GWを利用して鳥取の大山(だいせん)に登って来ました。
大山、別名伯耆(ほうき)富士ともいい中国地方の最高峰でもあります。
もちろん深田久弥日本百名山の一つ。標高は1,729m。
お天気にも恵まれ無事、登頂を果たすことができました。
GWを利用して鳥取の大山(だいせん)に登って来ました。
大山、別名伯耆(ほうき)富士ともいい中国地方の最高峰でもあります。
もちろん深田久弥日本百名山の一つ。標高は1,729m。
お天気にも恵まれ無事、登頂を果たすことができました。
まずは以下の東京新聞の記事を読んでみてください。
「群馬にフジヤマ? 外国人、富士山麓とカン違い」(2013年5月5日 朝刊)
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産への正式登録が確実となった富士山。今後、さらなる外国人旅行客の増加が予想されるが、富士山を 一目見ようと、誤って群馬県桐生市を訪れてしまう外国人が散見される。同市相生町にある上毛電鉄「富士山下(ふじやました)駅」を、富士山(ふじさん)の 麓の駅と勘違いするようだ。 (美細津仁志)
「それはもう悲しそうな表情でした」。上毛電鉄で運転士を務めて十八年になる南雲洋和さん(38)には忘れられない光景がある。
二〇一〇年春。南雲さんがワンマン列車を運転していると、東武鉄道の東京方面に接続する乗換駅「赤城駅」(みどり市)で、若い男女の中国人旅行客 が乗り込んできた。間もなく富士山下駅に到着。下車する二人の切符を回収すると、片言の日本語で尋ねられた。「富士山はどこですか」。驚いた南雲さんは静 岡、山梨両県にまたがる富士山の位置を説明。二人は落ち込んだ様子で折り返しの電車に乗り換え、赤城駅で降りていったという。
上毛電鉄によると、この数年、運転士が把握する限りで、欧米人やアジア人に同様の間違いが一年に少なくとも一件は起きている。富士山下駅前のレストラン「ていしゃば」にも三年ほど前、富士山が見えると思い込んだ中国人の女性観光客が東京方面から訪ねてきたという。
誤乗車の原因は、駅名の紛らわしさにあるようだ。「富士山」を駅名に使った鉄道駅は、富士山に一番近い駅として富士吉田駅から改称した富士急行 「富士山駅」(山梨県)と、富士山下駅の二つしかなく、ともに富士山の最寄り駅をイメージさせる。南雲さんは「富士山(ふじさん)をフジヤマと呼ぶ外国人 が多いのも誤乗車の原因では」と指摘する。
読み方は異なるとはいえ、富士山との縁は深い。駅のすぐ北側に駅名の由来となった「富士山(ふじやま)」がある。(駅前からの)高さ約四十メートル(標高は約170メートル)のこんもりし た緑の山で、山頂には富士山信仰を伝える浅間(せんげん)神社がある。江戸時代には富士講の住民らが富士山に見立てて登山した。今でも同神社は毎年七月の 第一日曜に山開き神事が開かれるなど、地元住民に大切にされている。
上毛電鉄は今後、外国人の誤乗車防止の検討を始めるといい、一方で世界遺産と富士山下駅を絡めたPRも始めたい考えだ。
百聞は一見にしかず、現地を訪ねてみた。群馬県桐生市の相生町とある。
読みは「ふじさん」ではなく「ふじやま」である。
はて、その「ふじやま」はどこにあるのかな?
と駅前にたむろしていた小学校5、6年生くらいの少年たちに尋ねてみた。すると
「目の前の山が富士山だよ。」
「登ってみると景色がよく見えるよ。」
あ、言われてみて気づいた。たしかに目の前は小高い「山」
早速、登ってみた。
こんもりしているが、登るにつれ視界が広がる。
あっという間に山頂に辿り着く
本当に「富士山」だった。
2両編成の電車が駅に近づいてくるのが見えた。
電車の時刻表
電車はワンマン運転とのこと。
駅の近くには
製パン工場
新聞記事にもあったレストラン「ていしゃば」もあった。
この「山」いったいは富士山下地区(ふじやましたちく)というらしい。
崩壊危険地域に指定されている!
下は帰りに見かけた以前は駅の近くにあったという「冨士山食堂」の現在の姿
2013年5月7日東京新聞
6日、作家の村上春樹さん(64)が京都市左京区の京都大百周年記念ホールで行った講演と「公開インタビュー」の詳報は次の通り。
僕は普段はあまり人前に出ません。ごく普通の生活を送っている普通の人間です。文章を書くのが仕事なので、なるべくそれ以外のことに首を突っ込み たくない。だから僕のことは絶滅危惧種の動物、イリオモテヤマネコみたいなものだと思ってくれるとありがたい。そばに寄って触ったりしないでください。お びえて、かみついたりするかもしれないので。
河合隼雄先生とは20年ぐらい前に米プリンストン大で初めてお会いし、その後あちこちで時間を一緒に過ごした。僕にとっては「河合先生」で、最後 までそのスタンスは変わらなかった。小説家と心理療法家というコスチュームを脱ぐことはなく、そういう枠があった方が率直に話ができた。
今でも覚えているのは、先生の駄じゃれ。一種の悪魔払いのようなものだと思っていた。臨床家としてクライアントと向き合い、相手の魂の暗い場所に おりていく作業を日々されていた。それは往々にして危険を伴う。帰り道が分からなくなるかもしれない。そういう暗い場所で、糸くずのように体に絡みついて くる闇の気配を振り払うには、くだらない駄じゃれを口にしなければならなかったのではないか。
僕の場合の悪魔払いは、毎日外に出て走ること。それで、絡みついてきた闇の気配をふるい落としてきた気がする。
われわれが共有していたのは物語でいうコンセプトだったと思う。物語というのは人の魂の奥底にある。人の心の一番深い場所にあるから、人と人とを 根元でつなぎあわせることができる。僕は小説を書くときにそういう深い場所におりていき、河合先生もクライアントと向かい合うときに深い場所におりてい く。そういうことを犬と犬がにおいで分かり合うように、分かり合っていたのではないか。僕がそういう深い共感を抱くことができた相手は河合先生しかいませ んでした。それが励ましになり、僕がやってきたことが間違っていなかったと実感できた。
魂を2階、1階、地下1階、地下2階に分けて考えている。地下1階だけでは、人を引きつけるものは書けないんじゃないか。(ジャズピアニストの) セロニアス・モンクは深いユニークな音を出す。人の魂に響くのは、自分で下に行く通路を見つけたから。本当に何かをつくりたいと思えば、もっと下まで行く しかない。
「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」などは、店をやりながら書いたので、まとまった物語を書く余裕がなかった。それが新鮮だと評価された が、僕は先に行かなければならないと思った。村上龍さんの「コインロッカー・ベイビーズ」を読み、こういう書き方をしたいと思い、店をやめた。一日好きな ときに書けるのがうれしく、物語を書く喜びにつながった。結末が分からないまま最初の何ページかを書き、うまくできたので、僕はそういうのに向いているの だなと思った。
それまではただ楽しみながら書いていたが、「ねじまき鳥」はもっと世界を広げ、分散させ、分割させる試みだった。記憶、日記、いろんなものをかみ合わせ、重層的な世界をつくろうとした。
(徐々に)魂のネットワークのようなものをつくりたい気持ちが出てきた。みんな自分が主人公の複雑な物語を、魂の中に持っている。それを本当の物語にするには、相対化する必要がある。小説家がやるのは、そのモデルを提供することだ。
誰かが僕の本に共感すると、僕の物語と「あなた」の物語が呼応し、心が共鳴するとネットワークができてくる。僕はそれが物語の力だと思う。
10代は19世紀小説ばかり読んでいた。ドストエフスキー、トルストイ、ディケンズ、バルザック。体に染み込んでいる。物語はなくてはならないも のです。1950~70年代、物語小説は差別され、物語というだけでばかにされた。僕は(夏目)漱石のファンだが、漱石も昔は評価が低かった。僕も最初の ころはずいぶん批判が多かったが、いつも買ってくれる人がいた。それがずっと続き、ありがたい。
「ノルウェイの森」のときは純粋なリアリズム小説を書こうと思った。一度書いておかないと、ひとつ上にいけないと思った。自分では実験的だと書いたものがベストセラーになったのは、うれしかったが、ある種のプレッシャーになった。
前作「1Q84」での大きな意味は、全部三人称で書いたこと。三人称はどこにでも行けるし、誰にでも会える。ドストエフスキーの「悪霊」のような 総合小説を書きたかった。(「多崎つくる」は)僕の感覚としては、頭と意識が別々に動いている話。今回は「1Q84」に比べ、文学的後退だと思う人がいる かもしれないが、僕にとっては新しい試みです。
出来事を追うのではなく、意識の流れの中に出来事を置いていく。(多崎の恋人の)沙羅(さら)さんが、つくるくんに(過去と向き合うため)名古屋 に行きなさいと言うが、同じように僕に書きなさいと言う。彼女が僕も導いている。導かれ何かを体験することで、より自分が強く大きくなっていく感覚があ る。読む人の中でもそういう感覚があればいいなと思う。
今回は生身の人間に対する興味がすごく出てきて、ずっと考えているうちに、(登場人物たちが)勝手に動きだしていった。人間と人間のつながりに、強い関心と共感を持つようになった。
(多崎は友人4人との共同体から切り捨てられるが)僕も似たような経験をしたことはあるし、何が人の心を傷つけるのかはだいたい分かる。人はそう いう傷を受けて、心をふさいで、時間がたつと少し開いて、ひとつ上に行くことを繰り返しながら成長する。ひとつの成長物語なんです。
僕は自分の小説を読み返して、涙を流すことはない。唯一泣いてしまうのは、小説ではないが(地下鉄サリン事件の被害者や遺族を取材した)「アン ダーグラウンド」。殺された方の20代の奥さまの話を聞き、家を出て、電車に乗っている時に涙が出た。1時間ぐらい止まらなかった。
それが、違う話を書いている時にもよみがえってくる。あの本を書いたことは、僕にとって大きな体験だった。
小説を書き始めた29、30歳のころは、書きたいけど書けないことがいっぱいあった。書けることを少しずつ増やし、だいたい書きたいことが書けると思えたのは2000年ぐらい。(今作も)単純に書けるようになったから、書こうと思ったのかもしれない。
朝早く起きて午前中に仕事をし、昼は翻訳をするが、朝はだいたいクラシックを聴く。夜寝る前に、翌朝に聴くレコードを用意するんです。遠足に行く子供のように。
仕事に集中しているので真剣には聴いていないが、音楽に励まされて書いている気がする。20代のころは店をやり、朝から晩までジャズを聴いた。自分の中にリズムが染み込んでいる。文章もそのリズムを使って書く。
僕の本を読んで泣きましたと言う人がときどきいるけど、僕は笑いが止まらなかったと言われる方がうれしい。悲しみは個人的なところに密接につながっているが、笑いは関係ない。やっぱりユーモアの感覚が好き。書くときはなるべくユーモアをちりばめたい。
年を取ると体力が落ちる。若いころは少しでも速く走りたかったが、今は年をとっても走れるようにしたい。80歳、85歳までフルマラソンを走れればいいなと思う。
小3まで本を読まず、小4から急に読み出した。父と母が国文学をやっていたので、僕はそれから逃げたくて、外国の文学ばかり読んだ。大学に入ってから日本文学も読んだ。漱石、谷崎(潤一郎)…。文章のうまい人が好き。
翻訳しやすい小説と、難しい小説がある。物語が強いと翻訳しやすい。濃密な描写があると難しい。
本当にうれしいのは、待って買ってくれる読者がいること。「今回はつまらない、がっかりした。次も買います」みたいな人が大好きです。つまらない と思ってもらってもけっこう。僕自身は一生懸命書いているが、好みに合わないことはもちろんある。ただ、理解してほしいのは、本当に手抜きなしに書いてい る。もし今回の小説が合わないとしても、村上は一生懸命やっていると考えてもらえるとすごくうれしい。
2013年5月5日 07時09分 東京新聞
東京電力福島第一原発事故の発生当初から収束作業に従事し、現場の様子をツイッターでつぶやき続け、その内容を七万超の人が注目している「ハッ ピー」さん。福島第一の近くに家があり、作業員としてここで長年働いてきた。このほど本紙の取材に応じ、二年間を超える収束作業で感じた疑問などを語っ た。 (片山夏子)
◆まるで戦場
二〇一一年三月十四日昼、3号機原子炉建屋で水素爆発が起きた時、ハッピーさんは近くで作業をしていた。突き上げる衝撃、すさまじい爆音に襲われ、がれきがバラバラ降ってきた。
「ここで死ぬかもしれない」
まるで戦場だった。建屋から煙が上がり、すすで全身が真っ黒になった人、防護服が血に染まった人もいた。怒号が飛び交う様子はとても現実とは思えなかった。
ハッピーさんがツイッターを始めたのは水素爆発から六日後の二十日のこと。
理由は二つあった。一つは情報が錯綜(さくそう)し、不安をあおる報道もあったこと。もう一つは、福島県南相馬市に小さな子どもと住む知人に、現場で起きていることを冷静に伝え「必要以上に心配することはないよ」と伝えるためだったという。
つぶやきの中で自分のことを「オイラ」と書き、「です」ではなく「でし」で結ぶことが多い独特のメッセージ。初めのころ、読み手は子どもがいるお母さんが多かった。「助けられました」「救われました」というお礼や温かい言葉が寄せられた。
◆命は二の次
ハッピーさんのつぶやきには現場で感じる政府や東電への率直な疑問が多い。
政府や東電が、根拠のない楽観的な見通しを示したり、きちんと説明しない発表をするたびにいらついた。事実をありのまま伝えないことで、かえって不安をあおっていると感じたという。
事故発生当初、作業工程の調整がなされないまま、現場に指示が飛んだことにも閉口させられた。電気系と配管系の作業が同じ場所で同じ時間にぶつかり、片方の作業ができなくなるなどの混乱が起きた。
混乱の跡は、二年たった今も福島第一の各所に残る。ほぼ同じ場所に汚染水の移送ホース、電源ケーブルや機器を制御するケーブルが乱雑に設置されている点などがそうだ。緊急作業だったとはいえ、誤作動や漏電の恐れがあり、今後の不安要因になっている。
「総理が二十四時間作業しろと言っているから何とかしろ」。こんな指示が現場に飛んだこともあった。無理やり二十四時間体制のシフトを組んだが、作業効率が落ちた。
現場の状況も考えず毎月発表された工程表にも悩まされた。「政府がやるって発表しちゃったから作業を急いでくれ」と言われ、準備もできていないのに夜中に駆り出されたこともあったという。
特に、防護服を着ての夏の作業では何度も倒れそうになった。「休め」とは言われるが、工程表はそのまま。作業員の命や安全は、二の次になっていると感じた。
◆コスト優先
一一年九月、ハッピーさんの耳に、政府と東電が「冷温停止」に「状態」をくっつけて新語をつくり、年内にも福島第一が「冷温停止状態」になったと宣言する、との情報が入ってきた。
だが、溶け落ちた核燃料の状態もわからない。原子炉の冷却にしても、ポンプ故障だけでなく、配管の詰まりや破損などで止まる可能性がある。原子炉の温度計が不安定な動きをし始める中で、炉内が一〇〇度以下と言えるのかどうか…。「冷温停止なんてあり得ない」と思った。
さらに十一月ごろには、「事故収束」まで宣言するらしい、との情報が入ってきた。
「まさか」と思ったが、十二月に実施する予定だった2号機の格納容器の穴開け作業が年明けに延びるなど、宣言の妨げになるかもしれない危険な作業は延期され始めた。
これまでも「選挙があるから、それまで危険な作業はするな」「担当大臣が明後日、海外に行くから今日中にやれ」と現場で指示されるなど、政治の動きに振り回されてきたが、まただった。
収束宣言後、事故現場では、コスト優先の契約が目立つようになり、危険手当や給与の削減など作業員の雇用条件が悪化した。事故後に福島第一に導入された設 備類は、保守管理のことを十分考慮していない仮設のものが多い。耐久性のあるものに交換すべきだと東電に提案しても、「予算がない」と却下されることも増 えた。
ハッピーさんは、東電が会社再建を急ぎながら、事故収束も進めることに大きな疑問を感じている。コスト優先では、経験豊かな作業員も雇用が安定しないため集まらず、廃炉作業も進まない、と危機感を抱いている。
「国がいくら税金を投入しても、東電の借金になるだけ。東電が民間企業である以上、コストを優先するのは当然。これでは廃炉は遅々として進まない。世界を揺るがした原発事故なのだから、国と東電は収束作業を専門に担う組織をつくって強力に進めるべきだ」
(東京新聞)