イワン・アサノヴィッチの一日  畑と映画の好きな卒サラ男。

政官業癒着体質の某公共事業職場を定年退職。鞍馬天狗・鉄腕アトムの人類愛に未だに影響を受けっ放し。孫には目がない。(笑い)

アライグマの夜襲、ファームにて

2015-09-09 18:44:08 | 農業



 (写真はクリックすると拡大されます。)

 イワン・アサノヴィッチのフアームは市の郊外に位置しています。
郊外と言っても、小さな市ですから家から車で、5分で行けます。
周囲は畑地帯ですが、町工場や分家住宅が散在しています。
バブルも弾け併せて農業も衰退し、貸し農園だらけです。
その貸し農園も、「家庭菜園ブーム」が去ってしまった昨今、少なからずの人が借りっぱなしで雑草だらけの畑になっている所も在ります。

隣接する畑の中には灌木畑になってしまったものも在ります。
そこに、アライグマが野生しているのです。ある人はハクビシンだと言っております。
イワン・アサノヴィッチは野ウサギを目撃したことはありますが、未だアライグマを目撃した事はありません。

しかし、足跡から推測すると、やはりアライグマ相当が居ると思われます。
灌木畑は200mも離れているのですが、新鮮野菜や実の成る野菜、冬場のキャベツやブロッコリーのような大葉ものがシッカリと狙われて獲られてしまいます。

写真は隣の耕作者Oさんのトウモロコシ畑です。
モロコシの実が成った途端に幹が倒され実がもぎ取られています。
アレッと思っている数日の間に壊滅状態です。
憎いではありませんか、もう一枚の写真を見て下さい。
ちゃあんと皮をむいて、たぶん両手を使ってモロコシの実をアタマから根元まで一粒残さず食べているのです。
ちょうど私たち人間が食べるようにしてなのですから感心してしまいます。
貧農イワン・アサノヴィッチ(笑い)は感心している場合ではありません。

五輪エンブレム撤回、まるで東芝不正会計と同じ

2015-09-05 14:57:42 | 社会・経済
 9月1~2日のテレビニュースは各局とも、この記事で持ちきりであった。
五輪に使用されるエンブレムのデザインが盗用・模倣ではないかと疑われ、ベルギーのデザイナーから訴えられたニュースが既に先月から日本でも伝えられていた。

話題の張本人は「佐野研二郎・43歳」である。
以降、佐野研二郎の作ったとされる作品の数々が模倣・転用・盗用であるとする発信が、証拠となる画像の照らし合わせと共に国内でも多発し確認された。

佐野研二郎は相手が外国人デザイナーだったり、一流企業だったりした場合は事実を認めて順次撤回なり謝罪で糊塗してきたのである。
しかし、8月の末になって同じ五輪ポスターに関しても、転用・盗用が発覚し観念したのだろうか、エンブレム撤回を申し出て五輪委員会も白紙に戻した。

マスコミは「コピペの時代」などと焦点をぼかした記事で紙面と時間を埋めている。名前を失念し不明だが、在る大学教授が『社会の堕落・劣化だ。』と指摘した人が居た。
最初に聴いた時は佐野研二郎を批判しない立場の方かと思ったが、よくよく聴いた後は成る程と納得した。

即ち、経過やプロセス・手段や方法はどうでも良い!結果を出せば良い!とする今の日本の社会現象を批判・指摘しているのである。
有名進学高校Kが東大入試に必要な科目しか授業せず、文科相の指導要領に違反していた問題。 東大合格者が増えるという結果が出れば良しとするスタンス。
東芝が、嘘と言う手段を用いても構わないから、利益が出て居ると言う結果を捏造した問題。 手段・方法を問わない佐野研二郎の手法とソックリではないか。

また、エンブレム選考委員会の永井一正氏は佐野研二郎が博報堂時代に師事した人物であり、高崎卓馬氏は佐野研二郎と広告を一緒に作っているビジネスパートナー。長嶋りかこは佐野研二郎の昔の部下。驚愕の「密室選考委員会」だったのである。

【参考文献】 「エンブレム問題が示すスポーツ利権・癒着の構造 」(植草一秀の『知られざる真実』2015/09/02)

困窮家庭「給食ない夏休みにSOS」

2015-09-01 01:16:21 | 社会・経済
8月末の27日、東京新聞の一面トップの訴えは寂しく胸が痛む。
見出しは(困窮家庭「子どものご飯どうしたら」給食ない夏休みにSOS)だった。
見出しを読んだだけでイワン・アサノヴィッチの心は曇った。

イワン・アサノヴィッチは70年前、上海からの引き揚げ者であった。当時は8ヶ月の乳児だった。
両親は民間人だったが、家も土地も家具や衣類、貯金や現金までもが没収されての、まさに着の身着のままの帰国だった。
親子三人、命だけは何とか繋がって帰って来られたのも幸運だった。
引き上げ時、日本人の多くが乗り込んだ疎開列車が「蒋介石」軍からの空襲を受け、目の前で機銃掃射を被弾し亡くなった人も居たそうだ。

帰国後も戦後の混乱の下、喰うや喰わずの日々が続いた。
ひもじかったが、親も頑張ってくれていたし、周囲も同様だった。そんな世情を子ども心にも感じ取り、『明日は食べられるかも…』という希望の下で暗さはなかった。

しかし、経済大国にのし上がって久しい今の日本で、貧困が原因で十分に食べられない子どもが居ると聴くと、驚き・落胆そして憤りを感じる。
『格差は在ってアタリマエ。』とは小泉チョン一郎・竹中小僧らの「新自由主義政策」で喧伝された言葉であった。

狭い日本で、モンゴロイドの単一民族。誰もがコメを食べ、漢字を使い、お釈迦様を何となく敬うという日本社会において、敢えて「格差」の導入なんて不要の筈だ。
今だって、男女・学歴・公私・所属閥・正規非正規etc と格差・差別がゴマンと存在するではないか。
親の貧困が子どもに連鎖し、6人に1人の子どもが貧困だと言う。

人口減社会では、子どもがスクスクと育たなければならない。国力低下も目に見えている。ほんの少しの五輪予算を割くだけでも、この問題は解決する筈だ。

(文中記事の東京新聞WEBのURLは下記です。)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015082702000118.html