平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



頼朝の乳母は、4人まで明らかとなっています。
摩々尼(ままのあま)、寒川尼(さむかわのあま)、比企尼(ひきのあま)
そして山内尼(やまうちのあま)です。
摩々尼は頼朝の父義朝の乳母摩々局の娘と推定されています。(『乳母の力』)
いずれも東国にゆかりの深い女性です。

三善(みよし)康信のおばも乳母であったと思われます。その縁故から
康信は、朝廷の下級官人でしたが、 早くから伊豆の流人頼朝に連絡を取り、
月に三度も京都の情勢を送り続けました。
三善氏は都の
下級貴族出身ですから、乳母の中では唯一貴族の娘ということになります。
しかしこの乳母についてこれ以上伝える史料がなく、
あるいは4人の乳母の誰かと同一人物だとも考えられています。

義朝は京都の地で、朝廷に仕えるために必要な貴族的教養を頼朝に
身につけさせようとする一方、武家の棟梁として東国を支配していくために
必要な教養を東国武士出身の女性から学ばせようとしたと思われます。

母親の代わりに貴人の子を養育する女性を乳母といい、
武家の場合、譜代の郎等の同一の家系から出される場合が多く、
女性だけではなく夫婦で養育にあたる例が多く見られます。
乳母の夫は乳父(めのと)、乳母の子は乳母子(めのとご)、
乳兄弟(ちきょうだい)などと呼ばれ、強い絆で結ばれる事が多く、
主従関係としても互いに信頼し合える相手でした。

山内氏は相模国鎌倉郡山内荘を領したとされ、祖先の藤原資清(すけきよ)が
主馬首(しゅめのかみ)であったことから首藤氏と称しました。
山内は現在の鎌倉市と横浜市に跨る広い荘園で、ここに移った首藤家の者が
山内首藤(すどう)と名のるようになったとされています。

山内尼の夫、山内首藤俊通(としみち)は、相模国の武士で源氏譜代の家人として
義朝に仕え、平治の乱では義朝に従い、子の滝口俊綱とともに討死しています。


治承4年(1180)8月、頼朝は源氏累代の御家人に呼びかけて挙兵しましたが、
山内尼の子の経俊(つねとし)は、頼朝と乳兄弟の関係にあるにも関わらず
これに応じなかったばかりか、挙兵への参加を促す
頼朝の密使安達盛長に暴言を吐きました。

その頼朝の軍勢を大庭(おおば)景親が大将となって石橋山で迎え撃った時、
こともあろうに経俊は景親(かげちか)に従い、頼朝に矢を射かけ、その矢が
頼朝の鎧の袖に刺さるという大失態を起こしてしまいました。

なお、経俊は平治の乱には、病気のため参加していません。
経俊の弟の刑部坊(ぎょうぶぼう)俊秀は父亡き後、三井寺(園城寺)の
乗円坊の阿闍梨慶秀(きょうしゅう)に引き取られました。

頼朝挙兵に先立って平家打倒の兵を挙げた高倉宮以仁王ですが、
早々に平家方に知られ三井寺に逃れました。しかし、以仁王が身をよせた
三井寺は必ずしも一枚岩でなく、また頼みとした比叡山延暦寺は
清盛の賄賂工作によって動かず、以仁王と源頼政は、
南都勢力を最後の頼みとして奈良に向かいます。
その時、慶秀は以仁王の御前に参って「俊秀の父山内首藤刑部俊通が
平治の乱で討死したため、幼い俊秀(しゅんしゅう)を引きとり、
懐に抱くようにして育てた」と涙ながらに申しあげ、俊秀を御供につけ、
自らは80歳という年齢を考えて三井寺に残るのでした。
俊秀は南都を目ざす途中で討死しています。

石橋山で惨敗した頼朝は、真鶴岬から安房に脱出し再起をはかると、
治承4年(1180)10月7日、鎌倉に入り、同月23日に論功行賞を行いました。
山内首藤経俊(1137~1225)は、山内庄を取り上げられて頼朝の信頼厚い
土肥実平(遠平の父)に預けられ、断罪に処せられることになりました。
山内尼はこれを聞き、同年11月26日、
息子の命を救うため、頼朝に泣きついてきました。

「山内資通(すけみち)入道が八幡殿(源義家)に仕えて以来、代々源家に
尽してきました。特に夫の山内俊通は平治の乱で屍を六条河原にさらしました。
石橋山合戦で経俊は平家に味方し、その罪は逃れがたいのですが、
これは一旦平家の後聞をはばかるためです。」と経俊の助命を嘆願すると、
頼朝は黙って矢の刺さった鎧を取り出し、尼の前におきました。
その矢には「滝口三郎藤原経俊」と記されていることを読み聞かせると、
尼は涙ながらに退室しました。しかし、尼の悲歎に免じ、
また先祖の功績を考え、経俊を助命することにしました。

山内俊通の戦死の地は、『平治物語』では三条河原、
『山内首藤氏系図』には、四条河原と記され、
死去した場所が尼の発言と少し異なりますが、田端泰子氏は
「死骸が六条河原で晒されたということかも知れない。」と説明されています。

山内氏は平安後期に資清の娘が八幡太郎義家の妻の一人となって以来、
源氏との関係を密にしてきました。
資通は11、2歳で後三年合戦に参陣し、
義家の養子となった為義(義親の子)の乳父にもなっています。

系図に見える「正清」は、義朝の乳母の子鎌田正清のことです。
平治の乱後に東国へ敗走の途中、正清は岳父尾張国野間内海荘の領主
長田忠致(おさだただむね)邸に立ち寄り、
忠致の裏切りにあって義朝とともに殺害されています。
尼が頼朝に先祖の功績と述べたのは、このようなことを指していると思われます。

その後、経俊は乳母の子であることから次第に信用を回復し、
義経追討・奥州征伐などに出陣し、忠義をつくして勤めたことが認められ、
元暦元年(1184)頃には、伊勢国の守護に抜擢され、その上
伊賀国の守護も兼ねました。これといった戦功もない経俊に
このような重責が課されたのは、ひとえに頼朝の乳母子だからです。
経俊の嫡子重俊は土肥氏に接近し、遠平(とおひら)の娘との
婚姻が成立し、さらに山内氏の窮地を救うことになりました。

『参考資料』
田端泰子「乳母の力」吉川弘文館、2005年
 角田文衛「平家後抄 落日後の平家(下)」講談社学術文庫、2001年
 野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館、2007年 
現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館、2007年 
 新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年 
「姓氏家系大辞典」角川書店、昭和49年
 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス、2004年 
「源頼朝七つの謎」新人物往来社、1990年

 

 

 



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山内首藤(すどう)俊通(?~1159)は、頼朝の乳父(めのと)、
妻は乳母の山内尼、俊綱、経俊の父です。
その子孫が建てたという
俊通(としみち)の塚がウェスティン都ホテル京都の裏山に残されています。

塚はもと都ホテルの表玄関の西方、旧道に面したところにありましたが、
近年現在地に移されました。

ホテルの方にお断りして、裏山に上らせていただきました。
ホテル内には入らず、玄関西側の山手に通じる駐車場Cの車道から上り、
その一番上から山道に入ります。



上の建物の向い側にある石段を上り、右に入ったところに塚があります。



人1人やっと通れるほどの狭い道です。

「白川東南佳城鬱々(うつうつ) 嗟(ああ)首藤公永居此室」 

裏面には、「享保4年歳次己亥秋七月二十三日 
 世孫長州山内縫殿藤原広道建」と刻まれています。
享保4年は1719年、山内縫殿は長州藩家老山内広通の通称で、
山内氏は藤原秀郷の末裔と称し、藤原氏を名乗っています。
歳次(さいじ)は年のめぐり、己亥(つきのと)は1719年です。

 眼下に仏光寺の墓地、遠くに平安神宮の鳥居が見えます。

山内俊通は、義朝の長子悪源太義平の勇臣17騎の随一といわれ、(『平治物語』)
平治の乱では子の俊綱とともに義朝に従い、敗れた義朝を東国へ逃がすため防戦し、
三条河原で戦死しました。遺骸は東分木町南側の人家の後に葬られ、
江戸時代には、山伏塚とよばれていました。

享保2年にその子孫たちが白川橋近辺を訪ねて、糀屋宇右衛門宅の裏にある
粟田山崖下の山伏塚を探し当てました。享保4年、追善供養を行い、
塚の上に石垣を築き石碑を建てました。

ここで俊通、俊綱父子の最期をご紹介します。
崇徳院と後白河天皇の確執を発端とした保元の乱で、源義朝は
平清盛とともに
後白河天皇に味方して崇徳院方に勝利しましたが、
この恩賞で清盛との差がついていました。
義朝はその恩賞を取り仕切っていた藤原信西に強い怒りを覚えます。
後白河院近臣の藤原信頼もかつて朝廷内で絶大な権力を持っていた
信西に出世の邪魔をされ、やはり信西に恨みを抱いていました。

 平治元年(1159)12月9日、 清盛が熊野詣に出かけている隙に
義朝は、信頼の誘いに乗って
クーデターに踏みきり、
信西を自害(殺害とも)させてしまいます。
その上、二条天皇と後白河院を内裏に幽閉し、政治の実権を握りました。
天皇を擁している者が官軍となり、清盛が兵を挙げれば賊軍です。
知らせを聞いて慌てて都に戻った清盛は、天皇をひそかに六波羅館に
脱出させることに成功し、天皇を奪われた義朝と信頼は賊軍となり、
天皇が六波羅に入ると、天皇親政派の武家が一斉に離脱し、
源氏軍の軍勢は半分以下に減ってしまいました。

信頼・義朝追討の宣旨を受け、清盛は義朝・信頼らが籠る大内裏を
弟の頼盛や嫡男の重盛に攻めさせます。
大内裏の待賢門に陣取った義朝軍と、重盛の軍との戦いで、
悪源太義平(よしひら)に追い立てられて重盛は危く逃れ、
戦場は六波羅に移ります。義平らは六波羅に押し寄せましたが、その勢は
20騎あまりにすぎなかったという。
これに徒歩の武者を加えても5、60人ほどです。

その途中、六条河原に控えていた源頼政の日和見的な態度に怒った義平が
襲いかかって合戦となり、頼政の郎党が盛んに矢を射かけるので、
山内俊綱は引き留まって戦いましたが、
敵の放った矢が首の骨に当たって深手を負い、助からないとみた
義平の指示で斎藤実盛の手にかかって六条河原で亡くなりました。
斎藤実盛は、駒王丸(義仲)を信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた武将です。

六波羅館を攻めあぐみ、義朝軍が鴨川の西岸に退いたところを、
平家の兵たちが攻めたて、義朝勢は総崩れとなり河原を北へと退却していきます。
三条河原で、鎌田兵衛正清(義朝の乳母子)が「頭殿(義朝)は思うところあって
落ちて行くので、敵の追撃を阻止せよ。」というので、新羅三郎義光の孫、
平賀四郎義宣(よしのぶ)は、引き返して散々に戦います。
佐々木源三秀義・山内首藤俊通・井沢四郎信景(のぶかげ)をはじめとして、
我も我もと敵の前に馳せ塞がって防いでいましたが、佐々木秀義は、
敵二騎を斬り自身も手傷を負って、近江を指して落ちて行きました。
この佐々木秀義は配流中の頼朝に近侍した定綱、経高、盛綱、高綱の父です。
息子たちは頼朝挙兵後も頼朝に従い、各地で戦功を挙げます。

山内俊通は子息が討たれ、ともに討死しようと思いましたが、
何とか気をとり直し身命を捨てて駆け回り
敵三騎討ち取り、終に討たれました。
甲斐の武将井沢四郎信景は、24本差した矢を以って、今朝の戦いで
敵18騎を射落とし、三条河原で良き敵を4騎射殺したので、
箙には2本の矢が残っていましたが、痛手を負ってしまいました。
知人を頼って遠江(現、静岡県の西部)へ落ち、
そこで疵の手当をし、弓の弦を切って杖に代え、山伝いに
甲斐の井沢(現、山梨県東八代郡石和町)へ落ちて行きました。
源頼朝の乳母山内尼  
『アクセス』
「ウェスティン都ホテル」京都市東山区粟田口華頂町1
地下鉄東西線「蹴上駅」下車 徒歩約2分
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社、1987年 
竹村俊則「昭和京都名所図会(洛東下)」駿々堂、1981年
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス、2004年

 



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吉野の桜は、万葉歌を詠んだ奈良時代には詠われていませんが、
平安時代の『古今和歌集』に詠まれ、『新古今和歌集』になって
多くの歌人によって詠まれることとなりました。
その桜を有名にした一人が西行法師です。
吉野の桜を愛し多くの歌を残しました。

西行の本名は佐藤義清(のりきよ)といい、元永元年(1118)に誕生し、
建久元年(1190)に亡くなりました。
奇しくも同じ年に清盛が生まれています。
二人が生まれたのは、平安時代末期の貴族社会から
武家社会にかわる政治的転換期でした。
18歳で鳥羽院に仕え、その時の同僚清盛とは、
北面の武士として親しくつきあい、語り合いました。

23歳で突然出家し円位、西行と名のり、以後諸国行脚の日々を送り、
歌人として名を残しました。清盛の死、源平合戦、平家の滅亡を見届け、
そして源義経が衣川で自害し、源頼朝が奥州を平定した後、
72才でその生涯を終えています。従って平家の隆盛と衰亡の一部始終を
目の当たりに見て生きていたことになります。

奥千本口のバス停傍に金峯神社の修行門が建っています。
この門をくぐり、西行庵を目指します。

ゆるやかな坂道を上ると、やがて金峯神社の鳥居が見えてきます。



鳥居左手の小道を下ると義経かくれ塔、
右へ行くと西行庵・黒滝村鳳閣寺へと続きます。

老杉の中の石畳の古道を上って行くと、西行庵への案内板があります。





「左大峯道」「右鳳閣寺道」と彫られています。



「左 西行庵 0.2km」「右 鳳閣寺 4.0km」、「西行庵急坂注意」の案内板

ここから谷筋の急な坂道を下りて行くと、小さな台地が見えます。







左手は谷に面した東屋、右手に西行庵があります。

西行が庵をつくったのは標高750㍍、三方を山並みに囲まれた平地です。

1987年に西行庵が復元され、中に西行の座像が置かれています。
現在、吉野水分神社に安置されている像もかつてはここにあったという。

暁鐘成(あかつきかねなり)が著した江戸時代の『西国三十三所名所図会』には、
「凡一間半に奥行一間ばかりの草屋なり。西行上人の像を置けり、
長二尺一寸許の木造也」と記されています。

「西行庵 (現地説明板より)
 この辺りを奥の千本といい、この小さな建物が西行庵です。
鎌倉時代の初めのころ
(約八百年前)西行法師が俗界をさけて、
この地にわび住まいをした所と伝えています。
 西行はもと、京の皇居を守る武士でしたが世をはかなんで出家し、
月と花とをこよなく愛する歌人となり、吉野山で読んだといわれる西行の歌に

    とくとくと 落つる岩間の苔清水 汲みほすまでもなきすみかかな
    吉野山 去年(こぞ)の枝折(しおり)の道かへて まだ見ぬ方の 花をたずねむ
    吉野山 花のさかりは 限りなし 青葉の奥も なほさかりにて
    吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき

 この歌の詠まれた「苔清水」はこの右手奥にあり、
いまなおとくとくと清水が湧き出ています。
 旅に生き旅に死んだ俳人松尾芭蕉も、西行の歌心を慕って
二度にわたり吉野を訪れ、この地で
    露とくとく 試に 浮世すすがばや と詠んでいます。吉野町」

庵から100mほど行くと、苔清水があります。

 岩間に湧き出ている苔清水

芭蕉は生涯に二度、貞享元年(1684)9月(野ざらし紀行)と
4年後の春に(笈の小文)西行庵
を訪れ、
露がとくとくと流れ出る浮世を離れたこの地で、

♪露とくとく試(こころみ)に浮世すすがばや(野ざらし紀行)
(とくとくの清水が、昔と変わらずに雫を落としている。ためしに、
この清水で俗世間のけがれをすすいでみたいものだ。)

♪春雨の 木下(こした)につたふ清水哉(笈の小文)
(春雨が清水となって、木の下の苔むした
岩の間を伝わって流れているよ。)と句に吟じました。
この句碑が向かって左側にたっています。
右側にも「露とくとく…」の句碑があるそうですが、見落としてしまいました。

西行庵付近から見渡す吉野の山並み  
晩春の奥千本、若葉に覆われた山のところどころに桜の花が残っています。

三十歳を越した西行は、高野山を生活の根拠地とし、高野の地から度々、
都だけでなく吉野山に分け入ったり、遠くは四国まで足をのばしています。

 ♪花を見し昔の心あらためて 吉野の里に住まんとぞ思ふ 
(桜の花にあこがれて浮かれ歩いた昔の心を思い出し、
改めて昔のように吉野の里に住もうと思っている。)

西行は「吉野の里に住もうと思う」と詠んでいますが、いつから
吉野に住んだのか、
庵の生活が何年続いたのかは定かではありません。

白洲正子氏は「西行はここに庵を結んで以来、
毎年のように吉野に入った。」と推測されています。(『西行』)

吉野山にはその数3万本ともいわれる桜が下千本から中千本、
上千本、奥千本、下から上へと花期をずらして開花してゆきます。
この桜は奈良時代に役行者(えんのぎょうじゃ)が修行によって蔵王権現を感得し、
その姿を桜の木に刻んだことに始まり、吉野では桜はご神木となりました。

以来、蔵王権現や役行者の信者たちが桜を次々と植えていき、
現在のような桜の名所となったといわれています。
当時の紀行文などによると、辻々に鍬と桜の苗木を持った少年が立っていて、
参詣人に苗木を売っていた様子が書かれています。
江戸時代前期の公家で歌人でもある飛鳥井(あすかい)雅章も『芳野紀行』に
「日本が花、七曲り坂など過ぎゆくに、もろ人桜苗を求め権現に奉る」と記しています。

『芳野紀行』にある七曲り坂は、吉野山ロープウェイ右側の「七曲り坂」のことです。
近鉄吉野駅ケーブル乗場から山上の吉野山駅までは、
ロープウェイを利用するか、七曲り坂を上っていく方法があります。

近鉄電車吉野駅前







七曲り坂を上りきるとケーブル吉野山駅、
駅前に奥千本方面行きのバス停があります。
『アクセス』
「西行庵」吉野山ロープ駅から徒歩約2時間
「奥千本口」バス停下車 徒歩約25分 「金峯神社」から 徒歩約20分
『参考資料』
「奈良県の地名」平凡社、1991年  
岡田喜秋「西行の旅路」秀作社出版、2005年 
「週刊古寺をゆく 金峯山寺と吉野の名刹」小学館、2001年
白洲正子「西行」新潮文庫、昭和63年



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吉野山は奈良時代に役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた修験の霊場で、
吉野と熊野を結ぶ
大峯奥駆道の北端に位置し、
平安時代までは山岳信仰の霊地でした。
また、頼朝に追われる身となった義経が静御前と別れた
哀話や南朝の悲劇を今に伝えています。

古くは神武東征伝説にも登場し、熊野から八咫烏に案内された神武天皇が、
吉野、国栖(吉野町)、宇陀など を経て大和に入っています。
応神天皇が吉野離宮に行幸したとき、吉野川上流に住む
国栖(くす)人が参内して酒を献上し、歌舞を奏したという伝承もあります。
以後、朝廷の節会には国栖が歌笛を奏上するのが習わしとなりました。

近江朝末期には、天智天皇と弟の大海人(おおあま)皇子の間に緊張が高まり、
兄の目をくらますため、大海人皇子(天武天皇)は吉野に逃れて隠棲し、
兄の死後、皇位の座を奪うため挙兵し、天智天皇の子、
大友皇子との戦い
に勝利をおさめました。(古代最大の内乱壬申の乱)
その天武天皇の歌碑が吉野駅からケーブル乗場への途中にあります。



天武天皇 吉野宮に幸(いでま)しし時の御製歌    

♪よき人の よしとよく見て よしと言ひし 
芳野よく見よ よき人よく見つ 万葉集(巻1・27)

(昔のよい人がよい所だと よく見てよいと言った吉野をよく見なさい 
よい人よ よく見なさい
揮毫 文学博士 文化功労者 犬養孝  現地駒札より)

金峯山寺(きんぷせんじ)の本堂蔵王堂には、本尊の蔵王権現が祀られ、
平安時代中期には、
修験者の一大拠点となっていました。
この寺に集まった僧侶、修験者らの一部は、
武力を持って勢力を振るい、悪僧化する者がいました。(=吉野法師)

蔵王堂は仏教と神道のミックスといわれる修験道の創始者、
役行者が開き、蔵王権現を祀ったのが始まりという。このお堂は
木造建築物では東大寺大仏殿についで大きく、高さが34メートルもあります。

鎌倉時代末期、大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が
鎌倉幕府倒幕のために、蔵王堂を本陣として吉野全山に城郭を構えて
挙兵した時、蔵王堂の僧兵三千余騎がこれに従いました。
その翌年、
北条方の攻撃で吉野城は落城し、
六万余騎の幕府軍が蔵王堂に迫りました。
親王はこれが最期だと覚悟を決め、蔵王堂の前庭に兵を集めて
酒宴を開いていると、村上義光がやってきて護良(もりよし)親王を説得して
落ち延びさせ、自身はその身代わりになって自害しました。(『太平記』)



花矢倉展望台上り口にたつ三郎鐘説明板

展望台上り口付近に「世尊寺(せそんじ)跡の碑」が建っています。

世尊(せそん)寺は釈迦如来を本尊とする金峯山寺の塔頭で、
役行者が金峯山に入る前に修業したと伝えています。
明治7年(1874)に廃寺となり、
その後焼失して鐘楼と梵鐘(国重文)だけが残りました。
安置されていた聖徳太子像は吉野山内の竹林院に保管され、
輪蔵(経蔵の一種)の普賢・普成像は蔵王堂に納められています。






花矢倉展望台は、眼下に上千本や中千本、蔵王堂、
遠く金剛・葛城・二上山まで見える絶景スポットです。

義経が都を落ちて吉野の奥に逃げ込んだ時、吉野法師らが義経主従に襲いかかってきました。
義経の忠臣佐藤忠信は、義経を落ち延びさせるためその身代わりとなって戦い、
花矢倉の辺で吉野法師の中心人物覚範を討ち取っています。(『義経記』)





東大寺の「奈良太郎」、高野山の「高野二郎」と並んで「吉野三郎」あるいは
「三郎鐘」と呼ばれ、日本三古鐘のひとつとされています。

この梵鐘の銘文によれば、平忠盛が亡き母の菩提を弔うために寄進したが、
音が小さいので、20年後の永暦元年(1160)に改鋳したとあります。
現在は除夜の鐘にだけ、金峯山寺の僧侶によって撞かれます。

総高204センチ、口径123センチ、乳は五段六列、上下帯とも四方に唐草紋が
鋳(文字.などを浮き出すように鋳造する方法)されています。

忠盛の嫡子、清盛は大治4年(1129)正月、従五位下に叙せられ、
12歳で貴族社会の仲間入りを果たし、さらに左兵衛佐(さひょうえのすけ)に
任じられ、周囲の人々から驚きの目でもって見られました。
「兵衛佐」は殿上人への最短コースの一つです。
忠盛はといえば、同じ大治4年正月に従四位上に昇ったばかりです。
その息子がいきなり左兵衛佐というので、藤原宗忠は日記
『中右記(ちゅうゆうき)』に「満座の目を驚かす」と書きとめているほどです。

こうして貴族となった清盛は、その後も異例のスピードで出世していきます。
忠盛が世尊寺の鐘楼を寄進した頃の清盛の急速な栄達ぶりをご紹介します。

保延元年(1135)、父忠盛が海賊追討した功により、
18歳の若さで従四位下に昇り、その翌年、やはり父の譲りにより
中務大輔(なかつかさおおすけ)に任じられ、
翌年20歳になると、父の熊野本宮造営の功績で肥後守も兼ねました。
そして保延6年(1140)
には従四位上まで昇りました。
自分よりも清盛を早く昇進させようという忠盛の親心が窺われます。

上千本の急坂を上りつめるた子守集落の吉野水分神社の前には、
かつて世尊寺にあった石灯篭が置かれています。


吉野水分(みくまり)神社は、子守明神とも称され、水の神を祀り、
古くは吉野山の山頂、青根ヶ峰に祀られていました。
水のもつ生命力に対する神秘感は、雨を司る神をいつしか
みこもり(身ごもり)の神・子産みの神・子守の神に発展させて、
子守明神となり、子宝・安産の神様として親しまれています。

神仏習合時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされ、
修験道でも重視され、大峰修験者の守り神でした。

地蔵菩薩の垂迹とは、仏(地蔵菩薩)が民衆を救うため、
仮に姿を変えて神(子守権現)となって現れることをいいます。



左は拝殿、右が本殿、正面奥に幣殿があります。

境内は狭いのですが、現在の社殿は豊臣秀頼改築による
豪華で華麗な桃山社殿の代表で、国の重要文化財に指定されています。

本殿は三つの棟を一棟に連ねた三社一棟造で、正面の三ヵ所に破風があり、
中央に春日造、左右に流造の三殿を横に繋げたユニークな形式となっています。

右殿(向かって左)に玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像(国宝)が
祀られています。   他にも天万栲幡千幡姫命
(あめよろずたくはたちはたひめのみこと)坐像(重文)など社宝が多くあります。

水分神社を出てしばらく歩くと、高城山(標高702㍍)の登り口に
牛頭天王社跡(吉野町大字吉野山)があります。

高城山は大塔宮の吉野城の詰の城(最終拠点となる城)になったところで、
牛頭天王社はこの城(ツツジヶ城)の守神と伝えられています。

各務支考(かがみしこう)(蕉門十哲の一人)が南朝の悲しい歴史に思いを寄せて

♪歌書よりも 軍書に悲し 吉野山 と詠んでいます。 
(古くから桜の名所として歌に詠まれた哀れさよりも太平記に書かれた戦乱や
志半ばで崩御された後醍醐天皇の哀れさの方がもっと悲しい)

『アクセス』
「吉野水分神社」奈良県吉野郡吉野町吉野山1612
近鉄吉野駅からロープウェイで3分
ロープウェイ吉野山駅下車 徒歩約1時間30分
または
 吉野山駅からバスで23分「奥千本口」バス停下車、徒歩約20分
『参考資料』
「奈良県の地名」平凡社、1991年 高橋昌明編「別冊太陽平清盛」平凡社、2011年 
「近畿文化660」(吉野と大峯奥駆道)近畿文化会事務局、平成16年
「週刊古寺をゆく 金峯山寺と吉野の名刹」小学館、2001年
 「歴史と旅(古事記神話の風景)」秋田書店、2001年8月号 
「歴史読本(日本書紀と謎の古代歴史書)」新人物往来社、平成12年 
 徳永真一郎「太平記物語 物語と史跡をたずねて」成美堂出版、昭和53年

 





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