家の中で履くスリッパ、学校で履き替える上履きは・・日本生まれなんだそうです・・。
山形空港から車で最上川を渡り約15分。 スリッパの日本一の産地、河北町があるそうです
「阿部産業」(阿部社長)の看板商品は、地元に伝わる絹100%の米沢織を使った「KINU HAKI」だ
1足1万8千円から。 足を入れると、つかず離れずのフィット感とつるりとした履き心地が
大変気持ちよいそうです。 モダンな和のデザインは海外展開を意識したものだそうです。
安い輸入品の流入で、1990年代以降多くの同業者が廃業に追い込まれたそうです。
41年のキャリアを持つ工場長を筆頭に高度な技術を持つ人材を生かして「最高級のスリッパと
日本の生活文化を世界に発信していきたい」と社長は意気込んでいるそうだ。
部屋履きのスリッパは外国製品と思いがちだが「日本生まれの履物です」と話すのは、
日本はきもの博物館 (現・松永はきもの史料館)の元学芸員の“武知邦博さん”
生い立ちは明治初期にまでさかのぼるそうです・・。
19世紀に開国した日本に、西洋の先進技術を伝えるため多くの「お雇い外国人」がやって来た
そうで、当時は西洋式の宿舎が十分でなく、旅籠や神社が宿泊先になったんだそうです。
だが西洋人は人前で靴を脱ぐ習慣がなく、畳の間に土足で入ろうとしてトラブルになった。
困った横浜の居留地外国人が、東京で仕立屋を営む“徳野利三郎氏”に、靴の上から履く
オーバーシューズを作るように依頼。 世界中で見たこともないその履物を、手持ちの材料と
想像で徳野氏が作ったのが1868年のこと(上の図・左上)。
“福沢諭吉”は著書「西洋衣食住」(67年)で、西洋人が家の中で上草履のように使う靴に近い
履物を「上沓」「スリップルス」と紹介しているそうです。
世界第一号のスリッパは現存しないそうですが、徳野氏の孫“康彦氏”の話を元に武知さんが
図に復元した。 足の甲の部分の素材はビロードやラシャで、古い畳表を重ねて和紙で補強
外底に帆布を張ったというもの? 形は今のスリッパとほとんど変わらないそうです。
1900年前後からは都市の上流階級に広がったんだそうです。
「洋館のモダンな暮らしで、西洋的な履物として使いはじめた」のがはじまり・・。
ただし、日本人は靴の上からではなく、素足で履いたんだそうです。
日本人独自のスリッパの使い方が・・ここから始まった!といわれているそうだ!
昭和に入り東京・浅草などで製造が広がったそうだが、第2次世界大戦で工場が打撃を受け・・
スリッパが再度広がったのは戦後になっての50年代なってからだそうです。
ダイニングキッチンを備えた団地や、来客をもてなす洋風の「応接室」の出現が背景だとか?
では「靴を室内で履くという西洋文化が日本の家の玄関という関所を越えられなかった」のは
日本の近代史が専門の“内田・神奈川大教授”は「日本人は古代から住まいの床を地べたと
区別してきた」とし、土足で家に上がることへの抵抗感が強いと話しています。
脱ぎ履きやすい草履や下駄と同じく「スリッパは靴ほど足に密着しないため、日本の暮らしに
マッチした」という。
日本のスリッパが世界に羽ばたいたきっかけの一つが、航空会社の機内サービスなんだそうだ?
日本航空は70年代にファーストクラスの乗客らに機内専用のスリッパの提供を始めたそうだ
全日空は80年代半ばからだそうだ。世界の機内履きの主流は長らくソックスだったが・・
現在は欧米、アジアや中東など各地の航空会社に広がっているそうです。
一方、日本独自の上履きといえば学校で履くバレーシューズがあります
メーカーのムーンスター(福岡県久留米市)本社と、隣にあるつきぼし歴史館の史料でみると、
27年(昭和2年)に「児童用前ゴム靴の製造開始」の記録があるそうだ。
甲の部分にゴムをはめ込んだ「上履きの前身とみられる」 (同社・商品開発課“柴田さん”談)
バレエのトウシューズをヒントにしたひも付き靴「バレーシューズ」が評判となったのは
56年のことだそうだ。 当時の資料に「女子学生に人気、上履きに最適」との説明文が残る。
ひもはゴムへと簡素化され、つま先とソールの外周に赤や青など色をつけた、現在の学校用
上履き「スクールカラー」に進化したのは64年だそうです。
このバレーシューズはさらに思わぬ進化を遂げているそうです。
病院の入院患者や介護施設の利用者がひそかに履くようになったためなんだとか・・?
2013年に発売した「大人の上履き」は子供っぽさを排除し、合皮製のラインも用意する。
洋式化した生活のなかで、独自に生まれたスリッパ、上履き・・
これらはもはや日本人の体の一部なのかもしれませんネ
山形空港から車で最上川を渡り約15分。 スリッパの日本一の産地、河北町があるそうです
「阿部産業」(阿部社長)の看板商品は、地元に伝わる絹100%の米沢織を使った「KINU HAKI」だ
1足1万8千円から。 足を入れると、つかず離れずのフィット感とつるりとした履き心地が
大変気持ちよいそうです。 モダンな和のデザインは海外展開を意識したものだそうです。
安い輸入品の流入で、1990年代以降多くの同業者が廃業に追い込まれたそうです。
41年のキャリアを持つ工場長を筆頭に高度な技術を持つ人材を生かして「最高級のスリッパと
日本の生活文化を世界に発信していきたい」と社長は意気込んでいるそうだ。
部屋履きのスリッパは外国製品と思いがちだが「日本生まれの履物です」と話すのは、
日本はきもの博物館 (現・松永はきもの史料館)の元学芸員の“武知邦博さん”
生い立ちは明治初期にまでさかのぼるそうです・・。
19世紀に開国した日本に、西洋の先進技術を伝えるため多くの「お雇い外国人」がやって来た
そうで、当時は西洋式の宿舎が十分でなく、旅籠や神社が宿泊先になったんだそうです。
だが西洋人は人前で靴を脱ぐ習慣がなく、畳の間に土足で入ろうとしてトラブルになった。
困った横浜の居留地外国人が、東京で仕立屋を営む“徳野利三郎氏”に、靴の上から履く
オーバーシューズを作るように依頼。 世界中で見たこともないその履物を、手持ちの材料と
想像で徳野氏が作ったのが1868年のこと(上の図・左上)。
“福沢諭吉”は著書「西洋衣食住」(67年)で、西洋人が家の中で上草履のように使う靴に近い
履物を「上沓」「スリップルス」と紹介しているそうです。
世界第一号のスリッパは現存しないそうですが、徳野氏の孫“康彦氏”の話を元に武知さんが
図に復元した。 足の甲の部分の素材はビロードやラシャで、古い畳表を重ねて和紙で補強
外底に帆布を張ったというもの? 形は今のスリッパとほとんど変わらないそうです。
1900年前後からは都市の上流階級に広がったんだそうです。
「洋館のモダンな暮らしで、西洋的な履物として使いはじめた」のがはじまり・・。
ただし、日本人は靴の上からではなく、素足で履いたんだそうです。
日本人独自のスリッパの使い方が・・ここから始まった!といわれているそうだ!
昭和に入り東京・浅草などで製造が広がったそうだが、第2次世界大戦で工場が打撃を受け・・
スリッパが再度広がったのは戦後になっての50年代なってからだそうです。
ダイニングキッチンを備えた団地や、来客をもてなす洋風の「応接室」の出現が背景だとか?
では「靴を室内で履くという西洋文化が日本の家の玄関という関所を越えられなかった」のは
日本の近代史が専門の“内田・神奈川大教授”は「日本人は古代から住まいの床を地べたと
区別してきた」とし、土足で家に上がることへの抵抗感が強いと話しています。
脱ぎ履きやすい草履や下駄と同じく「スリッパは靴ほど足に密着しないため、日本の暮らしに
マッチした」という。
日本のスリッパが世界に羽ばたいたきっかけの一つが、航空会社の機内サービスなんだそうだ?
日本航空は70年代にファーストクラスの乗客らに機内専用のスリッパの提供を始めたそうだ
全日空は80年代半ばからだそうだ。世界の機内履きの主流は長らくソックスだったが・・
現在は欧米、アジアや中東など各地の航空会社に広がっているそうです。
一方、日本独自の上履きといえば学校で履くバレーシューズがあります
メーカーのムーンスター(福岡県久留米市)本社と、隣にあるつきぼし歴史館の史料でみると、
27年(昭和2年)に「児童用前ゴム靴の製造開始」の記録があるそうだ。
甲の部分にゴムをはめ込んだ「上履きの前身とみられる」 (同社・商品開発課“柴田さん”談)
バレエのトウシューズをヒントにしたひも付き靴「バレーシューズ」が評判となったのは
56年のことだそうだ。 当時の資料に「女子学生に人気、上履きに最適」との説明文が残る。
ひもはゴムへと簡素化され、つま先とソールの外周に赤や青など色をつけた、現在の学校用
上履き「スクールカラー」に進化したのは64年だそうです。
このバレーシューズはさらに思わぬ進化を遂げているそうです。
病院の入院患者や介護施設の利用者がひそかに履くようになったためなんだとか・・?
2013年に発売した「大人の上履き」は子供っぽさを排除し、合皮製のラインも用意する。
洋式化した生活のなかで、独自に生まれたスリッパ、上履き・・
これらはもはや日本人の体の一部なのかもしれませんネ