All Things Must Pass

森羅万象 ~ 歩く印象派

緊急特集!ヨン様のCM動画集

2006年03月23日 22時53分22秒 | 韓国 ソウルの旅

ヨン様ファンのS子様へ

ヨン様のCM動画集
をご紹介します。
本ブログ初のペ・ヨンジュン記事です。
「花盛りシスターズ」ならぬ「ヨン様シスターズ」の皆様に捧げます。
え、「ヨン様シスターズ」って?
S子様、C子様、N夫人の御三方ですよ!

韓国ソウルの旅(その16)3日目、帰国。

2006年01月03日 13時13分13秒 | 韓国 ソウルの旅
 さて、駆け足で巡ったソウルの旅も昨夜のワンシムニの
夕食でほぽ修了。今朝は、朝の暗いうちから迎えのバスに
揺られ、インチョン近くの土産物屋に連れて行かれ、少々
間の抜けた時間をつぶした後、やっと解放され空港にたど
り着いた。

 ちょっとしたハプニングがあった。
搭乗手続きが始まって、我々の番になったときに窓口の女
性から「1時間早い便に変更できるがどうしますか?」と
いう提示があった。

偶然4席分空いていてビジネスシートだという。
一便早くなって、ビジネスシート!これは福音に違いない。
という訳で、急遽搭乗となり、お土産購入の時間はなくな
ってしまったが、10分後には機上の人となった。

(写真上:ビジネスシートでご満悦のNI氏)

(写真上:食事もリッチ。)
成田には11時19分到着。

無事の帰国を祝って一同、祝杯をあげたのはいうまでもない。

韓国ソウルの旅(その15)2日目、ハンギョレ(新聞)社訪問(後編)

2005年12月29日 23時30分08秒 | 韓国 ソウルの旅
 ところで、このハンギョレ社というあまり日本では聞き慣れない
名称だが意味するところは「民族は一つ」だそうだ。といっても南
北朝鮮の統一という訳ではないという。
 また、ハンギョレ新聞は韓国の新聞でいち早く漢字をやめてオール
ハングルでしかも横書き掲載という現在の主流のスタイルの先駆けと
もなったユニークな新聞である。名前も当初は「ハンギョレ新聞」だ
ったのを「ハンギョレ」のみとした。

 階段を昇ると3階が玄関であった。ガラス張りのドアを押して入っ
た両側の壁にはびっしりと銅板が埋め込まれている。入り口付近の銅
板は何か新聞の原版のようであった。他の面はハングル文字で埋め尽
くされていた。
 なんのチェックも無く編集室の奥まで案内されたのには驚いた。セ
キュリティはどうなっているのだろう?

 応対してくれたのは、編集者のキムさんと文化部のホンさん。ホン
さんは日本語が堪能であった。
 NI氏は今回表敬訪問ということであった。「未来をひらく歴史 東
アジア三国の近現代史」が7刷を重ね、その6刷までの修正一覧が出
たことなどを伝えていた。また、韓国版は最近判形を変えた(少し小
さくなった。)とかで、その理由を訪ねたりしていた。ちなみに、判
形を変えたワケはこれまでの大きさより今回の方が韓国ではポピュラ
ーなためだそうだ。価格に変化はないという。

 また韓国内ではこれまで5万部売れたそうである。人口五千万の韓
国ではなかなかの健闘だそうだ。(日本版は7万部。)

韓国ソウルの旅(その14)2日目、ハンギョレ(新聞)社訪問(前編)

2005年12月28日 23時45分43秒 | 韓国 ソウルの旅
 夕暮れが近づいてきた。
 戦死者が静かに眠る国立墓地を後にした我々は今一度
タクシーの人となり、一路ハンギョレ新聞社を 目指した。
(下の写真はハンギョレ社にTELをするNI氏)

ところで、何故ハンギョレ社を訪ねることとなったのか?
つぎのような事情からである。(少し長くなります。)
 今年の5月、日本・中国・韓国=共同編集で「未来をひ
らく歴史 東アジア三国の近現代史」(下の写真)が刊行
された。

 その日本での出版元がNI氏の勤務する高文研である。
高文研は「金八先生」シリーズが有名だが、日本やアジア
の近現代史に関する出版も多い。
 小泉さんの靖国参拝などで何かとぎくしゃくする関係が
続く日中韓三国だが、文化・経済の交流はむしろ密接にな
って来ている。人々の往来も活発だ。しかし、その交流を
心からの友好親善に高めて行くには「韓流ブーム」だけで
はこころもとない。
 もっと広い視点で三国の関係を眺めてみることが大切と
考える。とりわけ60年前に日本が中国・韓国に今なお癒
しがたい苦痛や悲しみを与えることとなった侵略・植民地
支配の事実を知り、そのことを踏まえながら、三国の新し
い関係を築く、これは切実な問題である。間違った認識の
ままではちょっとしたことで「反日」「反中」「反韓」な
どのキャンペーンが起こってしまう。このことを心配する
日中韓の研究者、教師、市民の手によって生み出されたの
が本書である。
 前置きが、長くなってしまったがこの本の韓国での出版
を行っているのがハンギョレ(新聞)社なのである。
(下の写真)

韓国ソウルの旅(その13)2日目、国立墓地

2005年12月25日 23時53分13秒 | 韓国 ソウルの旅
 戦争記念館で時間を食ってしまったため、三たびタクシーを利用する
こととなった。国立墓地の場所はほぼ掴めているのでNIがタクシーの運
転手に地図を見せて、車は走り出した。確か国立墓地は漢江(ハンガン)
を渡るはずだが、5~6分後にタクシーが停まった場所は何か立派な施
設の入り口であったが、どう見ても「墓地」ではなかった。タクシーの
運転手の案内したのは国立は国立でも国立博物館であったようだ。もう
一度NIが地図を取り出して「国立墓地か?」と問うてみたが運転手は不
思議そうな顔をするだけであった。
たぶん
「なんで?お宅らが来たかったのはここじゃないのかい?」
という態度だった。「他にどこがあるんだい?」とも思えた。
 もしかしたら、と思いザックの中から旅客機内で書いてもらったメモ
を探し出し、運転手に渡してみた。

 メモの文字を読むや否やタクシーの運転手は、一瞬驚き、即座に我々
の目的地を理解し、車をUターンさせた。
 つまりは、およそ我々のような日本人が行く所でない場所だったため、
「こいつらは国立墓地なんて言ってるが国立博物館のことを間違って言
ってるんだろう。」と思い運転手は善意に国立博物館に案内したようだ。

 観光スポットから外れている国立墓地とはいったい、どんなところな
のだろう?
やがて、漢江(ハンガン)にかかる長い橋を渡るとまもなく公園とおぼ
しき入り口でタクシーは停まった。
 すでに陽は傾き、 広大な公園に山の端影が長く落ちていた。

 入り口の表示にはNational Cemeteryとあった。
警備というほどの物々しさは感じられないが衛兵が2名立っていた。
時折、入門する車の運転手と声を交わしていたが、我々には特に注目し
ていない。誰でも出入りは自由なようだ。

間違いない。
ようやく、この旅の目的地にたどり着いた。。
 日本では思うように情報がつかめなかったこの地に今立っている。

入ってすぐ右手の公園の管理事務所らしき建物があったのでドアを
開け中に入ってみた。カウンターになっていて、我々の入室に気が
ついた女性と眼があった。落ち着きのある物静かな人だった。NIが
英語で (“We came from Japan”と言ったかどうかは定かでないが。)
我々が日本人であることを告げると彼女はパンフを取り出し、手渡し
てくれた。慌てて、もう2冊もらった。

事務所を出て、パンフを広げ奥にそびえるモニュメントの方へ向かった。
雪の残る広場を左から巻くように歩いて行く途中に売店らしき三角屋根
の白い建物があったので立ち寄ってみた。

 やはり売店でジュースやコーヒーなどの飲み物やスナック菓子などを
販売していた。テーブルでは散歩に来た韓国人の夫婦がカップラーメン
を食べていた。よく見ると給湯設備があった。カップ麺を買って自分で
お湯を注いで食べることができるようだ。
 喉が渇いていたのと空腹に気づき、我々もコーヒーとパンを購入し、
しばし休憩することにした。

 売店を出てしばらく歩くと立派な屋根付きの門があって、衛兵が2
人立っていた。車止めの柵もあった。どうやら、車はここまでしか入
れないようだ。門をくぐるとモニュメントがすぐ目の前に迫る。逆光
のせいか眩しい。

階段を昇ると焼香用の炉と香が置いてあった。
炉にはまだ火が残っていた。
順番に焼香した。


 驚いたことに、モニュメントの中に祭壇があった。内部は清掃が行
き届いており清潔で照明も明るかった。ここまで歩いてこなければわ
からなかった。壁という壁には墓碑銘が刻まれており、色とりどりの
花々で飾られていた。よく見るとみな造花であった。


外に出て、今度は元来た道の反対側を通って戻ることにした。左側の斜
面には奥の方まできちんと配列された墓が並んでいた。雪が溶けずに一
面を覆っていた。

1970年代に亡くなったことがうかがえる墓もあった。
「ベトナム戦争で亡くなった方かもしれない。」とNiが言った。
韓国はベトナム戦争時に米国からの要請で戦闘部隊を送り込んでいる。
その戦死者の可能性が高い。

 モニュメントそばの門に備えてあった記帳書に記帳しようと思っ
たが、NIの「ここは我々が記帳すべき所ではないようだ。」の一言
でやめることにした。2冊の記帳書を繰ってみたが日本人の筆跡は
一人もなかった。

 ところどころ残る雪の上で遊ぶチョウセンガラスの姿にここは韓
国なのだということに改めて気づいた。

韓国ソウルの旅(その12)2日目、戦争記念館(後編)

2005年12月24日 23時59分37秒 | 韓国 ソウルの旅
 一階は戦争歴史室となっていて、半島という地政学的位置から
周辺の国(もちろん日本からも)から幾多の侵略を受けてきた苦
難の歴史が語られる。日帝(戦前の日本の呼称)による支配の展
示もあるにはあったが、予想していたほど大げさな物ではなかっ
た。
 驚いたのは、2階3階のほとんどを使って展示されている韓国
戦争のコーナーである。パンフには(韓国戦争は)「今世紀最大
の民族悲劇」と記されている。しかし、日本と同様に年とともに
戦争体験者も減少しつつある。そのため、韓国戦争の歴史的事実
とその実証資料を後世に残すためこの記念館を建立したという。

 この戦争記念館は正確にいえば「韓国戦争記念館」なのだ。
だとすれば、昨日の「戦争記念館」中編で紹介した若い兵士集団
の見学会は当然と言えば当然、歴史を風化させないための必須科
目といえる。(表題の写真は、韓国戦争(朝鮮戦争)における日本
からの在日学徒義勇軍:死者も出ている。)

 まさに南北全土が戦場となり焦土と化した2年間であった。
難民も多数出た。戦後日本の焼け跡と同じような展示もあった。

休戦からが韓国の「復興」の始まりとなる。
 その当時、日本では「朝鮮特需」に湧く好景気であったのと
は対照的だ。隣国の不幸が復興の追い風となった格好になる。
この辺の事情を踏まえて1965年の「日韓会談」を振り返っ
てみる必要があるなあと思った。帰国後の課題だ。

 韓国戦争展示の終わり近くで大きな写真パネルが目に入った。
なんと、次の目的地「国立墓地」の空撮による全景写真である。
詳しい解説は無かった。漢字で「国立墓地」とあった。


韓国ソウルの旅(その11)2日目、戦争記念館(中編)

2005年12月23日 23時59分24秒 | 韓国 ソウルの旅
 韓国には兵役があり、満19歳以上の身体が丈夫な男子は
軍に入隊しなければならない。(大学生の場合は1年生を修
了してからとなる。)
 分断国家の韓国は100万の陸上部隊を有する北朝鮮と38度線
を境に今も対峙している。国民の義務は4項目ある。納税の義
務、教育の義務、労働の義務、そして国防の義務だ。
給与も支払われるが、一ヶ月2万ウォン(約2千円弱)だ。
これで約2年間の軍隊生活を送らねばならない。

※この記念館の入場料は3千ウォン(約3百円弱)。

 しかし、兵役を経ていない者は公務員試験の受験資格がな
いことや一般の企業でも兵役経験のない者は不採用になるな
ど、社会的に一人前とみなされない風潮がある。

 インタヴューした訳ではないが、偶然、入隊したばかりと
思われる韓国の若い青年兵士の集団が、記念館の広場に整列
していた。

 我々が入場したあと、教官らしき年配の兵士が先導に立っ
て彼らも入って来た。この記念館の見学も教育訓練の一つな
のかもしれない。

 通りをはさんで戦争記念館の向かい側の高台にある建物が
陸軍の本庁である。(下の写真の奥やや右のビル)

日本の市ヶ谷防衛庁もそうだが、どうして軍人というのは、
高いところがお好きなのだろう?

記念館の中に入る。1階中央の吹き抜けでは秀吉を打ち破
ったイスンシンの亀甲船(模型)が目に入った。

たいへんユニークな形の船だ。船全体を覆う屋根の凸凹
はガメラとかアンギラスの背中をほうふつさせる。これで
体当たりされてはたまらない。
 今回のソウル旅の目的に韓国ならではの模型の入手を
考えていたが、やはり「亀甲船」は外せない。出口付近の
売店で木製のキットを手に入れることができた。2個購入し
たので1ケは在庫とし、1ケは折を見て組み立てるつもりだ。

韓国ソウルの旅(その10)2日目、戦争記念館(前編)

2005年12月21日 23時59分22秒 | 韓国 ソウルの旅
 独立公園を後にした我々はタクシーにて
三角地(サンガクチー)にある「戦争記念館」を目指した。
途中、ソウル駅舎を右に見る。確かに上野駅に似ている。
約10分で記念館入り口に立った。
すぐ目に入るのが、巨大な二人の兵士の抱き合う姿の像だ。

これは“兄弟の像”と呼ばれるもので、パンフの解説によれば
「韓国戦争(朝鮮戦争のことを韓国ではこう呼ぶ。)を象徴
する造形物で」韓国軍の兄と北朝鮮軍の弟が「戦場で劇的に
出会った実話」に基づいているそうだ。
 日本では「戦後』といえば1945年の敗戦以降を指すが、韓
国では「戦後」はない。北朝鮮とは「休戦」状態だからだ。
韓国の人々の中で韓国戦争の占める比重の高さというか、背
負った歴史の重みのようなものをひしひしと感じた。
展示されている戦車や戦闘機などの兵器も第2次大戦という
より韓国戦争当時の物がほとんどだ。北朝鮮軍からの鹵獲品
も多い。戦った敵側の兵器類もちゃんと展示されているのが
ちょっと不思議な気持ちにさせられる。


北朝鮮から脱北してきたミグ。(韓国戦争当時の物ではない)

ミグの前では形無しだったF51。

なぜかB52も展示されていた。

潜水艦の模型もあった。よくわからなかったが兵士が池の中
を清掃していた。

ミサイル類も堂々と展示されている。

イラク派遣軍の戦闘車両もあった。

韓国ソウルの旅(その9)2日目、独立門~西大門刑務所

2005年12月20日 23時47分40秒 | 韓国 ソウルの旅
光化門からはタクシーを利用した。
韓国タクシー初乗車である。
タクシーは「一般」と「模範」の2種類がある。
名前からして「模範」は値段が高そうだ。
我々は、迷うことなく「一般」に乗った。
ここでもNI氏の出番だ。
わずか5分足らずで独立門公園付近のロータリー着。
料金は1900ウォンだから地下鉄で一人900ウォン×4
の3600ウォンよりはるかに安い。近距離ではタクシー
はけっこう使える。
(但し目的地をきちんと運転手に伝えられるかがポイントだ。)

 信号を渡ると、ほどなく独立門のある独立公園。
独立門というのは韓国が中国や日本、ロシアその他の西欧
列強と同じ自主独立国であることを国内外に宣布するべく
1897年11月に建てられたもの。
パリの凱旋門によく似ている。

 独立門から北の方に広がるのが独立公園。

ゆるい坂道を登る。右手に広場があり、タプコル公園で
見たような碑文の壁が視界に入った。中央には複数の人
物像が立つ塔がある。近づいてみたところ「3・1独立宣
言記念塔」とあった。塔の裏は碑文でタプコルと同様に
3・1独立宣言文が刻みつけられている。独立万歳運動
を主導した33名の民代表の名前もある。

ここでNI氏が日中韓三国共同で出版された歴史教科書の
韓国語翻訳者と打ち合わせのため、独立門の方へ戻り、
残った我々3人は西大門(ソデムン)刑務所歴史館を見学
することにした。

1895年から1945年までの50年間、韓国が日本の統治下
にあったその苦難が凝縮されたようなところだ。敗戦間
際に証拠隠滅をはかった日本軍が埋めた拷問施設や死刑
の執行室などが掘り起こされ展示されていた。
棺桶を縦にしたような人ひとりやっと入れるスペースの
独房。ここに入れられ3ヶ月も立つと血が下半身に溜ま
ってやがて血管が破裂してしまう。夥しい拷問器具などは
以前シンガポールの戦争記念館で見たものとは比べよう
もないくらい陰惨で生々しい凶行が繰り返された証左だ。
間違いなく私の父の世代がこの残虐な行為に従事してい
たことが伝わってくる。

 このような刑務所が韓国内に8カ所もあったという。
日本国内での治安維持法がこの地では独立を目指す韓国
の人々に容赦なく適用された。
靖国参拝に血道を上げる小泉首相にぜひこの西大門刑務
所記念館まで足を運んで欲しいと思った。

上の写真は10月の小泉首相の靖国参拝報じる中国の新聞。
参拝は「拝鬼」とあり。「鬼」とはA級戦犯のことである。
その左側には韓国内での抗議が伝えられている。

韓国ソウルの旅(その8)2日目、光化門

2005年12月19日 01時11分35秒 | 韓国 ソウルの旅
 早朝から外を歩き続けたせいか、身体が冷
えきってしまったようだ。
仁寺洞(インサンドン)で遅めの朝食を摂った。
チゲやソルロンタンそしてお馴染みとなったソジュのお
かげで身も心も温まった一行は歩行を再開。
 日韓の女子高生の姿も目立つ仁寺洞(インサンドン)
を通りぬけ、鍾路(チョンノ)大通りを光化門へと向か
った。途中、銀行で円をウォンに換金したりしたため、
少々時間はかかったものの12時ぎりぎりに光化門を望む
通りに出た。


 光化門を反対側の通りから眺めた後、街路樹に電飾
(イルミネーション)取り付け工事の人たちを見上げな
がら少し戻り、地下道を渡り光化門入口に辿り着いた。

 門をくぐると偶然にも王宮守門将交代式が行われてい
た。この交代儀式は、荘厳な雰囲気の中、赤、黄、青な
どの原色も鮮やかな衣装や旗に彩られた見るも華やかで
格調も高く、もっとじっくりと見てみたいと思った。


 交代式もそこそこに、急いでNI氏の後に続いた。王宮
の奥深くにある閔姫暗殺現場に行くためだ。抜けるよう
な青空の下、ところどころに凍った雪が残る歩道を駆け
るように急いだが、途中で工事中にぶつかってしまった。
下の写真のように現在は改修中とのこと。
次の機会に譲ることとなった。