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武士の生き様も色々ですね。 (yukariko)
2010-01-14 20:49:18
源氏、平氏と色分けされていてもそこで生きる人の生きざまは色々ですね。
『ああ情けなや!』と何百年にも渡って親子してしでかした事を日本中の人に印象付けた長田忠致親子、相手方棟梁の総領息子を生け捕りながらもその助命に奔走しそれを恩に着せない生き方の宗清、
同じ家人でも主を必死に逃がそうと奔走して最後に舅に裏切られて義朝と共に死んだ鎌田正清。
これは人間の問題で源氏、平氏とは別ですね。

夜叉御前も母より父親の血を濃く引いたのか、娘であることを悔しがって身を投げてしまいますが、もう少し分別が出来る年になっていたら、自分に流れる血がどれほど大事なものか分かったでしょうに…。
子子孫孫へ血統を伝えるのは女性にしか出来ないのだから徒に嘆かず、義朝の血を伝えれば、身分ある武将に嫁ぎ、先で頼朝を頂点とする源家の武将の母として生きられたかもしれないのに…12歳ではそのような考えなど思い付きもしなかったでしょうから。

子に先立たれ嘆き悲しんでも、延寿はその又母の気持ちにそむくまいと尼になり頭殿の御菩提を弔われた。…母の気持ちいかばかりかと思いますね。
 
 
 
本当に人の生きざまはいろいろです (sakura)
2010-01-15 16:13:49
鎌田正清は義朝の忠実な家臣として平治物語に描かれていますね。
頼朝は特に正清の遺児を気にかけて、娘を捜し出し
尾張国志濃幾(しのぎ)・丹波国田名部庄の地頭職を
与えています。
宗清は頼朝の招きに応じて鎌倉に下向するのを恥として、
主人頼盛と別れ屋島の宗盛のもとに駆けつけます。
潔い生き方ですね。
伝承なのでしょうが、熊野那智大社から大門坂さらに
維盛(重盛の子)が入水したという補陀洛山寺まで歩く途中、
宗清が一ノ谷戦いで亡くなった敦盛の冥福を祈って
積んだという塔がありました。
まだ十二歳の夜叉御前は、一連の惨劇を目にして耐えられなかったのでしょう。
地元では夜叉御前の魂は杭瀬川から揖斐川を遡り
岐阜県と福井県の県境付近にある夜叉ヶ池で成仏したと
語り伝えられているそうです。延寿は動乱の時代を生き抜いた女性ですが、
青墓の大炊一族は彼女の代で衰微していきます。

 
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