シャーロック・ホームズといえば、架空の人物とは言え誰もが知っている名探偵で、
わずかな物証から入念な観察と鋭敏な頭脳をもって、
ことどとく精度の高い推理を下すことの出来る人物であります。
そのホームズでさえ、自分の推理を証明するための証拠探しに労を惜しまないのに、
日本の裁判所は「推認」ってだけで判決を下すんですね。
民主党の元代表、小沢一郎氏の元秘書らの陸山会に関する裁判について、
法の素人である自分が大きな問題だと考えている点は、大きく二つです。
1, 推定無罪の原則が働かないこと
推認という言葉が使われていますが、状況証拠だけで、
完結するストーリーを裁判官が妄想できさえすれば有罪が成立するという、
疑わしきは罰しないどころか恣意的に罪人が作られるかもしれない危険。
いや、もしくは、形式的な妄想のステップさえ必要ないかもしれません。
痴漢のえん罪みたいだと言う人もいますが、その通りで、
痴漢を証拠で立証するのは難しく、被害者の訴えと状況証拠に頼るところが大きい。
そうでないと泣き寝入りする被害者が続出してしまう故なのでしょうが。
代わりに、そこで多くのえん罪が発生もしてきたわけです。
それを見直さなければいけないというのが、世の中の動きだと思ってましたが。
証拠が足りないなら、少ない材料から俺が考える!
みたいなことが裁判の判断としてまかり通ってしまっていいのでしょうか。
痴漢の場合のような、特殊な状況に於かれた事件でしたでしょうか、
この収支報告書の記載ミスを巡る裁判は?
そんな妄想ストーリーが判決の根拠になってしまっていいんですか。
夫の浮気を見抜く主婦の方が、もっとまともで秩序だったストーリーを
組み立てられるんじゃないかとさえ思えるのですけれどね。
2, 天の声だの裏金だのはカンケーないだろってこと
しかもですよ、状況証拠から妄想して導き出した、
大罪のように言われる「天の声」「裏金」というのは、
今回の裁判にほとんどカンケーないことでしょう?
いやいや、そこまで踏み込んだことに意味があるとか言う人もいますが、
そんなアホなことがあるんでしょうかね。
記載ミスについて有罪に値するかを問うことがこの裁判の本分であるのに、
そしてもちろん有罪となった罪状というのは、記載ミスのはずなんですが、
逆にそのことについての言及は、判決も大マスコミの報道も国民の反応も、
きわめて薄くないですか。
「天の声」「裏金」まで踏み込んだ認定をするほどの、
悪を裁いてやるって意気込みも結構ですけれども、
今回の仕事は記載にミスがあったか、有罪に値するかどうかだけであって、
裏金があったかどうか、天の声があったかどうか、
それで利益誘導したかあるいは自分が不当な利益を得たか、
その認定など全く関係ないはずです。
なのに、そこに重点を置いた判決文ならびに報道・評価になるというのは、
明らかに論点をずらしていると思うのです。
言っておきますが、自分は確かに小沢氏を評価し期待してはいますが、
そのことは今回の判決に対する嫌悪感とは関係はしていないことは断言できます。
その判決のプロセスと思考に大いなる不正義を感じるということです。
一方で、世の中的に、法に携わる人も含め、その評価・納得の仕方には、
「だって小沢一郎だから、悪いヤツだから、これでいいのだ」的なものが
あるように思えるのです。
「政治とカネ」が断罪されたとか、悪い政治家の小沢一郎が裁かれたとかで評価し、
裁判のあるべきカタチみたいなものはどこかに追いやられているようです。
悪いから、ではなく、悪いに決まってるから、を罰することがありきのようですが、
そういうムードって、魔女狩りの狂気みたいなものなんじゃないでしょうか。
中世ヨーロッパに生きたことないから知りませんけど。
この判決に賛成というか、小沢一郎だから裁かれて当然と考える人たちこそ、
小沢氏は悪いヤツに違いないという偏見に目が曇っているに違いありません。
こんなの判決じゃないでしょう。
いいがかりですよ。
この判断に異を唱える声が弁護士連中からたくさん挙がるのではと思ったところ、
意外にそうでもないのか、それどころかかえって、思い切って踏み込んだと、
推認するしかない状況でよく判断したと評価したりしてることも多いようで。。
自分の正義感とか価値観って、そんなに世間とズレてるんですかねえ。
わずかな物証から入念な観察と鋭敏な頭脳をもって、
ことどとく精度の高い推理を下すことの出来る人物であります。
そのホームズでさえ、自分の推理を証明するための証拠探しに労を惜しまないのに、
日本の裁判所は「推認」ってだけで判決を下すんですね。
民主党の元代表、小沢一郎氏の元秘書らの陸山会に関する裁判について、
法の素人である自分が大きな問題だと考えている点は、大きく二つです。
1, 推定無罪の原則が働かないこと
推認という言葉が使われていますが、状況証拠だけで、
完結するストーリーを裁判官が妄想できさえすれば有罪が成立するという、
疑わしきは罰しないどころか恣意的に罪人が作られるかもしれない危険。
いや、もしくは、形式的な妄想のステップさえ必要ないかもしれません。
痴漢のえん罪みたいだと言う人もいますが、その通りで、
痴漢を証拠で立証するのは難しく、被害者の訴えと状況証拠に頼るところが大きい。
そうでないと泣き寝入りする被害者が続出してしまう故なのでしょうが。
代わりに、そこで多くのえん罪が発生もしてきたわけです。
それを見直さなければいけないというのが、世の中の動きだと思ってましたが。
証拠が足りないなら、少ない材料から俺が考える!
みたいなことが裁判の判断としてまかり通ってしまっていいのでしょうか。
痴漢の場合のような、特殊な状況に於かれた事件でしたでしょうか、
この収支報告書の記載ミスを巡る裁判は?
そんな妄想ストーリーが判決の根拠になってしまっていいんですか。
夫の浮気を見抜く主婦の方が、もっとまともで秩序だったストーリーを
組み立てられるんじゃないかとさえ思えるのですけれどね。
2, 天の声だの裏金だのはカンケーないだろってこと
しかもですよ、状況証拠から妄想して導き出した、
大罪のように言われる「天の声」「裏金」というのは、
今回の裁判にほとんどカンケーないことでしょう?
いやいや、そこまで踏み込んだことに意味があるとか言う人もいますが、
そんなアホなことがあるんでしょうかね。
記載ミスについて有罪に値するかを問うことがこの裁判の本分であるのに、
そしてもちろん有罪となった罪状というのは、記載ミスのはずなんですが、
逆にそのことについての言及は、判決も大マスコミの報道も国民の反応も、
きわめて薄くないですか。
「天の声」「裏金」まで踏み込んだ認定をするほどの、
悪を裁いてやるって意気込みも結構ですけれども、
今回の仕事は記載にミスがあったか、有罪に値するかどうかだけであって、
裏金があったかどうか、天の声があったかどうか、
それで利益誘導したかあるいは自分が不当な利益を得たか、
その認定など全く関係ないはずです。
なのに、そこに重点を置いた判決文ならびに報道・評価になるというのは、
明らかに論点をずらしていると思うのです。
言っておきますが、自分は確かに小沢氏を評価し期待してはいますが、
そのことは今回の判決に対する嫌悪感とは関係はしていないことは断言できます。
その判決のプロセスと思考に大いなる不正義を感じるということです。
一方で、世の中的に、法に携わる人も含め、その評価・納得の仕方には、
「だって小沢一郎だから、悪いヤツだから、これでいいのだ」的なものが
あるように思えるのです。
「政治とカネ」が断罪されたとか、悪い政治家の小沢一郎が裁かれたとかで評価し、
裁判のあるべきカタチみたいなものはどこかに追いやられているようです。
悪いから、ではなく、悪いに決まってるから、を罰することがありきのようですが、
そういうムードって、魔女狩りの狂気みたいなものなんじゃないでしょうか。
中世ヨーロッパに生きたことないから知りませんけど。
この判決に賛成というか、小沢一郎だから裁かれて当然と考える人たちこそ、
小沢氏は悪いヤツに違いないという偏見に目が曇っているに違いありません。
こんなの判決じゃないでしょう。
いいがかりですよ。
この判断に異を唱える声が弁護士連中からたくさん挙がるのではと思ったところ、
意外にそうでもないのか、それどころかかえって、思い切って踏み込んだと、
推認するしかない状況でよく判断したと評価したりしてることも多いようで。。
自分の正義感とか価値観って、そんなに世間とズレてるんですかねえ。