農業じゆう人

     健康を第一に無農薬で
          安心・安全・新鮮な野菜作りに励んでいます!

相撲は両国?

2015年02月11日 15時22分02秒 | 話題
 両国技館正式には技館と表示>)(東京都墨田区)が今年の1月で開館30周年を迎えたそうだ! 
 その大相撲初場所では白鳳が大鵬の記録を超す「33回目の優勝」を果たした。
 そんな先日のニュースを見て・・ふと思った。 単純に“相撲ってなぜ両国なの?”なぁ~んて
       
  調べてみると、相撲は両国から引き離されても必ず帰ってくるという不思議な縁があるようです
  「東京では、相撲といえば国技館・・国技館といえば両国と決まっていた」とか(墨田区史 1979年)
  相撲と両国の“出合いの場”は、国技館から南へ約400㍍の「回向院」  聞いたことあります?
    ご存知の方は勝負事がお好きな方では・・? ここには鼠小僧次郎吉の墓があります
    この鼠小僧の墓石の欠片をもっていると勝負運が強くなるとかいわれています
    私もこちらの地域を担当していた時に“欠いてきてくれ”なんて諸先輩から頼まれました
    私は勝負事はしないので関係なかったですが、よく頼まれました

  社寺への寄付を募る名目で各地で開催された「勧進相撲」が、1768年に初めて回向院で開かれた
  回向院は10万人を超すとされる明暦の大火(1657年)の犠牲者を弔うため、直後に創建された
  江戸防備のため橋をかけなかったことが被害を広げたことから、武蔵と下総を結ぶ「両国橋」も
   つくられたことから両国の地名が生まれたとされています。

  両国と相撲の関係を強めたのが、1833年に回向院が勧進相撲の「定場所」に決まったこと・・?
   これ富岡八幡宮(江東区)や芝明神(港区)など他にも興業実績はあったそうです・・が
  富岡八幡宮の権禰宜(松木伸也さん)さんによれば「興業を考えた時の賑わいぶりは両国が上だった」と
  隅田川の案内板も、火よけ地として設けられた両国広場を「江戸随一の盛り場」と説明している
   明治期に入り、雨天順延のない初の常設館が建てられたのも両国なんだそうです・・。
  千代田区にある日比谷公園や靖国神社付近も検討されたが、話しがまとまらないうちに、
   両国に限るという要望が強くなった。(相馬基著「相撲百年」)と書かれています
  1909年、洋風建築の国技館が回向院そばの学校跡地に誕生したそうです。
  「世人の驚異と関心は、国技館の名と共に、両国の町を一躍全国的に有名にしてしまった」(同)

   初代の国技館は何回か悲運に見舞われているようです。
    ”17年に失火で全焼し、相撲は靖国神社へ移転。 再建後も関東大震災で焼け、
    戦時中の”44年には風船爆弾の工場となり、東京大空襲でも被災した・・など
   戦後は進駐軍が接収、相撲は46年11月を最後に両国を離れて・・・
    明治神宮外苑(新宿区)浜町公園(中央区)を経て、50年に蔵前(台東区)に移ったそうです。
   
    繰り返し両国を離れた相撲。 蔵前国技館の老朽化による移転先選定では・・
      東京デズニーランドや後楽園球場の周辺も浮上したんだそうですが、
      決着したのは両国駅の旧国鉄操車場跡になったようです・・。
     「やはり両国に帰りたかったんですネ」と・・相撲博物館芸術員の解説

                ・           ・
    ○富岡八幡宮は1684年に幕末の公許を得た江戸勧進相撲の発祥の地
      歴代横綱の名を刻んだ横綱力士碑があり、両脇の陣幕、不知火両横綱の
      顕彰碑には「安政四年正月両国回向院」での勇姿が彫られています。
    ○横綱力士碑は陣幕が1900年に建立したそうです
      横綱でもない「無類力士 雷電為右衛門」も刻まれている。
      薩摩藩お抱え力士だった陣幕の人脈は広く、協賛者として歴代首相らに加え、
      清の政治家、李鴻章の名も刻まれています。

    富岡八幡宮の力士碑は約20㌧の巨石ですぐにわかりますョ (時間がありましたらどうぞ)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。