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半透明記録

もやもや日記

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『ライフ・アクアティック』

2007年09月25日 | 映像
ウェス・アンダーソン監督


《あらすじ》
世界的に有名な海洋探検家にして海洋ドキュメンタリー監督のスティーヴ・ズィスーは、ある意味、人生の危機を迎えていた。ここ数年ヒット作に恵まれず、資金繰りがきつい。おまけに、撮影中に長年のパートナーが幻の怪魚”ジャガーザメ”に喰われてしまった。なんとしても仲間のリベンジを果たし、自身の名声をも取り戻すため、ズィスーは新たな航海に出ることを決める。
突然名乗り出てきた昔の恋人の息子ネッド(自分の息子?)や、取材に押しかけた女性記者ジェーンも加わって、探査船ベラフォンテ号は運命を賭けた航海に乗り出した。しかし、そこには思わぬ”悲劇”が待ち受けていた。

《この一言》
”シロイルカは偵察隊だ



 知的な動物というが
 証拠はない        ”



うーむ。面白い。おそらく面白いだろうと思って観たけれど、やはり面白かった。さらっと面白いから凄い。


ウェス・アンダーソンの新作が廉価版で出ていたので買いました。『天才マックスの世界』と『ロイヤル・テネンバウムス』をミックスして海の中へ放り込んだようなお話でした。要するに、いつもどおり面白かったのです。常連のビル・マーレーのほかにウィレム・デフォーやジェフ・ゴールドブラムやケイト・ブランシェットなどが出ています。さりげなく豪華キャストなんです。でもって、ウィレム・デフォーは良かったです。

とにかくこの監督の映画は、画面があまりにハイセンスなので降参です。小道具やらセットやら衣装やら何やら、とにかく配色が奇麗です。参りますねー。

そして物語。
『ロイヤル・テネンバウムス』でもそんな感じでしたが、「父親とは」というようなことがテーマのひとつです。お話の構造的にはアルモドバルの『オール・アバウト・マイ・マザー』に近いものがあるかもしれません。いなくなるものがあれば、新しく生まれてくるものもあり、というような。
基本的には、細かい笑いのポイントがそこここに仕掛けられた愉快なお話なのに、同時に物悲しさも随所に溢れ出ているという、どうしてこんな脚本がかけるのかとこれまで観た作品と同じようにまたしても唸らされました。


今回は私同様にウェス・アンダーソン好きのK氏とともに鑑賞しました。
エンディングはちょっと可笑しいところもあるのですが、ひそかに私は泣きそうになってしまいました(『ロイヤル・テネンバウムス』のときは、ちなみに号泣でした)。まいりますね。そういうところが上手い。かなわんな。

一番笑えた場面を挙げようとすると、色々ありますが、偵察隊のシロイルカが登場する場面でしょうか。引用した《この一言》には、普段からイルカの可愛こぶったところとある種の人々の「イルカの知性」への妙な信仰というものが許せないらしいK氏も、まあ許せないほどではない私も思わず納得、そして間抜けな顔つきがやはり可愛いので爆笑でした。
イルカのほかにも、家の中を小鳥が自由に激しく飛び回っていたり、「スノーマングース」という謎の生物や、物語の本筋に関わる「ジャガーシャーク」など、興味深い動物がたくさん登場するのが、見どころのひとつでしょう。

面白かった。



What a Wonderful World

2007年08月22日 | 映像
【YouTube】What a Wonderful World


たとえば不足と不安に身悶えし滅亡のことばかり考えている今の私は、「この素晴らしい世界!」などと言われても、「ふん、そんなものは無いさ!」とついつい言いたくなってしまいます。
「そんなものは無い」。と、言いたくなる……ところもある。

だけれども、「無い」とは到底言えないのです。ああ、たしかにこの世界は素晴らしい。無数の憎悪や悲惨が渦巻いていようとも、たしかにこの世界には素晴らしいところがある。

だって、この人( Louis Armstrong 氏)のこの声や顔はどうでしょう。まじりけのない、そのものであるこの人とこの詩とこのメロディ。中学生のころからこの曲のことは好きだったけれども、映像で見てしまったらもうだめだ。もう、涙が止まらないではないか………。

まるで永遠に続く夜明け、まるで永遠に続く春の訪れ、一切後退することなくただひたすら前進するばかりの世界。美しいものだけがある世界。…そんなのは夢だ。ただの夢だ。そう思っているのに、どうして目に浮かぶのか。その素晴らしい世界が。ありふれた、なんというところもない、ただの世界、それなのに、それ故に、途方もなく美しく、輝かしい、この世界が。



というわけで、また朝から泣いてしまいました(朝の私は涙もろい)。
お友達のKさんにこの歌のことを話したら、「世界が滅んで、全部なくなった跡に流れてそうな曲」というようなことをおっしゃっていました。

たしかにそれは、そんな感じがします。
地球人類がいつか滅びるとして、私がその場に居合わせたなら、いや、そこまでいかなくともいつか私が滅びるときに、そこでこの曲を流すのもよいでしょう。
「なにもないところ」にこそ相応しい「喜び」が、この人のこの歌にはあると思えるので。




『ノスタルジア』

2007年07月04日 | 映像
アンドレイ・タルコフスキー


《あらすじ》
詩人で作家のアンドレイは、ロシアの音楽家サスノフスキーについて書くためにイタリアを旅する。
温泉のある町で、彼はある男と出会う。7年間ものあいだ家族を家に閉じ込めたことのあるその男は、アンドレイに頼み事をする。


《この一言》
”重要なのは完成ではない
 願いを持続することなのだ  ”



家の中に降り注ぐ雨と父親。
草原に佇む母である女性のイメージ。
満ちあふれこぼれ落ちる詩情。


困惑。
詩的すぎるのか、筋はよく分からない。


「ソラリス」のときも不思議で仕方なかったのですが、今回もやはりよく分からない。一発で分かろうというのがそもそも無理、もしかしたら分かろうとすること自体が無茶なのかもしれません。タルコフスキーはそんなことを望んでないのかも。どうなんだろう。とにかくこの人の作品の前では、私はどうしようもなく弱気になります。


一番分かったような気になったのは、7年間家族を家に閉じ込めた男のさいごの演説。物語の終盤になって、はじめて少し理解できる文章のつながりに遭遇して感激しました。
一番分からなかったのは、アンドレイと同行していた美女がある晩突然にヒステリーを起こすところ。

分からないことはたくさんありましたが、映像は美しいです。文句のつけようがありません。どの場面もいちいち美しい。ホテルの部屋の開け放たれた窓の外に降る激しい雨。その雨の影が丸い鏡のある洗面所の壁に映っている。
そして、いろいろな場面でザーザー雨やちょろちょろ流れてゆく水の音がしています。

何度か観るうちに、ひょっとしたらもう少しは理解できるかもしれません。少なくとも、もうちょっとは感じることができそう。

『オール アバウト マイ マザー』

2007年07月03日 | 映像
ペドロ・アルモドバル

《あらすじ》
臓器移植コーディネータのマヌエラは、一人息子エステバンが17歳の誕生日を迎え、そのお祝いにずっと秘密にしてきた彼の父親のことを話す約束をする。しかしエステバンはそれを聞く前に交通事故で死んでしまう。
息子のことを伝えるため、マヌエラは18年前に逃げるように飛び出したバルセロナへとかつての夫を探しに行く。

《この一言》

”孤独を避けるためなら 女は何でもする  ”



従兄のヨウちゃんがいつだったか「これまでに観たなかで一番面白かった映画」というようなことを言っていたので、ずっと観てみたかった作品。あらゆる女の物語。今までにどこかで会ったような、どこにでもいるはずの女たちの物語。それがアルモドバルらしい情熱的色彩のなかで展開します。

「どこにでもいるはず」とは言え、登場人物はやはり個性的です。皮肉な運命に翻弄されつつも自力でどうにか乗り越える主人公のマヌエラ、胸にシリコンを入れ女性となり客の男に殴られても商売をやめられない古馴染みのアグラード、自分を忘れた父親と自分を理解しない母親を持つ修道女ロサ、孤独な大女優ウマ。

私が、マヌエラのように生きることは可能だろうか。いや、私はロサだな。善良というよりも単純、やけっぱちとも言える衝動的行動に身をまかせる女。その先が破滅だとしても、それを「知らず」に選択せざるを得ない。ただ彼女の良いところは、起こってしまったことを泣きはしても結局は受け入れるところでしょうか。

それに対してマヌエラはしなやかに強い。ロサがすがりつきたくなるのも納得です。マヌエラは苦しみや悲しみを忘れてしまうことはなくても、そのままで前に進んでいきます。彼女の周辺で次々と人が死にまた生まれますが、彼女はつねに先に進むために必要ななにかを彼らに与え続けているようです。

マヌエラのような女性を、現実に私も知っています。人間の魅力とはこのようなものであったのかと私に初めて実感させたその人は、いまでも私の最高の憧れ。自由で豊かな美しい人。彼女の前では、私でさえ前を向かずにはいられません。

こんな風に、この映画を観れば今まで出会った誰かのことを思い出すかもしれません。ヨウちゃんもきっと誰かを思い出したに違いない。
「おとこ」だろうと「おんな」だろうと、生まれてくるのは結局はただ死ぬためだけなのかもしれなかろうと、生きているあいだはせめてちょっとでも前を向きたいものです。顔を上げたら、素敵な人(むろん、異性とは限らない)との出会いが待っているかもしれません。
と、思いました。


おなじようなテーマを扱った映画に、ロドリゴ・ガルシアの『彼女を見ればわかること』がありました。そちらがやや暗いトーンで語られていたのに対し、こちらの『オール アバウト…』はわりと明るいです。いずれの作品も、私には深くしみ込むというより突き刺さる。


これに続いて観たタルコフスキーの『ノスタルジア』も「母に捧げ」られていました。アルモドバルからタルコフスキーへは、それにしても凄い落差でした。以下、次回。

『交渉人 真下正義』

2007年04月06日 | 映像
夕飯を食べながら、なにか気楽にみられるものを…と思い、去年の秋に録画してそのまま放置してあったこの映画を観ることにしました。ところが、「夕飯を食べながら気楽に」と思っていたのに、物語の導入部分ですでに食事は完了。しかしせっかくなのでそのまま最後まで観てしまいました。

普段はどちらかと言うと、と言うか全面的にマイナーな映画しか観ない私ですが、この『踊る大捜査線』シリーズは好きなんですね。刑事ものが好きなのかもしれません。時代劇も好きですし(参考資料:私が愛したテレビ時代劇=「御家人 斬九郎」「八丁堀捕物咄」「鬼平犯科帳」などなど)。


さて、結論から申しますと、とても面白かったです。途中からはついついマジ観してしまいました。そして、ユースケ・サンタマリアさんに思わずときめいてしまいました。うーむ、かっこいいではないか。この人のことは前から結構好きでしたけど、今回は本気でやばかったぜ。
ストーリーは、終わってみるといくつか疑問も出てきますが、観ている間はあまり気にならなかったので、良い脚本だったんだと思います。いつも通り、要所要所に笑いどころもあり、うまく面白く作ってあります。

これはまあお話なのですけれども、実際にもこうやってクリスマスだろうが何だろうが関係なく、一生懸命に働いている人が沢山いるんだろうなあと思ったりして、私もなんだか一生懸命に働きたい気持ちになりました。我ながらすげー単純ですね。流されやすい。危険だ。


ついでに、2か月ほど前に『容疑者 室井慎次』も観たのですが、そちらはかなりシリアスでしたね。見応えがありました。どこだかの場面で涙してしまった事実は伏せておこうと思います。田中麗奈さんは可愛かったです。


と言うわけで、たまにはエンターテイメント作品もいいものですね。


『死刑台のエレベーター』

2007年01月21日 | 映像

(原題:ASCENSEUR POUR L'ECHAFAUD)
〔製作〕ジャン・テュイリエ
〔監督・脚本〕ルイ・マル
〔原作〕ノエル・カレフ
〔脚本〕ロジェ・ニミエ
〔撮影〕アンリ・ドカエ
〔音楽〕マイルス・デイビス
〔出演〕モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、ジョルジュ・プージュリー
(1957年・フランス)〔フランス語/字幕スーパー/白黒〕

《内容》
ジュリアンは戦争の元英雄。今は巨大な勢力を持つ武器商人のもとで働いている。しかし、雇い主の妻との恋愛のために、彼は社長を自殺にみせかけて殺害する。完全犯罪を計画したものの、ちょっとしたミスによって彼はエレベータの中に閉じ込められ、事態は意外な方向へ展開してゆく。



うーむ、久しぶりにとてもハラハラしました。なんという緊迫感でしょうか。1.3倍速で観ていたせいもあるかもしれませんが(なんて奴)、それにしても物語は迅速に美しい勢いで進んでゆきます。よく出来たストーリーと物悲しい音楽。そして画面がいちいち美しいですね。それから登場する自動車のデザインがかなり格好良い。

『黒衣の花嫁』に引き続き、またジャンヌ・モローです。この人はこういう神秘的な美女という感じがして迫力があります。無口で、口を開けば何か意味ありげなことしか言わないところがとっても素敵。

それと、面白かったというか少し呆れたのは、主役の二人とは別に登場するもう一組の若いカップルの無軌道さ。彼らの行動は、何もかも刹那的に発作的に起こります。どちらかというとこちらの二人の成り行きのほうにどきどきしてしまいました。なんだか悲しくなるようでした。なにが彼らを駆り立てていたのでしょうか。

チャップリンの独裁者

2006年11月14日 | 映像
(1940年・アメリカ)(原題:THE GREAT DICTATOR)
製作・監督・脚本/チャールズ・チャップリン
撮影/カール・ストラス、ローランド・トザロー
音楽/メレディス・ウィルソン
出演/チャールズ・チャップリン、ポーレット・ゴダード、ジャック・オーキー ほか

《あらすじ》
チャップリンが同じようなちょび髭(ひげ)をもつヒトラーを痛烈に批判した傑作。戦傷で記憶を失ったユダヤ人の理髪師は、とある国の独裁者とうり二つ。ひょんなことからその独裁者と入れ替わってしまい、ユダヤ人の彼が独裁者になることに・・・。トーキーを嫌っていたチャップリンが初めて本格的にトーキーに挑み、クライマックスの6分間におよぶ大演説シーンは、見るものに強烈な感動を与える。

《この一言》
”強欲と憎悪と暴力から 人類は立ち直れる
 勇気をお持ち
 人間の魂には翼がある
 今こそ飛び立とう かなたの虹に向かって  ”



 昨日の晩にNHKでチャップリンの特集をやっていて、以前からの興味がさらに募ったので、さっそく『独裁者』を観てみました。このあいだ『黄金狂時代』を途中から観たとき、台詞は一切なしのパントマイムのみで笑わせるチャップリンという人は天才だなと感心したものです。その天才が、何年間もかけて身の危険も顧みずに脚本を練り上げるとこんな凄いものが出来るのかと、今回はさらに打ちのめされました。凄い。

 とにかく、今さら私が言うまでもありませんが、クライマックスの演説には震えました。あまりに強く美しいメッセージであるので。涙がこぼれおちるではないですか。
 昨夜の特集では、当時アメリカでこの映画が上映された時には、評判はいまひとつだったそうです。このメッセージは、世界中がフィクションではない現実の戦争に向かっていた頃の人々には、それほど受け入れられなかったそうです。とても信じ難いことではありますが。しかし、戦争をしようなんていうのは正気の沙汰ではないので、正論が通じないのもやむを得ないのかもしれません。悲しいことです。
 「楽天的過ぎる」などとも言われたそうですが、「楽天的」のなにが悪いんだ。夢のような理想のなにか悪いんだ。欲望の泥のなかで互いに殺し合う世界に浸かり切っているのが正しいとでも言うのか、それで人類はほんとうの発展を得られると、満たされた理想の社会が訪れるとでも言うのか。

 私は彼の言う通りだと思う。「人間の魂には翼がある」と思う。たとえば時々持ち出される「戦争によって科学や技術は進歩した」という説は、部分的にしか正しくない。日本の我々はしばらく大きな戦争のない日々を過ごすことができたが、その間、科学や技術が発展しなかっただろうか。今、科学や技術は進歩していないだろうか。我々は憎悪や強欲とは違うものをエネルギーとして進むことだってできる。

 そして、独裁者は、必ずしも目に見えて分かりやすく存在しているとは限らない。我々は知らぬうちに彼の奴隷になっていないだろうか。自分の利益のために、信念を押し通すために、他者を虐げてしかも平気な顔で暮らすようになってはいないだろうか。そもそも自分の利益とはなんだ。それは本当に自分の利益だろうか。虐げられているのが自分であり、あるいは誰か他の人であることに気が付きさえしなければ、それで幸福な理想的な社会と言えるのか。疑いさえ持たぬ無垢は平和だが、一歩間違えば簡単に利用される。

 暴力の前に、思いやりや助け合いはなんの力にもならないのか。ただ、足りていないというだけではないのか。勇気が。

 そんなぬるいことを言っていると滅ぼされるだろうか。もしかしたら、個人としては滅びるかもしれないな。でも、思想は、理想は、それが必要なあいだは生き続ける。私個人の意見としては、人間はよくもわるくもしぶといので、道筋がどれほど困難であろうとも簡単には滅びないと思う。もっと遠くまで行ってみたいなどという夢を見つづけて、いつかはそれを実現することだって出来ると思う。素晴らしく楽天的だ。いつか手に入るかもしれぬものの大きさを思えば、殺戮と強奪によって得ようとするものの詰まらなさと言ったらない。


 映画を観ての感想としては的外れかもしれませんが、こんなことを思いました。激しやすい私は、ずいぶん激してしまいました。血がのぼっているので頭が熱いです。ところが寒さのために、足は氷のように冷たいです。こんなことでは風邪で滅んでしまいます。ともかく落ち着かなくては。はあ、はあ、深呼吸だ。

『黒衣の花嫁』

2006年10月27日 | 映像
監督・脚本:フランソワ・トリュフォー
原作:ウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)
出演:ジャンヌ・モロー、ジャン・クロード・ブリアリ、ミチェル・ブーケ
(1968年・フランス/イタリア)


《あらすじ》
男の前に現れたのは、謎の美女。彼女によって次々と殺されてゆく5人の男たちの隠された関係が明らかになってゆく。



BS2でやってたのを観ました。60年代の衣装はいつみても素敵です。ジャンヌ・モローは顔がちょっと怖いですが、やはり美しいです。黒か白の服しか着ないので、よけいに迫力があるような…。
彼女は最初の登場シーンで、黒いノースリーブのワンピースを着ているのですが、腕とか腰とかがすごくガッシリしてるなーと感心しました。60年代フランス女性はこうありたいものだ、という感じです。何を着ても似合う。ところが、途中で、彼女とすれ違った男が友人に話している場面で、「あの小柄でキャシャな女……」というようなことを言っていたので、びっくり。華奢だったんですね、まあ、そういわれるとそうか…な……たしかに太ってはいないけど。


そんなどうでもいいところばかり気にしてしまいましたが、物語は、とても悲しいサスペンス・ミステリーでした。次第に謎が明らかにされていきますが、その展開が緊迫感に満ちていて、とてもよく出来ています。終わり方が、すごい。バッサリ。「ギャーーッ!」
おー、なんときっぱりしているのだ。いいですね。

『ボウリング・フォー・コロンバイン』

2006年10月11日 | 映像
監督・脚本・主演:マイケル・ムーア

《内容》
1999年4月20日、アメリカ合衆国は普段通りの穏やかな朝を迎えた。人々は仕事に励み、大統領は国民が名前さえ知らない国に爆弾を落とし、コロラド州の小さな町では2人の少年が朝6時からボウリングに興じている。何の変哲もない予定調和な1日のはじまり…。このあと、2人のボウリング少年が悲劇的事件を起こそうとは、いったい誰が予想しただろう。
 「ボウリング・フォー・コロンバイン」オフィシャルHPより



昨晩、核兵器と原子力をめぐって、ちょっとした議論になりました。原子力に関しては、私は相手の意見にほとんど反論がなかったので、それを議論と呼べるかどうかは分かりませんが。とりあえず、私がなんとなく納得できたのは、人間にはもっとエネルギーが必要であること。そしてそれを得るための研究やその目的自体は、必ずしも破壊を前提としたものでなく、むしろ世の中をより安全に、より効率良くしたいというところから始まることが多いということ。いちど手に入れた力を放棄することは難しいということ。その力を知る以前に戻ることは難しいということ。どんどんジャブジャブと電気を使っている奴が、他に有効な代案も出さずに、あるいは電力不足になっても構わないから、とにかく原子力発電を止めろと言うことが本当にできるのか。
核兵器に関しては、やや意見が対立しましたが、多くの国々が核を持ち合うことでそれが抑止力として働いてきたという事実があることには納得しました。こんなものは作られなければ良かったのにと思って仕方がありませんが、あのとき作られなかったとしてもいずれ誰かが作っただろうということにも納得しました。しかし、この感情はなんなのだ。
あるものの良い面と悪い面。問題は、それをどう扱うのかということである。それにかかっている。凶器になる、と言い出したら、多分キリがない。果物ナイフだって危ないし、鉛筆やもしかしたらハンカチとかバナナとか何かほかの思いもよらないものだってすごく危ないかもしれない。だからといって、全ての果物を皮ごと食えるのか、いかなる場合にも鉛筆を使わないで済ませられるのか。たぶん、そういうことじゃないんだろうと思います。生み出したものをどう使うか。やはりそれは人間の理性にかかっているはずです。でもそれが分かっていて、じゃあ、どうして出来ないのか…。そんなことを考えて、この映画を見てみようと思った次第です。

さて、銃というのは、狩猟に用いる場合には、非常に有効な道具であります。斧や弓矢だけではなかなか獲物を得られません。その反面、銃というのは、その威力のために、その気になればある動物を絶滅させるくらいのことはできますし、それを人間に対して使用するならば、こともなげに殺傷することもできます。年間に1万人以上が銃によって死んでいるというアメリカ。どうしてそうなのか。ムーアさんのやり方で、この問題が検証されていきます。暴力的な映像や音楽が氾濫しているからか。貧困や人種差別のせいか。それとも、そのへんで誰でも気軽に銃を入手できて、それが国中に溢れかえっているからなのか。

突撃インタビューのなかでも、マリリン・マンソンさんのコメントが特に印象的でした。コロンバイン高校の乱射事件を起こした少年たちが好んで聴いていたというだけで「元凶」とみなされたマンソンさんは、非常に冷静に自分の置かれた状況やそうなった原因などについて分析していました。そして、アメリカの社会がどういう状況なのかについても、非常に鋭いことをおっしゃっていました。「恐怖と消費」。鋭い。そして「もし事件を起こした少年たちと会って話せるとしたら?」という問いに対して「ただ話を聞いてあげる。たぶん誰も聞いてあげられなかったんだろうから」と答えていました。普通に優しそうな人でした。見た目だけで単純に人を判断してはいけません。もちろん、この映画だって、ある意図にもとづいて構成されているわけですから、ここで誰がどんなことを言ったということだけで全ての正確な情報を得たと思ってはいけませんけれど。でもとりあえず、一理あると思えました。

恐怖ということが問題であるというのは、たしかにそういう面があると思います。自分以外の人間を信用しなければ、いつ何をされるか分からないと言って脅える気持ちはわかります。私が家に鍵をかけるのだって、なにかの勧誘の人や泥棒に勝手に入ってこられないようにするためです。物を盗られるだけならまだしも、身体に傷を負わされることもあるかもしれないからです。そして、大乱闘になり、あり得ないかもしれませんが、私のほうが逆に相手を返り討ちにして重傷を負わせてしまうこともあるかもしれません。実際にそんな目にあったことは、いまのところ幸いにもありませんが、それでも恐ろしいのです。

こうやって自分のことをあらためて少し見直してみると、私もやはり喪失することや暴力に対する恐怖と欲望のとりこになっているところがあると言わざるをえません。たしかに、色々な情報に煽られているところはあるかもしれません。でも、用心にこしたことはないと思ってしまいます。そもそも大したものは持ってさえいないのに、どうしてここまで恐れるのか。暴力はたしかに恐ろしいけれど、その暴力に対して、暴力で対抗するしかないというのは本当だろうか。どうしたら、いいんだろう。

びびっているときに不足するもののひとつは、たぶん分別ではないかと思います。むやみに怖がる前に、しっかり目と耳を開いて、恐怖の対象と向き合い、話し合いによって解決する可能性が本当に全く無いのかどうかを冷静に考えなければなりません。問答無用で「やられるまえにやる」というのは、やはりどこかおかしい。しかも「まだやられてもいないし、やられるかどうかもわからないのに、やる」ということになると、もう常軌を逸していると言わざるをえません。また、「やられるのが嫌だから、見て見ぬふり」というのもどうでしょうか。なんの解決にもなりません。
ところで、カナダでは家に鍵をかけないんだそうです。攻撃するまえに、どうして話し合わないのかが、そもそも不思議なんだそうです。そういう考えもあるということくらいは知っておきたいと私は痛切に感じます。

銃なんて、日本に住む限りは関係ないし…などと言っていられないような問題をはらんだ作品でした。簡単に答えが出なくても考えるくらいはしたい。びびっているだけでは、いつまでも乗り越えられないだろうから。