平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 
京都市上京区の山中油店前に「平安宮一本御書所跡」の碑と駒札が建っています。
平安時代、この付近は内裏の東側にあたり、
一本御書所(いっぽんごしょどころ)があった所です。
これは天皇が読まれる書物を書写し、所蔵した役所で内裏の西北隅にあり、
平治の乱の際、後白河院が藤原信頼・源義朝軍に
院御所の三条東殿から連れ出され幽閉された場所です。この時、
二条天皇は清涼殿の一隅の黒戸御所(くろとのごしょ)に監禁されました。



平安宮一本御書所跡 (現地駒札)
平安時代、この附近は天皇の住まいである内裏の東側に当たり、
一本御書所があった。一本御書所は、平安中期の天暦2年(948)頃から
『貞信公記(ていしんんこうき)』などの文献に現れ、世間に流布した書籍を
各一本(一部)書き写して保管・管理した所で、侍従所の南にあって、公卿別当を
もって長官に任じ、その下にあって預や書手(しょしゅ)などの役があった。
『日本紀略』康保元年(964)10月13日条には、一本御書所で清書した222巻を
大蔵省の野御倉に遷納したころが記されている。また平安時代後期には、
鳥羽天皇や崇徳天皇が度々ここに行幸されている。
『平治物語』によると、平治の乱(1159)に際して、藤原信頼らが後白河上皇を
一本御書所に押し込めたことが書かれ、つとに有名である。なお陽明文庫本
『宮城図』にはこの付近を御書所と記しているが、
『西宮記(さいきゅうき)』によると、内裏外郭北門(朔平門・さくへいもん)
西の式乾門(しきけんもん)の内の東掖門(えきもん)には御書所があったとし、
天皇の書物等を管理する内御所所は内裏内の
承香殿(じょうきょうでん)の
東片廂にあったとする。





山中油店前の道標には「左妙心寺、右ほり川」と刻まれています。

ゆっくりと回る山中油店の水車
三条東殿址・信西邸跡(平治の乱のはじまり)  
『アクセス』
「平安宮一本御書所跡の碑」
京都市上京区下立売通智恵光院西入508「山中油店」前
市バス「丸太町智恵光院」下車徒歩3分 
バス停東側の道を北へ、交番所前を左折してすぐ
『参考資料』
 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 
 石田孝喜「続京都史跡事典」新人物往来社
 古典講読シリーズ日下力「平治物語」岩波セミナーブックス
  
 
 
 





コメント ( 3 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
今まではこの辺りの詳しい所が分かりにくくて (yukariko)
2009-07-21 10:30:02
人の名前もそうですが、それぞれ担いでいるお神輿・派閥争いや勢力の違いがよく分からなかったので保元の乱から平治の乱、後の平氏の台頭までがごちゃごちゃでよく分かりませんでした。

こんな風に克明に描いて頂くと『ああそうなのか!』と腑に落ちて納得できました。

今の政治じゃありませんが、皆それぞれお腹の底に別の思惑があって表面上は別の動きをするなど動きが錯綜していますね。
今の政治には残念ながら清盛のような期待の星がいない!

「政界に精通し身の処し方をわきまえて、上手く立廻る清盛」その血筋がご落胤という貴種の安心感もあったでしょうし。
書かれているように「平氏待望論」が出るのも当然ですね。
後には「驕る平氏」と悪役一辺倒になりますが、
周りの貴族もそうさせたところもあるのでしょうね。

 
 
 
続きです。 (yukariko)
2009-07-22 10:22:10
最初の「平治の乱関係図」が位置関係が分かってとてもありがたいです。

詳しく地名で書かれていても相関関係となると、それは御所のどの方角?とよく分かりません。
だから具体的に六波羅・御所・一本御書所・三条東殿・信西邸を描いて下さっているので理解しやすいです。
狭い京都といっても交通機関の発達した現代と違い移動手段がほとんど徒歩、貴族の牛車、一番早くて馬ですものね。
駿馬の産地を支配下に持つ義朝が軍事力で勝るのは当たり前。
でも根回しなどの政治力を持つ側近に恵まれなかったのでしょうか?
貴族からすれば坂東武者などは眼中になく、その意見を取り上げる気にもならなかった?
 
 
 
ワードのお絵かきが役立っています。 (sakura)
2009-07-22 16:53:32
もう少し熱心に聞いていれば、もっとましな図が描けるのでしょうが…
有名な悪源太義平と平重盛の大内裏の合戦、六条河原での決戦、
高野川に沿って義朝の敗走と、こんな図でもあれば少しは分かって頂けるでしょうか。

義朝は源氏の縄張りを広げる役割を負わされ坂東に下り
少年期をそこで過ごします。その後官位昇進のため都に戻りますが、
東国育ちのため粗野でその上交際下手。
東国の荒夷(野蛮人)などと呼ばれたのに対して
清盛は人望もあり周囲の政治情報を判断する能力に優れていました。

「平家物語」に描かれる横暴で激情的な清盛像は、
中年以降の権力を握ってからの姿です。(平治の乱当時清盛42歳)

義朝の弟鎮西八郎為朝が清盛のことを「清盛などがへろへろ矢、
何ほどのことがございましょう」とあざ笑っていますが、(保元物語)
源氏の子息とは違い清盛にとって保元の乱は始めての戦い、
彼らと一騎討ちでもすればきっとかなわなかったでしょう。

保元の乱のヒーロー義朝と大した功績もない清盛、この二人を
信西が極端に差別したのは、武芸では劣っていても
政治家として人間として、清盛の方が優れていると判断したためでしょう。

※名簿を提出するように清盛にアドバイスしたのは内大臣藤原公教。
(待賢門院璋子に三条高倉第を提供した異母兄実行の嫡子)

※平治の乱で清盛に敵対した藤原成親は、乱後
鹿ケ谷事件に加わり、備前に流されそこで殺された。
(妹が重盛の妻、娘は重盛の嫡子惟盛と結婚)


 
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