All Things Must Pass

森羅万象 ~ 歩く印象派

グルメギャラリーその12 麺で締め!

2005年12月31日 16時06分37秒 | グルメ
今年も今日が締め。
 グルメギャラリーが3回も連続となってしまい申し訳ない。
「韓国ソウルの旅」は次回が最終回、そのあとエピソード編
 を掲載する予定だ。
 さて、
大晦日の締めはなんといっても麺だろう。(蕎麦もあります!)

(写真上:喜山のミソらーめん、昼時に行くとゆで卵
 が無料サービスとなっている。先着順)

(写真上:「花月」環八千歳台店にて、ここは同じ
「花月」でもスープ熱々で麺もしっかりしていた。)

(写真上:「幸楽苑」のトロチャーシューメン。)

(写真上:足利「けいちゃんラーメン」ブシ系のだし
 が力強い。ミソも自信有りとのことなので、次回は
 ミソ通のadachi氏をお連れしよう。)

(写真上:趣茶特製スパ。辛いのがお好みの方には
 ハバネロもチョイス可能。)

(写真上:てぽ得意のミートソース、大盛りなので
 たいやき&たこやきも満足。)
※たぶん写真の追加があります。(「喜万」と「よいち」が抜けている。)

年越し蕎麦を追加しました。(2006年1月1日更新)

(写真上:オ・寒宅にて仁科庵の蕎麦をいただく。)

(写真上:趣茶にて 花火の後の年越し蕎麦。)
「よいち」のブシ系ラーメンを追加しました。(2006年1月6日更新)


グルメギャラリーその11 師走といえば

2005年12月31日 13時06分22秒 | グルメ
師走といえば「忘年会」のシーズンである。
今回は年末の忘年会でのスナップ(一部例外含む。)のご紹介。

(写真上:「趣茶」のつきだし、工夫された組み合わせが嬉しい。)

(写真上:会社忘年会の船盛り、食べきれなかった。)

(写真上:八木節忘年会の刺身盛り合わせ。)

(写真上:同上鍋)

(写真上:絶品のトロ、趣茶にて。)

(写真上:釣り職人ヒデ師匠のイワナホイル焼き、マサル宅にて。)

(写真上:趣茶特製串カツ、揚げたてをフフォ、フフォ言いながらガブリ!))

(写真上:ボリュウムあふれるおつまみ、古にて)

(写真上:かまだ家のカキ釜飯ミニ。)

(写真上:てぽ特製のキッシュ、山岳映画会にて)

(写真上:ニラと卵が人気の秘密、趣茶のスタミナ丼。
             注意メニューにはない。)

(写真上:炊きたての「おかゆ」このあとピータンと無花果、
           落花生を加えて台湾おかゆに変身。)

(写真上:U子さんのバースデイのケーキ群!)

(写真上:お好み焼き道頓堀のデザート、東京武蔵村山にて)

(写真上:K分さん提供の新潟「ラ・レクチュ」。
      山形のラ・フランスの有力対抗馬!)

(写真上:上記、食べごろの見極め方が添付されている。)

グルメギャラリーその10 怒涛の韓国編(その3)2日目夕食

2005年12月30日 19時32分39秒 | グルメ
 とうとう最後の晩餐となってしまった。
いや、実はこの寸前にホテルのバイキングをご馳走に
なってきたばかりなのだが、「ぜひにも焼き肉を!」
と朝から願っていたH崎氏のために再度、昨夜の店に
繰り出した。



店の女性がハサミとトングーで器用に肉を切り分けて
くれるのだが今回は動画でお楽しみくだされ。これは
サムギョプサルといい韓国では最もポピュラーな料理と
後から聞いたがたいへん旨かった。
 以前キング父もこれをマッカリでやるとうまいと言
っていたことを思い出した。

突然、地震が・・・。

2005年12月30日 03時33分46秒 | 歩く印象派
 車が車検ということで2日間ほど電車で通勤した。
電車は速いので駅から駅までは20分足らず、まず
文句はない。しかし家から駅までが徒歩で最短20分、
下車後は会社まで徒歩で50分かかる。合計90分とな
る。(往復だと180分。)車だと片道約40分なので
ほぼ倍の時間を要する計算だ。

 エントロピーの低減や健康の視点からみれば、徒
歩&電車はたいへん好ましいものだ。そういう選択
も確かにあるなと思いながら2日目の夕方、ホームで
電車を待っていた。あと3分で電車が3番線に入っ
てくるところで、突然、ぐらっと来た。

最初の揺れが最も大きく、ホームの天井から下がって
いる電光掲示式の行き先表示板が大きく揺れていた。
屋根からミシミシと嫌な軋り音が聞こえ、もしかした
ら天井が崩れてくるのではないかと思った。幸い、数
秒で大きな揺れは収まり次第に穏やかな振幅となった。

 すぐに時計を確認した。6時45分だった。
まだ、高架工事中の駅舎はあちこちに鉄骨や迂回のた
めの柵が置かれ、迷路さながらの複雑な回廊状態だ。
もし、天井が崩れたり柵が倒れたりしたら、足の踏み
場もなくなってしまっただろう。

 そして、たぶん、そうだろうと思った通り、構内ア
ナウンスが列車の運行停止を告げた。「ただいま、地
震がありました。安全確認のため列車は停止していま
す。」同じアナウンスを二度繰り返した。安全確認っ
て、いったい何をどう確認しているのだろう?そいつ
はいつ終わるのだろう?と思っても、そういう答えは
アナウンスされなかった。さらにホームで待つ乗客の
安全確認に誰も来ないことにも気がついた。駅員に真
っ先に問い合わせようと思っても、彼らがホームに現
れないのである。

 5~6分後、運行再開を告げるアナウンスがあった。
しかし、地震の影響で電車の運行にどんな変化が起きて
、今の状況はどうなっているのか(何分遅れているのか)
は放送されなかった。

 遅れて入って来た電車に乗車後、車内アナウンスが、
「ただいま、この列車は8分遅れで発車しました。」と
告げ、ようやく遅れた時間を把握することができた。

 山形の脱線事故ではないが、災害は必ず想定外の思
わぬ形で襲ってくる。今回たまたま電車を利用した日
に地震に遭遇したが、これが、もっと大きい地震で、
さらに遠隔地であったらどうであったろう?不安も
大きかったに違いない。公共交通を預かる方々にお願
いしたいのは、詳細な情報の提供である。


韓国ソウルの旅(その15)2日目、ハンギョレ(新聞)社訪問(後編)

2005年12月29日 23時30分08秒 | 韓国 ソウルの旅
 ところで、このハンギョレ社というあまり日本では聞き慣れない
名称だが意味するところは「民族は一つ」だそうだ。といっても南
北朝鮮の統一という訳ではないという。
 また、ハンギョレ新聞は韓国の新聞でいち早く漢字をやめてオール
ハングルでしかも横書き掲載という現在の主流のスタイルの先駆けと
もなったユニークな新聞である。名前も当初は「ハンギョレ新聞」だ
ったのを「ハンギョレ」のみとした。

 階段を昇ると3階が玄関であった。ガラス張りのドアを押して入っ
た両側の壁にはびっしりと銅板が埋め込まれている。入り口付近の銅
板は何か新聞の原版のようであった。他の面はハングル文字で埋め尽
くされていた。
 なんのチェックも無く編集室の奥まで案内されたのには驚いた。セ
キュリティはどうなっているのだろう?

 応対してくれたのは、編集者のキムさんと文化部のホンさん。ホン
さんは日本語が堪能であった。
 NI氏は今回表敬訪問ということであった。「未来をひらく歴史 東
アジア三国の近現代史」が7刷を重ね、その6刷までの修正一覧が出
たことなどを伝えていた。また、韓国版は最近判形を変えた(少し小
さくなった。)とかで、その理由を訪ねたりしていた。ちなみに、判
形を変えたワケはこれまでの大きさより今回の方が韓国ではポピュラ
ーなためだそうだ。価格に変化はないという。

 また韓国内ではこれまで5万部売れたそうである。人口五千万の韓
国ではなかなかの健闘だそうだ。(日本版は7万部。)

韓国ソウルの旅(その14)2日目、ハンギョレ(新聞)社訪問(前編)

2005年12月28日 23時45分43秒 | 韓国 ソウルの旅
 夕暮れが近づいてきた。
 戦死者が静かに眠る国立墓地を後にした我々は今一度
タクシーの人となり、一路ハンギョレ新聞社を 目指した。
(下の写真はハンギョレ社にTELをするNI氏)

ところで、何故ハンギョレ社を訪ねることとなったのか?
つぎのような事情からである。(少し長くなります。)
 今年の5月、日本・中国・韓国=共同編集で「未来をひ
らく歴史 東アジア三国の近現代史」(下の写真)が刊行
された。

 その日本での出版元がNI氏の勤務する高文研である。
高文研は「金八先生」シリーズが有名だが、日本やアジア
の近現代史に関する出版も多い。
 小泉さんの靖国参拝などで何かとぎくしゃくする関係が
続く日中韓三国だが、文化・経済の交流はむしろ密接にな
って来ている。人々の往来も活発だ。しかし、その交流を
心からの友好親善に高めて行くには「韓流ブーム」だけで
はこころもとない。
 もっと広い視点で三国の関係を眺めてみることが大切と
考える。とりわけ60年前に日本が中国・韓国に今なお癒
しがたい苦痛や悲しみを与えることとなった侵略・植民地
支配の事実を知り、そのことを踏まえながら、三国の新し
い関係を築く、これは切実な問題である。間違った認識の
ままではちょっとしたことで「反日」「反中」「反韓」な
どのキャンペーンが起こってしまう。このことを心配する
日中韓の研究者、教師、市民の手によって生み出されたの
が本書である。
 前置きが、長くなってしまったがこの本の韓国での出版
を行っているのがハンギョレ(新聞)社なのである。
(下の写真)

グルメギャラリーその9 趣茶酒楽会 大吟醸に親しむ会開催

2005年12月27日 23時59分34秒 | 趣茶
12月26日、「趣茶」にて酒楽会「大吟醸に親しむ会」が開催された。
年末の多忙な時期にも関わらず、当初の予想を上回る16名の男女の参加を得た。
用意された大吟醸、純米吟醸は上の写真の通り。(4本の予定が6本に増えた!)
料理も今年を締めくくるにふさわしい豪華なラインナップで大満足な一夜であった。
「趣茶」に集いし皆さん方と楽しい一年を過ごせたことに感謝!

(上写真:開会の挨拶を行うY形会長)








(上写真:特製けんちんで身も心もHOT!)

(上写真:白川郷の「どぶろく」も登場!味にも「進化」が見られた。)


(上写真:グラタンも登場!熱々で美味。)

(上写真:グラサンにギター姿で唄うY形会長、大活躍!)

韓国ソウルの旅(その13)2日目、国立墓地

2005年12月25日 23時53分13秒 | 韓国 ソウルの旅
 戦争記念館で時間を食ってしまったため、三たびタクシーを利用する
こととなった。国立墓地の場所はほぼ掴めているのでNIがタクシーの運
転手に地図を見せて、車は走り出した。確か国立墓地は漢江(ハンガン)
を渡るはずだが、5~6分後にタクシーが停まった場所は何か立派な施
設の入り口であったが、どう見ても「墓地」ではなかった。タクシーの
運転手の案内したのは国立は国立でも国立博物館であったようだ。もう
一度NIが地図を取り出して「国立墓地か?」と問うてみたが運転手は不
思議そうな顔をするだけであった。
たぶん
「なんで?お宅らが来たかったのはここじゃないのかい?」
という態度だった。「他にどこがあるんだい?」とも思えた。
 もしかしたら、と思いザックの中から旅客機内で書いてもらったメモ
を探し出し、運転手に渡してみた。

 メモの文字を読むや否やタクシーの運転手は、一瞬驚き、即座に我々
の目的地を理解し、車をUターンさせた。
 つまりは、およそ我々のような日本人が行く所でない場所だったため、
「こいつらは国立墓地なんて言ってるが国立博物館のことを間違って言
ってるんだろう。」と思い運転手は善意に国立博物館に案内したようだ。

 観光スポットから外れている国立墓地とはいったい、どんなところな
のだろう?
やがて、漢江(ハンガン)にかかる長い橋を渡るとまもなく公園とおぼ
しき入り口でタクシーは停まった。
 すでに陽は傾き、 広大な公園に山の端影が長く落ちていた。

 入り口の表示にはNational Cemeteryとあった。
警備というほどの物々しさは感じられないが衛兵が2名立っていた。
時折、入門する車の運転手と声を交わしていたが、我々には特に注目し
ていない。誰でも出入りは自由なようだ。

間違いない。
ようやく、この旅の目的地にたどり着いた。。
 日本では思うように情報がつかめなかったこの地に今立っている。

入ってすぐ右手の公園の管理事務所らしき建物があったのでドアを
開け中に入ってみた。カウンターになっていて、我々の入室に気が
ついた女性と眼があった。落ち着きのある物静かな人だった。NIが
英語で (“We came from Japan”と言ったかどうかは定かでないが。)
我々が日本人であることを告げると彼女はパンフを取り出し、手渡し
てくれた。慌てて、もう2冊もらった。

事務所を出て、パンフを広げ奥にそびえるモニュメントの方へ向かった。
雪の残る広場を左から巻くように歩いて行く途中に売店らしき三角屋根
の白い建物があったので立ち寄ってみた。

 やはり売店でジュースやコーヒーなどの飲み物やスナック菓子などを
販売していた。テーブルでは散歩に来た韓国人の夫婦がカップラーメン
を食べていた。よく見ると給湯設備があった。カップ麺を買って自分で
お湯を注いで食べることができるようだ。
 喉が渇いていたのと空腹に気づき、我々もコーヒーとパンを購入し、
しばし休憩することにした。

 売店を出てしばらく歩くと立派な屋根付きの門があって、衛兵が2
人立っていた。車止めの柵もあった。どうやら、車はここまでしか入
れないようだ。門をくぐるとモニュメントがすぐ目の前に迫る。逆光
のせいか眩しい。

階段を昇ると焼香用の炉と香が置いてあった。
炉にはまだ火が残っていた。
順番に焼香した。


 驚いたことに、モニュメントの中に祭壇があった。内部は清掃が行
き届いており清潔で照明も明るかった。ここまで歩いてこなければわ
からなかった。壁という壁には墓碑銘が刻まれており、色とりどりの
花々で飾られていた。よく見るとみな造花であった。


外に出て、今度は元来た道の反対側を通って戻ることにした。左側の斜
面には奥の方まできちんと配列された墓が並んでいた。雪が溶けずに一
面を覆っていた。

1970年代に亡くなったことがうかがえる墓もあった。
「ベトナム戦争で亡くなった方かもしれない。」とNiが言った。
韓国はベトナム戦争時に米国からの要請で戦闘部隊を送り込んでいる。
その戦死者の可能性が高い。

 モニュメントそばの門に備えてあった記帳書に記帳しようと思っ
たが、NIの「ここは我々が記帳すべき所ではないようだ。」の一言
でやめることにした。2冊の記帳書を繰ってみたが日本人の筆跡は
一人もなかった。

 ところどころ残る雪の上で遊ぶチョウセンガラスの姿にここは韓
国なのだということに改めて気づいた。

韓国ソウルの旅(その12)2日目、戦争記念館(後編)

2005年12月24日 23時59分37秒 | 韓国 ソウルの旅
 一階は戦争歴史室となっていて、半島という地政学的位置から
周辺の国(もちろん日本からも)から幾多の侵略を受けてきた苦
難の歴史が語られる。日帝(戦前の日本の呼称)による支配の展
示もあるにはあったが、予想していたほど大げさな物ではなかっ
た。
 驚いたのは、2階3階のほとんどを使って展示されている韓国
戦争のコーナーである。パンフには(韓国戦争は)「今世紀最大
の民族悲劇」と記されている。しかし、日本と同様に年とともに
戦争体験者も減少しつつある。そのため、韓国戦争の歴史的事実
とその実証資料を後世に残すためこの記念館を建立したという。

 この戦争記念館は正確にいえば「韓国戦争記念館」なのだ。
だとすれば、昨日の「戦争記念館」中編で紹介した若い兵士集団
の見学会は当然と言えば当然、歴史を風化させないための必須科
目といえる。(表題の写真は、韓国戦争(朝鮮戦争)における日本
からの在日学徒義勇軍:死者も出ている。)

 まさに南北全土が戦場となり焦土と化した2年間であった。
難民も多数出た。戦後日本の焼け跡と同じような展示もあった。

休戦からが韓国の「復興」の始まりとなる。
 その当時、日本では「朝鮮特需」に湧く好景気であったのと
は対照的だ。隣国の不幸が復興の追い風となった格好になる。
この辺の事情を踏まえて1965年の「日韓会談」を振り返っ
てみる必要があるなあと思った。帰国後の課題だ。

 韓国戦争展示の終わり近くで大きな写真パネルが目に入った。
なんと、次の目的地「国立墓地」の空撮による全景写真である。
詳しい解説は無かった。漢字で「国立墓地」とあった。