平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




七条通り、七条七本松の信号近くにある路地入口には、「源為義公墓」の碑が見えます。

突き当りが権現寺で、門前西側の一角に為義の墓があります。

『昭和京都名所図会』によると、この墓は現在の中央卸売市場のある
下京区朱雀堂ノ口町に
ありましたが、明治45年(1912)京都駅停車場拡張により、
権現寺とともに現在地に移されました。


源為義は義朝の父で、六条堀川に館を構えていたことから
六条判官とよばれる源氏の棟梁でした。
大内裏の一番外側を管轄する左衛門府の尉官と市街地を担当する
検非違使(現在の警察にあたる)を兼ねた職を判官といいます。

保元元年(1156)、鳥羽法皇の死を機に後白河天皇と崇徳院とが争った
保元の乱では、息子の義朝は清盛、藤原忠通とともに後白河天皇につき、
為義は八男の鎮西八郎為朝や藤原頼長とともに崇徳院方に味方しました。
親子敵味方に分かれたこの戦いは後白河方が勝利しました。

敗戦後、義朝を頼って為義は降伏しましたが、父に対する義朝の助名嘆願は
容れられず、朝廷の命で朱雀野にて為義は義朝の家臣に処刑されました。

『兵範記』には、為義は朱雀野で斬られたのではなく、義朝の弟頼賢・頼仲・為宗・
為成・為仲らと一緒に
船岡山付近で処刑されたとされています。
白峯神宮の伴緒(とものお)社には、為義・為朝父子が祀られています。
白峯神宮 (崇徳天皇)
『アクセス』
「権現寺」下京区朱雀裏畑町20  市バス「七条千本」下車すぐ
『参考資料』
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川書店 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス

 「平安時代史事典」角川書店 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂



コメント ( 2 ) | Trackback (  )





若宮八幡宮は五条坂の北側にあります。
もとは源頼義が下京区六条醒ヶ井にあった邸内に勧請した鎮守社でしたが、
応仁の乱後荒廃して東山に移され、大仏造営のため方広寺の北に再度移転し、
慶長十年(1605)に現在地に移されました。

祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇、それに昭和24年に陶祖神・
椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が
合祀されたので陶器神社とも呼びます。
毎年8月7日~10日の5日間、若宮八幡宮社の例祭として、
氏子の陶器業者が中心となり、五条坂一帯で盛大な陶器市が開催され、
約400軒の出店が並び
賑わいます。

若宮八幡宮  当社はもと六条醒ヶ井(さめがい)にあり、
源頼義(よりよし=八幡太郎義家の父)が
八幡の若宮として祀ったものと伝えられている。
  当初は六條(ろくじょう)八幡、左女牛(さめがい)八幡とも呼ばれ、
源氏一族や多くの武士からの信仰厚く、
室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め隆盛を極めた。
  しかし、応仁の乱により社殿は荒廃し、以後社地も転々とし
、慶長十年(1605)この地に移った。
  現在の社殿は承応三年(1654)に再建されたもので、
本殿には仲哀(ちゅうあい)天皇、応神(おうじん)天皇及び
神功(じんぐう)皇后を祀り、相殿(あいどの)には
仲恭(ちゅうきょう)天皇を祀っている。
  毎年八月七日から十日までの間には若宮祭と
その協賛行事として陶器祭が行われる。陶器祭は後に合祀された
陶祖椎根津彦命(しいねつねひこのみこと)の祭礼で、
氏子の陶磁器業者が中心となり、
五条坂一帯で盛大な陶器市が開かれる。京都市
 





本殿玉垣内にある八角形の石造水船は、足利義満寄進と伝えられ
側面に至徳三年(1385)の銘があります。

これを江戸時代に模造したものが、現在参詣者用の手水鉢に使用されています。









旧地での創建は天喜元年(1053)、源頼義の手になり、その邸宅内、
佐女牛(さめがい)小路西洞院(下京区若宮通花屋町上ル若宮町)
にあり、
この邸で八幡太郎義家が誕生したともいわれます。

頼義の邸宅跡に建つ若宮八幡宮の石碑

源頼朝は父祖の地としてここを厚く敬い、文治元年(1185)12月
この邸宅を社地として寄進し、六條若宮八幡宮(神戸市)の造営に着手しました。
室町時代になると源氏の一族足利将軍が帰依し社地・社領も拡大し隆盛を誇ります。
楼門・廻廊・拝殿・神殿・東西経殿・神宮寺・三重塔
鐘楼などと
堂々とした構えの神社だったようです。


源義家(1039~1106)は石清水八幡宮の前で元服し、
八幡太郎義家とよばれます。
源頼義とその子義家の名を高めたのが、
前九年合戦・後三年合戦です。陸奥の国の安倍頼時が反乱を起こした際、
朝廷は河内守源頼義を陸奥守として赴任させました。
頼義・義家父子は出羽豪族清原氏の援を得てようやく乱を鎮圧、
陸奥の国に長い間君臨してきた安倍氏を制圧しました。
これが前九年合戦です。
その後、清原一族の内紛が起こり
家衡と清衡が争うと、義家はそれに介入し
苦戦の末、
清衡を勝利に導きました。これが後三年合戦です。合戦後、
清衡は実父藤原経清の藤原姓にもどり、奥州藤原氏の祖となりました。

この時、朝廷はこの合戦を私戦と見なし、義家に恩賞を与えなかったため、
義家は私財を投じて部下の功労に報います。

東国武士は感激し、「敵にすれば恐ろしいが、味方になれば心強い。朝廷に
背いても源氏に背く勿れ。」と義家は
東国の人々に言われたと伝えられています。

当時の今様にも 
♪鷲の棲む深山には なべての鳥は棲むものか

                     同じき源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや
(鷲のすむような険しい山には、普通の鳥はいないだろうよ。源氏の武士には
優れた者が多いが、八幡太郎はとびきり強くて恐ろしいお方よ。)
とうたわれます。
こうして義家は東国での勢力と、武家の棟梁としての地位を固めていきました。

この功績により、諸国の有力農民が義家に土地を相ついで寄進し、
八幡太郎義家の代で清和源氏は最盛期を向えます。
土地の寄進により経済的基盤が拡大していくのを警戒した朝廷は、義家への
荘園寄進を禁止します。また
後三年の役から十年後の承徳二年(1098)、
義家は正四位下を賜り、
武将ではじめて院への昇殿を許されましたが、
晩年には嫡子対馬守義親が反乱を起こし、さらに三男義国が
事件を起こすなど
義家の中央官界での地位は危ういものになっていきました。

義家の死後は内紛などで一族は衰えていきますが、
義親、
為義から義朝へと続き、義朝の嫡子頼朝が鎌倉幕府を開き、
義国の子孫からは、新田氏や室町幕府を開いた足利尊氏が出てきます。
もと社があった頼義の邸跡もご覧ください。
源氏堀川館・左女牛井之碑・若宮八幡宮  
『アクセス』
「若宮八幡宮」京都市東山区五条橋東5丁目 市バス東山五条下車2、3分
五条東大路交差点の西方120m程北側
『参考資料』
野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館 関幸彦「東北の争乱と奥州合戦」吉川弘文館
  武士とは何だろうか「歴史を読みなおす」朝日新聞社
日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館
京都史跡事典」新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂




 
 
 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )




三井寺北院・新羅善神堂は弘文天皇陵西の山側にあり、
参道はうっそうとした木々に覆われ境内はひっそりとしています。

新羅善神堂と源氏との関りは深く、源頼義は前九年合戦に出陣する際、新羅明神に戦勝を祈願し、
頼義の三男義光は新羅明神の社前で元服し新羅三郎と名のりました。


智証大師(円珍)が留学して、天安二年(858)唐から帰国の船が
暴風雨に翻弄されている最中に新羅明神が現われ、「我は新羅明神なり、
汝のため護法の神とならん」と約束したことから、三井寺北院の現在地に
860年、新羅明神を祀る祠を建てたのが起こりです。内陣須弥壇には
平安時代後期に造られた木造の新羅明神像(国宝)が安置されています。





三井寺は、比叡山との宗門対立で度々焼き打ちに遭っています。
また「平家物語」巻四(三井寺炎上の事)によると
源頼政が以仁王とともに三井寺を頼って兵を挙げ、敗北した頼政は
三井寺の別院であった平等院で自刃し、
以仁王も奈良に向かう途中で殺されます。
この報復として平家の大軍が三井寺を攻め、
金堂のみを残して由緒ある伽藍も焼きつくしてしまい、
責任者は役職を解かれ僧兵は流罪になります。
平家滅亡後、源頼朝は三井寺を源氏の氏寺として再興しました。

現在の三間社流造の代表的な建築の社殿である新羅善神堂は、
貞和三年(1347)足利尊氏によって再興され、国宝に指定されています。
もとは、新羅社・新羅明神社とよばれていましたが、
明治の神仏分離で現在の名称となりました。


新羅善神堂の南の道を上って義光の墓へ



玉垣に囲まれた義光の墓。

新羅三郎義光(1045~1127)
新羅三郎義光は、弓馬の道に優れ早くから朝廷に仕え、
左兵衛尉に任じられていましたが、
後三年の役で兄の義家が
苦戦していることを知ると勅許を得ずに奥州に下向して
勝利に導き、
嘉承元年(1106)には、近江国甲賀郡柏木郷を三井寺に
寄進しています。
義光の子義業からは佐竹家、義清から武田家が出ています。


義光は弓馬に秀でていたばかりでなく
「武芸の家に生まれたため、心ならずも、
これに従っただけである。
先祖の恥は守護神が庇護してくれる」といって

詩歌や笙を好み、その芸域は名人に達していたといいます。
笙の師豊原時元死去の際、義光は秘曲「大食調入調」を授けられ、
源義家に加勢するため奥州に下る義光が、
豊原時元の子時秋に
この秘曲を授けたという伝承があります。

(現地説明板)

源義綱(?~1132?)は、賀茂社前にて元服し賀茂二郎義綱と称します。
前九年の役では父頼義、兄義家に従って奥州に下向し活躍し、
陸奥・伊勢・甲斐・信濃等の国守を歴任します。
義家の死後、義家の子・義忠を殺したという冤罪を着せられて
佐渡へ流されその後自害します。子息五人も自害し一門は滅びました。
(この事件の背後には、義光がいたと云われています。)
 『アクセス』
「新羅善神堂」京阪電車石山線別所駅より徒歩10分。
弘文天皇陵のすぐ西側にある鳥居をくぐって進むと、道が右に折れます。
石段を上った広場の奥にあります。
「新羅三郎義光の墓」新羅善神堂鳥居の横から、
石畳の敷かれた山道を7、8分上ります。
『参考資料』
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社
「三井寺」三井寺発行 「三井寺と近江の名刹」小学館
「日本古典文学大辞典」岩波書店 「平安時代史事典」角川書店
「京都発見」(比叡山と本願寺)梅原猛 
「滋賀県の歴史散歩」(上)「静岡県の歴史散歩」山川出版社

 

 

 

 
 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )