近衛天皇に先立たれた多子は、近衛河原の大宮御所に暮らしていました。
多子の御所の向いには、源頼政の「近衛河原亭」とよばれた邸宅があり、
頼政は度々多子の大宮御所に出入りしていました。
頼政(1104~80)は摂津源氏の流れをくむ仲政の子、
代々大内守護(内裏警護)の職につき、
摂津国渡辺に本拠を置く、武士団・渡辺党の棟梁でもありました。
頼政は保元の乱では平清盛、源義朝とともに後白河方につき、
続く平治の乱では源氏としてただ一人清盛に味方して勝利します。
平家全盛時代に唯一の源氏として朝廷に仕えますが、源氏であるが故に
官職では不遇をかこっていた頼政が、和歌に思いを託して詠み
昇殿を許されたという逸話が残っています。
晩年に「♪登るべき頼りなき身の木の下に
しい(椎、四位)を捨ひて世を渡るかな」と詠み、
当時病を煩っていた頼政を憐れんだ清盛に、推挙され従三位に昇進、
公卿となり「源三位頼政」とよばれます。
頼政の娘二条院讃岐も歌人として知られ、二条天皇に仕えた女房で
二条天皇没後、後鳥羽天皇の中宮任子に仕えます。
勅撰歌人の祖父仲政、父頼政と兄仲綱等一門には歌人が多く、
平安時代末、二条院讃岐は式子(しょくし)内親王とならび称される女流歌人でした。
頼政は勅撰集に61首、二条院讃岐も72首と数多くの和歌が選ばれました。
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近衛河原辺に架かる荒神橋(鴨川の西側)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/6b/688875b7dafb924fda52dff561172c2c.jpg)
荒神橋と鴨川の河原(右手が鴨川東)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/02/e5687b90ed45469f2886a3d464e194b9.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/2d/672191081a9cbe5cf2102691ec390dcc.jpg)
かつて多子の御所と源頼政の邸があった下安達町の風景
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/41/e0e911abbf02514b606133d38ff7bb3f.jpg)
『(続)京都史跡事典』によると、「近衛河原宿舎(近衛河原亭)とよばれた
源頼政の邸跡は、現在の「鴨川荒神橋」東側、
左京区吉田下足達町付近にあった。」とあります。
東南アジア研究所のある辺、鴨川東の一画です。
『延慶本平家物語考証』には、「多子と源三位頼政とは、賀茂川東の
近衛河原末に向かい合った邸に住んでいたが、その邸が交換された。
先には頼政が北、大宮(多子)が南。交換して逆になった。」とあり、
多子と頼政は互いに、邸を交換するほどに親しかったことが分かります。
後白河天皇の第三皇子・以仁王がこっそりと元服したのは多子の御所でした。
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『平家物語全注釈(中)』によると、多子は近衛天皇崩御の
後は近衛河原の御所に住んでいましたが、
二代の后として二条天皇に入内し、その崩御後は出家し
北山の麓近くに隠棲していたという。
二条天皇陵・二代の后多子
『アクセス』
「東南アジア研究所」京都市左京区吉田下阿達町46
京都バス(17系統)「荒神橋」下車、バス停より南に徒歩1分
または、市バス「荒神口」下車、東に徒歩5分
『参考資料』
「平家物語」角川ソフィア文庫 多賀宗隼「源頼政」吉川弘文館
水原一「延慶本平家物語考証」(三)新典社
富倉徳次郎「平家物語全注釈(中)」角川書店
福田豊彦 関幸彦「源平合戦事典」吉川弘文館
石田孝喜 (続)「京都史跡事典」 新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店
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