「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行
戦時体制下の医療
1929年の世界恐慌の波及による不況は、農村を疲労させ、産業の合理化は多くの失業者を生み出した。
凶作に苦しむ東北では娘の身売りがみられ、欠食児童の急増や母子心中の増加が社会問題化していく。
国民の体力低下を如実に示したのは、
徴兵壮丁検査の結果である。
徴兵検査の不合格者は大正末期、1000人につき約2502人であったが、
1930年代には350~400人にまで増加した。
筋骨薄弱者や結核患者が急増。
合格者のうち、甲種合格者は年々減少していった。
危機感を感じた軍は、新しい省の設立構想を打ち出した。
「世界に冠絶する大和民族天賦の優良素質を今日ここまで低下せしめたるは衛生軽視の政治、行政機構に存するのである」として、
中央行政機関の整備を強調した。
1937年首相に就任した近衛文麿は、新しい省の腹案を提示した。
1938年、厚生省が誕生した。
明治以来の内務省衛生局は新省の衛生・予防のほかに体力局によって担われることになった。
人口政策
明治5年に35.000.000人だった人口は急増し、昭和12年には70.000.000人に達した。
高い出生率と死亡率の上昇で、多産多死型となった。
人々は窮乏生活に耐えながら多くの子どもを産み、何人かを失いつつ、低賃金労働に従事することを余儀なくなれた。
1918年の米騒動は、農業生産の停滞と米の需要増大との矛盾に起因し、人口と食糧の均衡が破綻した。
1922年産児制限運動家のサンガー夫人が来日すると、日本でも産児調整運動が高まりをみせた。
この動きに政府は弾圧を強めた。
国は、人口増加策を維持したまま、海外進出によって人口問題解決する方針を展開していくのである。
1940年代に入ると、軍主導のもとで積極的な人口膨張政策が打ち出された。
アジアへ軍事的進出を企てる戦時国家体制を前提とした人口政策は理念上問題があっただけでなく、医師不足のなか、
保健婦や保健所が中枢機関となった。
生活と健康は悪化の一途をたどった。
軍関係の病院や療養所は着実に増加した。
しかし1944年から米軍による爆撃で病院焼失や破壊が増え、病院数は減少していった。
戦時体制下の健康問題
未熟練工が長時間労働に従事したため、機械による外傷や指の怪我などが増え、結核や脚気の羅患者も増大した。
戦後の医療
GHQの医療分野はPHWが担当した。
PHWができる1945年、日本では伝染病が急激に増加していた。
占領軍への感染を恐れたPHWは検疫を強化、患者の隔離、薬品の準備などを進めた。
伝染病と並び食糧不足が占領軍を悩ませた。
餓死するものが出るほど危機的状況が進行していた。
占領目的が脅かされることを心配したマッカーサーは、食糧緊急放出と同時にアメリカ政府に食料供給を要請した。
1946年民間団体ララが援助物資が届き、学校給食が開始された。
パンに脱脂粉乳という、当時の児童にはなじみのうすい食事には日本人の栄養摂取パターンを変えるというねらいもこめられていた。
終戦直後、日本の病院の大半は、戦災によって破壊され、機能不全に陥っていた。
応召や徴用により医師や職員が不足したうえ、医薬品や医療機器も払底しており、惨憺たる状況を呈していた。
PHWはまず、軍関係医療機関の厚生省移管であった。
軍の医療機関は国立病院や国立療養所となった。
人口の高齢化と疾病構造
終戦直後に男女とも50歳代であった平均寿命は40年後の1985年(昭60)には男性75才、女性80才までに達し世界の最長寿国となった。
長寿は、人類が太古から希求してきた「夢」であるが、長いきは、必ずしも幸福にむすびつくわけではない。
本人や家族だけでなく、社会も困難な課題に直面することになった。
「人生50年時代」には、個々の家族によって担われいた高齢者のケアが「人生70年時代」にさしかかったこの時期に、社会問題として浮上してきた。
「健康日本21」
成人病と呼ばれていた疾病は、患者本人の節制不足を強調した「生活習慣病」と言い換えられ、野菜摂取量や平均歩数を
掲げながら、政府が主導する国民の「健康管理」が進められた。
2002年には「健康増進法」が制定され、「国民は、生涯にわたって自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」と国民の責務が明記されている。
戦時体制下の医療
1929年の世界恐慌の波及による不況は、農村を疲労させ、産業の合理化は多くの失業者を生み出した。
凶作に苦しむ東北では娘の身売りがみられ、欠食児童の急増や母子心中の増加が社会問題化していく。
国民の体力低下を如実に示したのは、
徴兵壮丁検査の結果である。
徴兵検査の不合格者は大正末期、1000人につき約2502人であったが、
1930年代には350~400人にまで増加した。
筋骨薄弱者や結核患者が急増。
合格者のうち、甲種合格者は年々減少していった。
危機感を感じた軍は、新しい省の設立構想を打ち出した。
「世界に冠絶する大和民族天賦の優良素質を今日ここまで低下せしめたるは衛生軽視の政治、行政機構に存するのである」として、
中央行政機関の整備を強調した。
1937年首相に就任した近衛文麿は、新しい省の腹案を提示した。
1938年、厚生省が誕生した。
明治以来の内務省衛生局は新省の衛生・予防のほかに体力局によって担われることになった。
人口政策
明治5年に35.000.000人だった人口は急増し、昭和12年には70.000.000人に達した。
高い出生率と死亡率の上昇で、多産多死型となった。
人々は窮乏生活に耐えながら多くの子どもを産み、何人かを失いつつ、低賃金労働に従事することを余儀なくなれた。
1918年の米騒動は、農業生産の停滞と米の需要増大との矛盾に起因し、人口と食糧の均衡が破綻した。
1922年産児制限運動家のサンガー夫人が来日すると、日本でも産児調整運動が高まりをみせた。
この動きに政府は弾圧を強めた。
国は、人口増加策を維持したまま、海外進出によって人口問題解決する方針を展開していくのである。
1940年代に入ると、軍主導のもとで積極的な人口膨張政策が打ち出された。
アジアへ軍事的進出を企てる戦時国家体制を前提とした人口政策は理念上問題があっただけでなく、医師不足のなか、
保健婦や保健所が中枢機関となった。
生活と健康は悪化の一途をたどった。
軍関係の病院や療養所は着実に増加した。
しかし1944年から米軍による爆撃で病院焼失や破壊が増え、病院数は減少していった。
戦時体制下の健康問題
未熟練工が長時間労働に従事したため、機械による外傷や指の怪我などが増え、結核や脚気の羅患者も増大した。
戦後の医療
GHQの医療分野はPHWが担当した。
PHWができる1945年、日本では伝染病が急激に増加していた。
占領軍への感染を恐れたPHWは検疫を強化、患者の隔離、薬品の準備などを進めた。
伝染病と並び食糧不足が占領軍を悩ませた。
餓死するものが出るほど危機的状況が進行していた。
占領目的が脅かされることを心配したマッカーサーは、食糧緊急放出と同時にアメリカ政府に食料供給を要請した。
1946年民間団体ララが援助物資が届き、学校給食が開始された。
パンに脱脂粉乳という、当時の児童にはなじみのうすい食事には日本人の栄養摂取パターンを変えるというねらいもこめられていた。
終戦直後、日本の病院の大半は、戦災によって破壊され、機能不全に陥っていた。
応召や徴用により医師や職員が不足したうえ、医薬品や医療機器も払底しており、惨憺たる状況を呈していた。
PHWはまず、軍関係医療機関の厚生省移管であった。
軍の医療機関は国立病院や国立療養所となった。
人口の高齢化と疾病構造
終戦直後に男女とも50歳代であった平均寿命は40年後の1985年(昭60)には男性75才、女性80才までに達し世界の最長寿国となった。
長寿は、人類が太古から希求してきた「夢」であるが、長いきは、必ずしも幸福にむすびつくわけではない。
本人や家族だけでなく、社会も困難な課題に直面することになった。
「人生50年時代」には、個々の家族によって担われいた高齢者のケアが「人生70年時代」にさしかかったこの時期に、社会問題として浮上してきた。
「健康日本21」
成人病と呼ばれていた疾病は、患者本人の節制不足を強調した「生活習慣病」と言い換えられ、野菜摂取量や平均歩数を
掲げながら、政府が主導する国民の「健康管理」が進められた。
2002年には「健康増進法」が制定され、「国民は、生涯にわたって自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」と国民の責務が明記されている。
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