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『平家物語』(巻9)木曽最期の章段で
「あれに見え候ふは、粟津の松原と申し候。
三町(300m余)には過ぎ候ふまじ。あれにてご自害候へ」と
乳母子の今井兼平が義仲の死に場所に選んだのが粟津の松原です。
しかし松原に向かって駆ける途中、義仲は深田に馬の脚をとられて動けなくなり、
あとに残してきた兼平を案じて振向いた瞬間、矢が顔面を射ぬきました。
粟津の松原は旧東海道沿いの松並木で、
歌枕として知られ湖岸の美しい松原だったといわれます。
近代以降、旧東海道から琵琶湖側は埋め立てられ、
今では粟津中学校の西側の道沿いに数本の松の木があるだけですが、
近年、現在の湖岸にも松が植えられ、安藤広重の版画に見られるような
近江八景「粟津の晴嵐」の風景が復元されています。
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粟津中学校
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粟津中学校あたりに残る数本の松の木
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『義経ハンドブック』に「木曽義仲の最期の地」として
膳所城勢多口総門跡(粟津の番所跡)の碑の写真が掲載されているので、
粟津中学校付近にところどころに残る
松の木を眺めたあと、この石碑をたずねました。
旧東海道を北西へしばらく行くと、道は左にほぼ直角に曲がります。
その手前の民家の玄関脇に碑はあります。
江戸時代に膳所城勢多口総門が建っていた所で、
本田氏六万石の膳所城下町の南入口にあたり、ここに番所を設けて
旧東海道を通って京へ向かう旅人に監視の目を光らせていました。
でもそこには石碑がたっているだけで、
義仲最期についての説明板はどこにも見当たらず
『滋賀県の地名』で、膳所城勢多口総門を調べてみましたが、
やはり義仲について何ら記述がありません。
ちなみに膳所城下町の北西の入口を北総門といい、
ここにも番所が設置されていました。
義仲最期の地について、『義仲寺略史』には
「当、義仲寺の地は、その昔は粟津ヶ原と云われ、寿永三年一月二十日、
征夷大将軍木曽義仲公はここで討死された。云々」とあります。
この件について「公益財団法人滋賀県文化財保護協会」に問い合わせたところ、
「義仲の最期については、粟津の松原あたりの深田に馬の足をとられたところを
弓矢で討たれたと伝えられるだけで、具体的にその場所が
総門跡であったかどうかはわからないと思う。」というお返事をいただきました。
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出家し伊勢で穏やかな生活を送っていた西行は、義仲討死の知らせを受けると
源氏同士の悲劇を次のように詠んでいます。
木曽と申す武者、死に侍りにけりな
♪木曽人は海の怒りをしずめかねて
死出の山にも入りにけるかな(聞書集)
「海の怒り」とは西海に逃れたのち、瀬戸内海を制覇しつつあった平家を指しています。
木曽育ちの義仲は海の怒りを鎮めることができず、死出の山に入っていったよ。
西行はもと鳥羽院の御所警護の北面の武士でしたが、
23歳で出家し歌道一筋の道を貫きました。
粟 津
義仲最期の地となった粟津は滋賀県大津市南部、
琵琶湖最南端部の瀬田川河口西岸に位置する広域の地名をいい、
古来より交通の要衝であるとともに壬申の乱や藤原仲麻呂の乱からも
知られるように軍事衝突の絶えなかった地点でもありました。
『枕草子』に「粟津野」「粟津の原」とみえ、『梁塵秘抄』には
近江の歌枕・名所として「粟津・石山・国分や瀬田の橋」などをあげ、
江戸初期には近江八景の一つ「粟津の晴嵐」として定着します。
義仲と今井兼平の最期をご覧ください。
木曽義仲の最期(打出の浜)
『アクセス』
「粟津晴嵐の碑」日本精工の工場の裏手付近(大津市晴嵐一丁目)
JR石山駅下車徒歩約10分
「粟津中学校」大津市晴嵐一丁目20-20
「粟津の番所跡・膳所城勢多口総門」大津市御殿浜19-37
『参考資料』
「滋賀県の地名」平凡社 「義経ハンドブック」京都新聞出版センター
「義仲寺略史」義仲寺 五味文彦「西行と清盛」新潮社 白洲正子「西行」新潮文庫
歌枕として知られ湖岸の美しい松原」だそうですが、「晴嵐」の意味をよく知らなかったので、どういう景色なのかと長い間思っていたので、解説で『なるほど!』
900年の歳月の厳しさは自然の景色さえも領主・武士の栄枯盛衰と共に変えてしまい、名残さえも現代まで残る処はよほど人々の思い入れがあった場所だけなのでしょうね。
同時代(少し前?)の歌人・西行に義仲についての記述や歌があったのを初めて知りました。
あの変動の時代を出家隠棲した身ではあっても生き抜いてきた彼にとって、万感の思いがあったと思うのですが、表面はとてもさらっとした歌ですね。
琵琶湖は干拓や埋め立によって湖岸線が変化し、周辺の地形も地名も昔とは変わっています。
その昔、今井兼平の墓があった篠津川上流の墨黒谷(すぐろたに)の地名も失われ、現位置はよく分かりませんし、
徐々に膳所の町並みも古い建物が新しい建物に建て替えられています。
滋賀県文化財保護協会にいただいた「膳所の町並み」の資料には、
御殿浜にかってあった粟津番所の建物が写った写真と
番所が壊され駐車場になった写真と二枚載せられています。
いずれも右隣の民家は現在と同じ建物が写っているので、
番所が壊されたのはそんなに前のことではないと思うのですが…残念です。
西行は清盛と同い年ですから、義仲とは同じ時代に生きた人ですが、
彼とは面識はなかったはずです。
西行が60歳を過ぎて伊勢に移った治承4年(1180)は、
以仁王の乱、富士川合戦で平氏軍が大敗した激動の年でした。
伊勢には各地の情報がよく入ってきて、次々起こる都や地方の不穏な動き、
この騒乱の中、治承5年(1181)に清盛が死んだことも西行の耳に入っています。
この歌だけでは分かりにくいかもしれませんが、聞書集(ききがきしゅう)に収められている
源平争乱に関する歌、他二首の詞書で西行は戦うことの愚かさを述べています。
素晴らしいブログに出会え、感謝をお伝えしたくてコメントさせていただきます。
当方、埼玉県で公立高校の教員をしています。「木曽の最期」の授業にあたり、粟津の松原について検索したところ、こちらのサイトに出会いました。
私どもは埼玉県民であるため、なかなか琵琶湖周辺の様子を知ることができなかったのですが、こちらのサイトを拝読させていただき、いろいろと知ることができました。ありがとうございました。
1点気になることがありました。
以下の引用文は、どの底本からの引用でしょうか。
>『平家物語』(巻9)木曽最期の章段で
「あれに見え候ふは、粟津の松原と申し候。
三町(300m余)には過ぎ候ふまじ。あれにてご自害候へ」
授業で扱っている本文は「新日本古典文学大系」(覚一本の系統である高野本を底本とする)からの引用です。それによると、
「あれに見え候ふ、粟津の松原と申す。あの松の中で御自害候へ。」
とあり、「三町には過ぎ候ふまじ。」のくだりがありません。けれども個人的には、三町のくだりがあったほうが、無念さが増し、より胸を打つと思います。
そのため、この底本をぜひとも知りたいという好奇心が、私に湧いてしまいました。
周りの教員にも紹介したいので、可能でしたら、底本を教えてくださると幸いです。
ご検討よろしくお願いします。
乱筆・乱文失礼いたしました。