All Things Must Pass

森羅万象 ~ 歩く印象派

大清水~鬼怒沼湿原行2003

2006年06月30日 17時16分11秒 | 私の山歩き・山の仲間たち
          (上の写真は鬼怒沼山)
3年前にマサルさんたちと大清水から鬼怒沼へ抜けて、北上し会津側の黒岩
山、赤安山を経て長蔵小屋まで出てそこから再び大清水まで戻るという本来
2日かけてゆっくり廻るところを一日で強行したことがある。37~8キロ
は歩いた。
なんで、こんな無茶な歩き方をしたかというと、次の週に、新穂高温泉から
双六、雲ノ平を5泊6日のテン泊する予定のため、どのくらい歩けるのか心
配で試しておきたかったためだ。いや、しかしあの時は疲れた。
(こういう歩き方はお薦めしません。)

大清水からの急坂をあえぎながら登り終え、ピークの
物見山から下るとやがて木道が現れる。
正面には白根の頂が少しずつ見えてくる。

日光白根を間近に望む絶好のポイント。
尾瀬などに比べ人影がほとんどない、これもこの沼の魅力だ。
休憩がてら、マサル氏はカメラを湿原に向ける。

可憐なタテヤマリンドウ。

振り返れば東北の最高峰燧ケ岳が聳える。双耳峰が際立つ。

※「残雪のアヤメ平行(前編)」に寄せられた賽目さんのコメントから
3年前の鬼怒沼を思い出し、当時の写真を掲載してみました。時期は
8月上旬です。

牧志市場通路のタイル表示(沖縄再訪その4)

2006年06月29日 12時41分42秒 | タイル・ウォッチャーが行く!
これは、ちょいと特定の事業関係者向けのショットなので
わけわからない方にはゴメンナサイ。
(牧志では通路にこのようなタイルで表示がされていることを
知っていただければ。)
下はかなり大きく4枚組となっている。

下は別の場所にあったものの部分拡大写真.

こちらは小さいタイプであちこちに埋め込まれていた.

すべて,通路の路面に埋め込まれていた。

そうそうハッピーブログの岡花見さんのところにも
タイル記事がありました。→タイルがカワイイ

追記:タイルの「ひび」拡大写真

「趣茶」にて本マグロづくし(沖縄再訪その3)

2006年06月28日 02時40分14秒 | 沖縄の旅
さて、持ち帰った「本マグロ」だが、趣茶のマスターの手によって、いろいろなバリエーション料理をあつらえてもらった。(これは沖縄から帰った後の話です。)
(上の写真は赤身のお刺身。
(下)おろしにんにく&生姜を添えて土佐作り風。

たたきのレモン&バターソース。

エリンギと長ネギと軽くソテーしてホワイトーソースに載せたもの。

味噌といっしょにたたいたもの。

「漬け」の照り焼き。

ネギトロ風。

突き出しには「山かけ」。

と、まあ、本マグロでいろいろ楽しませてもらった。
趣茶のマスター(ススムさん)に多謝。

※あっと、これ全部私ひとりでいただいた訳ではありませんよ。
急遽集まったI村氏やY形会長他のみなさん方とともにじっくり味
わいました。

「泊いゆまち」で本マグロ(沖縄再訪その2)

2006年06月27日 03時37分12秒 | 沖縄の旅
Mr.サンダースン氏によれば、この季節だけこの時期数週間だけなんと
本マグロが沖縄近海で捕れるのだそうだ。主に宮古島付近が漁場だ。
この本マグロ水揚げしてから一度も冷凍しない。生マグロである。
つまりあの青森県の「大間の本マグロ」と同じというか、そのものが
回遊して沖縄までやってくるのだそうだ。すごいね本マグロ君達!
大形の特に国産の生のものは全く一般のスーパー、小売店には出回ら
ない。また築地や関東の中卸業者でも本マグロ、しかも生(冷凍でない)
を扱えるというのは一握りにしか過ぎないという。ちなみに大間(青森)
では9月~1月頃が本マグロ漁の最盛期を迎える.

(上記写真は「琉球新報」より)
琉球新報にはこんな記事もあった。
本マグロの一本釣りは男の夢260キロ本マグロ一本釣りなのだそうだ。

この魚市場の正式な名称は水産物流総合センター「泊いゆまち」といい昨年
5月にリニューアルされたとのこと。「いゆ」というのは「魚」を意味する。
つまり「魚(さかな)町」となる。

中は明るく通路も広い。牧志と較べるとすっきりしている。
サンダースン氏に従っていくとここかしこにお魚がたくさん並ぶ。

ここにも

これはイラブチャー(ブダイの仲間)。

今夜(GIBSON)の肴を物色するのはSYOKOさん。(初登場!)
SYOKOさんもここははじめてだという。同行のSMILEYさんと店内を
つぶさに見てまわっていた。詳細はSYOKOさんのブログをご覧下さい.
SYOKO'S ROOM


さて、せっかくの生マグロ。できれば、持って帰りたい。
お店の人に尋ねたところ、思案顔。受話器をとってどこかへ電話を。
どうやら宅配業者と着日の相談のようであった。冷凍物ではないから
鮮度を心配しているようだ。ややあって結果は大丈夫とのこと。
明日(25日)のお昼過ぎには届くという。やった!

カットしてもらったところ3.8キロであった。かなりずっしり来る。

サンダースン氏は「(建替える前は)汚かったけど以前の方がよかったな。朝も4時頃から開いていたし。」との感慨深く語った。

梅雨明けの那覇へ(沖縄再訪その1)

2006年06月26日 12時37分15秒 | 沖縄の旅

羽田空港第一ターミナルには7時前に到着。下車後、南ウイング11番カウンターへ向かう。土曜ということもあってかなりの人込みだ。旅行会社の係員からレクチャーを受けているツアーの輪があちこちで見られる。

私らの乗る那覇行きの便は満席の表示が出ていた。沖縄は梅雨が明けたばかり、その最初の土曜ということで席はすぐに埋まってしまったのだろう。前橋から来たf本氏と合流。f本氏がカウンターにて航空券を受け取り、搭乗手続きへ。羽田の滑走路はたいへん込み合っているようで、「本機は9番目の離陸となります。」とアナウンスがあった。窓から覗くと3分か4分の間隔で次々と飛び立っていく姿が見えた。私らの番が来て滑走路へ左旋回するとき後続の飛行機がずらりと並んでいるところを確認。(亜音速で高空を突っ走るジェット機も渋滞にはかなわない。離陸を待つ飛行機がよたよたと並んだ姿は間抜けだ、陸の上ではのろまなペンギンに似ている。)日本航空8時15分発の那覇空港行き(1905便)は定刻より15分程度遅れて離陸した。

機内は、空席無し、本当に「満席」だ。
f本氏は持参した東野圭吾「容疑者Xの献身」を読みふけっている。私は小泉武夫の「怪食対談 あれも食ったこれも食った」を読む。水平飛行に移り、シートベルト着用のサインが消えると、機内サービスのお茶と、大塚製薬の試供シリアルSOYJOYが配られた。

機内では「電波を発信する全ての電子機器の電源をお切り下さい。」とアナウンスがあった。ケータイの電源を切ってしまったため時刻の確認ができなくなった。どうして飛行機の中には時刻表示がないんだろうか?(時差の関係か?それにしても、日本国内なら表示してもいいと思うが。)ふと、隣の座席のOK氏の左腕に目が停まった。腕時計をしているではないか。しかも「電波時計」だという。うーむ、電波を受信するだけだからいいのか。もっとも電源を切るには裏蓋を外して電池を抜かない限りOFFにはできないそうだ。そこで私はこの旅行中OK氏に「電波時計少年」という称号を与えることにした。


那覇空港には11時少し前に着陸。快晴だ。窓から覗くと南国の日差しに目がくらむ。降りる前から、外の熱気がじわっと感じられ少し汗ばむ。到着ロビーに出て、携帯に電源をいれSYOKOさんにTELを入れる。待ち合わせの漁港市場の名前を聞き、タクシーで向かった。泊の「いゆ」と告げるとタクシーの運転手はすぐにわかったようだ。SYOKOさんはジュンさんといっしょに来るそうだ。市場につくと半年前にお世話になったサンダースン氏がニコニコしながら待っていた。


さっそく市場内に入るとサンダースン氏の言うとおり本マグロが店先に並んでいた。( 続く)


再び、沖縄へ

2006年06月24日 03時29分05秒 | 沖縄の旅
昨日は沖縄慰霊の日でした。61年前の「沖縄戦」で20万人もの人が亡
くなりました。「本土からやって来た兵士よりも、住民の犠牲の方が
ずっと多かった。それが沖縄戦の特徴だ」と朝日新聞の社説にありま
した。1月に初めて沖縄を訪ねたとき、真っ先に向かった摩文仁の丘
に立つ「沖縄県平和資料館」のことを思い出しました。

今日、これからf本氏、OK氏らと再び那覇に向かいます。
沖縄はもう梅雨が明けています。帰って来たら「熱い」報告をお届け
したいと思います.

残雪のアヤメ平行(前編)

2006年06月22日 23時50分13秒 | 私の山歩き・山の仲間たち
銀座から帰って急ぎ山の支度をし目覚ましを4時にセットして
寝たのは2時過ぎだったろうか。夢をみたようなそうでないよ
うなまるでBeatlesのA Day In The Lifeの中のか細いベルの音
を何度かやり過ごし、飛び起きると4時半だった。山用のシャ
ツに着替え、ザックを背負い、静かに玄関のドアを開くと外は
細かい霧雨だった。
バスに乗るとやはりA Day In The Lifeのように睡魔が襲って
きた。途中の高速道路の景色はあまり覚えていない。休憩時に
そばを食べた気がするが。
鳩待峠に着いたのは8時20分ごろ。不思議なものでちゃんと
目が覚めた。
下の写真はいっしょに行ったバスの人々。ほとんどが山の鼻へ
くだり尾瀬ヶ原の木道を歩くそうだ。お目当てはあの水芭蕉な
のだろう。

私が目指すのはアヤメ平だ。この時期に歩くのは初めて。同行
するのは酒楽会の会長Y形氏のみ。尾瀬は初めてという。初め
ての尾瀬なのに、私と(多分)何もないアヤメ平を歩かせてし
まうのは申し訳ない気がする。何度も
「ほんとにこっち(アヤメ)でいいのか?」
と念を押したがY形氏は「アヤメでいい。」と言う。
鳩待峠からアヤメ平までは片道5キロ強。往復で10キロを越
える。Y形氏の脚を信じるしかない。

身支度を整え8時40分に鳩峠を出発した。
雨は降り止まない。
写真は唯一の先行者たち。彼らと私達でアヤメ平はほぼ貸切り
が約束された。

15分ほど坂を登ると急に傾斜が緩み木道が姿を現す。
しかし木道のないところは極度にぬかっていて泥だらけになる。
こんなことだろうと私は今回長靴で歩くことにしたのが大正解
であった。高度が上がるにつれ、木道は残雪に埋もれ夏道の判
断が難しくなる。木の枝に結ばれたピンクのリボンが頼りだ。
これでガスに囲まれたら「ホワイトアウト」だ。けっこう緊張
しながら前へ進む。

残雪の割合がだんだん増えていく。
先行者も慎重に歩いている。

2時間後、ようやく視界が開けた。横田代だ。

疲れと安堵感と初めて見る湿原の風景にしばし呆然とするY形氏。


よく見ると

水芭蕉だ。

ここにも水芭蕉。Y形氏の興奮が伝わってくる。

これはサンカヨウ。

チングルマも咲いていた。

可憐なタテヤマリンドウ。

もう少しでアヤメ平なのだが、次第に雨が激しくなってきた。(続く)

6月17日 銀座スイング 原田俊太郎バンドwith直居隆雄

2006年06月21日 19時52分25秒 | 歩く印象派

土曜の夜はと銀座スイングというお洒落なジャズクラブへ出かけてきた。太鼓叩きさんたちの演奏を聴くためだ。荻窪のアケタ以来だ。当初はオ・寒氏ご夫妻と同行の予定だったが、彼の父が急逝したため私らだけとなった。
銀座はその昔が近くのオフィスにいた関係でちょいと懐かしい街だ。新宿や渋谷に比べると落ち着きがあって大人の雰囲気がある。駐車違反取締りが強化されて少し心配だった駐車場もなんなく(公共Pへ)止められて一安心。少し早く着いたので「銀ブラ」(死語か?)する。イトー屋での父の日プレゼントを物色した後、西銀座へ。

さすが、この辺に詳しいのおかげで目指す「銀座スイング」にはほどなく到着。


入り口で名を告げると太鼓さんが手配してくれた席に案内された。ミュージシャン達の演奏スペースを囲むように半円状カウンター席の一角に座った。テーブルはちょうど帽子の鍔のように半円を描いていて鍔の幅がどうみても1mはある。炉辺焼ならさもあらん距離だ。でも演奏者達とはすごい至近距離で「かぶりつき」状態、特等席といえる。太鼓さん、ありがとう。
飲み物と何か料理を一品注文するのがこの店のしきたりのようだ。ジンジャエールとサラダを頼みしばし待っていると太鼓さんたちが現れ演奏が始まった。軽快な曲だ。S・モンクのStraight No Chaserだ。どうもこの曲がオープニングらしく軽くテーマを流した後、太鼓さんがマイクを持った。(なんだか、「あかんべ山」のオ・寒氏みたいだ。彼はオープニングの際に「A列車で行こう」とか「サティスファクション」といったコンセプトの異なるサウンドに乗って司会が舞台に登場という仕掛けをよくやる。あっ、これは余談だ。)

太鼓さんはMCがよく似合うことが判明した。シャイなんだけどしゃべるのは嫌じゃないタイプなのかもしれない。サッカーワールドカップのクロアチア戦の話と北朝鮮が打ち上げようとしているテポドン2の話題で場を盛り上げながら、自然にメンバー紹介に入っていくのはお見事。
ステージは7時から約1時間半が1回目、少し休んで2回目が9時から1時間半という構成。

演奏された曲の紹介。フルートとギターの持ち味を生かしたお洒落な選曲と見た。
1ステージ目の曲(6曲目が「マウン・ボイ」と聞こえたが定かでない。)
(1) Soul Bossa Nova(Quincy Jones)
(2) Killer Joe(Quincy Jones)
(3) This Masquerade(George Benson)
(4) Cavatina(映画「ディア・ハンター」のテーマ曲)
(5) I Could Write A Book I

3曲目はジョージベンソンのヒット曲、直居大御所はジョージベンソンにシャブシャブ(当初焼肉説だったが。)をおごってもらったことがあるそうだ。その大御所のギターワークがいい。すぐ目の前だったこともあるが渋いのに冴えている。聴かせどころでは心がトレモロ状態であった。
2ステージ目の曲
(1) Without A Song
(2) Chan's Song ((映画「ラウンド・ミッドナイト」より)
(3) Bluesette (原曲はワルツ)
(4) Love Dance(IVAN LINS)UE
(5) Moanin
(6) Sprit Kick

紅一点フルートのMiyaさんは長身の美形。お母さんがイギリス生まれということで同国生まれの祖父(ジミー原田さん)を持つ太鼓さんの弁舌トーンは急上昇。髪型も以前から「ショート(カット)が似合う、似合う。」と太鼓さんが勧めていたとか。今回は太鼓さん「私好みで」大満足の様子。

ベースは斉藤草平氏、最近失恋したばかりだとか。なかなかのイケメンだと思うが、太鼓さんがよき(?)相談役のようだ。しっかと太鼓さんに寄り添い真剣に弦を爪弾く斉藤氏に女神が現れることを祈る。

あびる竜太氏のピアノは位置的に地味目で写真にうまく納められなかった。申し訳ない。

太鼓さんと直居大御所はその昔、「ジョン・海山・ネプチューン」にいて東南アジア各地を廻ったそうだ。
この話は太鼓さんのページに詳しい。(3月28日にこのメンバーで横浜ライブしている。)
→ 横浜バーバーバー

途中で太鼓さんにアクシデントがあった。左手のスティックを落としたと思ったら、太鼓の縁の金属部分に思い切り指or手をぶつけてしまったらしい。二度三度と落ちたスティックを拾うがまた落とす。見ている私もはらはらした。その間太鼓さんは右手だけでリズムを取り続け演奏には全く乱れが生じなかった。さすがである。テクもすごいが、この落ち着きにもおどろいた。太鼓叩きの名は伊達ではない。

翌日早朝(5時)の尾瀬山行の準備のため、終ると同時に辞去せざるを得なかったのが少々心残りであったが贅沢な時間を堪能させてもらい大満足であった。

※訂正とお詫び
上記の記事中太鼓さんのアクシデントの理由が「ぶつけた」となっておりますが、太鼓さん本人のコメントにもありますように「つってしまった」のだそうです。
たいへん失礼しました。ここに訂正しお詫びいたします。

酷暑化の試合 TV局のご都合主義をジーコが批判 たしかにその通りだ。

2006年06月20日 12時05分55秒 | 歩く印象派
以下は朝日COMより引用
http://www2.asahi.com/wcup2006/news/TKY200606200140.html

3時開始の試合、ジーコ監督批判 暑さ「選手が犠牲」
2006年06月20日09時15分
 ジーコ監督はクロアチア戦後の記者会見で、豪州戦に続いて試合開始時間が午後3時(日本時間午後10時)だったことについて、「こんな時間にサッカーをやること自体、間違っている。試合時間を遅くすることを提案したい」と厳しく批判した。

 1次リーグは1日3試合が行われる場合、午後3時、6時、9時のキックオフ時間が設定されており、午後3時の試合は気温が30度に迫る暑さとなっている。「体力的な準備を整えていても、動けなくなるし、ミスが出る。選手は守られていない。彼らが燃え尽きない日程を考えるべきだ」と話した。

 豪州戦とクロアチア戦は、昨年12月の組み合わせ抽選後に、日本のテレビ局の要望もあり開始時間が変更された。ジーコ監督は「サッカーはビジネスになっており、選手が犠牲を払っている」と指摘した。 (引用終わり)

その当のTV局(クロアチア戦はテレビ朝日)の放送中にもジーコは戦後の会見でこのことをすでに指摘していた。
正確ではないが
「3試合中の2試合が午後3時からというのは無理があった。」
というようなことを言っていた。

日本とドイツの時差は7時間、18日のテレビ朝日の放映は夜10時からだった。現地では午後3時。中田は「暑さは向こう(クロアチア)もいっしょだ。」と語ったが日本はオーストラリア戦も3時からだった。クロアチアは前の試合(ブラジル戦)は夜の9時からということで疲労の引きずり方も異なったはずだ。日本のテレビ局の思惑(視聴率狙い)が「ひいきの引き倒し」となって、選手に犠牲を強いた点をジーコは批判しているのだ。

巨額のマネーが飛び交うスポーツビジネスの暗部が垣間見える。
というか、夜の10時に日本の試合を観戦できたことを手放しで喜んでていいのか!ってことを私ら観る側もきちっと心しなきゃいけないなあ。

ワールドカップ クロアチア戦 引き分け 中田英仁王立ち!

2006年06月19日 19時01分42秒 | 歩く印象派
尾瀬山行から急いで帰宅し
なんとか最後まで観た。引き分けだった。
今回はテレビ朝日の独占中継だった。解説陣はNHKよりも
お祭り騒ぎであった。最後まで。

で、試合後の中田のインタビューがすごい迫力だった。
通訳によるワンテンポずれた発言のジーコさんより、直
裁に語る彼の方が他の選手にとってコワーイ存在なのだ
ろう。憮然とした表情だった。怒っていた。

他の選手の試合運びに憤懣やるかたないのがありありだ
った。よっぽど悔しかったのだろう。
「相手に合わせて試合をしていてはだめだ!」と一喝!

ともあれ、次の試合が日本最後のドイツでのゲームの公
算が強い。ブラジル戦後の中田発言も聞き逃せないな。