平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



横浜国大前バス停から金沢街道を東へ少し歩き、大御堂橋の信号を右折、
滑川に架かる大御堂橋を渡ったすぐ右手に文覚屋敷址の石碑がたっています。

鎌倉駅東口

金沢街道は横浜市金沢区に至る道



大御堂橋

文覚上人は、もとは摂津の武士団渡辺党に属し、
俗名を遠藤盛遠(もりとお)といい、上西門院(後白河院の同母姉)に
仕えていましたが、源渡(わたる)の妻袈裟御前(けさごぜん)に横恋慕し、
源渡を殺そうとして、誤って袈裟御前を殺した罪を償うため出家したという。
それより熊野の山中で苦行を積みました。
 

その後、神護寺(京都市右京区高雄)復興に奔走し、
寄付を後白河院に強要して乱暴を働き、院の怒りをかい
伊豆配流となりました。
配流地で源頼朝と出会い、京の情勢を伝え、偽の義朝(頼朝の父)の
髑髏を見せて平氏打倒の挙兵を促したといわれ、
『平家物語』では、頼朝に謀反を勧めた人物として重要な働きをしています。
平家滅亡後、頼朝だけでなく後白河院の帰依を受け、
空海にかかわる神護寺・東寺など諸寺の修復に身を挺しました。



(碑文)
 文覚俗称を遠藤盛遠と言ひ もと院の武者所たりしが 年十八 
想を左衛門尉源渡の妻袈裟御前に懸け 郤て誤って之を殺し 
愴恨の余り 僧と為る 其の練行甚だ勇猛に邪寒盛暑林叢に露臥し 
飛瀑に凝立し屡々死に瀕す 養和二年(1182)四月 
頼朝の本願として弁財天を江ノ島に勧請し 
之に参籠する事三十七箇日 食を断って祈願を凝らせりと 
此の地即ち其の当時文覚が居住の旧迹なり
大正十一年三月建 鎌倉町青年団 
大意)
 文覚の俗名は遠藤盛遠といい、もとは院(上西門院)の警備をしていましたが、
18歳の時に、源渡の妻袈裟御前に懸想し、源渡を殺そうとして、
誤って袈裟御前を殺してしまい出家しました。
その修行の仕方は凄まじいもので、酷暑もものともせず
蚊・あぶに体中たかられながら草藪で寝、厳寒の中、
凍りつく那智の滝に打たれ度々死にそうになったという。
養和2年(1182)4月、源頼朝の御願として江ノ島に弁財天を勧請し、
37日間、断食をして祈りつづけたといわれています。
この地はその当時文覚が住んでいた屋敷の跡です。
文覚上人の墓 (神護寺) 
 文覚の滝 (飛瀧神社)    文覚寺   萱の御所(文覚と頼朝)  
恋塚寺(文覚と袈裟御前)    恋塚浄禅寺(文覚と袈裟御前)  
文覚牢跡(文覚町・高雄町・紅葉町)  
『アクセス』
「文覚上人屋敷趾」鎌倉市雪ノ下4丁目
JR鎌倉駅東口より徒歩約30分 鶴岡八幡宮から金沢街道(204号線)を東へ、
街道沿いの横浜国大前バス停を通り、大御堂信号を右折
『参考資料』
山田昭全「文覚」吉川弘文館、2010年
奥富高之編「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年



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鶴岡八幡宮の東側、清泉小学校の角に大蔵幕府跡の石碑が建っています。
この小学校辺が、治承4年(1180)頼朝が鎌倉に入って建てた邸跡で、
最初の幕府がおかれた大蔵(倉)幕府の跡です。

大蔵御所の東西南北には門が設けられ、有力御家人の屋敷畠山重忠邸、八田知家邸が南御門に、
比企能員(よしかず)その子息宗員邸が東御門に、
三浦邸が西御門というように、御所の各門を守るかたちで建っていました。

現在、西御門(にしみかど)、東御門(ひがしみかど)という地名も残り、
由緒を記した碑がそれぞれの所にあります。

御所の周辺には御家人たちの屋敷が密集し、
門前には武士の生活を支える商工業者の家や住宅が建ち始め、
中世鎌倉は御所の門前都市として発展していきました。

西行は重源に頼まれて東大寺の再建費用の砂金を勧進するため、
奥州に赴く途中、鶴岡八幡宮に参詣をしますが、
頼朝に見つけられ御所に招かれます。夜通し頼朝は
歌道や弓馬のことについて質問し、別れ際に銀製の猫を贈りますが、
西行はこの猫を門前で遊ぶ子供に与えたというエピソードが
『吾妻鏡』に見え、長閑な門前の風景がうかがえます。
(文治2年(1186)8月16日条)



西御門を守護する位置にあった三浦邸は、
横浜国立大学附属鎌倉小中学校(鎌倉市雪ノ下3丁目5)
正門敷地の北寄りと考えられています。

横浜国立大学附属小中敷地の垣根の前に西御門の石碑がたっています。
この背後一帯の地は、三浦義澄以下代々の三浦氏一族の邸跡に比定されています。

(大意)西御門は法華堂の西方の地をいう。
   大蔵幕府の西門に面していることにより此の名称がつけられました。
   此の地には、報恩寺・保寿院・高松寺・来迎寺等がありましたが、
今は
高松寺と来迎寺の二寺だけが存在します。 
         大正十五年三月 建  鎌倉町青年団

「西御門跡の石碑」鎌倉市雪ノ下3丁目5付近

「東御門跡の碑」鎌倉市西御門2丁目8付近

『吾妻鏡』文治元年(1185)9月1日条によると、廷尉(ていい)大江公朝が
勅使として御所に参り、東御門の比企能員の屋敷が公朝の宿所とされました。




東御門近くの小さな流れに架かる東御門橋

(大意)
大蔵幕府には、四つの門がありました。門の名は、
その門が位置する方角によって名づけられていました。
   大蔵幕府の東にある門を東御門とよび、今、地名となっています。
    法華堂の東方にあたるこの一帯を、この門の名称にちなんで 東御門といいます。
大正十五年三月建 鎌倉町青年団

鶴岡八幡宮の東の鳥居を出るとすぐ右手の角に、
南御門(みなみみかど)に邸宅を与えられた畠山重忠邸址の石碑があります。
源頼朝の大蔵幕府の南門前にあたり、昭和55年(1980)の発掘調査の際、
「東御門」「西御門」などの現存する地名に対応させて遺跡名としました。

大蔵幕府跡 頼朝館跡 
『アクセス』
「大蔵幕府跡碑」鎌倉市雪ノ下三丁目 JR横須賀線鎌倉駅東口徒歩15分
『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書、平成8年 
神谷道倫「鎌倉史跡散歩(上)」鎌倉春秋社、平成19年
松尾剛次「中世都市鎌倉を歩く」中公新書、2004年
「神奈川県の地名」平凡社、1990年
「神奈川県の歴史散歩(下)」山川出版社、2005年
現代語訳「吾妻鏡(2)(3)」吉川弘文館、2008年
 



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