。特に思い出深いエピソードは、「両さんメモリアル」。私がたしか中学生だったころ『少年ジャンプ』掲載当時に読みました。しかし、その『ジャンプ』は私が買ってきたものだったと記憶していますが、なぜか姉が先に読んでいて、しかもその名作「両さんメモリアル」のオチを私が読む前にバラされてしまったという覚えがあります。まあ、故意ではなかったのですが…あのエピソードはあまりにショッキングな展開なので仕方ないと思いつつも。くっそー。私は恨み深い。そういうことはいつまでも忘れないのでありました。


さて、その馴染み深い『こち亀』の小説版が出るというニュースを読んだのが、去年の春。速攻で図書館へ予約しました(買えよ;)。で、待つことおよそ1年(買えって:)。ようやく今日になって読むことができました(買わずに済まし、秋本先生ゴメンナサイ)。本編とはまた違った面白さがあり、楽しめました。

そもそも、私は現代作家の小説はほとんど読まないので、ここに収められた人気作家については名前しか知らないという人がほとんど。大沢さんの『新宿鮫』とか『アルバイト探偵』は昔好きで読んでいたのですが、あとの人の作品は全く未知。正直に告白すると、名前さえ知らなかった人が2人もいます。うとい。うといわ。

今回の小説集は、たとえば大沢在昌なら『新宿鮫』の鮫島や晶、藪さんなどを登場させたりと、自作の人気キャラと亀有公園前派出所の面々とを組み合わせて描いたものが多いです。そのためか、大沢さん以外を知らぬ私などには、半分くらいの確率で背景がいまひとつ理解できませんでした。知ってる人が読んだら、きっと面白いでしょう。知らなくてもそれなりに面白かったくらいですから。

その中でも特に面白かったのは、今野敏「キング・タイガー」。これはこの本の中でも飛び抜けてよく出来ていました。非常にうまい。はっきり言って、かなり地味、定年退職後プラモデルをせっせと作りはじめる元警察官のおじさんが主人公で、プラモデル製作にまつわるあれこれをなかなかディープに語るというマニアックなお話。ところが、これが相当に感動的でした。両さんはほとんど出てこないのですが、その出てこなさ加減が秀逸。いや、これはほんと面白かったです。

次に面白かったのは、東野圭吾「目指せ乱歩賞!」。今時、東野圭吾を読まない奴がいるのか? スイマセン、います、ここに…; という感じで、さっぱり東野作品を知らない私ですが、さすがに売れっ子だけあって、短い物語の中にギューギューに面白味が詰め込まれていて唸りました。両さんと中川のキャラクター造形に関しては、この人がもっとも原作通りぴったりでした。まるで漫画を読んでるみたいな錯覚が! 話の展開も、実に両さんらしくていい。原作が好きな人は、この話が一番楽しめるかもしれません。

ほかに面白かったのは、京極夏彦「ぬらりひょんの褌(ふんどし)」。なんつーか、何、このテンションの高さ…。この人ってこういう人なのかしら。途中から気味が悪いほどテンションが高くて、奇妙な面白さがありました。


というわけで、『こち亀』が好きで、さらに現代ミステリーにも詳しい人ならきっと楽しい1冊。私は片方しか条件をクリアしてないのが悔やまれます。たまには何か読んでみようかなー。



『ピアニストという蛮族がいる』

2008年04月04日 | 読書日記ー日本
中村紘子 (文春文庫)


《内容》
西欧ピアニズム輸入に苦闘した幸田延と弟子の久野久。師は失意の晩年を送り、弟子は念願の渡欧中に自殺をとげた。先人ふたりの悲劇を描いた6篇と、ホロヴィッツ、ラフマニノフほかピアノ界の巨匠たちの、全てが極端でどこか可笑しく、しかも感動的な“天才ぶり”を軽妙に綴った8篇。『文芸春秋読者賞』受賞の傑作。


《この一文》
“人生という限られた時間のなかで、ピアニストたちは僅か一分ほどの曲を美しく演奏するために何百時間という時間をかける。いや、その「一分」のために、幼い時から厖大な時間を費やしあるいは蓄積してきたといってもいい。事実それだけの献身を喜びに替えるだけの魅力を音楽はそれ自体で持っている。
 しかしピアニストたちは、その喜びのためだけにこの厖大なエネルギーと時間をさいているのではない。ピアニストたちにとって生命のための水のように必要なものは、聴衆である。   ”




最近ではめったに随筆を読まなくなってしまった私ですが、本屋の書棚に並んでいた本のなかで、その背表紙に釘付けになって(久しぶりの「引力」発動)思わず買ってしまったのが本書です。実に面白かった。中村紘子さんというのは才能が溢れすぎですね。カラッとしてしかも流れるような文章で、一気に最後まで読ませます。すごい。うまい。もの悲しいお話から、ちょっと笑えるお話まで、淡々とした語り口で少しも感情的ではないのに、メリハリのきいた構成によって深い印象を与えられるような優れた表現力。すごい。うまい。

残念なことに、私には音楽的知識も何もないので、本書に登場する巨匠たちのほとんどを知らなかったのですが、それでも十分に面白かったです。もし詳しければ、きっともっと楽しめたのにと思うと無念でなりません。音楽の世界の内側にいる中村紘子さんならではの視点や経験談に、激しく興奮できただろうになあ。
辛うじて「あ、この人知ってる(というか、名前を聞いたことがある)」というのは、リスト、ラフマニノフ、グールド、ロストロポーヴィッチくらいでした。でも、しつこいようですが、よく知らなくても十分に面白かったです。

特に、ピアニストではありませんが、チェロ奏者のロストロポーヴィッチがラップランドで演奏会を行ったというほんの短いくだりには爆笑でした。「音楽家の間抜けにみえるほどに真剣」な面を、さらっと面白く語る中村紘子さんというのは本当に素敵な人だなあと感心します。きっと文章だけでなくお話しになるときもすごく面白い人なのじゃないだろうか。私はすっかり好きになってしまいました。

たまには随筆もいいな、と思い直した1冊。


『ピカルディの薔薇』

2007年12月19日 | 読書日記ー日本
津原泰水 (集英社)


《収録作品》
 夕化粧/ピカルディの薔薇/籠中花/フルーツ白玉
 夢三十夜/甘い風/新京異聞

《この一文》
“こちらの思惑どおり、姪の気持ちはシーモンキーに転んだようだ。おれに似てずぼらな子だから、買ってもらってもきっと全滅させてしまうだろう。あえて死を悲しまず、思い出を愛でるすべを学ぶだろう。
         ―――「籠中花」より  ”



驚いてはいけません。
私とて、ときには現代日本文学に接することもあるのです。えへん。
とは言え、正直に告白すると、ちょっと前までは津原氏のお名前さえ存じ上げなかったのを、私のお友達がとても面白そうに感想を書いていらしたのでついつい読みたくなったわけなのです。
で、私の率直な感想としましては、たしかに面白かった!
いやー、たまにはいいものですね、日本の現代作家も。


物語は、猿渡という作家が聞き手だったり語り手だったりするという連作短篇小説でした。これはどういうジャンルに分類されるのでしょうか、ミステリーではない、幻想怪奇小説でしょうか。物語のところどころに、あまりに鮮烈な残酷描写がちりばめられていて、正直なところ、前半ではあまりのことに私は蒼白となっておりました。とくに表題作の「ピカルディの薔薇」の結末には、なんともはや色彩の対比が鮮やか過ぎるために一層……アワアワ; 怖すぎます…もう、だめだ………

残酷描写もさることながら、主要登場人物である猿渡氏や、彼の担当編集者とのやりとりが、なにか私には妙にしっくりこないというか……。会話文って、こんなんでしたっけ?(と、私の感性は20世紀初頭あたりに設定されているので、今回はたぶん新しすぎたということでしょうか;)
「やはり私には現代日本人作家は無理なの……?」と暗澹となりかかっていましたが、がんばって半分過ぎまで読んだ甲斐がありました!

「フルーツ白玉」というお話から、なぜか猛烈に面白くなりました。会話も全然気にならなくなったし。
あれ~、なんで急に? このあたりでようやく馴染みはじめたのでしょうか。やっと津原さんの魅力が伝わるようになります。なるほど、この人って、ちょっと独特の幻想性がありますね。

「夢三十夜」と「新京異聞」がとても面白かったです。めくるめく感じで。
「甘い風」も、わりとベタな展開でしたが、なんだかとても熱血なので面白かった。ベタなんだけれども、やっぱり不思議に幻想的なところがあって。
どのお話に含まれていたのだか、探しても見つからないのですが、「外国の山奥で倒れたとき、現地の女の子が食べさせてくれた血合いソーセージ(実はヒルだった)の話」が、妙に印象的で、いつか夢に見そうです。


私はお友達がすすめてくれない限りは現代日本人作家は一切読まないのですが、私のお友達がすすめてくださる限りは、それはきっと面白いに違いないので、これからも年に数冊というペースで読んでいくことにしよう、と思います。




『魔術師』

2007年10月31日 | 読書日記ー日本
江戸川乱歩 (創元推理文庫)

《あらすじ》
東京の大宝石商の一家を恐怖のどん底へと突き落とす無気味な数字の通信。日一日と減っていくその数は、いったい何を意味しているのか。一家に異常なまでの復讐心を抱く怪人〈魔術師〉とは何者? 玉村家からの依頼を受けて保養先から帰京するなり、賊の手にかかって誘拐された名探偵明智小五郎の運命やいかに!?  壮絶な結末に至るまで息つく間もなく展開される波瀾万丈の物語。

《この一文》
“「どうもしない。君たちを一人残らず縛り上げて、牢屋へぶちこもうというわけさ」
 明智がほがらかに言い放った。   ”



 明智がほがらかに言い放った―――。
って、ほがらか過ぎやしませんか。明智氏の爽やかっぷりは、なにかいちいち鼻につきますね。いやいや、これは真剣な物語なのだから、笑ってはいかん、笑っては…。と思いつつ、この作品はかなり笑えました。面白すぎるでしょう、ぷぷ。


そう、秋なのでミステリーが読みたい(と、なんにでも「秋なので」を付ける私)。と思い、前々から読みたかった作品を読みました。

江戸川乱歩はもっと不気味な作品がたくさんあるのですが、明智シリーズのなかでもとりわけ良く出来ていると言われる『魔術師』をとうとう読みました。たしかにこれは良く出来ています。例によってこれでもか!と盛り上がりますし、明智氏はどうやら若い女性(もちろん美女)に弱いらしいことも発覚。のちに妻となる文代さんとの出会い編です。そういうロマンスもあるのですね。盛り上がりますね。

「賊の手にかかり…」(賊!)とか「ええ、うるさいっ。すべたの知ったことか」(すべた!)とか「稀代の毒婦」(ど、毒婦!!)なんていう言葉にはなかなか出会えませんよね。そういう意味でも面白い! やっぱ江戸川乱歩は面白いなあ。


しかし、私の個人的な趣味からすると、『孤島の鬼』のほうが面白かったでしょうか。あれは泣きますね。瀬戸内海の無人島、鍾乳洞で水責め、そして報われぬ恋情……。あれは面白かった。江戸川乱歩らしい毒々しさもあったし。あれくらいがいい。もっと恐いのは私は怖くて読めませんし…。

うむ。でもまあ『魔術師』も面白かったな。これの続きは『吸血鬼』ということらしく、明智と文代さんのロマンスもいっそう発展するようなので、ここはひとつ読んでおきたいところです。


ところで、この創元推理文庫の『魔術師』には、作品連載当時の紙面がそのまま再現してあるのか、章の区切りのところに《編集部より》みたいなメッセージが入っています。これがいちいち爆笑ものでした。とくに笑ったのが、こちら。


“ 何たる怪奇、何たる驚異、こんなに面白い探偵小説はまったく天下に二つとはありません。乱歩先生も一生懸命、工夫に工夫を凝らして苦吟又苦吟、万事を擲(ナゲウ)って本篇の執筆に専念されておるわけですから、号一号、とてもとても堪らぬほど面白くなってまいります。どうぞ刮目してお待ち下さい。  ”


乱歩先生も一生懸命がんばっているんですよ。全てを擲っているんですよ。ぷぷー! ああ、おかしい。いいなあ、こんな盛り上がり主義の雑誌があったら、ぜひとも読みたいところです。熱くて、いい!

ちなみに「刮目(カツモク)する」という言葉の意味が「目をこすってよく見る」であったことをこないだ知りました。「目をよく見開いて」だと思ってました(そしてそれは「目を皿のようにして」の方だった。私は「皿~」の意味は「目を平たくして見る」だと思ってた。…「平たく」って……?)。

恥。



『真理先生』

2007年09月22日 | 読書日記ー日本
武者小路実篤 (『武者小路実篤集 筑摩現代文学大系19』所収)

《あらすじ》
私(山谷五兵衛)はある時、真理先生と知り合う。家族もなく金もなく、何も持たぬ真理先生はしかし大勢の人々が彼を慕って集まってくる。私は真理先生とつきあううちに少しずつ世の中に対する見る目を変えてゆき、この世間には存外いい人が多いものだと感じるようになるのだった。


《この一文》
”「今時に金がなくって生きられる人は先生の他にはないでしょう」と言ったら、
 「実際僕は運のよすぎる人間だ。ありがたいと思っている。僕のような我儘な人間が、皆に愛されると言うことは、実にありがたいことと思っている。僕程仕合せ者はないとよく思う」
 真理先生は、涙ぐみながらそう言った。
 聞いている僕の目も涙ぐんで来、いい人だと思った。  ”



はっきり言って、真理先生というのはただのろくでなしじゃないか。
そうとも言える人物です。だがしかし、このさわやかさは何だ。
この人の言うことに惹かれてしまうのは、どうしてだろう。
私は先生のようないい人ではないけれど、真理先生の考えには9割がた賛同する。
同じ思想を持った同族であるとほぼ言っていいかもしれない。
胸がいっぱいになる。


真理先生は、かつて妻に逃げられた上に、はじめから儲からなかった仕事もついにはしなくなるものの、今では彼を慕う人々が身の回りの世話をしてくれるので自分では一切お金を持たずに済む生活をしています。真理先生と呼ばれていますが「真理」についていったい何を話すのかと言うと、彼は単に真心を持って、相手を好きになって、正直に自分のままで居ながら、いろいろなことについての自身の考えを話すだけなのでした。しかし、そういう彼の態度に多くの人が心惹かれ、ある種の宗教的光景が真理先生のもとで繰り広げられるのです。

私は真理先生の「人類の平和を心から願っている。具体的な方法としての提案はないけれども、とにかく心から願っている」という考えは甘いにもほどがあると思いはしますけれど、だけど悪くないと思います。いえ、実に素晴らしい考えだとさえ思います。だって、彼は、人類を信じているのです。人間のなかの暴力や残虐を恐れ憎みつつ、しかし人類の幸福な未来を信じているのです。信じるだけでいい、ただ心から信じるのだ。そうやって一心に願う人間による行動はどういうものであれ、きっと人類の幸福に繋がるはずだ、そういう人間があらゆる方法であらゆる方向から進めばそれでいいのだという彼の思想に、私が反論する余地はありません。ただ涙が出そうになるだけです。



このような真理先生に触れることで、物語の語り手である山谷は変わっていきます。山谷が変わるにつれて、彼が当初から交遊していた友人のへたくそで売れない画家 馬鹿一、書家の泰山、泰山の兄であり売れっ子画家の白雲子という人々にも変化が見られるようになります。

驚くのは、この物語には悪い人物が登場しないことです。というか、いい人しか出てこない。変わり者もいれば俗物もいるし、他人の悪口をついつい言ってしまう人もいるにはいるのですが、誰も彼もそう悪くもない、むしろちょっといい人なのでした。山谷はそれまでにはそのことに気が付かなかったのですが、次第に人々の美点というところに目が向き始め、自らもまた素直になっていくようです。最終的には山谷を中心として、登場人物は全員幸せな結末を迎えることになります。なんというポジティブ。

この物語の登場人物として、実は私が真理先生以上に魅力的だと思うのは、画家の馬鹿一。彼は40年ほどの長い年月を石ころを描くことに費やし(しかも下手)、友人たちからも軽蔑されている奇人です。彼はしかし非常なひたむきさをもって絵に取り組み、あるきっかけによってとうとうその真価を発揮するようになるのですが、そのあたりがとても感動的です。こういう人物がいたっていい、と思います。



武者小路実篤と言えば私は『友情』しか知らなかったし、またそれしか読んだこともない(しかも内容はさっぱりと忘れた)ですが、こんな清々しい物語を生み出すなんて素晴らしい人です。真理先生のような人物、それはつまり作者のような思想を持つ人物はたしかに過去に存在し、それを理解したいと思う私のような人物が現在にも滅びずに存在するわけです。そのあたりが不思議です。どういう理由でそういう《具体的、直接的には何も出来ないにもかかわらず、人類の幸福な未来という身の程を超えた壮大な空想》をする人間が世の中に発生するのでしょうか。やはり何か必然があるのでしょうか。

ちなみに私はこんなことを考えてしまう種類の人間です。

【2006/04/06 「美しさについてまだまだ考える」より】
私は「なにもかもが美しい世界」というものを夢見ているのですが、それは花や絵を見た時に感じるあの強烈なインパクトが常に持続することではなく、あらゆるものがそのものとして存在していることの確実さを、全てはある原理に則っているということを完全に認識できるような世界のことです。

そこでは何も花がいつまでも咲き続ける必要はありません。芽が吹いて、そのうち花が咲き、そして散ったあとには実がなった。その確実さ。もしくは、芽も出ないで、花も咲かず、実もならなかった。そのどうしようもないまでの確実さ。全てのものごとには然るべき理由がある(つまり世の中には無駄なものなど何ひとつないとも言えるかもしれません)ということが真理であったらよいのにと私は憧れているのでした。



上に私の取り留めもない文章を敢えて再録したうえで、最後にこれは100%私自身の考えでもあると思った箇所を引用しておきます。これは私にとって、この世界には肉体の血族のみならず、精神の血族というものも存在するということを証明するためのひとつの材料ともなるでしょう。


” そして何とかして人生は無意味なものではない、空虚なものではない。生き甲斐のあるものだということを自分で信じ切りたいと思っているのです。さもなければ生きていることはあまりに空虚で、淋しすぎます。そうはお思いになりませんか。
 しかし人生と言うものがどうしても肯定出来ないものなら、それも仕方がないと思うのですが、私はそうは思わないのです。
 人間は無意味に生まれ、無意味に死ぬものとは思わないのです。私は人間に生まれるべくして生まれ、死すべくして死ぬものだと思われるのです。花が咲いて散るようなものです。咲くのも自然、散るのも自然、自然は両者をよしと見ている。私はそう考えているのです。
 つまり私達は生まれるべくして生まれたのであります。この世に奇蹟が行われないとすれば我々は、生まれるべくして生まれたのであります。善悪正邪以上の力で人間は生まれるべくして生まれたのであります。
 (中略)
この力を私は知らないのです。しかしその力を私は信じるのです。

              ―――『真理先生』より   ”