平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



大宰府は『平家物語』では、「巻8・大宰府落」として記されています。
都落ちした平家は安徳天皇を奉じて大宰府に下ってきました。
平氏の拠点である大宰府で再起しようとしたのですが、
豊後国の
緒方惟栄(これよし)らの襲撃を受けて海上に逃れました。

清盛の父忠盛は肥前国神崎荘預所の地位を利用し、大宰府を通さない
私貿易によって財を蓄え、大宰大弐となった清盛は、これを足がかりにして
大輪田泊を整備し、日宋貿易を拡大し勢力を伸ばしました。
このように大宰府は平家一門栄達の舞台としても登場します。

平氏は桓武天皇の流れを汲んでいましたが、数代の間は受領にとどまり、
宮中への昇殿も許されていませんでした。一介の田舎武士にすぎなかった平氏が、
なぜ政治の中枢へ進出することができたのでしょうか。
そこには清盛の祖父正盛と父忠盛の才覚と努力がありました。

 ここで『平家物語』の前史となる正盛と忠盛の活躍をご紹介させていただきます。
正盛は伊勢・伊賀国の所領を本拠地とする武士です。
永長二年(1097)に伊賀の所領を白河上皇の亡き皇女提子(ていし)内親王の
菩提所六条院に寄進し、上皇から恩寵を得て、受領を歴任する一方、
院の北面の武士(院御所の北に詰める警護の武士)の武士として
御所の警護などにあたりました。

白河上皇は提子内親王をことのほか可愛がっており、
21歳の若さで内親王が亡くなった2日後には、近臣が止めるのも聞かず
出家して
法皇となったことからもその悲しみがうかがえます。

六条院がこのような思いのこもったお堂ですから、正盛の所領寄進に
上皇が喜んだのはいうまでもありません。正盛の上皇への巧妙な接近策ですが、
名もない武士がどのような縁で所領を寄進することができたのでしょうか。
上横手雅敬氏は「正盛は祇園女御や院近臣の藤原顕季(白河上皇の乳母子)に
仕えたことから、この二人が正盛を白河院に結びつけ、
平氏を世に出した人々である。」と述べておられます。(『平家物語の虚構と真実』)

そして、天仁元年(1108)正盛は出雲で反乱を起こした源義親を討って
一躍武名を挙げ、この功によって但馬守に任命され、伊勢平氏台頭の基礎を築きました。

平氏と九州のつながりは古く、元永二年(1119)正盛に肥前国(佐賀県)にあった
京都仁和寺の荘園、藤津荘の荘官
平直澄追捕の宣旨が下り、正盛が郎従を派遣して、
直澄を討ちその郎党たちを
京都に連行したことに始まります。この功により、
正盛は従四位下に昇進し、
西海(九州地方全域)、南海道(紀伊半島、淡路島、四国)の
100人余の武士を従え、九州と深いかかわりができました。

その跡を継いだ嫡子忠盛も白河上皇に重用され、
大治四年(1129)には、
山陽道(中国地方の瀬戸内海側)・南海道両諸国の
海賊追討使に起用され、
見事この役目を果たします。

白河上皇が崩御すると、鳥羽天皇は崇徳天皇に
譲位して院政を開始しました。
忠盛は備前守(岡山県東南部)だった
天承二年(1132)、鳥羽上皇の
御願寺である得長寿院(とくちょうじゅいん)を建立し、上皇に寄進しました。
『平家物語・巻1・殿上闇討』は、この功により、地下の受領にすぎなかった平氏が、
念願の殿上人となったと
平家栄華の始まりとして印象的に語っています。

平安時代、貿易船入港地は九州の博多でした。この博多を掌中にしたのが平氏一族でした。
宋の貿易船は博多湾に入ると、
大宰府の出先機関である鴻臚館で交易を行いました。
11C半ばに鴻臚館が火災で廃絶されたあとの平安時代の終り頃、櫛田神社北側一帯

チャイナタウンが出現し、
その周囲には多くの日本人の商人や職人が家を構えました。
ここを商売の拠点として貿易が行われ、大宰府の貿易管理は後退しました。

長承二年(1133)、鳥羽院の所領である肥前国神埼荘(佐賀県神埼市)の
預所(現地管理者)だった忠盛は、その立場を利用して日宋貿易に関与しました。
博多に唐人船が入港し、太宰府の官人が出向いて訊問していたところ、
忠盛は対宋貿易の利益を横奪しようとして介入、
鳥羽上皇の院宣であると偽った
下文(くだしぶみ)を出し、「宋の船は神崎荘領内に着いたのであり、
官人の訊問には
及ばない。」と院権力をバックに貿易から大宰府を排除したことが知られています。
当時、忠盛は鳥羽院の院司で、後院領である神崎荘を知行し、
博多には神崎荘の年貢を保管し、積み出す倉敷がありました。
「後院領」とは院が直接管轄する荘園で、
他のものには決して伝領されない皇室の直轄荘園のことです。
なお、宋船は有明海に臨む肥前国神崎荘に入港し、
ここで宋の商人と平氏が交易を行ったという見解もあります。

保延元年(1135)四月、忠盛は再び海賊追討使に任命され、
八月には日高禅師を首領とする海賊70人を連行して京に凱旋しました。
源師時の日記『長秋記』によると、忠盛が捕えた70人のうち30人は本物の海賊で、
見物人の多い河原で検非違使に引き渡されましたが、残りは忠盛に従わないという
理由だけで連行され、人のいないところでこっそり釈放されたと記され、
裏側で談合があったことを匂わせています。

当時は朝廷に従わない在地の有力者も海賊とよばれ、
忠盛は海賊とみなされたくないから従う在地勢力を自らの家人として
組織して瀬戸内海を掌握し、その権力基盤を築いたと解釈されています。
日高禅師は寺社の荘園管理にかかわっていますから、
その過程で平氏と対立する何かの原因があったと思われます。
この海賊追討の恩賞によって、18歳になる清盛が従四位下に叙せられています。

 保元三年(1158)大宰大弐(だいに)に任じられた清盛は、配下の者を大宰府に派遣し、
博多港を整備しています。冷泉津一帯(博多区川端町)に貨物を保管するための
倉庫を建て、その鎮守として肥前国(佐賀県)神埼荘から櫛田神社を勧請します。
博多の夏祭り祇園山笠は、櫛田神社の摂社祇園社に奉納される神事です。
また「博多どんたく」の起源は、博多を支配していた清盛の恩義に感謝して、
町人が始めた
年賀行事の「松囃子(ばやし)」ともいわれています。
江戸時代には、松囃子の行列や仮装した町人が城内や町内を練り歩いたという。

 当時は大弐になっても遥任(ようにん)といって現地に着任しないことが
多かったのですが、その後清盛の異母弟頼盛が大宰大弐に就くと、
これまでの慣習を破り大宰府に赴きます。貿易の利益の独占が目的でした。
この間、頼盛は広大な所領を持つ宇佐宮勢力との提携を図り、
原田種直と主従関係を結ぶなど九州における平家勢力の拡大に努めました。

鴻臚館の遺跡は、鴻臚館跡展示館として公開されています。
福岡市中央区城内1-1 TEL:721-0282
利用案内 : 9時~17時(入館は16時30分まで)
休館日:12月29日~1月3日       料金:無料
交通アクセス 地下鉄「赤坂」下車徒歩10分
    西鉄バス「平和台」下車徒歩3分・「赤坂3丁目」下車徒歩5分
「櫛田神社」福岡市博多区上川端町1-41 「博多祇園山笠」は毎年7月1日の
飾り山笠公開から 15日早朝の追い山まで、福岡の博多部を中心に行われます。
JR「博多駅」から地下鉄「祇園駅」下車徒歩5分  
得長寿院跡(平忠盛)  
『参考資料』
高橋昌明「清盛以前 伊勢平氏の興隆」文理閣、2004年 日下力「厳島神社と平家納経」青春出版社、2012年
 武野要子「博多」岩波書店、2000年 武野要子編「福岡 アジア開かれた交易のまちガイド」岩波ジュニア新書、2007年
 高橋昌明編「別冊太陽平清盛」平凡社、2011年 下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社、2001年
 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書、1994年 佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房、1995年
 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年 「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年
県史41「佐賀県の歴史」山川出版社、1998年「平家物語」(上)角川ソフィア文庫、平成18年



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原田氏の祖は大蔵春実(はるざね)です。平安時代中期、
伊予国の日振島(愛媛県宇和島)を拠点に瀬戸内海全域から豊後水道にかけて
起こった藤原純友の乱で、官軍に本拠地を追われた反乱軍が
大宰府に侵攻してきた時、追捕使長官小野好古(よしふる)とともに
純友軍を討ったのが主典(さかん)の大蔵春実です。春実はその後土着し
「府中(大宰府)有縁の輩」と称され、子孫は府官を世襲します。
府官とは在地の有力豪族が任命される大宰府の役人で、
在地クラスの官人は十二世紀になると武士化していきます。

原田種直は怡土(いと)郡原田荘(福岡県糸島郡前原町)、
那珂郡岩戸(筑紫郡那珂川町)を本拠に平氏家人となり、
姓は官職により大蔵とも、居住地により原田とも岩戸とも称します。
種直の妻は①清盛の嫡男重盛の養女、
②清盛の異母弟頼盛の娘(『朝日日本歴史人物事典』『海と水軍の日本史』)、
③父が頼盛に仕え、母は院の御所に仕えていた善子(よしこ)
(『源平海の合戦』)と諸説あります。


筥崎(はこざき)の油座と貿易港の今津を支配し、その所領は
三千七百町歩にも及んでいたと伝え、福原遷都(1180)に際しては、
清盛が後白河院を牢の御所に押込め、原田種直に
警固させたことが『平家物語』に見えます。
翌年2月には、肥後国の菊池高直・豊後の緒方惟栄(これよし)らの
謀反を平貞能とともに鎮圧し、平宗盛の推挙によって
府官としては異例の権少弐に任命され、平家の鎮西支配の一翼を担いました。

寿永2年(1183)安徳天皇を奉じて大宰府に下った
平氏は落ち着く間もなく、緒方惟栄らに追われ、
四国に渡り讃岐の屋島に本陣を構えました。
一の谷に陣を布くまでに勢力を回復しましたが、
寿永3年(1184)2月、平家軍は一の谷合戦で敗れ屋島に退却しました。
しかしなお
瀬戸内海一帯の制海権を握っていました。

頼朝の命で九州に向かった源範頼率いる平氏追討軍は、
周防から赤間関に到着し、そこから海を渡り、平家を攻めようとしますが、
物資を平行盛軍に断たれ、兵糧米が絶え、船もないため、
平家軍を攻めあぐねていました。
武士たちは本国へ帰りたがり、侍所別当の和田義盛までもが
鎌倉へ帰ることを主張するという深刻な事態に陥りました。
そこへ豊後の豪族臼杵惟隆、緒方惟栄(義)、佐賀惟憲兄弟から提供された
軍船八十二隻や周防国の宇佐那木(うさなぎ)遠隆(とおたか)から
献じられた兵糧米の助けを得て、やっとの思いで渡海しました。
緒方一族は豊後の草原、久住や飯田の狩場で養われた
騎馬軍団だけでなく、海の民も掌握していたと見られます。

『吾妻鑑』によると、元暦2年(1185)正月、範頼からの飛脚が
鎌倉の頼朝のもとに到着し、兵糧が不足しているため
兵らが一致団結せず、大半が本国に逃げ帰ろうとしていると報告しています。
平行盛は
清盛の次男である基盛の嫡男です。
父が早く亡くなったため伯父の重盛に養育されました。

元暦2年(1185)2月1日、ようやく豊後国に上陸した範頼軍の東国の
一騎当千のつわもの、北条義時や小山朝政、渋谷重国らを筑前国の
蘆屋の浦(福岡県遠賀郡芦屋町)で迎え撃ったのが原田種直・その子
賀摩兵衛尉(かまひょうえのじょう)種益と一族の板井種遠らでした。

範頼軍の千葉常胤(つねたね)は老いをものともせず、
加藤景廉(かげかど)は重病の身であることも忘れて戦い、
下河辺(しもこうべ)行平は先陣の功を挙げようと、甲冑を売って
小舟を買い取り、北条義時、渋谷重国らとともに最初に海を渡りました。
この一戦で源氏軍は陸上での強さをまざまざと見せつけ、種直の弟
美気(みけ)三郎敦種は下河内行平に討たれ、種直は渋谷重国に射られ
原田勢は敗れました。この合戦に勝利した範頼軍は、平氏の地盤であった
長門・豊前・筑前を制圧します。これを蘆屋浦の戦いといいます。

一方、同年2月17日義経は、暴風雨の阿波国に強行渡海し、
屋島の平家を急襲、敗れた平家軍は瀬戸内海を西へと逃れ、
平知盛が拠点とする彦島に移りました。
 そして同年3月24日、最後の決戦壇ノ浦へと向かっていきます。

原田種直は平家都落ちの際、門司に上陸した一門を迎え入れ、
安徳天皇の仮御所を安徳台に築きました。
この時、安徳台を見下ろす位置にある
岩門(いわと)城に警固の兵が入ったと伝えています。

バス停「安徳」から裂田(さくた)神社へ立ちより、
そこから岩門城跡へ向かいました。

岩門城跡遊歩道入口1、5㌔の案内板。













説明板の原田種直を撮影しました。







「岩門城 (現地説明板より)
岩門城は、別名龍神山城・山田の城とも呼ばれ、山田、安徳、梶原の
三地区にまたがる標高195、4mの城山に築かれた山城です。
海賊・藤原純友を討伐し功があった大蔵春実の孫・
種光が岩戸縣(あがた)を賜り築城を始め、
延久五年(1073)種資(たねすけ)の時に岩戸城が完成しました。
 種資四代の裔・原田種直は、平清盛の信頼を得て、平家軍の与党として活躍し
治承五年(1181)には、平家の強い推挙により大宰少弐に任じられ、
安徳台の館に遷り住み、博多櫛田宮と姪浜祇園社に、太刀、神田、神馬などを
奉納し平家の安泰を祈願しました。寿永二年(1183)平清盛没後、
木曽義仲の進攻を恐れ「都落ち」された安徳天皇一行は、鎮西に下りました。
この時、原田種直は別所で天皇をお迎えに出て、安徳台の館を仮の御所としました。
今は、館の跡に「安徳宮」が祀られ、また「お迎え」という地名も伝わっています。

九州源氏方の追撃が迫り、安徳天皇は、山鹿(芦屋)・門司・屋島へと移り
平家軍は一時勢力を盛り返しましたが、一の谷や屋島の戦い、
寿永四年(1185)三月二十四日壇ノ浦で敗れ滅びました。
源範頼は、九州平家軍を追討し種直を芦屋・岩門城に破り、
種直は一族の多くを失い鎌倉に幽閉され、
その後に種直の旧領三千七百町歩を受けた武藤資頼(すけより)が入り
大宰府権少弐に任ぜられ、後に姓を職名の少弐に改めました。
安徳には、平家落人追討にまつわる「追い松」がありました。(以下略)
平成二十五年三月吉日 那珂川町商工会 那珂川町郷土史研究会」


三の曲輪、二の曲輪を経て、主郭へとつながり、その先には北の曲輪があります。



三の曲輪から二の曲輪へ





堀切








北の曲輪



那珂川町郷土史研究会による「岩門城の変遷」説明板。

北の曲輪は展望所となっています。そこからは那珂川町や福岡市が一望でき、
空気が澄んだ晴天の日には、遠く博多湾まで見えるという。
『アクセス』
「岩門城」福岡県筑紫郡那珂川町安徳
「岩門城上り口」博多南駅前バス停からコミニュティーバスかわせみ号「安徳線」に乗車。
「安徳」下車、上り口まで約3キロメートル、上り口から北の曲輪まで徒歩約30分。
または「南畑線」「通勤かわせみ線」に乗車「山田」下車 上り口まで徒歩約30分。

時刻表は下記のサイトで最新のものを確認してください。
那珂川町
http://www.town.fukuoka-nakagawa.lg.jp/
『参考資料』
 県史44「大分県の歴史」山川出版社、1997年「大分県の地名」平凡社、1995年
 「大分百科事典」大分放送、昭和55年「源平合戦事典」吉川弘文館、2006年
 森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年 武野要子「博多」岩波書店、2000年 
 「朝日日本歴史人物事典」朝日新聞社、1994年 佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房、1995年
 「検証日本史の舞台」東京堂出版、2010年 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年



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原田種直の絵馬が裂田(さくた)神社にあるというので、安徳台から
岩門(いわと)城への途中に立ち寄りました。種直の絵馬は探せませんでしたが、
緒方三郎惟栄(おがたこれよし)の図柄を見つけました。


「安徳台入口」からコミュニティーバスかわせみ号に乗り「安徳」で下ります。









拝殿には数多くの絵馬が奉納されていますが、風化しそのほとんどが不鮮明です。

神殿の扉

緒方三郎惟栄(義)が本拠とした緒方館は、大分県豊後大野市緒方町にあります。
『平家物語』は「かの惟栄はおそろしき者の末にてぞ候ひける」として本体が大蛇であつた
大物主神の出自で、豊後国(大分県)の大神(おおが)惟基
の子孫だとしています。

平氏の大宰府掌握後、惟栄は平重盛(清盛の嫡男)と主従関係を結びますが、
源頼朝が挙兵した翌年の養和元年(1181)に肥後国の菊池高直・阿蘇氏や
九州武士
など広く兵力を動員し平家に反旗を翻しました。九州に下向した平貞能に
反乱は討伐されたものの、惟栄は再度謀反の機会をうかがっていました。
寿永二年(1183)七月に都を追われた平家が太宰府に到着すると、
安徳天皇は原田種直の館に入り、種直や山鹿秀遠の軍事力を背景に勢いを回復し、
宇佐大宮司公通(きんみち)はこれを支援しました。
『巻6・宇佐大宮司飛脚』によると、養和元年の反乱を都の平家に
いち早く飛脚で伝えたのも公通でした。
宇佐神宮発展のため、積極的に平家と結んで大宰府にも進出し、
大宰権少弐に任命され、さらに対馬守・豊前守にも任じられ、
北部九州は平家方の勢力によって占められていました。

これに対して後白河院は、九州における平家の地盤くずしを画策します。
院の息のかかった豊後守藤原頼輔(よりすけ)は、院の勅定(命令)だといって
平家を九州から追い出すように現地にいた
子息の頼経(よりつね)に命じ、
頼経は緒方惟栄に伝えます。
早速、惟栄はこれを院宣と称して
平家に九州退去を迫りましたが、平家はこれを拒否したため、
大軍を率いて太宰府を攻撃して太宰府を陥落させました。

平家一門を九州から追い払うと、惟栄は平家方の宇佐宮を攻撃し、
神殿に乱入して
神宝を奪い取り社殿を焼き払うなどの暴挙に及び、
宇佐神宮の黄金の
御正体(みしょうたい)を奪った罪で、
上野国(群馬県)沼田荘に流されましたが、翌年、平家追討の功により
恩赦を受け、西下し九州に上陸しようとしていた範頼に軍船を提供し、
範頼軍は蘆屋浦(遠賀郡芦屋町)で平家方の原田種直勢を破りました。
惟栄の活躍が見られるのはこの頃までです。

平家滅亡後、惟栄は頼朝と不和となった源義経に与し、義経が
九州に逃れようとした時、
領地の岡城(大分県竹田市竹田)に義経を
迎え入れようとしました。
しかし大物浦(兵庫県尼崎市)から出航した
一行の船は暴風雨で難破し、
惟栄の軍勢も散り散りになってしまいました。
惟栄は辛うじて帰国し佐伯に住んだとも、
帰国途上に病死したとも伝えています。


この緒方惟栄には、先祖の出生にまつわる恐ろしい伝説があります。

『平家物語・巻8・緒環(おだまき)の事』より、この伝説をご紹介します。
昔、豊後の片田舎に住む娘のもとに夜な夜な男が通ってきて娘は身ごもりましたが、
男は決して正体を明かしません。そこで母親の入れ知恵で男の狩衣の襟に針を綴付けて帰し、
娘が糸を辿って行くと、豊後国と日向国(宮崎県)との国境の姥岳(祖母山)中腹にある
岩屋に行きつきました。娘が声をかけると岩屋の中から大声で「汝がはらんだ子は、
九州・壱岐・対馬に肩を並べる者がない武士になろうぞ。」と答えます。
その声の主は喉に針を突きさされた五丈ばかりの大蛇でした。

そして娘が生んだ男の子は蛇のようなひび割れのある肌をしていることから
「あかがり大太(だいた)」と名づけられました。惟栄はその五代の子孫で、
大蛇は日向国で崇拝されている祖母山(そぼやま)南麓にある
高千穂神社のご神体だったということです。
緒方三郎惟栄館跡  

五条大橋、武蔵坊弁慶と牛若丸










裂田神社から原田種直の岩門城を望む。
『アクセス』
「裂田神社」福岡県筑紫郡那珂川町安徳
博多南駅からコミニュティーバスかわせみ安徳線約20分
「安徳」下車徒歩約15分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
 県史44「大分県の歴史」山川出版社、1997年「大分県の地名」平凡社、1995年
 「大分百科事典」大分放送、昭和55年「郷土資料事典大分県」人文社、1998年

近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年「源平合戦事典」吉川弘文館、2006年
森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年「大分県の不思議事典」新人物往来社、2007年 



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都を追われ大宰府まで落ち延びた平家は、この地に都を定めようとしましたが、
それも話題になるだけで実行できないありさまです。
当面、安徳天皇は原田種直の館に入り、ここを行宮としました。

一門の人々の家は野の中や田の中にあり、
歌に詠まれた大和国の十市の里そのままのひなびた風情です。
内裏は山の中にあったので、あの朝倉の木の丸殿も
こんなであったのかと思われて、かえって風雅なおもむきもあります。

続いて平家は宇佐八幡宮にも参籠し、八幡様のご加護を期待しましたが、
宗盛が夢に見た神の啓示は
つれないものでした。心細い思いで帰り、
月を見ては歌を詠み、都での歌会を思い出し涙にくれました。
『巻8・小手巻(おだまき)』

当時、大宰府の現地官僚の最高責任者大宰少弐(だざいのしょうに)を
務めていたのが原田種直でした。
種直の館は那珂川に面した台地の上に
築かれていました。現在、安徳台と呼ばれるその台地の上は
ほとんどが畑や野原となり遺構はありませんが、台地の中央南側に
安徳宮が祀られ、「お迎え」という地名も伝わっています。

安徳宮への途中、地元の人に道を尋ねたところ、運よくこの祠を造るのに
関わった方で、道しるべのない広い台地の上
を探すのは大変だろうと、
「安徳館」から車で案内して下さいました。




JR博多南駅前「かわせみ」バスのりば




バス停「安徳台入口」より安徳台を遠望
安徳台の広さは約10万平方メートル、高低差は30mあります。

安徳館の左手から上っていきます。






安徳天皇は広大な大地の一角に祀られていました。

到着したところで、カーナビで車の位置情報の確認をお願いしました。
(北緯33度29分26・01秒、東経130度25分37・46秒)

安徳宮の由来
祭神 安徳天皇(治承二年~寿永四年、1178~1185)
所在地 福岡県筑紫郡那賀川町大字安徳348
安徳天皇は高倉天皇と平清盛の娘徳子(後の建礼門院)との間に第一皇子として
誕生され、第八十一代天皇に即位されましたが、時を経ずして源平争乱が起こり、
寿永二年(1183)都を追われた平氏一門と共に筑紫に難を逃れられました。
 この頃、筑紫の豪族である原田種直は岩戸の庄(現在の安徳台)に城を構えていました。
種直は重盛の養女の婿で、平氏の信頼厚く、太宰の少弐という役職に就き
権勢を振るっていました。天皇が筑紫に下られた時は、大宰府に程近い種直の館が
仮の御所に当てられることになったのです。このことが後に「安徳」の地名の
起こりと伝えられています。この後天皇は平氏一門と共に四国の屋島に渡られ、
再起を計られますが、ついに寿永四年(1185)陰暦三月二十四日、
壇ノ浦で源義経の軍に敗れ、平氏滅亡の時、祖母の二位尼(清盛の妻時子)に
抱かれ入水されました。(平家物語・郷土誌那賀川より)

この安徳地区では、僅か八歳の短い生涯を終えられた幼少の安徳帝を悼み、
祠を奉ったのが、この地の「安徳宮」の起源と伝えられ、また、
新暦の四月二十四のご命日には、「天皇さまごもり」が現在に至るまで
綿々と引き継がれて安徳区民により執り行われています。

安徳区
那珂川町教育委員会 

◆十市の里 十市(とおち)は奈良県橿原市十市町。
更けにけり 山の端近く 月冴えて  十市の里に 衣打つ声
(『新古今和歌集』秋、式子内親王)
(夜はすっかり更けました。山の端近く月は冴えて、
遥か遠くの十市の里で衣を打つ音が聞こえてきます。)

◆朝倉の木の丸殿 
朝倉は福岡県朝倉郡の地名で、木の丸殿は
丸木のままで造った粗末な御殿のことです。

中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇)が国政改革を進めていたころ、
朝鮮半島では情勢が大きく変わり、高句麗・新羅・百済の三国時代が
終わろうとしていました。660年、中国の唐と新羅の連合軍が百済を攻め滅ぼし、
この時百済再興を目ざす遺臣らから援軍を要請されました。

中大兄皇子の母斉明天皇は、68歳という老骨に鞭うって、援軍を送る準備のため
皇子らを引き連れて九州に下り、朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなのひろにわのみや)に
入りましたが、その三ヶ月後、兵を出す前にこの宮で崩御しました。

朝倉や木の丸殿にわがをれば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ
(『新古今和歌集』雑歌、天智天皇)

(朝倉の木の丸殿に私が居ると、名乗りをしながら行くのは、
どこの家の子であろうか。)は、
当時東宮であったこの時の作と伝えています。
その後、中大兄皇子は即位することなく磐瀬宮(長津宮)へ遷り、
ほどなく斉明天皇の亡骸とともに飛鳥へ帰っていきました。
朝倉宮は現在の朝倉地域、磐瀬宮(いわせのみや)は、福岡平野の那津周辺に
置かれたという見解がありますが、二つの宮跡はまだ確認されていません。

『アクセス』
「安徳宮」福岡県筑紫郡那珂川町安徳 博多駅からJR博多南線に乗車し博多南駅で下車。
博多南駅からコミニュティーバスかわせみ安徳線約20分
バス停「安徳台入口」下車 安徳館まで徒歩約2分。
安徳館から安徳宮まで約1キロメートル。

時刻表は下記のサイトで最新のものを確認してください。
那珂川町
http://www.town.fukuoka-nakagawa.lg.jp/

『参考資料』 
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 
徳富徳次郎「平家物語全注釈(中)」角川書店、昭和42年
「福岡県の地名」平凡社、2004年

「歴史と旅 輝ける日本の女帝」(2001年9月号)秋田書店 
新潮日本古典集成「新古今和歌集」(下)新潮社、昭和63年 「新古今和歌集」(上)新潮社、平成元年 
「福岡県百科事典」(上)西日本新聞社、昭和57年 杉原敏之「遠の朝廷大宰府」新泉社、2011年

 





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