しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「絶唱」山鳩  (鳥取県智頭)

2024年06月28日 | 旅と文学

「絶唱」の主人公・園田順吉は、
身分違いの少女・小雪を愛した物語というよりは、
身分制度そのものに反対し、自己の考えどおり下層身分の子を愛した。
言行一致の愛の物語。

単純な純愛ではない。
自己の生活や人生を懸けての愛。


二人の純愛は駆け落ちで成就するが、日中戦争の勃発によって引き裂かれた。
日中戦争から太平洋戦争がはじまった。
順吉はなぜか、除隊もなく例外的に、長期の現役兵がつづいた。
戦争が終わると、シベリアへ拘留された。
これほど万が悪い人もいない。(生きて帰れただけいいが)

だが、
小雪は長期間の”銃後”の生活に耐えきれなかった。
無理に無理を重ね、やせ細り、結核(不治の病)になって死んだ。

 

 

・・・

旅の場所・鳥取県八頭郡智頭町
旅の日・2007年4月14日 
書名・絶唱
著者・大江賢次
発行・河出書房新社 2004年発行

・・・

 

「山園田」といえば、山陰地方でも名だたる豪家で、中国山脈の北側に鬱蒼としげっている杉や檜の森林のめぼしいものは、
ほとんどといってもいいほど所有していた。
その持山の谷々からは、素戔鳴尊の大蛇退治の伝説このかた、良質な鋼のもとである砂鉄鉱と、べつに全国一の含有量をもつクローム鉱とを産出しているので、都会の実業家ほどにはめだたないけれども、資産はガッチリと文字通り大地に根を張っていた。
順吉は園田家のひとり息子で、京大へ在学中に神経衰弱になって帰郷すると、そのまま中途退学をしてしまった。


僕は、この地方でも富裕な地主の、長男として生れた。
お七夜の紅白の祝餅をくばるのに、七組の小作人夫婦が四俵も搗いたというから、これだけでみどりごの僕がどんな位置にあって、どんな寵愛の的になっていたかなずけるだろう。

 僕の幼年時代の不幸はその中で、何にも増して大きな打撃は母の死だった。
母は僕の六つの秋、結核をながくわずらってなくなった。

父には職業に貴がないことも、人間は平等でなければならないことも、世の中がはたらくものの手に移りつつあることも、
とうてい理解できなかった。
徹頭徹尾、現状維持をねがってエゴに満足していた。
だから、小作人や貧しい人たちがめぐまれるの を好まないのだ。
したがって、山番は終始山番のめぐまれない生活の連続であるべ きで、
それは山番のうまれあわせがわるいのだ・・・・・・と運命論的に断じていた。

 

智頭町「西河克己映画記念館」


なにもかもものうい僕の眼に、これはまた驚くばかりに発育をとげた小雪が映った。
かの女はみずみずしい果実を香っていた。
僕が市から市へさすらっているうちに、山鳩はすくすくと少女から生娘に成長し
すでに小雪は妹でなくなって、ひとりの召使として僕にかしずいてくれた。
かの女の 素朴であたたかいまごころは、僕の遍歴の次にめぐりあったどの女性にもないものだ った。
それは郷愁をみたす母のふところのような、おおどかな愛がゆたかにたなびいていた。
いささかの打算も駈引もない、あるがままの浄らかな献身が・・・・・ 文句なしに「実行」をしているのだ。 

僕は、よく小雪と山へ行った。
秋の山はゆたかな幸をはなむけてくれる。
栗、茸、あけび、山ぶどう、柿...一度など僕たちは革茸の群生をみつけた。
山の中でただ二人、思うぞんぶんに暮すのはたのしいものだった。
でも僕はふしぎと 小雪にみだらな気持をみじんもいだかなかった。
僕の意志ひとつでキスもできたであろうし、肉体さえ所有することもできるのにかかわらず、
思うだに虫酸が走るほど潔癖で謙虚だった。
その克己がつよければつよいだけ、小雪への愛はますます募るばかりだ。


昨日、僕ははじめて小雪へ心をこめてキスをした。
かの女は数年前の骨っぽい少女ではなくなって、ふくよかであたたかい、
神聖をやどす花びらのくちびるを素直にうけると、上体は本能が拒みのかたちをみせながら......下半身はわれしらずすり寄った。
ひっそりととじた瞼があどけなくて、上頬から額へかけてはじめての感動をともなう哀愁が、やるせなげにただよってふるえた。
静かな山ふところ、鶯がさえずるほかは、木の芽ののびる音すらきこえるほど、僕たちの抱擁は永かった。

 


「あげな山出しの小娘が、なんとこともあろうに主家の御曹司をうまくたらしこんでからに、
しかも大仰に駈落ちをするがほどの魅力が、まあ、あの小い身柄のどこにひそんでいただやら...? 
悪たれは小雪だ、あのむすめは魔性だぞ! なんでも、狐か蛇と何して生れた子にちがいないぞや」
かれらは無性に、頭から山番夫婦をにくんだ。


......それから三日して、園田順吉に召集令状がきた。
小雪といっしょになってからわずか八ヵ月目だった。
とうとう、くるべきものがやってきたのだ。
婦人たちは千人針と十二社参りでごった返すし、小学校は壮行会や見送りのために校庭と生徒が動員されて、
ろくろく授業ができない有様だった。

 

智頭町「西河克己映画記念館」

 


列車の窓で、
「わすれちゃならないことは -おたがいに心に翼をはやすことだ。 
小雪、遠く離れれば離れるだけ、かえってよけいに親しく会えるんだよ。
このことをおたがいにかたく信じようね」と、順吉は手をのばしてかの女の頭の上においた。
「ほんと、あなたもお体を大切に」
ふと、「あなたの坊主あたま、思いだす... 中学生みたい!」
順吉は、坊主あたまをなでて微笑んだ。私たちもわらった。
列車がうごきはじめると、小雪は順吉の手をにぎったまま歩きながら、ものも云わずにジイッとみつめて手を離した。
応召兵の顔がしだいに遠のいて、豆粒になり、芥子粒になり、ついに視野から消えうせる。

 

・・・

 

・・・

当時の日本は、産めよ殖やせよ を国策にしていた。(昭和16年・厚生省)
女性は21歳で結婚し、
平均5児を産む。

母は21歳で昭和17年結婚。終戦まで2児を授かった。
順吉・小雪夫婦には国策が及ばなかったのだろうか?


・・・

   (つづく)

 

コメント (1)
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