All Things Must Pass

森羅万象 ~ 歩く印象派

F本観光ツアー 今回は西表島でモズク採り

2008年04月11日 21時06分52秒 | 沖縄の旅
オサムさん、F本さんと西表島に来ています。西表まで来て何しているのかのかというとモズクを漁っているのです。山菜、キノコに飽き足りないオサムさんが沖縄の海でも、ついに採集活動を始めた記念すべき日であります。採ったモズクは20%の塩水で保存すればかなり日持ちするそうです。

上の写真はF本観光のスイムウェアでモズクの海水を絞っているところ。
ところでなんで西表まで来てモズクを採取しているのかって?
続きは今夜UPします。

沖縄でF本観光危機一髪?

2007年12月06日 05時22分50秒 | 沖縄の旅
F本&OQコンビが那覇港市場近くで散歩中に上記の看板に出くわした。
          ↓
        訂正:OQ氏はいっしょではありませんでした。

調べてみるとこいつは爬虫類 有鱗目ヘビ亜目 コブラ科に属している。コブラの仲間なんだ!毒はハブ毒の10倍以上!
しかし、本種の性質は非常に大人しく、また、毒は奥歯にあり、口も小さいため、咬まれる被害はほとんど起こっていないんだそうだ。やれやれF本&OQコンビはイラブーとのニアミスもなく無事に帰ってきた。このイラブー、沖縄周辺だけに生息しているのかと思ったら近年では、九州や四国、本州の南岸でも生息が確認されているとい。これも温暖化の影響か。

こっちの写真だとおとなしい顔つきがよくわかる。R家のP君の方が獰猛かもしれない(?)



F本観光で行く沖縄もこれで4度目だ(その3)

2007年11月18日 08時41分11秒 | 沖縄の旅
沖縄座間味島近くのお天気だが午後は波が高いらしく、高速船も午後便は早々と欠航が決まった。つまり午前便は出航OKというわけである。今回は無事に帰れることが決まりホッとした次第である。順調に行けば今夜の押上のRockBottomにも立ち寄れそうだ。→立ち寄ることは立ち寄れたが、「島バテ」(遊びすぎ?)と寒さでダウンしてしまい、suzuさん、ヒロキたちにお会いできずに退散となった。自宅には7時着。

F本観光で行く沖縄もこれで4度目だ(その1) 

2007年11月17日 01時29分55秒 | 沖縄の旅
なんだか、灯台が横倒しになってしまったが、ケータイからの送信なのでご容赦ください。(帰ったら直します。)
オサムさん、OQ氏らとともに今回もF本観光のお世話で沖縄に来ている。
本日は、タクシーを借り切って普天間基地や嘉手納基地をぐるっと回り、やむちんの里で陶芸の修行に励むユキちゃんと対面し残波岬で東シナ海を眺めてきた。そして、夜はインターリュードでヨセヤマスミコさんのJAZZを聴き、先ほどホテルに帰ってきたところ。明日は座間味に渡ります。


※mamaさんへ。今のところ私は「割り勘負け」してません。
食べたものは、帰った後、一挙掲載します。

<インフルエンザ>沖縄で流行続く…感染症研が警戒呼びかけ

2007年10月31日 01時38分20秒 | 沖縄の旅
10月30日11時39分配信 毎日新聞

 毎年夏にインフルエンザが流行する沖縄県で、現在も流行が収束していないことが国立感染症研究所のまとめで分かった。同研究所は「過去に例のない状況で、今後の予測がつかない。他地域に影響する可能性もあり、注意が必要だ」と警戒を呼びかけている。

 都道府県ごとにまとめたインフルエンザとみられる患者数を医療機関数で割った「定点当たり報告数」によると、10月8~14日は、沖縄県が全国で唯一1.0人を超え、昨年同期(0.03人)の200倍以上にあたる6.02人。2番目の愛知県(0.18人)などを大きく上回っている。さらに9月3日~10月14日までの定点当たりの累積報告数でも、沖縄県は全国で唯一100人を超えて2015人と突出している。

 インフルエンザの定点当たり報告数は例年、九州・沖縄が他の地方よりも多く、春の大型連休と夏休みの時期にピークを迎え、8月に入ると収束していた。今年も同時期にピークを迎えた後、患者数は減少に向かったが、収束には至らないまま新たな流行シーズンを迎えようとしている。

 国立感染症研究所感染症情報センターの安井良則主任研究員は「沖縄で流行が収束しないのは今年の大きな特徴。全国的な流行は11月に始まるので、これから十分警戒してほしい」と話している。【関東晋慈】

>えっ、そうなの?

沖縄 自決しなかった祖父 慰霊の日に13歳孫が詩を朗読

2007年06月25日 12時32分08秒 | 沖縄の旅
6月23日17時31分配信 毎日新聞

沖縄 自決しなかった祖父 慰霊の日に13歳孫が詩を朗読

拡大写真

式典での朗読が決まった日、匹田さんは「祖父の体験を語り継ぎたい」と話した=那覇市国場の沖縄尚学付属中で、野田武撮影
 沖縄戦戦没者慰霊の日の23日、沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和の礎(いしじ)では、早朝から遺族たちが次々に訪れ、祈りをささげた。だが「鉄の暴風」から62年を経て、地獄絵さながらだった集団自決を巡って高校の歴史教科書が書き換えられ、波紋が広がる。安倍晋三首相も参列した戦没者追悼式では、集団自決があった慶良間列島の座間味(ざまみ)島で米軍に投降した「14歳の祖父」に寄り添い、13歳の孫が平和を誓う詩「写真の中の少年」を読み上げた。
 同県浦添市に住む沖縄尚学高付中2年、匹田(ひきた)崇一朗さん(13)。小学5年だった04年、母が「おじいさんが写ってるよ」と一冊の写真集を見せてくれた。そこには、05年に76歳で亡くなった祖父、松本忠芳さんの若い日の姿があった。
 1945年3月27日、投降を促され、当時14歳の忠芳さんが母親や親せきら二十数人とともにガマ(壕(ごう))を出た直後に米軍が撮影した1枚。匹田さんは忠芳さんがぽつりぽつりと語る言葉に耳を傾けた。
 詩は、祖父の思いを紡ぐ。
 <やっとの思いで入れてもらった親戚(しんせき)の防空壕 泣きじゃくる赤ん坊の口をふさぎ 息を殺して奴(やつ)の通り過ぎるのを祈った>
 モノクロ写真に写る14歳の祖父は、恐怖と絶望感に震えてうつむいていた。想像もしなかった、62年前に祖父に起きた出来事。当時の祖父に近い年齢になった今年「詩に書きたい」と思った。
 <壕の外でアメリカ兵の声 『出て来い』と叫んでいる 出て行くと殺される 『もう終わりだ』 少年は心の中でつぶやいた>
 住民は「捕虜になったら男は八つ裂きに、女は強姦(ごうかん)される」と聞かされていた。狭い島に逃げ場はなく、米軍上陸後、住民約800人のうち200人近くが自ら、そして家族の命を絶ったとされる。忠芳さんは「このままいても殺されるだけ」と先頭に立って出ていった母に命を救われた。
 <だから今の僕がいる 命のリレーは 祖父から母へ 母から僕へとつながった>
 「戦争は怖い。でも、自分の命を守るために皆必死で生きていた」。忠芳さんの体験談から感じた匹田さんは、詩の最後をこう結んだ。
 <少年から聞いたあの忌まわしい戦争の話を 風化させることなく 語り継いでいこう>
【上野央絵】

沖縄「死の真相は強制」 県資料館「自決」は使わず

2007年06月24日 07時23分28秒 | 沖縄の旅
写真:沖縄県平和祈念資料館(昨年11月訪問時撮影)
2007年06月24日06時56分朝日COM

 沖縄戦の際、日本軍が住民に「集団自決」を強制したという記述が教科書検定で削除された。一方、この戦争で最後の激戦地となった糸満市摩文仁(まぶに)にある県平和祈念資料館では「集団自決」ではなく、「強制による集団死」という言葉を使って展示をしている。住民の死の実相を伝えるには、その方がふさわしいとの考えからだ。なぜか。来館者らは何を思うのか。

 沖縄戦終結の日とされる「慰霊の日」の23日。沖縄全戦没者追悼式が開かれた平和祈念公園の一角にある資料館には、大勢の人が訪れた。00年4月に開館した、まだ新しい建物だ。

 「集団死」に関する常設展示は2階にある。「日本軍の強制による集団死」との説明があり、現場近くで見つかったという、さびた刃物やカミソリ、手投げ弾が並ぶ。首の後ろの傷跡を見せている人の写真には「集団死をはかった時の傷跡が残る」との説明が付けられ、「集団死の現場から米軍に保護された人々」という写真もある。

 75年に建てられた旧資料館は「集団自決」と説明していた。だが、新資料館建設の際、これが問題になった。

 展示内容に関する監修委員の一人だった石原昌家・沖縄国際大教授(社会学)は「『集団自決』とは軍人が責任を取って自殺すること。軍人ではない女性や子ども、お年寄りが責任を取ることはあり得ない。『強制による集団死』との表現がふさわしいと主張した」と振り返る。

 こうした議論を踏まえて、資料館の設立理念の文言も一部変更された。旧資料館では、「ある者は追いつめられて自ら命を断ち」と「自決」を意味する表現があった。その部分を「自ら命を断たされ」と受け身の形に改め、強いられた死であったことを明確にした。

 資料館は、「集団死」の経緯と背景について、こう説明している。

 日本軍は、住民と同居し、陣地づくりなどに動員した。住民の口から機密が漏れるのを防ぐため、米軍に投降することを許さなかった。迫りくる米軍を前に「軍民共生共死」の指導方針をとったため、戦場では命令や強制、誘導により親子、親類、知人同士が殺しあう集団死が各地で発生した。その背景には、「天皇のために死ぬ」という国を挙げての軍国主義教育があった。

 この日、沖縄キリスト教学院大の学生3人が資料館を訪れた。平和を願い、学生約20人で折った千羽鶴を届けるためだ。「集団自決」を巡る教科書検定について、「なぜ事実を載せないのか。許されない」と怒った。

 糸満市の福田純安さん(70)は「(集団自決の際に)軍が組織として命令を下したのか、一人の軍人が手投げ弾を渡したのかにこだわっても仕方がない。住民は従うしかなかったのだから。教科書の記述は元に戻した方がいい」と話す。

 「検定意見は事実を隠そうとしている。起きたことを認めて事実を教えるのが大切だ」と話したのは中城村の大学生、座間味江梨さん(20)。大学に出すリポート作成のため、沖縄戦体験者の証言を聴こうと資料館を訪れた。「当時の教育の力が集団死に追い込んだ。自殺に追い込まれた住民にとっては『集団自決』よりも『強制集団死』という言葉が適切だ」

 資料館には「住民から見た沖縄戦」というコンセプトがある。宮城智子館長は話す。「住民の証言は重みがある。日本軍の強制による集団死の事実は否定できない」

慶良間諸島の集団自決は日本軍の命令~米軍公文書発見 2006/10/07

2007年06月23日 22時20分27秒 | 沖縄の旅
右傾化が進む日本社会で、歴史的な事実までも捏造されていることが分かった。3日付け『沖縄タイムス』朝刊一面トップ記事は、関東学院大学の林博史教授がアメリカ公文書館で発見した『慶良間列島作戦報告書』で、日本軍が住民に対して「集団自決」を命令していた、と報道している。

 沖縄戦では慶良間諸島や伊江島などで集団自決は確かにあり、その事実は否定できない。住民を自決に追い込んだことが問題なのに、最近は「軍命があったかどうか」だけを議論し、その結果「軍命否定」の動きだけが活発化していた。

 慶良間諸島は渡嘉敷村と座間味村を構成する大小20の島々からなる。沖縄戦では米軍が最初に上陸(1945年3月26日)したのが慶良間諸島である。集団自決は座間味村で358人、渡嘉敷村で329人と記録されている(『沖縄大百科事典』)。

 林教授が発見した資料(報道)によると、慶良間の住民を男女別に収容し尋問した結果として「3月21日に、日本兵が慶留間(けるま)の島民に対して山中に隠れ、米軍が上陸してきた時には自決せよと命じたと繰り返し語っている」と記述されている。

 米軍は慶良間諸島を占領したあと、「米国海軍軍政府布告第1号」(ニミッツ布告)を公布し、”南西諸島における最高行政の責任は占領軍司令長官にある” として、日本のすべての権限の停止を宣言している。占領政策のスタートだ。その米軍が行った調査だけに貴重な記録である。

 日本軍の命令を否定する作家らは「軍命の証拠がない」ことを根拠にし、沖縄タイムス社発行の『鉄の暴風』は単なる伝聞に過ぎないと断定。その記述を引用した沖縄戦関係の書籍を間違いと糾弾していた。

 作家の曽野綾子は『日本軍の住民自決命令はなかった 集団自決の真実』を著し、その帯には「大江健三郎氏の『沖縄ノート』のウソ」と批判している。『沖縄ノート』は『鉄の暴風』からの引用で確実な証拠はない、としている。

 小さな島でお互いに肩を寄せ合って生活しいる住民は戦後、多くを語らなかった。それだけに「軍の命令はなかった」という言葉だけが勢いよく語られることになった。今回の資料発見は右傾化していく日本社会にも一石を投じる、貴重なものである。

(比嘉康文)