大阪市の南大江公園に朝日神明社跡の石碑と説明板が建っています。
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源義経が屋島の平家を攻撃の際、梶原景時と福島で
逆櫓論争をした時、この社に風雨の鎮護を祈願したと伝えられ、
俗に古くは逆櫓社(さかろのやしろ)とも、
天照皇大神を祭神とすることから単に大神宮とも呼ばれました。
当社は天慶年間(938~947年)に平将門を討つために
天照大神を祀り戦勝を祈願して
平貞盛が創建したという縁起を持っています。
貞盛は平清盛の六代前の祖です。
(貞盛-維衡-正度-正衡-正盛-忠盛-清盛)
また朝日神明社は、熊野九十九王子の一社坂口王子という。
当社は、昭和6年(1931)に此花区春日出中に移転しました。
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朝日神明社跡(坂口王子伝承地)
朝日神明社は、天慶年間(938~947)に
平貞盛が平将門を討つために創建したという。
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)と
倭比売命(やまとひめのみこと)を祭神とし、
朝日の社名は、祭神の天照皇大神にちなむとも、
社殿が東面していたためとも考えられている。
熊野王子のひとつの坂口王子の伝承地である。
当社は逆櫓社(さかろのやしろ)とも称されたが、
これは源平合戦の際に、源義経と梶原景時が
櫓のつけ方について論争したことに由来する。
江戸時代の難波22社巡りの一社である。
明治40年(1907)3月までこの神崎町に鎮座していたが、
現在は此花区春日出中(かすがでなか)に移座している。
旧地には狸坂大明神が鎮座している。
大阪市教育委員会 (説明板より)
此花区春日出中に移った朝日神明社(逆櫓社)
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『摂津名所図会』より 秋里離島(舜福)著 丹羽桃渓画
寛政10年(1798)頃出版
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説明板の傍に祀られている狸坂大明神
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一ノ谷合戦から1年後の元暦2年(1185)2月、
屋島に陣取る平家を攻撃するため、
義経は摂津渡辺で舟揃えの支度を整えますが、
出発の日に北風が吹いて出航延期になりました。
水軍に備えの整わない義経軍は、屋島を海上正面から向かわず、
阿波勝浦(現、徳島県小松島市)に上陸し陸路背後より突く作戦です。
その日、源氏の内部に対立が起こります。
軍議の場で梶原景時が形勢不利になった時、
自由に後退できるように舟の前後に櫓をつけたいと提案しますが、
義経ははじめから後退の準備をすれば気持ちまで
逃げ支度になってしまう。
臆病者の小細工とあざけ笑いました。
景時は大勢の前で恥をかかされ、両者は
一触即発の事態を迎えますが、義経を三浦義澄が景時を
畠山重忠が制止してその場はひとまずおさまりました。
やがて日は暮れ、激しい北風はやむ気配を見せません。
暴風とはいえ、四国に向けては追い風です。
義経は怖気づく船頭たちを脅してわずか5艘で船出しました。
この時、暴風雨の鎮護を祈願したのが朝日神明社といわれています。
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天満橋と天神橋が架かる大川(旧淀川)の辺は、
平安時代には渡辺とも窪津ともよばれていました。
渡辺の津(義経屋島へ出撃)
軍議が開かれた福島
逆櫓の松跡 義経と梶原景時の争い
『アクセス』
「朝日神明社跡」大阪市東区神崎町2(南大江公園内)
大阪市営地下鉄谷町線「谷町四丁目駅」より徒歩約12分
『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年 三善貞司「大阪史跡辞典」清文堂出版、昭和61年
「平家物語図典」小学館、2010年 佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年