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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

捕鯨②御崎浦鯨組 

2021年05月28日 | 銅像の人
場所・長崎県平戸市生月町御崎



突組の規模

寛文2年(1662)の平戸の突組・吉村組では、17艘の鯨船に226人の乗組員、本船(輸送船)2艘の乗組員が9人、納屋の部門に43人、
ほかに鯨商品の売買にあたる商人納屋が17人、で一組の人数は295人になる。

「くじら取りの系譜」 中園成生  長崎新聞新書  2001年発行






鯨は冬場に南下し、春になると北上する。
突組の場合、特定漁場に対する拘束は小さいため、冬浦と春浦を別の漁場で操業することも多い。
12月にはいると鯨を求めて小呂ノ島(福岡市)や沖ノ島(玄海町)方面にも船を出す。

突取捕鯨法では、しゃにむに鯨を追跡しながら、できるだけ多くの銛を打ち込んで、行き足を止める必要があり、
快速でまとまった数の鯨船が必要とされた。


前作事

鯨組が鯨を取る期間は冬から春にかけてだが、
実質的な前作事(機材の修理・製作などの準備)は夏から始まる。
西海では8月中旬、網加子として雇われた瀬戸内海の漁民の先発隊が到着し、
鯨組に用いられる芋網の制作にいそしむ。

鯨組に用いる船も、船大工によって修理・新造された。
ととえば、生月の益富・御崎組では毎年、
勢子船を3艘、持双船を1艘、双海船を1艘ずつ新造した。
鍛冶屋も多忙を極めた。
銛や剣、各種包丁も膨大な数になった。
桶屋も鯨油を詰める四斗樽の制作に忙しい。
こうした準備のなか、各地から雇い入れた加子や羽指らが到着する。

 
鯨の発見
山見と番船
鯨の通る海域を監視できる高所・岬・小島の上。
山見の人は、浮上する鯨の呼吸(汐吹き)を探す、それで進行方向や鯨の種類もわかる。
朝から夕暮れまで。深酒や夜更かしなど視力や集中力に影響することは控えた。

鯨の追い込み
発見の後、勢子船が漕ぎ出し、鯨を網代に向かって追い立てた。
網代で待機していた双海船は合図で網を張る。
鯨を取る網でなく、泳ぎを遅くする網。

銛、剣を打つ
とくに一番銛は大変な名誉とされ、高い報酬が与えられた。
何本もの銛を打たれ、鯨は疲労を重ねる。
鯨が鈍ったところで剣を打つ。


鼻切りと持双掛け
一連の攻撃の後、羽指が鼻切包丁を持って海に飛び込む。
鯨の背中によじのぼり鼻腔に包丁でえぐって綱を通す穴をあけた。


解体・加工
解体
広い砂浜を利用した所に尻尾から上げた。
砂場は解体後の各部位を置くのに都合よく、
解体するため自由に動き回れる、
潮の干満で血などの汚れを洗い流せた。

皮身の脂から油を取る
ある程度の大きさに切り分け、平釜に順次投入され煎られる。溶けて液状になる。柄杓で汲み取る。

赤身からは食用の塩蔵肉を作る。



「くじら取りの系譜」 中園成生  長崎新聞新書  2001年発行









遠隔地への流通

寛永9年(1632年)平戸オランダ商館の日記には、鯨油を積んだ船が江戸に到着したとある。
当時流通した鯨製品としては、
食用の塩蔵鯨肉もあるが、
とくに灯油としての鯨油が大きな割合を占めたと考えられる。
細工用の髭や筋も需要があった。


江戸中期以降、農薬としての鯨油の使用が始まると、河川船運や陸上輸送で内陸に運ばれた
明治30年前後から長崎が鯨肉の重要な集散地となったが、明治40年代には福岡、下関が販売の中心となった。
このころから大坂や兵庫など阪神方面でも、鯨肉の販売量が急速に拡大している。

「くじら取りの系譜」 中園成生  長崎新聞新書  2001年発行



身分の高い人のごちそうだったクジラ


仏教が信仰されるようになって、日本では、けものの肉を食べることが少なくなりましたが、
イルカやクジラは魚だと考えられていたため、奈良平安時代の貴族たちのあいだで、ごちそうとして食べられていました。
また、豊臣秀吉は1591年(天正19)に土佐の長宗我部元親から体長10m以上もあるクジラを贈られ、たいそう喜んだという記録もあります。


江戸の人々とクジラ

長い間一部の人しか食べられなかったクジラですが、江戸時代以降、捕鯨技術の発達によって、多くの人々が食べるようになりました。
19世紀初めごろには江戸の庶民の食卓にものぼるようになりました。


「イルカ、クジラ大図鑑」 中村庸夫監 PHP研究所 2007年発行










鯨肉調方方
九州平戸の生月(いきつき)を基地とする益富組の頭首が天保3年(1832)、
『鯨肉調方方』で73種類もの鯨の調理加工法を示している。
当時は網取り式捕鯨の全盛期にさしかかる時期であり、生月の繁栄ぶりをうかがわせる。
記述は、
テイラは尾羽毛のことで、角切りし水煮して、さらに酒蒸ししてものは「油臭いなどなく、佳味なり」
眼の玉は、外側和か、内は堅し、外側は白し。
喉は下人の食料とす。
腸は「食糧にたへず」、田畑の肥に用いる。

明治以降になると、
さらにクジラの食用習慣は全国各地で多様な発展を遂げる。

現代においても、クジラのベーコン、竜田揚げ、大和煮の缶詰、




肥料としての鯨骨

畑作における肥料として主流だったのは、
定置網などで漁獲されたイワシを原料とした干鰯だった。
干鰯は、畿内一円の農村で綿花、菜種、藍、麦などの畑作物の魚肥として利用された。
しかしイワシ不漁などで高騰で、むしろ北海道産のニシンを原料とする鰊粕が代わりに用いられるようになった。
鯨肥は、捕鯨が行われていた地域限定で利用された。


鯨肉は脂肪と共に古くから食用とされてきた。
第二次大戦後の食糧難の時代、GHQの計らいで諸国の反対を押し切って捕鯨が開始され、
日本国民に鯨肉をタンパク源として供給するのに大きな役割を果たした。
戦後まもなくはじまった給食に鯨カツや竜田揚げが提供されたことを記憶する団塊の世代もいまや60歳前後となった。


「クジラは誰のものか」  秋道智彌  ちくま新書  2009年発行













銃殺捕鯨

ボンブランスは明治15年平戸瀬戸周辺でおこなったのが最初といわれる。
さらに九州、房総、金華山沖、紀州でも用いられた。
銃殺と従来の網との併用で捕獲が多かった。



鯨の利用
鯨肉

鯨油
麻油、菜種油の生産が増大すると、鯨油の灯油としての需要は低下していった。
江戸時代中頃から害虫(ウンカ)の退治に使われた。
明治以降は廃油や農薬にとって代わられた。


ノルウェー式捕鯨法で用いる銛は、炸裂する弾頭と銛がセットなったもので、
鯨にダメージを与えると同時に鯨体も確保することがその目的である。
つまり、かつて
40艘もの船と400人を越える人数で、
網掛け、銛突き、剣突き、鼻切りという数段階にわたる長時間のプロセスを経て一頭の鯨を仕留めてたのが、
一門の捕鯨砲による一瞬の砲撃で終了してしまうことになった。

「くじら取りの系譜」 中園成生  長崎新聞新書  2001年発行








生月町は、平戸島の北西に位置する人口約6,000人の島。
生月大橋を渡ると、そこには海と緑に囲まれた大自然が一面に広がり、そのいたるところに 自然の中のくらしから生まれた歴史や文化がたくさんつまっています。
「島の館」では、江戸時代に日本最大規模を誇った益冨捕鯨の展示をはじめ、
長い迫害に耐えて受け継がれたかくれキリシタンの信仰、
豊かな自然の中で営まれてきた漁業や農業の姿を紹介しており、他では見られない 価値ある生月島の魅力を知っていただけると思います。

(生月町博物館)



撮影日・2012年5月11日



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捕鯨①太地の羽刺

2021年05月27日 | 銅像の人
場所・和歌山県東牟婁郡太地町太地



太地町は、紀伊半島に位置する人口3000人あまりの町。
太地町が捕鯨基地として天下にその名前を知られるようになったのは、今から400年以上前のことだった。
古代では積極的に捕りに行くというより、弱ったり傷ついたりして座礁した「寄りクジラ」を利用するのがほとんどだった。

「おクジラさま」 佐々木芽生  集英社 2017年発行 



網掛突取捕鯨法

延宝3年(1675)、紀州の太地で突取捕鯨法のなかに網掛過程を導入する。
要するに今までしゃにむに鯨を追って銛を打っていたのを、まず網に鯨を突っ込ませ、
網をからませて速度を落とし銛を打ちやすくしたのである。

これによって遊水速度が速い座頭鯨や長須鯨を中心に捕獲効率が向上している。

「くじら取りの系譜」 中園成生  長崎新聞新書  2001年発行




クジラは餌となる小魚の群れを追って湾内にはいってくる。
シャチに追われて湾に逃げ込む。







突き取り式の捕鯨は17世紀前後伊勢湾、紀伊半島で伝えられた。
紀州太地の和田頼元は延宝3年(1675)に網取り式捕鯨を考案した。

網を用いた捕鯨は世界中で類例がなく、日本独自の発明であった。
クジラの周囲に網を掛けてクジラの動きを鈍らせ、羽刺し(はざし)は銛をつぎつぎとクジラに打ち込んでいった。
捕鯨の効率はずいぶんと向上した。

網を掛けるのでなく、クジラの動きを遮断するために網をつかう場合があった。
網は藁縄で編んだ網の定置網で、魚群と共にクジラやイルカを獲るために設置された。

網の材料が藁から苧麻(からむし・イラクサ科の多年草)へと変化し、網の耐久性が各段に増した。


・・・・・・



クジラ油は、クジラの脂肪層を煮詰めて得られる。
北米では灯火油。
日本では、稲の害虫を殺すため水田に散布する農薬として重宝された。
文政9年(1826)以降のことである。
牛につくアブを寄せない軟膏としても利用された。

欧米諸国は鯨油を採取する目的で捕鯨を行っていた。
鯨油は、灯火、ろうそくの原料。
室内や街の明かりは原料をクジラに求めたのである。
18世紀に母船上で加工する技術が確立すると、1年以上にわたる長期の捕鯨によって鯨油生産は飛躍的に向上した。
鯨油生産が至上目的とされたので、鯨肉や内臓は海上から投棄する。

19世紀に太平洋に進出した米国捕鯨では、マッコウクジラとセミクジラが鯨油生産を目的として捕獲された。
セミクジラは捕獲時に海底に沈まないうえ、皮や脂肪層から鯨油が多く採れた。
マッコウクジラも鯨油が多く採れるのと、良質の白いろうそくが生産された。



クジラの骨は先史時代から道具として重宝された。
大型の体躯をもつクジラからは種々の道具の原料が得られた。
銛、釣り針、ヘラなどが製作された。

食としてのクジラ
鯨油とともに、鯨肉、脂肪、内臓加食部、の獲得は捕鯨の大きな目的であった。
一頭あたり六割が利用できた。


イカ、サンマ、スケトウダラは、クジラがこのまま増え続けると人間の食糧をクジラと競合する。
推計ではあるが、クジラが捕食する魚類は世界全体で2億~5億トン、人間による漁獲量9.000万トンをはるかに凌ぐ量である。



「クジラは誰のものか」  秋道智彌  ちくま新書  2009年発行










「おクジラさま」 佐々木芽生  集英社 2017年発行 


19世紀なかば、欧米の捕鯨船が日本近海に進出したこともあって、太地でもクジラが次第に捕れなくなった。


そんな中、1878年太地沖でそれまで見たこともないような巨大な親子連れのセミクジラが発見された。
太地の漁師189人は、19隻の船団を組んで出魚する。
クジラとの戦いは、翌朝まで続き、船団とクジラは岸からかなり沖まで流された。
後に生還した人々の証言によると、船団は強い西風に悩まされ、苦労して捕獲したクジラを2日目の夕方には手放して、
必死に櫓をこいで陸を目指した。
しかし天候が悪化し、舟は翻弄され、漂流し、船団は散り散りになった。
100人以上が行方不明になった「せみ流れ」と呼ばれるこの大惨事が、太地の古式捕鯨に事実上終止符を打った。


明治期に銃砲を使うボンブランス法が、さらにノルウェー式捕鯨が日本に導入された。









太地とは
太地町は本州の南端、紀伊半島の東側。
黒潮躍る熊野灘に面し、霊場熊野の山々を後に控える、自然豊かで歴史と文化を継承する港町。
近くには世界遺産登録された熊野古道と霊場、日本一の那智の大滝などみどころもいっぱい。
太地町立の「くじらの博物館」では、小型クジラ・イルカなどとの触れ合い体験など、クジラを中心に新しい町作りに取り組んでいます。

大背美流れ
おおせみながれ
明治11年、不漁の年末。
ようやく近づいてきた鯨は、「背美の子連れは夢にも見るな。」といわれる、気性が荒々しく危険な、大きな子連れの背美鯨。
激しい風雨のなか無理を承知で出漁し、夜を徹して仕留めたものの、潮流と荒天で100名以上の村人が帰らぬ人となった、今も語り継がれる悲劇。

和田忠兵衛頼元
日本周辺の海域には昔から鯨が多く、各地では古くから鯨をとリ食料として利用して来ました。太地でも、傷ついたり弱ったりなどして岸辺に寄ってくる鯨をとっていたようです。
慶長11年(1606年)、太地の郷士・和田忠兵衛頼元は、泉州堺の浪人伊右衛門と、尾張師崎(知多半島の南端)の伝次とあい協力し、初めて組織化した捕鯨を始めました。


古式捕鯨発祥の地・太地
太地は古式捕鯨発祥の地として名高く、当地の豪族、和田家一族の忠兵衛頼元が尾張師崎(知多半島の突端)の漁師・伝次と泉州堺の浪人伊右衛門とともに捕鯨技術の研究を進め、
慶長11年(1606年)太地浦を基地として、大々的に突捕り法による捕鯨を始めました。
その後、延宝3年(1675年)和田頼治(のちの太地角右エ門)が網取り法を考案したことによって太地の捕鯨は飛躍的に発展しました。
紀州藩の保護もあって、「捕鯨の本場太地」は天下にその名をとどろかせ、熊野灘の捕鯨は最盛期を迎えました。
しかし、明治に入って西洋式捕鯨法が導入され、鯨の回遊も減少するにつれ太地捕鯨は次第に衰退の途を歩みはじめましたが、
「くじらの町」としての在り方はその後も変わらず、古式捕鯨の伝統を受け継ぎながら近海での小型捕鯨が続けられています。
また、南氷洋捕鯨のキャッチャーボートの乗組員として、町から参加する者も多く、優秀な砲手を多数輩出しました。

近年、国際捕鯨の規制により、太地の捕鯨も厳しい状況を迎えましたが、今までの歴史・伝統を観光面に生かしながら新しい「くじらの町」として発展しています。

太地観光協会





撮影日・2013年6月5日



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ジョン万次郎

2021年05月27日 | 銅像の人
場所・高知県土佐清水市足摺岬

マサチューセッツ州にフェアブンの対岸にニューベッドフォードという町があり、
アメリカ東海岸きっての捕鯨基地で栄え、盛時には300隻を越える捕鯨船がいたという。
現在は捕鯨博物館があり、
19世紀の捕鯨船が400トン程度の帆船で、クジラを捕まえると油を煮出しして樽に詰め、
2~3年の航海を続けたあと、数千樽の鯨油を積んで基地に帰ってきた。
莫大な利益をもたらしたので、東部の市民は争って捕鯨船に投資した。
ジョン万次郎を救出したのは、そうした捕鯨船の一隻である。

「日本史探訪18」 角川書店編 角川文庫  昭和60年発行






アメリカ捕鯨業

18世紀の初め、英領アメリカで抹香鯨の捕鯨が始まる。
抹香鯨の頭部には、脳油と呼ばれる油が詰まっている。
捕鯨母船に数隻のボートを積み、30人程度の乗組員で航海しながら鯨を追っていた。
長期の航海を余儀なくされ、母船も次第に大型化され300~400トンに達した。

母船のマストにいる見張りの合図により漕ぎ出し、銛を打ち込んで疲れさせ、槍でついて仕留めた。
1820年頃ホーン岬経由で太平洋に進出し、重点は太平洋に移る。
1846年には735隻に達し、
当時アメリカの捕鯨業は、南部の綿花とならぶ重要産業だった。

「くじら取りの系譜」 中園成生  長崎新聞新書  2001年発行






鎖国が行われるまでの日本人は、朱印船が南方の海を往来していたように、
あるいは伊達政宗が造らせた船が太平洋を二度も横断していたように、
すぐれた造船術と航海術をもち、遠く海外まで進出していた。

ところが幕府のきびしい鎖国政策は、帆柱が1本、帆が1枚といった貧弱な船で、磁石一つをたよりに航海するといった程度で、
とても海外へのりだすどころの話ではなかった。

だがそのような鎖国時代において海外の事情を知る唯一の機会があった。
”漂流”がそれである。
冬がはじまるころ、日本近海を吹き荒れる季節風は、ほとんど定期的に漂流民をつくりだした。
その多くは永遠に帰ってこなかったが、わずかに幸運にめぐまれた人は日本に帰ってきた。

天保12年(1841)鰹漁に出たまま漂流した土佐の万次郎も、アメリカ船に助けられて嘉永12年(1852)に帰国した。
彼は日本人ではじめて英語をおぼえ、帰国後はアメリカの社会事情をいろいろと報告している。

「教養人の日本史4」  現代教養文庫 社会思想社  昭和42年発行









「日本史探訪18」 角川書店編 角川文庫  昭和60年発行

ジョン万次郎

ジョン万次郎は文政10年(1827)、足摺岬に近い中浜村に生まれた。
生家は代々の漁師であった。
万次郎は鰹釣りの手伝いなどをして家計を助けていた。
高知城下に近い宇佐の浦の漁師筆之丞の持ち船に、5人の仲間と土佐湾に出魚、
三日目、嵐に巻き込まれ黒潮に乗って東へ東へ流され、無人島に漂着した。
伊豆鳥島である。
アホウ鳥を食べて命をつなぎ40日余り、アメリカの捕鯨船に救助される。

船長は年少の万次郎の才能を見抜き、4人をハワイにおろし、万次郎一人をアメリアカに連れていった。

捕鯨船の一等航海士になり、
1850年、ゴールドラッシュのカリフォルニアで資金を貯め、ハワイに渡った。
まず琉球に上陸、鹿児島に行く。斉彬に会う。
長崎に行く、そこで取り調べ。
高知で吉田東洋から尋問。
江戸へ召喚され、老中・阿部正弘以下川路聖謨、江川太郎佐衛門らの前で海外知識を開陳した。
その2年後、ペリーが来航する。

やがて土佐藩の士分に取り立てられ、名を中浜万次郎信志と改めた。







足摺岬の近く、遠く太平洋のかなたフェアブンを望んで建つ万次郎の銅像は、
開成学校教授時代の姿を模して作られたものという。
その手には三角定規とコンパスを持っている。
海外事情に飢えていた幕末の日本にとって、万次郎の帰国は最大のセンセーションであった。




高知県土佐清水市中浜  生家



1870年(明治3年)、普仏戦争が始まり、
明治政府はこの戦争を観戦させるため大山巌、品川弥次郎らの一行をアメリカ経由でヨーロッパに派遣することとなった。
中浜万次郎もこの一行に加えられた。

20年ぶりに見るフェアブンの町は大きく変わっていた。
あの活気ある港町の喧騒はうそのように消え去っていた。
万次郎43歳、船長65歳。

この旅行から帰って間もなく、万次郎は病に倒れ、以後人々に忘れられたままひっそりと余生を送った。


アメリカに着いた時、・・・元来日本語の読み書きはできない。
アメリカを去る時、日本語を忘れた。
晩年ハワイから来た牧師から、船長へ手紙を出さないかと言われ顔色が一瞬輝いたが、
書こうにも、もう英語がわからない状態になっていた。








撮影日・2018年10月2日

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炭鉱夫之像 (田川)

2021年05月26日 | 銅像の人
場所・福岡県田川市伊田  田川市石炭記念公園

田川市
(Wikipedia)
明治から1960年代にかけて

明治末から、田川は三井を中心とした炭鉱の街として繁栄した。
1900年、三井田川鉱業所が設立されると、仕事を求めて全国から移住者が訪れた。
田川は筑豊最大の炭都として栄え、1943年、後藤寺町と伊田町が合併し、田川市が誕生。
戦後、1950年代には人口が10万人を突破した。
しかし、1960年代のエネルギー革命でエネルギー源が石炭から石油に転換すると、石炭産業にかげりが見え始めた。
1964年、三井田川鉱業所は閉山。
その後は新会社の新田川炭鉱が事業を引き継ぐ形で操業を始めたが、1969年に閉山。
この影響で、市内に残っていた小規模炭鉱も閉山を強いられ、1971年に田川市内の炭鉱は全て閉山した。








「福岡県の歴史」 平野・飯田共著 山川出版社 昭和49年発行

筑豊炭田はすでに文明10年(1478)に遠賀郡で土民が薪として採掘していた。
江戸時代になると上方にも石炭が燃料として使われた。
元禄時代になると農村だけでなく、城下町でも風呂の燃料として普及しはじめた。
製塩ようにも用いられた。
1750年頃には筑豊の石炭が県外に販路を拡大した。
農民の炭鉱夫で、庄屋が運営していた。
三池炭田は1721年から始まった。柳川藩。

筑豊には徳川時代より小経営が多く、三池は埋蔵量も多く,炭層も厚く、藩の経営によっていた。
製塩の燃料、外国船の燃料ん、用途拡大されていった。
三池では囚人が労働が86%を占めていた。三池は明治21年三井に払い下げされた。

筑豊は零細が多く、坑内の水との戦いであった。
蒸気ポンプの出現で軌道にのった。
炭量の増加は輸送問題を引き起こしてきた。
坑口から馬の背で最寄りの川岸に運ばれ、そこから「ひらた」と呼ばれる川舟に積まれ、遠賀川を下り芦屋・若松に運ばれた。

地元資本として三菱・三井に対抗したのは、
安川敬一郎・貝島太助、麻生太吉であった。”筑豊の御三家”と呼ばれた。
明治21年から海軍が直属の炭坑を開抗、30年頃払い下げ、三井や三菱が入手した。
明治26年から三池を合わせると60%を占めるようになった。





赤い煙突目当てにゆけば 米のまんまが あばれ食い

と、石炭景気に筑豊の赤レンガの煙突をめざして抗夫は集まってきたが、
かれらはいつも事故の危険に身をさらしていた。

嫁に行くときゃ 抗夫に行くな
ガスがばれたら 若後家よ ゴットン

と、保安設備のほとんどない地底で、落盤の危険にさらされながら歌ったゴットン節は、
明治30年ごろ、伊田地方の選炭場の歌となり、たちまち筑豊一帯にひろがった。

「筑豊炭鉱誌」(明治31年刊)につぎのように記す。
彼等の労働は地下幾百尺の底にて一点のカンテラを力として暗黒界裡に労働す。
その炭層薄くして天井の高さ四尺以下に及ぶものは匍匐(ほふく)して切羽に近づき
坐して炭塊を採掘し、甚だしきは匍匐のまま鶴嘴(つるはし)を振って採炭すること稀ならず、・・」


抗夫も相当な稼ぎになることもあった。
しかし何故危険な労働を強制されたのか。
かれらを炭抗に金しばりにしたのは、
筑豊特有の”納屋制度”と呼ばれる中間搾取機構である。
会社は”納屋頭”とよばれる人入れ稼業の親分と契約し、仕事を請け負わせた。
親分のもと抗外の生活までを支配した。
昭和の初年までつづいた。




昭和の初め、
炭抗夫の1/4は女抗夫であった。(昭和8年禁止)
盧溝橋事件で戦時体制にはいると、政府は朝鮮総督府を通じて多くの朝鮮人労働者の炭坑への移入をはかった。

禁止されていた女子の入坑を許可した。
太平洋戦争が始まると、労働社不足はさらに深刻化し、捕虜も使われた。
昭和20年8月の炭坑労働者は25万人であったが、
そのうち朝鮮人7万、捕虜3.500人、中国人5.600人と記録されている。







「教養人の日本史5」  藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行 

安保改定阻止の闘争は、経済的好況下での闘争であったが
”岩戸景気”の大きな例外は石炭産業であった。

石炭産業の斜陽化が叫ばれた。その斜陽化のしわよせは炭鉱労働者に向けられた。
29年以降、民間産業労働者のもっとも戦闘的な組織であるといわれる炭労に対して、
日本独占資本の総力をあげての挑戦が開始された。

独占ブルジョアジー自身が「総資本対労働者の対決」と呼号したこの攻撃が、
安保改定への性急な足どりの一環として開始された。




「福岡県の歴史」 平野・飯田共著 山川出版社 昭和49年発行

空前絶後の炭坑争議から3年後、
昭和38年11月9日、三池の三川鉱で炭塵爆発がおこり、死者458人と約700人の一酸化炭素ガス中毒患者などの重軽傷者がでた。
筑豊には今、炭抗が数えるほどしかない。
筑豊の象徴であった三角錐のボタ山も崩れ、くずされて工場に学校に住宅地に変わっていく。
筑豊に生きた人びとは歯ぎしりしている。





田川市
(Wikipedia)
閉山から現在まで

炭鉱の閉山後、全盛期の半分近くまで人口は減少したが、産業構造の転換に向けた取り組みが行われている。
工業では、北九州工業地帯に近い地の利を活かして炭鉱跡地を工業団地として再生し、企業の誘致が進められている。
医療・福祉では、1992年、医療・福祉の人材の育成を目指し、伊田地区に福岡県立大学が設立された。
近年では、田川市石炭・歴史博物館が所蔵している山本作兵衛の炭鉱記録画がユネスコ世界記憶遺産に登録され、観光客も増えている。
雇用や生活保護の問題も依然として残っているが、自立に向けての努力が続けられている。



撮影日・2017年2月14日
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坑夫の像 (直方)

2021年05月26日 | 銅像の人
場所・福岡県直方市直方  直方市石炭博物館

直方は炭鉱の町、というイメージだが、
筑豊炭鉱の中央に位置し、石炭を掘り出す町でなく、石炭の中継基地として発展した町。


筑豊炭田
(直方市石炭博物館のHP)

筑豊炭田は、福岡県の北九州市、中間市、直方市、飯塚市、田川市、山田市と遠賀郡、鞍手郡、嘉穂郡および田川郡の6市4郡にまたがる日本でも主要な石炭の産地でした。
明治に入ってから筑豊炭田の開発は急速に伸び、その生産は全国石炭の60%以上をこの炭田から掘り出したこともあった。
出炭量の年間最高は昭和15年で、炭鉱数では昭和27年末で全国949炭鉱、九州では昭和28年度の540鉱、筑豊では昭和26年度の265鉱が最も多かったが、
それが昭和48年12月では全国40鉱、九州12鉱、筑豊では坑内採掘の炭鉱は0になった。
埋蔵炭量を見てみると、昭和31年の調査で全国87億9千5百万トン、九州は34億6千1百万トン、筑豊は17億9千万トンとなっている。








九州鉄道

明治21年九州鉄道が県令の下で発足し、同年博多-久留米間の工事に着工。
翌年博多-鳥栖間が開通、明治24年には門司-熊本、鳥栖-佐賀が開通した。
このような鉄道開通をみて、筑豊の炭坑経営者の中で、
石炭輸送のための必要性が一層強く要望されるようになった。
川船のみによる輸送はもはや困難になった。川船では供給過剰となった。
やっと明治24年1月着工、8月に若松-直方が開通。
明治25年、直方-小竹、
明治26年、直方-金田、小竹-飯塚。筑豊鉄道と九州鉄道が結ばれる。
筑豊の石炭は鉄道で門司港に直結し、さらに海外市場へと運ばれることになった。
そのころ日清戦争が起こり、さらに増加し、全国出炭量の54%を占めた。
豊洲鉄道も明治28年、小倉~行橋、行橋~伊田間が開通した。

「福岡県の歴史」 平野・飯田共著 山川出版社 昭和49年発行







撮影日・2017年2月14日


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炭坑節

2021年05月25日 | 銅像の人
場所・福岡県田川市伊田

大人たちがお酒を飲むと、必ず歌うのが「炭坑節」だった。
生まれて最初に覚えたうたが「炭坑節」だったようにも思う。






「石炭の本」  藤田和夫編  日刊工業新聞社  2009年発行

炭坑節


盆踊りに登場する二大民謡は、東の「東京音頭」と西の「炭坑節」と言われています。

「月が出た出た月が出た~」などの歌詞に代表されるものは、明治40年代に筑豊田川地区で生まれた民謡です。
大正初期に編曲して「炭坑節」と改題しました。
それ以前、筑豊の炭坑では無数の現場歌が名もない労働者によって作られ歌われつづけてきました。
炭坑節は筑豊の炭坑民謡の集大成的な歌です。

明治40年代、三井田川伊田炭坑に動力用の蒸気を発生させる汽缶場の大煙突が建てられました。
「伊田の炭坑の上に出た」月が「煙たかろ」と歌われた煙突です。
場所によって歌詞は変えられ、月は「三井炭坑」「三池炭坑」「三菱炭坑」に出ることになります。

この歌詞は、当時において東洋一の大竪坑と高い巨大な煙突に対する庶民の賛嘆から生まれたものです。
その後、田川郡で開催された勧業博覧会を記念して昭和6年に正調炭坑節としてレコード化され、全国に広まってゆきました。

第二次世界大戦後の石炭復興策で活況の兆しが見え始めた昭和23年には田川出身の芸者歌手赤坂小梅の炭坑節がレコード化され、
全国的に大流行して日本の代表的な民謡となりました。
赤坂小梅は昭和29年のNHK紅白歌合戦で炭坑節を歌っています。
この頃、
朝鮮特需によって全国の産炭地は石炭ブームに沸き立っていました。

日本の石炭産業が衰退した後も、炭坑節は歌い継がれ、
石炭産業の輝かしい時代があったことを後世に伝えています。







正調炭坑節 

香春岳から 見下ろせば
伊田のたてこうが 真正面
12時下がりの サマちゃんが
ケージにもたれて 思案顔
サノヨイヨイ

ひとやま ふたやま みやま越え
奥に咲いたる 八重つつじ
なんぼ色よく 咲いたとて
サマちゃんが 通わにゃ 仇(あだ)の花
サノヨイヨイ

月が出た出た 月が出た
三井炭坑の 上に出た
あんまり煙突が 高いので
さぞやお月さん 煙たかろ
サノヨイヨイ

格子窓から 月がさす
サマちゃんの寝顔の 愛らしさ
はずした枕を すけさしょか
思案なかばに 明けの鐘
サノヨイヨイ



炭坑節

月が出た出た 月が出た
三池炭坑の 上に出た
あまり煙突が 高いので
さぞやお月さん けむたかろ

あなたがその気で 云うのなら
思い切ります 別れます
もとの娘の 十八に
返してくれたら 別れます

一山 二山 三山 越え
奥に咲いたる 八重つばき
なんぼ色よく 咲いたとて
サマちゃんが通わにゃ 仇の花

晴れて添う日が 来るまでは
心一つ 身は二つ
離れ離れの 切なさに
夢でサマちゃんと 語りたい

お礼を枕に 寝るよりも
月が射し込む あばら家で
主の腕に ほんのりと
私ゃ抱かれて 暮らしたい

竪抗千尺 二千尺
下りゃ様ちゃんの ツルの音
ままになるなら あのそばで
私も掘りたや 黒ダイヤ





撮影日・2017年2月14日


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日本二十六聖人

2021年05月25日 | 銅像の人
場所・長崎県長崎市西坂町   日本二十六聖人殉教地

長崎駅前、ここから徒歩5分で西坂公園がある。





西坂公園は、日本二十六聖人殉教地。
聖トマス小崎はじめ二十六人が、この地で刑死した。



(長崎旅ネット)

豊臣秀吉によるキリシタン禁止令により、1597年2月5日京阪地方へ伝導していたフランシスコ会宣教師6人と日本人信徒20人が処刑された丘です。
キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者達がこの地を処刑の場に願い出たのだといわれており、
二十六聖人の殉教以降も多くの人々が“火あぶり”“水責め”“穴吊り”といったむごい手段でもってこの地で処刑されました。
戦後、原爆の破壊から立ち上がった長崎は殉教地であった小高い丘を公園にかえ、昭和31年、長崎県はこの丘を史跡に指定。
26人の殉教者が列聖して100年目の昭和37年に二十六聖人等身大のブロンズ像嵌込(はめこみ)記念碑と記念館が建てられた西坂公園ができました。
また、昭和25年(1950)には、ローマ教皇・ピオ十二世がこの地をカトリック教徒の公式巡礼地と定めています。
1950年バチカン指定公式巡礼地、県指定史跡








殉教

殉教はキリストの十字架の犠牲にならう最高の信仰の表明です。
自分が死ぬことだけでなく、キリストにならう、かつ多くの人の救いになるということです。

二十六聖人は、ローマ法王庁で殉教が認められて、聖者の列に加わった。
原城で戦ったキリシタンは殉教と認められていません。
十字軍もそうです。
抵抗して戦ったからで、無抵抗でなければ認められません。

「歴史よもやま話・上」  池島信平  文春文庫 1982年発行








(日本26聖人記念館)
ようこそ、日本26聖人記念館へ!

日本二十六聖人記念館は、
フランシスコ・ザビエルに始まる日本とヨーロッパの出会いから生まれたキリシタン文化と、キリスト教に対する迫害によって殉教した人々のメッセージを紹介する施設です。
記念館がある、この西坂の地では、1597年から17世紀中ごろまで、キリスト教徒であるために、多くの人々が処刑され、殉教しました。
かつての日本に、信仰の自由を奪った時代があったということです。
二度と繰り返してならない歴史に思いを巡らし、平和を願う場所へ、ぜひお越しください!
記念館では、日本に最初にキリスト教を伝えたザビエル神父像が、あなたをお迎えします。





撮影日・2012年5月10日




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聖トマス小崎

2021年05月25日 | 銅像の人
場所・広島県三原市城町  (三原城跡)






三原城は、もし大部分が現存していたら、瀬戸内海に浮かぶ”浮城”として大観光地になっていたに違いない。
その三原城の遺構に「聖トマス小崎少年」像と碑文がある。


14歳で処刑されたそうだ。






銅像に並んで碑分がある。

聖トマス小崎少年について
「私のこともミゲル父上のこともご心配下さいますな。
天国の全き幸福を失わぬよう努力なさいますよう。
人からいかなることを受けようと耐え、すべての人に、大いなる慈悲をかけられますよう。
陰暦十二の月二日 安芸の国、三原城にて」

一五九七年、豊臣秀吉のキリシタン弾圧において長崎西坂の丘で処刑された殉教者二十六人の中に、
十四才のトマス小崎がいた。
京都から長崎へ護送される途中三原にて伊勢の母マルタに書いた別れの手紙の一部である。
処刑後父ミゲルの襟元から発見され、その訳はローマに保管され日本二十六聖人の一人として、世界の人々にあがめられている。
このけなげな少年の心を末永く伝えるために、城址に近いこの地に碑を建立した。
一九九三年一月十七日 三原カトリック教会






撮影日・2013年4月14日




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牛若丸と弁慶像

2021年05月24日 | 銅像の人
場所・京都府京都市東山区  五条大橋たもと


♪京の五条の橋の上 大の男の弁慶が・・・


童謡のイメージとは、だいぶんかけ離れた「牛若丸と弁慶」の石像が五条大橋のたもとに建っている。

押し相撲力士の立ち合い!のように見える像。





「城と街道」 南條範夫  中公文庫  昭和56年発行

源九郎義経は極めてロマンチックな悲劇的英雄の一典型である。
彼が生まれたのは平治元年、父義朝が戦いに敗れた直前である。
翌年義朝は殺された。
数えて2歳の義経は母の懐中に抱かれて、追手の目を逃れねばならなかった。
生まれながらにして既に悲劇の主人公としての運命におかれている。

夜空に上げられた花火のようにはかない栄光の生涯であり、
一閃尾を曳いて消え失せた流星のように切ない輝きをもっているものといってよい。

天狗に武芸を習ったり、五条橋で弁慶を相手に軽業師のような技をみせたり、というのはすべて、
お伽噺とみてよいであろう。

ただ、
父義朝の負死後、母常盤が平清盛の寵を受けた代償として鞍馬寺に預けられたこと、
15,16の頃、参詣に来た奥州の金商人吉次なる者に助けられ奥州に下ったこと、藤原秀衡に歓待されたこと--
は、ほぼ誤りのない事実であろう。









撮影日・2016年12月2日


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怪傑日蓮「喝」

2021年05月24日 | 銅像の人
場所・長崎県島原市  島原城
作成・北村西望

この作品の人は、日蓮。




日蓮上人が真剣な表情で説法している姿で、
喝!
「怪傑日蓮」 

という作品。


作者は島原市生まれで、日本を代表する彫刻家、北村西望。
北村西望は長崎の平和像のほか、多くの作品を戦前・戦後につくっている。

名誉市民として、↓(たぶん)日本一多くの自治体に選定されている。
1962年(昭和37年)武蔵野市名誉市民、
1972年(昭和47年)島原市名誉市民、
1979年(昭和54年)南有馬町名誉町民(町の合併後は南島原市名誉市民)
1980年(昭和55年)東京都名誉都民、
1981年(昭和56年)東京都北区名誉区民
1981年(昭和56年)長崎県名誉県民。










撮影日・2012年5月8日


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