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寿永4年(1185)3月24日、源義経を総大将とする源氏の水軍と
平知盛率いる水軍が、源平最後の決戦を関門海峡で繰り広げました。
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みもすそ川公園は、壇ノ浦古戦場が一望できる場所にあり、
みもすそ川の名は、壇ノ浦で入水した
二位の尼辞世の和歌から名づけられたといわれています。
源平合戦は海上での戦いだったので、当時の面影を偲ぶものは、
公園内の松林の中に義経・知盛像や
安徳帝御入水之碑(二位尼辞世の歌)などがあるだけです。
目の前に広がる海は、早鞆(はやとも)の瀬戸と呼ばれ、
関門海峡で最も狭いところで(約700m)、
潮の流れが速く、潮流の変化が激しい海の難所です。
潮流は1日に4度も向きを変え、満潮時の流れは、瀬戸内海側の
周防灘(すおうなだ)から日本海・玄界灘側の響灘(ひびきなだ)へ、
逆に干潮時は響灘から周防灘へと流れます。
この一帯を「壇ノ浦」と呼んでいますが、それは白村江の敗戦後、
唐・新羅の追撃に備えて長門国(山口県)豊浦に
軍団(壇)を置いたことに由来する地名と思われます。
「安徳帝御入水之処」碑には、源氏軍に追い詰められ、
8歳の安徳天皇を抱いてみもすそがわ沖に身を躍らせた
二位尼の辞世の歌が刻まれています。
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今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ
波の下にも みやこありとは 長門本平家物語
(今こそわかります。伊勢神宮の五十鈴川(みもすそ川)の流れをくむ
安徳天皇にとって、その流れを注ぐ波の下にも都があることを)
伊勢神宮の周囲を流れる清流、五十鈴川には、記紀に伝わる
古代日本の皇族倭姫命(やまとひめのみこと)が御裳の
すその汚れを濯いだという伝説があり、御裳濯川
(みもすそがは=御裳川・御裳裾川・御裳濯河)という別名から転じて、
皇統の流れなどを表す場合に使われることばです。
ちなみに二位尼辞世の和歌は、読み本系の『長門本』
『延慶本』『源平盛衰記』に収められています。
語り本系の『平家物語・先帝身投』は、この和歌をカットし、
二位の尼は幼帝に「あの波の下にも極楽浄土という
すばらしい国がございます。そこへお連れ申しあげましょう。」と
さまざまにお慰めすると、泣きながらも天皇は、
まず東に向かって伊勢大神宮にお別れをし、
次に西に向かって念仏を唱えられた。と語っています。
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みもすそ川公園は関門海峡と国道9号線に挟まれて細長く広がっています。
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火の山から流れ出た小さな流れのみもすそ川、その河口付近は、
今では暗渠(あんきょ)となり、「壇の浦古戦場址」碑近くの
「みもすそがわ」橋の下を流れ、関門海峡に注いでいます。
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関門橋をバックに、碇(いかり)を振り上げている知盛と
八艘(はっそう)飛びの義経像が対峙するように設置されています。
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日本史の節目を刻む関門海峡
西へ東へと一日に四回、その流れの向きをかえる関門海峡。
せまい所では、両岸の幅は700メートルあまりで、
潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18キロ)にもなります。
また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、
日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。
寿永四年(1185)三月二十四日、平知盛を大将にした平家と、
源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。
当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると
源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。
最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、
二位尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水。
知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。
日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。
なお、この戦いにおいて義経は平教経(のりつね)の攻撃を
船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を
見せたといわれています。 下関市(解説プレートより)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/58/34c7df3f3e3969c949f9ce557d3da0cc.jpg)
歌舞伎『義経千本桜』 や能『碇潜(いかりかづき)』では、
平知盛は巨大な碇を担いで最期を迎えます。
身軽な義経は、敵将を道連れにと追う教経(清盛の甥)をかわし、船から
船へと飛び去り(八艘飛び)、さらになんと敵方の船の動きを止めるため、
船を操る漕ぎ手や舵取りに弓を引くよう味方の兵に命じたという。
義経は牛若丸時代にも、京の五条の橋の上で弁慶に襲われ
五条大橋の欄干にひらりと身をかわしたとされています。
牛若丸・弁慶像(五条大橋)
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早鞆の瀬戸に関門橋が架かり、大型貨物船や漁船などが
ひっきりなしに通りすぎていきます。
海岸には、「壇の浦古戦場址」の石碑が建っています。
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安徳天皇縁起絵図
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第七巻(壇の浦合戦)
長門の国壇之浦の舟いくさが全面に描かれている。
源氏をあざむく為の大きな唐船には、
帝は御乗りにならず多くの兵士がまちかまえている。
第八巻(安徳天皇御入水)
寿永四年三月二十四日、源氏平家の最後の戦が画かれ、
画面中央が安徳天皇御座舟、能登守教経に追われて、
逃げる義経の八艘飛び、建礼門院の入水等々こまやかに画かれている。
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ロープウェイで火の山(標高268m)公園へ上ると、
展望台から壇ノ浦の全景が見渡せます。かつて外敵襲来にそなえて、
のろし台が置かれたためにこの名がついたという。
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古戦場を見渡すと、まず海峡の狭さに驚きます。
下関から対岸の九州まで手の届きそうな近さです。
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ところで、みもすそ川公園に建つ「御裳川碑」は、
明治34年に有志によって赤間神宮の境内に設置されたもので、
その後、移転を経て、現在地に至るという。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/29/21791d06889c699bc1931b8258c756b3.jpg)
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去此地東七丁餘有一小渓流之入海者御裳川是也川者安徳帝崩御之遺跡而滄桑之變
今也歸湮滅我等憂之將建碑傅之于後(一部摩耗していて読み取れません)
因移建于〇亦以鹿幾乎表一〇之徴哀哉 康文書
〇表示できない漢字
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/ee/26673e5e3de6b57faa0230b178352ae9.jpg)
壇之浦 東七丁 伊崎王城山 西一里
平家一杯水 東九丁 柳浦内裏 南二里(碑文より)
「壇之浦東七丁」は、赤間神宮から約760mということを示しています。
一丁=約109.09m 七丁=約760m 一里=約4km
伊崎王城山は、小門(おど)海峡(下関本土と
彦島の間を流れる海峡)の本土側の山を王城山と呼び、
壇ノ浦で敗れた平家の残党がたてこもったと云われています。
赤間神宮小門御旅所(安徳天皇の遺体を仮安置した場所)
平家の一杯水 柳の御所・御所神社
『アクセス』
「みもすそ川公園」山口県下関市みもすそ川町1番
JR下関駅からバスで12分 「御裳川」バス停下車すぐ。
「火の山公園」下関市みもすそ川町
JR下関駅から火の山行きバス15分「火の山ロープウェイ」下車、
ロープウェイ4分、又は徒歩30分。(山頂に立体駐車場があります)
火の山ロープウェイは季節運行となります。
お問い合わせ 下関市観光施設課(☎0832-31-1838)
『参考資料』
「山口県の歴史散歩」山川出版社、2006年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
完訳「源平盛衰記(8)」勉誠出版株式会社、2005年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
いのぐち泰子「歩いて楽しむ平家物語」風媒社、2007年
森本繁「史実と伝承を紀行する 源平海の合戦」新人物往来社、2005年