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森羅万象 ~ 歩く印象派

光源氏「軽薄な女だな」 写本・大沢本に新記述見つかる

2009年10月30日 06時09分19秒 | 歩く印象派
2009年10月30日3時14分

 昨年、約80年ぶりに存在が確認された「源氏物語」の写本「大沢本」に、標準本と大きく異なる内容が2カ所あることが、伊井春樹・大阪大名誉教授の研究で明らかになった。恋人の返歌に、幻滅する光源氏の心境がうかがわれたり、物語の展開が変わっていたり。「源氏」に、大幅な違いが見つかったのは初めてという。

 源氏の微妙な心境の変化が書かれていたのは「花宴巻(はなのえんのまき)」だ。20歳の源氏が、恋心を寄せる朧月夜(おぼろづきよ)に車ごしに歌を詠みかけると、歌が返ってきたが、それ以上描写がなく、巻が終わる。声を確認できた喜びと、政敵の娘のためにどうすることもできない心情が表現されていると解釈されてきた。

 だが、大沢本ではさらに「かろかろしとてやみにけるとや」と続きがあった。「軽薄な女性だと判断してそれ以上は動こうとはしなかった」との意味にとれる。直接、返事をするのは女性としての品性に欠けると、幻滅したことになる。ただし、その一文が線で消されていた。「他の写本と照らし合わせて消したのだろう」と伊井さんはみる。

 終盤にあたる「蜻蛉巻(かげろうのまき)」では、物語の展開が違っていた。源氏の子の薫と、源氏の孫にあたる匂宮(におうみや)という2人の貴公子の間で悩んだ美女・浮舟が、宇治で行方不明となる場面で、写本で22ページ分、220行の部分が異なっていた。

 標準本では、匂宮の従者が強い雨の中、都を出て小降りになったころ宇治に着く。その後、浮舟の母君が駆けつけ、遺体のないまま浮舟の葬儀をする。一方、大沢本では、まず母君が強い雨の中を宇治に駆けつけ、葬儀を計画。その後、小降りになったころに匂宮の従者が到着。夜遅くなって葬儀が始まる。

 伊井さんは、「従来の本ではあまり意味を持たなかった雨が、大沢本では時間の経過を表す役割をしている。人物の登場順も、母親があわてて駆けつける方が、リアリティーがあるのでは」と語る。

 源氏物語には紫式部による自筆本は現存せず、筆写が繰り返されるうちに、表現が異なる様々な写本が生まれた。約200年後の鎌倉前期に、藤原定家らがそれらの写本を集めて54帖(じょう)に整理。その系統が、標準本として最も知られている。そこに含まれなかった未整理の写本もあり、大沢本もそのひとつだ。

 源氏物語を研究する島内景二・電気通信大教授は「写本によって違いはあるが、せいぜい言葉づかいぐらいで、物語の展開まで違うものが見つかったのは初めてだ。紫式部が執筆し、藤原定家らによって整理されるまでの間、物語は様々に伝えられていたはずで、そうした『物語の化石』のようなものなのだろう。謎と驚きにあふれた発見だ」と話した。

 大沢本は11月29日まで、京都府宇治市の市源氏物語ミュージアム(0774・39・9300)で展示されている。(渡辺延志)

加藤和彦さんを悼む  きたやま おさむ(転載)

2009年10月29日 07時19分49秒 | Rock 音故知新
以下は朝日新聞10月19日朝刊文化面より

「すべて一流のプレーヤー」~加藤和彦さんを悼む~

  もはや、あの人懐っこい笑顔が見られないかと思うと本当に心が痛む。それにしても、やられた。すべて計算ずくだったと思う。ワイドショー的なマスコミ報道の減る週末を選んだのも、あいつ一流の作戦だったのだろう。
  彼は「振り返る」のが大嫌いだったが、大した戦績だったので、嫌われるのを承知で書こう。私は、一時期同じバンドのメンバーにして、楽曲を作る仲間、そして人生の良きライバルだった。それで故人を呼び捨てにするが、お許しいただきたい。今から数十年前のこと、その加藤がこう言ったことがある。
  「お前は目の前のものを適当に食べるけど、僕は世界で一番おいしいケーキがあるなら、全財産はたいてもどこへだって飛んでいく」
  趣味は一流、生き方も一流だった。ギタープレーヤーとしても一流で、プレーヤーすなわち「遊び手」としても一流。グルメであり、ワインに詳しく、ソムリエの資格をとるほどで、何をやらしても天才の名に値するレベルだった。
  それがゆえに、凡百とのおつきあいの世界は、実に生きにくいものだっただろう。しかし私たちには、そんな背の高い天才の肩の上に乗ったら、見たことない景色が遥か遠くまで見えた。
  加藤和彦が日本の音楽にもたらしたもの、それは「革命」だった。作品だけではなく、彼の生き方ややり方が新しかった。六〇年代、若者の革命が幾つも夢想される中、ほとんど何も持たない若いプレーヤーたちが芸能界のエスタブリッシュメントに挑んだのだ。はっきり言って、私たちは、アマチュアで、関西にいて、大した機会に恵まれなかった。そして振り返るなら、多くの、「若者の戦い」の中で、あの音楽の戦いだけは一瞬成功したかに見えたし、クリエーター加藤和彦は、このプレーヤーたちの戦いの旗手となった。
  自主制作の「帰ってきたヨッパライ」が300枚作られ、結果的に280万枚を売った半年で、日本の音楽の流れが大きく変わったのだ。大先生が作る作品を歌手が歌うという「上から下」の主流に、自作自演という「下から上」への波が音を立てて流れ込んだのである。その上、新興のシンガー・ソングライター・ブームに対し、加藤の志向は主にバンドにあり、フォークル、ミカバンド、最近では和幸と、ソロ中心に偏ることはなかった。私のようなセミプロを傍らに置いて、たててくれたのも、バンド志向の優しいリベラリズムであったと思う。
  後ろは振り返らない、そして同じことは絶対にやらないというモットーを貫き通した彼は、おいしいケーキを食べるために全財産をはたいて、また手のとどかぬところに飛んで行った。戦友としては、その前だけを見る戦いぶりに拍手を贈りたい。しかし、昔話に花を咲かせ共に老後を過ごすことを楽しみにしていた仲間として、そしてこれを食い止めねばならなかった医師として、友人としては、実に無念である。

>「バンド志向の優しいリベラリズム」に共感を覚えます。

創価学会池田博正副理事長(池田大作名誉会長の長男)を関西トップの関西最高参与に

2009年10月27日 06時09分44秒 | 時事スクラップブック(論評は短め)
創価学会総関西長が退任 衆院選敗北で体制立て直し狙う

2009年10月27日5時40分 朝日COM

 公明党の支持母体である創価学会の関西組織を統括してきた西口良三・総関西長が退任したことが26日、関係者への取材でわかった。後任の総関西長は置かず、池田大作名誉会長の長男、博正副理事長を関西トップの関西最高参与に、原田稔会長に次ぐ立場の正木正明理事長を関西ナンバー2の関西総合長とする。いずれも東京を本拠地にしたまま関西をまとめるという。

 関西の創価学会は選挙での集票力の大きさから「常勝関西」といわれてきたが、8月の衆院選で全敗した8小選挙区のうち六つを関西が占めていた。来年は創価学会の創立80周年で、夏には参院選を控えていることから、衆院選の敗北を受けて人事を刷新し、体制を立て直す狙いがあるとみられる。

 西口氏は71歳。77年から関西長や総関西長などを務めてきた。今後は組織運営の一線を退き、総主事となる。関西総合長を務めてきた藤原武氏は副総主事となる。

 創価学会のホームページによると、博正氏は53年生まれで東京都出身。正木氏は54年生まれで大阪府出身。

普天間飛行場北海道移設、米に打診 守屋元次官明らかに

2009年10月25日 11時24分16秒 | 時事スクラップブック(論評は短め)
10月25日9時35分配信 琉球新報

 米軍普天間飛行場の移設をめぐり、1996年の日米特別行動委員会(SACO)の日米交渉で、日本側から移設先として北海道の苫小牧東部地域(苫東地域)への移設の可能性を米国防総省側に打診していたことが24日までに分かった。同協議に携わった守屋武昌元防衛事務次官が琉球新報のインタビューで明らかにした。米側は一定の理解を示しつつも消極的な姿勢を示したという。日本側の交渉担当者が県外移設について、具体名を挙げて米側に打診していたことを明らかにしたのは初めて。
 県外断念の理由として守屋元次官は、アジア・太平洋地域での軍事戦略上の観点や、県外で受け入れる自治体のない国内政治状況も挙げた。
 打診相手は、当時米国防副次官補で、現在はオバマ政権で普天間問題を扱う国務次官補のカート・キャンベル氏。同氏は提案に対し、フィリピンで地元反対により米軍基地を閉鎖した例を挙げ「地域の安定に対するデメリットを分かった上で、日本がその選択を言ってくるなら考えざるを得ないが、同盟関係の信頼性が失われる」と消極的な姿勢を示したという。
 2005年以降、本格化する米軍再編協議では、事務方で県外移設を追求することはなかったことも明らかにした。再編協議では逆に、米側から北海道移転の打診もあったが、町村信孝外相(当時)が断った経緯もあったという。
 当時、防衛庁長官を務めた大野功統氏も琉球新報の取材に「(米側に県外移設を)ぶつけてみる必要性はあったかもしれない。だがどこ(の自治体)が受けるだろうか」と述べ、米交渉で県外移転を持ち出さなかったことを明らかにした。
 小泉純一郎首相(当時)は、県外移設を模索する姿勢を示唆していたが、米軍再編日米合意直前の2005年6月、「総論賛成、各論反対だ。負担軽減には賛成、しかし自分の所には来てくれるなという地域ばかりだ。そこが非常に難しい」と県外移設の断念を示唆していた。
 守屋武昌元防衛事務次官は1944年9月生まれ、宮城県出身。71年防衛庁入庁。防衛政策課長、防衛施設庁施設部長などを経て、2003年8月から防衛事務次官。防衛装備品納入をめぐる汚職事件で、次官退任後の07年11月逮捕。08年11月に東京地裁で懲役2年6月の実刑判決を受け、現在控訴し係争中。

<解説>同盟優先し県内選択
 SACOや米軍再編協議で普天間飛行場の県外移設が見送られ、結果的に県内移設に集約されていったのは、日本政府が基地新設に伴う困難な国内調整作業を回避し、良好な日米同盟を維持することを優先したためだ。
 県外移設見送りの理由について守屋武昌元防衛事務次官は、(1)在沖海兵隊が持つ機能を収容できる広大な用地の確保は困難(2)アジア・中東地区の緊急事態に即応できる基地建設地は沖縄以外にはない(3)他都道府県の政治状況は米軍基地を受け入れる余地がない―を挙げる。従来の日米両政府は、三つの課題の克服を果たせなかった。
 日本政府は、SACO段階で県外移設の可能性を模索し、米国防総省の交渉担当者に特定の候補地を提案していた。米軍再編協議で県外移設を追求することは「全くなかった」(守屋元次官)という。
 普天間の県外・国外移設を追求した民主党政権は、早くも軌道修正に踏み切ろうとしている。岡田克也外相が23日「県外移転は考えられない」と述べ、嘉手納飛行場統合を支持したのを受け、北沢俊美防衛相も「私の考えに近づいてきた」と発言し、県民を困惑させた。
 1996年の全面返還合意から今日までの細かい検証や、具体的な県外移設先の検討作業を経ないまま、鳩山政権は「(辺野古移設が履行しない場合)安全保障提供が難しくなる」(マレン統合参謀本部議長)という米側の強い圧力に揺れている。このままの県外移設断念は、過去の自民党政権の外交・安保政策に追従することにほかならない。
 日米両政府は、なぜ県外移設を選択せず、辺野古地区に固執し続けたのか。鳩山政権は元次官証言など過去の経緯をあらためて直視し、再検証することが求められる。

モーターショー しぼむ「東京」

2009年10月23日 06時24分31秒 | 時事スクラップブック(論評は短め)
 2年に1度の東京モーターショーが21日、千葉市の幕張メッセで始まった。世界5大自動車ショーに数えられているが、41回目の今回は不況のあおりと日本市場の地盤沈下を受け、海外勢の大半が参加を辞退。展示車も市販が前提の常識的なものが多く、「夢の車」の見本市としての存在感は薄れている。一般公開は24日から11月4日まで。

 ■出展半減、海外勢3社

 トヨタ自動車の高級車ブランド「レクサス」のブース。エンジン音が響き渡る中、天井からつった白い布が落とされ、スポーツカー「LFA」が姿を現した。排気量4.8リットルで560馬力のV型10気筒エンジンを搭載。10年末から500台限定販売する3750万円の超高級車だ。

 自ら開発にも携わった豊田章男社長が運転席から降り立ち、「車を好きになってもらえるように努力した」と運転する楽しさを訴えた。

 しかし、こうした演出の一方で、会場には例年にくらべ「質素」な雰囲気も漂う。出展企業は前回07年の246社から、113社に減り、展示の総面積も前回の半分。なかでも、技術と斬新なデザインを競ってきた海外自動車メーカーは大半が姿を消し、参加は26社から3社にまで減った。

 主催者の日本自動車工業会(自工会)によると、今回の募集を締め切った昨年10月には、海外から17社が申し込みを済ませ、数社が検討を続けていた。だが、世界的な景気後退を受け、独メーカーや米ビッグ3など辞退が続出。韓国の現代自動車はショー直前の9月20日ごろに「本社の方針変更で出品できなくなった」と連絡してきた。

 自工会は一度参加を見送った英国メーカーから、出展料の割引で参加をとりつけ、さらに会員企業の過去の名車などでなんとか「空き地」を埋めた。
目新しいアイデアが売りの「コンセプトカー」(試作車)も、市販を意識した現実的なものになっている。コンセプトカーの製作費は1台1億円ほどとされ、業績の厳しいメーカーには重荷になるからだ。

 ■日本市場には期待薄

 地盤沈下の理由は不景気だけではない。日本市場の魅力の低下も背景にある。

 自工会の見通しでは、09年の国内新車販売台数(乗用車)は405万台。5年続けて減り、ピークの90年より2割少なくなった。人口減少で今後も大きな成長は期待できない。縮むパイも国産メーカーがほぼ独占。日本自動車輸入組合によると、乗用車販売に占める08年の輸入車シェアは7.4%。米国では33.4%、ドイツは35.1%だ。

 お隣の中国市場は、09年の新車販売台数で世界一になる可能性が高く、今後も成長が確実とみられる。4月の上海国際モーターショーには、不景気の中でも、欧米有力メーカーや現代自動車を含む1500社が出展した。

 先進国市場でも9月の独フランクフルトモーターショーには781社が参加。欧州メーカーの日本法人幹部は「フランクフルトは『欧州全体のショー』との位置づけだが、東京は日本市場向けだけ。中国の成長が著しいなか、景気が戻っても次回の東京に出展するかは微妙だ」と話す。

 ■環境前面 特色づくり

 国内メーカーが今回のショーで展示に力をいれたのは、二酸化炭素排出量の少ない「エコカー」だ。

 日産自動車のカルロス・ゴーン社長は前後2人乗りの電気自動車の試作車「ランドグライダー」に乗って登場し、「ゼロ・エミッション(排出ゼロ)時代の到来」を力説。10年末に販売を始める「リーフ」に加え、12年以降にさらに3車種の電気自動車を売り出す方針を明らかにした。

 ホンダの伊東孝紳社長はハイブリッド車の普及が最優先と述べ、来年2月に発売するスポーツ型のハイブリッド「CR―Z」などを紹介した。

 ただ、エコカー開発にしのぎを削るのは欧米メーカーも同じ。フランクフルトショーの展示も主力はエコカーで、「東京」を特徴づけるには力不足だ。

 自工会はショーの在り方をめぐる議論を始めており、来年春には方向性を出す。フランクフルト直後との開催時期の変更も検討。岡雅夫モーターショー室長は「海外メーカーは放っておいても戻ってこない。個性がないともうだめなのは確かだ」と話す。

男がマザコンになってしまう時

2009年10月19日 17時54分18秒 | 歩く印象派
10月19日 01時30分 アメーバニュース

 もしも、彼がマザコンだったら? 母親離れできない男性は、母親以外の女性から見ると、論外でしょう。彼がマザコンと分かって、惚れ直した人っています?

 そもそも、日本の男性は、欧米の男性と比べると、マザコン気味かもしれません。結婚後、子供が生まれると、次第にセックスレスになり、妻を「ママ」とか「お母さん」とか呼んでしまう…。欧米の男は、妻を「ハニー」とか、甘い言葉で呼んで、決して、「ママ」とは呼ばないと思います。では、どうしてこうなってしまうのでしょう。それには、母親に対するコンプレックスが関係してます。

 今回は、マザコンとはどういうものか、精神医学的な面から考察してみたいと思います。

■マザコンの別名:「エディプス・コンプレックス」とは?

 マザコンはマザー・コンプレックスの略ですが、別名、エディプス・コンプレックスと呼ばれています。これは古代ギリシャのエディプス王の神話に由来していて、精神分析の大家フロイト(1856~1939)によって命名されました。エディプス王の話のあらすじは以下の通りです。

 テーバイの国王だったエディプスの父親は、実の子供に殺されると神のお告げを受け、生まれたばかりのエディプスを殺すように家来に命じます。しかしエディプスは殺されず、遠くの国へこっそりと捨てられました。その国の王様に拾われて育てられたエディプスは、やがて出生の秘密を知り、「実の父親を殺し、母親と結婚する」というお告げを受けて、放浪の旅に出ます。旅の途中、怪物とのナゾナゾ勝負に勝ったエディプスは、その国で王を亡くして未亡人になっていたお后と結婚し、新しい王となったのです。しかし、それはエディプスの生まれ故郷。結婚してしまったお后が実の母親であり、放浪の途中で殺した男が実の父親であったことを知って絶望したエディプスは、悲しい最期を遂げる、というお話です。

 父親を殺し、母親と結婚するというエディプス王の話は、気持ちの良い話ではありませんが、初めてこの話を読んだり聞いたりした時、心を強く揺さぶられませんでしたか?

 父親を殺し、母親と結婚するというのは極端ですが、フロイトによると、母親に性的な憧れを感じ、父親を憎むという気持ちは、5歳頃の男の子に、程度の差はあれ、皆、芽生えるもので、これをフロイトは「エディプス・コンプレックス」と名付けました。通常、このコンプレックスは小児期に解消されますが、時には、解消できないまま、大人になってしまうことがあります。

■エディプス・コンプレックスが解消されない原因は…?

 5歳頃の男の子に、母親に性的に憧れて父親を憎む「エディプス・コンプレックス」が芽生えても、通常は小さく弱い自分と大きく強い父親を比べて、到底、父親の代わりにはなれないと悟り、母親への憧れを諦めます。

 しかし、夫婦の関係が悪く、いつも口論が絶えないといった環境では、男の子は父親を軽蔑するようになり、男の子の心の中に、父親としての役割が生じやすくなります。また、夫婦が離婚したり、夫が死別したりといった父親不在の状況では、母親と子供の絆が強くなり過ぎるかもしれません。

 さらに、子供が就学期に入って、夫は仕事で忙しく家庭を顧みない、妻は息子の教育にかかりっきりという状況では、子供の心の中に、エディプス・コンプレックスが残りやすくなるのです。これがいわゆる「マザコン」の誕生です。

■マザコンは治る?治らない?

 そもそも、マザコンは治る?治らない?と言ってしまうと、マザコンがれっきとした心の病気のようですが、幸い、心の病気の診断項目までには入っていません。でも、マザコンは男女の関係を壊してしまいますので、重大な心の問題には違いありません。

 マザコンの男性は、子供の頃に解決されるべきである、エディプス・コンプレックスが解決されないまま、大人になってしまっているので、このコンプレックスを解決するには時間が必要です。また、本人には自分がマザコンという自覚が無く、妻と母親の間でジレンマに陥っていっていることもあるかもしれません。

 そうした場合は、本人にマザコンである事を気付かせ、それがどういったトラブルを起こしているのかを自覚させなくてはなりません。彼の心の中には、夫と妻、母親と息子という2つの家族が存在しています。彼が母親との間に線を引いて、妻を取ることができるのか…。難しい問題です。

 結婚する前には、彼がマザコンがどうかチェックしてみましょう!母親と彼と、3人で会ってみて、彼が母親の前で、息子として振舞っているのか、それとも、恋人として、振舞っているのか?彼が素敵に思えたら良いのですが、もしも、そうでなかったら…。女の眼力で、見破ってくださいね。

「DNA確度低く、自白必須」 足利事件の地検内部資料

2009年10月19日 05時47分31秒 | 許すな冤罪事件
2009年10月19日3時0分朝日COM

 90年に女児(当時4)が殺害された「足利事件」で、再審開始が決定した菅家利和さん(63)について、宇都宮地検が捜査段階で、DNA型鑑定の確度が低いため「自白」がなければ逮捕できないという方針を警察に示していたことが、朝日新聞が入手した内部資料でわかった。

 菅家さんが一審公判の途中で足利事件について否認に転じた際、検事が再び「自白」を迫ったことが取り調べを録音したテープで明らかになっているが、DNA型鑑定の確度が低いという認識を持ちながら「君と同じ体液を持っている人が何人いると思っているの」などと追及していたことになる。弁護団は誘導的な取り調べがあったとして、録音テープを「法廷で再生すべきだ」と主張、21日から始まる再審公判で証拠として調べるよう求める方針だ。

 朝日新聞が入手した内部資料は、一審公判中の92年3月に、宇都宮地検が上級庁あてに作成した捜査報告書。弁護側がDNA型鑑定の信用性に疑問をさしはさんで証拠採用に同意しなかったため、公判に鑑定人を呼んで証人尋問する直前の時期だった。

 捜査報告書の中で、地検は菅家さんを逮捕・起訴する前の捜査の経過を記載。DNA型鑑定の結果が「確率としては1千人に1.244人」と低かったため、「ただちに被告人を検挙するには問題が残る」として、警察に「被告人を任意で調べて自供が得られた段階で逮捕するよう指示した」と書かれていた。

 捜査報告書にはまた、DNAの構造に関して「現在では高校の教科書にも出てきているが、26年も前に高校を卒業した検事は学校で学んだことがなく、目下、高校生物の受験参考書を買い求めて悪戦苦闘中」と、知識の浅さを告白するような記述もあった。

 92年12月8日の取り調べを録音したテープでは、前日に突然否認に転じた菅家さんに対し、検事が「DNA鑑定で君の体液と一致する体液があった」と、「自白」を迫り、菅家さんが「絶対に違うんです」と反論すると、検事が「君と同じ体液を持っている人が何人いると思っているの」と問いつめ、「自白」させる様子が録音されていた。

加藤和彦さんが自殺 軽井沢

2009年10月17日 16時04分55秒 | Rock 音故知新
2009年10月17日15時17分朝日COM

 17日午前9時25分ごろ、長野県軽井沢町のホテルの部屋で、作曲家で音楽プロデューサーの加藤和彦さん(62)が、首をつって死んでいるのを、ホテルからの通報で駆けつけた軽井沢署員が発見した。調べでは、加藤さんは16日に同ホテルに入った。

 加藤さんの元バンド関係者は同日午後、取材に対し、「加藤さんが亡くなったというメモを先ほど受け取ったところだ」と話した。

     ◇

 加藤さんは京都府出身。学生時代にフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成し、67年に発表した「帰って来たヨッパライ」が大ヒット。朝鮮半島の南北分断の悲劇に題材をとった「イムジン河」が発売中止になり、話題なった。69年にグループ解散後も「あの素晴らしい愛をもう一度」などのヒット曲を手がけた。72年にはロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」を結成し、海外でも高い評価を得た。

ムソリーニは英スパイだった=ファシストに意外な過去

2009年10月16日 07時18分55秒 | 歩く印象派
2009年10月14日(水)20:03
 英紙ガーディアン(電子版)は14日、第2次大戦中のイタリアの独裁者ムソリーニが一時期、英国のスパイとして働いており、報酬として週100ポンドを受け取っていたと報じた。ケンブリッジ大の歴史家ピーター・マートランド博士の研究で明らかになった。

 同紙によると、第1次大戦末期の1917年秋、革命を受け戦線を離脱したロシアにイタリアが続くことを恐れた英国は、当時ジャーナリストだったムソリーニに接近。報酬を与えムソリーニ編集の伊紙「ポポロディタリア」で戦意高揚の報道を続けさせた。当時の100ポンドは、現在の6000ポンド(約85万円)に相当するという。