平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



静岡県磐田市に源義朝が尾張国知多郡野間(現、愛知県知多郡美浜町)で殺害された時、
ともに殺されたその家臣、鎌田兵衛政家(正清)の墓があります。





JR磐田駅北口前の観光案内所 ☎0538-133-1222




「いわたふるさと散歩東部編」より一部転載。

御厨交流センター近くの茶畑の一角に供養塔をおさめた祠があります。







中央が鎌田政家の供養塔
 



『平治物語』によると、北国で兵を集めよと命じられた
義平(義朝の長子)は、越前国足羽まで下っていきましたが、
信濃へといわれた朝長は、龍華越で比叡山の僧兵に射られた
太ももの傷が痛んで歩けなくなり青墓に舞い戻ってしまいます。
足手まといになるより父上の手でと願って首を差しのべ念仏を唱える朝長を
義朝は涙ながらに斬りました。そして義朝の噂を聞きつけ、
恩賞目あてに押しよせた土地の者らを、佐渡式部太夫(源)重成が
自ら義朝と名乗り、奮戦自害する間に義朝主従は青墓宿を出ました。

 僅か四人となった義朝一行は、鎌田政家の舅、尾張国野間
(現、愛知県知多郡美浜町)の領主、長田忠致(おさだただむね)の
許に身を寄せるため、その世話を大炊の弟で養老の滝近くの
鷲栖村(現、岐阜県養老郡養老町鷲栖)に住んでいた
鷲栖(わしず)玄光に頼みました。玄光は義朝主従を柴舟に乗せ、
杭瀬(くいせ)川から知多半島の先端野間まで運びました。
義朝と鎌田政家、平賀四郎義宣(よしのぶ)、金王丸の四人です。


青墓の東、かつて杭瀬川の渡し場があった
赤坂宿付近を流れる杭瀬川(岐阜県大垣市)

源氏の家人(けにん)でもある長田忠致・景致(かげむね)父子は、
義朝らをさまざまにもてなしましたが、恩賞目当てに裏切り、
入浴中の義朝を謀殺しました。舅と酒を飲んでいた政家は、
主の一大事を聞き走り出す所を義兄弟の景致に斬られました。
平治2年(1160)正月3日のことです。

慈円の歴史書『愚管抄』には、「義朝は馬にも乗らずかちはだしで
長田忠致の家にたどり着いた。忠致はもてなし入浴をさせた所、
鎌田政家(正清)は忠致の謀略に気づき、
義朝とともに自害して果てた。」と記されています。

源頼朝は父義朝の菩提を弔うため勝長寿院を建立し、
文治元年(1185)9月3日、義朝と鎌田正清(政家)の
遺骨を埋葬しています。(『吾妻鏡』)


『源平盛衰記』によると、鎌田正清の長男藤太盛政と弟の光政は、
佐藤継信(つぐのぶ)・忠信兄弟とともに源義経につかえ、
義経四天王とよばれましたが、
盛政は一ノ谷の戦いで寿永3年2月、次男藤次光政は、
屋島で元暦(げんりゃく)2年2月に討死したという。
ところがこの兄弟の名は、『吾妻鏡』などの
確実な史料にはみえず、その実態は謎に包まれています。

『吾妻鏡』建久5年(1194)10月25日条によると、
政家の娘は頼朝に厚遇され、勝長寿院で
父政家と義朝の追善供養を行っています。
政家に息子がいなかったため、頼朝はこの娘に
尾張国志濃幾(しのぎ・現、愛知県春日井市)・
丹波国田名部(現、京都府舞鶴市)両荘の
地頭職を与えて正家の旧功に報いています。
源義朝の墓(野間大坊大御堂寺)   
鎌田政家夫妻の墓は、義朝とともに愛知県知多郡美浜町の野間大坊にあります。
勝長寿院跡(源義朝を祀った大伽藍の跡)  
『アクセス』
「鎌田政家の墓」JR磐田駅前より遠鉄バス「鎌田」下車
または「東貝塚」下車 徒歩約20分
1時間に1本ほどしかない「鎌田」に停まるバスが
発車したばかりでしたので、次のバスを「東貝塚」で下り、
御厨(みくりや)交流センターへの道を尋ねながら歩きました。
『参考資料』
「静岡県の地名」平凡社、2000年 「国史大辞典」吉川弘文館、昭和58年
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館、2008年 
現代語訳「吾妻鏡」(6)吉川弘文館、2009年
「日本荘園史大辞典」吉川弘文館、2003年
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 



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藤原信頼・源義朝らの叛乱を事前に察知した信西は、藤原師光(もろみつ)ら
僅かな郎党とともに京都から宇治路を南下し、宇治から東へ入った
近江と伊賀の国境辺にある田原、その奥大道寺(だいどうじ)をめざします。

この地は3年前までは摂関家の頼長の領地でしたが、保元の乱で
頼長が朝敵として滅びたので、頼長の領地はすべて没収され、
後白河院の所領となっていました。
そのうちの田原・大道寺を信西が貰っていたのです。

信西は近江と伊賀の国境の山に分け入った辺で星の動きに異変があらわれて驚き、
郎党に都の様子を探りに行かせたところ、院御所三条東殿も信西の邸も焼き払われた上に
追手が迫っていると聞き、天変に間違いのなかったことを知ります。

もはや逃げ切れないと思った信西は、随行してきた4人の郎党に法名を授け、
穴を深く掘らせて中に入り、節を取り中通しした竹を口にあて
わずかに息ができるようにしてから土をかけてもらいました。
念仏を唱えながら往生しようとしたのですが、その行方を捜していた
摂津源氏の流れを汲む源光保(みつやす)が埋めた場所を見つけて首をとりました。

『平治物語絵巻信西の巻』には、近江と伊賀の国境辺りで自害して埋められた
信西の死体を光保の郎党が掘り起こして首を斬り落としている図が描かれています。
鎌倉後期の歴史書『百錬抄(ひゃくれんしょう)』平治元年(1159)12月17日条にも、
自害した信西の死骸が源光保に発見されたとあるので、
信西は見つけられる前に死んでいたと思われます。

ちなみに信西は藤原師光に西光(さいこう)という法名を授けます。
師光は信西が大内裏造営の際、それを助けるなどして活躍し、
鳥羽院の寵臣藤原家成の養子となります。したがって
平治の乱で藤原信頼についた公卿藤原成親(なりちか)の義弟にあたります。
平治の乱後、後白河院の第1の近臣にのしあがり勢力を振るい、
鹿ケ谷事件では、成親とともに清盛に殺害されることになります。

信西入道塚の先の山を鷲峰山(じゅぶせん)といい、修験道の開祖
役小角(えんのおづぬ)が開いたとされています。山岳信仰の霊地として栄え、
多くの坊舎が建ち並んでいましたが、今は金胎寺(こんたいじ)だけが残っています。
大道寺村は金胎寺の北側登山口として古くから開かれ、
村内を抜け金胎寺へ上る参詣道が通っています。

バス停維中前から大道寺川に沿って進みます。



鷲峰山へのハイキングコースになっています。



田原川の支流、鷲峰山から流れ出る大道(導)寺川



信西塚手前に大道寺があります。
天平勝宝8年(756)に金胎寺の泰澄が建立した大道寺があったと伝えられ
修験系の寺として栄えたようですが、戦国末期には衰退し、
昭和28年の山城水害で寺は壊滅しました。
現在の建物は平成16年に新築されたものです。









信西の塚は傍らに大道寺川が流れるのどかな風景の中にあります。
一説には、自害した信西の屍は胴のみ近くの寺に納めて胴塚として祀られ、
首は都でさらされていたのを大道寺の領民がもらいうけてこの地に塚を築いたという。
すぐ近く(道路を隔てた向い側辺)に信西首洗い池と称する小さな池があります。


信西の宝篋印塔(江戸時代)の表面には「少納言入道信西墓」と彫られています。
向かって左手に「信西入道塚」の碑と大正5(1916)年8月に有志で
この墓を整備した時に建てられた墓の由来が刻まれた石碑が右手にあります。




昔は首洗い池の案内板が建っていたそうです。

大道神社
 

祭神菅原道真

信西の首は都に持ち帰られて三条河原で検非違使に渡され、
三条大路を西に向かい西獄門(現、中京区西ノ京西円町)にかけられます。

画像は「平治物語絵詞」より引用しました。

「獄門に首をかける。」とは、首を獄門の横に立っている
樗(おうち)の木の枝に懸けることですが、絵師が勘違いしたものか
信西の首は獄門のてっぺんに懸けられたように描かれています。
西獄門の傍らには樗と思われる冬枯れの巨木が描かれ、
獄舎の板の隙間から、囚人たちの目がいっせいにのぞいています。
それを僧や稚児、烏帽子、山伏、頭巾姿のさまざまな人々が見物しています。
こうして信西は死後にまで厳しい罰が課せられます。
保元の乱で平安初期以来、絶えて久しくなかった死刑を信西の差配で断行し、
多くの人々を斬らせた報いであろうという人や
大学者・敏腕政治家の死を惜しみ同情する人々もいたという。

信西の子息

信西の子息は
有能な人達ばかりで、長男俊憲(としのり)は、
この年の4月に参議に任ぜられて公卿の仲間入りをはたしたばかり、
貞憲(さだのり)が従四位下権右中弁、
是憲(これのり)は少納言、
後妻の生んだ成範(しげのり)は
正四位下・左中将とそれぞれ要職についていました。

緒戦に勝利した 藤原信頼らは身勝手な論功行賞を行い、
信西の子息たちをことごとく流罪としました。反乱に批判的だった
藤原伊通(これみち)のとりなしで、彼らは
死罪を免れたのです。
清盛の娘と婚約を取り交していた成範は、六波羅へ助けを求めて逃げ込みますが、
身柄を信頼に引き渡されて下野国へ流され、婚約は解消されたという。
翌年には、早くも赦されて帰京し、32歳で従三位に叙され、
のち正二位中納言となり、
ことのほか桜を愛し、
邸宅に多くの桜を植え並べ「桜町中納言」とよばれます。
『平家物語』に登場する高倉天皇の寵愛を受けた小督の局は
成範の娘で信西の孫にあたります。

平治の乱で安房に配流された静憲(じょうけん)は、
まもなく召還されて後白河院の近臣となり、
『平家物語』の中では、院にも清盛にも信頼され、
二人の橋渡し的な役割をする要人となります。
法勝寺(ほっしょうじ)執行(しゅぎょう)、蓮華王院
(三十三間堂)ができてからは、そこの執行を務める法印でした。
執行とは、寺社にあって事務長として所有する荘園の事などを掌り、
大きな権限を握る立場にありました。
鹿ケ谷で
謀議が行われた場所は、『平家物語』では、俊寛が山荘を
提供したとしていますが、
『愚管抄(ぐかんしょう)』には、
静憲の山荘が舞台になったと記されています。

安居流(あぐいりゅう)唱導の祖・澄憲(ちょうけん)法印、
興福寺別当覚憲(かくけん)、
東大寺別当の勝憲(しょうけん)、
高野山蓮華谷に隠棲し、高野聖の祖と仰がれた明遍(みようへん)など、
信西の息子で僧侶となった者にも、各宗派の長となる者や著名人が出ています。

さて、信西は自害し、首をとられました。二条天皇は六波羅の清盛邸に脱出し、
一本御書所に監禁されていた後白河院は、仁和寺に逃れ、
信頼・義朝は賊軍となりました。すると天皇親政派の中から離脱する者が相次ぎ
兵力は激減し、義朝軍は熊野から帰京した清盛に大敗しました。
信西・藤原信頼(保元の乱から平治の乱へ)  
三条東殿址・信西邸跡(平治の乱のはじまり)  
『アクセス』
「信西入道塚」京都府綴喜郡宇治田原町立川宮ノ前39
京阪宇治線「宇治」駅、JR奈良線「宇治」駅、近鉄京都線「新田辺」駅から
京都京阪バス(維中前、緑苑坂、工業団地行き)約30分
(バスの本数が少ないのでご注意ください)

「維中前」下車、徒歩約25分
『参考資料』
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス、2004年
下向井龍彦「日本の歴史07武士の成長と院政」講談社、2001年
別冊太陽「王朝への挑戦平清盛」平凡社、2011年 
日本の絵巻12「平治物語絵詞」中央公論社、1994年
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店、昭和48年
古典講読シリーズ日下力「平治物語」岩波セミナーブックス、1992年
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店、昭和48年
「京都府の地名」平凡社、1991年「京都府の歴史散歩(下)」山川出版社、1999年 

 

 



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平安・鎌倉両時代にわたって約150年間、京都の中心部烏丸通りを挟んで
三条通北側の東西には、三条殿と呼ばれる御所がありました。
西を三条西殿、東を三条東殿とも称し、
三条東殿の東側には、東洞院(ひがしのとういん)通を
隔てて以仁王の御所高倉宮が建っていました。
その中でも三条東殿は、白河天皇をはじめ歴代天皇が里内裏として
しばしば用い、平治の乱当時は後白河院の院御所で、
源義朝の襲撃を受け炎上しました。
その後、再建され高倉天皇や順徳天皇の里内裏となりましたが、
承久3年(1221)に焼失しました。


平治元年(1159)12月9日深夜、平清盛が熊野詣に出た隙をついて、
信西と敵対していた藤原信頼が源義朝と手を結び
軍勢五百余騎で三条東殿を急襲しました。
保元の乱後、政治の実権を握っていた信西に対する襲撃です。

易・占いに通じていた信西は、天文上の異変に気づいて事態を
うすうす感じていたらしく、三条東殿に行って
このことを院に知らせようとしましたが、あいにく御所では、
管弦の催しの真っ最中だったので遠慮し、信西の息子たちも
これに参加していたので、女官に伝言しておいて家に帰りました。
そして妻の紀伊二位(後白河院の乳母)に事情を話して別れを告げ、
いち早く都から姿を消しました。

反乱軍は後白河院とその姉(妹とも)上西門院(じょうさいもんいん)を車に乗せ、
二条天皇がいる内裏に連れて行き、一本御書所に監禁しました。
それから三条東殿に火を放ち、警固の公卿や官人、女房までも殺害しました。
信西には息子が多くあり、狙ったのは後白河院に近仕する信西一族の命ですが、
なにせ真夜中のこと、人を探すのは難しく、
それならいっそのこと火をかけようということになったのです。
しかし信頼らの軍勢は、信西を見つけられず、三条東殿からほど近い
信西の邸に攻め寄せて火をかけました。平治の乱のはじまりです。

『平治物語絵巻』には、この時、武士と紅蓮(ぐれん)の炎にせめたてられ、
まきぞえになった官人や女房たちの混乱ぶりが描かれています。
左下には、木枠で囲んだ井戸があります。
女房たちが炎をさけてこの井戸に飛び込んだものの、
折り重なって次々に溺れ死んだという。

三条殿炎上に三条大路を公卿・殿上人が従者とともに急ぎ群参する場面。

こども相談センターパトナ前には、高倉宮跡の石碑があります。

新風館(しんぷうかん)前、姉小路通烏丸東入南側角に
「三条東殿遺址}の石碑と駒札が建っています。

三條東殿遺址(さんじょうひがしどのいせき)
現在の三条烏丸交差点の東北に位置する方四十丈(約120メートル)の地は、
古の三条東殿の遺址にあたっている。
十一世紀の初めここは伊予守
藤原済家の邸宅があり、それは子孫の宮内卿藤原家通に伝えられた。
崇徳天皇の天治二年(1125)白河法皇はこの地を得られ、
ここに見事な殿舎を造営し、院の御所とされた。
法皇の崩後、鳥羽上皇は三条東殿をやはり院の御所とされ、
后の待賢門院と共に住まれ、
それは長承元年(1132)七月の焼亡時まで続いた。
その後この地は皇子後白河法皇の院の御所となった。
平治元年(1159)十二月九日の夜、源義朝は軍勢五百余をもって
三条東殿を襲撃、法皇をここから連れ去って幽閉し、
かくして平治の乱が勃発した。
そのとき武士と火焔にせめたてられた多数の官女が
三条東殿の井戸に入って非業の死を遂げたという。
このように三条東殿跡は院政時代における政治的文化的中心地の
ひとつであり、その点で永く記念にされるべき遺跡である。
昭和四十一年二月 
財団法人古代学協会(駒札より)

複合商業施設新風館は、2016年3月に閉館し、
2019年末には、跡地にエースホテルが誕生します。

ただ今工事中!(2019年撮影)



「信西邸跡」
『平治物語・三條殿へ発向付けたり信西の宿所焼き払ふ事』によると、
信西の邸宅は、姉小路西洞院にあったとされています。
『続京都史跡事典』には、藤原信西邸跡は中京区姉小路西洞院
(あねやこうじにしのとういん)西入宮木町と記されています。
なお、邸跡を標すものはありません。


京都市中京区宮木町「紅型宮崎」向いに架かる説明プレート





姉小路通小川東入(宮木町)

三条東殿遺址(生まれ変わった新風館)  
一本御書所(平治の乱ゆかりの地)  
三条西殿址・三条東殿址・高倉宮趾・三条高倉第  
信西入道塚(信西最期の地)  
『アクセス』
「新風館」京都市中京区姉小路通烏丸東入
京都市営地下鉄烏丸線・東西線烏丸御池駅(5番出口)から徒歩1分。
『参考資料』
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
別冊太陽「王朝への挑戦平清盛」平凡社、2011年 
日本の絵巻12「平治物語絵詞」中央公論社、1994年
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店、昭和48年 
 石田孝喜「続京都史跡事典」新人物往来社、2006年
 古典講読シリーズ日下力「平治物語」岩波セミナーブックス、1992年
関幸彦監修「源平争乱」青春出版社、2004年

 

 






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平治の乱で幽閉されていた二条天皇が六波羅、後白河法皇が仁和寺に入り、
天皇親政派の武家が一斉に離脱すると、源氏軍の軍勢は半分以下に減りました。
義朝勢は一か八かの戦いを挑み、六波羅館に突入しますが、
膨張する平家軍に撃退され、義朝の野望はここに潰え去りました。
義朝は死に物狂いでなおも戦おうとしますが、乳母子の鎌田兵衛正清は
「源氏の棟梁たるものがいたずらに死に急いではなりません。」と懸命に説得し、
賀茂川の河原を北へ北へと逃れていきます。
平治元年(1159)12月下旬のことです。

『平治物語』によると、六波羅を攻撃した源氏勢を僅か二十余騎としています。
これに徒歩の武者を加えても五、六十人ほどです。
五条河原に陣を布いて中立を保っていた源頼政勢が三百余騎といいますから、
何とも少ない数です。頼政の煮え切らない態度に怒った悪源太義平が
戦いを挑んだため、頼政は結局、平家方につき、味方の武士は
次々と命を落とし、またある者は手傷を負い戦場を逃れていきました。
平家の追い討ちを受けながら、義朝は賀茂川を遡り、
高野川沿いに大原へ向かい、龍華越えをして近江に抜けようとします。
源氏の郎等たちは、命がけで敵を防ぎ、主君を落とそうとします。

この時従う者は、義朝の長男悪源太義平、次男中宮大夫進朝長、
三男右兵衛佐頼朝、叔父の陸奥六郎源義隆、佐渡式部太夫源重成、
平賀四郎義宣(よしのぶ)、乳母子鎌田兵衛正清、
金王丸の以上八騎、
それに波多野二郎義通、三浦荒二郎義澄、斉藤別当実盛、岡部六弥太忠澄、
猪俣小平六範綱、熊谷二郎直実、平山武者所季重、足立右馬允(うまのじょう)遠元、
金子十郎家忠、上総介八郎広常をはじめとして20余人です。
金王丸は義朝が尾張国の野間内海で謀殺されると、

都に戻りその死を常盤御前に報告する義朝の寵童です。

河原町通今出川の北辺りを昔は「大原口」といい、
京都七口の一つに数えられましたが、京福電鉄「出町柳」駅が
付近に設置されると、出町とよばれるようになりました。


上京区寺町今出川通り東北角には、「大原口」の道標がたち、傍には「東西南北」の
方角とともに目的地名が距離とともに示された石造道標があります
北へ行けば大原から若狭への若狭街道(鯖街道)です。

出町柳の賀茂大橋で鴨川に合流する高野(たかの)川、
春にはその堤防沿いに桜並木が続きます。

出町を流れる高野川
義朝主従はこの川沿いを北へと逃れました。


藤原信頼・源義朝が戦いに負け、大原口に落ちのびたとの噂に、比叡山西塔の
僧兵らが落ち武者狩りをしようと八瀬の千束(ちづ)が崖で待ち構えていました。
落ち武者の鎧兜を剥ぎとり、とどめをさしてやろうとというわけです。
義朝はこのことを聞き「六波羅で討死にしようというのを、
正清がつまらぬことを申すので
ここまで落ち延びて来たが、
延暦寺の僧兵などの手にかかって、討ち死にすることは口惜しい。」と嘆くと、
供の斉藤別当実盛が機転を利かせ、「信頼殿・義朝殿は六波羅で討死なさった。
ここにいるのは、諸国から駆り集められた仮武者に過ぎず、
故郷へ落ちのびようとしている名もない武者ばかりだ。
無駄な殺生はするな。
武具が欲しいなら差し上げよう。」と言って群がる僧兵の中に兜を投げ込み、
僧兵がそれを奪い合っている隙に、義朝主従はその場を脱出しました。
あわてて追いかける敵に実盛は、弓をあてがい「義朝の郎党、武蔵国の斎藤別当実盛」と
名乗りをあげて取って返せば、僧兵の中には弓矢取りは一人もおらず
かなわないと思ったのか、撤退していきました。

叡山電車八瀬比叡山口駅から碊(かけ)観音寺へ向かいます。



この峠道(367号線)は若狭街道とよばれ、昔、落人がよく通る間道でした。

「がけの坂峠」にあることから、かけ観音寺と称されたという。

「源義朝鏃遺蹟 碊観世音」と彫られています。



真言宗泉涌寺派に属する真山碊(かけ)観音寺本堂
碊観音寺には、比叡山の僧兵の襲撃に遭った義朝が、石に鏃(やじり)で
1体の観音像を刻み、源家再興を祈願したと伝える観音像が祀られています。
この像は秘仏とされ非公開となっています。




碊大弁財天女堂

当山鎮守 
碊大龍王

水子地蔵尊

念仏堂

碊観音寺近く、高野川に架かる駒飛(こまとび)橋の下にある巨石は、
義朝駒飛石といわれ、敗走途中の義朝が馬に乗ったまま飛び越えた石と伝えられています。



斉藤実盛が比叡山の僧兵の中に兜を投げ入れた場所は「甲ヶ淵」と呼ばれていましたが、
昭和10年(1935)6月28日の大洪水でこの淵はなくなりました。(「拝観パンフレット」)

甲ヶ淵は駒飛橋のもう少し上流にあったが、今は埋め立てられ、
アーバンコンフォートが建っていると土地の古老に教えていただきました。

アーバンコンフォート(京都市左京区八瀬野瀬町)
金王八幡宮(源義朝の童渋谷金王丸)   源義朝敗走(龍華越・途中越)  
『アクセス』
「碊観音寺」叡山電鉄「八瀬比叡山口」駅から367号線を北へ約600㍍
 京都バス「八瀬甲ヶ渕」下車 約2分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス、2004年
竹村俊則「鴨川周辺の史跡を歩く」京都新聞社、平成8年 
「義経ハンドブック」京都新聞出版センター、2005年
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
日本の絵巻12「平治物語絵詞」中央公論社、1994年



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山内首藤(すどう)俊通(?~1159)は、頼朝の乳父(めのと)、
妻は乳母の山内尼、俊綱、経俊の父です。
その子孫が建てたという
俊通(としみち)の塚がウェスティン都ホテル京都の裏山に残されています。

塚はもと都ホテルの表玄関の西方、旧道に面したところにありましたが、
近年現在地に移されました。

ホテルの方にお断りして、裏山に上らせていただきました。
ホテル内には入らず、玄関西側の山手に通じる駐車場Cの車道から上り、
その一番上から山道に入ります。



上の建物の向い側にある石段を上り、右に入ったところに塚があります。



人1人やっと通れるほどの狭い道です。

「白川東南佳城鬱々(うつうつ) 嗟(ああ)首藤公永居此室」 

裏面には、「享保4年歳次己亥秋七月二十三日 
 世孫長州山内縫殿藤原広道建」と刻まれています。
享保4年は1719年、山内縫殿は長州藩家老山内広通の通称で、
山内氏は藤原秀郷の末裔と称し、藤原氏を名乗っています。
歳次(さいじ)は年のめぐり、己亥(つきのと)は1719年です。

 眼下に仏光寺の墓地、遠くに平安神宮の鳥居が見えます。

山内俊通は、義朝の長子悪源太義平の勇臣17騎の随一といわれ、(『平治物語』)
平治の乱では子の俊綱とともに義朝に従い、敗れた義朝を東国へ逃がすため防戦し、
三条河原で戦死しました。遺骸は東分木町南側の人家の後に葬られ、
江戸時代には、山伏塚とよばれていました。

享保2年にその子孫たちが白川橋近辺を訪ねて、糀屋宇右衛門宅の裏にある
粟田山崖下の山伏塚を探し当てました。享保4年、追善供養を行い、
塚の上に石垣を築き石碑を建てました。

ここで俊通、俊綱父子の最期をご紹介します。
崇徳院と後白河天皇の確執を発端とした保元の乱で、源義朝は
平清盛とともに
後白河天皇に味方して崇徳院方に勝利しましたが、
この恩賞で清盛との差がついていました。
義朝はその恩賞を取り仕切っていた藤原信西に強い怒りを覚えます。
後白河院近臣の藤原信頼もかつて朝廷内で絶大な権力を持っていた
信西に出世の邪魔をされ、やはり信西に恨みを抱いていました。

 平治元年(1159)12月9日、 清盛が熊野詣に出かけている隙に
義朝は、信頼の誘いに乗って
クーデターに踏みきり、
信西を自害(殺害とも)させてしまいます。
その上、二条天皇と後白河院を内裏に幽閉し、政治の実権を握りました。
天皇を擁している者が官軍となり、清盛が兵を挙げれば賊軍です。
知らせを聞いて慌てて都に戻った清盛は、天皇をひそかに六波羅館に
脱出させることに成功し、天皇を奪われた義朝と信頼は賊軍となり、
天皇が六波羅に入ると、天皇親政派の武家が一斉に離脱し、
源氏軍の軍勢は半分以下に減ってしまいました。

信頼・義朝追討の宣旨を受け、清盛は義朝・信頼らが籠る大内裏を
弟の頼盛や嫡男の重盛に攻めさせます。
大内裏の待賢門に陣取った義朝軍と、重盛の軍との戦いで、
悪源太義平(よしひら)に追い立てられて重盛は危く逃れ、
戦場は六波羅に移ります。義平らは六波羅に押し寄せましたが、その勢は
20騎あまりにすぎなかったという。
これに徒歩の武者を加えても5、60人ほどです。

その途中、六条河原に控えていた源頼政の日和見的な態度に怒った義平が
襲いかかって合戦となり、頼政の郎党が盛んに矢を射かけるので、
山内俊綱は引き留まって戦いましたが、
敵の放った矢が首の骨に当たって深手を負い、助からないとみた
義平の指示で斎藤実盛の手にかかって六条河原で亡くなりました。
斎藤実盛は、駒王丸(義仲)を信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた武将です。

六波羅館を攻めあぐみ、義朝軍が鴨川の西岸に退いたところを、
平家の兵たちが攻めたて、義朝勢は総崩れとなり河原を北へと退却していきます。
三条河原で、鎌田兵衛正清(義朝の乳母子)が「頭殿(義朝)は思うところあって
落ちて行くので、敵の追撃を阻止せよ。」というので、新羅三郎義光の孫、
平賀四郎義宣(よしのぶ)は、引き返して散々に戦います。
佐々木源三秀義・山内首藤俊通・井沢四郎信景(のぶかげ)をはじめとして、
我も我もと敵の前に馳せ塞がって防いでいましたが、佐々木秀義は、
敵二騎を斬り自身も手傷を負って、近江を指して落ちて行きました。
この佐々木秀義は配流中の頼朝に近侍した定綱、経高、盛綱、高綱の父です。
息子たちは頼朝挙兵後も頼朝に従い、各地で戦功を挙げます。

山内俊通は子息が討たれ、ともに討死しようと思いましたが、
何とか気をとり直し身命を捨てて駆け回り
敵三騎討ち取り、終に討たれました。
甲斐の武将井沢四郎信景は、24本差した矢を以って、今朝の戦いで
敵18騎を射落とし、三条河原で良き敵を4騎射殺したので、
箙には2本の矢が残っていましたが、痛手を負ってしまいました。
知人を頼って遠江(現、静岡県の西部)へ落ち、
そこで疵の手当をし、弓の弦を切って杖に代え、山伝いに
甲斐の井沢(現、山梨県東八代郡石和町)へ落ちて行きました。
源頼朝の乳母山内尼  
『アクセス』
「ウェスティン都ホテル」京都市東山区粟田口華頂町1
地下鉄東西線「蹴上駅」下車 徒歩約2分
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社、1987年 
竹村俊則「昭和京都名所図会(洛東下)」駿々堂、1981年
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス、2004年

 



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臨済宗天竜寺派源光寺には、常盤御前の墓があります。
太秦の北、双ヶ丘の西方にある集落を常盤といい、
この地には嵯峨天皇の皇子・左大臣源常(ときわ)の山荘があったとされ、
源光寺は源常開基と伝えられています。
平治の乱で源義朝が敗死すると、常盤御前は義朝との間に生まれた三人の子供、
今若・乙若・牛若の命と引替えに清盛の妾となります。清盛との間に
廊御方(ろうのおんかた)をもうけた後、一条大蔵卿長成に嫁ぎ能成を生みました。

山門

源光寺は六地蔵めぐりの寺として知られている尼寺です。



地蔵堂
堂内に祀られている常盤地蔵(常盤谷地蔵とも)とよばれる地蔵尊は、

小野篁が冥土で人々の苦難を救う生身の地蔵尊を拝し、蘇生したのち
桜の一木から六体の地蔵菩薩像を刻んだうちのひとつといわれています。

当初、六体の地蔵菩薩像は伏見区桃山町西町の大善寺に納められますが、
保元年間(1156~59)六体の地蔵は、都の出入口にあたる主要街道に分祀されました。

毎年八月二十二日~二十三日の六地蔵めぐりは、
大善寺をふりだしにして巡拝、
源光寺も大いに賑わいます。


小野篁は嵯峨天皇につかえた平安時代初期の政治家、また学者、
歌人としても
知られています。彼には閻魔王宮の役人といわれ、
昼は朝廷に出仕し、
夜は閻魔庁につとめていたという伝説があります。

義経の母常盤はこの里で誕生し、後年、この地に戻って出家し、
ささやかな庵を結んで余生を送ったと伝えられています。
境内の隅にある「源氏義経御母室常盤御前御墓」と刻まれた
中央の高さ80㎝余りの自然石が常盤御前の墓です。
常盤御前の墓は、この他に岐阜県関ヶ原町の山中にもあり、
奥州に逃げた義経を追ってここまで来たものの、盗賊に襲われ
命を落としたといわれています。
宝樹寺・雪よけ松の碑 (常盤御前ゆかりの地)  
常盤捕わる(常盤就捕處碑・常盤井) 
  一条河崎観音堂(常盤御前)  
『アクセス』
「源光寺」京都市右京区常盤馬塚町1 京福北野線「常盤」下車徒歩4分
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂 竹村俊則「京のお地蔵さん」京都新聞出版センター
「京都市の地名」平凡社 「京都大事典」淡交社 「京都市の地名由来辞典」東京堂出版

 

 

 
 


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◆一条河崎観音堂(感応寺)
鴨川と高野川の合流点近く、鴨川西岸河原(現・上京区梶井町)を河崎といい、
この地に貞観年間(859~877)一演法師が建立したという
観音堂がありました。この観音は広く崇敬されていたことが記録にみえますが、
享禄4年(1531)兵火で焼失、その後、一演法師ゆかりの清和院に合併されました。
一演法師は太政大臣藤原良房の病を治して権僧正に任じられたという人物です。


かつて一条河崎観音堂があったという現在の梶井町の風景

平家一門が壇ノ浦で滅び去って僅か七ヶ月後、義経は兄頼朝に追われる身となり、
文治元年(1185)11月、義経は都を離れ大物浦から
船出したものの嵐で船は転覆し吉野へと逃れます。
頼朝の命によって京都守護や畿内の御家人は義経を捜しますが、
その行方は知れません。

文治2年(1186)6月6日に鎌倉方が常盤と義経の妹を捕えたと
『吾妻鏡』文治2年6月13日条に記されています。
「当番の雑色である宗廉が京都から(鎌倉)に到着した。去る六日、
(京都)一条河崎の観音堂のあたりで与州(源義経)の母(常盤)と
妹らを探し出して捕えまえました。
関東(鎌倉)へ進めた方がよいでしょうか。」
捕えられた妹は常盤と長成との間に生まれた子で義経の異父妹にあたります。
当時、常盤は夫の一条大蔵卿長成に先立たれ後家となっていました。
その後、常盤と妹がどうなったのかはわかりません。

保立道久『義経の登場』には「常盤は義経の蜂起の後、
追及を逃れて長く河崎観音堂に隠れこもっていたことがある。
一条長成と再婚して一条南辺に居住していた常盤がこの観音堂を信仰し、
その僧侶と強い師檀関係をもっていたことは確実であろう」
と書かれています。

◆清和院は感応寺と号する寺で清和天皇ゆかりの古刹です。
清和天皇は藤原良房の孫として良房の染殿邸(現・京都御所)にて誕生し、
譲位後の後院として染殿邸の南に創建された仏心院を基に
清和院が設けられましたが、寛文元年(1661)
御所の大火により類焼し現在地に移されました。
併せて旧地の付近にあった河崎観音(感応寺)も合併されたため、
洛陽観音霊場の結願所となっています。






『アクセス』
「京都市上京区梶井町」市バス「河原町今出川」下車すぐ
「清和院」上京区七本松通一条上ル観音町428-1
市バス「上七軒」又は「千本中立売」下車徒歩2、3分

『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(3)吉川弘文館 保立道久「義経の登場」日本放送出版協会
角田文衛「王朝の残映」東京堂出版 角田文衛「平家後抄」講談社学術文庫
 「京都大事典」淡交社 
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂
 日本歴史地名大系27「京都市の地名」平凡社



 

 

 

 

 

 


 

 


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牛若丸が生まれ育った京都には牛若丸に関する伝承が多くあります。
中でも北区紫竹には、源義朝の別邸があったとされ、常盤御前はこの地で
牛若を生んだといわれています。周辺には牛若町という町名が残り、
牛若丸・常盤ゆかりの伝承や史跡が点在しています。

◆知足山常徳寺  
牛若が生まれたのは平治の乱が起こった平治元年(1159)のことで、
まだこの戦が起こる前です。牛若を身ごもっていた常盤は近くの常徳寺に
安産を祈願して常盤地蔵を安置したと伝えられています。

常盤地蔵が祀られている本堂の扉はかたく閉ざされています。(一般公開なし)

◆牛若丸誕生井
常徳寺から北山通りを隔てた西南の方角、上野新三郎氏の畑の中に
牛若丸誕生井と刻んだ1、
5メートルの石碑がたっています。
その背後には、常盤が牛若丸を生む時に汲んだといわれる小さな井戸の跡があります。
そこには「牛若丸誕生井、応永二年(1395)調之」と刻まれた小石塔があり、
室町時代初めからここが牛若丸誕生地といわれていたことが知られます。

所有者の上野氏は代々源家に仕え、源義朝の命で
常盤御前の出産を助け、この井戸を守ってきたと伝えています。

◆牛若丸胞衣(えな)塚 
牛若丸誕生井と同じ畑の中の松の木の下(右後方)には、
牛若丸の胞衣(胎盤)とへその緒を埋めたといわれる塚があります。



◆源義経産湯井の遺址碑 
牛若丸誕生井から船岡東通りを南に進み、東へ入ると
「源義経産湯井の遺址」の石碑が建っています。
現在、井戸はありませんが、由来を記す碑には、

「此ノ地ハ源義朝ノ別業ニシテ常盤ノ住ミシ所ナレバ平治元年義経誕生ノ時此ノ井水ヲ
産湯二汲ミキトノ伝説アリ後二大徳寺玉室大源庵ヲ建立セシガ荒廃シテ竹林トナリヌ
茲二大正十四年十二月紫竹区画整理成ル二当リ井泉ノ原形ヲ失ヒタレバ其ノ由緒ヲ
記シテ後昆二伝ヘムトス  大正十五年十月 紫竹土地区画整理組合」と彫られています。

碑文の大意は「この辺に源義朝の別業があり、平治元年義経が誕生した時
使われた産湯の井があったという伝説があった。後に一帯は大徳寺の塔頭
大源庵が建立されたが荒廃して竹林となった。さらに大正14年(1925)、
区画整理のためここにあった井戸は埋められた。その由緒を後世に伝えるため、
紫竹土地区画整理組合よって大正十五年に石碑が建てられた。」
義朝の別宅には二ヶ所も井戸があったことになります。



◆光念寺(浄土宗)
今宮神社から北東300m付近、住宅街の一角に光念寺があります。
常盤御前の守り本尊と伝えられる
腹帯地蔵が本堂に祀られています。(一般公開なし) 

光念寺本堂

常盤井は美容室「ユウビ」の隣にあります。

◆常盤井(常盤化粧井とも)
 大徳寺の南、下築山町の道路脇に常盤御前が化粧に用いたと伝わる小さな井戸があります。
この井戸はかつて京の名水の一つに数えられていましたが、今は枯れています
井戸の傍には、
「寛文12年(1672)に清水宗善によって建立、常盤井」と
刻まれた石碑がたっています。



宝樹寺・雪よけ松の碑 (常盤御前ゆかりの地)  
常盤が牛若丸らと身を隠した宇陀郡竜門(常盤御前の腰掛石・常盤の隠れ家) 
首途(かどで)八幡宮(義経奥州旅立ちの地)  
『アクセス』
「常徳寺」京都市北区紫竹東栗栖町28
市バス「常徳前」下車すぐまたは「牛若」下車北山通りを東へ徒歩3分
「牛若丸誕生井・胞衣塚」京都市北区紫竹牛若町 
市バス「常徳前」下車徒歩3分
「源義経産湯井の遺址」京都市北区紫竹牛若町13 
市バス「大宮上野」下車東へすぐ
「光念寺」京都市北区紫竹上野町150
市バス「大宮上野」下車徒歩3分
「常盤井」京都市北区紫竹下築山町
 市バス「大徳寺前」下車 南へ徒歩3分
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂  「京都大辞典」淡交社 
「義経ハンドブック」京都新聞出版センター


 

 
 
 

 

 
 

 

 
 



 
 

 

 
 



 
 





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京都市伏見区に常盤ゆかりの地が二ヶ所あります。
1・伏見区奉行町の桃山合同宿舎の一角に
「常盤就捕處(ときわしゅうほのところ)」の碑がたっています。





江戸時代に伏見奉行所が置かれ、幕末には「鳥羽伏見の戦い」の激戦地となりました。
桃陵団地(伏見区奉行町)入口には、奉行所跡の石碑がたっています。



桃陵団地入口から桃山合同宿舎へ

この地はかつての工兵第十六大隊の駐屯地でした。
その庭に椎の木があり、そこで常盤が捕えられたという伝承により、
明治44年(1911)「常盤就捕處」の石碑が建てられました。



碑の背面には、
「従四位勲二等岩崎奇一題 頭角蔵懐未嶄然 竜門母子此迍邅
  老椎独在興亡外 雪虐風餐八百年 工兵第十六大隊長佐藤正武建」
と彫られています。

平治の乱で源義朝が敗死したため、常盤は今若・乙若・牛若とともに大和国宇陀に
落ちのびましたが、都にいる老母が平家方に捕まり六波羅で厳しい取り調べを受けていると知り、
三人の子を連れ自首しようと京へ向かいます。
その途中、ここで捕えられ六波羅に引き立てられたと伝えられています。



平成22年1月、この宿舎を訪ねたところ、伏見合同庁舎は建替え工事中のため
中に入ることができませんでした。平成28年4月に再度訪ねて撮影しました。


2・伏見合同庁舎の東、大和(奈良)街道沿いの常盤町には、伏見七井に数えられる
「常盤井」がありましたが、
昭和32年(1957)の国道24号線拡張工事の際に破却され、
現在、井戸の井筒が二枚、御香宮内の弁天社前の池の石橋に転用されています。
「常盤井」には、平治の乱後、常盤が平家の追及を逃れて伏見の里の雪道に難儀しながら
大和国宇陀に落ちていく途中、この井戸で足を洗い一夜を明かしたとか、
この地に常盤が居を構えた時の愛用の井戸であったという伝承があります。



弁天社



御香宮御香水
社伝によれば、境内から香りのよい水が湧き出て、病人がこれを飲むとたちまち病が癒えました。
これにちなんで
御香宮と称されました。御香水は「名水百選」のひとつです。
宝樹寺・雪よけ松の碑 (常盤御前ゆかりの地)  
常盤が牛若丸らと身を隠した宇陀郡竜門(常盤御前の腰掛石・常盤の隠れ家)  
『アクセス』
「桃山合同宿舎」京都市伏見区西奉行町  京阪伏見桃山駅徒歩10分  
近鉄桃山御陵前駅、JR奈良線桃山駅より徒歩
「御香宮」京都市伏見区御香宮門前町174 京阪伏見桃山駅徒歩5分
近鉄桃山御陵前駅、JR奈良線桃山駅より徒歩
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社、1987年  山本真嗣「新版京・伏見歴史の旅」山川出版社、2003年
続日本絵巻大成17「前九年合戦絵詞 平治物語絵巻 結城合戦絵詞」中央公論社

 

 

 



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京都市東山区の清涼山・宝樹寺には、常盤が大和国宇陀(奈良県)の
親戚を頼って
都を逃れる途中、しばし雪をさけた松があったといわれ、
境内墓地に「常盤御前雪除松跡の碑」が建っています。
 
平治の乱で敗れた源義朝は東国へ敗走の途次、相伝の家人、
野間内海の
長田忠致(ただむね)父子にだまし討ちにされました。
金王丸は急ぎ都へ戻り、義朝の都落ちの様子からその死、
長田父子を取り逃がしたことなどを一部始終、常盤に語ります。
牛若は2歳といっても数え年、乳呑子でまだ何も分かりませんが、
今若7歳、乙若5歳は金王丸の袂にとりつき父の所に連れて行けと泣きじゃくります。
いよいよ幼子たちの身にも危険が迫ってきました。

本堂に祀られている薬師如来像は「子そだて常盤薬師」と呼ばれ、
常盤御前が、今若・乙若・牛若の成長を祈願した像と伝えられています。

本町通沿いにある宝樹寺




宝樹寺墓地の一角に建つ「常盤御前雪除松跡」の石碑

清水寺仁王門
 

清水寺子安の塔
常盤が京を逃れる際、子安観音に子供達の無事を祈願したと伝えられています。


「常盤御前」松斎吟光画(画像は義経伝説をゆくより引用させていただきました。)

ここから常盤の都落ちの様子を『平治物語』にしたがって簡単に見ていきます。
六波羅では、清盛が「池殿が助けよと仰るので頼朝は仕方なく助けたが、
常盤が生んだ義朝の子、三人は捜し出して殺してしまえ。」と命じました。
このことを人づてに聞いた常盤は、雪が絶え間なく降りしきる中、
今若を先にたて、懐に牛若を抱きながら乙若の手を引いて足を急がせます。
まず、長い間信仰していた清水寺に参詣し、子供達をお守りくださいと祈ります。
清水寺の本尊は十一面観音、観音は三十三に変化して衆生を救うといわれています。

そうこうしているうちに伏見の叔母の家に着きました。
ところが頼みにしていた叔母は、平家を恐れて居留守をつかいます。
仕方なく、疲れ果てた子らを宥めながら、吹きすさぶ吹雪の中を落ちて行きます。
やっと探しあてた小屋に匿ってもらえることになり、親子は安堵しました。

三日目にその小屋を出て、何とか無事に大和国宇陀郡龍門の牧にいた
伯父のもとに逃げ込み、
そこにしばらく身を隠すことにしました
常盤が牛若丸らと身を隠した宇陀郡竜門(常盤御前の腰掛石・常盤の隠れ家)  
常盤就捕處・常盤井(常盤御前ゆかりの地) 
義朝最期の地をご覧ください。
野間№1 (湯殿跡・法山寺・源義朝最期の地 ) 
『アクセス』
「清水寺」京都市東山区清水一丁目 市バス五条坂か清水道下車徒歩16、8分
「宝樹寺」京都市東山区本町11-201 京阪電車またはJR「東福寺」下車すぐ
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店 五味文彦「源義経」岩波新書 
「平家物語」(下)新潮日本古典集成 増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院
「京から奥州へ 義経伝説をゆく」京都新聞センター

 

 

 

 

 

 

 



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◆左獄(東獄)跡
左獄は都におかれたふたつの獄舎(左獄・右獄)のひとつで、左京一条二坊十四町
(近衛大路南、西祠院大路西、油小路東、勘解由小路北)にありました。
現在の京都府庁の西、丁子風呂町南側から勘兵衛町を中心とする一画です。
逢坂山で捕えられ六条河原で斬られた悪源太の首は、左獄の樗の大木にかけられました。
この獄門にかけられたのは源義朝・その郎党の鎌田正清や源義仲、
さらに平宗盛が近江国篠原で斬られ、その首を獄門傍の樗にさらされています。

しかし付近にはそれを示す石碑さえなく、道行く人や辺りに住む人達でさえ
その歴史を知る人は少ないのではないでしょうか。
丁子(ちょうじ)風呂町と呼ばれている辺りは、中世までは獄門町といったとか。

人柄が愛され長い間国民的英雄だった悪源太義平
 
 

ここで『平治物語』(悪源太誅せらるる事)から、悪源太の最期をご紹介します。
青墓宿で父義朝に北国に行けと命じられた悪源太義平は、越前国足羽まで下っていた。
そこで義朝が討たれたことを聞き、父の無念を晴らそうと足羽より都に上り
六波羅の様子を窺っていると義朝の郎党、丹波国の住人志内六郎景住に行き合った。
景住は源氏の御代になるまでと、つてを頼って平家に仕えているという。
義平は「日頃のよしみを忘れてないか。親の敵を討ちたいと思うぞ。」というと
「どうして忘れましょうか。お手伝いしましょう。」と言うので、それでは頼みを
聞いてくれと「お前を主人として、義平を下人にせよ。」と言い、景住が六波羅へ
出仕するときは、義平は下人のように身をやつして一緒に行き、蓑、笠、
履物のような物を持って門の辺りに佇み様子を窺う。しかし平家一門は揃って
栄華を極め、かたや我身は運の尽きた身。警固が厳しくて狙う隙がない。

二人は三条烏丸にある宿を借りて身を隠していましたが、この宿の家主はいつも
不思議に思っていました。といいますのは、主という男は立ち居振る舞いが無骨で
話す言葉もいやしい。それに比べ下人という男の立ち居振る舞いは立派で、
物思いにふけっている様子などはただ者ではない。
主を下人にして、下人を主にした方がふさわしいのに。と常々思っていました。
ある日家主は障子のすき間から二人の様子をのぞくと、主がおかずのついてない飯、
下人が立派なおかずのついた飯をとって食べている。このものたちは源氏の郎党と
聞いていたが、下人というのはきっとあの悪源太義平であろう。六波羅では悪源太義平が
平家を狙っていると大騒ぎなさっているが、よそから平家のお耳にでも入ったら大変だと
早速六波羅に参上してこのことを申しあげた。「さては悪源太であろう捕まえろ。」と
難波二郎経遠が三百余騎引きつれて三条烏丸へ押しよせた。

悪源太は、袴の股立ち(ももだち・左右の側線の部分)をとり、石切という太刀を抜いて
ざんばら髪になって戦う。「悪源太ここにあり。さあかかってこい。」というや走り出す。
と平家の侍は左右にざっと退く。義平は真っ先に向ってきた者を2、3人斬り伏せ、
土塀の屋根に手を掛けてひらりと飛び越え、家伝いにどこへともなく消えてしまった。
経遠は景住を生け捕りにして六波羅に戻り縁の端に引いてとどめ置いた。清盛が出てきて
「汝は平家に仕える身でありながら、主を裏切って斬られることの哀れさよ。」と仰る。
景住は「源氏は重代の主、平家は今の主なり。源氏の御代になるまでと仕える我を、
下人にした貴方さまこそ、うかつ者。」と申すと「不埒な奴め。」と景住を
六条河原に引きずりだした。「景住は源氏の郎党の中では下級の武士です。それが
平家の大将軍清盛を相手にして斬られてもこの命少しも惜しくはございません。」と
言い残して念仏を唱えながら23歳の若さで処刑されてしまった。
世の人々は皆その死を悼み惜しんだという。

一方義平は、昼は大原、静原、梅津、桂、伏見など都近くを転々と居場所を変えて潜み、
夜になると六波羅へ出て平家を狙うが隙がない。すっかり疲れてしまった義平は
知人を頼って近江でしばらく休養しようと下る途中、
逢坂山で休んでいるうちについ正体もなく眠ってしまった。

逢坂山の山麓に設けられた逢坂山関址の碑

謡曲『関寺小町』で知られる長安寺(大津市逢坂2丁目)境内より
悪源太が眠りこけていた逢坂山遠望。

丁度そこへ難波二郎経遠が50余騎を引き連れて石山寺に参詣しようと通りかかった。
一行が逢坂山の関の明神の前で経文を唱えていると、折しも空ゆく雁の列が
パッと左右に分かれて乱れた。「敵野に臥す時は雁の列が乱れるということがある。
敵がこの辺にいるに違いない。」と馬から下りて一行が辺を捜すと何者かが寝ていた。
「そこに臥しているのは誰だ、名乗れ。」という声に驚いて飛び起きた義平は
「源義平ここにあり」と平家の侍相手にさんざんに斬って廻ったが、
難波二郎経遠が強く引き絞って放った弓が義平の小腕に強く当たり、
傷を負ったため、太刀が思うように握られず遂に生け捕りにされた。
悪源太を馬に乗せて六波羅に連行し侍の詰所に留めおいた。

早速、清盛が現れて「どうして義平は三百余騎で三条烏丸の宿を襲った時には
逃げ失せたのに、逢坂山では僅か五十余騎に生け捕られたのか。」とたずねると
「異国の項羽は百万騎を引き連れながら敵の高祖にとりこにされたというが、
運が尽きたときはこんなものだ。お前たちも運が尽きればこういうふうになるぞ。
義平ほどの者をしばらくでもおいておくのはよくない早く斬れ。」というので
六条河原に引き出した。「あの悪源太が斬られるぞ、さあ見に行こう。」とて、
都中の上下の人々が大勢集まってきて河原はまるで市が立ったようになった。
「下賤の者ども、そこを退きめされい。西を拝んで念仏を唱えよう」というと
びっしり詰めかけた群衆はぱっと退いた。
「ああ平家の奴らは物の道理もをわきまえない者達だよ。日中に賀茂の河原で
斬られることが悔しい。かって、保元の乱にも多くの者が処刑されたが、昼間には
人気のない山中で斬り、河原では夜に入って暗くなってから斬ったものなのに。
思えば平治の乱で清盛が熊野参詣の途中、六波羅からの早馬が切目(切部)の宿で
追いついて信頼・義朝の挙兵を伝え、帰京する清盛を義平が阿倍野辺りで
待ち受けて討とうと言ったのにあの臆病者の信頼が反対したのだ。
あの時なら二条天皇も後白河上皇も我が方にあり、何より時の勢いというものがあった。
清盛を都に入れてから一度に滅ぼそうと信頼めが命令したため
このようなことになってしまい憂き目にあうことよ。」と昼間大勢の人々の前で
斬られる屈辱にさすがの義平もつい愚痴がでてしまいます。
「何をいまさら過ぎ去ったことをおっしゃるのか。」と難波二郎経遠が太刀を抜いて
斬ろうとすると「義平をお主が斬るのか。上手く斬らないと顔にくいつくぞ。
今すぐ食いつかなくても百日中に雷となってお前を蹴殺すぞ。」と悪態をついて
手を合わせ念仏を唱えながら御年二十歳で斬られた。その首は獄門にかけられたという。

義平は死後雷となって、恨みを晴らしたことが
「平治物語・悪源太雷となる事」に書かれています。
義平を斬った難波二郎経遠が福原へ行った帰り道、摂津国昆陽野まで来た時、
今まで晴れていた空がにわかに掻き曇り、雷が激しく鳴り出した。
難波二郎経遠は「雷になってお前を蹴殺してやる。」という義平の言葉を思い出して
恐ろしくてならない。今の雷は義平であろうか。と義平を斬った太刀を抜いて額に当て、
馬に鞭あて駆けていくうち雷はいっそう激しく鳴り響く。難波の家来が松の木の下で
馬を留めて見ていると、雷が落ち馬と共に難波二郎経遠が蹴殺されてしまった。
都にも六波羅にも雷がおびただしく鳴り落ち、多くの人々が亡くなってしまった。
清盛は大騒ぎして貴僧、高僧に命じて大般若経を読ませたところ、
たちまち雷は鎮まった。恐ろしいことである。
右獄(西獄)と左獄(東獄)  
『アクセス』
「丁子風呂町」市バス堀川下立売下車5分
『参考資料』
 日本歴史地名大系「京都市の地名」平凡社
新京都坊目誌「我が町の歴史と町名の由来」京都町名の歴史調査会
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店 「図説源平合戦人物伝」学習研究社
 

 

 
 





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平治の乱(1159年)で平家に敗れた源義朝は東国へ敗走中、
長田忠致(おさだただむね)に野間(愛知県)で殺害され、
嫡男の頼朝は美濃(岐阜県)青墓宿で捕らえられました。

永暦元年(1160)、頼朝は14歳で配流地伊豆への途中、
当社に参籠して源氏の再興を祈願したという。
その三十年後、見事
源氏再興を果たした建久元年(1190)上洛の途次、
再び当社に詣で瀬田郷300石と数多くの神宝を寄進したとされています。

このことから出世開運の神として人々の厚い信仰を集めてきました。
その後、度々戦火にみまわれましたが、その都度再建し、
江戸時代には膳所藩歴代藩主の崇敬を受けています。


瀬田唐橋から東へ500mほど進むと、建部大社の鳥居が見えてきます。

二の鳥居

社伝によると、神崎郡建部郷(東近江市)に日本武尊を
建部大神として祀ったのが始まりとされ、天武天皇4年(675)、
現在地に遷したとされています。
天平勝宝7年(755)には、孝徳天皇の詔により大和一の宮、
大神神社から大己貴命を勧請し権殿に祀られ現在に至っています。


当社には八幡神は祀られていませんが、日本武尊(倭建命)の孫にあたる応神天皇、

その母神功皇后を祭神とするのが八幡神、すなわち建部大社には
八幡神のご先祖がお祀りされていることになります。


神門

例大祭 4月15日  船幸祭(せんこうさい)8月17日

拝殿前の三本杉がご神木となっています。

建部大社は、瀬田唐橋の東方に鎮座し、
近江国一の宮として屈指の歴史と由緒を持つ社です。
主神は日本武尊(倭建命)、相殿に天明玉命、
権殿に大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られています。

さてここで『平治物語』から、
「頼朝遠流の事付けたり守康夢合わせの事」のあらすじをご紹介します。

北方の胡の国から来た馬は北風が吹くと故郷を懐かしんでいななき、
南方の越の国から飛んできた鳥は故郷のある南に向いて延びる枝に巣をつくるという。
獣や鳥でさえこのように故郷の名残りを惜しむ。まして人間であれば尚更である。

人は皆流罪というと嘆きますが、頼朝の流罪は死一等減じられ遠流となったのですから
世にもまれな喜びでした。「頼朝が流されるぞ、さあ見に行こう。」と延暦寺の僧、
園城寺の僧が大津の浜に市が立ったように多勢集まってきました。
頼朝の姿を一目見るなり
「眼つきの鋭さといい人柄といいただ者ではない。
頼朝を伊豆国に流せば千里の野に
虎の子に翼をつけて放すようなものだ。
恐ろし、恐ろし。」と僧たちは口々に言い合います。

宗清は頼朝との別れが名残惜しく、見送るうちにはや瀬田の橋を過ぎてしまいました。
「あそこに見える森は何だろう。」と頼朝が尋ねると「建部の宮といって八幡神を
祀る社です。」と宗清は答えます。「では今夜は八幡さまの御前で過ごして、
道中の無事を祈り
お暇申しあげてから伊豆へ下ろう。」と頼朝が言うと
「頼朝は流罪の身でありながら
宿場に泊まらずに神社に参籠して終夜祈願した。」と
平家の方々がお聞きになったら、
どう思われるでしょう。」と宗清は言いますが
「源氏の氏神さまにお別れもうしあげるのに
不都合はないだろう。」とおっしゃるので、
仕方なく一行は建部宮に入りました。
「南無八幡大菩薩、もう一度都へお返しください。」と
頼朝は祈ったそうですが、恐ろしいことです。


父義朝の郎党上野守康という男が、頼朝が伊豆配流と聞き、老母が重病にもかかわらず
粟田口までお見送りしようやってきました。粟田口まで来ると
せめて逢坂山までと思い直して、とうとう建部大社まで来てしまいました。
その夜、守康は霊験あらたかな夢のお告げを受けました。人が寝静まってのち
頼朝のお傍へ参って守康は小声でささやきます。「伊豆国へお行きになっても、決っして
出家だけはなさいますな。夢の中に神の示現がありました。
その夢というのは、八幡に参詣していたら御殿の中から『頼朝の弓矢はどこにあるか』
とお尋ねがあり『ここにございます。』と答えて二人の童子が弓矢を持ってくると
『納めておけこの弓矢を取り出す時がきっとくるぞ。』と言い終えて
弓矢を御殿の奥に
納められました。またその後、
佐殿(頼朝)が白い直垂姿で庭上をかしこまって通られると、

白金の盆に鮑を薄切りにし、延ばして干したのし鮑を67、8本
(60余州をさしたものか)置かれ、神さまが『さあ頼朝に与えよう』と仰り
御簾(みす)のうちから出された鮑を佐殿がふつふつとお食べになったのち、
僅か一本お残しになり『守康にやる。』といってお投げになったものを、
守康がい
ただいて食べたとも懐に入れたともはっきりと覚えぬまま夢からさめました。

正夢に違いありません。きっとご主君の時代がくると思われます。

人が何と言おうが
ご出家だけはなさいますな。」とこっそり囁きますが、
頼朝は誰かが聞いていると思われたのか、

返事はなさらず黙ってただ頷くだけでした。翌朝一行は、建部大社の八幡大菩薩に
別れを告げて出発します。守康は「せめてもう一日だけでもお供したいのですが、
老母が危篤におちいっています。」と帰り、
宗清は篠原まで送りましたが、頼朝にこれから先の無事を言いおいて、
都へと
戻って行きました。やがて伊豆国の蛭ヶ小島に到着すると、
役人は伊東や北条に「頼朝を守護するように。」と申しおいて
都に帰って行きました。

『アクセス』
「建部大社」大津市神領一丁目16-1 京阪電車「唐橋前」駅下車 徒歩15分
JR琵琶湖線「石山駅」下車 バス 「建部大社前」下車徒歩3分
 JR琵琶湖線「石山駅」下車 徒歩 20分

『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店 奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社
永原慶二「源頼朝」岩波新書 「滋賀県の歴史散歩」(上)山川出版社
「滋賀県の地名」平凡社 01・2月号「歴史読本」(古事記・日本書紀と謎の神々)新人物往来社

 

 
 
 
 

 



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「平治物語」には、亡き家盛に頼朝が似ているという話を宗清から聞いた池禅尼が、
ふびんに思い清盛に頼朝の命乞いをしたいきさつが詳しく語られていますが、はたして
それだけの理由で池禅尼は断食までして清盛に頼朝の助命を嘆願したのでしょうか。
今回は池禅尼の縁者と頼朝の母方の縁者との接点をみてこの問題を考えてみます。

藤原宗兼の娘池禅尼(宗子)は平忠盛の後妻となり家盛、頼盛を生みますが、
家盛は病をおして鳥羽院の熊野詣の供をして帰京の途中亡くなります。
池禅尼の叔母は当時宮廷社会で勢力を誇っていた善勝流藤原家保の妻となり
家成を生んでいます。この家系は家保の父顕季の母が白河天皇の乳母となった関係から
政界に進出し代々白河・鳥羽・後白河と常に院近臣の中心人物となっています。家成も
鳥羽院有力近臣として絶大な権勢を振るい鳥羽殿の安楽寿院や三重塔を造営します。
鳥羽院との間に近衛天皇を生んだ美福門院は家保の姪、家成の従姉妹にあたります。
忠盛は妻宗子の縁で家成との結びつきを強め白河院・鳥羽院の恩寵を得て
着実に出世していきます。

父正盛までは地下の受領だった忠盛が得長寿院を建立・寄進し、
鳥羽院を大いに喜ばせ念願の内裏の昇殿を許され殿上人になったことが
「平家物語」(巻一)『殿上の闇討の事』に書かれています。
得長寿院は、のちに清盛が建てた蓮華王院三十三間堂と構造・規模とも
ほぼ同じとみられ聖護院辺りにありましたが現存していません。

「然るに忠盛、未だ備前守たりし時、鳥羽の院の御願、得長寿院を造営して、
三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏を据え奉らる。供養は天承元年三月十三日なり。
勧賞には欠国を賜ふべき由仰せ下されける。上皇なほ御感の余りに、
内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて、始めて昇殿す。」

善勝流藤原氏と平家の関係は忠盛の時代だけでなく清盛の嫡子重盛が成親の妹を
妻とし、その子維盛も成親の娘と婚姻関係を結んでいます。平治の乱で
信頼方についた成親が解官だけですんだのは重盛が助命に奔走したおかげです。



美福門院の生んだ体仁(近衛天皇)が三歳の時、崇徳天皇は鳥羽上皇にだまされた形で
譲位すると、鳥羽・崇徳の不和はいっそう深まり、これが保元の乱の一因となります。
鳥羽院と美福門院は近衛天皇が即位すると病弱な天皇には皇子が
生まれないかもしれないと崇徳院の子である重仁親王、雅仁親王(後白河)の子
守仁親王(二条天皇)を養子にします。
池禅尼は重仁親王の乳母、忠盛は乳母夫となり、歌人でもあった忠盛は和歌を通じて
崇徳院とも親密な関係を築いています。

近衛天皇が即位すると美福門院の権勢が強まり、待賢門院やその周辺の人々は
影の薄い存在となり、鳥羽院との関係が疎遠になっていた待賢門院璋子が出家します。
崇徳院は母待賢門院が置かれている立場に心を痛め、
ますます美福門院を憎むようになります。
嗣子のないまま17歳の若さで近衛天皇が病死すると、重仁親王をたてたいと願う
崇徳院の気持ちに反して、鳥羽上皇は崇徳院の弟後白河天皇を即位させます。
保元元年(1156)鳥羽院が死去すると、謀反を起こさないといけない所まで
追い詰められた崇徳院が兵を集め保元の乱が起こります。
同じころ摂関家でも忠通、頼長の兄弟が家長の地位をめぐって内輪もめが起こり、
後白河天皇には忠通が崇徳院には頼長がつき天皇家・摂関家だけでなく侍として
仕える源氏、平氏の武士まで巻き込んだ戦いに発展していきます。

すでに忠盛は亡くなっていたため、池禅尼は「この軍は一定新院の御方はまけなんず、
勝べきやうもなき次第なり」とて「ひしと兄清盛につきてあれ」と頼盛に指示します。
◆新院とは上皇が二人以上いる場合、新しく上皇になった方でここでは崇徳上皇のこと。
当時鳥羽上皇は没していたため、新院という言葉を用いる必要はないが、
崇徳上皇について新院という表現が広く用いられていた。

本来なら池禅尼は重仁の乳母ですから頼盛を崇徳院のもとに参加させるのが筋ですが、
池禅尼は崇徳院方に勝ち目はないと頼盛に後白河天皇方に加わるよう諭します。
この時やはり重仁親王の乳母子にあたる清盛は美福門院得子に誘われ、後白河天皇方に
付いていました。乳母としての感情を抑え、情勢を的確に判断した池禅尼により
平家は一族内で統一した行動をとることができ、その勢力を保持することができました。
これとは逆に源氏はこの戦いで義朝の父や兄弟が崇徳院方につき
一族の多くを失っています。


次に頼朝の母方を見てみると頼朝の母は熱田大宮司家藤原季範の娘で、
季範は熱田大宮司であるとともに官人として殆どを都で過ごします。
その弟憲実は待賢門院の御願寺円勝寺に入り、
寺院内のこといっさいを掌る都維那(ついな)にまで昇進しています。
季範の娘たちも待賢門院璋子や璋子の娘上西門院に女房として仕え、頼朝の母も
上西門院の女房だったのではと云われています。息子範忠は後白河近臣、
範雅は後白河天皇の北面として仕え、祐範は園城寺に入っています。
統子内親王(上西門院)が皇后に昇ると12歳の頼朝が皇后宮権少進に任じられ、
さらに上西門院蔵人もつとめています。このことから上西門院や
その周辺の頼朝の縁者が頼朝助命に動き上西門院と親しかった池禅尼に
口添えを頼んだのではないかといわれています。

 

 


また「王朝の明暗」によると頼朝が捕らえられて以来、彼の母方の縁者の間では
助命運動が密かに進められていたのではなかろうか。その中心人物は
頼朝の母の弟である園城寺の僧祐範とし、祐範は頼朝が伊豆国へ配流された際、
家人一人を頼朝に付け、その後は毎月頼朝の許に使者をつかわせ面倒を
みたということである。祐範が白河法皇の皇子である園城寺長吏・前大僧都行慶に
頼朝の助命を懇願したとしても別に不自然ではなかろう。
行慶は従兄弟の宗賢法師を案内役とし密かに池殿を訪れ、池禅尼に
頼朝助命について尽力を懇願したとすれば、もともと頼朝に同情していた彼女は
この依頼を拒絶できなかったであろう。宗賢は池禅尼の義理の甥にあたり、待賢門院の
忠実な側近で女院が落飾したその日に出家したという人物です。
それに池禅尼には保元の乱に崇徳上皇や重仁親王を裏切った後ろめたさが
あったはずであると角田文衛先生は述べられています。
以上のことから池禅尼が一時的な感傷からだけで、死を覚悟した強い決意で
清盛に助命を懇願したのではないことが推測できるのではないでしょうか。

『参考資料』
角田文衛「王朝の明暗」東京堂出版 高橋昌明「清盛以前」文理閣 竹内理三「日本の歴史(6)」中公文庫 

「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 

奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 保立道久「義経の登場」NHKブックス





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平治の乱に敗れた頼朝は捕えられましたが、池禅尼のとりなしで死罪を免れ
伊豆に配流となり、京の粟田口を出て東国に向かいました。
この時代の流罪は、遠流・中流・近流の三段階あり、伊豆は流罪の中で
もっとも刑の重い遠流ということになります。
この日、頼朝の同母弟希義(まれよし)も捕えられて土佐国に流されていますが、
土佐も伊豆同様に遠流地の一つとされてきた国です。
永暦元年(1160)3月11日、伊豆まで送る役人・検非違使三善友忠に付き添われ、
頼朝は都から粟田口を出て近江・伊勢へと陸路をとり、
伊勢の阿濃津(あのつ)より海路で伊豆へと向かいます。

頼朝の乳母・比企の尼とその夫の掃部充(かもんじょう)、
亡母の弟藤原祐範が付けてくれた家人のみが頼朝の供でした。
あまりの寂しさに平氏の家人・高庭介資経(たかばのすけすけつね)が
郎党藤七資家に命じて供をさせます。
比企の尼とその夫は所領武蔵国比企郡に帰り、以後頼朝挙兵までの
二十年間、毎月食料を送るなど頼朝の生活を支えます。
東国伊豆は源氏の拠点であり代々源氏に仕えてきた武士が多くいる地域でしたが、
頼朝が当時全盛の平家一門を滅ぼすとは誰も思っていませんでした。

京都市立白川小学校前に粟田口の碑と駒札が建っています。





粟田口は京の東の出入口、粟田郷を抜けるので粟田口とよばれ、
三条口、三条橋口、大津口ともいう。『京の古道を歩く』には、
「東海道の道筋として現在の三条通より一筋南、白川小学校(旧粟田小学校)横から
粟田神社、良恩寺、佛光寺の前を通り都ホテルで行き止まりになる細道がある。
どうもその風情から考えて、これが古の東海道の跡だと思われる。」と書かれています。
ここから日ノ岡峠・逢坂山を越えて近江へと通じる道は東海道、東山道、北陸道に
通じる道筋として平安時代以降重要視されてきました。

『平家物語・巻九・河原合戦の事』には、木曽義仲の都落ちの様子が
「六條河原と
三條河原の間にて、敵襲ひかゝれば、取つて返し々、木曽、僅かなる小勢にて、
雲霞(うんか)の如くなる敵の大勢を五六度まで追返し、賀茂河さつとうち渡り、
粟田口・松坂(日ノ岡峠西)にもかゝりけり。去年信濃を出しには、
五万余騎と聞きしが、今日四宮河原を過ぐるには、主従七騎になりにけり。」とあり
『義経記』には、「鞍馬山を出た遮那王が奥州下向の際、粟田口の十禅寺の前で
金売り吉次と待ち合わせ松坂や四宮河原を過ぎ逢坂関も越え、大津の浜をよぎり
瀬田の唐橋をうち渡り近江国の鏡の宿についた。」と書かれ、
いずれも近江への途次として粟田口を通ったことが記されています。

『平治物語』によると、美濃国青墓で捕えられたのち宗清に預けられた頼朝は、
池禅尼から「日々のお世話するように」と小侍一人付けてもらった。
「去年三月に母御前に先立たれ、正月三日には父頭殿が討たれ、
兄の悪源太や大夫進も亡くなった。今日は父の35日にあたる。
このような身でなければどのような仏事でも行うことができますが、
捕われの身では何もできません。せめて卒塔婆の一本でも刻み念仏を
書いて菩提を弔いたいので小刀と檜の木を探してきてくれ。」と小侍に頼んだ。
これを小侍から聞いた宗清は小さい卒塔婆を百本作って念仏を書き、
宗清の知り合いの僧を招いた。佐殿は着ておられた小袖を脱いで僧の前に差し出し
「頼朝が世に時めいているなら、どのようなお布施も用意させていただきますが、
このような身の上ですので力が及びません。卒塔婆の供養を述べていただけませんか。」
とおっしゃると僧はこの言葉にしみじみと感じ入り、卒塔婆が立派なことや佐殿の
供養の心が深いことを仏前に申し述べ「成等正覚、頓証菩提、極楽往生」と唱えて
鐘を鳴らすと佐殿、宗清以下の者ども皆涙を流した。

「お命助かりたいと思われませんか」と宗清が佐殿に申すと「保元・平治の合戦で
亡くなった兄弟や父の後世を弔いたいので命は惜しうございます。」とおっしゃる。
「池禅尼と申される方は頼盛の母、清盛にとって継母にあたります。この方はたいそう
憐れみ深い方ですが、先年、山法師の呪詛にて右馬助家盛殿を亡くされました。
その家盛殿のお姿に佐殿はよく似てらっしゃいます。池禅尼殿にこのことを
申し上げたならお命を助けてくださるかもしれません。宗清が頼んでみましょう。」と
早速池禅尼の所に参上して「何者が申したのか分かりませんが、頼朝は池禅尼殿が
情け深い方とお聞きなさって尼殿におすがり申し上げて命だけでも助けていただき、
父の後世を弔いたいと申しています。この頼朝の姿は亡き右馬助殿に瓜二つです。」と
申すと池禅尼は「私が情け深いと誰が頼朝に申したのでしょう。忠盛の代には多くの者を
助けることができましたが、清盛の代になってからは申してもかないません。
だが頼朝が右馬助の姿に似ているとは悲しいことよ。駄目かもしれませんが、清盛に
お願いしてみましょう。」と孫の伊予守重盛を呼んで「頼朝が父義朝の後世を弔いたいと
言っているそうです。聞く所によると頼朝は亡くなった家盛にそっくりといいます。
家盛は清盛の弟ですからそなたにとっては叔父にあたります。叔父の孝養と思って
頼朝を助けてやってください。」とおっしゃるので重盛は早速父清盛のもとに参上して
このことを申されると「こればかりは池殿がおっしゃることでも承知したとは言えまい。
源平の中が悪く、源氏にこれまでどれだけ平家の者が斬られたかわからないし、
清盛が大将軍となり保元・平治の乱で源氏の兵の多くを討ったのは本当のことだ。
中でも頼朝は義朝が可愛がり右兵衛権佐まで昇進させ、将来は大将となる人物として、
いい武具も与えたと聞いている。兄弟多いなか、しかも多くの兄弟が
亡くなっているのに、頼朝が今まで生きていたのが不思議である。
助けるなどということは思いもよらない。早く斬ってしまえ。」と取り合わない。

重盛からこのことをお聞きになり池禅尼は、頼朝が斬られたら生きている甲斐がないと
湯水も口にせず悲しんでお嘆きになる。このことを伝え聞いた重盛は再度清盛に
「池禅尼殿は頼朝が斬られたらご自分も餓死すると何も口になさっていません。
年もとっていらっしゃるのでこのままだとお命が危ないと聞いています。もし尼殿が
お亡くなりになったら清盛は継母・継子の仲だからこのようなことをするのだと
人々が噂をすると父上にも差し支えがあるでしょう。頼朝一人助けたところで
何ほどのことがございましょう。平家の運が尽きたときには、諸国に多勢いる
源氏が政権をにぎるのは当然のことです。」と道理を尽して申されるので
清盛もなるほどと思ったのか頼朝を伊豆国へ流罪ということにした。

宗清は池禅尼のもとに、暇ごいをさせるために頼朝を連れて参上した。
池殿は頼朝を近くに呼び寄せてつくづく御覧になって「本当に家盛の姿かたちに
少しも違わない。そなたを遥々伊豆国まで行かせるのは心が痛む。都近くに置いて
心慰めたいものだがそれも叶わぬこと。そなたを家盛と思い春秋の衣装を年に
二度送りましょう。そなたも尼を母と思い私が亡くなったら後世を弔ってください。
伊豆国は鹿が多いところで土地の人々が集まっては狩をすると聞いています。
土地の者などとつまらぬ狩などして『流人なのに勝手な振る舞いをして。』と言われ
訴えられでもしたら又つらい目を見ます。くれぐれも注意しなさい。」と仰ると、
佐殿は「どうしてそのような振る舞いをいたしましょうか。髷を切って父義朝の後世を
弔いたいと思っております。」と申されると「よくおっしゃった。名残りが惜しくなる。
早く、早く帰りなさい。」と涙をお流しになる。三月十五日頼朝は役人とともに
都を出立し粟田口に馬を止めて名残りを惜しまれる。
『アクセス』
「粟田口の石碑」白川(旧粟田)小学校京都市東山区三条坊町52-4
 市営地下鉄東西線「東山駅」下車東へ徒歩約5分。
『参考資料』
永原慶二「源頼朝」岩波新書 「源頼朝七つの謎」新人物往来社 
奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社 
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 日本歴史地名大系(27)「京都市の地名」平凡社 
増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 高木卓訳「義経記」河出文庫

 
 
 
 





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平治の乱に敗れ東国をめざす父義朝らとともに伊吹山麓の道を辿るうち、
雪の中で一行にはぐれ、年明けに青墓に到着した頼朝は義朝の妾、
延寿(えんじゅ)の長者屋敷に隠れ住んでいました。
青墓は往時の美濃の中心地でした。
東国へ往来する旅人が青墓宿(しゅく)に泊り、
その世話をしたのが土地の豪族の「長者」でした。

そのころ、尾張国司となった頼盛は、弥兵衛宗清を目代として任地に
下向させました。青墓宿に着いた宗清はその夜、遊女を泊めると
「長者の所に兵衛佐(頼朝)がいる。」と言うので、すぐに平家の侍と共に
長者屋敷に押し寄せ「兵衛佐(すけ)を出せ」という。
大炊がこのことを頼朝に告げると「覚悟しています。」と
自害しようとしている所に侍どもが押し入り、
刀を奪い取り頼朝を捕えました。
宗清が頼朝を連れて長者屋敷を出て行くと、頼朝の異母妹の夜叉御前が
「我も義朝の子なり。佐殿と一緒に一緒に」と転げまわって
泣くので宗清はじめ平家の侍たちも哀れに思います。

都に帰って平家に頼朝を御覧に入れたところ「でかした!」といって
頼朝を宗清に預けました。清盛は頼朝に使者を送り
「髭切はどこにあるのか。」と尋ねさせると、頼朝は今更隠しても
何の甲斐があろうと「青墓の長者のもとにございます。」というので、
難波六郎恒家が長者の家に行き「髭切があるそうだが、返すように」というと
長者は源氏重代の太刀を平家にとられるのは残念なことです。
たとえ佐殿が斬られたにしても、義朝にはお子様が沢山おいでになる。
この先平家の運が尽きてしまい源氏の世になることもあるでしょう。
その時この太刀を差し上げたならどんなにお喜びになるでしょう。

どうしたものかと考えあぐねていましたが、わが家には髭切にも劣らない
泉水という太刀があるのでこれを渡そう。佐殿にお尋ねになっても
「髭切です」といえば済むことだし、万が一「違う」と返事し、
平家から咎めを受けたら「私は女なので刀のことはよく知らない。」と
髭切は柄もさやも丸かったのでさし替え、泉水を差し出しました。
清盛は頼朝のもとにこの太刀を届けさせ「髭切であるか」と尋ねさせると
「そうです」といったので清盛は大そう喜びこの太刀を大切にしまいました。

夜叉御前は頼朝が捕らえられてからというもの湯水も通らず、
嘆き悲しまれるので「どうしてそんなにお嘆きになるのですか。
お命を長らえてこそ父上のご菩提を弔うことができましょうに」と
さまざまに言い聞かせると気分も和らいだご様子なので大炊も
延寿も気をゆるし、乳母も姫につきそうのはやめたその矢先の
2月1日の夜、夜叉御前は一人青墓を出て遥か遠くの杭瀬川に行き、
まだ10歳というのに身を投げたのはまことに痛ましいことです。

朝になって長者の家では夜叉御前がいないのであちこち捜していると、
通りがかりの旅人が「杭瀬川の水際に幼い子の死骸があります。」と
教えてくれました。大炊(おおい)とその娘延寿、
乳母が駆けつけてみるとなんと夜叉御前でした。
空しい遺骸を輿に乗せ帰り、朝長の墓に並べて埋めて後世を弔いました。

延寿は「義朝殿にも先立たれ、殿の形見の姫にも先立たれてしまいました。
生きている甲斐もありません。」と嘆くので大炊があれこれ宥めすかすと、
延寿は母の気持ちにそむくまいと尼になり、義朝の菩提を余念なく弔いました。
(『平治物語』頼朝生捕らるる事付けたり夜叉御前の事)

青墓の長者は当時は、女系長者制でその管轄下には数多くの遊女がいて、
延寿の一人娘である夜叉御前は長者一族にとっては大切な存在でした。



夜叉御前が身を投げた杭瀬(くいせ)川
◆「弥兵衛尉宗清」
桓武平氏・右兵衛尉平季宗の子。
頼盛の家人であった宗清は平治の乱の際、頼朝を捕えその助命に奔走します。
のち頼朝はその恩義に報いるため鎌倉に下向するよう促しますが、
宗清は頼朝の再三の招請を断り、屋島に馳せ参じます。
(『平家物語・巻10(三日平氏の事)』)

その後の宗清

那智大社~補陀洛山寺(政子熊野詣・平宗清荷坂の五地蔵)  





赤坂港杭瀬川の畔に復元された常夜灯

木曽海道六十九次之内赤坂「中山道広重美術館」

皇女和宮之碑
◆「杭瀬川・赤坂宿」
夜叉御前が身を投げ、義朝が野間へ下った杭瀬川は、
もともと揖斐川の本流で川幅も広く流れも急でした。
赤坂宿は東山道の要衝として杭瀬川右岸に開け、鎌倉時代以降青墓宿が
衰退するのに代わって発展し江戸時代には中山道の宿場町として栄えます。

江戸時代にはここから舟で物資を運び出し、明治に入り石灰生産が盛んになるに
伴って杭瀬川の舟運が活発となり、赤坂に港が整備され水運の要衝となります。
大正時代の始め鉱山鉄道の役割を果たすJR美濃赤坂線が開通し急激に衰微し
さらに昭和になると下流に水門ができ赤坂港は廃絶します。


◆「兵衛府」は宣陽門・陰明門より外、建春門・宜秋門より
内を守り行幸の時に供奉し雑役を勤める役職をいいます。
督(かみ・左右各一人)・佐(すけ・左右各一人)大尉(じょう)・少尉・
大志(だいさかえ)・少志その下に府生・番長・案主(あんじゅ)・
府掌(ふしょう)・兵衛などがありました。
左右近衛、左右衛門、左右兵衛を総称して六衛府という。
源頼朝は右兵衛佐だったので「平治物語」「平家物語」には「佐殿(すけどの)」
とあり「吾妻鏡」などには、兵衛の唐名から「武衛」と書いてあります。
『アクセス』
「赤坂常夜灯」JR大垣駅から近鉄バス赤坂総合センター行「赤坂大橋」下車徒歩5分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 
和田英松「官職要解」講談社学術文庫

京都造形大学編「京都学への招待」角川書店 日本歴史地名大系21「岐阜県の地名」平凡社
 
 
 


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