1月9日、ドイツの会社経営者が、職場での禁煙を求めた従業員3人を解雇したことが明らかに。
[ベルリン ロイター]
ドイツにある従業員数10人のコンピューター会社の経営者が、職場での禁煙を求めた部下3人を、秩序を乱す恐れがあるとして解雇した。ビューズムにあるこの会社の経営者がハンブルクの地元紙に語った。
記事によると、同経営者は「たばこを吸いながらの方が仕事がしやすい。それに最近はみんな喫煙者をいじめるから、その仕返しだ。これからは喫煙者だけを雇用する」などと述べた。
同国では今月1日にレストランや酒場での喫煙禁止令が施行されたが、小規模な事業所での喫煙は許されている。
>ふっ~う~む。
たぶん、喫煙習慣の長い人ほど「なんで~?近頃、急に喫煙(できる)場所が減ったんだあ?」、「これまでは(ほとんど)どこででも喫煙できたのに・・・。」「世知辛い世の中になったもんだ。」いじめられているという感覚が強いのではないか?
こういうタイトルの本まで出てるし。
思わず「バターコ族の逆襲」というタイトルが思い浮かんだが、すでに筒井康隆氏は「最後の喫煙者」という壮絶な小説を書かれている。
これらの本を無視することは容易(たやす)いが、果たしてそれでいいのだろうか?
かつて(以前)のように、のべつ幕無しどこでもおかまいなしにタバコを吸われるのは困るが、さりとて上から締め付けていくやり方だけで本当にいいのか、という問題が提起されているのだと思う。何が欠けているのかというと身近に存在する喫煙者と非喫煙者が互いにコミュニケーションを重ね、思っている本音をぶつけ合いそこから合意を導き出すような取り組みではない点だ。困難かもしれないが、こここそが大事だ。
たぶん、面と向かってこういう会話はなされてないだろう。
「俺(私)はあなたにタバコを吸って欲しくない。」
「なぜなんだ?どうして俺(私)が吸いたいタバコを制限されなくちゃいけないんだ。」
ここから互いの思いをぶつけ合うことこそが重要なのだ。(感情論やケンカにならずに会話できるかどうかが鍵だが、ここを避けては何も始まらない。)
タバコの問題を一般論に置き換えることの危険性を私は感じる。「上(国家)から叱ってもらう」やり方ではやばいと思うこのごろである。