監督・脚本・主演:マイケル・ムーア
《内容》
1999年4月20日、アメリカ合衆国は普段通りの穏やかな朝を迎えた。人々は仕事に励み、大統領は国民が名前さえ知らない国に爆弾を落とし、コロラド州の小さな町では2人の少年が朝6時からボウリングに興じている。何の変哲もない予定調和な1日のはじまり…。このあと、2人のボウリング少年が悲劇的事件を起こそうとは、いったい誰が予想しただろう。
「ボウリング・フォー・コロンバイン」オフィシャルHPより
昨晩、核兵器と原子力をめぐって、ちょっとした議論になりました。原子力に関しては、私は相手の意見にほとんど反論がなかったので、それを議論と呼べるかどうかは分かりませんが。とりあえず、私がなんとなく納得できたのは、人間にはもっとエネルギーが必要であること。そしてそれを得るための研究やその目的自体は、必ずしも破壊を前提としたものでなく、むしろ世の中をより安全に、より効率良くしたいというところから始まることが多いということ。いちど手に入れた力を放棄することは難しいということ。その力を知る以前に戻ることは難しいということ。どんどんジャブジャブと電気を使っている奴が、他に有効な代案も出さずに、あるいは電力不足になっても構わないから、とにかく原子力発電を止めろと言うことが本当にできるのか。
核兵器に関しては、やや意見が対立しましたが、多くの国々が核を持ち合うことでそれが抑止力として働いてきたという事実があることには納得しました。こんなものは作られなければ良かったのにと思って仕方がありませんが、あのとき作られなかったとしてもいずれ誰かが作っただろうということにも納得しました。しかし、この感情はなんなのだ。
あるものの良い面と悪い面。問題は、それをどう扱うのかということである。それにかかっている。凶器になる、と言い出したら、多分キリがない。果物ナイフだって危ないし、鉛筆やもしかしたらハンカチとかバナナとか何かほかの思いもよらないものだってすごく危ないかもしれない。だからといって、全ての果物を皮ごと食えるのか、いかなる場合にも鉛筆を使わないで済ませられるのか。たぶん、そういうことじゃないんだろうと思います。生み出したものをどう使うか。やはりそれは人間の理性にかかっているはずです。でもそれが分かっていて、じゃあ、どうして出来ないのか…。そんなことを考えて、この映画を見てみようと思った次第です。
さて、銃というのは、狩猟に用いる場合には、非常に有効な道具であります。斧や弓矢だけではなかなか獲物を得られません。その反面、銃というのは、その威力のために、その気になればある動物を絶滅させるくらいのことはできますし、それを人間に対して使用するならば、こともなげに殺傷することもできます。年間に1万人以上が銃によって死んでいるというアメリカ。どうしてそうなのか。ムーアさんのやり方で、この問題が検証されていきます。暴力的な映像や音楽が氾濫しているからか。貧困や人種差別のせいか。それとも、そのへんで誰でも気軽に銃を入手できて、それが国中に溢れかえっているからなのか。
突撃インタビューのなかでも、マリリン・マンソンさんのコメントが特に印象的でした。コロンバイン高校の乱射事件を起こした少年たちが好んで聴いていたというだけで「元凶」とみなされたマンソンさんは、非常に冷静に自分の置かれた状況やそうなった原因などについて分析していました。そして、アメリカの社会がどういう状況なのかについても、非常に鋭いことをおっしゃっていました。「恐怖と消費」。鋭い。そして「もし事件を起こした少年たちと会って話せるとしたら?」という問いに対して「ただ話を聞いてあげる。たぶん誰も聞いてあげられなかったんだろうから」と答えていました。普通に優しそうな人でした。見た目だけで単純に人を判断してはいけません。もちろん、この映画だって、ある意図にもとづいて構成されているわけですから、ここで誰がどんなことを言ったということだけで全ての正確な情報を得たと思ってはいけませんけれど。でもとりあえず、一理あると思えました。
恐怖ということが問題であるというのは、たしかにそういう面があると思います。自分以外の人間を信用しなければ、いつ何をされるか分からないと言って脅える気持ちはわかります。私が家に鍵をかけるのだって、なにかの勧誘の人や泥棒に勝手に入ってこられないようにするためです。物を盗られるだけならまだしも、身体に傷を負わされることもあるかもしれないからです。そして、大乱闘になり、あり得ないかもしれませんが、私のほうが逆に相手を返り討ちにして重傷を負わせてしまうこともあるかもしれません。実際にそんな目にあったことは、いまのところ幸いにもありませんが、それでも恐ろしいのです。
こうやって自分のことをあらためて少し見直してみると、私もやはり喪失することや暴力に対する恐怖と欲望のとりこになっているところがあると言わざるをえません。たしかに、色々な情報に煽られているところはあるかもしれません。でも、用心にこしたことはないと思ってしまいます。そもそも大したものは持ってさえいないのに、どうしてここまで恐れるのか。暴力はたしかに恐ろしいけれど、その暴力に対して、暴力で対抗するしかないというのは本当だろうか。どうしたら、いいんだろう。
びびっているときに不足するもののひとつは、たぶん分別ではないかと思います。むやみに怖がる前に、しっかり目と耳を開いて、恐怖の対象と向き合い、話し合いによって解決する可能性が本当に全く無いのかどうかを冷静に考えなければなりません。問答無用で「やられるまえにやる」というのは、やはりどこかおかしい。しかも「まだやられてもいないし、やられるかどうかもわからないのに、やる」ということになると、もう常軌を逸していると言わざるをえません。また、「やられるのが嫌だから、見て見ぬふり」というのもどうでしょうか。なんの解決にもなりません。
ところで、カナダでは家に鍵をかけないんだそうです。攻撃するまえに、どうして話し合わないのかが、そもそも不思議なんだそうです。そういう考えもあるということくらいは知っておきたいと私は痛切に感じます。
銃なんて、日本に住む限りは関係ないし…などと言っていられないような問題をはらんだ作品でした。簡単に答えが出なくても考えるくらいはしたい。びびっているだけでは、いつまでも乗り越えられないだろうから。
《内容》
1999年4月20日、アメリカ合衆国は普段通りの穏やかな朝を迎えた。人々は仕事に励み、大統領は国民が名前さえ知らない国に爆弾を落とし、コロラド州の小さな町では2人の少年が朝6時からボウリングに興じている。何の変哲もない予定調和な1日のはじまり…。このあと、2人のボウリング少年が悲劇的事件を起こそうとは、いったい誰が予想しただろう。
「ボウリング・フォー・コロンバイン」オフィシャルHPより
昨晩、核兵器と原子力をめぐって、ちょっとした議論になりました。原子力に関しては、私は相手の意見にほとんど反論がなかったので、それを議論と呼べるかどうかは分かりませんが。とりあえず、私がなんとなく納得できたのは、人間にはもっとエネルギーが必要であること。そしてそれを得るための研究やその目的自体は、必ずしも破壊を前提としたものでなく、むしろ世の中をより安全に、より効率良くしたいというところから始まることが多いということ。いちど手に入れた力を放棄することは難しいということ。その力を知る以前に戻ることは難しいということ。どんどんジャブジャブと電気を使っている奴が、他に有効な代案も出さずに、あるいは電力不足になっても構わないから、とにかく原子力発電を止めろと言うことが本当にできるのか。
核兵器に関しては、やや意見が対立しましたが、多くの国々が核を持ち合うことでそれが抑止力として働いてきたという事実があることには納得しました。こんなものは作られなければ良かったのにと思って仕方がありませんが、あのとき作られなかったとしてもいずれ誰かが作っただろうということにも納得しました。しかし、この感情はなんなのだ。
あるものの良い面と悪い面。問題は、それをどう扱うのかということである。それにかかっている。凶器になる、と言い出したら、多分キリがない。果物ナイフだって危ないし、鉛筆やもしかしたらハンカチとかバナナとか何かほかの思いもよらないものだってすごく危ないかもしれない。だからといって、全ての果物を皮ごと食えるのか、いかなる場合にも鉛筆を使わないで済ませられるのか。たぶん、そういうことじゃないんだろうと思います。生み出したものをどう使うか。やはりそれは人間の理性にかかっているはずです。でもそれが分かっていて、じゃあ、どうして出来ないのか…。そんなことを考えて、この映画を見てみようと思った次第です。
さて、銃というのは、狩猟に用いる場合には、非常に有効な道具であります。斧や弓矢だけではなかなか獲物を得られません。その反面、銃というのは、その威力のために、その気になればある動物を絶滅させるくらいのことはできますし、それを人間に対して使用するならば、こともなげに殺傷することもできます。年間に1万人以上が銃によって死んでいるというアメリカ。どうしてそうなのか。ムーアさんのやり方で、この問題が検証されていきます。暴力的な映像や音楽が氾濫しているからか。貧困や人種差別のせいか。それとも、そのへんで誰でも気軽に銃を入手できて、それが国中に溢れかえっているからなのか。
突撃インタビューのなかでも、マリリン・マンソンさんのコメントが特に印象的でした。コロンバイン高校の乱射事件を起こした少年たちが好んで聴いていたというだけで「元凶」とみなされたマンソンさんは、非常に冷静に自分の置かれた状況やそうなった原因などについて分析していました。そして、アメリカの社会がどういう状況なのかについても、非常に鋭いことをおっしゃっていました。「恐怖と消費」。鋭い。そして「もし事件を起こした少年たちと会って話せるとしたら?」という問いに対して「ただ話を聞いてあげる。たぶん誰も聞いてあげられなかったんだろうから」と答えていました。普通に優しそうな人でした。見た目だけで単純に人を判断してはいけません。もちろん、この映画だって、ある意図にもとづいて構成されているわけですから、ここで誰がどんなことを言ったということだけで全ての正確な情報を得たと思ってはいけませんけれど。でもとりあえず、一理あると思えました。
恐怖ということが問題であるというのは、たしかにそういう面があると思います。自分以外の人間を信用しなければ、いつ何をされるか分からないと言って脅える気持ちはわかります。私が家に鍵をかけるのだって、なにかの勧誘の人や泥棒に勝手に入ってこられないようにするためです。物を盗られるだけならまだしも、身体に傷を負わされることもあるかもしれないからです。そして、大乱闘になり、あり得ないかもしれませんが、私のほうが逆に相手を返り討ちにして重傷を負わせてしまうこともあるかもしれません。実際にそんな目にあったことは、いまのところ幸いにもありませんが、それでも恐ろしいのです。
こうやって自分のことをあらためて少し見直してみると、私もやはり喪失することや暴力に対する恐怖と欲望のとりこになっているところがあると言わざるをえません。たしかに、色々な情報に煽られているところはあるかもしれません。でも、用心にこしたことはないと思ってしまいます。そもそも大したものは持ってさえいないのに、どうしてここまで恐れるのか。暴力はたしかに恐ろしいけれど、その暴力に対して、暴力で対抗するしかないというのは本当だろうか。どうしたら、いいんだろう。
びびっているときに不足するもののひとつは、たぶん分別ではないかと思います。むやみに怖がる前に、しっかり目と耳を開いて、恐怖の対象と向き合い、話し合いによって解決する可能性が本当に全く無いのかどうかを冷静に考えなければなりません。問答無用で「やられるまえにやる」というのは、やはりどこかおかしい。しかも「まだやられてもいないし、やられるかどうかもわからないのに、やる」ということになると、もう常軌を逸していると言わざるをえません。また、「やられるのが嫌だから、見て見ぬふり」というのもどうでしょうか。なんの解決にもなりません。
ところで、カナダでは家に鍵をかけないんだそうです。攻撃するまえに、どうして話し合わないのかが、そもそも不思議なんだそうです。そういう考えもあるということくらいは知っておきたいと私は痛切に感じます。
銃なんて、日本に住む限りは関係ないし…などと言っていられないような問題をはらんだ作品でした。簡単に答えが出なくても考えるくらいはしたい。びびっているだけでは、いつまでも乗り越えられないだろうから。
映画については、チャールトンへストンにびっくりがっくりしました、、、。
原子力について、そもそも現代科学が戦争で発展してきたように、知識の使い道が難しいんだろうね。原子力、核だって、本当はすばらしい科学の力の結晶で、、、面白くないけど印象に残る映画「シャドーメーカーズ」、見てなかったら見てみてください。もっともやもやするかもしれないけど。
朝鮮半島でおこってる怖いことも、きっとこんなことを繰り返してるんだろうなあ。
私は、(かっこ良く言えば)小さくてもやっぱり抵抗しなくちゃいけないと思ってます。だから、せめて、、、、薬つくる仕事がんばるよ。
チャールトン・ヘストンは本当に映画のイメージからすると、実像は意外だよね。
「シャドーメーカーズ」はみたことないな。今度さがしてみまする。でも、もっとモヤモヤするのね…。
Aちゃんの仕事は、科学のうちでも目に見えて人類に貢献できる分野にあると思うので、すごく立派で重要な仕事だと思います。辛いこともあるだろうけど、これからもがんばって!
一方、私のような科学と深く関係を結び辛い立場の人間には、なにができるんだろうかといえば、…なんだろう。私は人類のためになにが出来るのだろう。ということは長年の懸案事項です。まだ全然思い付かないので、とりあえず、分別を持つことから始めますよ。
たしかに「核の抑止力」ってあるんだと思いますし、その論理も充分に分かるんですが、地球が滅びるような兵器で平和が維持できるなんて…と思うとかなり人間に対して落胆してしまいます。
この映画で印象的だったのは、ABCマートの場面でした。「そこまでやるか!クレイマー」なんて思いました。撮影カメラを持っていく必要もないだろう、フェアじゃないと思ったのです。しかし、監督としてはそこまでのことをやる使命のようなものがあったのかもしれません。・・・そしてABCマートの対応。これには異論もあるでしょうけど、私個人としてはかなり感心しました。
「銃があるから平和を獲得できる」確かにこれは核の問題と通じるところがありますね。
マンソンさんには驚きますよね~。私はほんとうに、外見で人を判断してはいけないなーと反省しましたよ。過激に見える外見は、彼の表現者としての演出なんですかね? 私は漠然と恐ろしげな印象を抱いていたマンソンさんの表現者の部分もちょっと知りたくなりました。
しかし、武器の問題はほんとに難しいですね。