平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



横笛との結婚を父に反対された斎藤時頼(滝口入道)は、嵯峨の
往生院(滝口寺)に入り出家しました。これを知った横笛は時頼の
坊を探しあてますが、時頼は道心が揺らぐのを恐れて会わず、
やがて高野山に登り蓮華谷にある清浄心院に庵を結びました。
その後、滝口入道は仏道修行を積み大円院の第8代住職となります。

清浄心院の境内にあった滝口入道の草庵は、大正12年暮れに焼失し、
庵跡は庭となり、その前にあったという井戸は大円院に移されました。
大円院はもとは多聞院といい、延喜年間(901~923年)に
理源大師聖宝によって開創されました。その後、筑後柳川藩の
初代藩主立花宗茂の帰依を受け、寛永年間(162444)に
その法号大円院殿によって大円院と改めます。
江戸時代まで、当院は奥の院近くの蓮華谷にありましたが、
明治21年の大火後、小田原谷の現在地に移転しました。

大円院の境内にある井戸には、次のような伝承があります・
滝口入道(阿浄)が部屋から外を眺めていると、横笛が女人禁制の
山に鶯となって飛来し、古梅の枝にとまって思いを囀りましたが、
ついに傍の井戸に落ちて死んでしまいました。
鶯が横笛の
化身であることに気づいた
入道はその菩提を弔うため阿弥陀如来を刻み、
これを鶯阿弥陀如来像として大円院の本尊としたと寺は伝えています。


清浄心院から小田原通を数百メートル西へ行くと、
滝口入道旧跡大円院があります。


表門から玄関 

 本堂前の鶯井(うぐいすい)と鴬梅(おうばい)

滝口入道旧跡・鴬梅鶯井の碑と
柳原 白蓮(大正から昭和にかけての歌人)の歌碑



♪鶯は大円院で今日も鳴く 一切煩悩空なりと 柳原 白蓮

高野山のメインストリート小田原通りには、
昭和が色濃く残っている商店や土産物屋などが軒をつらねています。
万病に効くと言われる大師
陀羅尼助
だらにすけ)を売る漢方薬店

高野山のあちこちで見かける高野槙を売る店。

大円院前の小田原通り
昔は、この通りを乗合馬車が行き交っていました。

維盛出家(高野山滝口入道旧跡清浄心院)
滝口入道と横笛(滝口寺)
『アクセス』
「大円院」伊都郡高野町高野山594
 南海高野線高野山駅から山内バス「小田原通バス停」下車徒歩1分。

『参考資料』
「カメラ散歩平家物語」朝日新聞社編 「和歌山県の地名」平凡社







 



 

 

 

 





 

 



 

 



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高野山奥の院は高野山の信仰の中心であり、弘法大師御廟がある聖地です。
一の橋から御廟まで約2キロの参道両側には、20万基ともいわれる墓碑や
供養塔が杉木立の間に並び、厳かな雰囲気に包まれています。

参拝者や観光客で賑わう一の橋口から奥の院へ

奥の院の入口にあたる一の橋

11C始ごろ、弘法大師は死んだのではなく入定(にゅうじょう)したのだという
信仰が起こり、高野山は現世の浄土として時代と宗派を超えた信仰を集めてきました。

その陰には高野聖の活躍があります。彼らは、高野山は弘法大師が住む浄土であり、
大師が生きながら仏となりあらゆる人を救い続けていると説いて日本各地を廻りました。
それによって朝野の広い信仰を集め、人々は浄土への往生を願い、
高野山納骨の風習が鎌倉時代に全国的に普及しました。
高野聖は高野山への納骨参詣を勧誘したり、委託された遺骨や野辺の
白骨を拾い集め、笈(おい)に入れて高野山に運びました。


一の橋を渡ると右側に熊谷蓮生坊(直実)と平敦盛の墓所があります。

左側には敵討ちで知られる曽我兄弟の供養塔があります。
建久4年(1193)5月、頼朝が御家人を率いて行った富士裾野での巻狩りに乗じ、
曽我十郎・五郎は父(河津祐通)の仇・工藤祐経(すけつね)を討って
永年の恨みを晴らした後、命を落とします。史上名高い曽我の仇討です。

彼らの祖父伊東祐親は、工藤祐経が宮中警護のため都に出ている最中、

祐経の所領を横領したため、怒った工藤祐経は訴訟を起こしますが、
うまくいかず狩りに出た伊東祐親を郎党に狙わせます。しかし祐親は逃れ、
彼の息子・河津祐通が殺されたもので、これを題材にした『曽我物語』は、
鎌倉末期に原型が成立し、次第に加筆訂正され南北朝期になると
流布本(仮名本)が出版され、さらに江戸期には曽我兄弟は、孝行息子の
手本として歌舞伎はじめ様々な芸能で演じられるようになりました。

工藤祐経は都での生活が長かったこともあって歌舞音曲に優れ、
平重衡が東国に送られてきた時、鼓を打ってその接待役にあたり、
静御前が頼朝の御前で舞を舞ったとき、伴奏の小鼔を担当しています。

多田源氏の祖で、摂津国多田に荘園を営み強力な地盤を築いた多田満仲の墓。
奥の院で最古の長徳3年(997)の銘があります。

 風林火山で有名な甲斐源氏の武田信玄(左側)とその子勝頼(右側)の墓所です。
血で血を洗う争いを繰り広げ、常に死と向き合っている戦国武将たちは、
高野山を菩提所とする傾向が強く、信玄は高野山に信仰を寄せ、
弘法大師のもとでの成仏を願い、その墓所を奥の院の一隅に求めました。

佐竹氏は河内源氏の流れを汲み、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。
武田氏に代表される甲斐源氏と同族です。正面には
俗界と霊界をわける鳥居がたっています。古い時代、とくに修験道の道場や
密教の寺院において、入口に鳥居を用いることがあったようです。
奥の院に眠る諸大名の墓の多くが、やはり正面に鳥居を備えています。

佐竹義重の霊屋(国重文)は、慶長4年(1599)年につくられたものです。
家屋の中に五輪塔、周りを47本の塔婆形の角材で囲んだ珍しい霊屋(たまや)です。

法然上人円光大師墓所

御廟橋の架かる玉川は、流れ灌頂が行われるところです。
水辺に六道卒塔婆をたて、樒(しきみ)を流れにひたし死者生前の滅罪を祈ります。

水向地蔵 

灯籠堂の前を流れる玉川を背に地蔵菩薩像などが並び、
奥の院に参拝する人はここで水を手向け冥福を祈ります。

御廟橋から先は高野山の中でも最も神聖な聖地とされている弘法大師御廟があり、
その前に僧侶たちが毎日、食事や茶を供えています。
ここから先は撮影禁止です。

弘法大師御廟前にたつ灯籠堂
 ズームを使って撮影しました。
灯籠堂は空海の弟子真然が創建したものを、藤原道長の
寄進によって規模を大きくしたことに始まります。
堂の正面には
祈親が献じた「祈親燈」と白河上皇が献じた「白河燈」が
千年近く燃え続け、内部には信者が供えた無数の灯籠があります。

奥の院を散策する際には、観光案内所に置いてある高野山観光協会発行
「高野山奥の院の墓碑をたずねて」(100円)を参考にするとわかりやすくて便利です。
また歴史上の著名人の墓碑には、標識がつけられています。
『アクセス』
「奥之院」高野山駅前から山内バス「奥の院口」下車、御廟まで徒歩約40分。
高野山駅前バス乗り場で販売の安くて便利な
「高野山内1日フリー乗車券」(800円)を利用しました。
『参考資料』

山田耕二「日本の古寺美術・高野山」保育社 現代語訳「吾妻鏡」(富士の巻狩)吉川弘文館
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社 「和歌山県の地名」平凡社
 百瀬明治「高野山超人・空海の謎」祥伝社黄金文庫 



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高野山の西室院には、頼朝の三男貞暁が建てた源家三代の墓塔といわれる
三基の五輪塔があります。
この寺はもと谷上院谷にありましたが、その後、南谷に移り、
明治時代に一心院谷の現在地(旧金光院の敷地)に移ってきました。

高野山駅から山内に向かうバスに乗って女人堂を過ぎ、そこから坂を下った辺りが
一心院谷で一心院谷聖のあとです。この谷の名は、行勝上人によって創建された
一心院という寺院に由来するものですが、寺は江戸時代に衰退して今はなく、
一心口・一心院谷という地名だけが残っています。
明治になって高野山は寺領の返還と大火で困窮し、
明治初年に680ヵ寺あった寺院は130ヵ寺だけ残しあとは廃寺となりました。
一心院谷には、いま巴陵院・蓮華定院・西室院があるだけです。

 江戸時代の『高野全山絵図』には、一心院谷の阿光院西南の丘、金光院の西北の山手に
四基の五輪塔が描かれ、「頼朝公」「頼家公」「実朝公」「二位殿」と注記されています。
二位殿は北条政子です。この五輪塔の経歴について
『紀伊考古学研究』に
次のように記されています。
「大正五年に行われた道路改修の際、この五輪塔は移動させられた可能性が高い。
絵図には四基の五輪塔が描かれているが、現在は三基しかなく移設の時に破損、
または破損の激しかったものを廃棄したか、組み替えたかの何れかと考えられる。」

西室院は宿坊寺院です。

裏山には貞暁の師・行勝上人の廟があります。

近年まで西室院の門前にあった五輪塔は庭園多聞苑に移されました。



五輪塔には三基とも銘がありません。

 文治2年(1186)2月、貞暁(じょうぎょう)は源頼朝の庶子として生まれました。
母は常陸介藤原時長の娘で、大倉御所に女房として仕えていた大進局です。
大進局が頼朝の子を懐妊したということが政子に知れると、頼朝は大進局を
遠ざけ出産の儀式はすべて省略されました。政子を恐れ乳母のなり手がなく、
貞暁は長門江太景国の浜の宅に引取られましたが、政子に呼び出され激しく
罵倒された景国は、貞暁とともに深沢に逃れます。それでも政子の怒りはおさまらず、
頼朝自身も強く責められ、貞暁は人目を憚るようにして育てられます。
頼朝は大進局に危険を避けるため逃れるよう説得し、生活の糧として伊勢国
三箇山を与え京都に追いやります。その翌年、7歳になった貞暁も仁和寺の
隆暁に弟子入りすることになり、頼朝は密かに貞暁をたずねて剣を餞別に贈ります。

上洛した貞暁は一条能保に伴われ隆暁法印の仁和寺の坊に入り、隆暁が亡くなると
仁和寺の勝宝院を継承し、更に修行を重ねて鎌倉とは距離を置きます。
隆暁(りゅうぎょう)は頼朝の妹(姉とも)婿にあたる一条能保の養子で、
治承・養和の飢饉の時、多数の餓死者が出たことを哀しみ、行き交うごとに倒れた人の
額に「阿」の字を書いて冥福を祈ったと『方丈記』に記された徳のある人です。
承元2年(1208)3月、貞暁は仁和寺を出て高野山に登り高野聖・行勝上人に師事し、
さらに俗界から遠ざかります。高野山の編年史『高野春秋』は、貞暁に
北条義時の手が迫り、貞暁は自らの身を守るため高野山に移ったと語り、同年10月、
熊野参詣の途次に政子が高野山麓の天野社で貞暁に会ったと記しています。
その時のことを、真言宗高僧の伝記をまとめた『伝燈広録』は、
承元2年(1208)10月、北条政子が弟時房を従えて高野山の貞暁を訪ね、還俗して
将軍になる意志の有無を確かめると、貞暁は片目を潰して固辞したと書いています。
これは実朝が将軍に就任してから五年目のことです。
さらに建保6年(1218)政子は熊野詣の途次、貞暁に会ったとは記してませんが、
天野社に立ち寄ったと『高野春秋』は語っています。
それから承久元年(1219)将軍実朝が子供のないまま頼家の子・公暁に暗殺され、
その翌年、公暁に与したという嫌疑で、仁和寺に入っていた頼家の遺児
禅暁が北条義時に京都の東山で誅殺されました。

貞暁は師の行勝が亡くなると一心院を譲り受け、貞応2年(1223)北条政子の援助で
高野山内に寂静院(じゃくじょういん)を建て、三代将軍の追善のため阿弥陀堂と
三基の五輪塔を建立しています。同じ頃、やはり高野山に政子が建立した
金剛三昧院の堂宇が完成しています。この頃になると九条道家の子の頼経を
将軍として迎えた北条政子・義時姉弟の政権は安定し、政子は貞暁を
頼朝の血をひく高僧として敬うゆとりが生まれたと思われます。
以後も幕府は寂静院を手厚く保護しています。
こうして京の貴族たちにも「鎌倉法印」としてその名を広く知られた貞暁は、
46歳で亡くなるまで鎌倉幕府内の激しい権力闘争に翻弄されることもなく、
源家三代の鎮魂のため生涯を捧げました。
『アクセス』
「西室院」和歌山県伊都郡高野町大字高野山697
南海高野山ケーブル「高野山駅」下車、「一心口」バス停下車1分
『参考資料』
野口実「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」新人物往来社 
永井晋「鎌倉源氏三代記」吉川弘文館  渡辺保「北条政子」吉川弘文館
 
「紀伊考古学研究・第13号」2010紀伊考古学研究会
 奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社 
五来重「増補=高野聖」角川選書「和歌山県の地名」平凡社



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円通律寺は熊谷寺円光堂の右手の坂道を上り、小さな峠を越えた所にあります。

境内には山門・本堂・坊舎・鐘楼・宝庫・鎮守社などの建物があり、

本尊は木造釈迦如来坐像(国重文)で、宝庫には紙本著色十巻抄(国重文)など
多くの経典などを所蔵しています。開基は空海十大弟子の一人智泉と伝えられ、
その没後荒廃していたのを俊乗坊重源が再興し、専修往生院という
新別所を建て、
本堂・三重塔・食堂(じきどう)・湯屋などの
堂宇や数多くの仏像・
経典類があったことが知られます。

その後、再び荒廃を極め、
江戸時代初期、山口修理亮重政が堂宇を
修理して釈迦堂を安置、
密教と律宗の兼学道場となりました。
現在は真言宗の僧侶を目指す人々の
修行寺院で、
女人禁制・立ち入り禁止という厳格な規律を守っています。


観光客・参拝客で賑う小田原通、南無阿弥陀仏の赤い旗が翻る熊谷寺

円光堂右手の坂を上ります

円通寺は修行道場につき拝観できません。円通寺 事相講伝所(現地駒札)

坂道を上ると人家は途切れ風景は一変します。

高野山女人道㉓ポイント大峰口女人堂跡ここから下り坂です。

明治5年に女人禁制が解かれるまで山内に入ることが許されなかった女人は、
奥の院の御廟を拝みながら八葉蓮華の峰々をめぐる女人道を辿りました。
高野山へ入るには古来七口
あり、それぞれに女人堂が置かれていました
今は不動坂口女人堂が残っているだけで他は案内板があるだけです。

高野山女人道㉒ポイント奥の院と円通律寺の分岐点

橋を渡り右へ曲がった先にまっすぐな道がのび、遠くに山門が見えます。



『不許葷酒入山門』の石碑がたち、山門から中へは入れません。
山門前の杉林一帯は、重源が活躍した時代には高野聖が無数に庵を構え、
念仏を唱える声が周囲の山々にこだましたという。

静寂そのもの、辺りにはいたるところに立入禁止の注意書き

これ以上は近寄りがたい雰囲気が感じられズームを使って山門を撮影

下級貴族の紀季重の子として京で生まれた重源は、13歳で醍醐寺に入り、
醍醐寺の中でもとくに密教修行の聖地、上醍醐を拠点として修行に励み、
後に法然に浄土宗を学びます。
大峰・熊野・葛城などで厳しい修験道の
修行を積み、次いで東大寺造営勧進の宣旨を賜るまでほぼ10年余にわたって
高野山で修行しました。重源が安元2年(1177)に高野山延寿院に
施入した梵鐘の銘に「勧進入唐三度聖人重源」と刻まれ、
重源が三度入宋していたことが窺われます。

重源は聖にありがちな謎めいた人物で、人を信用させるため法螺もあったようで、
入宋三度というのも疑問とする意見もありますが、東大寺再興のような大事業には、
ある程度の宣伝活動も必要だったに違いありません。重源はこの入宋で
天台山や阿育王山などの仏教聖地をまわるとともに、宋朝建築様式や
仏教美術を学び、阿育王山では舎利殿建立に関わり、土木技術を習得しました。
大仏鋳造に活躍した宋の鋳物師・陳和卿(ちんなけい)の起用や宋朝建築様式の
採用なども複数回に及ぶ入宋体験を通してはじめて可能になったと思われます。

治承4年(1180)平重衡の南都焼討によって、東大寺・興福寺の伽藍が焼失すると
再建は焼亡の翌年、後白河院の宣旨で復興事業は、
東大寺大勧進上人重源に一切が委ねられました。時すでに61歳での勧進職就任。
山林修行で鍛えられた体力と強い精神力で厳しい復興事業を見事完成させました。

 この人選には自薦、他薦の諸説があり、重源を勧進職に推挙したのは、法然とも
明遍ともいわれています。重源は高野聖としては明遍の蓮華谷系の聖であり、
明遍はもと東大寺の学匠であったことなどから、
五来重氏は『高野聖』の中で次のように述べられています。
「重源は東大寺に対して自薦運動を展開するとともに、
明遍に推薦を頼んだのであろう。」
どちらにしても建築や土木技術に関する知識、技術者などの人脈、
念仏集団の組織力をかわれ任命されたものと推測できます。

勧進帳を手にした重源率いる聖集団が洛中の有力貴族や源頼朝、
実力ある鎌倉武士などに広く寄進を募って全国を走りました。重源自身も
後白河法皇や皇嘉門院(崇徳天皇の中宮)その他諸家を勧進に廻っています。
歌舞伎の『勧進帳』は、頼朝に追われ山伏を装って奥州へ落ちる義経一行が、
安宅の関で関守の富樫左衛門に見とがめられ、弁慶が東大寺再建の
勧進帳を読み上げて難をきりぬけるという歌舞伎十八番の一つです。

大仏の金メッキが足らず、西行が重源の依頼を受けて
陸奥へ旅立ったのも奥州の藤原秀衡からの砂金調達のためでした。
それは西行と重源が高野山にいた時期が重なるので、西行が高野山蓮華乗院の
建立の際に見せた勧進能力を重源が高く評価したものと考えられています。
『アクセス』
「円通律寺」和歌山県伊都郡高野町高野山 熊谷寺より徒歩約30分
「熊谷寺」和歌山県伊都郡高野町高野山501
ケーブル高野山駅から南海りんかんバス「かるかや堂前」下車徒歩約2分
又は「一の橋」下車徒歩6、7分
『参考資料』

中尾堯「旅の勧進聖・重源」吉川弘文館 五来重「増補=高野聖」角川選書 
五味文彦「西行と清盛」新潮社 梅原猛「法然の哀しみ」(下)小学館文庫
「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社
 



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宝城院は壇上伽藍の北の高台にあり、後白河上皇が仁安4年(1169)3月に
高野山に参詣した際に建てられた六つの坊の一つに始まる名刹です。
はじめ成仏(じょうぶつ)院という寺院でしたが、
寛永9年(1632)宝城院と改められました。江戸時代には、丹波篠山
松平家の帰依を受け、末寺が播磨はじめ丹波・丹後などに410ヵ寺あり、
閑院宮家の菩提寺ともなり隆盛しました。閑院宮は江戸時代中期、
東山天皇の皇子直仁親王が創設した宮家です。
本尊は大日如来、秘宝の弁財天図一幅は重要文化財に指定されています。

宝城院は高野山に多くある宿坊寺院の一つです。






山門でこうやくんが笑顔で出迎えてくれます。

本堂
後白河上皇は仏教に深く帰依し、仏道修行に熱心に励んでいました。
それにともない上皇は、
熊野御幸をはじめ高野山・比叡山などに参詣しています。
中でも仁安元年(1166)から同4年にかけては、
ほぼ一年に2回ずつ熊野詣を行っています。
当時、後白河上皇の寵愛はもっぱら建春門院平滋子(清盛の義妹)にあり、
清盛と上皇が手を組み、政治的に最も安定した平穏な時期でした。
出家後、福原に本拠を置いた清盛は、千人の僧侶を集めて
法華経を読誦(どくじゅ)する法会を福原の海岸で何度も催しています。
上皇は高野山から帰ると旅の疲れをとるもなく、
建春門院を伴ってこの千僧供養に参列しています。

 後白河上皇が高野山行幸の途中、建立した寺が大阪市にあります。

閑静な住宅街の一画にたつ法皇山母恩寺

「仁安3年(1168)に、後白河法皇が、高野山に参詣される途中、
とくにこのあたりの景色を好まれ、ここに生母・待賢門院の菩提のために
この寺を創建されました。
寺の名前は「母后報恩」の意味がこめられています。
往時は12の坊舎を有する大伽藍で、
代々住職は皇女が勤める尼寺でした。
淀川の洪水や兵乱でしだいに勢いが衰え、一時は
荒れ寺となっていたこともありました。
寺宝として後白河法皇と待賢門院の
画像のほか、享保4年(1719)の略縁起などがあります。」
(現地説明板)

一時は大伽藍を誇っていた寺も洪水や戦国時代の兵火で衰微し、
今は見るかげもありません。

後白河上皇(雅仁親王)は、鳥羽天皇の第四皇子に生まれ、

生まれた時には8歳年上の兄崇徳天皇がすでに皇位についていました。
皇位継承の枠外で気楽な立場にあった雅仁親王は、青年期
母の御所に出入りしては
今様等の芸能に熱中して気ままに暮らしていました。
待賢門院璋子は鳥羽天皇の中宮で、
崇徳天皇・後白河天皇・上西門院統子ら
の生母です。

『後白河上皇』(移徒一覧)によると、上皇の高野山参詣は
仁安4年(1169)3月13日から同月18日とあり、
説明板の仁安3年に
疑問がありますが、それはさておき母恩寺は上皇が母待賢門院の
菩提寺として
創建した浄土宗の尼寺で、寺はもと大伽藍を有し、
寺域は一村に及んだと伝えられています。
本尊は恵心僧都作と伝えられる阿弥陀如来立像です。
都島神社は後白河上皇の勅命により、母恩寺の鎮守として創建された社です。
『アクセス』
「宝城院」和歌山県伊都郡高野町高野山156 
南海高野山ケーブル「高野山駅」下車、バス停「大塔口」下車徒歩5分
「母恩寺(ぼおんじ)」 大阪市都島区都島本通1-20-22
大阪市営地下鉄谷町線「都島」下車 徒歩約5分
『参考資料』
「和歌山県の地名」「大阪府の地名(1)」平凡社 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書

 

 



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時宗の開祖・一遍は、
河野七郎通広の次男、伊予国(愛媛県)の大豪族河野氏の一族です。
河野氏は平安末期から戦国時代にかけて、伊予水軍の中心となって活躍しました。
源平合戦では、ほとんどの瀬戸内水軍は忠盛以来の縁がある
平家軍の味方でしたが、河野通信(一遍の祖父)は、屋島の平氏が口説いても、
去就をはっきりさせませんでした。しかし、源義経が通信を
味方にひきいれることに成功し、河野水軍は150隻の軍船を率いて
壇ノ浦に現れ、熊野水軍とともに源氏軍を勝利に導きます。

一遍は10歳の時、出家し大宰府の聖達(法然の孫弟子)の弟子となり、
浄土教を身につけました。その後、長野の善光寺で
二河白道の図(浄土往生の図)を見て深く心を打たれ、
伊予の山中で三年間、称名念仏の修行に励みました。
一遍の教えは、阿弥陀仏を信じる信じないに関わらず「南無阿弥陀仏」という名号
そのものに絶対的な力があるとし、念仏さえ唱えれば誰でも救われると、
「南無阿弥陀仏」と書いた小さな札を配る賦算(ふさん)という方法で布教しました。
この札には絶対的な力があり、阿弥陀の仏像がなくても、どこででも
南無阿弥陀仏とさえ唱えれば往生するという都合の良い信仰形態です。
庶民には仏教の教義はとても理解できませんが、
一遍の教えは分かりやすく手っ取り早い方法でした。
踊り念仏も一遍がはじめたものです。名号を唱えながら鉦を叩き、
床を踏みならし踊ることによって往生すると信じ、
人々は我を忘れ有頂天になって踊り続けました。
賦算と踊り念仏によって時宗は、鎌倉末期から室町中期にかけて
庶民の仏教として熱狂的な広まりを見せました。

京都市新京極通りに面した染殿院に賦算遺跡の石碑がたっています。
かつて染殿院は、釈迦如来を祀っていたことから
四条京極の釈迦堂とよばれていました。
「一遍聖絵巻」によると、弘安七年(1284)閏四月、一遍は大津の関寺より
京都に入り、
四条京極の釈迦堂に7日間滞在しています。
賦算・踊り念仏はひろく人々に受け容れられ、一遍のもとに貴賎上下が
群れをなして集まり、「絵巻」は身動きできないほどの賑わいを描いています。

京都でも一番賑わう繁華街、新京極通
平日の早朝、まだ商店街のシャッターは閉まっています。

染殿院は四条通に面した京極派出所と甘栗和菓子・林万昌堂の間の
小路を入った突き当りにあります。



堂内に安置する本尊地蔵菩薩は秘仏です。
寺伝によれば、文徳天皇皇后藤原明子
染殿皇后)が本尊に祈願して
清和天皇を出産したといい、これに因んで安産守護の信仰が生まれました。

高野山から勧進のため諸国を廻った高野聖は、はじめは修行性の強い
道心ある(道を求める心を持っている)隠遁者でした。
平安時代中期に、熱心な阿弥陀仏信者の教懐が小田原谷に
住んだのが高野聖の祖といわれています。当時は末法思想を背景に、
南無阿弥陀仏と唱えることによって西方浄土から阿弥陀が迎えに来て
浄土へといざなってくれるという阿弥陀信仰・浄土信仰が隆盛を見せた時代で、
鎌倉初期に来山した明遍が蓮花谷聖を組織し、聖は高野山と極楽浄土との
結びつきを説いて廻りました。次いで五室(ごむろ)聖、萱堂(かやどう)聖とそれぞれ
性格を異にする聖集団が現れ、高野山における聖の勢力は強大なものとなり、
念仏が山上を覆い高野山本来の真言密教を圧倒する勢いでした。
高野山が北条政子を通して鎌倉幕府と密接な繋がりを持つようになると、
武家社会の新しい仏教、禅宗も入ってきました。こうして高野山は
寛容に他宗を受け入れ、宗派を超えた霊場となっていきました。
南北朝期の頃、一遍が高野山に登り、千手院谷で称名念仏を始め
念仏化をさらに進めました。一遍が山を下りた後も、一遍の教えを信仰する
千手院聖(時宗聖)が山に留まるとほかの聖集団の時宗化が進み、
高野聖はすべて時宗の聖となってしまいました。
そして高野聖はかつての道心と苦行と隠棲をすてて、遊行と勧進を中心に
賦算と踊念仏で諸国を廻り、高野山の信者を獲得していきました。
なぜそれぞれ特色のある聖集団が時宗の聖となったのでしょうか。
『高野聖』によると、時宗聖の勧進形態が進んでいたので、
他の高野聖は時宗の勧進方式を採用し、時宗の聖となったようです。

やがて娯楽的・芸能的色彩の強い踊り念仏は高野聖の俗悪化の要因ともなり、
信仰を隠れ蓑にして不正な商売をしたり、女性との噂を起こすものも現れ、
「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」などといわれ
厄介者あつかいされるようになりました。先の見えない混沌とした社会情勢の
戦国時代、勧進の成果を挙げにくくなったことから、高野聖の生活は困窮し、
商聖化して呉服聖とよばれたり、貼り薬や薬などを売る聖も現れます。
その頃、高野山では真言密教の二大学匠が現れ教学の充実が図られた結果、
聖の念仏や鉦の音に対して、
総本山金剛峯寺は高声念仏、踊念仏、鉦叩きなどを禁止しました。

高野聖の廃絶のきっかけとなったのが、戦国時代の信長高野攻めです。
摂津伊丹城主荒木村重は、織田信長に背き有岡城(伊丹市)に立て篭もり、
明智光秀や黒田官兵衛などの説得にも気持ちを変えることはなく、
一族や家来を置き去りにしたまま逃亡しました。
信長は裏切り者村重に対する報復に過酷な刑罰で臨みます。
女房衆を尼崎にて処刑、召使の女や子供、若衆など500人余を
4軒の家に閉じ込めて火をつけ、さらに村重の一族など
30余名を洛中引きまわしの後、六条河原で斬首しました。
この時、村重の家臣5名が高野山に逃れ、これを追ってきた信長勢30余人を
高野山は皆殺しにしました。これに激怒した信長は畿内近国を勧進していた
高野聖千数百人を捕え処刑し、織田信孝を総大将として高野山攻撃を
開始しましたが、その最中、信長は本能寺で明智光秀に討たれ、織田勢は
撤退を余儀なくされました。江戸期、徳川幕府の命令による真言帰入令で、
高野山創建時の空海の教え、真言密教にもどることや
聖の定住化が図られ、やがて時宗高野聖は姿を消していきました。
『アクセス』
「染殿院」
京都市中京区新京極通四条上ル西入ル中之町562
市バス「四条河原町」又は阪急電車「河原町」下車徒歩2,3分
『参考資料』
五来重「増補=高野聖」角川選書 山田耕二「高野山」保育社 
 高野澄「歴史を変えた水軍の謎」祥伝社黄金文庫 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社
 ひろさちや「仏教早わかり百科」主婦と生活社
竹村俊則「新版京のお地蔵さん」京都新聞出版センター
 竹村俊則「昭和京都名所図会(洛中)」駿々堂



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平家が栄華を極めようとしている頃、ますます強大になっていく平氏一門に対し、
後白河院の近臣たちは反発を強め、俊寛の鹿ケ谷の山荘に
集まっては平家打倒計画を練っていました。
時には密議に後白河院も加わることもありました。
メンバーは清盛のために大将職をはばまれた藤原成親をはじめ、
西光・俊寛・平康頼などです。多田行綱の寝返りで発覚し、
西光は即座に斬られ、首謀者成親は一旦備前へ配流後暗殺され、
成親の嫡男藤原成経や俊寛・平康頼は鬼界ヶ島に流罪と決まりました。

鬼界ヶ島は鹿児島県南方海上にある現在の硫黄島と見られています。
住民は色が黒く、言葉も通じません。着物もまとわず
鳥や魚を捕え、貝や海草を拾って生活していました。
昔から成経と康頼は熊野権現の熱心な信者だったので、島に着くとすぐに
島内に熊野の地形と似た所を探し、そこを熊野三山に見たて毎日参詣し、
都へ帰れるよう祈願しましたが、俊寛だけは僧でありながら無信心で、
二人の熊野詣に同行することはありませんでした。
やがて建礼門院の懐妊に伴い大赦が行われ、赦免状を持った
使者が都から島にやってきました。成経、康頼は許されましたが、
どうしたことか赦免状には俊寛の名前がありません。

二人を乗せた船が今にも出発しようとするのを見て、俊寛はとも綱にとりつき
「せめて九州の地まで」と泣きすがりますが、無情にも都の使いは俊寛の手を
振り払って漕ぎ出しました。高い所に上り「これ乗せ行け、
連れ行け」と叫びますが、やがて船は見えなくなってしまいました。
俊寛のみが赦されなかった理由を「清盛の取り立てで出世した身、
その恩を忘れ密議の場所を提供したため」とし、また成経には舅・教盛(清盛の弟)の
助けがあり、康頼には島から流した卒塔婆に書かれた和歌に同情する世論がありました。
さらに当時盛んになった熊野信仰を背景にして、
二人の恩赦を熱心な熊野信仰によると平家物語は語っています。

幼い頃から召使っていた有王という童は、俊寛だけが帰京しないので、
その身を案じ苦労を重ねながらようやく島に辿りつきました。
何日もかかって探し歩き、やっと磯のほうからふらふらと歩いてくる
変わり果てた俊寛にめぐり逢いました。漁師に魚をもらい、
貝や海草を拾って生き長らえてきた辛い日々を俊寛は語り始めます。
その住まいはといえば、雨露も凌げそうにないあばら家でした。
有王は俊寛の語る話に耳を傾けながらも、大寺院・法勝寺の執行として、
八十余ヵ国の荘園の事務をつかさどり、立派な邸で4、5百人の従者親族に
とり囲まれていた人が、このような憂き目にあうのは何と不思議なことであろう。
これは主が信者の布施を受けながらそれにこたえる功徳もせず、恥ずることなく
罪をつくり続けたことにより、報いを受けているのだと有王には思われました。

有王から息子と妻は死に、残された娘は叔母に引取られたという事を聞くと
「妻子に会いたいがために恥を忍んで生き延びてきたのに…」と
娘のことを気遣いながらも、生きる気力を失くしてしまい食事を絶ち、
有王に念仏を勧められ南無阿弥陀仏を唱えながら三十七歳の命を終えました。
それは有王が島に渡ってきて二十三日目のことでした。
主の最期を見届けた有王は、遺骨を首にかけて都に戻り娘に報告すると、
娘は嘆き悲しみ十二歳で出家、奈良の尼寺法華寺に入り父母の後生を弔いました。

有王は高野山に登り奥の院に納骨し、蓮華谷で高野聖となって
諸国を行脚し主の後世を弔ったと『平家物語』は語っています。
ところで鹿ケ谷の陰謀の舞台となった山荘の持ち主を平家物語は、俊寛と
記していますが、『愚管抄』では、実は後白河院の近臣の静賢(じょうけん)とし、
さらに赦免の話がある前に俊寛は病死していたとしています。
すると鬼界ヶ島俊寛の物語は虚構ということになり、
俊寛だけが許されない理由づけを俊寛山荘での謀議としたようです。

静賢は平治の乱で殺された信西の息子で、法勝寺・蓮華王院の執行を務め、
院からも清盛からも信頼されていた人物です。平家物語の中には彼が関係し提供した
話題が多くあり、この一族が物語成立に関わったのではないかと見る説もあります。

奥の院の西一画には、明遍(信西の息子)の開いた蓮華谷があり、
聖が隠棲する寺や庵が並んでいました。



明遍の頃、高野聖の全盛期をむかえ、彼らの活動によって
大師信仰が一気に広まりました。
父親ゆずりの明遍の才能が花ひらいた時代です。


熊谷寺
現在、蓮華谷には熊谷寺、清浄心院、赤松(せきしょう)院、丹生院、
恵光院、光明院、遍明院、大明王院、宝善院などがありますが、
平家物語ゆかりの寺は、熊谷直実の熊谷寺と滝口入道の清浄心院を残すだけです。


清浄心院

民俗学者柳田國男氏の『有王と俊寛僧都』という有名な論文があります。
それによると九州地方を中心に、長門・四国・北陸などに
俊寛の墓と称する遺跡が数多くあり、伝説の内容は少しずつ異なりますが
鬼界が島の俊寛の話が各地に伝えられているという。
それは一人ではとても残しきれない数なので、
有王と名のる語り手が複数存在したと述べられています。
有王は、俊寛に安らかな死を導くための登場人物であると同時に
鬼界が島俊寛を語り広める高野聖であったとし、平家物語の作者は、
高野聖のこの話を作品の一節に採りこんだという見解を示されました。

佐々木高綱・熊谷直実が合戦譚を斎藤滝口入道が横笛との
せつない恋を語ったのが蓮華谷であったように、
平家物語の中の多くの話材がこの谷から発生して広まりました。
それと同じように俊寛だけが都に帰って来なかったという事実をもとにして、
鬼界が島俊寛の説話は、蓮華谷の聖と思われる作者によって創作され、
有王と称する高野聖が広め、肥前嘉瀬庄(佐賀市)法勝寺の盲目の僧が
この物語を琵琶にあわせて語ったのであろうと氏は推定されています。

肥前は琵琶法師が活躍していた赤間が関に近く、
古くから盲目の僧たちの活動の拠点でした。
鬼界が島俊寛の物語は語り歩くうちにしだいに練り上げられ、
俊寛の霊を慰める大念仏会の説教のレパートリーとして語られ、
これに仏縁を結ぶ人々から賽銭や塔婆料を集め、大念仏会の跡には
俊寛にまつわる遺跡が残ったと思われます。
そして俊寛の哀話は事実談でなく、高野聖や語り集団が脚色した語りと
見ることができ、
各地に分布する俊寛有王伝説や俊寛塚・有王塚からは、
これを語り歩いた高野聖の足跡をたどることができます。

高野聖は半僧半俗の生活を営みながら、諸国を行脚して宗教色の濃い
絵解きや仏教説話を語りながら、人々を仏道に導きいれて寄付を集める
唱導説教、また高野信仰と高野山への参詣・納骨を勧め
宿坊を提供することによって高野山の台所を支える役割を担っていました。
唱導説教の際に語られた物語が『平家物語』成立に
様々な形で関わったことは、これまでにも指摘されています。
平家物語の作者は、高野聖が語った鬼界ヶ島の俊寛の話をうまいぐあいに
平家打倒の謀議につなぎ合わせて、構築していったと考えられます。
『アクセス』
「蓮華谷」高野山駅から南海りんかんバス「一の橋」下車
『参考資料』
「柳田國男全集(9)」(物語と語り物)ちくま文庫 五来重「増補=高野聖」角川選書
福田晃「軍記物語と民間伝承」岩崎美術社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社

 

 



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平安時代始め、空海は高野山を真言密教の根本道場として伽藍の造営に
取りかかりましたが、堂塔が整備されたのは、空海の弟子の代になってからです。
正暦五年(994)落雷によって伽藍が焼失するなどして荒廃し、
僧がみな山を下りるという存亡の危機にさらされた時期がありました。

高野山の復興は、祈親(きしん)上人定誉によるところが大きいのですが、
その背景には、摂関期の藤原道長・頼道の参詣、
さらに院政期になると、白河・鳥羽・後白河の各上皇が相次いで参詣し、
その度に莫大な布施、荘園の寄進、堂塔建立が行われたことなどがあげられます。
祈親上人は空海が生身のまま奥の院の御廟にあって衆生を救済していると宣伝し
朝野の広い信仰を集め、高野山は熊野と並ぶ寺社詣のメッカとなりました。

末法思想の広まりとともに浄土教が興隆し、高野山にもその影響が顕著に
現れるようになりました。11Cに入山した教懐(きょうかい)が浄土信仰を持ちこみ、
浄土往生と念仏信仰集団を作ったのが高野聖の始まりとされています。

教懐の教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした独特のものでした。
この頃、鳥羽上皇の帰依を得た覚鑁(かくばん)が高野山に登り、
密教と浄土教を融合させた独自の念仏を唱えていましたが、教義上の対立とともに、
覚鑁が本寺金剛峯寺と末院大伝法院の座主を兼ね、本寺に対し末院の僧を上席に
置いたことから、金剛峯寺勢力はこれに反発、覚鑁は根来に退くことになりました。

久安五年(1149)の落雷による大火を機に高野山に多くの勧進聖が集まり、
その群れの中に源平争乱や政争に敗れた者なども入り、
高野聖は多彩な集団となりました。鎌倉時代の始めには、
明遍(みょうへん)や重源が入山し高野聖の全盛期を迎えます。
当時は高野山の浄土信仰を担った高野聖たちの活動の盛んな時期であり、
「南無阿弥陀仏号」を用いるくらい専従念仏化する一方、空海の入定信仰や
弘法大師に仮託した念仏法語も作って唱導勧進活動を行っています。


蓮華谷の熊谷寺から花折谷(明遍通)へ

高野聖の祖ともいわれる明遍(みょうへん)は、
平治の乱で非業の死を遂げた藤原通憲(信西)の子です。
信西は藤原南家の祖・武智麻呂の孫・貞嗣(さだつぐ)の子孫で、
下級貴族の出身ですが、後妻に迎えた紀伊局が後白河院の乳母であったため、
保元の乱後、妻の権力を背景にして権勢を振い、
彼を中心にして当時の政治が動きました。
信西は抜群の才覚をもつ優れた政治家だっただけではなく、
歴史書『本朝世紀』などを著した当代無類の学者でしたが、
後白河院側近の藤原信頼と確執を強めていきます。
信頼は保元の乱後の恩賞をめぐって不満をつのらせていた
源義朝と結び、平治の乱で信西を滅ぼしました。

藤原成範・静憲・澄憲・覚憲・明遍・勝憲などの
信西の息子たちは、父の死によって流罪や僧にされましたが、
彼らはすべて才能豊かで、赦免後は出家しなかった子は高位高官につきました。
中でも藤原成範(しげのり)は、権中納言正二位にまでのぼりました。
成範は高倉院の寵愛を受けた小督の父にあたり、桜を愛でて邸に桜を植え並べ
「桜町中納言」と呼ばれたことが『平家物語(巻1)吾身の栄華の事』に見えます。

静憲法印は流罪が許されると後白河院の近臣となり、院にも清盛にも信頼され、
法勝寺・蓮華王院(三十三間堂)などの執行を務めています。鹿ケ谷の陰謀で
謀議が行われた山荘は、『平家物語』は俊寛のものと記していますが、
『愚管抄』では静憲の山荘が舞台になったとしています。

澄憲法印は説法唱導の名手として知られ、比叡山の東塔竹林院の里坊として
安居院(現・京都市大宮通鞍馬口西法寺)を建立し、ここを活動の拠点とし、
多くの法会の導師となり、安居院(あぐい)流唱導の祖となります。
澄憲・聖覚父子の見事な声は人々を惹きつけ、寺は多くの聴衆で賑わい、
安居院流の唱導が一世を風靡しました。

覚憲は興福寺別当、勝憲は醍醐座主、信西の孫で平治の乱の時、
5歳だった笠置寺の解脱上人貞憲は、ときの最高権力者、
後鳥羽天皇や関白九条兼実の帰依を受け、
その著書『愚迷発心集』は今も読み継がれています。同じく孫の成賢は
醍醐座主になるなど、僧となった者も各宗派の長となる者や有名な僧がでて、
信西一族は当時の仏教界をリードする存在であったことが窺われます。

明遍は越後国に流され、許された後は東大寺で三論宗を学び、
父譲りの聡明さで当代きっての学僧として頭角を現しますが、
本寺を離れ東大寺の念仏別所、光明山寺(南山城)に隠棲します。
隠棲したのは、家柄や学才からも当然座主・別当にのぼるはずの身であるのに、
出世が遅いからだと人々は噂しました。45歳の時に少僧都の宣下がありましたが
これを固辞し、54歳で光明山を出て高野山に篭ると、やがて貴族出身であることや
その学識と道心が聖の間で人気を高め偶像化されます。

明遍がどのようにして法然に出会ったのかはよく分かりませんが、『法然伝』は、
明遍が法然の『選択本願念仏集』を読んでその欠点を指摘したところ、
夢に四天王寺で法然が病人に粥をほどこす様子を見てさとるところがあり、
法然の信者となったという話を載せています。そして明遍は
三論宗の僧でありながら、法然の仏教を布教する重要な役割を果たします。

高野山内には、千手院谷、小田原谷、蓮華谷など多くの谷があり、谷にはそれぞれ
性格を異にする聖集団が住み、
彼らは根拠地とした谷の名前でよばれました。

蓮華谷は明遍が開いた別所(聖の庵や寺が集まっていた場所)で、
蓮華三昧院にちなむ名です。蓮華谷聖の特色は、宣教や勧進の廻国と
高野山への参詣・
納骨を勧める活動を行い、蓮華谷の枝谷、
花折谷(今の明遍通)には、蓮華谷聖の本寺、蓮華三昧院がありました。


 
蓮華谷の聖が御庵室または主君寺とよんだ蓮華三昧院は、
明治の大火で跡形もなく焼失し、辺りには
民家がひしめきあっているだけで
往時を偲ぶものは何もありません。

熊谷直実の他に蓮華谷で修行する鎌倉武士がいました。
頼朝から名馬生食(いけずき)を授かった佐々木高綱は、義経配下として上洛し、
宇治川で梶原景季と先陣を争い重代の太刀で川底に張られた綱を切って
先陣を遂げるなど、源平合戦で数々の功をたてました。
世が鎮まった後、頼朝から備前・安芸など七ヵ国の守護職を賜ったものの、かつての
約束と違うと腹を立てて出家し、高野山に登り、諸国を巡回したと伝えられています。
『金剛三昧院文書』には、蓮華三昧院は、
もとは佐々木高綱が建立した寺であり、それを明遍に譲ったとあります。

高綱の甥・佐々木信綱は承久の変でやはり宇治川の先陣を遂げた勇士です。
出家後高野山に入り、蓮華三昧院の阿弥陀堂を寄進しています。
『承久記』によると、北条義時の軍が京に迫り、宇治川で後鳥羽院方と対峙した時、
信綱は尼将軍政子から拝領した名馬に乗り芝田橘六兼吉と先陣争いをしました。
始めは差がなかったのですが、やがて劣っている
芝田橘六の馬は次第に水をあけられてしまいました。

蓮華谷の枝谷の宝憧院(ほうどういん)谷には、
八幡太郎義家の曾孫の義兼が足利入道鑁阿(ばんな)と称して高野聖となり、
宝憧院を建て十余年住んだといわれています。
義兼は尊氏から六代前の祖先にあたり、出家して上野国足利に鑁阿寺を
開いたので、鑁阿寺殿義称上人とも呼ばれました。
義兼の母は、頼朝の母由良御前の妹で、妻は北条政子の妹という名門です。
宝憧院は焼失し、今は谷の名を残すだけです。
『参考資料』
 五来重「増補=高野聖」角川選書 梅原猛「法然の哀しみ」(下)小学館文庫 
野口実「武門源氏の血脈」中央公論新社 「和歌山県の地名」平凡社
「検証・日本史の舞台」東京堂出版「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 
県史「和歌山県の歴史」山川出版社 竹村俊則「昭和名所図会」(洛中)駿々堂
 村井康彦「平家物語の世界」東京堂出版「平家物語」()角川ソフィア文庫
 新潮日本古典集成「平家物語」()(下)新潮社

 



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高野山奥の院近くに熊谷直実ゆかりの熊谷寺(旧持宝院・智識院)があります。
寺の由来は、熊谷直実が法然のもとで出家して蓮生と改め、
建久二年(1191)高野山に登り智識院に身を寄せて
平敦盛の霊を弔ったという故事により、
建保二年(1214)、源頼朝が熊谷寺と命名したと伝えられています。
また『新別所由来記』には、直実が文治年間(1185~89)に
来山して蓮華谷の智識院に住んだとしています。

奥の院の入口あたりを蓮華谷といい、
明遍が始めた蓮華谷に所属する高野聖が住んでいた場所です。



蓮華谷の一画にある熊谷寺は、高野山に50軒以上ある宿坊寺院の一つです。


以前、高野山を巡るバスツァーに参加した際、
この正門をくぐって中へ入り熊谷直実の鎧を見せていただきました。

『吾妻鏡』には、熊谷直実は鶴岡八幡宮の流鏑馬の際、
頼朝に的立役を命じられましたが従わなかったため、
文治三年に所領の一部を没収され、これを機に幕府の行事から姿を消し、
代わって嫡男の次郎直家の活躍が記されています。
出家の動機ついては、その五年後の『吾妻鏡』建久3年(1192)11月25日条に、
所領をめぐる紛争によるとする記述があります。

吾妻鏡が記す時期に直実が出家していたとすると、

直実が高野山にやって来たのは、建久3年11月25日以後のことと思われ、
熊谷寺の由来や『新別所由来記』が語る時期とは相違があります。
『法然上人行状画図』は、入道蓮生の事績を詳しく記していますが、
蓮生の高野入山の記事は見えず、
『吾妻鏡』にも、熊谷直実の高野登山のことは記されてなく、
直実と熊谷寺の関わりについて一次史料から確認することは難しいようです。

円光堂は、圓光大師(法然)・見真大師(親鸞)・熊谷蓮生(熊谷直実)の旧跡で
法然上人二十五霊場の番外札所になっています。
 堂前の石像は熊谷直実(熊谷蓮生法師)です。

円光堂内、向かって右奥に安置されているのが蓮生法師像、
正面が本尊の圓光大師(法然)像、右手前が熊谷頭痛除の兜と名付けられた兜。

五来重氏は『高野聖』の中で
直実と熊谷寺について、
「蓮生が高野に登ったのは事実であろうとし、当時、蓮華谷に篭る
鎌倉武士が多かったので、蓮生がある期間居住することはありうる。
そのような因縁から熊谷寺の『水鏡の影像』や『弘法大師川越の名号』などという
奇妙なものまでできたものと思われる。」と述べておられます。

水鏡の影像は、蓮生坊が井戸に映る自分の姿を見て刻んだ像と伝えます。
 
当時、高野聖はいくつかの集団となって高野山内で修業していましたが、
蓮華谷の聖はもっとも活発に諸国に出向き、高野信仰を説いて寄付を集め、
高野山への参詣や納骨を勧めて歩く修行僧でした。

高野山には、弘法大師川越の名号などのように、弘法大師自作の六字名号の
版木があり、高野聖はこれを印刷し、さかんに配って勧進して歩いていました。

熊谷寺に残る「歌の会(え)の巻」の大きな版木は、法然や親鸞、
そして関白九条兼実が熊谷寺を訪れ、
蓮生ともども一堂に会し
歌会を催したとされ、四人の和歌が多数添えてあります。

『平家物語敦盛最期』の章段は、様々な展開を見せ
幸若舞『敦盛』では、「熊谷直実は一ノ谷合戦で心ならずも平敦盛を討ち、
敦盛の父経盛に遺骸と遺品を届けます。無常を感じた直実は法然上人を
師と仰いで出家して蓮生坊と名のり、敦盛の菩提を弔い、
高野山蓮華谷智識院で大往生を遂げた。」とあるなど、
熊谷と敦盛の物語は軍記物語や演劇でも、時代を超えて多くの人々から
親しまれていたので、熊谷寺の聖が勧化のために、この物語をしながら、
「歌の会の巻」の刷り物を持って説法して歩き、
また参詣者にも配ったものと思われます。
『アクセス』
「熊谷寺」和歌山県伊都郡高野町高野山501
ケーブル高野山駅から南海りんかんバス「かるかや堂前」下車徒歩約2分
又は「一の橋」下車徒歩6、7分
『参考資料』
「検証・日本史の舞台」東京堂出版 五来重「増補=高野聖」角川選書
「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社
梅原猛「法然の哀しみ」(下)小学館文庫 現代語訳「吾妻鏡」(5)吉川弘文館



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町石(ちょういし)道は、高野山麓の慈尊院(九度山町)から奥の院を結ぶ
行程約24Km、高低差が約700mもある高野山の参詣道です。
町石は、高野山への道しるべとして、1町(約109メートル)ごとに建てられた
高さ約3mの五輪塔形の石柱で、高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として
慈尊院までの約22キロメートルの道中に180基、弘法大師御廟まで
約4キロメートルの道中に36基、合計216基が置かれています。

山麓から一町ごとに山上までの町数を記した町石には、
梵字(古代インドの言語)と施主の名前が刻まれ、原材料の花崗岩は、
空海の生誕地讃岐国(香川県)から切り出されたものといわれています。
町石が建立される以前は、木製の卒塔婆が建っていましたが、この卒塔婆は
腐りやすく、鎌倉時代末期に石造五輪塔形のものに取り換えられました。

高野山遍照光院の覚斅(かっきょう)上人がこの道標を考案し、
文永2年から弘安8年(1285)まで21年の歳月を費やして完成しました。
この時建立された216基のうち179基が現存しています。


町石の建立には、後嵯峨上皇をはじめ執権北条政村(7代)・時宗(8代)らも援助し、
町石卒塔婆を寄進しましたが、安達泰盛が最大の功労者です。
現在、「秋田城介藤原朝臣泰盛」と刻んだ町石が五基も残っています。
「秋田城介(あきたじょうのすけ)」は、泰盛の祖父景盛が東北地方に勢力を広げて
秋田城を獲得して以来、安達家は秋田城介を世襲しています。
泰盛は父の跡を継いで秋田城介となり、陸奥守をかねていたので、
城陸奥守(じょうのむつのかみ)といいます。

泰盛は出家して高野に入り覚真と名のり、町石建立に尽力するだけでなく、
私財を投じて経典高野版の出版を行うなど文化事業にも貢献し、
その時の版木486枚が金剛三昧院に現存しています。
このように泰盛は高野山のために尽くしましたが、
たえず鎌倉との間を往復して鎌倉での政務もとっていました。



一の橋を渡って奥の院へ
一の橋から弘法大師御廟まで約2キロの参道には、
歴史上有名な人物の墓が並んでいます。


参道を少し進むと20町石があります。
根本大塔から弘法大師御廟までの道中にたつ36基のうちの1基です。



戦国史を彩った武将、武田信玄・勝頼の墓前に22町石が建っています。

『徒然草』185段には、次のような泰盛の逸話が収められています。
城陸奥守泰盛は厩から馬を引き出させる時、馬が足を揃えて横木を一跳びに
越えるのを見て、「これは勇み立っている馬だ。」と言ってその馬には乗らず
他の馬に換え、馬が足を伸ばして横木にぶつけると、「この馬は鈍くて
事故を起こしそうだ。」と言って乗りませんでした。と記し、『徒然草』の作者は
細心の注意を払う泰盛をまたとない乗馬の名人だ。と讃えています。

また泰盛は文武両道に優れ、情にも厚かったといい、
それを伝えるエピソードとして次のようなものが残っています。
肥後(熊本県)の御家人竹崎季長は、蒙古襲来の際、先駆けの功をたてましたが、
指揮官の少弐経資がこれを幕府に報告しなかったため、
恩賞をもらえず不満に思っていました。そこで馬や鞍を売って旅費をつくり、
直接訴えるため鎌倉に徒歩で向かいましたが、鎌倉ではみすぼらしい身なりの
季長に会って話を聞いてくれる奉行人はいませんでした。

しかし御恩奉行の泰盛は、竹崎季長の言い分をよく聞き、恩賞として
所領を与えると共に帰国費用や馬までも与え、季長を感激させています。
御恩奉行とは、恩賞の支給の是非を判断する役職です。
蒙古襲来の際の自分の活躍を後世に伝えるため季長が作らせた
『蒙古襲来絵詞』には、安達泰盛の甘縄邸で、
泰盛の面前で蒙古合戦の戦功を直訴する季長の姿が描かれています。

北条時宗は泰盛の妹と結婚して貞時を儲けましたが、蒙古襲来を撃退した
三年後に34歳の若さで亡くなり、弱冠14歳で第9代執権となった貞時は、
乳母の夫、平頼綱にそそのかされて安達泰盛の討伐を命じました。そして
町石建立事業が完成した年の弘安8年11月、霜月騒動で安達一族は滅びました。
『アクセス』 
「高野山」和歌山県高野町高野山132
大阪難波駅から南海電鉄高野線で極楽橋駅下車 ケーブルに乗り継いで高野山駅へ
 ケーブル高野山駅から南海りんかんバス「一の橋」下車
『参考資料』
 「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 「高野山」小学館
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 細川重男「北条氏と鎌倉幕府」講談社 
相原鐵也「鎌倉幕府のリスクマネジメント」文芸社「すらすら読める徒然草」講談社文庫

 

 



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金剛三昧院は、多くの参詣者で賑わう高野山のメインストリートから
南に入った小田原谷にある宿坊寺院です。



家並の途ぎれた先に長老坊金剛三昧院があります。

建暦元(1211)年、北条政子は源頼朝の菩提を弔うため高野山に禅定院を建て、
開山供養には栄西を招きました。堂塔が整備され山内で大きな勢力をもったのは、
三代将軍実朝が28歳という若さで亡くなってからのことです。
鎌倉幕府草創期、父の安達藤九郎(とうくろう)盛長と共に活躍した
安達景盛( 秋田城介)は、実朝が暗殺されたのを契機に出家し、
大蓮坊覚智と名のり高野山に入りました。

承久元年(1219)、実朝の菩提を弔うため、禅定院を改建し金剛三昧院と改めます。
堂宇の完成は貞応二年(1223)で、政子が施主となり、景盛が建立奉行を務め
大伽藍を造営しました。以来、安達氏三代、景盛・義景・泰盛が金剛三昧院と
高野山の強力な支援者となり、同院は高野山の中心的寺院の役割を担いました。
政子はこの改建に奉行の一人として活躍した実朝の側近葛山景倫(願性)を
由良荘(和歌山県日高郡由良町)の地頭に任命し、
その収入を三昧院維持の資にあてています。

山門の左側に国宝の多宝塔が見えます。

二層造の山門は文政年間の建築です。

正面の本堂内には愛染明王が安置されています。

本坊(重文)は鎌倉時代の建築です。

多宝塔は密教世界の中心である大日如来を象徴するといわれていますが、
高野山では特定の人の菩提を弔うためにもこの
塔が建てられました。
屋根は檜皮葺で四角形の初層に、円形の上層を重ねた二重の塔です。
塔内には金剛界の五智如来坐像(重文)が安置され、
周囲は華麗な宝相華紋の彩色で埋め尽くされています。

景盛は出家後も高野山にいながら、政治に強い影響力をもちます。
娘松下禅尼が経時(4代執権)、時頼(5代執権)を生み、彼らが執権になると
執権の外戚は三浦氏から安達氏に代わり景盛は幕府での権勢を強めます。
経時が在職わずか4年で亡くなり、時頼が執権に就任すると、景盛は時頼を動かし
長年権力の座を争って対立していた三浦一族を宝治合戦で滅ぼします。

宝治元年(1247)、高野山から鎌倉に戻った安達景盛は、義景・泰盛らに
三浦泰村らを討つよう命じます。北条勢も安達勢に加わり大戦闘となりました。
三浦一族500人は、頼朝の持仏堂・法華堂に退却しそこで自害しました。
こうして鎌倉幕府草創以来の功臣であり、北条氏と並ぶ
権門勢家の三浦氏は、七代泰村で滅亡し
安達氏の地位が確立しました。


景盛の父・安達盛長は、頼朝の乳母比企尼の娘婿で
頼朝の流人生活を側近として支え、頼朝挙兵の際には、
源家累代の家人を招集する使者となり東国各地を奔走しました。
頼朝には4人の乳母がいましたが、中でも比企尼は特別な存在でした。
頼朝は平治の乱で父を失い伊豆に流されています。
その時、都にいた比企尼は、夫の比企掃部允(かもんのじょう)と共に自領の
武蔵国比企郡に下り、20年余りの間、不遇時代の頼朝の生活を支え続けました。
その恩に報いるため頼朝は、鎌倉の中心地の一角に広大な館地を与え、
その一門や尼の娘婿を重用しました。
そして比企一門と源氏とは婚姻関係で強く結ばれます。
比企尼の養子能員(よしかず)の娘は、二代将軍頼家の妻となり嫡子
一幡(いちまん)を生み、尼の長女は安達盛長に嫁ぎ、
生まれた娘は源範頼(頼朝の弟)に嫁いでいます。
二女は頼家の乳母でもあり、河越重頼との間にできた娘は、
頼朝の命により源義経に嫁いでいます。
『アクセス』
「金剛三昧院」和歌山県伊都郡高野町高野山425 
「高野山駅」から南海りんかんバス「千手院橋」下車 徒歩10分

『参考資料』
「高野山」小学館 「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 安田元久「武蔵の武士団」有隣新書 

細川重男「北条氏と鎌倉幕府」講談社 田端泰子「乳母の力」吉川弘文館 
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社

 


 

 



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保延元年(1135)、23歳で出家した佐藤義清(西行)は、鞍馬山や東山、
洛西嵯峨に庵を結び、32、3歳の頃から約30年間にわたって高野山に住みました。
その間、度々草庵を出て、都だけでなく吉野山、遠くは四国まで足をのばしています。

都では鳥羽上皇の葬儀に参列し、まもなく起こった保元の乱で敗れ、
仁和寺にいた崇徳院のもとにも馳せ参じました。四国讃岐では、この地に配流後、
亡くなった崇徳院の白峯御陵に詣で、弘法大師生誕の地善通寺を訪ねています。
西行入山の動機は、焼亡した伽藍の復興にあったと思われ、大塔造営奉行の
平忠盛・清盛の西八条邸に高野聖とともにしきりに出入りしています。

平安時代末期、末法思想の広まりとともに浄土教が興隆し、高野山にも
その影響が顕著に現れるようになりました。この頃、鳥羽上皇の帰依をうけた
覚鑁(かくばん)は、密教と浄土教を融合させた独自の念仏を唱えていました。

西行が高野山に入った頃は雷火で諸堂が焼失していただけでなく、上皇の
篤い帰依を受け急速に勢力を拡大した覚鑁に対して、従来の真言寺院である
金剛峯寺や京都の東寺がこれに反発し激しい紛争が続いていました。
そしてついに合戦に及び、敗れた
覚鑁は高野山を離れ、
保延六年(1140)、
根来にあった豊福寺に居を移し、晩年の活動拠点としました。
しかしながら確執は深く、その後も対立が続き、鎌倉時代の正応元年(1288)、
大伝法院と密厳院は高野山から根来に移され、根来寺が開かれました。

安元元年(1175)、本寺と末院の和解の場として、蓮華乗院が造営されました。
鳥羽上皇の菩提のために、皇女五辻斎院頌子(いつつじさいいんうたこ)内親王と
その母春日局の発願によって東別所(小田原谷)に建立され、その時同時に頌子は
蓮華乗院の維持費用として、紀伊国の南部庄の田10町を寄進しています。

春日局は徳大寺実能(さねよし)の養女で、鳥羽上皇の皇后、美福門院の女房となり、
上皇の寵愛をうけて生んだのが、頌子(のちの五辻宮)です。
上皇はことのほかこの母子を愛し、与えたのが秘蔵の所領である南部荘です。

蓮華乗院の後身にあたる大会堂(だいえどう)

治承元年(1177)、蓮華乗院は東別所(小田原谷)から現在地に移築されました。
蓮華乗院の勧進・造営・移築全てを引きうけたのが西行で、頌子亡き後、
南部庄全庄を寄進することを決めたのも彼の力であったと考えられます。
頌子内親王34歳、西行60歳の頃です。
西行にとって、頌子はかつての主・徳大寺実能(さねよし)の孫であり、
北面の武士として仕えた鳥羽上皇の娘です。
このような縁もあり、蓮華乗院勧進を行ったと思われます。

現在では大会堂(蓮華乗院)は、法会執行の際の集会所的役割を担っています。

三昧堂

大会堂の東隣に建つ三昧堂は、最初は親王院の地にあって東南院とよばれました。
この堂の修造にかかわったのが西行だとも、西行が蓮華乗院の勧進奉行として
この堂に住んだとも伝えられ、堂前の桜は、西行桜と名づけられています。

出家する前の西行が仕えていた徳大寺家の当主徳大寺実能は、
鳥羽天皇の皇后、待賢門院璋子の兄であることから、
白河院・鳥羽天皇に重用され、
保延二年(1136)には、41歳で大納言になっています。
歌人としても優れ、西行が和歌に関心もつようになったのは、
実能の家人となったことが大きかったと考えられています。
また徳大寺家の従者だったことがきっかけとなって西行は、18歳で
鳥羽上皇の北面の武士となり、上皇の身辺警衛、御幸に供奉しました。
その時の同僚に同い年の平清盛がいましたが、二人には身分差があり、
清盛は位の高い上北面、西行は下北面でした。
『アクセス』 
「高野山」和歌山県高野町高野山132

大阪難波駅から南海電鉄高野線で極楽橋駅下車。ケーブルに乗り継いで高野山駅へ
 ケーブル高野山駅から南海りんかんバス11分 金剛峯寺前下車すぐ
『参考資料』
 五味文彦「西行と清盛」新潮選書 「西行のすべて」新人物往来社
 「検証・日本史の舞台」東京堂出版 
五来重「高野聖」角川選書 「和歌山県の地名」平凡社 
「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 高橋修編「熊野水軍のさと」 清文堂

 



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不動院(菩提心院)の境内には、鳥羽天皇の皇后・美福門院得子の御陵があります。
永暦元年(1161)11月23日、女院は白河の金剛勝院御所(白河押小路殿)において
亡くなりました。本来は、鳥羽上皇の葬られた安楽寿院(鳥羽離宮)の墓に
入る予定でしたが、遺骨を深く帰依する高野山に納めるよう遺言し、
同年12月高野山内に埋葬されました。
菩提心院は、嵯峨天皇の皇子が大師堂と十二坊舎を建てたのに始まり、
度々の火災で焼失、不動明王を本尊とする不動院だけが現存しています。
女院は生前から備前国の香登荘(かがとのしょう)を寄進し、この寺を整備していました。

高野山に草庵を結んでいた西行は、女院の納骨に立ち会い次の歌を詠んでいます。
美福門院の御骨、高野の菩提心院へ渡らせ給ひけるを、見たてまつりて
♪けふや君おほふ五の雲はれて心の月をみがきいづらむ(西行上人集 三九一)
あなたの身におおっていた女人の五つの罪障がはれて、
心の月(悟りを導く清浄な心)が輝きだすでしょう。

鳥羽天皇の後宮で熾烈な女の闘いを繰り広げた待賢門院と美福門院、
美福門院の死は、かつて待賢門院の兄徳大寺実能に仕え、
待賢門院を永遠の女性と崇めた西行にとって万感の思いがあったに違いありません。

不動院は大通りから少し入った奥まった場所に位置しています。

不動院は宿坊寺院です。

落ち着いた佇まいの門をくぐると美福門院の御陵があります。





不動尊を祀る本堂

もう一つ、美福門院ゆかりの六角経蔵が壇上伽藍にあります。
金堂の西に建つこの経蔵は、鳥羽院の追善供養のため、美福門院により建立され、
女院が自ら書写した紺紙金泥一切経(国重文)が安置されていました。
その際、荒川荘を寄進したことから、経蔵は荒川経蔵、
金泥一切経は荒川経ともよばれ、現在霊宝館に保管されています。
なお、この経蔵も焼失・再建を繰り返しており、現在の建物は昭和8年の再建です。



美福門院得子は白河院近臣の権中納言藤原長実の娘で、
その美貌から鳥羽上皇に寵愛され入内しました。
鳥羽上皇は待賢門院璋子が生んだ崇徳天皇をわが子と認めず、
祖父白河院の子と思っていました。祖父が亡くなると、
上皇は白河院との関係を噂されていた待賢門院璋子を遠ざけて、
崇徳天皇を無理やり譲位させ、美福門院が生んだ近衛天皇を皇位につかせます。

病弱な近衛天皇が皇子のないまま17歳で亡くなると、
上皇は後白河天皇を即位させます。その背景には、
崇徳を嫌う美福門院と信西の策謀がありました。
わが子重仁親王の即位を強く望む崇徳新院は、弟の後白河天皇に反発します。
一方、摂関家内部でも藤原忠通、頼長兄弟との争いが起こります。
摂関家の藤原忠実の二人の息子、兄の忠通は関白の地位につき、
弟頼長は左大臣でした。忠実は頼長を溺愛し、機会があれば氏長者の地位を
頼長に譲り、同時に忠通の関白をはく奪して頼長を関白に据えたいとまで
思っていました。しかし、近衛天皇の崩御が忠実・頼長の呪詛によるものと
讒言する者がいて、忠実父子は鳥羽上皇の信頼を失い失脚します。

保元元年(1156)鳥羽上皇の死をきっかけに皇位継承に
不満を抱いていた
崇徳新院と後白河天皇、そして藤原忠通、
頼長兄弟との亀裂が絡み合って
保元の乱が起こります。
鳥羽上皇と美福門院によって失脚させられた頼長が
崇徳新院と組み、
後白河天皇には美福門院・信西・忠通がつきました。

この乱に際して、表面上は軍兵の招集などすべてを美福門院が
取り仕切っていましたが、その陰で崇徳新院を排除し
後白河天皇の地位を
盤石にしようとする天皇の乳母の夫、
信西が主導権を握っていました。

この時、源義朝・平清盛ら源平両氏の有力武士は、
後白河天皇に味方し勝利をおさめます。
鳥羽崩御後の政局を一手に取り仕切ってきた信西が、
保元の乱を勝利に導き、政治の表舞台に飛び出してきたのです。

その後、後白河天皇が退位し、二条天皇を即位させて
院政を開始すると、
信西・藤原信頼の院政派と
二条天皇のもとに集まった天皇親政派が対立します。

院政派内部では、後白河の即位とともに発言力を増した
信西が藤原信頼の恨みを買い
確執を強めていきます。
信頼は保元の乱後の恩賞をめぐって不満をつのらせていた

源義朝と結んで蜂起し信西を討ちます。
保元の乱の僅か三年後に起こった平治の乱です。


その時、熊野詣での途上にあった平清盛はすぐに京へ引きかえし

源義朝・藤原信頼方に勝利しました。この結果、
清盛は武力の棟梁の地位を獲得します。

この乱で、信西・信頼らの側近を失った後白河院は、
政治力を弱め、
二条天皇との対立が再燃します。
二条天皇の最大の後見人である美福門院は、

天皇を支えました。天皇は生母が出産直後に亡くなったため、
祖父・鳥羽上皇に引き取られ、美福門院に養育されたからです。
このような状況の中、女院は44歳の波乱に満ちたその生涯を終えました。
『アクセス』
「不動院」和歌山県伊都郡高野町大字高野山456
南海電鉄高野山駅下車、南海りんかんバスで15分「蓮花谷」下車徒歩3分
『参考資料』

元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 五味文彦「西行と清盛」新潮選書 
「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 「西行のすべて」新人物往来社 
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)駿々堂 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館 
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店

 



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維盛が訪ねた高野山は、人里から遠く離れたところにあり、
内外八葉とよばれる転軸山・弁天岳などの八つの峰に囲まれ、
その有様はまるで巨大な八枚の蓮の花弁のようです。
高野山の歴史はこうした地形に注目した
弘法大師が嵯峨天皇に願い出て寺院を開いたのが始まりです。

『平家物語・巻10』によれば、清浄心院は嵯峨往生院(滝口寺)に
出家遁世していた滝口入道が、
横笛への思いを断ち切るために入った寺で、
高野山東部、奥の院の近くにある宿坊寺院です。
開基は弘法大師で、本尊の二十日大師は、入定前日の
承和二年(835)三月二十日の姿を刻んだ像といわれ、
その後、清盛の三男の平宗盛が堂宇を再建したと伝えられています。

ある日、重景、石童丸、武里を供に屋島から抜け出た維盛が、
むかし父重盛に仕えた斎藤滝口時頼(滝口入道)を頼って訪ねてきました。

時頼は十三の年から滝口の詰所に出仕して宮中警護にあたっていましたが、

横笛との恋に破れ、蓮華谷にある清浄心院(しょうじょうしんいん)で
仏堂修行に励んでいました。滝口というのは、
清涼殿の軒下を流れる御溝(みかわ)水の落ち口のことですが、
この詰所に出仕する武士のことも「滝口」とよびました。

境内にあったという滝口入道の草庵は、大正十二年暮れに火災で焼失、
庵の前にあったという井戸は、大円院に移されました。(『カメラ散歩平家物語』)

大円院第8代の住職は滝口入道で、江戸時代まで当院は奥の院近くの
蓮華谷にありましたが、明治21年の大火後、小田原谷の現在地に移転しました。
この井戸には、次のような伝承があります・
横笛が女人禁制の山に鶯となって飛来し、梅の木にとまって思いを囀りましたが、
ついに井戸に落ちて死んでしまいました。入道はその菩提を弔うため
阿弥陀如来を刻んだといい、現在も鶯井・鴬梅を残しています。


寺は秀吉が花見の宴を催したという傘桜で知られています。





沙羅双樹下の平家物語冒頭の一節を記した駒札が
平家ゆかりの寺であることを伝えています。


再会した滝口入道はまだ30歳にもならないのにまるで老僧のようにやせ衰え
都にいたころの華やかさはすっかりなくなっていました。
「これは夢とも、うつつとも覚えませぬ。屋島をどうして
逃れてこられたのでございますか。」と尋ねられ、

維盛は入道にこれまでの悩みを打ち明けます。妻子に会いたいが、
敵に捕らわれて捕虜になることを思うとそれもできないこと、
宗盛殿や二位殿(時子)から「この人は二心ある。池大納言(頼盛)のように、
頼朝と心を通わせている。」などと疎んじられて孤立したこと、
高野で出家して命を絶ちたいと思うことなどを語ります。

頼盛は池禅尼の子で清盛の異母弟にあたり、

六波羅池殿に住み池殿・池大納言とよばれました。
都落ちに際して一門を見限り、頼朝を頼って
都に留まりまもなく鎌倉に下向します。


維盛主従は入道に案内されて高野のさまざまな堂塔・奥の院を巡礼し、
翌日、東禅院の智覚上人を招いて出家します。
ちなみに東禅院は高野山南谷にあった寺院ですが、今は廃寺となっています。
その前に維盛は、自分の死後は都へ帰るよう重景と石童丸に諭しますが、
二人は聞き入れません。しばらくして重景が「わが父与三左衛門景康は、
平治の乱の時、故重盛殿のお供をして悪源太義平(頼朝の兄)に討たれました。
その時、まだ二歳になったばかりの重景を重盛殿が情けをかけて下さり、
この子はわしの命に代わってくれた景康の子であるからと、
大切に育てていただきました。重盛殿ご臨終の時には、それがしを召されて、
「維盛の意に背くことないように仕えよ」と仰せられました。
日頃、君の御大事の場合には、まっ先に命を捧げようと思っていましたのに、
今さら見捨てて去れとは、あんまりなお言葉。ご主君を見捨てるような男と
思っておられたのが悔しいと言いつつ、自ら髪を切り落とすと石童丸も髪を切ります。
維盛は妻子に今一度変わらぬ姿を見せたかったと未練を残しますが、
そうもしていられないので、入道は維盛の髪を剃りおろします。
維盛と与三郎重景とは同い年で、二十七歳、
八歳の年から維盛について可愛がられた石童丸は十八歳でした。

しばらくして、
維盛は武里を呼び、屋島に行き一門の人々にこのように申してくれ、
「維盛は世を厭うて出家した。平将軍貞盛から九代の間伝えられた唐皮の鎧、
ならびに小鴉の太刀を、形見に残すので、今後平家の運が開け、
ふたたび都へ帰るようなことがあれば、嫡子六代に渡してほしい。」
武里は涙をおし拭いながら、同じ道にと言いますが、維盛はこれを許しません。
「それでは殿の最期の御ありさまを見届けた後、屋島にまいりましょう。」と言うので、
滝口入道を引導の師とし、一行は高野山を出て熊野に向かいました。
滝口入道と横笛(高野山大円院)  
平維盛入水(浜の宮王子跡・振分石)  
平維盛供養塔(補陀洛山寺)  
『アクセス』
「清浄心院」高野町高野山566 ケーブル高野山駅から南海りんかんバス「一の橋」下車すぐ
『参考資料』

「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「高野山」小学館
 「和歌山県の地名」平凡社 五来重「高野聖」角川選書 「カメラ散歩平家物語」朝日新聞社

 

 



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金堂の東北にある大塔は、弘法大師が真言密教の
根本道場として建立したことから根本大塔ともよびます。

清盛の破格の出世の背後には、熊野権現や厳島の神の加護があると
『平家物語』は、くり返し述べています。清盛が保元・平治の乱に勲功を立て、
安芸守を務めていた頃、伊勢湾の安濃津(津市)から海路をとり
熊野参詣の途中、鱸が清盛の船の中に飛び込むという珍事がありました。
先達の修験者が「昔、周の武王の船にもやはり白魚が躍りこみました。
これは熊野権現の示現に間違いありません。お召し上がり下さい。」というので、
精進潔斎しての道すがらですが、その魚を調理させ一族で食べたところ、
以後、平家では吉事が続き、清盛は太政大臣にまで出世、
一族の人々も瞬く間に高い官職に就いていきました。
一門の繁栄は熊野権現のご利益であると「巻1・鱸の事」は伝えています。。

 清盛と安芸の厳島神社を結びつけたのが高野山の大塔でした。
清盛が同じく安芸守であった時、鳥羽院から高野山の大塔を修理せよと命じられ、
6年がかりで修築を終えた後、高野山に登り大塔を拝み、奥の院に参詣すると、
どこからともなく白髪の老僧が現れ、「大塔の修築が終わったことはめでたい。
だが安芸の厳島神社は荒れ果てている。このついでに厳島を修理すれば
汝に高い官位を保障する。」と告げるとかき消すように見えなくなり、
その老僧の立っていたところからは、良いお香の薫りがただよいました。


再建中の中門前の駒札

これは弘法大師に違いないと思われ、ますます尊く思い、
清盛は高野の金堂に曼荼羅を奉納し、西の曼荼羅は絵師常明法印に描かせ、
東の胎蔵界曼荼羅の中央部、大日如来の宝冠には、
清盛自身の頭の血を混ぜて描いたということです。
清盛は都に帰り、さっそく院の御所に参上し、このことを申しあげると、
院も非常に感動され、厳島を修理するよう命じられました。
厳島神社の鳥居を建て替え、社殿を造り替え、
百八十間の廻廊を造り、修理を終えその後、厳島に参詣すると、
角髪(びんずら)を結った天童が現れ、
「私は厳島大明神の使いである。汝この剣で天下を鎮め、
朝廷の守りとなれ。」といって銀の蛭巻をした
小長刀(1m程のそりのない刀)を授けられる夢を見ます。目覚めると、
この夢の通りに枕元に小長刀(こなぎなた)がありました。
そればかりか、大明神が現れ、「高野山で老僧が言った
一門繁栄のことであるが覚えておるか。悪行を行えば子孫までの
繁栄は続かないぞ。」と言って立ち去りました。(巻3・大塔建立の事)

史実における清盛と高野山とのかかわりは、
弘仁十年(819)に弘法大師が建立した大塔は、
久安五年(1149)雷火により焼失、当初、播磨守平忠盛が
再建奉行を務め、清盛はその代官として高野山を訪れました。
父忠盛の死後、清盛がこの事業を引き継ぎ、
保元元年(1156)伽藍再建供養に際し、両界曼荼羅を奉納しました。
この曼荼羅は、「血曼荼羅」と呼ばれて今に伝わっています。

血曼荼羅の画像は霊宝館よりお借りしました。

高野山のシンボル大塔は、昭和12年(1937)再建の鉄筋コンクリート製です。

 高野山は西の大門から東の奥の院に至る東西6㎞の境内地に
123宇の堂塔伽藍や商店が軒を連ねています。
その中心となるのが奥の院と壇上伽藍です。

大門通りの北側の一段高い地域にある壇上伽藍には、
大塔・西塔・金堂・御影堂・不動堂などの主要な建築物が建ち並び、
この一帯は金剛界曼荼羅の中核をなすところといわれています。



東側(右手前)から東塔・三昧堂・大会堂・愛染堂・大塔

壇上伽藍のほぼ中央に位置する金堂

金堂の東、大塔の正面に建つ大塔の鐘

昔、大塔の前にあった桜の木の前で清盛と弘法大師が対面したという
伝説にちなんでこの木を対面桜とよんでいましたが、
今はなく中門の桜の木の前に対面桜の駒札があります。
金堂南の中門は、天保14年(1843)に焼失し、現在再建中です。


弘法大師の持仏堂として建立された御影堂(大塔の手前左)

金堂の西に建つ鳥羽天皇の皇后・美福門院寄進の六角経蔵
『アクセス』
「高野山」和歌山県高野町高野山132
大阪難波駅から南海電鉄高野線で極楽橋駅下車。ケーブルに乗り継いで高野山駅へ

 ケーブル高野山駅から南海りんかんバス11分 金剛峯寺前下車すぐ
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
「日本史の舞台」東京堂出版 「高野山」小学館 「和歌山県の地名」平凡社
別冊太陽「平清盛」平凡社




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