平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




宝城院は壇上伽藍の北の高台にあり、後白河上皇が仁安4年(1169)3月に
高野山に参詣した際に建てられた六つの坊の一つに始まる名刹です。
はじめ成仏(じょうぶつ)院という寺院でしたが、
寛永9年(1632)宝城院と改められました。江戸時代には、丹波篠山
松平家の帰依を受け、末寺が播磨はじめ丹波・丹後などに410ヵ寺あり、
閑院宮家の菩提寺ともなり隆盛しました。閑院宮は江戸時代中期、
東山天皇の皇子直仁親王が創設した宮家です。
本尊は大日如来、秘宝の弁財天図一幅は重要文化財に指定されています。

宝城院は高野山に多くある宿坊寺院の一つです。






山門でこうやくんが笑顔で出迎えてくれます。

本堂
後白河上皇は仏教に深く帰依し、仏道修行に熱心に励んでいました。
それにともない上皇は、
熊野御幸をはじめ高野山・比叡山などに参詣しています。
中でも仁安元年(1166)から同4年にかけては、
ほぼ一年に2回ずつ熊野詣を行っています。
当時、後白河上皇の寵愛はもっぱら建春門院平滋子(清盛の義妹)にあり、
清盛と上皇が手を組み、政治的に最も安定した平穏な時期でした。
出家後、福原に本拠を置いた清盛は、千人の僧侶を集めて
法華経を読誦(どくじゅ)する法会を福原の海岸で何度も催しています。
上皇は高野山から帰ると旅の疲れをとるもなく、
建春門院を伴ってこの千僧供養に参列しています。

 後白河上皇が高野山行幸の途中、建立した寺が大阪市にあります。

閑静な住宅街の一画にたつ法皇山母恩寺

「仁安3年(1168)に、後白河法皇が、高野山に参詣される途中、
とくにこのあたりの景色を好まれ、ここに生母・待賢門院の菩提のために
この寺を創建されました。
寺の名前は「母后報恩」の意味がこめられています。
往時は12の坊舎を有する大伽藍で、
代々住職は皇女が勤める尼寺でした。
淀川の洪水や兵乱でしだいに勢いが衰え、一時は
荒れ寺となっていたこともありました。
寺宝として後白河法皇と待賢門院の
画像のほか、享保4年(1719)の略縁起などがあります。」
(現地説明板)

一時は大伽藍を誇っていた寺も洪水や戦国時代の兵火で衰微し、
今は見るかげもありません。

後白河上皇(雅仁親王)は、鳥羽天皇の第四皇子に生まれ、

生まれた時には8歳年上の兄崇徳天皇がすでに皇位についていました。
皇位継承の枠外で気楽な立場にあった雅仁親王は、青年期
母の御所に出入りしては
今様等の芸能に熱中して気ままに暮らしていました。
待賢門院璋子は鳥羽天皇の中宮で、
崇徳天皇・後白河天皇・上西門院統子ら
の生母です。

『後白河上皇』(移徒一覧)によると、上皇の高野山参詣は
仁安4年(1169)3月13日から同月18日とあり、
説明板の仁安3年に
疑問がありますが、それはさておき母恩寺は上皇が母待賢門院の
菩提寺として
創建した浄土宗の尼寺で、寺はもと大伽藍を有し、
寺域は一村に及んだと伝えられています。
本尊は恵心僧都作と伝えられる阿弥陀如来立像です。
都島神社は後白河上皇の勅命により、母恩寺の鎮守として創建された社です。
『アクセス』
「宝城院」和歌山県伊都郡高野町高野山156 
南海高野山ケーブル「高野山駅」下車、バス停「大塔口」下車徒歩5分
「母恩寺(ぼおんじ)」 大阪市都島区都島本通1-20-22
大阪市営地下鉄谷町線「都島」下車 徒歩約5分
『参考資料』
「和歌山県の地名」「大阪府の地名(1)」平凡社 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書

 

 



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時宗の開祖・一遍は、
河野七郎通広の次男、伊予国(愛媛県)の大豪族河野氏の一族です。
河野氏は平安末期から戦国時代にかけて、伊予水軍の中心となって活躍しました。
源平合戦では、ほとんどの瀬戸内水軍は忠盛以来の縁がある
平家軍の味方でしたが、河野通信(一遍の祖父)は、屋島の平氏が口説いても、
去就をはっきりさせませんでした。しかし、源義経が通信を
味方にひきいれることに成功し、河野水軍は150隻の軍船を率いて
壇ノ浦に現れ、熊野水軍とともに源氏軍を勝利に導きます。

一遍は10歳の時、出家し大宰府の聖達(法然の孫弟子)の弟子となり、
浄土教を身につけました。その後、長野の善光寺で
二河白道の図(浄土往生の図)を見て深く心を打たれ、
伊予の山中で三年間、称名念仏の修行に励みました。
一遍の教えは、阿弥陀仏を信じる信じないに関わらず「南無阿弥陀仏」という名号
そのものに絶対的な力があるとし、念仏さえ唱えれば誰でも救われると、
「南無阿弥陀仏」と書いた小さな札を配る賦算(ふさん)という方法で布教しました。
この札には絶対的な力があり、阿弥陀の仏像がなくても、どこででも
南無阿弥陀仏とさえ唱えれば往生するという都合の良い信仰形態です。
庶民には仏教の教義はとても理解できませんが、
一遍の教えは分かりやすく手っ取り早い方法でした。
踊り念仏も一遍がはじめたものです。名号を唱えながら鉦を叩き、
床を踏みならし踊ることによって往生すると信じ、
人々は我を忘れ有頂天になって踊り続けました。
賦算と踊り念仏によって時宗は、鎌倉末期から室町中期にかけて
庶民の仏教として熱狂的な広まりを見せました。

京都市新京極通りに面した染殿院に賦算遺跡の石碑がたっています。
かつて染殿院は、釈迦如来を祀っていたことから
四条京極の釈迦堂とよばれていました。
「一遍聖絵巻」によると、弘安七年(1284)閏四月、一遍は大津の関寺より
京都に入り、
四条京極の釈迦堂に7日間滞在しています。
賦算・踊り念仏はひろく人々に受け容れられ、一遍のもとに貴賎上下が
群れをなして集まり、「絵巻」は身動きできないほどの賑わいを描いています。

京都でも一番賑わう繁華街、新京極通
平日の早朝、まだ商店街のシャッターは閉まっています。

染殿院は四条通に面した京極派出所と甘栗和菓子・林万昌堂の間の
小路を入った突き当りにあります。



堂内に安置する本尊地蔵菩薩は秘仏です。
寺伝によれば、文徳天皇皇后藤原明子
染殿皇后)が本尊に祈願して
清和天皇を出産したといい、これに因んで安産守護の信仰が生まれました。

高野山から勧進のため諸国を廻った高野聖は、はじめは修行性の強い
道心ある(道を求める心を持っている)隠遁者でした。
平安時代中期に、熱心な阿弥陀仏信者の教懐が小田原谷に
住んだのが高野聖の祖といわれています。当時は末法思想を背景に、
南無阿弥陀仏と唱えることによって西方浄土から阿弥陀が迎えに来て
浄土へといざなってくれるという阿弥陀信仰・浄土信仰が隆盛を見せた時代で、
鎌倉初期に来山した明遍が蓮花谷聖を組織し、聖は高野山と極楽浄土との
結びつきを説いて廻りました。次いで五室(ごむろ)聖、萱堂(かやどう)聖とそれぞれ
性格を異にする聖集団が現れ、高野山における聖の勢力は強大なものとなり、
念仏が山上を覆い高野山本来の真言密教を圧倒する勢いでした。
高野山が北条政子を通して鎌倉幕府と密接な繋がりを持つようになると、
武家社会の新しい仏教、禅宗も入ってきました。こうして高野山は
寛容に他宗を受け入れ、宗派を超えた霊場となっていきました。
南北朝期の頃、一遍が高野山に登り、千手院谷で称名念仏を始め
念仏化をさらに進めました。一遍が山を下りた後も、一遍の教えを信仰する
千手院聖(時宗聖)が山に留まるとほかの聖集団の時宗化が進み、
高野聖はすべて時宗の聖となってしまいました。
そして高野聖はかつての道心と苦行と隠棲をすてて、遊行と勧進を中心に
賦算と踊念仏で諸国を廻り、高野山の信者を獲得していきました。
なぜそれぞれ特色のある聖集団が時宗の聖となったのでしょうか。
『高野聖』によると、時宗聖の勧進形態が進んでいたので、
他の高野聖は時宗の勧進方式を採用し、時宗の聖となったようです。

やがて娯楽的・芸能的色彩の強い踊り念仏は高野聖の俗悪化の要因ともなり、
信仰を隠れ蓑にして不正な商売をしたり、女性との噂を起こすものも現れ、
「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」などといわれ
厄介者あつかいされるようになりました。先の見えない混沌とした社会情勢の
戦国時代、勧進の成果を挙げにくくなったことから、高野聖の生活は困窮し、
商聖化して呉服聖とよばれたり、貼り薬や薬などを売る聖も現れます。
その頃、高野山では真言密教の二大学匠が現れ教学の充実が図られた結果、
聖の念仏や鉦の音に対して、
総本山金剛峯寺は高声念仏、踊念仏、鉦叩きなどを禁止しました。

高野聖の廃絶のきっかけとなったのが、戦国時代の信長高野攻めです。
摂津伊丹城主荒木村重は、織田信長に背き有岡城(伊丹市)に立て篭もり、
明智光秀や黒田官兵衛などの説得にも気持ちを変えることはなく、
一族や家来を置き去りにしたまま逃亡しました。
信長は裏切り者村重に対する報復に過酷な刑罰で臨みます。
女房衆を尼崎にて処刑、召使の女や子供、若衆など500人余を
4軒の家に閉じ込めて火をつけ、さらに村重の一族など
30余名を洛中引きまわしの後、六条河原で斬首しました。
この時、村重の家臣5名が高野山に逃れ、これを追ってきた信長勢30余人を
高野山は皆殺しにしました。これに激怒した信長は畿内近国を勧進していた
高野聖千数百人を捕え処刑し、織田信孝を総大将として高野山攻撃を
開始しましたが、その最中、信長は本能寺で明智光秀に討たれ、織田勢は
撤退を余儀なくされました。江戸期、徳川幕府の命令による真言帰入令で、
高野山創建時の空海の教え、真言密教にもどることや
聖の定住化が図られ、やがて時宗高野聖は姿を消していきました。
『アクセス』
「染殿院」
京都市中京区新京極通四条上ル西入ル中之町562
市バス「四条河原町」又は阪急電車「河原町」下車徒歩2,3分
『参考資料』
五来重「増補=高野聖」角川選書 山田耕二「高野山」保育社 
 高野澄「歴史を変えた水軍の謎」祥伝社黄金文庫 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社
 ひろさちや「仏教早わかり百科」主婦と生活社
竹村俊則「新版京のお地蔵さん」京都新聞出版センター
 竹村俊則「昭和京都名所図会(洛中)」駿々堂



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平家が栄華を極めようとしている頃、ますます強大になっていく平氏一門に対し、
後白河院の近臣たちは反発を強め、俊寛の鹿ケ谷の山荘に
集まっては平家打倒計画を練っていました。
時には密議に後白河院も加わることもありました。
メンバーは清盛のために大将職をはばまれた藤原成親をはじめ、
西光・俊寛・平康頼などです。多田行綱の寝返りで発覚し、
西光は即座に斬られ、首謀者成親は一旦備前へ配流後暗殺され、
成親の嫡男藤原成経や俊寛・平康頼は鬼界ヶ島に流罪と決まりました。

鬼界ヶ島は鹿児島県南方海上にある現在の硫黄島と見られています。
住民は色が黒く、言葉も通じません。着物もまとわず
鳥や魚を捕え、貝や海草を拾って生活していました。
昔から成経と康頼は熊野権現の熱心な信者だったので、島に着くとすぐに
島内に熊野の地形と似た所を探し、そこを熊野三山に見たて毎日参詣し、
都へ帰れるよう祈願しましたが、俊寛だけは僧でありながら無信心で、
二人の熊野詣に同行することはありませんでした。
やがて建礼門院の懐妊に伴い大赦が行われ、赦免状を持った
使者が都から島にやってきました。成経、康頼は許されましたが、
どうしたことか赦免状には俊寛の名前がありません。

二人を乗せた船が今にも出発しようとするのを見て、俊寛はとも綱にとりつき
「せめて九州の地まで」と泣きすがりますが、無情にも都の使いは俊寛の手を
振り払って漕ぎ出しました。高い所に上り「これ乗せ行け、
連れ行け」と叫びますが、やがて船は見えなくなってしまいました。
俊寛のみが赦されなかった理由を「清盛の取り立てで出世した身、
その恩を忘れ密議の場所を提供したため」とし、また成経には舅・教盛(清盛の弟)の
助けがあり、康頼には島から流した卒塔婆に書かれた和歌に同情する世論がありました。
さらに当時盛んになった熊野信仰を背景にして、
二人の恩赦を熱心な熊野信仰によると平家物語は語っています。

幼い頃から召使っていた有王という童は、俊寛だけが帰京しないので、
その身を案じ苦労を重ねながらようやく島に辿りつきました。
何日もかかって探し歩き、やっと磯のほうからふらふらと歩いてくる
変わり果てた俊寛にめぐり逢いました。漁師に魚をもらい、
貝や海草を拾って生き長らえてきた辛い日々を俊寛は語り始めます。
その住まいはといえば、雨露も凌げそうにないあばら家でした。
有王は俊寛の語る話に耳を傾けながらも、大寺院・法勝寺の執行として、
八十余ヵ国の荘園の事務をつかさどり、立派な邸で4、5百人の従者親族に
とり囲まれていた人が、このような憂き目にあうのは何と不思議なことであろう。
これは主が信者の布施を受けながらそれにこたえる功徳もせず、恥ずることなく
罪をつくり続けたことにより、報いを受けているのだと有王には思われました。

有王から息子と妻は死に、残された娘は叔母に引取られたという事を聞くと
「妻子に会いたいがために恥を忍んで生き延びてきたのに…」と
娘のことを気遣いながらも、生きる気力を失くしてしまい食事を絶ち、
有王に念仏を勧められ南無阿弥陀仏を唱えながら三十七歳の命を終えました。
それは有王が島に渡ってきて二十三日目のことでした。
主の最期を見届けた有王は、遺骨を首にかけて都に戻り娘に報告すると、
娘は嘆き悲しみ十二歳で出家、奈良の尼寺法華寺に入り父母の後生を弔いました。

有王は高野山に登り奥の院に納骨し、蓮華谷で高野聖となって
諸国を行脚し主の後世を弔ったと『平家物語』は語っています。
ところで鹿ケ谷の陰謀の舞台となった山荘の持ち主を平家物語は、俊寛と
記していますが、『愚管抄』では、実は後白河院の近臣の静賢(じょうけん)とし、
さらに赦免の話がある前に俊寛は病死していたとしています。
すると鬼界ヶ島俊寛の物語は虚構ということになり、
俊寛だけが許されない理由づけを俊寛山荘での謀議としたようです。

静賢は平治の乱で殺された信西の息子で、法勝寺・蓮華王院の執行を務め、
院からも清盛からも信頼されていた人物です。平家物語の中には彼が関係し提供した
話題が多くあり、この一族が物語成立に関わったのではないかと見る説もあります。

奥の院の西一画には、明遍(信西の息子)の開いた蓮華谷があり、
聖が隠棲する寺や庵が並んでいました。



明遍の頃、高野聖の全盛期をむかえ、彼らの活動によって
大師信仰が一気に広まりました。
父親ゆずりの明遍の才能が花ひらいた時代です。


熊谷寺
現在、蓮華谷には熊谷寺、清浄心院、赤松(せきしょう)院、丹生院、
恵光院、光明院、遍明院、大明王院、宝善院などがありますが、
平家物語ゆかりの寺は、熊谷直実の熊谷寺と滝口入道の清浄心院を残すだけです。


清浄心院

民俗学者柳田國男氏の『有王と俊寛僧都』という有名な論文があります。
それによると九州地方を中心に、長門・四国・北陸などに
俊寛の墓と称する遺跡が数多くあり、伝説の内容は少しずつ異なりますが
鬼界が島の俊寛の話が各地に伝えられているという。
それは一人ではとても残しきれない数なので、
有王と名のる語り手が複数存在したと述べられています。
有王は、俊寛に安らかな死を導くための登場人物であると同時に
鬼界が島俊寛を語り広める高野聖であったとし、平家物語の作者は、
高野聖のこの話を作品の一節に採りこんだという見解を示されました。

佐々木高綱・熊谷直実が合戦譚を斎藤滝口入道が横笛との
せつない恋を語ったのが蓮華谷であったように、
平家物語の中の多くの話材がこの谷から発生して広まりました。
それと同じように俊寛だけが都に帰って来なかったという事実をもとにして、
鬼界が島俊寛の説話は、蓮華谷の聖と思われる作者によって創作され、
有王と称する高野聖が広め、肥前嘉瀬庄(佐賀市)法勝寺の盲目の僧が
この物語を琵琶にあわせて語ったのであろうと氏は推定されています。

肥前は琵琶法師が活躍していた赤間が関に近く、
古くから盲目の僧たちの活動の拠点でした。
鬼界が島俊寛の物語は語り歩くうちにしだいに練り上げられ、
俊寛の霊を慰める大念仏会の説教のレパートリーとして語られ、
これに仏縁を結ぶ人々から賽銭や塔婆料を集め、大念仏会の跡には
俊寛にまつわる遺跡が残ったと思われます。
そして俊寛の哀話は事実談でなく、高野聖や語り集団が脚色した語りと
見ることができ、
各地に分布する俊寛有王伝説や俊寛塚・有王塚からは、
これを語り歩いた高野聖の足跡をたどることができます。

高野聖は半僧半俗の生活を営みながら、諸国を行脚して宗教色の濃い
絵解きや仏教説話を語りながら、人々を仏道に導きいれて寄付を集める
唱導説教、また高野信仰と高野山への参詣・納骨を勧め
宿坊を提供することによって高野山の台所を支える役割を担っていました。
唱導説教の際に語られた物語が『平家物語』成立に
様々な形で関わったことは、これまでにも指摘されています。
平家物語の作者は、高野聖が語った鬼界ヶ島の俊寛の話をうまいぐあいに
平家打倒の謀議につなぎ合わせて、構築していったと考えられます。
『アクセス』
「蓮華谷」高野山駅から南海りんかんバス「一の橋」下車
『参考資料』
「柳田國男全集(9)」(物語と語り物)ちくま文庫 五来重「増補=高野聖」角川選書
福田晃「軍記物語と民間伝承」岩崎美術社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社

 

 



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平安時代始め、空海は高野山を真言密教の根本道場として伽藍の造営に
取りかかりましたが、堂塔が整備されたのは、空海の弟子の代になってからです。
正暦五年(994)落雷によって伽藍が焼失するなどして荒廃し、
僧がみな山を下りるという存亡の危機にさらされた時期がありました。

高野山の復興は、祈親(きしん)上人定誉によるところが大きいのですが、
その背景には、摂関期の藤原道長・頼道の参詣、
さらに院政期になると、白河・鳥羽・後白河の各上皇が相次いで参詣し、
その度に莫大な布施、荘園の寄進、堂塔建立が行われたことなどがあげられます。
祈親上人は空海が生身のまま奥の院の御廟にあって衆生を救済していると宣伝し
朝野の広い信仰を集め、高野山は熊野と並ぶ寺社詣のメッカとなりました。

末法思想の広まりとともに浄土教が興隆し、高野山にもその影響が顕著に
現れるようになりました。11Cに入山した教懐(きょうかい)が浄土信仰を持ちこみ、
浄土往生と念仏信仰集団を作ったのが高野聖の始まりとされています。

教懐の教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした独特のものでした。
この頃、鳥羽上皇の帰依を得た覚鑁(かくばん)が高野山に登り、
密教と浄土教を融合させた独自の念仏を唱えていましたが、教義上の対立とともに、
覚鑁が本寺金剛峯寺と末院大伝法院の座主を兼ね、本寺に対し末院の僧を上席に
置いたことから、金剛峯寺勢力はこれに反発、覚鑁は根来に退くことになりました。

久安五年(1149)の落雷による大火を機に高野山に多くの勧進聖が集まり、
その群れの中に源平争乱や政争に敗れた者なども入り、
高野聖は多彩な集団となりました。鎌倉時代の始めには、
明遍(みょうへん)や重源が入山し高野聖の全盛期を迎えます。
当時は高野山の浄土信仰を担った高野聖たちの活動の盛んな時期であり、
「南無阿弥陀仏号」を用いるくらい専従念仏化する一方、空海の入定信仰や
弘法大師に仮託した念仏法語も作って唱導勧進活動を行っています。


蓮華谷の熊谷寺から花折谷(明遍通)へ

高野聖の祖ともいわれる明遍(みょうへん)は、
平治の乱で非業の死を遂げた藤原通憲(信西)の子です。
信西は藤原南家の祖・武智麻呂の孫・貞嗣(さだつぐ)の子孫で、
下級貴族の出身ですが、後妻に迎えた紀伊局が後白河院の乳母であったため、
保元の乱後、妻の権力を背景にして権勢を振い、
彼を中心にして当時の政治が動きました。
信西は抜群の才覚をもつ優れた政治家だっただけではなく、
歴史書『本朝世紀』などを著した当代無類の学者でしたが、
後白河院側近の藤原信頼と確執を強めていきます。
信頼は保元の乱後の恩賞をめぐって不満をつのらせていた
源義朝と結び、平治の乱で信西を滅ぼしました。

藤原成範・静憲・澄憲・覚憲・明遍・勝憲などの
信西の息子たちは、父の死によって流罪や僧にされましたが、
彼らはすべて才能豊かで、赦免後は出家しなかった子は高位高官につきました。
中でも藤原成範(しげのり)は、権中納言正二位にまでのぼりました。
成範は高倉院の寵愛を受けた小督の父にあたり、桜を愛でて邸に桜を植え並べ
「桜町中納言」と呼ばれたことが『平家物語(巻1)吾身の栄華の事』に見えます。

静憲法印は流罪が許されると後白河院の近臣となり、院にも清盛にも信頼され、
法勝寺・蓮華王院(三十三間堂)などの執行を務めています。鹿ケ谷の陰謀で
謀議が行われた山荘は、『平家物語』は俊寛のものと記していますが、
『愚管抄』では静憲の山荘が舞台になったとしています。

澄憲法印は説法唱導の名手として知られ、比叡山の東塔竹林院の里坊として
安居院(現・京都市大宮通鞍馬口西法寺)を建立し、ここを活動の拠点とし、
多くの法会の導師となり、安居院(あぐい)流唱導の祖となります。
澄憲・聖覚父子の見事な声は人々を惹きつけ、寺は多くの聴衆で賑わい、
安居院流の唱導が一世を風靡しました。

覚憲は興福寺別当、勝憲は醍醐座主、信西の孫で平治の乱の時、
5歳だった笠置寺の解脱上人貞憲は、ときの最高権力者、
後鳥羽天皇や関白九条兼実の帰依を受け、
その著書『愚迷発心集』は今も読み継がれています。同じく孫の成賢は
醍醐座主になるなど、僧となった者も各宗派の長となる者や有名な僧がでて、
信西一族は当時の仏教界をリードする存在であったことが窺われます。

明遍は越後国に流され、許された後は東大寺で三論宗を学び、
父譲りの聡明さで当代きっての学僧として頭角を現しますが、
本寺を離れ東大寺の念仏別所、光明山寺(南山城)に隠棲します。
隠棲したのは、家柄や学才からも当然座主・別当にのぼるはずの身であるのに、
出世が遅いからだと人々は噂しました。45歳の時に少僧都の宣下がありましたが
これを固辞し、54歳で光明山を出て高野山に篭ると、やがて貴族出身であることや
その学識と道心が聖の間で人気を高め偶像化されます。

明遍がどのようにして法然に出会ったのかはよく分かりませんが、『法然伝』は、
明遍が法然の『選択本願念仏集』を読んでその欠点を指摘したところ、
夢に四天王寺で法然が病人に粥をほどこす様子を見てさとるところがあり、
法然の信者となったという話を載せています。そして明遍は
三論宗の僧でありながら、法然の仏教を布教する重要な役割を果たします。

高野山内には、千手院谷、小田原谷、蓮華谷など多くの谷があり、谷にはそれぞれ
性格を異にする聖集団が住み、
彼らは根拠地とした谷の名前でよばれました。

蓮華谷は明遍が開いた別所(聖の庵や寺が集まっていた場所)で、
蓮華三昧院にちなむ名です。蓮華谷聖の特色は、宣教や勧進の廻国と
高野山への参詣・
納骨を勧める活動を行い、蓮華谷の枝谷、
花折谷(今の明遍通)には、蓮華谷聖の本寺、蓮華三昧院がありました。


 
蓮華谷の聖が御庵室または主君寺とよんだ蓮華三昧院は、
明治の大火で跡形もなく焼失し、辺りには
民家がひしめきあっているだけで
往時を偲ぶものは何もありません。

熊谷直実の他に蓮華谷で修行する鎌倉武士がいました。
頼朝から名馬生食(いけずき)を授かった佐々木高綱は、義経配下として上洛し、
宇治川で梶原景季と先陣を争い重代の太刀で川底に張られた綱を切って
先陣を遂げるなど、源平合戦で数々の功をたてました。
世が鎮まった後、頼朝から備前・安芸など七ヵ国の守護職を賜ったものの、かつての
約束と違うと腹を立てて出家し、高野山に登り、諸国を巡回したと伝えられています。
『金剛三昧院文書』には、蓮華三昧院は、
もとは佐々木高綱が建立した寺であり、それを明遍に譲ったとあります。

高綱の甥・佐々木信綱は承久の変でやはり宇治川の先陣を遂げた勇士です。
出家後高野山に入り、蓮華三昧院の阿弥陀堂を寄進しています。
『承久記』によると、北条義時の軍が京に迫り、宇治川で後鳥羽院方と対峙した時、
信綱は尼将軍政子から拝領した名馬に乗り芝田橘六兼吉と先陣争いをしました。
始めは差がなかったのですが、やがて劣っている
芝田橘六の馬は次第に水をあけられてしまいました。

蓮華谷の枝谷の宝憧院(ほうどういん)谷には、
八幡太郎義家の曾孫の義兼が足利入道鑁阿(ばんな)と称して高野聖となり、
宝憧院を建て十余年住んだといわれています。
義兼は尊氏から六代前の祖先にあたり、出家して上野国足利に鑁阿寺を
開いたので、鑁阿寺殿義称上人とも呼ばれました。
義兼の母は、頼朝の母由良御前の妹で、妻は北条政子の妹という名門です。
宝憧院は焼失し、今は谷の名を残すだけです。
『参考資料』
 五来重「増補=高野聖」角川選書 梅原猛「法然の哀しみ」(下)小学館文庫 
野口実「武門源氏の血脈」中央公論新社 「和歌山県の地名」平凡社
「検証・日本史の舞台」東京堂出版「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 
県史「和歌山県の歴史」山川出版社 竹村俊則「昭和名所図会」(洛中)駿々堂
 村井康彦「平家物語の世界」東京堂出版「平家物語」()角川ソフィア文庫
 新潮日本古典集成「平家物語」()(下)新潮社

 



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高野山奥の院近くに熊谷直実ゆかりの熊谷寺(旧持宝院・智識院)があります。
寺の由来は、熊谷直実が法然のもとで出家して蓮生と改め、
建久二年(1191)高野山に登り智識院に身を寄せて
平敦盛の霊を弔ったという故事により、
建保二年(1214)、源頼朝が熊谷寺と命名したと伝えられています。
また『新別所由来記』には、直実が文治年間(1185~89)に
来山して蓮華谷の智識院に住んだとしています。

奥の院の入口あたりを蓮華谷といい、
明遍が始めた蓮華谷に所属する高野聖が住んでいた場所です。



蓮華谷の一画にある熊谷寺は、高野山に50軒以上ある宿坊寺院の一つです。


以前、高野山を巡るバスツァーに参加した際、
この正門をくぐって中へ入り熊谷直実の鎧を見せていただきました。

『吾妻鏡』には、熊谷直実は鶴岡八幡宮の流鏑馬の際、
頼朝に的立役を命じられましたが従わなかったため、
文治三年に所領の一部を没収され、これを機に幕府の行事から姿を消し、
代わって嫡男の次郎直家の活躍が記されています。
出家の動機ついては、その五年後の『吾妻鏡』建久3年(1192)11月25日条に、
所領をめぐる紛争によるとする記述があります。

吾妻鏡が記す時期に直実が出家していたとすると、

直実が高野山にやって来たのは、建久3年11月25日以後のことと思われ、
熊谷寺の由来や『新別所由来記』が語る時期とは相違があります。
『法然上人行状画図』は、入道蓮生の事績を詳しく記していますが、
蓮生の高野入山の記事は見えず、
『吾妻鏡』にも、熊谷直実の高野登山のことは記されてなく、
直実と熊谷寺の関わりについて一次史料から確認することは難しいようです。

円光堂は、圓光大師(法然)・見真大師(親鸞)・熊谷蓮生(熊谷直実)の旧跡で
法然上人二十五霊場の番外札所になっています。
 堂前の石像は熊谷直実(熊谷蓮生法師)です。

円光堂内、向かって右奥に安置されているのが蓮生法師像、
正面が本尊の圓光大師(法然)像、右手前が熊谷頭痛除の兜と名付けられた兜。

五来重氏は『高野聖』の中で
直実と熊谷寺について、
「蓮生が高野に登ったのは事実であろうとし、当時、蓮華谷に篭る
鎌倉武士が多かったので、蓮生がある期間居住することはありうる。
そのような因縁から熊谷寺の『水鏡の影像』や『弘法大師川越の名号』などという
奇妙なものまでできたものと思われる。」と述べておられます。

水鏡の影像は、蓮生坊が井戸に映る自分の姿を見て刻んだ像と伝えます。
 
当時、高野聖はいくつかの集団となって高野山内で修業していましたが、
蓮華谷の聖はもっとも活発に諸国に出向き、高野信仰を説いて寄付を集め、
高野山への参詣や納骨を勧めて歩く修行僧でした。

高野山には、弘法大師川越の名号などのように、弘法大師自作の六字名号の
版木があり、高野聖はこれを印刷し、さかんに配って勧進して歩いていました。

熊谷寺に残る「歌の会(え)の巻」の大きな版木は、法然や親鸞、
そして関白九条兼実が熊谷寺を訪れ、
蓮生ともども一堂に会し
歌会を催したとされ、四人の和歌が多数添えてあります。

『平家物語敦盛最期』の章段は、様々な展開を見せ
幸若舞『敦盛』では、「熊谷直実は一ノ谷合戦で心ならずも平敦盛を討ち、
敦盛の父経盛に遺骸と遺品を届けます。無常を感じた直実は法然上人を
師と仰いで出家して蓮生坊と名のり、敦盛の菩提を弔い、
高野山蓮華谷智識院で大往生を遂げた。」とあるなど、
熊谷と敦盛の物語は軍記物語や演劇でも、時代を超えて多くの人々から
親しまれていたので、熊谷寺の聖が勧化のために、この物語をしながら、
「歌の会の巻」の刷り物を持って説法して歩き、
また参詣者にも配ったものと思われます。
『アクセス』
「熊谷寺」和歌山県伊都郡高野町高野山501
ケーブル高野山駅から南海りんかんバス「かるかや堂前」下車徒歩約2分
又は「一の橋」下車徒歩6、7分
『参考資料』
「検証・日本史の舞台」東京堂出版 五来重「増補=高野聖」角川選書
「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社
梅原猛「法然の哀しみ」(下)小学館文庫 現代語訳「吾妻鏡」(5)吉川弘文館



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