平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




法住寺は藤原為光が娘(花山天皇女御)の死を悼んで建立した寺です。
長元元年(1032)に焼失し、後白河上皇が12C半ばこの寺の跡地を利用し、
法住寺殿を造営して後白河院政の拠点としました。


その境域は現在でいえば、北は京都国立博物館から南は大谷高等学校辺、
東西は大和大路から東山山麓にかけての一帯、ちょうど六波羅の南に隣接する
広大な区画を占めていたと考えられています。

南殿・北殿(七条殿)などの殿舎のほかに蓮華王院や最勝光院などがあり、
御所の東北には新日吉(いまひえ)社、東南には新(いま)熊野神社が
鎮守として勧請されました。法住寺殿の中心の殿舎・南殿の南には広大な苑池が
(最勝光院の東)あったが、現在埋め立てられて大谷高等学校があります。
その建設以前には池の面影が残っていたと伝えられ、町名などにその名残が
みられます。ちなみに大谷高等学校の所在地は東山区今熊野池田町です。
蓮華王院の本堂は、三十三間堂で後白河上皇の命で平清盛が造営しました。

上皇の寵妃建春門院滋子の御願・最勝光院は平等院を模した御堂で
蓮華王院の西南の位置にあり、東は広大な池に面して新熊野神社と
相対し、南殿からは船で往来していたという。清盛の妻時子の妹にあたる
滋子は上皇の姉上西門院に小弁(しょうべん)の名で仕えていました。
彼女の美貌と聡明さが後白河の目にとまったのでしょう。
やがて皇子憲仁(高倉天皇)を生み、法住寺殿の東対を与えられて
「東御方」とよばれ、のち院号を宣下され建春門院となりました。

建春門院に仕えた藤原定家の姉(健寿御前)はその日記に滋子について
「あなうつくし。世には、さは、かヽる人のおはしましけるか」と思えたほどの
美しさであったと述べています。万事につけて几帳面な性格であり、
思いやりが深く、傍に仕える女房たちにも常に気配をして
その横顔は
「この世にまたさるたぐひをこそ見ね」という程であったという。
上皇は滋子に深い愛情を寄せ、他の后妃を顧みることは殆んどありませんでした。
後白河と清盛を結びつける役割をはたしていた滋子が安元二年(1176)、
35歳の若さで亡くなると、次第に上皇と清盛は政治の主導権をめぐって
対立するようになり、治承三年(1179)清盛は院政を停止して上皇を
鳥羽殿に幽閉しました。その後、上皇は各所を転々とし、一年半ほどのちの
清盛葬儀の日、最勝光院の御所で今様を乱舞する後白河の姿が見られます。
寿永二年(1183)木曽義仲との法住寺合戦で蓮華王院を除いて
法住寺殿の多くの建物は焼亡し、上皇は六条西洞院にあった六条殿(長講堂)に
移り、この御所で崩御まで八年あまりを過ごし建久三年(1192)に没しました。

2012年3月、東山区の一橋(いっきょう)小学校跡地
(東山区本町通10丁目下池田町)で、最勝光院建物基礎部分の跡が
見つかり現地説明会が行なわれました。当時の池の西にあり、
阿弥陀堂や御所を配置していたと考えられています

 
右端の全画面ボタンを押して切り替え三角をクリックしてスライドショーを
ご覧ください。切り替えの時間は右から二番目のボタンを5に
設定してくださるとゆっくりと変わります。

『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂 
財団法人古代学協会「動乱期の天皇 後白河院」吉川弘文館 
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 高橋昌明編別冊太陽「平清盛」平凡社 
森浩一「京都の歴史を足元からさぐる」(洛東の巻)学生社 「京都学への招待」角川書店
「京都府の歴史散歩」(上)山川出版社

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )




 
長講堂(西山浄土宗)は、もと六条西洞院西にあった後白河法皇の御所
六条殿内の持仏堂でした。
法華経を長期間講読し、阿弥陀仏を念じて
三昧境地に入る道場という意味の「法華長講弥陀三昧堂」を略して寺名としています。
六条河原の西方は、秀吉の時に寺院が集められた寺町でその一角、
蓮光寺の南隣にあります。

長講堂は通常非公開となっていますが、
檀家の方と一緒に拝観させていただきました。

「元六條御所長講堂」山門




本堂には、本尊阿弥陀三尊坐像(重文)が安置されています。



境内御影堂には、高さ1㍍弱の法体の後白河法皇坐像(重文)が置かれています。


長講堂には後白河法皇から寄進された多くの所領があり、法皇の崩御後、
長講堂は付属の荘園とともに寵愛した丹後局の生んだ
宣陽門院(せんようもんいん)に受けつがれ、
のちに法皇の御影を安置した御影堂が建造されました。
その後、後深草天皇を経て子孫の持明院統に、さらに北朝へと伝えられ、
室町時代まで皇室の財政を支えました。
長講堂は度々火災、兵火にかかりましたが、その都度再建され、
天正6年(1578)、秀吉によって現在地に移されました。

長講堂には後白河法皇自ら死者の名を書き入れたという過去帳の写本が伝えられ、
そこには妓王、妓女等の白拍子の名が書いてあることで有名です。
『平家物語(巻1)妓王の事』の末尾にも
「かの後白河の法皇の長講堂の過去帳にも「妓王、妓女、仏、とぢ等が尊霊と、
四人一所に入れられたり、ありがたかりし事どもなり」と記されています。


なぜ後白河法皇が彼女らの供養をしなければならないのでしょうか。
新潮日本古典集成「平家物語」(上)『義王出家』の頭注に、
4人が後白河法皇の過去帳にある事として
「長講堂の過去帳は現存するが、江戸時代の書写と思われる。
閉(とぢ)、妓王、妓女、仏御前の名が記されているが、おそらく平家物語等に
合わせて作られたものであろう。」と書かれています。
なお、六条殿時代の仏堂(延寿堂)が長講堂の東側に移転し現存しています。

木曽義仲との法住寺合戦で法住寺殿を焼かれた後白河法皇は、捕らわれて
摂政近衛基通邸から近臣平業忠の屋敷に遷されます。
六条西洞院のその屋敷は法皇の御所六条殿とされ、
建久三年(1192)、法皇はこの御所において波乱に富んだ生涯を終えます。
その際、業忠はお棺を担いで葬車に入れる重要な役を担いました。
 
    『アクセス』
「長講堂」京都市下京区富小路五条下ル本塩竈町528 
市バス「河原町正面」下車 徒歩約5分 地下鉄「五条」下車 徒歩約7分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(上)(中)(下)新潮社
 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 
武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社
「京都市の地名」平凡社 「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )




  
平家物語の中で最も有名な章段の一つに『妓王の事』があります。
この物語の主人公白拍子の妓王は『平家物語』の中の人気者です。
野洲市は妓王・妓女の故郷と伝えられ、この地には妓王寺や妓王の屋敷跡があります。

地元の伝承や『妓王寺略縁起』によると、「妓王は江辺庄の橘次郎時長の娘といわれ、
院の北面であった父が保元の乱で戦死したため、妓王・妓女は母刀自とともに都へ出て
白拍子となり、平清盛の寵をえた。妓王は水不足に苦しむ故郷の人々のために
清盛に願い出て野洲川から琵琶湖まで約12キロの水路を掘ってもらい
村人は妓王を讃えてこれを祇王井と名づけた」と伝えています。
祇王井が平安時代末に農業用水として開削されたことは事実ですが、確実な史料に
これが記載されるのは、妓王の頃から四百年以上もたった江戸時代初のことです。

 新潮日本古典集成『平家物語』(上)には義(妓)王の伝説について
「清盛の寵を受けるようになった義(妓)王は、清盛に乞うて故郷に
用水を造り、今に妓王川として残るという。これを証すべき史料は
もとよりないが、その地が篠原・鏡など遊女の宿駅に近いことは
注意されてよい。」という注釈が付けられています。
東山道の鏡宿で遮那王が元服の式をあげて源九郎義経と名乗ったと『平治物語』に見え、
『義経記』では、この宿で遮那王(義経)が強盗を討ち取っています。
篠原宿は平治の乱で敗れた頼朝が伊豆に流された際、頼朝に好意を寄せる
平家の侍平宗清がこの宿まで送っています。
また壇ノ浦合戦で捕らえられた宗盛は義経に伴われて、鎌倉に護送され
頼朝に対面した後、そのまま京へ向い、この宿で処刑されました。
このように東山道沿いの「鏡」「篠原」の両宿は、平安時代末期交通の要衝として栄え、
遊女も多くその中から都に上り白拍子となり名をなした者もいたでしょう。
『源平争乱と平家物語』には、「妓女は白拍子を意味する普通名詞、
妓王は妓女に対応する普通名詞的な呼称だと思う。刀自も老女を意味する
一般名称でありそのような女性の実在を証明するのは困難だと思う」と記されています。
清盛をめぐる妓王・仏の悲話が本当であったのかどうか、真相は分かりませんが
篠原や鏡宿の遊女の伝説が語り継がれ、妓王に仮託されて水利をめぐる問題と
結びつけられてやがて妓王伝説となったとも考えられています。
















ここで『平家物語・妓王の事』のあらすじを簡単にご紹介します。
妓王・妓女の姉妹は都に聞こえた白拍子の名手であった。姉の妓王は
今をときめく清盛の寵愛を受けて、西八条邸で幸せな日を送っていた。
おかげで彼女の母刀自(とぢ)も立派な屋敷で豊かに暮らしていた。
それから三年が過ぎ、加賀の者で仏という若くて美しい白拍子の
名手が西八条邸に現れた。清盛は仏を追い返そうとしたが、
情け深い妓王のとりなしで対面がかなう。
仏御前の謡う今様に心を動かされ、その舞に魅せられた清盛は
たちまち寵を移し妓王を邸から追い出してしまった。妓王は出て行く際、
♪もえ出るも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはではつべき
 と詠み襖に書き付けます。
(仏御前もいづれかには自分のようにあきられてしまうであろう)

翌年の春、妓王は、清盛に仏が退屈しているので慰めに来て欲しいと
呼び出されます。母に諭されてやむなく邸に出向くと下座に侍らされ、
かっての自分の席から仏御前が見守る中、今様を歌わされるという
辱めを受けました。惨めさに深く傷ついた妓王は母や妹とともに出家して
嵯峨野に庵を結びました。その年の秋も深まったある夕べ、3人が念仏を
唱えていると庵の戸をたたく者がいます。尼僧姿の仏御前です。
「私もいつか捨てられる身、来世の往生を願おうとたずねてきました。」という。
以来、4人はともに朝夕仏前に花香を供えひたすら念仏を唱え、
それぞれ静かに極楽往生を遂げたということです。
後白河法皇の長講堂の過去帳には「妓王・妓女・仏・とぢ等が尊霊」と
4人の名前が入れられたという。

ここに登場する清盛は思いやりのない無神経な男として描かれ
世の人々にひどく悪いイメージを与えました。『京都発見(1)』によると
「平家物語は法然の専従念仏の宣伝書という意味をもっている。」とあり、
物語は清盛の横暴を伝える説話から当時、高まっていた念仏往生の
説話へと展開している。この世の栄華のはかなさにいち早く気づいた
妓王や仏たちが仏教に帰依し、往生したことに多くの読者や聞き手は
彼女たちの運命に涙を流し、惜しみない拍手をおくったことであろう。
はたして妓王という名の白拍子は実在の人物だったのだろうか。
この物語は史実なのだろうか。それを確かめる史料はない。」とあります。

白拍子というのは鳥羽天皇の時に始まり、島の千歳・和歌の前という
遊女が白い水干に立烏帽子、白鞘巻(しろさやまき)の刀という出で立ちで
男装で舞った。これを男舞といったが、のちに烏帽子、刀をとって
水干だけで舞ったので白拍子といったと平家物語では述べている。
『徒然草』は、藤原通憲入道(信西)が、舞の型の中で特に面白いものの数々を
選び磯禅師に教え舞わせた。白い水干を着た上に、鞘巻を腰に差させて、
烏帽子をかぶって舞う扮装であったのでこれを男舞と言った。この舞を禅師の
娘静が継承したのが白拍子の起こりと説明しています。(第225段)
禅師の娘静とはむろん源義経の愛妾静御前のことです。磯禅師は白拍子を
育成し統括、派遣する役目を果たしていたと考えられています。
京都市嵯峨野にある祇王寺もご覧ください。

祇王寺 (祇王・祇女) 
『アクセス』
「妓王寺」野洲市中北90 
JR野洲駅北口から近江鉄道バス木部循環行で約10分、「江部」下車、 徒歩約10分。

バスの本数が少ないのでご注意ください。
妓王寺には、妓王・妓女、母刀自、仏御前の4人の像が安置されています。
通常拝観は予約が必要ですが、今年はNHkの大河ドラマ平清盛が放送されている関係で
平成24年11月30日までは毎日予約なしで見学可 9:00~16:30

「妓王屋敷跡」、「土安(てやす)神社」どちらも妓王寺の近くにあります。

『参考資料』
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 梅原猛「京都発見」(1)新潮社 
細川涼一「平家物語の女たち」講談社現代新書 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
五味文彦「源義経」岩波新書 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「滋賀県の地名」平凡社

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )




平清盛は平家物語では人の気持ちのわからない暴君として描かれ、
物語の冒頭で『驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き人も遂には亡びぬ、偏に風の前に塵に同じ。』とし反逆と横暴に
よって歴史に
名を残した中国や日本の驕れる人、猛き者を列挙し、
最後に清盛の有様を『間近くは、六波羅入道前の太政大臣平朝臣
清盛公と申しし人のあり様、伝え聞くこそ心も言葉も及ばれね。』と
その横暴ぶりにおいて誰よりも勝っていたと語っています。
しかし、清盛の生涯を史実に即して見てみると、確かに最晩年には悪行が
集中して行なわれていますが、実像は平家物語が冒頭で語るイメージとは
程遠いように思われます。平治の乱後、頼朝が助命されたのは上西門院に
依頼された池禅尼が清盛を説得したといわれていますが、それを受けとめた
清盛が
大らかな人物だった事も起因しているのではないでしょうか。
「平家物語・経の島の事」、鎌倉時代中期の説話集
「十訓(じっきん)抄」からも迷信や旧習にとらわれない合理的な考えを
持つ一方で大変思いやりのある一面があることが垣間見えてきます。
今回は清盛にまつわるエピソードや「経の島の事」、「十訓抄」から
知られざる清盛の人柄について触れたいと思います。

平治の乱は清盛が熊野参詣に出かけた後、藤原信頼、源義朝が後白河院の
御所三条殿を襲撃して始まった。藤原信頼は後白河院を一本御書所に幽閉、
二条天皇を内裏に移して除目を行なった。すぐに京へ引き返した清盛は
二条天皇の側近と連携して天皇を六波羅に脱出させた。この時、摂関家の
関白藤原基実が六波羅へ駆けつけたが、基実は平治の乱の首謀者
藤原信頼の妹婿であるため、その場にいた人々の間には微妙な空気が流れた。
しかし清盛は心おきなく歓迎したので人々は感心したという。清盛の度量の
大きさを示すエピソードである。平治の乱後、清盛は武士としてはじめて
公卿の列に連なり、やがて太政大臣という最高の官職についた。
当時、後白河上皇と二条天皇は父子でありながら仲が悪く、双方の貴族は対立
していたが、清盛は後白河上皇、二条天皇双方に心配りをして慎重に行動
したので、異例のスピード出世にも関らず清盛を悪く言う者はいなかったという。
*二条天皇は後白河上皇の子であるが、美福門院の猶子になっている。
鳥羽院と美福門院は、近衛天皇崩御の後、二条天皇を即位させるまでの
中継ぎの天皇として後白河を即位させた。しかし後白河にとってこのような
状況が面白いはずはなく、この父子の間には潜在的な対立があった。

「平家物語(巻六)経の島の事」
清盛の葬送の夜、どうしたことか不思議な事が起こった。玉を磨き金銀を
ちりばめて造った西八条殿が急に焼けた。放火という噂であった。
またその夜、六波羅の南の方角で2、30人ほどの声がして「嬉しや水、鳴るは
瀧の水…」という延年舞の歌謡を舞い踊り、どっと笑う声がした。去る、正月に
高倉上皇が崩御され、僅か1、2ヶ月をおいて入道相国が亡くなられた。
身分のいやしい賤の者といえども、どうして嘆き悲しまずにいられよう。
これはきっと天狗のしわざであろうと取りざたされた。平家の中で血気盛んな
若者百人余が笑い声をたよりに尋ねて行くと、院の御所法住寺殿であった。
この御所には、この三年の間、院のおいでもなく留守を預かっていた
備前前司基宗の知り合いの者どもが集まって酒を飲んでいたのである。
時節柄騒ぐまいと言っていたがそのうちに酔いがまわってきて舞い踊りの
騒ぎになった。そこへ押寄せた若者らが酒に酔った者どもをからめとって
六波羅に引っ立て御殿の中庭に引き据えた。前右大将宗盛はことの子細を
尋問し「酔っているものを斬るわけにもいかない」と全員が釈放された。
『百錬抄』によるとこの酒宴騒ぎは最勝光院の中であったとしています。
最勝光院は法住寺殿の一角にあり、建春門院の御所でした。清盛が亡くなる
少し前に後白河院は最勝光院に移られ、清盛が死亡した夜、最勝光院から
今様を乱舞する声が聞こえてきたのは「清盛死去」の記事で述べました。
*「嬉しや水、鳴るは瀧の水…」
延年舞(興福寺、東大寺、延暦寺、四天王寺等で法会の余興に僧や
稚児の演じた舞)の詞で、よく歌われていた。
『梁塵秘抄』四句神歌(しくのかみうた)に「滝は多かれど 
うれしやとぞ思ふ 鳴る滝の水 日は照るとも絶えでとうたへ
やれことつとう」とあり『義経記』他中世の作品によく見える。


人が死んだ後は朝夕に鐘をならし常例の勤行をするのが世のならいであるが、
入道相国の死後、法事はいっさい行なわれず、明けても暮れても合戦の策を
めぐらせていた。清盛公の最期の様子は見るにたえなかったが、
普通の人とは思われないことも多かった。日吉神社へ参詣の時なども平家
はじめ他家の公卿たちを大勢お供につれて行かれるので、摂政関白の
春日参り、宇治参りなどもこの盛大さにはとても及ぶまいと世間の人々は
噂しあった。また何よりも福原の経ヶ島を築いて、上り下りの船が今の世に
至るまで不安なく航行できるようにしたのは誠に賞賛に価することである。
経ヶ島は応保元年二月上旬に築き始められたのであるが、同年八月に
突然大風が吹き、大波が立って崩れてしまった。同三年三月下旬に
阿波民部成能を奉行として再度築かれた。その時、「人柱をたてるがよかろう」
などと公卿詮議があったが清盛は「それは罪深いことだ」と石の面に一切経を
書かせて海に沈めた故に人工島は経の島と名づけられた。

「十訓抄(第七思慮を専らにもっぱらにすべき事)第二十七」
福原大相国清盛公の若い頃は立派であった。その場に困り果てるような、
どんな嫌なことであっても、その人が冗談でやったことと思い定め、
その人がやったことが少しもおかしくなくても、本人の前では、にこやかに
笑ってやる。部下がどんな誤りを犯しても、また物を散らかし、
とんでもない事をしても、荒々しく声を立てることなども一切なかった。
冬の寒い頃には若い小侍従たちを自分の衣の裾のほうに寝かせてやり、
彼らが朝寝坊していればそっと寝床から抜け出して思う存分寝かせて
やった。召し使うにはあまりに身分の低い者であっても、その者の家族や
知人が見ている前では一人前の人物として扱ったのでその者は
大変に名誉だと感じ心から喜んだ。このように情けをおかけになるので、
ありとあらゆる者たちが、清盛公に心服したのだった。
人の心を喜ばせるというのはこういうことをいうのである。

『参考資料』
上横手雅孝「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 上杉和彦「平清盛」山川出版社
上杉和彦「歴史に裏切られた武士 平清盛」アスキー新書 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 高橋昌明「別冊太陽 平清盛」平凡社
新編日本古典文学全集「十訓抄」小学館 新潮日本古典集成「平家物語」(上・中)新潮社
新編日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )