平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



以仁王(またの名を高倉宮)は、後白河院の皇子で皇位継承の位置に
ありますが、
平家から疎外され、不遇をかこっていました。
高倉天皇が清盛の娘徳子の生んだ皇子(安徳天皇)に位を譲り、
宮は自らの皇位継承の夢が断たれました。
そこへ平氏全盛の世に不満を抱いていた源三位頼政が宮を訪ね、
平家打倒の挙兵を勧めます。頼政の説得に思い悩んだ末、
源行家に令旨を与え諸国の源氏に挙兵を促しますが、
謀議が平家方に伝わるや、清盛は福原から急ぎ京に入り、
「以仁王を捕らえて土佐に流せ」と命じました。

当時、頼政は70歳を超え、位は清盛に推挙され三位まで昇っていました。
『平家物語』では、頼政が以仁王に謀反を持ち掛けたとしていますが、
実際は以仁王が皇位継承の最後の機会と見て、
頼政をそそのかしたという説が有力視されています。

治承4年(1180)5月15日、十五夜の月を眺めていた以仁王のもとに、
頼政の使者があわてた様子で手紙を持ってきました。
それには
「ご謀反が早くも顕れ、検非違使の役人がお邸にお迎えに参ります。
園城寺(三井寺)へお入り下さいませ。頼政もやがて参ります。」と書かれてありました。
平氏が以仁王の反乱を知ったのは、『覚一本平家物語』には、熊野別当、
『源平盛衰記』では、湛増の弟の佐野法橋が密告したと記しています。


以仁王は長谷部信連(のぶつら)の勧めに従って、
髪をほどき市女笠を被り女房装束をし、三条高倉の御所を脱出し、
乳母子宗信と童を供に高倉小路を北へ、近衛大路を東へ進み、
鴨川を渡り、
東山の大文字山から如意ヶ岳を越え(如意越え)、
暁近く琵琶湖畔の三井寺の背後に辿りつきました。
この山越えは
御足(みあし)より出づる血は、いさご(砂)を染めて紅のごとし。
と悲惨なものだったようです。
三井寺は源氏に縁の深い寺で、頼政の弟の良智・乗智という僧もいました。

『平家物語』巻4・山門蝶状には、以仁王の挙兵を受けて
三井寺の動向が描かれています。

以仁王は僧兵が南院(現、三井寺高台にある観音堂辺)
法輪院に用意した御所に入りましたが、
三井寺の僧たちも一枚岩ではありませんでした。
三井寺長吏・円恵法親王(後白河法皇の皇子・以仁王の異母弟)は
兄宮を都に送り返そうと奔走しましたが、
以仁王は「生きて
辱めを受けるより死を選ぶ」と武人をしのぐ毅然とした態度で拒否します。


天皇が退位してはじめての御幸は石清水、賀茂社など都近辺の神社に
参詣するのが通例ですが、高倉上皇は初参詣を、清盛の崇拝する
厳島神社に詣で
都附近の寺院は平家に対して強く反発しました。
三井寺でも僧兵の反平家感情は強く、

円恵法親王は以仁王の説得を諦めます。

三井寺から比叡山延暦寺、南都興福寺に協力を求めて牒状(書状)が送られ、
興福寺はすぐに承諾しましたが、延暦寺からは返信がありません。
 二寺を対等に扱った三井寺からの手紙の文面が延暦寺の反感をかった上、
清盛と親しい延暦寺の 座主明雲の存在も関係したと思われます。

同月22日、頼政は近衛河原の自邸を焼き払い、息子らを率いて
三井寺に入りました。
以仁王に味方する三井寺の僧には、乗円坊の
阿闍梨慶秀(きょうしゅう)・円満院大輔源覚(げんかく)などの他、
橋合戦で活躍した一来(いちらい)法師や筒井浄妙明秀などがいます。

当時、三井寺は南院・中院・北院で構成されていました。

南院の法輪院に入った以仁王と頼政は、早速、開かれた軍議で六波羅の夜討ちを
提案しましたが、平家に味方する阿闍梨真海が長々と時間かせぎをして撹乱し

夜明け近くになってしまいこの計画は失敗しました。

そして、比叡山には平家から莫大な米や絹が次々と届き、
賄賂を受け取った延暦寺は結局動きませんでした。
延暦寺の協力がなければ、とても以仁王を守りぬくことはできません。
延暦寺との連携に失敗した以仁王と頼政は、急遽、
頼政一族とその配下の兵、
三井寺の僧兵たちを率いて、
南都興福寺の僧兵と合流すべく25日に奈良を目指しました。

境内図は三井寺HPよりお借りしました。

三井寺と清和源氏との結びつきは深く、源頼義は永承六年(1051)
前九年合戦に出陣の際、厚く崇拝する新羅明神に参拝し武功を祈願しました。
この合戦に勝利した頼義は、息子快誉を三井寺の
学侶(法務に携わる僧侶)
とし、頼義の三男義光は新羅明神の前で
元服して、新羅三郎義光と称し、金光院を創建したという。
以仁王の令旨を受けて挙兵した源頼朝は、平家討伐後、
源平合戦の戦火で焼かれた三井寺を源氏の氏寺として再興しています。


園城寺(三井寺)表門の大門
もとは、湖南市常楽寺の門でしたが、秀吉が伏見城に移し、
のち家康の寄進によって三井寺に移築されました。
両脇に仁王像を安置することから、仁王門とも呼ばれます。




近江八景のひとつ三井の晩鐘

当時、園城寺中院の中央にあった金堂



長等神社横から観音堂へ



境内南部の高台の一郭には、西国三十三所第14番札所の伽藍があります。
辺りはかつて園城寺の南院と呼ばれていた所です。


正法寺観音堂

観音堂前広場の隅にある石段を上った展望所より琵琶湖を望む

三井寺(園城寺)には、鎌倉時代末期の三井寺境内と伽藍が描かれた五幅の
「園城寺境内古図」が残されており、そこには北院・中院・南院・
三別所・如意寺が描かれ、院政期の寺域を伝えています。


そのうちの一幅に描かれている如意寺は、平安時代中期?に創建され、
寺領は西が鹿ケ谷から東は三井寺
背後の長等山まで、北は志賀山より南は山科藤尾まで
如意ヶ嶽山中一帯に伽藍が連なっていましたが、応仁の乱
の兵火で焼失していったという。


この絵図から大文字山一帯は、如意寺の伽藍が峰伝いに連なっていたことがわかります。

鹿ケ谷の俊寛僧都山荘のあった辺に流れる楼門の滝の傍に園城寺西門があり、
かつては鹿ケ谷から如意が岳を越えて三井寺に達する道を、
如意越と呼び近江への重要な交通路でした。

東山鹿の谷といふ所は後ろは三井寺に続いて、ゆゆしき城郭にてぞありける。
それに俊寛僧都の山荘あり。(平家物語・巻一)


治承4年(1180)5月、以仁王が御所を構えたという三井寺の法輪院
(南院に属した一支院)については、これ以降の記録はなく、
度重なる戦火で焼失したものと思われます。


一方、以仁王の御所の留守を預かった長谷部信連(のぶつら)は、
三条大路に面した総門も高倉小路に面した小門も開いて
役人を待ちうけていると、大納言実房を陣頭に、侍大将には頼政の養子の
兼綱が立ち追討軍300騎程が御所を取り囲みました。

(頼政の謀反を平家方はまだ知らなかったためと『平家物語』は説明しています。)

信連は孤軍奮闘して以仁王の
逃亡を助けますが、多勢に無勢、
長刀で股を突き通されて生け捕りにされ、六波羅に連行されます。

当初は首をはねるということでしたが、
清盛は武勇に免じて信連を伯耆国(鳥取県)の日野に流します。
信連は源経基の八代の孫にあたり、以仁王の侍として仕えていた人物です。
その後、鎌倉幕府の世になって源頼朝はこれを伝え聞き、
信連に能登の国を領地として与え、子孫は能登の豪族として栄えます。


『アクセス』
「長等山園城寺(三井寺)」大津市園城寺町246 
京阪電車「三井寺」駅より徒歩約10分


「三井寺」駅より琵琶湖疏水に沿って西へ「長等神社」横の三井寺拝観受付より
階段を上がると
現在の「南院」の中心
西国三十三所観音霊場の第14番札所観音堂です。

『参考資料』
「平家物語」角川ソフィア文庫 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙書房
 「古絵図が語る大津の歴史」 大津市歴史博物館 「三井寺」三井寺発行 
「近江名所図会」柳原書店 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂 
「三井寺と近江の名刹」小学館 「平安時代史事典」角川書店 









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以仁王の御所である高倉宮は、三条大路北・高倉小路西の一町を占めていました。
それは、現在の京都文化博物館・中央郵便局・教育相談センターなどの敷地にあたります。
三条通りに面して御所の総門があり、高倉通りには小門がありました。

高倉宮跡にたつ京都文化博物館。

こども相談センターパトナの前に「高倉宮跡」の碑がたっています。

後白河法皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)は、
三条高倉に住んでいたので、またの名を高倉宮といいます。
母の成子は藤原季成の娘で、後白河法皇の寵愛を受け、
王の他にも守覚法親王や式子内親王を生んでいます。
30歳になる以仁王は皇位継承者の位置にありながら、平家の血を引く
弟の高倉天皇が皇位につき
才能に恵まれながらも
表舞台に立つことなくひっそりと暮らしていました。
『平家物語』によると、源三位頼政が以仁王に謀反をもちかけたとしています。
頼政は
高倉宮の御所を訪ね鳥羽殿に幽閉されている父君の
後白河法皇の不遇や平家一門の横暴を訴え、
平家を滅ぼして
宮が皇位につくことを勧めます。
以仁王が令旨を出せば全国にいる源氏が
決起し馳せ参じますと次々諸国の源氏の名を50人も数えあげます。
この誘いに以仁王は迷いますが、以前優れた人相見と評判の高い
少納言維長が「王は皇位につく人相をしておられます。」と

見立てたことを思い出しついに決心します。

以仁王が諸国源氏に発した令旨は、『吾妻鏡』や『延慶本平家物語』
『広本系平家物語』に収められています。公文書としての令旨の形式に不備があり、
また諸史料に見える令旨の文言に異同があるため、古くから問題視されてきました。
しかし当時の公家の日記などから、平氏打倒を命じる以仁王の命令文書が諸国の
武士や寺社に伝達され、源平争乱の引き金になったことは間違いありません。

令旨の内容は、清盛が後白河院を幽閉して院政を停止し、国政を独占した行為を
激しく非難し、清盛を「謀反人」と決めつけ、源氏の武力によってこれを罰せよ。と
いうものでした。『広本系平家物語』には、以仁王は自らを国家権力者のための経典
「金光明最勝王経」に因んで「最勝親王勅宣」と王が自ら親王と名乗っていますが、
『吾妻鏡』には「最勝王」という表現がされています。


令旨の使いに選ばれたのは保元の乱・平治の乱で父や兄義朝を殺され、
新宮に潜んでいた為義の十男・新宮十郎(源義盛)でした。
八条院の蔵人という役職を賜り、名も「新宮十郎行家」と改め、
諸国の源氏のもとへと旅立ちました。
『吾妻鏡』治承四年(1180)四月二十七日条によると、「行家が持った以仁王の
令旨が今日伊豆国の北条館に到着した。源頼朝は水干に着替え、舅
北条時政を呼び
石清水八幡宮
を遙拝した後、令旨を謹んで開いて見た。」とあります。


八条院は父・鳥羽天皇、母・美福門院から膨大な荘園を譲られ、それは東国はじめ
諸国に総計約二百数十ヶ所にあったといわれ、
上杉和彦氏は
「富裕な八条院のもとには多くの文人、歌人が集まり、文化サロンを形成し、歌人の頼政も
八条院に出入りし、和歌を通じて以仁王との親交を深め、請われるまま反乱の計画に
参画していったとの推測が成り立つ。」(『源平の争乱』)と述べておられます。

『平家物語』には、頼政が不遇な宮に平家打倒を勧めたとありますが、
実は八条院・以仁王側から頼政を誘ったのだというのです。

平氏政権に没収された以仁王の寺領。
城興寺(以仁王)
 『アクセス』

「高倉宮御所跡」中京区東洞院姉小路通下ル曇華院(どんげいん)前町
「京都市教育相談総合センター・こども相談センターパトナ」(元初音中学校)西口傍
地下鉄「烏丸御池」下車徒歩5分
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 

 

 
 
 
 
 


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近衛天皇に先立たれた多子は、近衛河原の大宮御所に暮らしていました。
多子の御所の向いには、源頼政の「近衛河原亭」とよばれた邸宅があり、
頼政は度々多子の大宮御所に出入りしていました。
頼政(1104~80)は摂津源氏の流れをくむ仲政の子、
代々大内守護(内裏警護)の職につき、

摂津国渡辺に本拠を置く、武士団・渡辺党の棟梁でもありました。

頼政は保元の乱では平清盛、源義朝とともに後白河方につき、
続く平治の乱では
源氏としてただ一人清盛に味方して勝利します。
平家全盛時代に唯一の源氏として朝廷に仕えますが、源氏であるが故に
官職では不遇をかこっていた頼政が、和歌に思いを託して詠み
昇殿を許されたという逸話が残っています。
晩年に「♪登るべき頼りなき身の木の下に
しい(椎、四位)を捨ひて世を渡るかな」と詠み、
当時病を煩っていた頼政を憐れんだ清盛に、推挙され従三位に昇進、
公卿となり
「源三位頼政」とよばれます。

頼政の娘二条院讃岐も歌人として知られ、二条天皇に仕えた女房で
二条天皇没後、後鳥羽天皇の中宮任子に仕えます。

勅撰歌人の祖父仲政、父頼政と兄仲綱等一門には歌人が多く、
平安時代末、二条院讃岐は
式子(しょくし)内親王とならび称される女流歌人でした。
頼政は勅撰集に61首、二条院讃岐も72首と数多くの和歌が選ばれました。

近衛河原辺に架かる荒神橋(鴨川の西側)

荒神橋と鴨川の河原(右手が鴨川東)



かつて多子の御所と源頼政の邸があった下安達町の風景

『(続)京都史跡事典』によると、「近衛河原宿舎(近衛河原亭)とよばれた
源頼政の邸跡は、現在の「鴨川荒神橋」東側、
左京区吉田下足達町付近にあった。」とあります。
東南アジア研究所のある辺、鴨川東の一画です。

『延慶本平家物語考証』には、「多子と源三位頼政とは、賀茂川東の
近衛河原末に向かい合った邸に住んでいたが、その邸が交換された。
先には頼政が北、大宮(多子)が南。交換して逆になった。」とあり、
多子と頼政は互いに、邸を交換するほどに親しかったことが分かります。
後白河天皇の第三皇子・以仁王がこっそりと元服したのは多子の御所でした。

『平家物語全注釈(中)』によると、多子は近衛天皇崩御の
後は近衛河原の御所に住んでいましたが、
二代の后として二条天皇に入内し、その崩御後は出家し
北山の麓近くに隠棲していたという。
二条天皇陵・二代の后多子  
『アクセス』
「東南アジア研究所」京都市左京区吉田下阿達町46
京都バス(17系統)「荒神橋」下車、バス停より南に徒歩1分
 または、市バス「荒神口」下車、東に徒歩5分
『参考資料』
「平家物語」角川ソフィア文庫 多賀宗隼「源頼政」吉川弘文館
 水原一「延慶本平家物語考証」(三)新典社
富倉徳次郎「平家物語全注釈(中)」角川書店
 福田豊彦 関幸彦「源平合戦事典」吉川弘文館

 石田孝喜 (続)「京都史跡事典」 新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店

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