平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






京都祇園祭の保昌山は、丹後守平井保昌と和泉式部の
恋物語を
モチーフにし、保昌が和泉式部に頼まれ夜中、
紫宸殿の庭に忍び入り、
紅梅を手折ってくる姿をあらわしています。

紅梅を手折ったものの
警護の兵に矢を射掛けられ、
髻(もとどり)が切れ逃げ帰ったが、
恋は見事に実ったという話にちなみ、
明治初年までは
「花盗人山(はなぬすっとやま)」とよばれました。
御神体(人形)は
緋縅(ひおどし)の鎧に太刀をつけ、
梨地蒔絵(なしじまきえ)の台に紅梅を一杯にもってこれをささげています。

宵山には、山の故事にちなみ「縁結び」の御守りが授与されます。





保昌山会所



早すぎました!

やがて現れた保昌の姿を見て、祭りで賑わう町中を次の会所へと走りました。

藤原(平井)保昌は藤原南家の一族で文章博士藤原菅根の曾孫です。
祖父の元方が大納言、母は醍醐天皇の皇子元明親王の娘という名門でしたが、
元方以後は摂関家の敵となり振いませんでした。
名門の誇りを捨てて保昌は藤原道長・頼通父子の家司(けいし)として仕え、
肥前・大和・丹後・摂津守などを歴任します。

摂津守を務める頃、摂津国平井(阪急電車宝塚線山本駅北側)に
住んでいたので平井と名乗っていました。

兵の家の出身ではありませんが、弓箭の道に優れ、心猛く、武者として
称賛されていました。妹は満仲に嫁いで、大和源氏の祖・源頼親、
河内源氏の祖・源頼信を生んでいますが、
弟の保輔は大盗人で、殺人事件などを起こした無軌道者でした。

『御伽草子』の「酒呑童子」では、定光、季武、綱、金時の四天王とともに、
保昌が頼光の鬼退治に従ったとあります。

数ある鬼伝説の中でも大江(枝)山の酒呑童子は最も有名な鬼です。
その原像は都に猛威をふるう疫神でした。平安京が都となり人口が増えると、
居住環境・衛生状態の悪い都に疫病がたちまち広がり、
さまざまな祭祀が行われました。当時は疫病は西から
流行すると考えられていたので、都の西に位置する
大江山(京都市西京区老坂峠)は、重要な祭場でした。
頼光は四天王の故事とともに大枝山酒呑童子や土蜘蛛退治の説話や
物語の中で活躍する優れた武将として知られていますが、
当時の貴族の日記や史料には、四天王を率いての化け物退治のような
活躍はみえず、実態はよく分からないようです。


保昌と和泉式部との恋愛がいつ始まったのかは明らかではありませんが、
保昌は道長の薦めもあり、道長の娘彰子に仕えていた
和泉式部と結婚し、彼女とともに丹後に赴任します。
それは和泉式部が和泉守橘道貞と結婚し、小式部内侍をもうけた後に別れ、
為尊親王・敦道親王兄弟との恋愛の末の、30代も半ばのことでした。
弓矢の達人である保昌は、丹後では暇さえあれば狩ばかりしていたので、
必ずしも結婚生活は順調ではなかったようですが、
後半生のほぼ30年間を一緒に過ごしたと思われます。
和泉式部が保昌との関係が上手くいかなくなった頃、
貴船神社に詣で貴船川に飛ぶ蛍をみて詠んだ歌があります。


♪物思へば沢のほたるも我身より あくがれ出る玉かとぞみる

(物思いをしていると、魂が沢を飛ぶ蛍となって、
わが身から抜け出し、闇の空に光って飛んでいる。)

丹後には保昌が任を終えた時、和泉式部は都に一緒に戻らず
「山中」に庵を結び、この地で亡くなったという伝承があり、
宮津と舞鶴を結ぶ間道沿いに式部の墓があります。
王朝美人・才女の末路は憐れであったという伝説が多くありますが、
これもそのひとつと思われます。


清少納言の兄、清原 致信(むねのぶ)は、武門に身を投じ藤原保昌の
有力家人となっていました。保昌と親戚の源頼親との仲は悪く、
頼親は保昌の家人 致信を暗殺しようと企てていました。
寛仁元年(1017)3月、源頼親の命を受けた騎兵および歩兵10余人に
致信は襲われ、
六角富小路の自邸で殺害されました。
『古事談』には、「武士たちはこの場に居合わせた清少納言を法師と見まちがい、
斬ろうとしたが、彼女はとっさに法衣の裾をまくって股ぐらを見せて
難を逃れた」というエピソードが見えます。
藤原道長は頼親について、その日記『御堂関白記』に
「くだんの頼親は殺人の上手なり、たびたび此の事あり」と記し、
道長は武士が殺生を生業とする者であると認識していたようです。


『今昔物語集』には、藤原保昌の説話が収められています。
大筋を簡単にご紹介します。
「十月のある夜中のこと、保昌は狩衣姿で大路を笛を吹きながら歩いていました。
それを見た大泥棒の袴垂(はかまだれ)は、衣を剥ぎ取ろうとしましたが、
なんとなく恐ろしそうなので、寄り添ったまま歩いていくと、
自分を気にする様子も見えず、静かに笛を吹き続けています。
保昌は袴垂が自分の衣装を狙っているのを知ると、自分の家へ袴垂を誘い
「以後もこんな物が欲しいときは、遠慮なくこい」と言って衣装を与えました。
その後、袴垂がこの家の主を確かめると、摂津前司保昌の家でした。
あれが音に聞こえた保昌であったかと思うと、
生きた心地もしなかった。」という説話世界での保昌の風流話です。
祇園祭橋弁慶山   祇園祭浄妙山(筒井浄妙と一来法師)  
『アクセス』
「保昌山会所」京都市下京区東洞院通り松原上ル燈籠町
烏丸四条駅徒歩約7分   
山鉾巡行午前9時~
『参考資料』
 梅原猛「京都発見・丹後の鬼・カモの神」新潮社 角田文衛「平安京散策」京都新聞社
 日本古典全書「今昔物語」(巻25-7)朝日新聞社 「平安京の風景」文英堂
 野口実「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」新人物往来社
 高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」中公新書 
「歴史を読みなおす 武士とは何だろうか」朝日新聞社 
「日本の祭り文化事典」東京書籍株式会社 
「平安時代史事典」角川書店 「日本人名大事典」(5)平凡社 




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みやこめっせ東側の植え込みの中に成勝寺跡の碑があります。

保元の乱で後白河天皇方に敗れた崇徳院は、いったんは三井寺めざして
東山の如意ヶ岳に走りましたが、夜に紛れて紫野の知足院に近い僧坊で出家し、
覚性法親王(崇徳の同母弟)を頼って仁和寺に入りました。そのことはすぐ内裏へ知らされ
10日ほど拘束された後、讃岐国に配流と決まり、仁和寺で警護にあたっていた
佐渡式部大夫重成が鳥羽草津湊まで送ることになりました。途中、鳥羽離宮の父鳥羽上皇の
安楽寿院陵に差しかかると、崇徳院は父君に最後のお別れをしたいといいましたが、
重成は後白河天皇をはばかって、力およばぬ事と認めませんでした。
しかし、牛車だけは安楽寿院陵の方向に向けてくれました。

この源重成というのは、源義朝が平治の乱で敗れて東国へ落ちる途中、
美濃青墓で落武者狩りの一行に遭遇した際に義朝を逃がした上で、
身元が割れないように顔の皮を削り「我こそは源氏の大将左馬頭義朝なり。」と
名のって散々に戦ったのちに自害する義朝の郎党です。


船は四方が打ち付けられた上に鍵まで架けられ、締め切った屋形船の中からは
移りゆく外の景色を眺めることもできませんでした。お供をしたのは、
兵衛佐局(重仁の母)と女御の僅か3名です。やがて讃岐松山の津に到着しましたが、
急なことなので住まいの用意もなく、在庁官人(国庁に勤める官人)
綾高遠(あやのたかとう)の仏堂(雲井の御所)に入りました。
その後、
国司が国府(現坂出市)の傍に造営した鼓岡の舘へ移り、讃岐の配所で
九年ほど過ごした後、長寛2年(1164)8月、46歳の生涯を終えました。
遺骸は白峯山上で荼毘にふされましたが、御陵は石を積んだだけの粗末なものでした。
仁和寺で出家した重仁親王は、すでに2年前に23歳で亡くなっていました。

平安時代の始め、平城上皇は弟の嵯峨天皇と皇位を争って挙兵し、
弟に敗れましたが、上皇は出家したことで許され平城京で余生を過ごしました。
後白河天皇が編纂した『梁塵秘抄口伝集』には、「雅仁(後白河天皇)は、
母待賢門院の御所に出入りし、母の好きな今様の世界に浸っていた。
母が亡くなると、暗く沈みきっていたが、兄の崇徳から一緒に住むようにといわれ、
暫く兄の御所に住まわせてもらい、毎夜好きな今様を歌っていた。」とあり、
仲の良い兄弟であったことがうかがわれます。
出家すれば平城上皇のように、都の片隅にでもおいてもらえると、
思ったであろう崇徳にとって讃岐配流はあまりに過酷な刑罰でした。


長年の恨みが爆発したのか、怒りに荒れ狂う崇徳院の怨霊の姿が『保元物語』に
描かれています。「鳥羽上皇の菩提を弔うため、崇徳院は三年がかりで書写した
五部大乗経を石清水八幡宮か安楽寿院(鳥羽天皇陵)に納めたいと願いましたが、
信西が「呪いがかけられているかもしれない。」といって受け取りを拒否し、
そのまま送り返されてきました。恨みに思った院は怨念火となって燃え上がり、
大乗経の奥に日本国の大魔王となる。と血書し、その経を海底深く沈め、
髪も爪も伸び放題で生きながら天狗となって死後の祟りを誓ったという。」
魔王というのは、仏法・王法を乱す霊をいい、その代表が天狗です。

崇徳院の怨霊の祟りはすさまじく、保元の乱の3年後に平治の乱(1160)が起こると、
後白河天皇側近の信西や藤原信頼が殺され、その後、息子の二条天皇が在位中に
23歳の若さで亡くなり、安元2年(1176)には、寵妃建春門院をはじめ孫の
六条天皇(二条天皇の子)が崩御するなど、後白河周辺の人々が相次いで亡くなりました。
その翌年には、内裏を焼失させ、京都の町の3分の1を焼く「太郎焼亡」とよばれる
大火災が起こり、これらはみな崇徳院の怨霊のせいだと考えられました。
そこで、後白河法皇は崩御の段階では、「讃岐院」とよばれていた院に
「崇徳院」の号を贈り、藤原頼長には、太政大臣正一位を贈りました。
引き続き、成勝寺において法華八講が修せられました。
しかし、怨霊はそんなことでは鎮まらず生き続けます。
治承3年(1179)、清盛が後白河を鳥羽殿に幽閉して政権を掌握し、
その翌年から6年間にわたる源平合戦が勃発しました。

『保元物語』が記す五部大乗経について、吉田経房の日記
『吉記』寿永2年(1183)7月16日条に次のような記事があります。
「崇徳院は讃岐国において、自筆の五部大乗経を血で書き、経典の奥には
天下滅亡の文言が書かれている。この経典は仁和寺の元性法印のもとにある。
未供養のままなので、あらためて崇徳の御願寺である成勝寺において供養し、
亡き院の怨霊を鎮めたいとの申し入れが法印からあったが、供養を行う前から崇徳院の
怨霊が戦乱を引き起こしているので、どうしようかと議論すべきである。」と記しています。
元性は崇徳院の第2皇子で、母は三河権守師経の娘です。

こうした動きの背景には、崇徳院の側近藤原教長があったとされています。
教長は保元の乱後、常陸国(茨城県)に流されましたが、許されて帰京すると
崇徳や頼長を神霊として祀るべきと唱え、怨霊慰撫の火付け役となりました。
五部大乗経の存在が公表されると、当時の不安定な社会情勢や政治情勢を背景に、
人々にその恐怖を決定づけました。そして崇徳院怨霊に対する対策が次々にとられます。

寿永2年(1183)12月29日、保元の乱の時に崇徳の御所があった
春日河原(京都大学医学部付属病院敷地)に神祠建立を決定し翌年造営されました。
崇徳院廟と頼長廟が並び建ち、両廟の周囲は筑地塀で囲まれ門がたっていました。
この廟はのちに、廟が粟田郷にあったことにより、
粟田宮とよばれるようになり、
応仁の乱の兵火により荒廃してしまいました。
また崇徳院の遺骨は分骨されて、高野山に納められ菩提が弔われました。

さらに後白河院の晩年には、院の病気平癒を願って、
讃岐の崇徳院陵に御影堂が建立され、御陵が整備されました。


山田雄司氏によると、崇徳院が配流中に詠んだ歌や
寂然が院と交わした歌などから、実際の崇徳院の讃岐での暮らしは、
無念の思いを抱きながらも、穏かであったとされています。

♪浜千鳥跡は都にかよへども 身は松山に音をのみぞなく
(浜千鳥の足跡(筆跡)は都へ飛び立つことができるが 、
わが身は都から遠く離れた松山で悲しみの声をあげて泣くばかりです。)

五部大乗経を送った時に添えたこの和歌などにみえるように心細く、
悲嘆にくれる生活だったようですが、『保元物語』が語る
天狗となって怒りに荒れ狂う姿とは程遠い余生を送ったとされます


鴨川東岸の白河の地(現在の岡崎一帯)は、桜の名所として知られ、
風光明媚な地として早くから貴族たちの別荘が並び建っていました。
この地域が大規模開発されたのが、白河・鳥羽両上皇の時代です。
寺名に「勝」の字がつく特に格の高い寺院、六つの寺が相次いで建立されました。
今は寺跡の石碑や町名に残るだけですが、白河天皇御願の法勝寺、鳥羽天皇御願の最勝寺、
堀河天皇御願の尊勝寺、待賢門院発願の円勝寺、崇徳天皇御願の成勝寺、
近衛天皇御願の延勝寺と六寺が甍を並べていました。これらを総称して六勝寺とよびます。
成勝寺は保元の乱に敗れ、讃岐国(香川県)に流された崇徳院が建てた寺院で、
院の怨霊を慰撫するために法華八講の法要がこの寺で行われました。


「みやこめっせ」の辺りにあった成勝寺は
崇徳天皇在位中の保延5年(1139)に落慶法要を行っています。
当時、岡崎一帯には壮大な寺院が林立し、周囲には皇族・貴族・僧侶、

また彼らの生活を支える商人なども集まり住んでいました。



成勝寺西方の琵琶湖疏水を越えた辺に近衛天皇御願の延勝寺がありました。
みやこめっせの西隣に「延勝寺跡」の石碑がたっています。


田中殿跡 (崇徳天皇)
崇徳天皇廟京都祇園 
『アクセス』
「成勝寺跡の碑」京都市左京区岡崎成勝寺町 
市バス「岡崎公園前」すぐ

『参考資料』 
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書 

山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川弘文館 
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館 
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店

「西行のすべて」新人物往来社 「京都市の地名」平凡社
新編日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館 



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須賀神社は、古くは現岡崎東天王町にある東天王社(岡崎神社)に
相対して西天王社とよばれました。
社伝によれば鳥羽天皇皇后の美福門院得子が建立した
歓喜光院の鎮守社として創祀され、
旧地は平安神宮蒼竜楼の
東北にある西天王塚付近にあったと伝えています。


元弘2年(1332)の兵火を避けて吉田神社の末社木瓜神社の傍に移され、

大正13年に旧御旅所の現在地に移り、須賀神社と改めました。 
祭神は、素戔嗚尊(スサノオノミコト)、櫛稲田比売命(クシナダヒメノミコト)、
久那斗神(クナドノカミ)、
八衢比古神(ヤチマタヒコノカミ)、
八衢比売神(ヤチマタヒメノカミ)の五柱を祀り、

昭和39年には交通神社が創始されました。

歓喜光院は永治元年(1141)に美福門院の御願寺として創建され、
現在の平安神宮の北または西北辺にあったとされ、
院地は東西2町と推定されています。

美福門院の死後その娘八条院が伝領すると、女院御所が付設され、
女院は桜の名所であるこの地をしばしば訪れています。
応仁元年(1467)の兵火で焼失し廃寺となりました。

須賀神社・交通神社



美福門院得子の家系は藤原北家の傍流に属し、中・下級貴族の家柄でした。
ところが、得子の祖父藤原顕季(あきすえ)が乳母子として
白河法皇に引き立てられ、
院近臣として急速に台頭してきます。
法皇の寵愛は父の長実にまで及び、
長実は受領を歴任して
巨万の富を蓄え、従三位にまでのぼって公卿となります。


鳥羽上皇の中宮待賢門院璋子は崇徳・後白河両天皇を生み、
白河法皇(鳥羽の祖父)の
庇護のもとで大きな勢力をもっていましたが、
法皇が崩御すると鳥羽は璋子を遠ざけます。

説話集『古事談』には、「崇徳天皇は鳥羽上皇の子ではなく、
璋子が白河法皇と
密通して生まれた法皇の子であり、上皇はそのことを
知っていて、
崇徳天皇を叔父子とよんで嫌っていた。」とあります。
替わって勢力を伸ばしたのが
父の死後入内し、上皇の寵愛を一身に集めた得子(美福門院)です。

得子は崇徳天皇を退位させ、わずか3歳のわが子体仁親王(近衛天皇)を
即位させることに成功します。
鳥羽上皇は病弱な近衛天皇に皇子が誕生しなかった場合に備えて、
崇徳天皇の皇子重仁親王と雅仁親王(後白河天皇)の

皇子守仁親王(二条天皇)を得子の猶子として養育させます。

近衛天皇は17歳の若さで亡くなりました。早速、皇位継承問題が
もちあがり、院近臣や公卿を集めて議定が開かれました。
待賢門院の皇子覚性法親王を還俗させて即位させようとする案や
近衛天皇の姉の八条院を女帝とする意見などもありましたが、
父(崇徳)が皇位を経験した重仁が、帝位につくものと思われていました。

しかし、美福門院は崇徳院政につながる重仁の即位を阻もうと
守仁親王(二条天皇)を押しました。そこへ父をさしおいて、
子が先に皇位を継ぐことは不穏当であると信西が強く主張し、
雅仁親王(後白河天皇)が、ひとまず中継ぎとして即位しました。

後に後白河天皇は「治天の君」として権力を振いますが、
当時は今様に熱中し遊び暮らしていました。
信西の妻紀伊二位は雅仁の乳母です。
信西には、雅仁を即位させて自分がその背後で政治を執ろうという
野心がありました。貴族社会において、乳母は乳母の夫や乳母子らと
一家総出で養君の養育にあたり、
乳母一家と養君の関係はきわめて親密でした。

信西の策謀で天子の器ではないといわれていた弟が皇位につき、
息子の重仁は皇統から遠ざけられました。
崇徳新院が憤慨したのは当然です。
白河法皇以来、院政の権力維持の手段として、幼帝をたて、
青年期に退位させるという方法がとられてきましたが、
この時、後白河天皇はすでに29歳になっていました。

その頃、摂関家でも内紛が起こります。
摂関家の藤原忠実の息子、長男忠通は関白の地位につき、
次男頼長は左大臣でした。
23歳も年の差がある兄弟です。
忠実は頼長の抜群の学才を愛し、忠通から氏長者を取り上げ
頼長に与えたので、忠通は父を憎むようになりました。
また、忠実が鳥羽上皇に働きかけたことによって、
頼長は内覧の宣旨を受けます。天皇の決裁を補佐・助言し
政務に参与する内覧の機能は関白と同じであり、
頼長の内覧就任によって、関白と内覧が並び立つという
異常な事態となりました。
こうして、
父から疎外された忠通は信西、美福門院と手を結びます。
彼らが仕組んだ罠で、近衛天皇の崩御は忠実・頼長父子の
呪詛によるものとの風評がたち、鳥羽上皇はこれを信じたといいます。

後白河天皇即位と同時に忠通には関白の再任の宣旨が下されましたが、
頼長に内覧の宣旨はなく忠実父子は失脚の憂き目をみます。
身に覚えのない噂がもとで宮廷社会から追放された
頼長と崇徳新院が手を組むのは時間の問題でした。
こうした不穏な情勢の中、鳥羽上皇の崩御をきっかけに
保元の乱がまき起こります。

この乱において、美福門院は信西とともに優れた
政治的手腕を見せ後白河天皇方を勝利に導きます。
次いで起こった平治の乱の修羅場をみ、その収束を見届けた後に亡くなり、
遺言により遺骨は高野山に納められました。 

美福門院隠れさせ給ひける御葬送の御供に草津といふ所より
舟にて漕ぎ出でける。
曙の空の景色、浪の音、折から物悲しくて読み侍りける。
♪ 朝ぼらけ漕ぎ行く跡に消ゆる泡の 哀れ誠にうき世なりけり  藤原隆信朝臣
(新拾遺集、巻十、哀傷歌)

藤原 隆信の母は美福門院の女房加賀で、
隆信を連れて藤原俊成に再嫁し定家を生んでいます。

藤原隆信が哀しみにくれ歌を口ずさんだ
かつて草津の湊とよばれた羽束橋辺の風景

下鳥羽は古くは草津といい、京から西国へ赴く人々の乗船地にあたるので、
草津の湊とよばれ、高野山、熊野、四天王寺など
参詣する人々が乗船する地でもありました。
高野山不動院・美福門院陵  
『アクセス』
「須賀神社」京都市左京区聖護院円頓美町1(聖護院の向側)市バス熊野神社下車徒歩約5分
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 美川圭「院政 もうひとつの天皇制」中公新書 
橋本義彦「古文書の語る日本史」(平安)筑摩書房 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店

下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社 田端泰子「「乳母の力 歴史を支えた女たち」吉川弘文館



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「此附近平清盛終焉推定地」と刻まれた石碑が、
崇仁(すうじん)市営住宅の一角にあります。
この地はもと平安京八条大路と
鴨川の交差点の近くで、左京八条四坊十三町にあたります。
『吾妻鏡』によると、清盛は治承5年閏2月4日に九条河原口の
平盛国邸で亡くなったと記されています。しかし、近年の研究で、
中原師元の日記『師元朝臣記』に盛国邸は「八条河原口」にあったとあり、
『吾妻鏡』の記述と異なることがわかりました。

鎌倉末期に関東で編纂された記録より、同時代に盛国邸と
身近に接していた師元の日記の方が、信憑性が高いと判断され、
平成24年12月、特定非営利活動法人京都歴史地理同考会によって、
「八条河原口」にあたるこの地に石碑が建てられました。

京都駅八条口から八条通りを東へ進みます。



崇仁の名の由来の説明板の所を左折します。

石碑は須原通りに面したJR東海道線や東海道新幹線のすぐ南にあります。









清盛の遺骸は『平家物語』によれば、六道珍皇寺付近の火葬場で荼毘にふされ、
遺骨は摂津国経の島、『吾妻鏡』によれば山田の法華堂
(神戸市垂水区西舞子付近)に納骨されたと伝えています。

盛国は平家随一の郎党で、憲仁親王(高倉天皇)が皇太子に立つと、
東宮の主馬首を兼任し主馬判官ともよばれました。
憲仁親王が生まれたのは盛国の邸で、父は後白河上皇、
生母の建春門院滋子は清盛の妻時子の異母姉妹にあたります。
清盛は娘(建礼門院徳子)を高倉天皇に嫁がせ、徳子が安徳天皇を生むと
天皇の外戚となり権力を掌中におさめました。
ここは清盛が天皇の外戚となるきっかけを得た地ともいえるでしょう。


壇ノ浦の戦いで平家一門が滅ぼされると、平盛国は捕虜となって鎌倉に連行され、
岡崎義実(三浦義明の弟)に預けられました。すでに出家していた盛国は
日夜一言も発する事なく法華経に向かい、飲食を絶ち亡くなりました。
このことを聞いた頼朝は、盛国の態度に大いに心をうたれたと『吾妻鏡』に見えます。
水薬師寺・延暦寺千手の井(清盛の最期)  
平清盛の墓 (清盛塚・能福寺) 
『アクセス』
「 此附近平清盛終焉推定地」の碑 
京都市下京区屋形町7
JR京都駅八条東口から東へ徒歩7~8分
『参考資料』
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社選書メチエ 元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫

新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 現代語訳「吾妻鏡」(1)(3)吉川弘文館

 



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