平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



神明神社絵馬「源頼政公鵺退治の図」中村好男氏奉納
『平家物語・巻4・鵺の事』によると、源頼政は二度鵺退治をしています。
一度目は近衛天皇ご在位の時、毎夜、丑刻(午前二時頃)になると東三条の森の方から、
黒雲が沸き立って御所を覆い、
鳥の鳴くような奇妙な声がして天皇を悩ませていました。

怪鳥退治を命じられた頼政は 「南無八幡大菩薩」と祈りながら矢を放つと、
鋭い叫び声ととに落ちてくる怪鳥を、家来の猪早太(いのはやた)が
さっと走り寄り
取り押さえて
とどめを刺しました。

見ると頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をした異様な怪物です。
天皇は感激のあまり、褒美に「獅子王」という名剣を下されました。
とりついだ左大臣藤原頼長が、紫宸殿の階段を下りていると、
ほととぎすが二声、三声鳴く声が聞こえます。

♪ほととぎす名をも雲井にあぐるかな (ほととぎすが空高く鳴いているように
宮中で名を上げられたことだなあ。)と頼長がすかさず詠みかけると

頼政は♪弓はり月のいるにまかせて
(弓が矢を放つにまかせ偶然射とめただけです。)と続けたので

「源頼政は弓矢だけでなく歌道にも優れ、文武両道に通じているのだなあ。」と
人々は感嘆しました。そして
鵺の死骸は、丸木舟に入れて流されたということです。


二度目は、二条天皇が宮中で鳴く鵺に悩まされ、先例に従って
頼政が召されましたが、
鵺は一声鳴いただけで闇の中、姿は全く見えません。

頼政は鏑矢(射ると矢先から大きな音がする)を放ち、その音に驚いた鵺の鳴き声で
所在を確かめ、今度も見事に射落としました。
恩賞には御衣と、
伊豆国を賜り、嫡男仲綱は国司に任じられ、
丹波国五箇庄(現在の南丹市日吉町)、
若狭の東宮河(とうみやがわ)を
知行しました。

二条城近くの二条公園内北側の一角には、鵺池と鵺塚碑があります。

二条公園

頼政が鵺を退治した時にその矢じりを洗ったという鵺池



(現地、鵺池碑の説明文より)
「二条公園北側には鵺池という小さな池がありました。傍らには不鮮明ですが
鵺池碑と書かれて石碑があり、
さらにその北側には鵺大明神の祠があり、
そこには新しく復元された碑が建っています。平安時代、二条公園を含む付近一帯は、
天皇の住まいの内裏や、現在の国会議事堂に当たる大極殿を正殿とする朝堂院、
そして今の内閣に相当する太政官など、国家政治の中心となる官庁街でした。
「平家物語」巻4によると、院政期ともよばれる平安時代後期、深夜、
天皇の住まいである内裏に怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が非常に怯えられた。
そこで弓の名人である源頼政が射落とした怪鳥は、頭は猿、胴体は狸、
手足は虎、尻尾は蛇という鵺(鵼とも書く)であったといい、
そのときに血の着いた鏃を洗ったのが、この二条公園の池だと伝えられています。
この度の再整備において池・流れ施設を整備し、鵺池碑を移設しました。」


池の中島に「鵺池碑」がたっています。

昭和11年、鵺池碑の碑文を写し取り、新しい鵺池碑が建てられました。

鵺池の由来を刻んだ鵺池碑
復元された鵺池碑には、「元禄13年(1700)松平紀伊守の家臣
松崎正祐が
同藩の太田道灌七世の孫、太田毎資(つねもと)から聞いた話によると

毎資の邸の背後にある池は、源頼政が鵺を射止めた時鏃を洗った池と伝えられ、
頼政の遠縁にあたる毎資は、遺跡の消滅することを考えここにそのことを石に
記録しておくものである云々」と刻まれています。


鵺大明神、玉姫大明神、朝日大明神



鵺が出没したという東(とう)三条の森は古くから好事家の間で議論され、
「東三条」を東山三条と解釈し、現在の左京区岡崎公園運動場付近といわれ、
場内の東南隅に鵺塚と称する四角い塚がありましたが、
調査の結果火葬塚であることが判明し、昭和31年に撤去されました。

『京都伝説の旅』によると、東三条の森とは、

二条城東方の藤原氏伝領の「東(ひがし)三條殿」とするのが正しく、
邸内には
うっそうたる樹林があったと書かれています。

東三条殿は中京区釜座(かまんざ)通リ押小路を中心とし、北は二条通りより
南は御池通りまで、東は新町通りより西は西洞院(とういん)通りに至る
東西およそ130㍍、南北280㍍におよぶ細長い地域とされています。



釜座通り押小路角にたつ「此附近東三條殿址」の碑



二条城の辰巳(東南)、巽の方角に位置することから、
碑の側面には「城巽 上松屋町」と彫られています。




頼政が鵺退治を祈願した神明神社

ここは摂政藤原忠通の屋敷跡で、
近衛天皇がしばしば里内裏とされ四条内裏ともいわれました。
この邸内にあった鎮守社が神明神社と伝えています。



祭神天照大神、文子天満宮の祭神菅原道真が合祀されています。



神明神社宝物に頼政が鵺をみごと射とめたお礼に奉納した
二本の矢じりが伝わっています。
この矢じりは祭礼の時に飾られます。

祭礼日 毎年9月の第2土曜日及びその翌日の日曜日

大阪市都島区にたつ鵺塚説明板

大阪港の紋章として使われている鵺

頼政に射とめられた鵺の死骸は、鴨川から淀川へ出て、
ここに流れつき村人によって葬られました。


かつて母恩寺の境内だったという一角にたつマンションの隣に塚はあります。

母恩寺は後白河法皇が母待賢門院璋子の冥福を祈って建てた寺院です。

頭は猿、胴体はタヌキ、手足は虎そして尾は蛇という「ぬえ」を
デザインした4色団子「ぬえっちの団子」が大阪市都島区の
桜通商店街で売られていました。おみくじ付きで4本入り500円です。
源頼政の墓・鵺退治像(西脇市長明寺1)  
頼政が射落とした鵺にとどめを刺した猪早太(いのはやた)供養碑  
『アクセス』
「二条公園」京都市上京区智恵光院通丸太町下る主税町 

市バス「丸太町智恵光院」、「千本丸太町」、「千本旧二条」下車徒歩5、6分

「東三条殿址の碑」京都市中京区押小路通釜座上松屋町
市バス「新町御池」下車2分又は市バス「二条城前」下車5分

「神明神社」京都市下京区東洞院綾小路東入神明町
 市バス「四条烏丸」下車徒歩5分 
四条高倉から南へ一筋下り綾小路通を西へすぐ

「鵺塚」大阪市都島区都島本通3-18
サニータウン南東
地下鉄谷町線「都島」下車南東約200m
『参考資料』
「平家物語(上)」角川ソフィア文庫 竹村俊則 「京都伝説の旅」京都新聞社
石田孝喜「続京都史跡事典」新人物往来社 「系図纂要(さんよう)」名著出版

 

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以仁王(もちひとおう)は、後白河法皇の第三皇子で、
三条高倉に御所があったので
三条宮・高倉宮とも呼ばれました。

母は権大納言藤原季成(すえなり)の娘成子で、後白河法皇の寵愛を受け
以仁王の他に仁和寺の守覚法親王、式子内親王を生んでいます。

以仁王は幼くして天台座主最雲(鳥羽天皇の弟)の弟子となりますが、
出家はせず
最雲が他界した後、母方の親戚にあたる多子の
近衛河原の大宮御所で人目をしのんで元服しました。
15歳の時のことです。


笛の名手で学問にも優れた以仁王は高倉天皇の皇位継承の強力な
ライバルと目され、建春門院滋子(清盛の妻時子の妹)のそねみを受け、
皇子でありながら親王宣下すら受けられませんでした。
このように宮は平氏の縁につながらないため不遇でしたが、
皇位への望みを捨てず
諸道に日々精進し、
母方の親戚も以仁王の皇位継承にわずかな望みをかけていました。

元服後、以仁王は叔母である八条院暲子(後白河法皇の異母妹)の
猶子となり、
強い後ろ盾を得ます。
八条院は父鳥羽天皇や母美福門院の所領
二百数十ヶ所譲られ、
莫大な所領を背景に大きな権力を持ち、彼女の周辺には

様々な勢力を持つ人々が出入りしていました。


治承3年(1179)清盛によって父の後白河法皇が鳥羽離宮に幽閉され、
最雲から譲られ以仁王が知行していた城興寺(南区東九条烏丸町)や
城興寺領荘園を平家に没収されてしまいます。

この荘園は以仁王の主な収入源だったので、
その経済基盤までも平家方に奪われたことになります。
さらに翌年には清盛は高倉天皇を退位させた後、
娘徳子(高倉天皇中宮)の生んだ安徳天皇を即位させ
念願の外戚の地位を得ました。これにより
以仁王の皇位継承の可能性は全くなくなってしまいました。
以仁王は諸国の源氏にひそかに令旨を下し、平家討伐を呼びかけました。
しかしこれは、すぐに平宗盛の耳に入り、平家は5月15日の夜、
宮の御所に300騎を率いた検非違使を差し向けましたが、
以仁王はこの情報をいち早く知り女装し、市女笠で顔を隠し
御所を脱出して三井寺に向かいます。

留守を預かったのが、宮の腹心の部下で剛の者長谷部信連です。
高倉小路に面した門を打ち破り、討手が押し寄せると、
信連はこれに毅然として1人で立ち向かい、力の限り戦いました。
しかし力およばず生捕りにされてしまい、
六波羅に引き立てられ宗盛に詰問されますが、
頑として以仁王の行方をもらそうとしませんでした。
信連のあっぱれな態度に、宗盛は武勇に免じて左獄に入れ、
その後、伯耆国へ流しました。平家滅亡後、源頼朝は平家に対して
初めて一矢を報いた信連に能登国大家荘(輪島市付近)を与えました。
信連の子孫は長谷部に因んで長氏と称して繁栄し、24代尚連の時に
金沢藩三万石の家老となり、明治時代には、長家は男爵を授けられました。
城興寺(以仁王)  



京福電車「鳴滝駅」近くの住宅街の一角に
八条院瞕子(しょうし)内親王のお墓があります。


八条院は建暦元(1211)625日に蓮華心院(れんげしんいん)において65歳で亡くなり、
蓮華心院(右京区常盤古御所町内に墓が営まれました。


蓮華心院は八条院御所常盤殿が寺に改められたものです。
『アクセス』
「高倉宮御所跡」中京区東洞院姉小路通下ル曇華院(どんげいん)前町
「京都市教育相談総合センター・こども相談センター」西口隣傍
 市バス「烏丸三条」又は地下鉄「烏丸御池」下車徒歩5分
現在の京都文化博物館、中央郵便局辺。三条通りに面して総門があり、高倉通りに小門がありました。
「瞕子内親王(八条女院)墓」右京区鳴滝中道町 京福電車「鳴滝駅」下車東へすぐ
『参考資料』
「平家物語」角川ソフィア文庫 村井康彦「平家物語の世界」 上杉和彦「源平の争乱」新人物往来社 
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙書房「平安時代史事典」角川書店 
角田文衛「平安京散策」京都新聞社

竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛西)(洛南)駿々堂 
 

 

 




 
 




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二条天皇陵は平野神社の西方約300㍍、周囲を民家に囲まれた静かな場所にあります。
永万元年(1165)7月、二条天皇は23歳で二条院で崩御、
香隆寺付近の野で火葬し、遺骨は香隆寺の三昧堂に納められました。
香隆寺は弘法大師の弟子教日律師が開いた真言宗の寺といわれ、
のち寛空僧正が再興し宇多上皇の勅願所となりましたが、
中世になると寺は荒廃し、上品蓮台寺に合併されました。


参道には松の木が生い茂っています


二条天皇香隆寺(こうりゅうじ)陵



二条天皇(1143~65)は後白河天皇の第一皇子で、
名は守仁(もりひと)、高倉天皇の異母兄にあたります。

母が守仁を生むとすぐ亡くなったため、守仁は鳥羽天皇の皇后美福門院に養育されます。
幼い頃から聡明で天皇の器であるとの評判が高く、近衛天皇(美福門院の皇子)が
崩御した後、二条天皇が皇位に就くはずでしたが、
藤原信西が「父をさしおいて子が 先に天皇になるのは不当である」と訴え、
二条天皇を次に即位させる含みで後白河天皇に皇位の道が開けました。

後白河天皇は在位二年程で、16歳の二条天皇に皇位を譲り院政を始めますが、

二条天皇は筋を通す性格で、いい加減で我儘な父の院政を認めず
政事は関白基実と相談して決めたので、後白河院と何かと対立することが多く、
互いに相手側の側近に理由をつけては、追放したり流罪にします。
『源平盛衰記』によると、
「天皇は優秀で政事には叶うが孝道にはそむく」といわれたといいます。

この頃、近衛天皇のお后だった多子は、天皇に先立たれた後「近衛河原の御所」に
ひっそりと住んでいました。多子は美貌の聞こえが高く、この噂を耳にした
二条天皇は多子を
入内させるよう彼女の実家の右大臣家に強引に命じます。

実家は徳大寺家と呼ばれる名家で、多子は右大臣藤原公能の娘ですが
さらに家柄のいい藤原頼長の養女として近衛天皇に入内したのでした。

先帝の后を入内させるなどというのは前例がなく、
父の後白河院も「あるべきことでない」と諭し、
臣下も口をそろえて反対しますが、
「天子には父母はいない。だから父のいうことは聞かなくてもいいのだ。
自分は前世に功徳をつんだお陰で、今天皇の位についたのだ。
このくらいのことを何で自分の思いのままにできないことがあろうか。」と
いって聞き入れません。
多子は近衛天皇が崩御された際、
出家しなかったことを悔やみながらも、
仕方なく入内して「二代の后」とよばれました。


多子が後宮に入って五年後の春、にわかに二条天皇は病に罹り、
2歳の皇子(六条天皇)に皇位を譲って23歳の若さで崩御しました。
その後、
六条天皇もわずか5歳で譲位させられ、13歳で亡くなります。

次に即位したのが後白河院と建春門院(平滋子)の皇子高倉天皇です。
高倉天皇は後白河院の第七皇子ですから、本来なら皇位には
就けそうにはありませんが、後白河院の寵愛を一身に受けていた
滋子の願いを院が聞き入れ皇位に就けてしまいます。
『アクセス』
「香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)二条天皇陵」
京都市北区平野八丁柳町市バス「平野神社前」下車徒歩10分
『参考資料』
「平家物語」角川ソフィア文庫   福田豊彦 関幸彦「源平合戦事典」吉川弘文館
 石田孝喜 (続)「京都史跡事典」
 新人物往来社 「平安時代史事典」角川書店
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂
 


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