平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 





「俊成社」祭神・藤原俊成
俊成社は藤原俊成の邸宅跡に俊成の霊を祀ったのが起源とされています。
平忠度(1144年~1184年)は平安時代の武将・平忠盛の六男で清盛の腹違いの
末弟にあたります。早くに母親を亡くしたため熊野の豪族に預けられ、
けわしい山々、荒々しい海の中で荒法師に鍛えられて育ちました。
母親は歌人として有名だった藤原為忠の娘でしたので、忠度はその血筋を受け継いで
武勇だけでなく歌人としても高い評価を得ていました。

平家物語「忠度都落の事」「忠度の最期の事」より
寿永2年(1183)木曽義仲に追い立てられた平家は一門の邸宅に火を放ち、
七千騎を率いて都を落ちていきました。都を落ちたはずの忠度が、
いずくより立ち戻ったのか侍五騎と近侍の童一人を従えて、
和歌の師である藤原俊成卿(藤原定家の父)の邸宅を尋ねます。
落人が帰って来たと言って邸内は大騒ぎになりますが、俊成卿は
「忠度ならばさしつかえない、お入れ申し上げよ」と言って門を開けて対面します。
忠度の申すには、「長年和歌を教えて頂きましたが、この二・三年は都の災い
国々の乱れが当家の上に降りかかって、お伺いも出来ませんでした。
安徳天皇はすでに都をお出になってしまい、一門の運命はもう尽きてしまいました。
世の中が静まりましたらきっと勅撰和歌集の勅命が下ることでしょう。
この巻物の中に勅撰和歌集に入れるのにふさわしい歌がございましたなら
たとえ一首でも結構ですので載せて頂けたら草葉の陰にて嬉しく思います。」
といって巻物を取り出して俊成卿に差し出しました。俊成卿は巻物を開けて見て
「このような忘れ形見を頂いた上は、決して粗略には致しません。それにしても、
このような時によくお越しくださいました感涙致しました。」とおっしゃると
忠度は喜び「今はもう山野に屍をさらすならさらしてもよい。西海の浪に沈むなら
沈んでもよいこの世に思い残すことはございません。それではおいとま申し上げます。」
と言って別れを告げ馬にうち乗り甲の紐を締め西の方に向かって馬を歩ませました。
俊成卿がずっと見送っていると
前途程遠し思いを雁山(がんざん)の暮(ゆふべ)の雲に馳す
『9C渤海(ぼっかい)からの使者が帰国する時、大江朝綱が別れを惜しんで詠じた漢詩』
と忠度とおぼしい声で高らかに 詠うのが聞こえてきたので
俊成卿も思わず涙を押さえて邸に入るのでした。

再び戦場に戻った忠度は一の谷の戦いで奮戦しますが、腕を切り落とされて観念し
静かに念仏を唱えながら源氏方の武将・岡部忠澄に首を討たれたといわれます。
享年41才でした。忠度は名乗らずに討たれましたが、
箙(えびら=矢を入れて背に負う道具)に結びつけていた文に書かれていた
和歌から忠度であることがわかったのだそうです。

♪行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよいの主ならまし
(旅をするうちに日が暮れてしまいそうだ、桜の木陰を宿とすれば、
花がこよいのあるじということになるなあ)

その後、世の中が落ち着いて、『千載集』の勅命が下ると俊成卿は、
例の巻物の中から、「故郷の花」という題で詠まれている次の一首を選んで載せます。 
♪さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
(志賀の古い都、今はもうすっかり荒れてしまったが、
長等山の山桜だけは、昔ながらに美しく咲いていることだなあ)
この歌は『万葉集』の「近江の荒れたる都を過ぐる時、
柿本人麻呂の作る歌」の本歌取りになっています。

しかし、忠度は朝敵(天皇に反逆する者)となっていましたから
俊成卿は、この歌を「読み人知らず」として載せたのでした。  
二首の和歌のことは文部省唱歌“青葉の笛”の2番に
♪更くる夜半に門(かど)をたたきわが師に託せし言の葉あわれ
今わの際まで持ちしえびらに残れるは「花や今宵」の歌と歌われています。  

平忠度は官位をとって薩摩守忠度ともいいますが「薩摩守ただのり」から
無銭乗車のことを『薩摩守(さつまのかみ)』と言ったりします。
薩摩守とは、薩摩国を治める長官で今の知事のような官位ですが
実際に任地に赴くケースはほとんど無かったようです。
※追記
俊成社はホテル・京都ベースの一角に移されました。
俊成社・新玉津嶋神社(忠度都落ち) 
♪さざなみやの歌碑が大津市の長等山(ながらやま)
にあります。
平忠度の歌碑(長等山・長等神社)  

 『アクセス』
「俊成社」京都市下京区松原下ル俊成町
 阪急電車烏丸駅又は市バス「四条烏丸」又は地下鉄「四条烏丸」駅下車 烏丸通りを南へ徒歩10分

 






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住吉大社境内大海神社近く、住吉文華館の東に
「住吉神宮寺跡」の石碑が建っています。
神宮寺は、神仏習合の時代に神社の境内などに建てられた仏教寺院です。
神仏習合の時代になると、日本にもともとあった神道と外国からやってきた
仏教が結びつき、神社の境内やその付近に寺(神宮寺)を建て、
神々の本体である仏菩薩を祀るようになります。神仏習合とは、
仏菩薩が我が国においては神の姿となって現れたという考え方です。

当寺は天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)創建と伝えられ、
津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていました。
明治初年、神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸しましたが、
そのうち西塔は四国八十八ヶ所の第40番札所切幡(きりはた)寺
(徳島県阿波市市場町)に売却移築され、国の重要文化財になっています。



『大阪市の歴史』より転載

荘厳浄土寺(しょうごんじょうどじ)は白河天皇の勅により、
津守国基が浄土信仰の流行を受けて浄土教の寺院として再興したお寺です。
神宮寺と津守寺(津守氏の氏寺)は神仏分離令により取り壊されました.

住吉大社においても神仏習合が進み、鎌倉時代の説話集
『古今著聞集』に高貴菩薩の託宣によって神宮寺が境内北方に
建立されたという伝承が記載されています。

住吉明神は、高貴徳王菩薩(こうきとくおうぼさつ=大威徳明王)の
変身として名を仏教に顕し、聡明で優れた君主の守護として
その恵を神国(日本)に示されました。
(『源平盛衰記巻36・維盛住吉詣並明神垂迹の事』)

 『週刊古寺をゆく』より転載
『巻1・神祇』(慈覚大師如法経書写の折、住吉神託宣の事)には、
「住吉は四所おはします。一の御所は高貴徳王大菩薩なり。龍に乗る。
御託宣に云はく、「我はこれ兜率天の内なる高貴徳王菩薩なり。
国家を鎮護せんために、当朝墨江の辺に跡を垂。云々」と記されています。

兜率天(とそつてん)には内院と外院があり、内院は将来仏となるべき
菩薩が住む所とされ、現在は弥勒菩薩が内院で説法をしているという。


大威徳明王騎牛像 明円作
 木造 平安時代 重文  『週刊古寺をゆく』より転載。
大威徳(だいいとく)明王(高貴徳王菩薩)は、 五大明王のひとつで
西方の守護者とされ、 日本では六面六臂(ろっぴ)六足で、
神の使いである 水牛に乗っています。悪蛇、悪竜を退散させ
怨念を取りのぞく、 死後の世界をつかさどる神の出身です。
『アクセス』
「住吉大社」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89 TEL : 06-6672-0753
南海本線「住吉大社駅」から東へ徒歩3分
海高野線「住吉東駅」から西へ徒歩5分  
阪堺電気軌道(路面電車)「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ

開門時間 ・午前6時00分(4月~9月)・午前6時30分(10月~3月)
※毎月一日と初辰日は午前6時00分開門
閉門時間 ・外周門 午後4時00分 ・御垣内 午後5時00分(1年中)
『参考資料』
新定「源平盛衰記(5)」新人物往来社、1991年 
新潮日本古典集成「古今著聞集(上)」新潮社、昭和58年
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年
佐伯快勝「古寺めぐりの仏教常識」朱鷺書房、2000年  
週刊古寺をゆく「天龍寺 大覚寺」小学館、2001年
週刊古寺をゆく「観世音寺と九州の名刹」小学館、2002年 
「平家物語図典」小学館、2010年

 

 

 

 

 

 



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你好ニィーハオ!
無錫のclistalさんから寧波に
旅行した時の画像が届きました。
無錫から寧波まではおよそ500K
離れているそうです。

無錫は上海と同じ江蘇省(コウソショウ)
寧波は浙江省(セッコウショウ)です。

寧波港は古くから日本と交渉の深い港で
日本船の渡航の
目的地であり、また日本に
向かう中国船の出発地でも
ありました。
古くは秦の始皇帝の命を受けた徐福が
不老不死の薬を
求めて旅立った
という伝説の地であったり

(沢山の徐福伝説が日本各地に残っています)


遣唐使が上陸した場所の一つでもありました。
平安時代始めには最澄も遣唐使船に乗って
寧波港に
第一歩を踏みだしています。
(この時は日本から寧波まで二ヶ月近く
  かかったようです)


寧波には遣唐船や日本の僧侶の
資料館もあります。
また日明貿易(勘合貿易)の最初の
査証を受ける地
でしたし、朱印船の
寄港地でもありました。

その寧波に明~清の時代の
(日本では室町~江戸時代)
古建築物が
沢山残っています。
全部重点文化財になっているそうです。
近くにはグルメ広場もあって有名レストランも
多く
地元の人だけでなく外国からのお客様にも
評判が高いそうです。
新鮮な魚介をあっさりと醤油と塩で味付けした
海鮮料理は和食に似ているようです。


日明貿易
室町時代に日本と明王朝の間で行われた貿易。
許可書である勘合符を使用することから勘合貿易
(かんごうぼうえき)とも呼ばれています。
朱印船
秀吉の時代から江戸時代にかけて日本を
出港する船に
海外渡航を許可する
朱印状を与え貿易を行うもの

長崎を出港して長崎に帰港するものが
ほとんどで
中国南部・東南アジアに渡航し交易が
さかんになるにつれて
各地に日本人町も
つくられるようになりました。


地図は中国地図のHPよりお借りしたものに
一部文字入れさせていただきました。
画像は全て古建築物です




南国書城(古建築物)
明の時代に建てられた個人の蔵書楼で
30万冊の蔵書があります。

現在は一般にも開放されていますし
専門家や学者はここで資料を
調べることができるようになりました。
国家重点文化財に指定されています。
麻雀博物館
麻雀のルーツは1000年位前にあり
寧波の陳魚門が1850年頃現在のような
麻雀を考案したといわれています。
南国書城の傍にあります。
  (麻雀博物館は新しい建物です)
京劇の舞台だったところです(古建築物)
お茶を売っていたお店です。
画像を拡大してみると
木札に鉄観音
茉莉花モーリファ(ジャスミン茶)と
書かれています。
一枚ははっきり見えません。(古建築物)



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若一神社(にゃくいちじんじゃ)は、西八条第の鎮守社と伝えられ、

清盛の像や清盛手植えの楠があります
昭和9年、西大路通に市電を走らせることになった時、道路の真ん中にあった若一神社は
東に移転されましたが、境内にある神木の楠は、これまでもこの木の枝をはらった人が
木から落ちたり、不幸が続いたりと神木のたたりとして、住民たちから恐れられてきました。
それで市電のレールは、この木を避けて曲げて敷かれています。


平成24年11月10日、梅小路公園(西八条第跡)からの帰り道、
若一神社の前を通りかかると、例祭の火焚神事が行われていました。
その時撮った画像を追加させていただきました。

午後2時から本殿で神事が始まり、参列者が玉串を捧げます。
神事を終えると、歩道を隔てた西側の大楠の下でお火焚が始まり、
参加者が護摩木を火床に投げ入れます。その後、ぜんざいが無料で振舞われます。

北側から見た神木の大楠、社殿からはみ出して聳えています。

南北に走る西大路通に出っ張って繁る大楠。
今でも西大路通りは少し曲がっています。





南側から見た大楠と右手は若一神社です。

社の前にたつ「平清盛公西八条殿跡」の石碑


若一神社には、熊野権現十二社のひとつである若一王子が祀られています。

幹周りが3㍍、高さ30㍍もある清盛手植えの楠

「平清盛公西八条殿跡」の碑が若一神社境内入り口にたっていますが、
現在の神社の位置と西八条第跡とは少し離れています。
これについては諸説あるようですが、『平家物語の世界』には、
「若一神社は清盛の西八条邸にあった鎮守社で、
清盛によって
勧請されたと伝えるが、場所的にも離れているから、にわかには信じがたい。

しかし若一すなわち熊野権現の第一王子をまつる当社が
熊野信仰に厚かった清盛と結びつけられたのにはそれなりの理由が
あったと考えてもよいであろう。」と書かれています。

右手に笏を持つ束帯姿の清盛像

祇王の歌碑
もえ出づるも枯るるも同じ野辺の草 いずれか秋にあわではつべき
( 芽生えたばかりの草 も枯れる草も、野辺の草はいずれも同じ。
秋になると枯れ果ててしまうばかり。私も所詮は野辺の草、
どうして清盛様に飽きられないことがあるでしょうか。)


清盛ゆかりの御神水の井戸。神水は持ち帰り自由です。
西八条第(西八条第跡の石碑)  
『アクセス』
「若一神社」 京都市下京区七条御所ノ内本町
     JR西大路駅下車 北へ徒歩5分
「火焚祭」毎年11月10日午后2時より
『参考資料』

村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 京都新聞社編「京都・伝説散歩」河出文庫



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松花堂弁当の器は、松花堂昭乗が絵の具や煙草や薬・種等の
小物入れとして使っていた十字に仕切られた箱が、
原型と言われています。

昭和の始め、吉兆の主人湯木貞一が松花堂昭乗の旧跡での茶会に参加した折

部屋に置いてあった四つ切箱を譲り受け、この箱をヒントに工夫を重ね
料理の器にしたところ大変喜ばれました。
これが徐々に広まり今では知らない人がいないくらい一般的になりました。
松花堂弁当の見本

 


松花堂弁当の器

画像は吉兆松花堂店HPよりお借りいたしました













松花堂昭乗(1582~1639)江戸時代初期

堺の生まれで、石清水八幡宮の社僧ついで石清水八幡宮の瀧本坊の住職となりました。

昭乗は、書・絵画・和歌・茶の湯・造園などにも精通した当代きっての文化人で、
寛永の三筆の一人に数えられています。

松花堂は松花堂昭乗が退隱後に建てたの茶室でもとは男山の中腹にありました。
尾張藩祖徳川義直や小堀遠州などとも親交がありこれらの風雅を好む人々が集う松花堂は
寛永時代の文化サロンのひとつであったようです。

「庭園は 約22000平方メートルと広く
内園と外園に分かれている。内園は昭乗が晩年に
隠棲するために建てた草庵松花堂(茶室)や書院を
苔庭や枯山水の築山で囲っています。


庭石や灯篭など露地庭園としても細かい
心遣いがなされていて、昭乗が生きていた時代の

庭園の風情が偲ばれす。
外園は、小堀遠州が建てた茶室を再現した茶室
および宗旦好みの茶室を持つ、茶の庭園としても
有名で、
珍しい竹40種 茶花として珍重される
椿200種を植栽しており、春、夏の深緑、
秋の紅葉など四季を通じて雅趣ある景観を
ごらんいただけます。」  案内書より

この他外園には美術館や昭乗の遺品を展示した
資料館や
吉兆松花堂店(要予約)があります。
        (内園は撮影禁止)
八幡市立松花堂庭園・松花堂美術館
八幡市八幡女郎花43

京阪電車楠葉駅下車 約4km 徒歩一時間
又は京阪電車楠葉駅下車バス15分
(バス停大芝下車)すぐ


地図は吉兆松花堂店よりお借りしたものに
一部文字入れさせていただきました


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菅原道真(845~903年)平安時代初期
菅原道真の家系は祖父が遣唐使として唐の国に渡り学問を修め
帰国して文章博士(もんじょうはかせ)になって以来、
学問の家柄として朝廷に仕えました。
父是善も文章博士。(学位の最高位)
道真も幼少より厳格な教育を受け、文才豊か33歳で文章博士になっています。

宇多天皇のもと
891年蔵人頭(天皇側近で機密文書担当)
893年参議に異例の昇進をしています。


しかし公卿達の間では学者上がりの道真の異例の昇進を疎ましく思う者が多くいましたし、
中でも政界の第一人者として活躍してきた藤原氏にとって道真の存在は面白いはずがありません。
宇多天皇は在位10年で藤原時平、菅原道真に後事を託して譲位、
出家して仁和寺に入り宇多法皇となられました。


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897年 醍醐天皇即位
899年 左大臣藤原時平 右大臣菅原道真(55歳)
901年 時平の中傷により菅原道真
太宰権帥に左遷が決まりました。(57歳)

道真は宇多法皇に事の次第を訴えるべく仁和寺に
急ぎ、石に腰かけて勤行中の法皇を待ちました。
(道真が腰をかけたという石は仁和寺の水掛不動尊の台座となって残っています。)
訴えをうけた法皇は、醍醐天皇に道真の赦免を
求めるために御所に赴き、
草座の上で座り込みの抗議を行いますが、
藤原菅根や衛士に阻まれて
天皇には会うことができませんでした。


道真が太宰府に赴任する前に自宅の紅梅殿の
梅に別れを告げて
"東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花
あるじなしとて春なわすれそ”
と詠んだ飛梅が道真旧宅跡に残っています。
「菅大臣神社は菅原道真公を祭神とする神社で、
この地は紅・白梅殿という菅原道真公のお邸や、
菅家廊下と称する学問所の跡でまた道真公誕生の地と伝えられ……仏光寺通りを中心に南北二町、
東西一町が当時のお邸で
道真公太宰府へ左遷に当たり東風吹かば……
と詠まれた飛梅の地である。……」
神社由緒書より
飛梅伝説については太宰府に左遷された折、
自邸の梅花に思いをよせて詠んだ歌とか、

左遷の途中立ち寄った土師(はじ)里の伯母に
別れを告げる時の歌とか諸説ありますが、

天神縁起絵巻の多くが自邸の紅梅殿で梅に別れを
告げる絵として描かれていますので、
こちらに従わさせていただきました。

菅大臣神社 京都市下京区西洞院仏光寺新町西入

阪急電車京都線烏丸駅下車 南へ五条警察署手前西入300m
地図は菅大臣神社HPよりお借りして一部文字入れ
させていただきました。






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3月2日は奈良東大寺のお水とりで
使われる水を、若狭の神宮寺から
東大寺の二月堂まで送る神事の日です。

若狭から10日間かけて二月堂に
届くと言われています。

奈良時代(752年)若狭の神宮寺から
奈良・東大寺にいかれた実忠(じっちゅう)和尚が
二月堂を創建し修二会を始められました。

その修二会に全国の神々を招かれましたが、
若狭の遠敷(おにゅう)明神だけが漁が忙しく
遅れてしまいました。

そのおわびにと、遠敷明神が「本尊に供える水を
若狭から送る」と申し出て岩の前で祈願すると
たちまち岩が真っ二つに割れ

二月堂の地中から白黒二羽の鵜が
飛び出し、水が湧き出しました。
(ここを若狭井といいます)

小浜の鵜の瀬で放たれた鵜が二月堂まで
もぐっていったと伝えられています。 この伝説から

毎年3月2日、小浜の遠敷明神を祀った神宮寺で
お水送りの神事は行われます。

お堂で修二会を営んだ後、大護摩に火がつけられ、
その火を松明に移し、山伏を先頭に神宮寺から
鵜の瀬まで1.8Kmを松明の行列が進みます。
(午後7時過)

火をつけた松明は一般の参加者も持つことができます。

鵜の瀬でも大護摩がたかれ、住職が送水文を
読み上げ、香水(仏前に供える水)を竹筒から
遠敷川へ注ぎます。
修二会
”十一面観音”にあらゆる罪の許しをこい。
天下泰平・五穀豊穣・平和を願って祈り、
人々に代わって板に身を叩きつける「五体投地」や、
堂内を松明が巡る「達陀だつたん」や
全国の神を呼び寄せる「神名帖じんめいちょう」の
読み上げ等の行があります。


鵜の瀬 小浜市下根来遠敷川  
神宮寺 小浜市神宮寺 
どちらもJR小浜より車で20分

小浜は海のある奈良とも称され
約130の神社仏閣が点在し
国宝・重文の仏閣・仏像も数多くあります。

JR小浜駅より
4月~11月下旬頃まで
若狭おばま国宝めぐりバスがあります。


地図は小浜観光協会よりお借りしたものに
一部文字入れさせていただきました。