平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



義経には有名なエピソードがあります。中でも代表的なのは、
屋島合戦での「弓流し」と壇ノ浦合戦での「八艘飛び」です。
「弓流し」は、那須与一が扇の的を見事に射抜いた後に起きたできごとです。
義経の身体は小柄で弓も立派なものではありません。
自分の弓が敵に拾われた時、なんと貧弱な弓よと笑われるのが
嫌さに危険を顧みず流される弓を拾いにいったのでした。

「義経八艘飛びの像」みもすそ川公園にて撮影。

義経の八艘跳びの図

繪本武者鞋上巻 北尾重政(1739-1820)画   耕書堂
画像は「新古今和歌集の部屋」管理人様のご厚意により拝借いたしました。

壇ノ浦の戦いで、平家の敗北が濃厚となり、死を覚悟した
平教経(のりつね=清盛の弟・教盛の子)は、源氏方の大将である
源義経を討ち取ろうと、必死に探し出して挑みかかろうとしましたが、
義経は叶わないと思ったのでしょうか、薙刀を脇に抱えて二丈(約6m)ばかり
離れた場所にいた味方の船にひらりと飛び移って逃げたという。
さすがの教経も「あの早業にはかなわぬ」と続いて
飛び移らず義経の首をあきらめました。

安定の悪い船の上から、満足な助走もなしで大鎧と
甲冑を着用して、いわば立ち幅跳びをしたのですから、
義経はたいへんな運動能力の持ち主ということになります。

源平時代の頃の大鎧と甲冑の総重量は30、40キロです。
義経は小柄ですからこれよりも軽い甲冑を
身に着けていたとしても、6m余りを船から船へ飛び移ったという
早業は、
誇張があるにしてもおそろしい跳躍力です。

この物語は形を変えて語り継がれ、義経はこの後も次々と船を
八艘まで飛び移って逃げ、教経もこれに続いて追いまわしたとされ、
「義経の八艘飛び」と呼ばれるようになりました。

伝義経奉納 赤絲威(あかいとおどし)鎧・大袖付(国宝) 
大山祇(おおやまつみ)神社蔵
『大山祇神社』より転載。
若武者らしい華やかな茜染の赤糸で威した鎧です。
源平合戦後、佐藤忠信を使者として奉納したもので
「八艘飛びの鎧」とよばれています。

平治の乱で平清盛に敗れた父義朝が非業の死を遂げ、
義経(牛若丸)は母の常盤とも別れて鞍馬寺に入り、
奥州の藤原秀衡のもとに旅立つ16歳まで鞍馬で過ごしました。

源氏再興の宿願のため、夜ごと老杉に覆われた鞍馬山
僧正ヶ谷(そうじょうがたに)で兵法修行に励んだといわれ、
鞍馬には、牛若丸にまつわる伝説が数多く残っています。
「義経背比べ石」、「大杉権現」から無数の杉の根が絡まって
盛り上がる道(木の根道)を経て、魔王殿までが
義経が武芸を磨いたという僧正ヶ谷です。ここで人知れず
早足・飛越・刀術などの稽古に励んだと伝わっています。

さらに平家を討つ宿願をいだいて、険しい山道を越え、
夜な夜な貴船社に詣でたといいますから、
運動神経は当然、研ぎ澄まされたでしょう。
義経に備わった敏捷な身のこなしは、天性のものと
鞍馬での武芸の稽古で培われたものと考えられます。
鞍馬寺1(牛若丸)  
義経を追いつめた平家の猛将平教経の最期   
屋島古戦場を歩く(義経弓流し)  
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
近藤好和「後代の佳名を胎す者か 源義経」ミネルヴァ書房、2006年
五味文彦「物語の舞台を歩く 義経記」山川出版社2005年
「大山祇神社」大山祇神社発行、平成22年

 

 

 



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寿永4年(1185)3月24日、壇ノ浦合戦で平家が滅亡しました。
平家一門が次々入水し、安徳天皇とともに
海の藻屑と消えた壇ノ浦は関門橋の下あたりです。

橋のたもとには、「みもすそ川公園」があり、「壇の浦古戦場址」、
「安徳帝御入水之処」などの碑や「源義経・平知盛」の像が建っています。




もはやこれまでと悟った知盛は、小舟に乗って安徳天皇のいる
御座船に移ると、敵に見られて恥となるようなものは、すべて海中に
捨てるようにと、女官達に命じ、自らも船の中を掃除してまわります。
女官たちが戦の状況を尋ねると、「すぐに珍しいあずま男たちを
ご覧になれます。」と言ってカラカラと笑ったという。

この様子を見ていた二位尼は、たじろぐ気配も見せず、
かねて用意していた鼠色(喪服)の二枚重ねの衣をまとい、
長袴の脇をたくし上げて、袴の裾が邪魔にならぬよう結びの紐にはさみ、
神璽(しんじ=八尺瓊曲玉=やさかにのまがたま)を脇に、
宝剣(草薙剣=くさなぎのつるぎ)を腰に差して安徳天皇を抱き「わが身は
女ではあるけれども、敵の手にはかかりませぬ。帝のお供をいたします。
志のある者は私に続きなされ。」と船端に立ちました。
帝はその時八歳。その顔だちはとても美しく、
黒髪がゆらゆらと背中まで伸びていたといいます。

安徳天皇画像部分 泉涌寺所蔵
『源平合戦人物伝』より転載。

安徳天皇御入水(みもすそ川公園にて撮影)
寿永四年三月二十四日、源氏平家の最後の戦が描かれ、
画面中央が安徳天皇御座舟です。


「波の下にも都の侍ふぞ」二位尼は幼い主上を抱き、
波高い壇ノ浦に身を投じました。『平家物語絵巻』より転載。

びんずらに結った安徳天皇
林雲鳳筆「海の浄土」岐阜県美術館蔵 
『図説・源平合戦人物伝』より転載。

幼い天皇にはことのなりゆきはまだ理解できず、茫然とした様子で
「尼ぜ、われをどこへ連れてゆくのか」と問われ二位尼は
「君は前世で十善戒行を修めた功徳によって、こうしてこの世で
天子の位にお生まれになりましたが、悪縁にひかれて
御運はすでに尽きてしまいました。
まず東に向かって、伊勢大神宮にお別れを申し上げ、
それから西に向かって西方浄土へお迎え下さるよう
念仏をおあげなされませ。この国は心憂き所にあるので、
極楽浄土というすばらしい所へ、お連れ申しあげます。」というと、
山鳩色の御衣を召し、びんずら(少年の髪型)に結い、
泣きながら小さな手をあわせ、
まず東に向かって、伊勢大神宮にお暇乞いをなされ、
西に向かって念仏を唱えられました。
二位尼は帝を抱き「波の下にも都がござりますぞ。」と
言い聞かせて深い海の底に消えてしまいました。

安徳天皇入水について『吾妻鏡』文治元年4月11日条には、
二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察局(あぜちのつぼね)が
安徳天皇を抱きともに入水したと記されています。
按察局は建春門院の女房で女院が亡くなった後、平清盛の娘
徳子に転じた最上臈の女房と思われる。(『王朝の明暗』)

また、入水時の二位尼の姿については、安徳天皇との会話に
多少違いがあり、『長門本』、
『延慶本』、『源平盛衰記』では、
「今ぞ知るみもすそ川の御ながれ 波の下にもみやこありとは」と
和歌を詠んでいるなど諸本で描き方に違いが見られます。

三種の神器のうち神鏡(八咫鏡=やたのかがみ)は、唐櫃におさめ
重衡の妻大納言典侍局(すけのつぼね=安徳天皇の乳母)が
持って入水しようとしましたが、袴の裾を射られ、
つまずき倒れたところを源氏の武士に取り押さえられました。

二位尼が身につけて沈んだ神璽(しんじ)と宝剣は、
神璽を入れた箱が浮かび上がったところを常陸国の
片岡経(常)春に拾われたものの、宝剣だけはその後の度々の
捜索にも関わらず、ついに発見されることはありませんでした。

平家は都落ちの際して三種の神器をたずさえ、
西国目ざして落ちていったので、
後白河法皇は、三種の神器がないまま、
安徳天皇の異母弟の後鳥羽天皇を即位させました。
皇位の象徴である三種の神器なしで位につかせた法皇にとって、
神器奪回は重大な問題でした。それは平氏追討を命じられた
頼朝にとっても重要なことでした。

一ノ谷合戦の直前まで、後白河法皇は平家と三種の神器の
返還をめぐる交渉をしましたが、不調に終わりました。
この合戦で平家に大打撃を与えたものの、神器奪還には失敗し、
法皇は屋島に逃れた平宗盛に一ノ谷で捕えた
重衡の身柄と、三種の神器の交換を交渉しました。
しかし、都にいるのは偽の天皇であり、安徳天皇こそ
三種の神器をもつ正当な天皇であるとする平家は
それを拒否し、朝廷では法皇らが、
三種の神器の無事帰還に憂慮していました。

平家は滅びましたが、朝廷や源頼朝が最後まで執着した
安徳天皇と三種の神器の完全な返還は叶いませんでした。
後白河法皇や鎌倉の頼朝の望みを絶ったのが二位尼でした。

二位尼時子は、清盛の妻であり、安徳天皇の祖母です。
宗盛・知盛・重衡・建礼門院徳子の母であり、
後白河院が寵愛した建春門院滋子(しげこ)の姉です。

後白河院と建春門院の間に生まれた高倉天皇に、今をときめく
太政大臣清盛の娘徳子が入内し、安徳天皇を生んだことで
平家一門の栄華は頂点に達しました。そして、
平家一門とともに都を去った安徳天皇は、西海をさまよったあげく、
壇ノ浦の海底に沈み平家と運命をともにしました。
まさに安徳天皇は、平家一門の栄華と没落を象徴する存在でした。

『延慶本』によれば、源範頼が長門で平氏を待ち構え、
豊後の緒方惟栄(これよし)が九州の軍勢を率いて
中国大陸への航路をふさいだという。
平家は渡海可能の宋船(物語では唐船=からぶね)を
数隻持っています。
長年の貿易で平家と宋とは、深い友好関係にあり、
平家繁栄の背後にあったのが日宋貿易
よって得た豊富な財力の存在でした。
大陸方面へ脱出すれば、三種の神器を携えた
安徳朝廷による亡命政権の可能性も想定されます。

安徳天皇入水像の碑   壇ノ浦古戦場跡(みもすそ川公園)  
安徳天皇産湯の井(妙順寺)  
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
佐伯真一「建礼門院という悲劇」角川選書、平成21年 
近藤好和「後代の佳名を胎す者か 源義経」ミネルヴァ書房、2006年
角田文衛「王朝の明暗(安徳天皇の入水)」東京堂出版、平成4年
佐伯真一「物語の舞台を歩く 平家物語」山川出版社、2005年
水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会、昭和51年
現代語訳「吾妻鏡(平氏滅亡)」吉川弘文館、2008年
 図説「源平合戦人物伝」学研、2004年
別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社、1975年

 

 

 



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壇ノ浦は九州と本州とを隔てる海峡です。
源平合戦当時も、対岸は手に取るように見えたはずです。

一門の命運をかけた最後の戦いで、平氏軍は当初、潮の流れに乗って
矢を一斉に射かけ、源氏軍を満珠島・干珠島のあたりにまで追いやりました。
ところが、潮目が変わったことにより、今度は源氏が潮に乗って平家を打ち破ったといい、
かつては関門海峡の潮流の変化が壇ノ浦合戦の勝敗を決したとされました。
この潮流勝因説はドラマチックですが、現代科学に基づく推定では、
さほど大きな影響はなかったと見られています。

今までの合戦にはない戦法を駆使した義経に敗れたとする説もあります。
当時は、兵船といっても、軍事用の特別な船はなく、年貢などを運ぶ
輸送船を代用し、
船底部は木を刳(く)って造った刳船(くりぶね)でした。
船体の幅が狭いため、その両側にセガイと呼ぶ張り出しを設けて、
櫓を漕ぐ水手(かこ)や梶取(かんどり)は、その上に座って櫓を漕いでいたのです。
兵船であれば囲いでセガイを保護してありますが、彼らは完全に無防備な状態です。

そこで義経は非戦闘員の水手や梶取を射殺して操船不能にし、
平家の船団を大混乱に陥れるという戦術にでたというのです。
当時の合戦では、水手や梶取を攻撃しないことが
暗黙のルールでしたが、義経はそれを無視したのです。

確かに『平家物語・巻11・先帝身投』には、源氏軍が平氏の
水手・梶取を殺したことが記されています。しかし、義経が
水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、非戦闘員ともいえる彼らを攻撃したのは、
阿波重能の裏切りによって合戦の大勢が決したあとの話です。

平安末期の様式を示す大型船
セガイと呼ぶ枠組みの上に櫓棚(黒い部分)を設け、5人の水手が
櫓を漕いでいます。主屋形と櫓屋形(ともやかた)の間には、
上半身裸の梶取が見え、水手や梶取が無防備であったことがわかります。
(『北野天神縁起絵巻』京都北野天満宮蔵 平家物語図典より転載)

『平家物語・巻11・先帝身投』は、「阿波民部重能が平家を見捨てたのは、
屋島で子息・田内左衛門教能(でんないざえもんのりよし)

義経の策略によって源氏の捕虜となり、 もう一度息子に逢いたいとの
想いから、たちまち心変わりして知盛の作戦を義経に通報した。」とあり、
平家の
敗因をこれまで平家を支えてきた阿波重能が
合戦の途中、源氏に寝返ったからだとしています。

「唐船には高貴な人は乗り給わず。兵船に召したるぞや。
兵船を攻めよ。」と教えたので、源氏は唐船には目もくれず、
身分ある人々を乗せた兵船に襲いかかりました。
源氏の兵たちは
平家の兵船に漕ぎ寄せて乱入し、逃げ惑う
水手・梶取を射殺し斬りふせ、
平家軍は大混乱に陥りました。
平家軍の劣勢を見た他の武士も次々と寝返り、
平氏の敗北は決定的になったのです。

この説がもっとも説得力がありますが、『吾妻鏡』文治元年
4月11日条によれば、阿波重能は合戦後、源氏の捕虜となっています。
近藤好和氏は「重能に源氏勝利の功があるならば、捕虜には
ならないとする向きもあるが、長年平氏に仕えながら、
最後に裏切った重能が捕虜になるのはむしろ当然であり、
なんら疑問はないと考える。」(『源義経』)と述べておられます。

延慶本(巻12)によると、長年信頼されていた家臣が主を裏切ったとして、
鎌倉に送られた重能の評判は悪く、斬るべきか許すべきかが
議論されますが、御家人たちは口々に斬刑を主張します。
これを聞いた重能は罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐いたので、
ついに籠に入れられ火あぶりにされたという。

唐船と兵船(みもすそ川公園にて撮影)
長門の国壇之浦の舟いくさが全面に描かれています。
唐船を中心に船隊を組む平家軍と襲いかかる源氏軍を描き、
上部に干珠島と満珠島を描いています。
源氏をあざむく為の大きな唐船には、帝はお乗りにならず
多くの兵士がまちかまえています。

屋島から壇ノ浦までの約1ヶ月、義経の足取りはつかめませんが、
平家との最終決戦に向け、瀬戸内海沿岸、島々で活動し
周到な根回しをしていたと思われます。
西国は平家の地盤ですが、一ノ谷、屋島と源氏が大勝している上、
都落ち以来の拠点であった屋島を奪われ、瀬戸内海を
西へとさまよう平家の衰運は明白です。

義経は屋島の戦いの前後、もともと源氏に心を寄せていた
伊予の河野水軍、屋島で捕虜にした田内教能の勢力を吸収、
熊野別当湛増の率いる熊野水軍やそれまでどうにか
平家に従っていた武士たちも雪崩を打って平家を離れ、
源氏についてしまいました。兵力に開きがある上に合戦途中、
阿波民部重能の離反により平家の軍勢はさらに減少しました。

また、平家が安徳幼帝、公卿、女官など多くの非戦闘員を
戦場に同行していましたが、安徳天皇はともかくとして、
足手まといになる公卿、女官などは彦島に残して出撃するべきでした。

壇ノ浦の合戦で、イルカの群れが泳いで行くのを見た陰陽師の安倍晴信は、
平氏の敗北を予言したと平家物語は語っています。
(画像は『平家物語絵巻』より転載)

潮流に乗った平家軍が初めは優勢でしたが異変が次々と起こります。
戦いの最中、源氏方に一流れの白旗が大空から舞い降り、
義経はこれを八幡大菩薩の出現と喜び、兜を脱ぎ手水うがいをして、
旗を拝むと源氏の兵たちもそれに倣いました。つづいて沖から
平家の船の方に向かってイルカが千尾、2千尾と泳いできました。
イルカの大群に驚いた宗盛が占い師に占わせたところ
「イルカが引き返せば源氏が滅び、このまま通り過ぎれば味方が危のうございます。」と
言い終わらないうちにイルカの群れは平家の船の下を泳いでいきました。(巻11・遠矢)
志度合戦(田内教能降伏)  
『参考資料』
近藤好和「後代の佳名を胎す者か 源義経」ミネルヴァ書房、2006年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略」角川選書、平成17年 
河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年 
現代語訳「吾妻鏡(平氏滅亡)」吉川弘文館、2008年
柘植久慶「源平合戦戦場の教訓」PHP文庫、2004年
林原美術館「平家物語絵巻」クレオ、1998年 
五味文彦・櫻井陽子編『平家物語図典』小学館、2010年 

 

 



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