平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




興国寺は葛山五郎景倫が源実朝の菩提を弔うために、安貞元年(1227)
真言宗西方寺として創建しました。実朝が頼家の遺児公暁に鶴岡八幡宮で
暗殺された時、葛山五郎は実朝の命で宋に渡るため筑前国博多にいましたが、
主の死を知るとすぐに入道願性となり、高野山に上って禅定院に入りました。
禅定院は頼朝の菩提を弔うために、北条政子が高野山に建てた寺です。
63歳で1人残された北条政子は幕府創業以来の功臣安達景盛(大蓮坊覚智)の勧めで、
また願性が高野山にいたこともあって、実朝のために承久元年(1219)、
禅定院を改建し金剛三昧院と改めます。堂宇の完成は
貞応二年(1223)で政子が施主となり、景盛が建立奉行を務め大伽藍を造営しました。
政子は願性を由良荘(和歌山県日高郡由良町)の地頭に任命し、
その収入を三昧院維持の資にあてています。

願性は次第に実朝がずっと憧れ続けていた宋の国に実朝の遺骨を納めたいと
思うようになります。老いた願性の宿願をはたしたのが、高野山で知り合った
若き心地覚心(法燈国師)です。覚心は宋に渡り実朝の遺骨を阿育王山の
広利禅寺(浙江省寧波市)に納めた後、浙江省の寺院を転々とし、建長6年(1254)、
経(きん)山寺で覚えた味噌の製法と尺八を吹く居士4人を連れて帰国しました。
帰国後、覚心は金剛三昧院に入り、その後、第6代長老となりましたが、
正嘉2年(1258)に願性から寄進された西方寺を禅宗に改め、開山の住職となりました。
覚心はわが国普化尺八(ふけしゃくはち)の祖といわれ、当寺は虚無僧の本寺となり、
普化尺八(一般的な尺八)の法を継ぐ者は興国寺で授戒する慣習となっています。
 覚心が修得してきた径山寺(金山寺)味噌の製造法は、
味噌造りに適した気候の湯浅に広められ、その過程から生まれたのが醤油です。
興国元年(1340)に西方寺は興国寺と改称し、その後、豊臣秀吉の紀州攻めで大半の
堂塔を焼失しましたが、紀州藩浅野家、徳川家代々藩主の庇護のもと復興されました。

JRきのくに線紀伊由良駅

駅から国道42号線を北へ200mほど進み、門前にある標識に従って左折します。

左折して県道をしばらく行くと臨済宗興国寺の山門が見えてきます。



山門から深い小立に囲まれた参道を上って行きます。







禅宗様の本堂

鐘楼



天狗堂

興国寺が度々火災にあって復興に困っていたところ、
赤城山の天狗が一夜にして七堂伽藍を建立してくれたという伝説があり、
毎年1月成人の日に天狗祭が行われます。

天狗堂の下には、願性が高野山以来、
大事に持っていた遺骨を埋めたという実朝の墓や歌碑があります。
願性は長生きをして金剛三昧院を守り、死後は由良荘を三昧院に寄進しています。

♪打ちはへて秋は来にけり紀の国や由良の岬のあまのうけ縄(金槐和歌集・157)

作者は由良岬の穏かな海に、漁師が張ったうけ縄(浮きをつけた網)が
遠く伸びているのを見ながら、
(その網のように長く続いた暑い夏がやっと終わり)秋の到来を感じています。

この歌は実体験ではなく、机上の作と思われます。
実朝は紀の国はもちろん箱根から西への旅をしたことはなく
『万葉集』から学んだ歌句を吸収消化し、独自の歌風を
確立しています
由良岬は現在の下山鼻のあたりと思われ、その北西に突き出ているのが、
真っ白な石灰岩の岬、岩門を思わす立巖(たてご)、白砂の海岸と真っ青な海など、
その美しさは万葉人を魅了し、見事な景色が『万葉集』に詠まれています。

実朝は兄頼家が北条時政によって幽閉された後、12歳で将軍職を継ぎましたが、
その実権は母の北条政子や叔父の北条義時の手に握られていました。
このような状況の中、実朝は王朝文化に憧れ、和歌、管絃、蹴鞠などを好み、
特に和歌をたしなんだことで知られています。14歳からの和歌の指南役は藤原定家の
門弟内藤知親で、『新古今和歌集』を中心にして、歌好きの側近たちと歌作に励み、
18歳の時に正式に定家の門に入ります。知親の家は代々検非違使などを務め、
父は定家の御子左家(みこひだりけ)に出入りの家人でもあり、
知親は父に従って東国に下り、鎌倉に勤務していました。
実朝の使者として、知親はしばしば定家のもとに赴き、実朝の詠んだ歌を
定家に届けたり、定家の和歌を実朝に届けたりしています。
『新古今和歌集』に定家の推薦によって
知親は「読み人しらず」として入集し、定家はこの和歌集の編集を通じて
後鳥羽上皇に認められ、歌の家を確立していきます。

実朝は定家から本歌取りの技法特に万葉歌の取り入れ方を教えられ、
『万葉集』の歌風を甦らせたといわれています。
実朝の家集『金槐和歌集』の評価は時代を超えて高く、

♪箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波の寄る見ゆ
(金塊和歌集・639)
♪大海の磯もとどろに寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも
(金塊和歌集・641)などに見られるように、歌風はこの時代と趣をかえて
大らかな万葉調に戻ったようなスケールの大きな情景を力強く詠んでいます。
定家は実朝の歌を高く評価し、彼が単独で編纂した
『新勅撰和歌集』には、25首も採っています。

歌人としての実朝には、さまざまな逸話があります。
歌を始めた頃、完成間近い『新古今和歌集』に亡父頼朝の歌が
2首選ばれたと聞き、矢も楯もたまらず知親を通じて定家に依頼したり、
22歳の冬に定家から贈られた『万葉集』に歓喜しています。

頼朝は武将・政治家ですが、和歌にも通じていました。
その歌は『新古今和歌集』以下の勅撰集に10首選ばれています。

♪道すがら富士の煙も分かざりき  晴るる間もなき空のけしきに
 前右大将頼朝(新古今和歌集・975 )
道中、富士山の噴煙と(雲と)見分けることができなかった。
晴れる間もない空のようすのために。
♪みちのくのいはでしのぶはえぞしらぬ ふみつくしてよ壺の石ぶみ 
源頼朝(新古今和歌集・1786)。
(親交のあった慈円が「手紙では意を尽さない」と書いてきた返事に)

陸奥の岩手信夫(しのぶ)ではありませんが、
言わずに我慢するのは分かりかねます。
陸奥の果ての壺の碑まで踏破するように、手紙に思いの丈を書いてください。)
陸奥、岩手、信夫、蝦夷、壷はすべて地名です。壺の碑のある辺は、かつての
陸奥国府・多賀城の南門跡にあたり、碑の名は正しくは多賀城碑といいます。

武家の歌を採ることのない『百人一首』に唯一首、実朝の歌が採られているのは、
実朝が武人としてより、歌人として優れていたからだと思われます。
♪世の中は常にもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも 
鎌倉右大臣(百人一首・93)
(渚を漕いでゆく漁師の小舟が綱手を引かれる風景が何ともいとおしいものだ。
どうかこの世の中がいつまでも変わらないでほしいものだ。)
しかし実生活では政争に巻き込まれ、この願いは叶いませんでした。


実朝の妻は後鳥羽院とはいとこの間柄です。実朝は自身の名付け親でもあり、
限りなく尊敬していた院と姻戚関係になったことを喜び、
生涯に渡って院とは良好な関係を保っています。
♪山は裂け海は浅(あ)せなん世なりとも 君にふた心わがあらめやも
(金槐和歌集・663)
(山が裂け海が干上がるような世であっても、
後鳥羽院を裏切ることは決してありません。)
院に対する畏敬と忠誠の念が絶叫とも思われるこのような歌を詠ませています。

しかし院と幕府との摩擦が深まるにつれて、
こうした実朝の意識は幕府内で
孤立する一因となり、しだいに不可解な言動や行動をとるようになります。
『吾妻鏡』建保4年(1216)6月15日条によると
東大寺大仏鋳造の功労者、
陳和卿(ちんわけい)が鎌倉に下り、将軍に対面を許されると、和卿は
「前世、将軍は宋朝の
阿育王山(浙江省の禅寺)の長老で、私はその弟子でした。」と
語ります。すると実朝も以前、そのような夢を見たことを思い出して深く感激し、
その口車にのり、側近たちの反対にも耳をかさず、宋に渡る決心をし、
60余人の隋従者まで決め、和卿に唐船を造らせました。
完成した船を由比浜に浮かべようとしましたが、大型船が出入りできる海浦でなく
進水に失敗してこの計画は挫折し、和卿の消息は、ようとして分からなくなりました。
東大寺再興において多くの宋人が活躍しました。
日本に商人として渡ってきていた宋の鋳物師(いもじ)陳和卿は、
東大寺大勧進の重源にスカウトされ、大仏鋳造の功によって後鳥羽院や
頼朝から恩賞地を与えられましたが、全て東大寺に寄進しています。
当時、鋳物師が商人も兼ねて来日することがあったようです。
安達景盛(金剛三昧院)  
『アクセス』
「興国寺」和歌山県日高郡由良町門前801

JRきのくに線紀伊由良駅から山門まで徒歩約10分、山門から本堂までは約15分
『参考資料』
 「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社
 渡辺保「北条政子」吉川弘文館 新潮日本古典集成「金塊和歌集」新潮社 
脇田晴子「中世に生きる女たち」岩波新書 永井晋「鎌倉源氏三代記」吉川弘文館 
神坂次郎「熊野まんだら街道」新潮文庫 目崎徳衛「史伝後鳥羽院」吉川弘文館 
 川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館 中尾尭「旅の勧進僧重源」吉川弘文館 
現代語訳「吾妻鏡」(8)吉川弘文館 犬養孝「万葉の旅」(中)社会思想社

海野弘「百人一首百彩」右文書院 別冊太陽「百人一首」平凡社 「新古今和歌集」小学館
五味文彦「藤原定家」山川出版社 「古典を歩く(1)奥の細道」毎日新聞社

 



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湯浅は平安時代末期から鎌倉時代にかけて紀伊国各地に
勢威を振るった湯浅党の本拠地です。

熊野古道の要衝であった湯浅には、熊野御幸の際の上皇の宿泊所と伝えられる
深専寺
(西山浄土宗・本尊阿弥陀如来)があります。
承安の頃(1171~74年)には、湯浅宗重が
後白河上皇の
熊野御幸の際の宿営地の送迎及び接待役を務めています。

市街地のほぼ中央に広大な寺地を占める深専寺(じんせんじ)
屋根につけられている1m80cmもの大きなしゃちほこが目を引きます。

玉光山深専寺本堂

寺伝によると、行基が海雲院を開いたのが始まりで、
寛政3年(1462)赤松則村の曾孫明秀が再興し深専寺と改めました。

以後、火災による焼失と再建を繰り返し、承応年間(1652~55)の
大火で伽藍を全て焼失しましたが、寛文3年(1663)、
徳川頼宣の寄進により、本堂・諸堂宇が再建され、その後、
庫裏・書院・玄関が造営されると、書院は聖護院御殿といわれ、
聖護院・醍醐寺三宝院の門跡が熊野に入る際の宿所に充てられました。

室町時代には一般庶民の熊野詣が活発に行われ、熊野古道は
大勢の庶民であふれ、蟻の熊野詣といわれるほどでした。
このブームに先鞭をつけたといわれるのが、平安後期から
鎌倉時代にかけて盛んに行われた上皇や女院の熊野詣、
すなわち熊野御幸(くまのごこう)です。
後鳥羽上皇は院政を開始した年から
承久の乱までの24年の間に28度も熊野御幸を行っています。
一説には、一度の熊野御幸に2500人もが同行したとも
いわれるほど大規模なもので、
こうした参詣は上皇の権力を見せつける場でもありました。

上皇に討幕の挙兵を勧めたのは熊野三山検校の長厳だったといわれ、
承久の乱において熊野は鎌倉幕府方と後鳥羽方に分裂し、
新宮別当家には幕府方や中立派が多く、熊野の有力者や
田辺別当家は後鳥羽方として挙兵しています。
実力者が積極的に乱に加わった結果、
乱後、熊野は壊滅的打撃を受け別当家は衰退していきます。
承久の乱の際、幕府方に参戦したのは東国の武将、
上皇方に参戦したのは、西国の武将が多かったといわれています。

湯浅氏は鎌倉幕府に仕えていましたが、
主な仕事は京都と朝廷の警備にあたる御家人でした。
これを在京御家人といい、院の命令によって動いていたため、
朝廷の影響を強く受けるようになっていましたが、
この乱では幕府方についています。

建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇の4度目の熊野御幸に供奉した
藤原定家は選りすぐりの近臣に加えられたことを光栄に感じて、
『後鳥羽院熊野御幸記』にその様子を描いています。
鎌倉では2年前に頼朝が亡くなり、その嫡男頼家が後継者と
定まっていましたが、すぐに混乱が始まり、
鎌倉幕府の政情が不安な時のことです。
定家は新古今集選者の一人で、この旅行記には難路の寒風や
疲労と闘いながら、御幸に従う有様がつぶさに記録され、
熊野御幸の貴重な史料となっています。
同年同月1日、後鳥羽上皇一行は浄衣と折れ烏帽子姿で鳥羽の精進屋
(罪と穢れを滅ぼし、身を浄める場所)に入って精進し、
5日鳥羽から船に乗っていよいよ熊野に向かって出発します。
時に上皇は22歳でした。
鳥羽の地は後鳥羽上皇が承久の乱の際、鳥羽離宮の馬場殿である
城南寺(城南宮)の流鏑馬の武者揃えと称して、
兵を集め討幕に踏み切ったことでも知られています。


中世の上皇や貴族の参詣で先達を務めたのは、殆どが園城寺・聖護院の
山伏で、王子社奉幣などの儀式がある往路は原則徒歩ですが、
復路は馬などを利用することも多くありました。
上皇のこの日の装束は白頭巾・袈裟・草鞋、手には杖という
純白の山伏姿、先達は園城寺長吏覚実、時の権力者の
久我家一門や藤原定家らが随行しました。
定家は一行に先んじて、船を調達し、昼食所や宿所を
準備するなどの実務担当役です。途中、石清水八幡宮に参詣した後、
旧淀川の天満辺で上陸し、最初の王子・窪津王子で、経供養のあと
里神楽などの儀式を行い、四天王寺では、極楽浄土の東門に続くという
西門や金堂の仏舎利を拝観し、
和歌被講(和歌に独特の節を付けて詠み上げること)や
相撲を奉納し、その日は天王寺で宿泊しました。
平安時代、浄土信仰の隆盛の中で四天王寺は
「極楽浄土の東門」とみなされ、その西門から極楽浄土へ渡れるという
信仰が起こり、皇族・貴族の参詣が盛んに行われました。

翌朝は当時、和歌の神・音楽の神として信仰されていた住吉社に詣で
経供養や里神楽・相撲の奉納、和歌被講をした後、
若い上皇は参詣の途次に点在する王子から王子へと
旅を重ねながら熊野を目ざしましたが、この年40歳になる定家は
時には騎馬で、ある時は徒歩で御幸奉幣の準備をしながら
先行し、辛い旅を続けていくことになります。
やがて
湯浅の宿に着き、9日の宿をここでとることになります。
従者が探した民宿に定家が入ったところ、
憚りのある家(父の喪70日)だったので、臨時の
水垢離(みずごり)・潮垢離をとり、けがれを取り除いて
上皇の宿舎から3~400m離れた所にある小さな家に宿泊しました。
今回の御幸は新暦でいえば11月頃の事ですが、
一行の人々はかなり薄着です。
その上、熊野御幸は水垢離や潮垢離の連続で、
定家は寒さで体調を崩し、『熊野御幸記』には、
持病の咳や旅の苦しみを訴えた言葉が多く綴られています。

夜には雨が降り出しましたが、歌会があるというので、
立烏帽子を着けて御宿所に参上し、
歌会の講師役を定家は上皇のお傍近くで務めました。
翌日は雨もあがり、王子への参拝を繰り返しながら、
一行は熊野本宮大社を目指したのでした。

後鳥羽上皇が熊野参詣の際に催した歌会の歌は熊野懐紙として
一部が残り、上皇や著名な公卿の筆跡があり珍重されています。

道町(どうまち)にたつ立石は、紀三井寺・高野・熊野への参詣道を示し、
北面に「すぐ(まっすぐ)熊野道」、東面には「きみゐでら」、
南面に「いせこうや道」と刻まれ、
高さが2、38mもあり、熊野古道の中で一番大きな道標です。
この碑を左に曲がった所に深専寺があります。




深専寺山門左側にある「大地震津波心得之記碑」は、
本堂とともに和歌山県指定文化財になっています。

安政元年(1854)の大地震の2年後、深専寺住職善徴がこの碑を建て、
石碑には、大地震津波の概要と万一の時の心得、
具体的な避難経路などについて刻まれています。

深専寺を出て、古い町並みが残る小路を湯浅駅に向かいます。



熊野御幸(熊野速玉大社) 
『アクセス』
「深専寺」和歌山県有田郡湯浅町湯浅道町南 JR紀勢本線「湯浅駅」から徒歩約10分
『参考資料』

五来重「熊野詣」講談社学術文庫 「後鳥羽院のすべて」新人物往来社 
五味文彦「新古今和歌集はなにを語るか後鳥羽上皇」角川選書 
高野澄「熊野三山・七つの謎」祥伝社 「和歌山県の地名」平凡社 
「県史・和歌山県の歴史」「和歌山県の歴史散歩」山川出版社
 「四天王寺」小学館 目崎徳衛「史伝後鳥羽院」吉川弘文館 
「聖地伊勢・熊野の謎」宝島社 山田昭全「文覚」吉川弘文館

 

 



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天養元年(1144)に湯浅宗重が一族の守護神として創建した顕国神社は、
江戸時代には、湯浅・別所・青木・山田の四ヵ村の
産土神として人々の信仰を集めました。
祭神は、大己貴命(オホナムチノミコト)・須佐男命(スサノオノミコト)、
櫛名田姫命(クシナダヒメノミコト)・建御名方命(タケミナカタノカミノミコト)、
沼川姫命(ヌナカワヒメノミコトです。


延暦20年(801)、坂上田村麻呂が紀伊國有田郡霧崎菖蒲の里(湯浅町田)に
大国主大明神と称して祀り、
湯浅宗重がそれを現在地に勧請したのが
顕国(けんこく)神社の始まりと伝えています。

もと
国主(くにし)神社といいましたが、
紀州徳川家初代藩主頼宣が顕国大明神の社号を贈り、
藩儒学者の李梅渓に鳥居の扁額を書かせました。
頼宣が江戸往来の度に参拝するなど篤く崇敬したのが先例となり、
歴代藩主も篤い信仰を寄せています。
社域・社殿ともに広大であることから一般に「大宮さん」と呼ばれ、
10月18日に行われる例大祭は、昔、田中九郎助が馬を
社前に集めて流鏑馬をしたのが始まりといわれています。


大鳥居傍の手水鉢は、長さ1間(約1.818m)あり、
「在関東上総国 御宿浦 天王台 六軒町
 岩和田 岩船浦」と彫られています。
寛延元年(1748)9月、関東在住の湯浅村出身の漁民たちが氏神の
加護を祈願して奉納したものと思われます。(湯浅町指定文化財)


江戸時代になると、大型の鰯網が開発され、湯浅浦から
多くの漁民が関東や瀬戸内・九州などの漁場に進出しました。
栖原(すはら)角兵衛のように江戸の繁栄を見越して
房総に漁場を開き、のち北海道の漁場を開発して
成功する
者も現れました。

大門

拝殿

広々とした社域、拝殿背後の本殿は木々にうもれています。

大門と絵馬堂

 熊野古道の宿場町として栄えた湯浅は、醤油の醸造発祥の地です。
鎌倉時代に紀州由良の法燈国師( ほうとうこくし )が宋で禅を
学ぶかたわら、金山寺味噌の醸造方法を習って帰国しました。
まもなく湯浅にもその製法が広まり、
味噌造りをするうちに味噌桶に溜まる赤褐色の汁に
工夫をしてできたのが醤油といわれています。

江戸時代には徳川御三家紀州藩の手厚い保護を受けて
販路を拡大し、最盛時には醸造業者数100軒に達しました。
またこの時代には、漁場を開拓するために
多くの湯浅漁民が房総半島に移住し、醤油の醸造方法を伝え、
日本各地にその方法が広まりました。
しかし明治以後は徐々に斜陽化し、
今では町内に数件の醸造元があるだけですが、
工場で大量生産される醤油でなく、吉野杉樽で1年かけて
じっくり仕込む伝統的な製造方法が受け継がれています。


国道42号線沿いには、天保12年(1841)創業の醤油醸造の老舗
角長(かどちょう)国道店があります。 (有田郡湯浅町別所147)
『アクセス』
「顕国神社」 和歌山県有田郡湯浅町大字湯浅1914
JR湯浅駅から徒歩約20分
『参考資料』

「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 
県史「和歌山県の歴史」山川出版社

 

 



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