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森羅万象 ~ 歩く印象派

憲法特集2

2005年05月25日 14時48分59秒 | 歩く印象派
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毎日新聞 2004年5月3日社説:
憲法記念日 まず改正の目的を語ろう--21世紀、どんな国になりたいか

 今日は憲法記念日。憲法を考える日だ。今年は従来にない状況下で憲法を考えなければいけない。戦闘行為がやまないイラクに、復興支援の名目で自衛隊を派遣している現実が憲法に重くのしかかっている。憲法制定当時は想定していない国際状況に対応するため政治的決断として新しい法律、イラク特措法を作った結果だ。

 憲法を変えない範囲で綱渡りのような新思考が必要だった。政府が編み出した非戦闘地域という概念はおそらく現憲法下で駆使しうるぎりぎりの工夫だろう。したがってサマワで戦闘活動がありサマワ地区が戦闘地域に変化すれば、自衛隊は直ちに撤退しなければいけない仕組みになっている。

 つまり自衛隊の派遣が可能になっている条件自体が非常に受動的で、状況対応型で日本自身の努力で何とかできる範囲は初めからまことに小さい。たとえば、サマワの治安維持を担当するオランダ軍が撤退するような状況なら、ほぼ自動的に自衛隊の撤退が強要される構造になっている。米国が有志連合軍として日本を連合軍側に数え上げているが、連合軍は治安維持活動を行っているのだから、厳密に定義すると数えられることは憲法違反になりかねない。

 9・11以来荒っぽくなっている世界状況の中で、一人だけガラス細工のような仕組みを背負ってひたすら乱暴な状況にならないことだけを祈って日本の自衛隊が今イラクの地にいる。それ自体は貴重で尊い活動だが、現実の状況にあまりにもそぐわない感じは否めない。

 ◇国連決議に依拠できるか

 そうした世界の状況に対して日本としての自由な政治的判断を反映できない奇妙な状態から脱却したいという気分はことあるごとに蓄積されてきた。今回行った国会議員アンケートでも憲法9条を世界の現実に適応させる形で改正したいと思っている議員が過半数を占めている。

 ではどのように改正するのか。まだ具体的な多数案があるわけではない。方向として国連の了解の下で日本も治安維持・平和活動のような部隊に自衛隊ないし特別編成部隊を送れるようにしようという案が有力だ。前文の改正も同じ文脈にある。決して侵略戦争の意図はない大前提だ。

 だがその大前提が一番疑わしいとするのが9条改正への有力な反対意見だ。現に解放軍のはずの米軍が侵略者として攻撃を受けている。世界が非常にきな臭くなってきた今こそ、日本が誇る平和憲法の精神をもっと発揮すべきではないか。武力を使わないで世界の問題を解決するとうたった日本国憲法の神髄を生かす国際政治をするのが筋ではないかというものだ。

 イラク戦争の例をとっても、もし現状に合わせた憲法改正ができていたとしたら、日本は初めから米英軍といっしょにイラク攻撃に加わった可能性は大きい。そこから先は今とはずいぶんと異なる状況になっていただろう。

 だがよく考えると、国連の決議の下にしかできないと憲法で明文規定があるとかえって復興支援さえできないかもしれない。特に、国連決議という行動の条件はこの先ますます難しくなる可能性もある。しかも、決議自体どこまで何を決めたのかで解釈に差が出る。憲法の明文規定があるゆえに、ますます物議をかもし出す可能性も大きい。

 総論や概念的な改正論ではなくいざ具体的な改正文案になると、判断はますます難しいのである。そこに至って初めて憲法を論じる論憲が真剣味を帯びてくる。自民党が結党50年を機に、民主党が憲法制定60年を機に憲法改正を目指していることもあり、ここ数年はありうることとして憲法改正問題に取り組まなければいけない。

 ◇米国の存在が前提

 その際よく考えなければいけないことがある。米国の存在だ。現行憲法の平和条項は日米安保条約とセットになって現実を歩んできた。この間米国は朝鮮戦争に始まり、ベトナム戦争、湾岸戦争、ユーゴ空爆、アフガン空爆・イラク戦争などほぼ恒常的に世界の戦争にかかわってきた。日本の憲法解釈の綱渡りやそれが限界にきて改正の必要性が高まってきたのもその流れに呼応する。

 それは今後も続くと予想できる。したがって憲法改正、特に9条関連を考える際、現実にある米国をどう見るかが大きなポイントになる。これだけ戦争にかかわりつづけてきた国が今後は戦争に対して消極的になるのか。米国次第で改正した日本国憲法の活用具合はまったく違ってくるからだ。

 その現実を抜きに机上の空論としてあるいは条文のあり方として改憲を論ずることは非常に危険でもある。現行憲法で日本は矛盾を抱えながら、その矛盾を実行部隊、いい例が今回の派遣された自衛隊の不安定な存在、にしわ寄せしながらもとにかく自衛隊を海外に派遣するところまできたのである。憲法改正してこれ以上具体的に何をしようというのだろうか。

 米国が次に起こすであろう戦争ではついに初めから参加したいのだろうか。そうではなく日本独自に世界平和維持のために自衛隊の持つ武力を活用する決意をするのだろうか。9条改正は世界との付き合いのために人並みのことができるようにする現状追随がテーマではない。たとえばアジアの集団安全保障機構構築に積極的に打って出るなど、外交を通してどこまで積極的に世界とかかわっていくつもりなのかをはっきりと示す、日本の国のあり方が問われるのである。

 それは世界の構造を変えることにもなる。そういう認識なしにただ今都合がつかなくなってきたからというのでは、理念がなさ過ぎる。われわれは21世紀どういう国になるのか、そこからつめなければいけない。


憲法記念日特集1

2005年05月25日 13時46分15秒 | 歩く印象派

憲法特集2


5月3日憲法記念日 新聞各紙の社説および論評


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朝日新聞 社説
05月03日付

■憲法記念日に思う――多彩な民意を直視して

 あと3年で還暦を迎えるのだから、なかなかのものではないか。57回目の誕生日を迎えた日本国憲法である。少しの修正もされぬまま、よく頑張ってきた。

 だが、人間なら定年退職に近い年だ。激変の時代でもある。そろそろ発想転換が必要なのかもしれない。そんな気分もあってか、朝日新聞の世論調査では「憲法を改正する必要がある」と考える人がついに5割を超えた。

 しかも、20~30代では改憲派が6割を超えている。理由は「新しい権利や制度を盛り込む」が断然トップ。若い人を中心に、もっと自分たちの感覚に合う憲法にしたいと思う人が増えたのだろう。

●権利か、それとも責務か

 なるほど、憲法が生まれた頃とは時代状況がまったく異なる。冷戦時代とも、高度成長の頃とも違う。新憲法に輝きを与えた「民主」にはいまさらありがたみを感じず、「平和」も少しややこしくなった。条文も旧仮名づかいでピンとこない……。そんなところではないか。

 改憲か護憲か。かつて宗教争いにも似た火花を散らした対立も、ちょっと様子が変わってきた。何よりも、改憲論の中身が多様になったからだろう。

 「新しい権利」を求める声がその表れだ。環境とかプライバシー、知る権利などを盛り込もうという、むしろ護憲的な感覚といってもよい。従来の改憲派が「国家への責任」や「義務」に熱心なのとは明らかに方向が違う。「官より民」の憲法を、自分たちでつくろうという市民活動もある。

 最大の焦点である9条はどうだろう。「戦争放棄」の原則は問題ないとして、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という部分で意見が割れる。

 自衛隊を創設して間もなく50年。自衛や災害に備えるのが目的であり、軍隊や戦力にはあたらないという解釈のもと、自衛隊はすっかり当たり前の存在になった。海外での国連平和維持活動(PKO)への参加も回を重ね、国民の理解は深まった。

●まだら模様の改憲と護憲

 だが、成長した自衛隊はいまや世界で屈指の戦力であり、立派な軍隊ではないか、憲法はごまかしが過ぎる。そんな声も強まってきた。「9・11」のあとは、インド洋上へ、イラクへと、大きな議論の末、PKOの枠を超えた自衛隊の海外派遣も続いた。

 それが改憲論にもつながるのだが、目を引くのはここでも「護憲的改憲論」の台頭だ。憲法に自衛隊の存在を明記しつつ、役割に歯止めをはっきりかけよう、といった発想である。それも一つの考え方に違いない。国連軍的な部隊への参加を明記する考え方もある。増えた9条改正論も、中身は幅が広がった。護憲と改憲はまだら模様になっている。

 しかし、それでも9条の改正となると「反対」の人がまだまだ多数派だ。少々の矛盾はあろうとも、「過去の戦争に深い反省を示した証しだから」「変えたらますます軍拡に向かう」「アジアの国々に警戒心を与えたくない」。国民に根強いそんな考えは大事にしたい。

 戦火のやまぬイラクに自衛隊が派遣されて3カ月。心配された事態は幸い起きてないが、代わりに用心深く宿営地に引きこもりがちで、看板の「人道支援」も思うに任せない。皮肉なことだが、そんな姿勢によって、「勇猛」だった旧日本軍との違いを世界にアピールしているのなら、それは9条の精神にかなうのかもしれない。

 だが、武装勢力が「撤退」を求めて日本人を人質にしたように、「米国支援」という自衛隊派遣の本音は隠しようもない。この先、もし襲われ、撃ち合いになったりしたらどうなるか。憲法との関係はなお危うい縁にある。

 そんななか、9条改正によって堂々と軍隊の存在を認め、れっきとした米国の同盟軍にしようという考えが自民党などに根強い。これが改憲論の核ともいえるのだが、国民多数の気持ちを読み違えていないか。

●生きている平和ブランド

 自衛隊はよいが、あっさりそれを軍隊というのはどうか。日米安保条約は重要だが、英国軍のように米国と一緒になって外国で戦争するのはごめんだ。国連との協調はもっと大切に……。世論調査からうかがえるのも、そんな常識的な民意である。

 自衛隊の人道支援をサマワの市民は歓迎した。一方、武装勢力は日本の世論も考えて人質解放に踏み切った。

 そこに共通しているのは、中東で手を汚したことのない日本への好意的なまなざしではないか。原爆の悲惨さも背景に、60年近く培ってきた「平和ブランド」は日本の財産に違いない。

 自民党も民主党も1、2年内に改憲の具体案を作るという。権利と義務。平和ブランドと国際貢献。日米安保と国連。議論がこれほど交錯するなか、知恵の輪を解くような作業だろう。

 だからこそ、大いに議論してほしい。各党が国や社会のありようを根本から考えるのはよいことだ。国民にとっては政党をよく見定めるチャンスでもある。

 そしてまた、自分たちの頭でじっくり考える機会にしたい。


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5月3日付・読売社説

 [憲法記念日]「『新憲法』を政治日程に乗せよ」

 ◆成熟した憲法感覚◆

 二十一世紀最初の十年の後半は、戦後の憲法論議の歴史を画した時期として、長く記憶されるかもしれない。

 何よりも、国民の憲法意識が大きく変化した。読売新聞の今年三月の憲法世論調査では、65%の人が「憲法を改正した方がよい」と答えた。国民のほぼ三分の二である。

 冷戦後、間もない一九九一年までは改正反対が賛成を大きく上回っていた。だが、九三年には逆転し、九八年以降は改正賛成が常に半数を超えている。改正賛成65%は過去最高の数字である。

 かつて、冷戦下の保革対決の時代、左翼など「護憲原理主義」勢力の前に、憲法改正は口にすることすら、長くタブー視された。今や、そんな憲法感覚は、とうに過去のものとなっている。

 憲法の規定と現実との乖離(かいり)は、深まる一方だ。

 国際平和協力活動のために自衛隊を海外に派遣するようなことは、憲法制定時には夢想だにされなかったことだ。

 集団的自衛権を行使できないとする政府の憲法解釈は、安全保障政策や自衛隊を活用した国際平和協力活動を制約してきた。国際情勢や日本の安全保障環境が大きく変化している時、これでは、日本の国益を守ることはできない。

 基本的人権も、社会の大きな変化によって、人格・プライバシー権や環境権など新たな権利概念が登場している。

 権利と義務とのバランスを欠き、公共性、正義などの観念が揺らいでいる。社会の共同性を支える基盤が失われつつある、との危機感も広がっている。

 現在の憲法の解釈や運用だけでは、これからの時代に対応できない、という認識は、広く国民に浸透している。

 ◆憲法常任委の設置を◆

 国民の憲法意識の変化に押されるように、主要政党が憲法改正へ具体的に動き出している。

 画期的なのは、野党第一党の民主党が九条もタブー視せず、参院選前に中間報告をし、二〇〇六年までには憲法改正案を策定する、としていることだ。かつての社会党などとは異なり、今日の野党の一定の成熟を示すものだろう。

 自民党は、六月には論点整理をし、結党五十年の二〇〇五年十一月までに新憲法草案を策定する。公明党も参院選前に論点整理を行う。衆参両院の憲法調査会は来年初めにも最終報告をまとめる。

 自民党は、国会の憲法調査会が役割を終えた後、憲法改正案の審査などを行う常任委員会を衆参両院に設置するよう提案している。強く支持したい。超党派で早期に、憲法委員会設置のための国会法改正を図る必要がある。

 憲法をめぐる国民の意識や政治の動向を見れば、今まさに、憲法改正を具体的な政治日程に乗せるべき時にある。夏の参院選では、各党とも、新たな憲法の姿を提示し、争点とすべきである。

 ◆読売試案もたたき台に◆

 読売新聞が、一九九四年、二〇〇〇年に続き、憲法改正二〇〇四年試案を提言したのは、この大きな節目にあって、国会の論議や、国民的な議論のためのたたき台を提供したいという考えからだ。

 国家や社会のあり方、「公と個」、公共性などをどうとらえるかは、憲法論議の根幹にかかわる。

 憲法前文は、九四年試案で、「民族の長い歴史と伝統」などの文言を入れ、簡潔なものに書き換えた。二〇〇四年試案はさらに、「個人の自律と相互の協力」「公正な社会」の視点を加え、国、社会の理念をより明確にした。

 様々な社会問題が生じている根幹には「家族の崩壊」があると言われる。家族条項を設けたのは、社会の基礎としての家族の重要性を再確認するためだ。

 九四年試案では、「国際協力」の章を設け、「国際的機構の活動」への自衛隊参加をうたった。二〇〇四年試案は、これに「国際の平和と安全の維持及び回復並びに人道的支援のための国際的な共同活動」を加えた。

 自衛隊のイラク派遣が示すように、自衛隊が国際平和協力活動に果たす役割は大きい。イラク戦争などで露呈した国連の機能不全を考えれば、「国際的機構の活動」への参加だけでは十分な役割を果たせない。

 ◆国家像を描く責任◆

 二十一世紀に入って、国際社会も日本も、加速度的に変化している。歴史的な大転換期にあって、十年は無論、数年先すら見通すのは至難のことだ。

 イラク情勢はじめ、国際社会の動向は不透明だ。冷戦後、新たな国際秩序はいまだに確立されてはいない。

 日本経済は、なお本格的な回復軌道に乗ってはいない。年金など社会保障制度の安定した将来像も見えない。治安の悪化など社会不安も増している。

 憲法は、国家像、社会像を体現する基本法制だ。不透明な変化の時代だからこそ、国家、国民の指針となる新たな憲法の制定を急がなければならない。

(2004/5/3/01:38 読売新聞
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毎日新聞 2004年5月3日社説:
憲法記念日 まず改正の目的を語ろう--21世紀、どんな国になりたいか

 今日は憲法記念日。憲法を考える日だ。今年は従来にない状況下で憲法を考えなければいけない。戦闘行為がやまないイラクに、復興支援の名目で自衛隊を派遣している現実が憲法に重くのしかかっている。憲法制定当時は想定していない国際状況に対応するため政治的決断として新しい法律、イラク特措法を作った結果だ。

 憲法を変えない範囲で綱渡りのような新思考が必要だった。政府が編み出した非戦闘地域という概念はおそらく現憲法下で駆使しうるぎりぎりの工夫だろう。したがってサマワで戦闘活動がありサマワ地区が戦闘地域に変化すれば、自衛隊は直ちに撤退しなければいけない仕組みになっている。

 つまり自衛隊の派遣が可能になっている条件自体が非常に受動的で、状況対応型で日本自身の努力で何とかできる範囲は初めからまことに小さい。たとえば、サマワの治安維持を担当するオランダ軍が撤退するような状況なら、ほぼ自動的に自衛隊の撤退が強要される構造になっている。米国が有志連合軍として日本を連合軍側に数え上げているが、連合軍は治安維持活動を行っているのだから、厳密に定義すると数えられることは憲法違反になりかねない。

 9・11以来荒っぽくなっている世界状況の中で、一人だけガラス細工のような仕組みを背負ってひたすら乱暴な状況にならないことだけを祈って日本の自衛隊が今イラクの地にいる。それ自体は貴重で尊い活動だが、現実の状況にあまりにもそぐわない感じは否めない。

 ◇国連決議に依拠できるか

 そうした世界の状況に対して日本としての自由な政治的判断を反映できない奇妙な状態から脱却したいという気分はことあるごとに蓄積されてきた。今回行った国会議員アンケートでも憲法9条を世界の現実に適応させる形で改正したいと思っている議員が過半数を占めている。

 ではどのように改正するのか。まだ具体的な多数案があるわけではない。方向として国連の了解の下で日本も治安維持・平和活動のような部隊に自衛隊ないし特別編成部隊を送れるようにしようという案が有力だ。前文の改正も同じ文脈にある。決して侵略戦争の意図はない大前提だ。

 だがその大前提が一番疑わしいとするのが9条改正への有力な反対意見だ。現に解放軍のはずの米軍が侵略者として攻撃を受けている。世界が非常にきな臭くなってきた今こそ、日本が誇る平和憲法の精神をもっと発揮すべきではないか。武力を使わないで世界の問題を解決するとうたった日本国憲法の神髄を生かす国際政治をするのが筋ではないかというものだ。

 イラク戦争の例をとっても、もし現状に合わせた憲法改正ができていたとしたら、日本は初めから米英軍といっしょにイラク攻撃に加わった可能性は大きい。そこから先は今とはずいぶんと異なる状況になっていただろう。

 だがよく考えると、国連の決議の下にしかできないと憲法で明文規定があるとかえって復興支援さえできないかもしれない。特に、国連決議という行動の条件はこの先ますます難しくなる可能性もある。しかも、決議自体どこまで何を決めたのかで解釈に差が出る。憲法の明文規定があるゆえに、ますます物議をかもし出す可能性も大きい。

 総論や概念的な改正論ではなくいざ具体的な改正文案になると、判断はますます難しいのである。そこに至って初めて憲法を論じる論憲が真剣味を帯びてくる。自民党が結党50年を機に、民主党が憲法制定60年を機に憲法改正を目指していることもあり、ここ数年はありうることとして憲法改正問題に取り組まなければいけない。

 ◇米国の存在が前提

 その際よく考えなければいけないことがある。米国の存在だ。現行憲法の平和条項は日米安保条約とセットになって現実を歩んできた。この間米国は朝鮮戦争に始まり、ベトナム戦争、湾岸戦争、ユーゴ空爆、アフガン空爆・イラク戦争などほぼ恒常的に世界の戦争にかかわってきた。日本の憲法解釈の綱渡りやそれが限界にきて改正の必要性が高まってきたのもその流れに呼応する。

 それは今後も続くと予想できる。したがって憲法改正、特に9条関連を考える際、現実にある米国をどう見るかが大きなポイントになる。これだけ戦争にかかわりつづけてきた国が今後は戦争に対して消極的になるのか。米国次第で改正した日本国憲法の活用具合はまったく違ってくるからだ。

 その現実を抜きに机上の空論としてあるいは条文のあり方として改憲を論ずることは非常に危険でもある。現行憲法で日本は矛盾を抱えながら、その矛盾を実行部隊、いい例が今回の派遣された自衛隊の不安定な存在、にしわ寄せしながらもとにかく自衛隊を海外に派遣するところまできたのである。憲法改正してこれ以上具体的に何をしようというのだろうか。

 米国が次に起こすであろう戦争ではついに初めから参加したいのだろうか。そうではなく日本独自に世界平和維持のために自衛隊の持つ武力を活用する決意をするのだろうか。9条改正は世界との付き合いのために人並みのことができるようにする現状追随がテーマではない。たとえばアジアの集団安全保障機構構築に積極的に打って出るなど、外交を通してどこまで積極的に世界とかかわっていくつもりなのかをはっきりと示す、日本の国のあり方が問われるのである。

 それは世界の構造を変えることにもなる。そういう認識なしにただ今都合がつかなくなってきたからというのでは、理念がなさ過ぎる。われわれは21世紀どういう国になるのか、そこからつめなければいけない。