平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




京都市下京区東中筋七条上ルに「文覚町」があります。
町名の由来は、高雄の文覚上人が神護寺再興のための寄付を後白河法皇に強訴し、
捕われ百日間入れられた牢屋がこの地にあったと伝えています。
さらに近隣の「高雄町」、「紅葉町」などもこれに由来する町名です。

また、この辺りは平安時代中期、宇多上皇の御所、亭子(ていじ)院があった所です。
(現植松町・紅葉町・高雄町・文覚町の全域と鍛冶屋町・福本町・
玉本町・米屋町のそれぞれ半分にあたる。)
上皇は文人や歌人をこの御所に集め、度々詩会や歌合せを催しています。
上皇の死後、亭子院は寺院となりました。

文覚の俗名は遠藤盛遠。上西門院(後白河院の姉)に仕える武士でしたが、
19歳で出家し厳しい修行を積み都に戻ってきました。
神護寺は京都の北西、紅葉の名所高雄にある寺院です。
平安時代に創建され、空海がここを本拠に真言密教の興隆に努めましたが、
その後は荒廃していました。空海を崇拝する文覚は神護寺再興を決意し、
寄付を募るため後白河院の御所、法住寺殿を訪ねましたが、あいにく御所では、
管弦の宴の真っ最中。文覚は制止を振り切って中庭に入り込み、
大音声をあげて勧進帳を読み上げ、取り押さえられ獄に入れられました。
町名の由来とは食い違いますが、『源平盛衰記』には、
この時、文覚は右の獄に入れられたと書かれています。
右獄は都に置かれた二つの獄舎のうちの一つで、現在の西円町にありました。

その後、文覚は赦免され、暫くは引きこもっていましたが、再び多少強引な勧進をしながら、
後白河院の悪口を触れ回り、そのため院の怒りを買って伊豆に流罪となりました。
そこには平治の乱で敗れ、流人の身となった頼朝がいました。
文覚は頼朝の許を足しげく訪ね、平家打倒を勧め頼朝挙兵に重要な役割を
果たした
人物として『平家物語』は、この辺のことを虚実とりまぜて詳しく描いています。

七条西洞院から西洞院通を北へ進み、一筋目の北小路通を西に入ります。

駐車場隣の民家に高雄町の仁丹町名表示板が架かっています。(北小路通り北側)

北小路通を西へ行くと、堀川通に面して西本願寺があります
近世には、辺は西本願寺の寺内町となり、
寺内九町組のうち学林町に所属していました。

北小路通と東中筋通との交差点、
民家に架かる
ライオンズクラブによる文覚町の町名表示板。

「文覚町」は南北を通る東中筋通を挟む両側町で、
町の北側を北小路通が東西に通っています。


北小路通と東中筋通との交差点を七条通に向かうと
文覚町の名があちこちに見えます。




中筋通りを西に入った民家の二階に見える仁丹町名表示板。

北小路通と中筋通との交差点を北に進むと紅葉町の名が見えます。

「紅葉町」は、東中筋通を挟む両側町で、町の北側は正面通りに面しています。

東中筋通は秀吉の京都改造によって誕生した道路で、
天使突抜通りともよばれています。




紅葉町の北端、正面通に面して植松公園があります。
『アクセス』
「文覚町」JR京都駅より徒歩約13分
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 「京都市の地名由来辞典」東京堂出版 「奈良・京都地名事典」新人物往来社 
角田文衛「平安京散策」京都新聞社、1991年 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫、平成18年 
「新定源平盛衰記」(第2巻)新人物往来社、1993年

 

 







 

 



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JR京都駅八条口中央案内所には、平成2年6月に架けられた銘板があります。
銘板には、「京都駅 昔 むかし 八條院および八條第」と題され、
京都駅敷地の由緒を「財団法人古代学協会古代学研究所」によって
起草された説明文が刻まれています。
八条院とは、
鳥羽天皇の皇女八条院暲子内親王の女院号とともにその御所の名です。
また、八條第とよばれる平頼盛の邸宅が八條院の西、室町小路と
町尻小路の間、ほぼ現在の新町通
にありました。
頼盛は清盛の異母弟で、母は池禅尼です。清盛との間には、
早くから忠盛の後継をめぐる対抗関係があり、さらに平治の乱後、
母が頼朝の命を救ったため、平家一門の中で微妙な立場に立たされました。





銘板は案内所内部の壁に架かっています。(10時から16時)

京都駅の敷地の東半分は、八条院暲子内親王の御所跡です。
(北は梅小路、南は八條大路、東は東洞院大路、西は烏丸小路、121メートル四方)

八条院の母は、美福門院(皇后・藤原得子)、近衛天皇は同母弟、
崇徳・後白河両天皇は異母兄にあたります。
二条天皇(後白河天皇の皇子)の准母として院号が下され八条院と称しました。
もともと八条院御所は、美福門院の祖父藤原顕季(あきすえ)の邸宅で、
女院は母からこの御所を相続しました。顕季は白河天皇の乳母子で、
洛中にいくつも邸宅を所有し、並ぶ者がないほどの権勢家でした。

鳥羽院に溺愛された八条院は、近衛天皇の没後、女帝に推されましたが実現せず、
後白河天皇が第一皇子二条天皇の
中継として即位しました。
八条院には、藤原定家の姉の健寿や歌人の八条院高倉(信西の孫)などが仕え、
源頼政は大内守護を務めながら、八条院のもとに出仕していました。
以仁王の令旨を東国に伝えた源行家は、八条院の蔵人に任じられ使者となっています。

八条院の女房中の筆頭である三位局は、以仁王との間に誕生した
姫宮と若宮(後の安井門跡道尊)とともに八条院で暮らしていました。
女院はその子たちを養子に迎え、以仁王を猶子としました。
この時代、養子は家の継承を託する実子と同じ扱いで、一方、猶子には相続権はなく、
その人一代に限って家族の待遇を与えます。

以仁王は八条院の後ろ盾を得て、平家に叛旗を翻したと考えられますが、
女院が深く追求されることはありませんでした。それは女院が両親から
譲り受けた莫大な荘園を所有しており、その経済力は政治力ともなり、
清盛も一目おくほどの大きな権力を持っていたからです。
以仁王の乱が失敗し、若宮は仁和寺の守覚法親王に預けられ、出家させられましたが、
姫宮は八条院の後継者として大切に育てられました。一旦、八条院領の
大部分はこの姫宮に譲与されましたが、彼女は八条院に先立って亡くなり、
女院没後、その所領は皇族を中心に相伝され、
後鳥羽天皇の皇女春華門院が遺領の大部分を相続しました。
後にこの御所の跡地は後宇多上皇が伝領し、
正和2年(1313)上皇から東寺に寄進されました。

かつて以仁王の子を生んだ三位局は、八条院御所に出入りしていた
摂関家の九条兼実との間に左大臣藤原良輔(よしすけ)をもうけています。
八条院の西隣には、母の三位局から藤原良輔が譲り受けた室町第、その西には
平頼盛の八条第があり、八条院と関係の深い貴族の邸宅が並んでいました。

八条院御所には、女院の姪の式子内親王が身を寄せていたこともありましたが、
女院と以仁王の姫宮を呪詛した疑いをかけられ、御所から退き出家しました。
新古今時代の代表的女流歌人として知られる式子内親王は、後白河天皇の皇女で、
11歳から21歳までの10年間を賀茂斎院として過ごし、病により斎院を退いた後、
藤原俊成に歌を学んだ女性で、以仁王と仁和寺の守覚法親王の同母の姉にあたります。
源義仲に法住寺殿を焼かれた時、後白河法皇もこの御所に同居しています。


平頼盛の妻は八条院の乳姉妹であり、俊寛僧都の姉妹でした。
頼盛は戦死した以仁王の若宮を連行する役目を担い、一門の中での役割を果たしました。
しかし、平家都落ちの際には、一門を見限り都に留まる道を選び、
女院の御所、仁和寺近くの常盤殿に保護されています。
このように八条院は面倒見がよく、縁者や近親者の世話をしたことでも知られます。
『参考資料』
角田文衛「平安京散策」京都新聞社、1991年 「京都市の地名」平凡社 

五味文彦「藤原定家の時代」岩波新書、1991
 永井晋「源頼政と木曽義仲」中央公論新社、2015
 梅原猛「法然の哀しみ」(下)小学館、2004



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白河天皇はわずか8歳の堀河天皇に譲位し、幼帝を後見するために
上皇となって院政を開始しました。藤原氏をおさえて摂政関白の権限を奪い、
武士出身の近臣を登用し、北面の武士を置くなどして専制的な政治を行います。
堀河天皇崩御後は、孫の鳥羽天皇、さらにその子の崇徳天皇と
三代にわたって政務にあたり、43年間も院政を行いました。

鴨川東岸の白河には、六勝寺の西に白河南殿、次いで南殿の真北に白河北殿が造営され、
院政期の政治の中心となりました。ちなみに白河上皇のおくり名はこれによるものです。
白河には、逢坂関を越え東国へ向かう関路(かんろ)とよばれる要路が通り、
人も物資もここを通過して盛んに動いていました。
政治的また軍事的・経済的にも、重要な意味をもつ地域でした。


疎水端の遊歩道にたつ「得長寿院跡」を示す石碑。

◆得長寿院 (岡崎徳成町)

得長寿院は鳥羽上皇の御願寺として、長承元年(1132)に完成し落慶供養が行われました。
規模は南北2町(約250m)、東西は1町とみられ、今に残る東山七条の
蓮華王院(三十三間堂)とほとんど変わらない規模と景観をもっていました。

現在の川端警察署付近にあったと推定されていますが、有力な遺構は検出されていません。
平忠盛(清盛の父)が建物を造営し、その内部には六丈の観音像を中央に、
その左右に等身大の聖観音像各五百体が安置されていました。忠盛はその功績により
殿上人となり、平家一門栄達の魁となったことは『平家物語』でよく知られています。
得長寿院は元歴2年(1185)7月の大地震で倒壊し、以後は再建されないまま
廃寺となりました。
鴨長明は『方丈記』に、都を襲ったこの地震を天変地異の一つとして
「寺の堂も塔も崩れ、あるいは倒れたりして被害を受けなかった所はない。」と記しています。
むろん法勝寺をはじめとする六勝寺も崩壊しました。
長寛2年(1165)に清盛は、得長寿院をモデルにして法住寺殿(後白河御所)の西に
蓮華王院を建立し、後白河上皇に寄進しているので、京都には約20年間に渡り、
二つの三十三間堂が並存していたことになります。

熊野橋西詰にたつ「白河南殿跡」の石碑と説明板。
◆白河南殿(聖護院蓮華蔵院町・石原町・吉水町・秋築町)

白河南殿は嘉保2年(1095)頃、大僧正覚円の僧坊を白河上皇の御所に
改められたもので、白河御所・南殿・南本御所とも呼ばれました。
広大な苑池をはさんで東部に御所、その中に阿弥陀堂がありました。
次いで平正盛(清盛の祖父)は、池の西部に蓮華蔵院を建立し、
九体の丈六阿弥陀仏を安置しています。その後も池の東北部に新しい九体阿弥陀堂や
三重塔が建立され、水石風雅な御所であったことから白河泉殿とも呼ばれました。
鎌倉時代に度々災禍にあい、南北朝時代には衰亡したとされています。

推定場所は得長寿院の西、二条大路北の二町四方(約250m四方)の規模と考えられ、
夷川ダムの発掘調査で阿弥陀堂跡と見られる遺構や
疎水の南では、建物跡が見つかっています。
また昭和50年、水道管布設工事中に熊野橋西詰において築地状の遺構が検出され、
これより西側が白河南殿であることが、ほぼ明らかとなりました。


疎水に架かる熊野橋西詰

ファルコバイオシステムズの前には、白河南殿の雨落溝に
使用されていた石が展示されています。

ファルコバイオシステムズ(左京区川端六筋東夷川上ル秋築町240)は、
「白河南殿跡石碑」の西にあります。

昭和55年8月本建物を建設する際に発掘調査を実施し、南殿の主要伽藍の一部と
考えられる建物跡を初めて検出しました。ここにある石材は建物の雨落溝に
使用されていた石材の一部を移築したもので、自然の河原石を巧みに使用しており
当時の建築技術を知る上からも大変貴重な資料であります。
昭和56年11月 京都市  ファルコバイオシステムズ(現地説明板)

「白河北殿跡」の石碑が京都大学熊野寮敷地の北西角の茂みの中にあります。
◆白河北殿(熊野神社より西、鴨川畔の川端通に至る丸太町通を挟んだ南北一帯)
白河北殿は元永元年(1118)に白河南殿の北側に白河上皇によって
造営された院御所で、その規模は二町四方と推定されています。
天養元年(1144)に焼失しましたがすぐに再興され、この再興に功があった
平忠盛は正四位下に叙せられました。白河上皇崩御後は鳥羽上皇によって
維持され、その後は上西門院統子(崇徳天皇の同母妹)の御所となりました。
保元の乱の際、崇徳院が鳥羽の田中殿からこの御所へ移り立てこもったため、
後白河天皇方の平清盛・源義朝らに攻められ全焼しました。
この軍功により清盛は播磨守に補任されています。

石碑には「此附近 白河北殿址」と刻まれています。

石碑の西面には「昭和十四年三月建之 京都市教育会」と刻まれています。
『参考資料』
(財)京都市埋蔵文化財研究所梶川敏夫「白河・六勝寺」京都市考古資料館講座の資料
2012225日)
 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂  井上満朗「平安京再現」河出書房新書
 「京都市の地名」平凡社 美川圭「院政 もうひとつの天皇制」中公新書 簗瀬一雄訳注「方丈記」角川ソフィア文庫





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六勝寺は京都会館を中心に東西1、2キロ、南北1キロ以上もある広大な地に造営され、
付近一帯は平安時代の最後をしめくくる院政期を象徴する場所でした。
これらの多くの建物は、受領たちの経済的奉仕によって造営され、
その見返りとして位階授与などの恩賞や同じ任国の国司の重任など、
成功(じょうごう)とよばれるさまざまな利点がありました。隆盛を誇った六勝寺も
鎌倉時代には衰退し、15C後半の応仁の乱で廃絶してしまいました。
今その当時の姿を地上に見ることができるものとしては、
法勝寺金堂基壇の石垣のみとなっています。
今回は、尊勝寺、最勝寺、成勝寺、延勝寺をご紹介します。


◆尊勝寺(岡崎最勝寺町・西天王町)
推定2町(約240m)四方の広大な境内に南大門・金堂・講堂・塔・阿弥陀堂・
薬師堂・五大堂・観音堂などの多くの堂宇があったことが確認されています。
建物跡3棟、溝跡、井戸跡などが検出され、最も発掘調査が進んでいます。
武道センター本館の建設工事の際の発掘調査で発見された
平安時代末期の井戸の枠組みが、同センターに復元保存されています。
上半分が石で、下半分が木で作られており、石組は上にいくほど広い
ラッパ状になっていて、石組井戸の初期の特徴を良くあらわしています。
 この付近も六勝寺の跡地と推定され、井戸は尊勝寺で使われていたものと思われます。

丸太町通りから桜馬場通へ

桜馬場通沿いの武道センターの門をくぐると、
左手に発掘された井戸の実物を集め、半分に裁断した状態で復元されています。

武道センター近くの西天王町団地の入口には、尊勝寺跡の説明板がたっています。
昭和61年、当団地の改修工事に伴って発掘調査が行われ、
尊勝寺の御堂跡が見つかりました。

西天王町団地の桜馬場通をはさんで東側(画像右)が武道センターです。

京都会館(ロームシアター京都)には、尊勝寺跡の石碑がありますが、
現在、改修工事中のため、フェンスが張られ立入禁止となっています。(2015年9月)

2016年4月、再度訪ねるとフエンスは外され工事は完了していました。



尊勝寺跡の石碑の側面には、「昭和四十五年三月 京都市」と刻まれています。

◆最勝寺(岡崎最勝寺町) 
最勝寺は尊勝寺の東側、二条大路の北側にありました。文献からは、
南大門・金堂・薬師堂・五大堂などの堂宇があり、
方1町(約120m四方)規模の寺院であったと考えられます。
発掘調査では、築地跡や建物の雨落溝跡などが見つかっていますが、
主要な伽藍については、全くみつかっていません。



岡崎公園の一角に説明板と寺域南限の築地跡があります。

「ここにある石は、岡崎グランド駐車場建設に先立って、平成三年九月から行われた
推定最勝寺跡の発掘調査で検出された二条大路北側の東西築地塀基礎部分に
使用されていた石材で、検出した築地位置の延長に合わせて置いてある。」
(現地説明板)
◆成勝寺(岡崎成勝寺町)
方1町または東西2町と推定される境内には、
南大門・金堂・経蔵・鐘楼・五大堂などの堂宇が建立されました。
この寺は保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐(香川県)に配流されて、
怨霊となったという崇徳天皇の御願寺という特異な性格があります。
後白河院は崇徳院の怨霊を慰撫するため、治承元年(1177)8月、当寺で4日間
法華八講の法要を行いました。また政権を掌握する過程にあった頼朝は、
元歴2年(1185)7月に都を襲った凄まじい大地震を崇徳院の怨霊によるものと考え、
後白河院にたいして、怨霊を崇めるべきであると伝え、翌年には諸国にあてて
地震で倒れた成勝寺の堂宇の修造をすみやかに行うよう命じています。さらに
鎌倉時代にも崇徳院の怨霊を慰撫する御八講が続けられたことが史料に見えます。
みやこメッセの建設に先立って発掘調査が行われましたが、既存の勧業館基礎の
攪乱などにより、溝跡や井戸跡など以外に有力な遺構は検出されていません。

成勝寺跡の石碑は、みやこメッセの東側、小さな公園内にたっています。

◆延勝寺(岡崎円勝寺町・成勝寺町)
六勝寺の中で、一番最後に建てられたこの寺は、東西2町、南北1町と推定されています。
堂宇は南大門・金堂・塔・一宇金輪堂・廻廊などからなり、後に平忠盛により
「近衛殿寝殿」を移築して阿弥陀堂が造営され、丈六の阿弥陀仏が九体安置されました。
丈六とは、立像の高さが約五メートルある仏像で、座像では、その半分の高さの仏像です。
これまでの発掘調査で疎水の西側から、
建物基壇基礎地業跡や庭石、井戸跡などが検出されています。

延勝寺跡の石碑と疎水に架かる二条橋

二条橋南にも延勝寺跡の石碑と説明板がたっています。

『参考資料』
財)京都市埋蔵文化財研究所梶川敏夫「白河・六勝寺」京都市考古資料館講座の資料
2012225日)
「京都市の地名」平凡社
 山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川弘文館 
現代語訳「吾妻鏡」(2)(3)吉川弘文館



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京都会館前の案内板

平安時代の終わりごろ、鴨川の東一帯に造営されたのが、六勝寺と白河殿です。
「勝」の字がつく六つの天皇家御願寺が白河・鳥羽両上皇の時代に
相次いで造営され、鳥羽離宮とともに院政期を代表する地域となっていました。
さらに六勝寺の周辺には、院御所(白河南殿・白河北殿)や得長寿院など
多数の寺院が造営され、一帯は急速に発展しました。
六勝寺の発掘調査は、昭和34年(1959)の京都会館建設工事にともなう発掘から始まり、
これまで数多くの発掘調査が実施され、おおよその推定場所が明らかとなりました。
しかし、まだ白河街区全体の区画や正確な寺域など
明らかになっていないことも多くあり、今後のさらなる調査が待たれます。

「六勝寺こみち」の石碑から順にご紹介します。

京都近代化のシンボルである琵琶湖疎水、
広道橋の畔にたつ「六勝寺のこみち」の石碑。


京都市動物園、京都市美術館の南を流れる疎水。

◆円勝寺跡
円勝寺(左京区岡崎円勝寺町)は、法勝寺、最勝寺、尊勝寺、成勝寺、
延勝寺とともに六勝寺と総称された寺院のひとつです。
鳥羽天皇中宮待賢門院の御願寺で、大治3年(1128)に落慶供養が行われました。
現在の京都市美術館から図書館付近の敷地(推定南北1町、東西2町)が、
ほぼその位置にあたると推定されています。

美術館を入って左手、写真正面の石段を上った右側に
「円勝寺発掘調査記念碑」があります。





「岡崎公園 動物園前」バス停のすぐ東側に円勝寺跡の碑があります。

◆法勝寺跡
白河(現在の岡崎)の地には、藤原氏北家代々の別邸があり、
白河院とよばれていました。
左大臣藤原師実によって白河天皇に寄進されたこの土地に
白河天皇御願寺として創建されたのが法勝寺です。六勝寺筆頭寺院として
承保4年(1077)、大部分の伽藍が完成し落慶供養が営まれました。
法勝寺の規模は、東西2町(約240m)南北4町(約480)と
推測されますが、まだ確定していません。
八角九重塔は自然災害により何度も被害を受け、その都度
修復されましたが、南北朝時代の火災で寺の南半分が焼失し、
それ以後、衰退し、応仁の乱以後廃絶したと考えられています。

私学共済事業団の旅館「白河院」前にたつ「白河院址」の石碑。



伽藍配置は東大寺大仏を彷彿とさせる本尊毘盧遮那仏を安置した金堂・
講堂・薬師堂などの主要な堂塔が一直線に並ぶ四天王寺式で、
中でも池の中島には、高さ81mにおよぶ八角九重塔が聳え、
東国から粟田口を通って都に入ってきた人々の目をひく偉容でした。
ちなみに東寺の五重塔の高さは約55mです。

太平洋戦争後までは、京都市動物園の中には「塔の壇」とよばれる塔の基壇が
残っていましたが、アメリカ進駐軍にブルドーザーで破壊されてしまいました。
基壇に使用されていた花崗岩の細長い切石は、園内の池の石橋に転用されています。
京都市動物園は法勝寺伽藍の南半分にあたるとされ、
動物園北の二条通北側には、高さ約2メートル(東西約68m南北約27m)の
石垣の高台が続いています。この高台が法勝寺金堂の基壇跡です。

噴水池の畔に八角九重塔の説明板、その近くに隠れるようにして
「法勝寺九重塔址」の石碑がたっています。
この九重塔は、現在の観覧車の位置にありました。




石橋に用いられている長さ3、8mの布石。


二条通り北側に残る金堂の基壇跡。

白河は桜の名所として知られ、平通盛(清盛の甥)が上西門院(後白河の姉)に
仕える小宰相を見初めたのは、法勝寺の花見でした。
またこの大寺の執行(事務長官)が鹿ケ谷山荘事件に加わった
後白河法皇の側近の俊寛僧都です。

平安京創生館には法勝寺復元模型が展示されています。

法勝寺伽藍配置図(福山敏男博士原図)は、
「中世の開幕」より引用させていただきました。

現在、平安京創生館に移設されている法勝寺復元模型は、
2009年秋まで岡崎勧業館に展示してありました。(2008年2月20日撮影)
六勝寺と白河殿2  
六勝寺と白河殿3
  『参考資料』

(財)京都市埋蔵文化財研究所梶川敏夫「白河・六勝寺」京都市考古資料館講座の資料
(2012年2月25日)

林屋辰三郎「中世の開幕」講談社現代新書 「古代の都3・恒久の都平安京」吉川弘文館



 

 

 



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