平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




最寄りのJR南草津駅
『図説・源平合戦人物伝』に載っている清宗の胴塚の写真を見て、
草津市の遠藤(権兵衛)家でこの塚が保存されていることを知りました。

駅傍に立つ南草津案内板。

「南草津病院を営む遠藤勉医師宅の庭には、
平家の悲劇の若武者・平清宗の胴塚(五輪塔)がある。
首は六条川原に晒されたが、当地に胴が残ったため胴塚が建てられ、
約820年を経た今でも遠藤家によって懇ろに保存されている。」
(「野路町内会HP」)

平清宗(1170―1185)は、平宗盛の嫡男で
母は中納言三位ともいい、平時信の娘清子です。

清子は清盛の妻時子の妹ですから、
宗盛は1歳年上の叔母を正室にしたことになります。

後白河法皇の寵妃建春門院滋子は、清子の同母姉です。
仁安3年(1168)滋子の生んだ高倉天皇が即位し、
その3年後に時子の娘徳子(建礼門院)が高倉天皇に入内し、
中宮になると、平氏内における時子系統の権威が高まります。
建春門院と血縁関係がある清宗は、法皇に溺愛され、3歳で元服・
内昇殿・禁色(きんじき=特定の位の人しか着用を許されない色)を
許され、従五位下に叙せられます。
このような極端な待遇は、他に例のないものでした。
そして13歳で正三位に昇ります。

宗盛は清子が亡くなると、翌年の治承3年(1179)2月、
権大納言・右大将を辞任し、
後に法性寺一の橋の西に堂を建て、
丈六の阿弥陀像を安置し彼女の冥福を祈っています。

宗盛は凡庸で武家の棟梁としての資質が備わっていなかったといわれ、
評判の悪い人物の1人ですが、妻子に愛情注ぐよき家庭人でした。
宗盛は、篠原で清宗と引き離される際、「十七年の間、一日片時も
離れることはなかった。西国で海底に沈まないで憂き名を流すのも、
右衛門督(清宗=うえもんのかみ)故なのだ」と言って涙を流したという。
物語で語られた生への未練極まりない姿も、我が子を案じ、
気づかう強い思いがそのような形で現れたようです。

そして、清宗も父を慕い案じています。
清宗は処刑の際、義経の厚意によって、宗盛父子の
善知識として招かれた湛豪という聖に向って
「父上の最期はいかがでしたか。」と
尋ね、
「御立派な最期でした。」という言葉に安心して
安らかに斬られたのです。

『平家物語』は、宗盛父子はともに近江国篠原(現、野洲市篠原)で
処刑されたとしていますが、
『吾妻鏡』文治元年(1185)6月21日条によると、
「源義経は近江篠原宿に到着し、橘馬允(うまのじょう)公長に命じて
平宗盛を誅殺させた。次に野路口に至って、堀弥太郎景光に命じて
前右金吾(うきんご)清宗の首をさらさせた。」と記されています。

現在、清宗の胴塚は「医療法人芙蓉会」の敷地内にありますが、
防犯上立ち入り禁止です。事務長のお許しを得て参拝・撮影させていただきました。





平清宗(1170―1185) 平安時代の公卿、平宗盛の長男、
母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、
3才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。
 源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年
壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。

 「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、
当家では代々胴塚として保存供養しているものである。 
  遠藤権兵衛家  当主遠藤 勉







清宗塚
 文治元年3月(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、
安徳天皇(8歳)は入水。平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、
遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、
鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都へ上る途中、
野洲篠原にて宗盛卿の首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。
 清宗は父宗盛(39歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い
静かに手を合わせ、堀弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。
同年6月21日の事、清宗時に17歳であった。首は京都六条河原にて晒される。
 平清盛は義経3歳の時、、あまりにも幼いという事で命を許した。
時を経て義経は平家一門を滅ぼし、又義経は兄頼朝に追われ、
奥州衣川にて31歳で殺される。

 夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、
歴史は我々に何を教えてくれるのか。



浄土宗 本誓山教善寺

教善寺の門前にたつ「草津歴史街道」説明板。

野路宿(駅とも)は、古代末から中世にかけて存在した
中世東海道の宿(しゅく)で、
現、野路町に推定されています。
 野路の地名は、『平家物語』、『平治物語』をはじめ、
多くの紀行文にもその名をみせています。

平治の乱に敗れた源義朝主従8騎は、野路(現、草津市野路町)を
通って落延びていきます。疲れ切った落武者たち、中でも初陣の頼朝は
豪胆のようにみえてもまだ13歳、なれぬ重い武具を身に着けての一日中の合戦。
おりからの雪に昼間の疲れが加わって馬上でうとうとしてしまい、
野路辺りから一行に遅れてしまいます。篠原堤(現、野洲市篠原)で
一行は頼朝がいないことに気づき、義朝の乳母子鎌田正清(政家)が
義朝の心を汲んで探しに戻りましたが見つかりませんでした。
(『平治物語・中・義朝奥波賀に落ち著く事』)
平家終焉の地(平宗盛・清宗胴塚)  
平宗盛、我が子副将との別れ(京の源義経の館)  
『アクセス』
「医療法人芙蓉会 南草津病院」滋賀県草津市野路5丁目2−39 
JR琵琶湖線「南草津駅」下車徒歩約10分
『参考資料』
「滋賀県の地名」平凡社、1991年 
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(下)」塙新書、1994年
 元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書504、平成24年
「図説・源平合戦人物伝」学研、2004年
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 



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最寄りのJR篠原駅

十数年前、「源義経元服の池」を訪ねた時、ここ平家終焉の地にも来ましたが、
草津市にある平清宗の胴塚を参拝したついでに野洲市まで足を伸ばしました。

琵琶湖の東、野洲市大篠原、国道8号沿いに
「平家終焉の地」と記された案内板が設置されています。


案内板に従って細い道を進むと「平宗盛卿終焉之地」と
彫られた石標があり、宗盛父子の墓碑が建っています。

以前に来たときは、鬱蒼とした雑木と雑草に覆われて薄暗い中に墓碑が建っていましたが、
藪はすっかり刈られて見違えるように綺麗に整備されていました。
清盛桜、宗盛桜、清宗桜と名づけられた桜の苗木も植えられていました。

清盛桜

宗盛桜

令和元年6月清宗桜

追善供養が行われたようです。

「平家終焉の地
平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなく、ここ野洲市である。
平家最後の最高責任者平宗盛は、源義経(?)に追われて
1183年7月一門を引き連れて都落ちをした。
西海に漂うこと二年、1185年3月24日、壇ノ浦合戦で敗れ、
平家一門はことごとく入水戦死した。しかし、一門のうち、
建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。
宗盛父子は義経に連れられ鎌倉近くまで下ったが、
兄の頼朝に追い帰され、再び京都に向かった。
途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で、義経は都に
首を持ち帰るため、宗盛と子の清宗の二人を斬った。
そして義経のせめてもの配慮で、父子の胴は一つの穴に埋められ、
塚が建てられたのである。父清盛が全盛のころ、この地のために掘った
妓王井川が今もなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは、
宗盛父子にとっては、日本中のどこよりも安住の地であったであろう。
現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池があり
この池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れ
で蛙が鳴かなくなったことから、「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。
野洲町観光協会」(説明板より)

「蛙不鳴池(かわずなかずのいけ)および首洗い池
西方に見える池を蛙不鳴池と云い、この池は、元暦二年(1185)源義経が
平家の大将、平宗盛とその子清宗を処刑したその時その首を洗った
「首洗い池」と続きで、以後 蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、
蛙鳴かずの池と呼ばれている。別名、帰らずの池とも呼ばれ、
その池の神が日に三度池に陰を映されたのに、
お帰りを見た事がないとの言われからである。
昔は横一町半(約一六五m)、長さ二町(二二〇m)あった。
首洗い池は、蛙不鳴池の東岸につながってほぼ円形をしていた。
最近までその形を留めていた。
野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会」(説明板より)

江戸時代の諸国の名所図会

元暦2年(1185)5月に壇ノ浦合戦で生捕りとなった平宗盛・清宗父子は、
源義経に伴われ、鎌倉へ下って行く途中、野洲川を渡って三上山を望みながら
「篠原堤」を通過して「鏡宿」(現、蒲生郡竜王町大字鏡)に投宿した」と
『源平盛衰記』(巻45)に記されています。
篠原堤は東山道筋(中山道)に位置し、現在の国道八号沿いにある
西池の堤防堤といわれています。(『野洲郡史』)

西池は、、「首洗い池」と続きで蛙鳴かずの池ともよばれ、
現在も付近の農地に用水を供給しているため池です。

また京から鎌倉への道中を記録した紀行文である
『東関紀行』の作者は、
仁治3年(1242)に京を出発し、
「篠原といふ所を見れば、西東へ遥かに長き堤あり」と記しています。

義経は壇ノ浦で捕虜にした平家の総帥平宗盛父子を伴って鎌倉に向かいました。
鎌倉の手前で北条時政が宗盛父子を受けとり、父子は鎌倉に入りましたが、
義経は腰越に留められました。頼朝から対面を拒否された義経は、
兄の誤解を解こうと、腰越状を送り弁明しましたが、
梶原景時の讒言を聞いていた頼朝が心を開くことはありませんでした。
こうして元暦2年(1185)6月9日、宗盛父子は再び
義経とともに京に帰されることになりました。
橘馬允(うまのじょう)公長・浅羽庄司宗信らがその護送につけられました。

宗盛は道すがら「ここで斬られるのだろうか。」「ここでだろうか」と思いますが、
国々、宿々を次々と過ぎて行き、途中、尾張国を通りました。
尾張国内海は、義朝が騙し討ちに遭った地です。
しかし斬られることもなかったので、やや望みを抱き「ひよっとしたら、
命だけは助かるのかも知れない。」と思ったりもします。
清宗は「どうして命の助かることがあろうか。暑い頃なので首が腐らぬように
都近くで斬るのであろう。」と思いますが、父があまり心細そうなので、
口に出せず念仏を勧めました。

やがて都に近い近江国篠原に到着しました。
ここへ大原の本性房湛豪(たんごう)という聖がやってきました。
義経は、前もって宗盛のために使者を立てて呼び寄せていたのです。
湛豪を見て、ようやく宗盛も処刑が迫ったことを悟りました。
ここで父子は引き離され、それぞれ処刑されることになります。

宗盛は、「たとえ首は落ちても、むくろは子の清宗と一緒にと願っていたのに、
こうして別々にされたのが悲しい」と湛豪に涙ながらに訴えました。
湛豪もくずれそうになるおのれの心をおさえて、「そのように思いなさるな。
今はただ念仏を唱えれば必ず往生できると信じて、
南無阿弥陀仏と唱えればいい。」などと説いて聞かせ、戒を授けて
しきりに念仏をすすめるので、宗盛は妄念をひるがえして
西方に向かって声高に念仏を唱えます。
そこへ橘馬允(うまのじょう)公長が太刀を引き寄せ後方にまわり、
今まさに斬ろうとすると宗盛は念仏をやめ、「右衛門督(うえもんのかみ
=清宗)はもう斬られたのか」と聞いたのが最期の言葉でした。
最後まで息子の身を気にかけ、ついに悟り切れなかったのです。

人々はみな、公長がかつて平知盛の家人であったことを忘れておらず、
「権力者にへつらうのは世の習いであるとはいえ、
あまりにも無情な男よ。」と口々に非難しました。

同じ日、右衛門督にも湛豪は仏教の教えを説き、
鉦を鳴らして戒を授けました。
右衛門督が父の最後はいかがでしたか。と聞くので仕方なく、
「ご立派でございました。ご安心なさいませ。」というと非常に喜んで
「それでは憂き世に思い残すことはない。さあ斬れ。」と首を差しのべました。
今度は義経の郎党堀弥太郎が斬りました。
宗盛があまりに未練を残していたので、
遺骸は公長のはからいで、父子を同じ穴に埋めました。


同年6月23日、三条河原で検非違使が宗盛父子の首を受けとり、
三条を西へ東洞院を北へ引き回した後、獄門に掛けられました。
法皇は三条東洞院に於いて見物したという。
そしてこの日は、木津川の畔で平重衡が斬られた日でもありました。

宗盛を斬った公長は、かつて平知盛の家人でしたが、
平家の衰運を見こし、またその昔、源為義から恩を受けたことがあり、
加々美長清の仲介で息子の公忠と公成を連れて頼朝に帰順しました。
(『吾妻鏡』治承4年12月19日の条)

加々美長清(弓馬術礼法小笠原流の祖)も知盛に属して京にいましたが、
平家を見限り富士川の戦いで頼朝の下に参じたと伝えています。
(『吾妻鏡』治承4年10月19日条)

ところで、『延慶本』は宗盛の斬り手を息子の公忠としています。
こちらの方が年齢的に妥当と思われます。
橘馬允
父子はともに弓馬に優れ、頼朝は鎌倉での
武芸競技会に2人の息子を出場させています。

平宗盛に引導を渡す湛豪は、当時貴族たちの間にも
信敬厚かった大原来迎院(らいごういん)の長老です。
建礼門院の出家の際にも戒師を務めたといわれる聖で、
いよいよ処刑の迫った宗盛・清宗父子への授戒のために招かれたのでした。
壇ノ浦で捕虜となった平宗盛   平清宗の胴塚  
『アクセス』
「平家終焉の地」滋賀県野洲市大篠原86
JR篠原駅下車、県道158号を南方へ徒歩約30分。
国道8号と県道158号の交差点付近の国道に案内板が立っています。

又は、JR野洲駅南口から近江鉄道湖国バス
「三井アウトレットパーク」行き乗車約20分。
「道の駅 竜王かがみの里」バス停下車、西へ徒歩約10分。
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
 「滋賀県の地名」平凡社、1991年
「日本名所風俗図会 近畿の巻」角川書店、昭和56年
 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年 
山本幸司「頼朝の天下草創」講談社、2001年

 

 

 

 



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三井寺の観音堂へ上る石段の脇に祀られている十八明神社は、
「ねずみの宮さん」と呼ばれ、人々に親しまれています。

この社は延暦寺に攻め上った鼠の霊を祀っているため、
比叡山の方向を向いて建っています。



『平家物語』(巻3・頼豪)によると、「白河天皇の時代、
関白藤原師実(もろざね)の娘賢子は、第一の寵愛を賜りました。
天皇はこの后の御腹から皇子が誕生することを望まれて、
効験あらたかな僧として知られた三井寺の頼豪阿闍梨を召して、
『賢子の腹に皇子が誕生するよう祈祷せよ。この願いが叶えられれば、
褒美は何なりととらせよう。』と仰せになったので、頼豪は三井寺に帰り、
懸命に祈ったのでめでたく皇子が誕生しました。

天皇は大そうお喜びになって頼豪を召して、望むものをとらせると
仰せになったので、
三井寺に戒壇建立の許可を願い出ました。
しかし天皇は『いま、そちの望み通り三井寺に戒壇を設ければ、
山門が憤って世の中が無事に治まるまい。三井寺と延暦寺が合戦をすれば、
天台の仏法は滅びるであろう。』といってお許しになりませんでした。
頼豪は無念に思い餓死して怨霊となり、
生まれてきた敦文親王をも殺してしまった。」と書かれています。

その後日談が『源平盛衰記』(巻10・頼豪鼠と為る事)に記されています。
山門があるので我寺に戒壇の設立が許されないのだ。それならば、
山門の仏法を亡ぼしてやろうと頼豪は大鼠になり、経典を食い散らかした。
これは頼豪の怨霊であるとして、身分の上下の別なく、鼠を打ち殺し踏み殺したが、
ますます鼠がふえてきておびただしいと言うほかなかった。

困り果てた延暦寺の僧たちは、怨霊を宥めようと、
鼠ノ宝倉(ほこら)を作って神に祀ったところ鼠の騒ぎが鎮まった。」とあり、
頼豪は敦文親王を呪い殺しただけでなく、
その怨霊は大鼠となり、延暦寺にも襲撃をしかけてきたのです。
鼠ノ宝倉について『源平盛衰記(2)』71㌻下欄に日吉山王大宮の
北方にあり、
大黒天を祀るという。鼠の祠。と書かれています。

『太平記』にも同じ伝説に基づく記述があります。
比叡山の強訴により戒壇設立の勅許が取り消され、これに怒った頼豪は、
21日間護摩を焚き壇上の煙となって果ててしまった。その怨霊は鉄の牙、
石の体をした8万4千の鉄鼠(てっそ)となって比叡山へ押し寄せ、

堂塔や経巻を食い散らかした。」と
記されていることからみても、
当時、広く知られた説話であったと思われます。

ところでこの説話は史実ではありません。そのことは頼豪の没年が
応徳元年(1084)5月、敦文親王(白河天皇の第1皇子)の逝去したのが
承保4(1077)9月ですから、頼豪の入滅は親王がこの世を去って
7年後であることから容易にわかります。
こうした説話が生まれたのは、三井寺の戒壇(かいだん)設立の希望が
長い間にわたってのことであり、戒壇には朝廷の許可が必要でしたが、
それが延暦寺の反対にあい天皇が認めなかったということを
背景にして生まれたと考えられています。

当時のわが国では戒律を正式に授かることで、
国家公認の僧と認められることになり、
その儀式を行う場所が戒壇です。
ちなみに東大寺大仏殿前に戒壇を建立したのが最初で、ついで唐招提寺、
下野の薬師寺、筑紫の観世音寺にも建てられ、東大寺の戒壇とともに
わが国の三戒壇と呼ばれました。その後、平安時代に大乗戒壇設立のため
最澄が奔走し、比叡山に勅許がおりたのはその死の1週間後のことでした。

江戸時代には、頼豪説話をモチーフにした作品が生まれ、滝沢馬琴は
『頼豪阿闍梨恠鼠伝(らいごうあじゃりかいそでん)」』を創作しています。
下の絵は妖怪ブームを作った絵師・鳥山石燕が『画図百鬼夜行』で描いた
僧衣を着た鉄鼠(てっそ)と呼ばれるネズミ男と経典を食い荒らすネズミ。


護摩壇前で祈祷する頼豪の口から無数のネズミが吐き出されています。
(『伊勢参宮名所図会』寛政9年刊)


 さて平安時代中期以後、僧兵・神人らが仏神の権威を誇示して、集団で
朝廷に訴えを行い自らの要求を通そうとする強訴が始まり、特に南都北嶺と
称された興福寺・延暦寺はたびたび強訴を行い、朝廷を悩ませていました。

『平家物語』では、白河院が思うようにならないものとして
「賀茂河の水、双六の賽、山法師、これがわが心にかなわぬもの」と
語ったという逸話が紹介されています。
(たびたび氾濫する賀茂川、双六のサイコロの賽の目、
何か意に沿わないことがあると、神輿を担いで京で暴れまわって強訴を繰り返す
延暦寺の僧兵、この三つだけは思うとおりにならない)(「巻1・願立」)
この時に用いたのが興福寺は春日大社の神木、延暦寺は日吉大社の神輿でした。



樹下(じゅげ)社本殿



日吉大社の神輿は、摂社樹下社拝殿に置かれていました。

比叡山麓の日吉大社は、『平家物語』にたびたび登場します。
延暦寺の守護神であり、東西本宮を中心に山王二十一社とよばれる
神社から形成され、さらに各神社にはいくつかの末社がついています。
山王祭の「宵宮落(よみやおと)し神事」が行われる大政所(おおまんどころ)の
近くにある子(ね)の神を祀る鼠ノ宝倉もそんな末社の一つです。

円珍(智証大師)は園城寺(三井寺)を授けられ、延暦寺別院として
初代別当となり、貞観10年(868)には、延暦寺の第五代座主に就任しました。
しかし円珍が天台宗を開いた最澄の直弟子ではなく、弟弟子の初代座主
義真の弟子だったため、最澄の直弟子円仁(慈覚大師)の弟子たちの反発を招き、
天台宗は円仁学派と円珍学派が争う山門と寺門の対立時代を迎えるようになります。
寛平3年(891)円珍は円仁派との軋轢を案じながら入滅しましたが、
円珍が心配した通り、この対立は激化していきました。

両派の対立の歴史は、平家物語にも暗い影を落としています。
かつて後白河法皇は受戒のしるしに「伝法灌頂」といって、 
頭に香水(こうずい)をそそぐ儀式をひいき
にしていた三井寺で
受けようとしたことがありました。
この噂を聞きつけた山門側はいきりたち、
法皇が三井寺で戒を受けるなら、
寺を焼き払ってしまおうと
横やりを入れたため中止せざるを得ませんでした。

「第21句・伝法灌頂(でんぽうかんじょう)」

「巻4・蝶状(ちょうじょう)」には、以仁王の挙兵を受けて、
これに味方する三井寺の動向が詳細に描かれています。
治承4年(1180)5月、以仁王・源頼政が企てた謀反は平家方に漏れ、
平家方の動きを知った頼政は以仁王を三井寺に逃しました。この頃、
三井寺や延暦寺、興福寺などの寺社勢力はこぞって反平氏に傾いていました。
それは、
天皇が退位してはじめての御幸は、都近辺の神社に
参詣するのが通例ですが、高倉上皇は清盛の崇拝する厳島神社に詣で
これらの寺院は平家に対して強く反発していたのです。

三井寺でも僧兵の反平家感情は強く、

三井寺は南都と延暦寺に加勢を依頼する蝶状(手紙)を送り、
南都は快諾しましたが、
延暦寺からは返答がありません。
その理由は「延暦寺、園城寺は門跡が山門と寺門の二つに分かれているが、
学ぶところはともに天台の教義である。鳥の翼、車の両輪に似ている。云々」とあり、
二寺を対等に扱う文面を無礼であるとして園城寺の申し出に応じなかったのです。
園城寺は円珍が再興して延暦寺の別院としたことに端を発するため、
延暦寺側は園城寺を末寺として扱っていました。
この時、平家は延暦寺に懐柔策をとり賄賂を贈ったことや
清盛の出家に際して、延暦寺の座主明雲が
戒師を務めたことなども影響し、
結局延暦寺は動きませんでした。

倶利伽羅峠、篠原合戦と勝ち進んできた木曽義仲も都に入る時には、
延暦寺に連帯を申し入れる手紙を出しています。
義仲は平家と延暦寺が連携するのを心配し、くさびを打ちこんでおいたのです。
この頃、比叡山では源氏に好意的な僧らの勢いが強まっており
義仲は提携に成功しました。
(「巻7・木曽蝶状並返蝶」)
このように源氏にとっても平氏にとっても
延暦寺の存在は無視できないものでした。
『アクセス』
「長等山園城寺(三井寺)」大津市園城寺町246
京阪電車石山坂本線「三井寺」駅下車 徒歩約10分
『参考資料』
冨倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)角川書店、昭和62年
冨倉徳次郎「平家物語全注釈」(中)角川書店、昭和42年
「新定源平盛衰記」(2)新人物往来社、1993年
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
 「比叡山歴史の散歩道 延暦寺から日吉大社を歩く」講談社、1995年
古寺をゆく「延暦寺」小学館、2001年 
小松和彦「京都魔界案内」知恵の森文庫、2002年

 



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三井寺の梵鐘は4つあります。
三井の晩鐘、弁慶引き摺り鐘(重文)、西国札所の観音堂境内の鐘楼の
童子(どうじ)因縁鐘、滋賀県立琵琶湖文化館に寄託されている朝鮮鐘(重文)です。

近江八景の一つ「三井の晩鐘」で知られる鐘は、弁慶鐘を摸鋳したものといわれ、
三井寺の長吏道澄(どうちょう)の命で、慶長7年(1602)に
摂津住吉(大阪府)の鋳物師杉本家次が鋳造しました。
この鐘はことに音色が優れ、「声の三井寺」と称されて「形の平等院」、
「銘の神護寺」とともに日本三名鐘の一つに数えられています。
ひと撞き 冥加料 300円






三井の晩鐘のモデルとなった弁慶引き摺り鐘は、
金堂西側の霊鐘堂内に安置されています。



 ♪さざ浪や三井寺の古寺鐘はあれどむかしにかへる音はきこへず と詠んだ僧定円は
三井寺流唱導の祖として知られています。
百八煩悩にちなむ108の乳(にゅう、ち)をもつ梵鐘です。

乳が16個も失われ、無数のすり傷やひび割れが残る弁慶の引き摺り鐘。

伝説「弁慶の引き摺り鐘」
 奈良時代の作とされるこの梵鐘は、むかし俵藤太秀郷が三上山の百足退治の
お礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝えています。
その後、山門(延暦寺)との争いで武蔵坊弁慶が奪って比叡山延暦寺へ引き摺り上げて
撞いてみると「イノー、イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は
「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったのです。
その時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。
 (三井寺拝観パンフレットより)
寺に悪い事が起こる時には鐘をついても鳴らず、
いい事が起こる時は自然に鳴るという。
南北朝の争乱時には、
略奪を恐れて鐘を地中にうめたところ、自ら鳴り響き、
これによって足利尊氏が勝利したといわれています。 この鐘をめぐっては
まさに霊鐘というにふさわしい様々な不思議な出来事を今に伝えています。

『近江名所図会』1814年刊より「山門の衆徒、三井寺の鐘を奪い、無動寺谷に投げ落とす。」





『近江名所図会』1814年刊「三井寺女人詣」より、画面右上に弁慶の汁鍋が描かれています。
下の絵は「弁慶の引き摺り鐘」歌川国芳筆 個人蔵

衰退していた園城寺(三井寺)は、唐から帰朝した円珍によって再建され、
比叡山延暦寺の別院となりました。
円珍(母が空海の姪) は比叡山
延暦寺の義真に学び第5代天台座主に任じられましたが、そ
の死後、
延暦寺では円仁(最澄の弟子・第3代天台座主)派と円珍派の対立が激化し、
円珍の弟子たちは比叡山を下りて園城寺に移ります。
以後、延暦寺の山門派と園城寺の寺門派に分裂し、
両派の間には数百年におよぶ激しい抗争の歴史が繰り広げられました。
弁慶引き摺り鐘には、その争いの中で、延暦寺の僧兵だった弁慶が
比叡山まで引きずっていったという伝説があります。

こうして、平安時代中期から南北朝時代にかけて、山門派の焼き討ち、
源平の戦いでは、源氏に味方して平家の攻撃をうけ、南北朝の争乱でも、
河内源氏の流れをくむ足利尊氏に与し戦禍に巻き込まれるなど、しばしば
焼失しましたが、その都度、源氏の援助によってたちどころに再興されています。

弁慶の引きずり鐘と千団子祭りの亀をモチーフにした広報僧べんべん。

べんべんショップと文化財収蔵庫

境内のあちこちに「べんべん」ののぼり旗が翻っています。

琵琶湖文化館に預けてある朝鮮鐘は、鐘身に天衣(てんね)をなびかせ
飛来する天人像を鋳造した朝鮮鐘の逸品です。
銘文には中国の年号「太平12年」とあり、高麗では徳宗1年にあたる
1032年の鋳造です。古くから三井寺の金堂に秘蔵されていた鐘です。


最後のひとつは、観音堂境内の鐘楼の童子因縁鐘です。

この鐘は第二次世界大戦で供出の憂き目にあい、
現在釣られている鐘は、当寺所蔵の朝鮮鐘を模刻したものだそうです。



眼下に琵琶湖を望むことができる位置に建つ観月舞台 
県指定文化財 江戸時代(嘉永三年1849)の建立


三井寺の鐘は、謡曲「三井寺」にも登場します。
能「三井寺」は、中秋の名月の三井寺を舞台に
親子の再会を描いた名曲として知られています。
駿河国から来たわが子が行方不明になった女が京の清水寺に参詣し、
観音様のお告げに従って三井寺を訪れ、鐘を撞いたことがきっかけとなって
生き別れの子供と巡り会うというストーリーです。

四季折々それぞれの美しい琵琶湖の景色が眺められます。



境内図は三井寺HPよりお借りしました。

三井寺駅から大門通りを西へ歩いて行くと、三井寺の表門大門が見えてきます。


三井寺の大門(仁王門)室町時代 重文
もとは常楽寺(湖南市石部)にありましたが、秀吉が伏見城に移築し
徳川家康により江戸時代の初めにここに移されました。

天台宗寺門派の総本山である三井寺の正式な名称は、長等山園城寺といいます。
天智天皇6年(667)、天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、
大津には近江大津宮が置かれましたが、天智天皇の死後、
天智天皇の子大友皇子と同天皇の弟大海人(おおあま)皇子との間で
皇位継承を争う壬申の乱が起こりました。

天武天皇15年(686)、この戦いに敗れ自害した大友皇子(弘文天皇)の子・
大友与多王(よたのおおきみ)が、「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して
大友氏の氏寺として建立、この文字にちなみ天武天皇(大海人皇子)から
「園城」の勅額を賜ったのが園城寺の始まりと伝えています。


金堂 桃山時代 国宝 本尊は弥勒菩薩
現在の金堂は秀吉の正妻、北政所が再建したものです。

 園城寺の名よりも一般には三井寺の名で知られていますが、
この名前の由来となった金堂脇の閼伽井屋。

 閼伽井屋には現在も霊水が湧き出ています。

閼伽井屋横の小さなスペースに石庭が作られています。

『アクセス』
「長等山園城寺(三井寺)」大津市園城寺町246
京阪電車石山坂本線「三井寺」駅下車 徒歩約10分
『参考資料』
「滋賀県の地名」平凡社、1991年 「滋賀県の歴史散歩」(上)山川出版社、2008年
「郷土資料事典(滋賀県)」人文社、1997年 古寺をゆく「三井寺と近江の名刹」小学館、2001年
 図説「源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 

 

 



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三井寺には、橋合戦で大活躍した浄妙の住坊浄妙坊跡が残っています。
筒井浄妙坊明秀(つついじょうみょうめいしゅう)は、三井寺(園城寺)に
住んでいる僧ですが、いざことがあれば武装して戦う僧兵でした。

平安時代の中期から後期にかけて大寺院では、
寺域や自領を守りまた紛争解決のために武力を持ち、
僧兵と称する武力集団が大勢力を築き活躍しました。
延暦寺の山法師、園城寺の寺法師、
東大寺・興福寺の奈良法師は、よく知られた僧兵です。

以仁王はこの僧兵の武力を頼って三井寺に入ったのです。
当時、平氏と対抗する武力を期待されるほどの規模を
三井寺・比叡山延暦寺の僧兵が持っていたと思われます。



小祠の中には、石塔が祀られています。

治承4年(1180)平家打倒の計画がもれ、追われる身となった
以仁王(高倉宮)は三条高倉の屋敷を逃れ、源氏との結びつきが深い
園城寺(三井寺)に入りました。しかし、あてにしていた比叡山の
協力が得られず、三井寺を出て応援のいる南都へと落ちていきます。
三井寺から約12キロの宇治に辿りつくまで
6度も落馬するほど以仁王は疲れきっていたようで、
平等院に入り、敵襲に備え橋桁を外して休息していました。

(三井寺から宇治への距離は『源平盛衰記』
(巻10第5・宇治合戦附頼政最期の事)に

「宇治と寺との間、行程わずかに三里ばかりなり」と記されています。)

 そこへ以仁王が南都に向かっているという情報を得て、
押しよせた平家の大軍と宇治川を隔てて戦闘が開始されました。

この時、平等院は天台宗の末寺で執行(しゅぎょう)は、
三井寺の覚尊僧正でしたから、一行はこの縁で平等院に入ったようです。

『平家物語』巻4・橋合戦は、戦自慢の三井寺の僧兵、
五智院(三井寺の僧院の名)の但馬、
筒井浄妙明秀、乗円坊の阿闍梨
慶秀に仕える一来(いちらい)法師などを活き活きと描いています。

『平家物語絵巻』橋合戦(林原美術館蔵)
つわもの揃いの三井寺の僧兵が平家の軍勢に次々と戦いを挑みます。
浄妙坊は橋の上へ進み、「遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にも見給え。
三井寺で知らぬ者がいない筒井の浄妙明秀といふ
一人当千(いちにんとうせん)の兵者(つわもの)ぞや。われと思はむ者は
寄りあえや。見参せむ」と名乗るやいなや、死にものぐるいで戦い、
一方、一来法師は浄妙の兜に手をおいて「御免候え」といって飛び越え
矢面に立ちましたが、まもなく討死してしまいました。所詮は多勢に無勢。
戦局は圧倒的多数の平家方に傾きます。
左下には、前線を退いた浄妙が
やっとの思いで平等院に立ち戻り、鎧を脱ぎ矢傷の手当をして、
僧侶の浄衣姿となり奈良へと落ちていく姿が描かれています。

境内図は三井寺HPよりお借りしました。



境内南端近く、長等神社上の山腹には、西国三十三所第14番札所の伽藍があります。

長等神社脇から観音堂へ直接上る急な石段



観音堂は本尊に平安時代の木像如意輪観音坐像(重文)を祀っています。
辺りはかつて園城寺の南院と呼ばれていた所です。



観音堂、鐘楼、百体観音堂、観月舞台、絵馬堂などが建つ西国14番札所の伽藍。
(観音堂前広場の隅にある石段を上った展望所から)

中世には、三井寺は長等山一帯に及ぶ境内が北院・中院・南院の
三地域に分けられ、
さらに五別所や如意寺などの
広大な寺域が形成され、850棟余りの坊舎を数えたという。
北院は新羅善神堂を中心とし、金堂を中心とする中院、
南院は観音堂を含みました。
北院は離れた場所にあります。

三条高倉の御所を落ち三井寺に逃れた以仁王は、南院の中の一院、
法輪院に僧兵が設けた御座所に入り、
比叡山と南都に牒状(手紙)を出しました
法輪院はこれ以降の記録がなく、度重なる兵火で焼失したようです。

浄妙坊跡は観音堂から水観寺(すいかんじ)へ下る石段の脇にあります。

石段に置かれている大津絵の弁慶


石段を下りきると、一段高くなった場所に水観寺の境内があります。
三井寺の五別所の1つで現地に移築したもので、
現在は西国49薬師霊場48番札所となっています。本尊に薬師如来を祀っています。

橋合戦(宇治橋・平等院)筒井浄妙・一来法師  
祇園祭浄妙山(筒井浄妙と一来法師)  
『アクセス』
「長等山園城寺(三井寺)」大津市園城寺町246
京阪電車「三井寺」駅より徒歩約10分

 「三井寺」駅より琵琶湖疏水に沿って西へ「長等神社」脇の(裏門)
三井寺拝観受付より
階段を上がると
西国三十三所観音霊場の第14番札所観音堂です。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店 、昭和62年
林原美術館編「平家物語絵巻」株式会社クレオ、1998年
水原一「新定源平盛衰記」(2)新人物往来社、1993年
「滋賀県の地名」平凡社、1991年

 



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関蝉丸神社は、上社・下社と二社あります。
逢坂山頂上付近にある上社(祭神猿田彦命・蝉丸)と
逢坂山の東麓、大津側の下社(祭神豊玉姫命・蝉丸)です。
逢坂山は平安京の東の入口にあたり、都を守る逢坂の関がおかれていました。
社伝によれば、弘仁13年(822)
小野朝臣峯守が逢坂山を往来する旅人の守護神として
山上・山下に創建したのを始まりとし、関の鎮守として建てたとされています

この両社に天慶9年(946)、古代からの祭神・猿田彦命と豊玉姫命に
蝉丸が合祀され、歌舞音曲の神として人々の信仰を集めました。

蝉丸は能・紀行・名所図会などに登場し、様々な伝説に彩られて
広く知られていますが、出自、没年とも不詳です。
『今昔物語集』や謡曲『蝉丸』によると、目が不自由であったとされ、
『平家物語』では、醍醐天皇の皇子、『今昔物語集』では、
宇多法皇の皇子・敦実親王の従者で、音曲に優れた敦実親王の
下で働くうちに琵琶の名手となったと記されています。
『後撰集』の詞書によれば、逢坂の関のそばに
庵をかけて住んでいたことがうかがわれ、『無名抄』には、
逢坂の関にある明神様は、蝉丸の庵の跡と伝えています。
琵琶法師はこの蝉丸を自分たちの祖神として崇めていました。

一の谷合戦で捕虜となった平重衡(清盛の5男)を下向させるよう頼朝がしきりに
要求するので
、寿永3年(1184)3月10日、鎌倉に送られることになりました。
護送役は梶原景時です。一行は都の出口・粟田口から、四宮河原を通りすぎ
東海道を下って行きます。それを平家物語は「海道下」という美しい文で綴り、
その中に重衡の心情をあらわしています。
四宮河原は昔、醍醐天皇の第四皇子・蝉丸が庵を結び
逢坂の関の嵐に心をすませ琵琶を弾いた所です。
そこへ源博雅という琵琶の名手が、風の吹く日も吹かぬ日も、
雨の降る夜も降らぬ夜も、三年間、毎日通い続けて耳をすませ、
琵琶の秘曲とされる三曲(流泉・啄木・楊真操)を伝えたということです。
その昔の出来事や蝉丸が侘住まいした藁(わら)家なども思い出されて、
いっそう感慨深いものがあります。

逢坂山を打ち越えて、勢田の唐橋駒もとどろに踏みならし、
ひばりあがれる野路の里(草津の南)、志賀の浦波春かけて、
霞にくもる鏡山、比良の高嶺を北にして、伊吹の嶽も近づきぬ。
心を留むとしなけれども、荒れてなかなかやさしきは、
不破の関屋の板びさし、いかに鳴海の汐干潟、
涙に濡れて行くうちに、あの在原業平が『伊勢物語』で、
「か・き・つ・ば・た」の五文字を歌の各句の上に据えて
♪唐衣きつつなれにし妻しあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思う と詠んだ地、
かきつばたの名所三河国の八橋(愛知県知立市)にさしかかっても
物思いは尽きぬまま、いつしか浜名湖を渡り、
池田の宿(静岡県磐田市池田)に着きました。(巻十・海道下)

今回は重衡がその道すがら偲んだ蝉丸ゆかりの関清水蝉丸神社を訪ねましょう。

京阪電車の踏切を渡って境内に入ります。

鳥居をくぐると右手に蝉丸の歌碑が建っています。

♪これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関と
多くの旅人が逢坂の関を行き交う様子を詠んだ歌は、
小倉百人一首に収められています。


境内には歌枕として知られる関の清水があります。
♪逢坂の関の清水に影みえて 今や引くらむ望月の駒 紀貫之

琵琶法師の信仰を集めてきた関蝉丸神社下社の拝殿

拝殿の奥に建つ本殿

本殿横の六角形の時雨燈籠(国重文)



社殿横の小道を上ると小町塚があります。

小町塚
花濃以呂は宇つりにけりないづらに わが身世にふるながめせしまに
碑文はレファレンス協同データーベースよりお借りしました。

小野小町は関寺で晩年を過ごしたと言われ、
関寺を舞台にした謡曲「関寺小町」があります。
関寺はかつて逢坂関の東側にありましたが、平安時代中期に大地震で倒壊し、
その跡地に長安寺(大津市逢坂2-3-23)が建てられたといわれています。
『アクセス』
「関清水蝉丸神社」 滋賀県大津市逢坂1ー15-6 

 京阪電鉄・京津線「上栄町駅」下車 徒歩 10 分
上栄町駅から国道161号線を南(京都方面)に進むと右手に見えてきます。
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
 水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院
新潮日本古典集成「謡曲集」(中)新潮社 「滋賀県の地名」平凡社



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木曽義仲が討死して数年後、美しい尼僧がここに庵を結び、
義仲の菩提を弔ったという。里人が名を尋ねると
「われは名もなき女性(にょしょう)」と答えるだけでした。
この尼こそ義仲の側室巴御前でした。




義仲寺山門横の巴地蔵堂は巴御前を追福するためのお堂です。
本尊の石彫地蔵は地元民に古くから信仰され、八月のお地蔵さんを祀る行事、
地蔵盆が町内の人々によって賑やかに行われています。



山門を入って左手、身余堂の前に山吹供養塚、そして
♪かくのごとき をみなのありと かってまたおもひしことは われになかりき と
巴を詠んだ三浦義一の歌碑が巴塚の傍にあり、
巴塚の向こうには、義仲の墓、芭蕉の塚が並んでいます。

 山吹供養塚
「山吹は義仲の妻そして妾とも云う病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと
大津まで来た。
義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも
捕られたとも云われるその供養塚である。元大津駅前に在ったが
大津駅改築のため此の所に移されたものである」

山吹塚

大津市の秋岸寺は山吹御前終焉の地と伝えられ、
かってはその菩提を弔った山吹地蔵と供養塚がありました。
大正10年(1921)8月に大津駅開業に伴い、駅の西側一帯にあった
秋岸寺は廃寺となり、供養塚は、昭和48年に義仲寺の境内に移されましたが、
お地蔵様だけが取り残され、現在、駅の横に「山吹地蔵」という祠があります。
山吹ゆかりの地を下記のサイトでご覧ください。
山吹御前の塚  

 巴塚(供養塚)
木曽義仲の愛妻 巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが、義仲が
強いての言葉に最期の戦を行い、敵将恩田八郎を討ち取り涙ながらに
落ち延びた後 鎌倉幕府に捕えられた。
和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは
尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり 亡き義仲の菩提を弔っていたという。
それより何処ともなく立ち去り、信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。

 義仲・芭蕉塚辺に「朝日将軍木曽源公遺跡之碑」があります。
義仲末裔と称し、晩年侍医として仕えた葦原検校源義長が
天保3年(1832)義仲公六百五十年記念に建てた石碑です。


  碑文は風化されて読めませんが、拓本に取って判読された銘文が
『義仲寺と蝶夢』に載せられているのでご紹介します。
「義仲公に四子あり 長子義隆は右大将に殺され 次子義重先に卒し
三子義基 四子義宗逃れて外戚に依った
 その裔室町将軍に従って信中を受封し代々讃岐守また伊予守を相承し 
或いは織田氏に属して筑摩 安曇二郡を領した者
 伊予松山に在って千石を領した者 或いは剣道を以て尾州藩に仕えた者など
錚々(そうそう)たる人士が綿歴して居り義仲伝研究上に得る処が少なくない
尚筆者男谷思考は通称彦四郎燕斎と号し 
養子に男谷下総守あり 勝海舟の伯父に当たる人である」

この碑の題額は信濃松代藩主で徳川吉宗の曾孫に当たる真田幸貫、
選文(文章)は林羅山から八代目の大学頭林述斎、
それに儒者で表右筆(おもてゆうひつ)、男谷思孝の筆と一流のメンバーです。
なお、義仲の系譜を「西筑摩郡誌」 では初代を木曽義仲として
2代目を二男義重としていますが、江戸時代、木曽代官山村家が編纂した
「木曽考」によると、義仲を初代とし、2代目は三男義基としています。



木曽八幡社

昭和51年無名庵、粟津文庫を拡張新造し史料観を新築。
義仲寺の鎮守として、
古図に見える
木曽八幡社の社殿鳥居を併せて新造、
11月13日夜、遷宮の御儀が行われました。
これらの土木建築及び落慶の一切の費用は、
京都に本社を置く一教育出版社の寄進によるものです

『参考資料』
高木蒼梧「義仲寺と蝶夢」義仲寺史蹟保存会 「木曽義仲のすべて」新人物往来社
「朝日将軍木曽義仲」日義村役場



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義仲寺は荒廃と復興を繰り返してきました。寺伝によれば、室町時代末に
近江国守護・佐々木(六角)氏によって再建され、その後荒廃したところ、
元禄期に芭蕉が度々滞在し、墓所と定めたことで復興し、さらに荒廃したのを、
江戸中期には京都の俳僧、蝶夢(ちょうむ)が復興しました。
そして戦後、荒廃していた寺の復興に尽力したのが保田與重郎と三浦義一です。

 芭蕉没後、丈草が無名庵の庵主となり芭蕉の墓を守りながら毎月、同門の輩を
招いては句会を開いていました。しかし、京都落柿舎の向井去来、続いて丈草が
亡くなると、間もなく蕉門(芭蕉一門)は解体し、檀家のない義仲寺は廃れます。

寛保3年(1743)の芭蕉五十回忌前後から蕉風復興運動が起こり、
安永年間(1772~1781)には、芭蕉へかえれという復古運動が高揚、
芭蕉は俳聖として次第に伝説化されていきます。
こうした流れの中、
蝶夢は宝暦13年(1763)芭蕉七十回忌に義仲寺に参詣したのを契機に
再興を決意し、明和5年(1768)、浄財喜捨(じょうざいきしゃ)を募り、
翌年に翁堂(芭蕉堂)などを再建しました。

寛政3年(1791)には芭蕉の遺品や俳諧の小書籍書画を納める
粟津文庫を創設し、同5年(1793)には、諸国の俳人500人を集めて
芭蕉百回忌を盛大に行いました。
これを記念し制作された『芭蕉翁絵詞伝(三巻)』は、蝶夢が11年の歳月を
かけて芭蕉の伝記をまとめ、狩野正栄の絵をさし入れた絵巻です。
天明2年(1782)には『芭蕉門古人真蹟』を収集し、いずれも粟津文庫に納めています。
この文庫の史料什宝は、史料観にて適時取り替え展示・公開されています。

その後、安政3年の火災、琵琶湖大洪水など、
度々改修が行われましたが、戦後、荒廃、壊滅に瀕していた寺を、
三井寺円満院から買い取り、朝日堂・無名庵、翁堂を修復し、
昭和40年、時雨忌に再建落慶法要が営まれました。
これに要した一切の費用は、東京の三浦義一翁の寄進と
大分の株式会社後藤組会長、後藤肇氏の施工奉仕によるものです。
修復工費は約一千万円。(『義仲寺と蝶夢』)








拝観の際に寺務所で、保田與重郎撰文(文章)による
「昭和再建落慶誌」をいただきました。
そこに昭和再建の模様が具体的に記されているので全文を掲載しておきます。

昭和再建落慶誌

  史蹟義仲寺は近時圓満院の所管となつてより寺庵荒廃壊滅に瀕し
両墳墓の存続さへ危い状態にて県市当局による保存の方策も悉く
失敗に終つた 時に東京都三浦義一翁京都在住の知人によりこれを知るや
巨額の私財を寄進して 義仲寺を圓満院より分離独立させた
 同じ時大分市後藤肇氏これを聞き発奮して 大分より工匠職人を率ゐきて
朽頽の寺庵総てを再建修理し 併て造園の工事を終る
 昭和四十年十月十二日 義仲寺無名庵昭和再建落慶法要を挙行
 石鼎法師の晋山式と芝蘭子宗匠の入庵式行ふ 天高く晴れ大衆境内に満ち
近来の盛儀となる此度義仲寺無名庵昭和再建に当り
東京都大庭勝一氏の奉行の盡力殊に甚大であつた 
昭和四十一年六月四日社団法人義仲寺史蹟保存会発足に当り
義仲寺無名庵昭和再建の由来を誌し 千秋萬歳に史蹟永存を祈願する

     昭和四十一年六月四日     保田與重郎撰文並書

境内の最奥に、この寺の再建を呼びかけた保田與重郎と
巨額の私財を寄進した三浦義一の墓があります。

保田與重郎(よじゅうろう)は、戦前「日本浪漫派」を創刊し、
強烈な近代精神によって日本主義文学を打ち立てたことで知られた評論家。
第二次世界大戦を正当化し一躍時代の寵児となりますが、
戦後は戦意高揚に加担したと批判されて
一時、公職追放を受け、文壇からも放逐されました。
終戦によって自分の思想・信念を曲げなかったきわめて稀な文筆家です。
著書も多くあり、中に『芭蕉』『後鳥羽院』『日本の橋』などがあります。


三浦義一は、昭和時代の政財界のフィクサーで歌人。
中学時代に短歌「維新の会」同人、アララギ派に属し早大予科に進み、
文学の道を志して北原白秋の内弟子となりますが、
血気に逸り門を去り、早稲田大学を中退して大分に帰ると
父三浦数平(大分市長、衆議院議員)のコネで九州電力に入社。
昭和2年、再び上京して政治活動に入り、大亜義盟及び国策社を結成します。
同7年宮内省御用菓子舗虎屋恐喝事件、同9年三井合名会社顧問・益田孝を
不敬罪で恐喝、同14年中島知久平(ちくへい)狙撃事件をおこし、
これら3事件で懲役2年の判決を受けています。
戦後は右翼運動の育成に力を尽し、また政財界の黒幕となり、
東京日本橋室町に事務所を構えたことから室町将軍と異名をとります。
歌集に「当観無常」「玉鉾の道」「悲天」があります。
『参考資料』
「義仲寺と蝶夢」義仲寺史蹟保存会 「義仲寺案内」義仲寺
「芭蕉、蕪村、一茶の世界」美術出版社 現代日本「朝日人物事典」朝日新聞社
「20世紀日本人名事典」日外アソシエーツ 京都・身余堂の四季「保田與重郎のくらし」新学社

 



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松尾芭蕉は湖南をこよなく愛し、たびたびこの地を訪れ義仲寺で過ごしています。
湖南には信頼する多くの門人たちがいて、人々の情は厚く、
芭蕉にとって心休まる故郷のような土地だったようです。
芭蕉が最初に大津を訪れたのは『野ざらし紀行』の旅の途中、
貞享元年(1684)9月、41歳の時のことで、それから51歳で亡くなるまでに、
9回も大津を訪れ、90句ほど作っています。芭蕉が生涯に詠んだ句は
980ほど
といいますから、1割近くが近江で詠んだ句ということになります。

芭蕉にとって近江と近江の人は特別なものでした。
元禄3年(1690)晩春、幻住庵に入る直前、志賀辛崎に舟を浮べて
♪行く春を近江の人とおしみける と詠んでいます。
芭蕉真蹟(直筆)のこの句碑が史料観傍の芭蕉樹の中にあります。
なお桃青(とうせい)は芭蕉の別号です。
芭蕉という俳号は、芭蕉樹からきています。
芭蕉の葉が風雨に破れやすく、破れやすいという点が
自分自身に似ているところからこの号を用いたといわれます。
また江戸の門人、李下(りか)に贈られ、深川の庵の前に植えた
芭蕉の苗が大きく成長し、近所の人が芭蕉翁と呼んだところからとも。
 
芭蕉は「奥の細道」の旅を終えて伊勢まで帰ると
又玄(ゆうげん)宅に宿泊し、伊勢神宮の内宮、外宮を参拝します。
伊勢神宮は20年毎に建て替えられ、芭蕉の訪れた年は
ちょうどこの式年遷宮の年に当たっていました。
又玄(島崎味右衛門)の家は代々、
伊勢神宮の御師(おし)という下級神職を務めていましたが、
この時は父を亡くして貧乏のどん底でした。若い夫婦が苦しい生活の中で、
精一杯のもてなしをしてくれることに芭蕉は深く感謝し、
その妻に句と文章を贈っています。
  ♪月さびよ明智が妻の話せん
寂しい月明りのもとですが、そなたに明智光秀の話をしてあげましょう。

明智光秀は若いころ、仕官先もなく貧乏でした。連歌の会を開く
お金が要るというので、妻は自慢の長い黒髪を切ってお金に換え、
夫に差出したといいます。

元禄4年(1691)9月、又玄は芭蕉が滞在していた義仲寺を訪れて
無名庵に一泊、木曽義仲の墓と背中合わせに寝て寒さを感じ
♪木曽殿と背中合わせの寒さかな の句を作ります。
この句碑が無名庵の傍に建っています。
ちなみに無名庵は義仲の墓
の真後ろ、墓は西向きに位置しています。
 
膳所藩の重臣(商人とも)水野正秀の計らいで境内に無名庵が建てられますが、
元禄4年1月の正秀宛ての書簡の中で、芭蕉は建築中の無名庵について
あまり立派な建物を造らないようにと要請しています。
引き続き旅の生活を続ける覚悟で、ここにも定住するつもりはなかったようです。

境内奥には、膳所藩重臣の菅沼曲水(曲翠・菅沼定常)の墓があります。
曲水は妻や弟で膳所藩の藩士怒誰(どすい)、
伯父の水野正秀とともに芭蕉の弟子となり、正秀同様、
芭蕉を経済的に援助した人として知られ、芭蕉が最も信頼した一人でした。
元禄6年(1693)、江戸にいた芭蕉は余程お金に困っていたのでしょう。
江戸在勤中の曲水にお金の無心をしています。

「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄3年(1690)、
4月から7月にかけて幻住庵で旅の疲れをやすめます。
幻住庵を芭蕉に貸したのは曲水です。幻住庵は伯父の
幻住老人(菅沼定知)が晩年、石山の国分山(大津市国分町)の
近津尾八幡宮の傍に建てた庵で、その没後、手を入れて提供します。
そこからは琵琶湖が一望でき、比良・比叡の峰々、
三上山の美しい姿などが眺められる景勝地です。

この庵で「石山の奥、岩間のうしろに山あり。国分山といふ。
そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。」で始まる『幻住庵記』を綴り、
「北風海を浸して涼し。日枝の山、比良の高根より、
唐崎の松は霞こめて、城あり、橋あり、釣りたるる人あり、
美景、ものとして足らずといふことなし。」と琵琶湖や比叡、
比良の山々などの風景を激賞しています。

芭蕉は初対面の曲水の印象を「ただ者には非ず」と語り、
また『幻住庵記』の中で「勇士菅沼氏曲水子」と記しています。
 芭蕉(1644~94)が亡くなった後の享保2年(1717)7月、
不正の人、膳所藩悪家老曽我権太夫が殿様の供をして
東へ下るといって挨拶に来た際、曲水は曽我権太夫を槍で刺殺します。
自らも責任をとってその場で自害したのは60に近い年齢だったといいます。

曲水は主君に迷惑がかからぬように、原因は私怨にあるとしたので、
江戸にいた息子内記も直ちに切腹させられます。
後に曲水の忠誠心の強い剛胆な人物であった事が主君に知れ、
一家を再び藩に取り立てようとしましたが、家は断絶したあとでした。
このような事情から長い間、曲水の墓はなかったのですが、
昭和48年、義仲寺内に没後257年にして初めて造られました。

藤堂高虎は芭蕉の母方の祖父、藤堂良勝の従兄弟にあたります。(『芭蕉めざめる』)
琵琶湖に突き出た土地に築城された
膳所城は、本丸を湖水に張りだした
水城で、築城の名手藤堂高虎の手になり、
その美しい景観は「瀬田の唐橋
 唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、
水に映るは膳所の城」と里歌にも謡われます。
芭蕉は祖父の従兄弟、藤堂高虎が建てた城が見える木曽塚の地で
波音を聞きながら眠りたいと遺言したことにもなります。

なお膳所城主は三河以来の家康の家臣である戸田一西(かずまさ)から
氏鉄、本田康俊、菅沼定芳(曲水の伯父)、石川忠総と変転を重ね、
伊勢亀山から本田俊次が入封してからは世襲して幕末に至っています。
 義仲寺前の旧東海道を直線距離で1キロほど東南に行った
湖の中にあったのが膳所城で、現在、本丸跡が膳所公園として整備され、
湖に浮かぶ湖城の面影をしのぶことができます。

須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇  
『アクセス』
「義仲寺」大津市馬場1丁目5-12
京阪電車石山坂本線「膳所駅」またはJR「膳所駅」下車徒歩約15分
「膳所城跡公園」京阪電車石山坂本線「膳所本町駅」下車 徒歩約10 分
『参考資料』

山本唯一「京近江の蕉門たち」和泉選書 田中善信「芭蕉」中公新書
光田和伸「芭蕉めざめる」青草書房 魚住孝至「芭蕉 最後の一句」筑摩書房
「松尾芭蕉」桜楓社 高木蒼梧「義仲寺と蝶夢」義仲寺史蹟保存会
「芭蕉翁 大津来遊のしるべ」義仲寺 「日本人名大事典」平凡社

 



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滋賀県大津市の朝日山義仲寺(ぎちゅうじ)は、室町時代末に
近江守護の佐々木六角氏が義仲の菩提を弔う寺を
建立したことに始まると伝えられています。

江戸時代の中頃までは、木曽塚・無名庵(むみょうあん)と呼ばれ、
義仲の墓の傍に柿の木があるだけの小さな寺だったという。
境内には木曽義仲と芭蕉の墓があり、
境内全域が国の史跡に指定されています。

京阪電車膳所駅から琵琶湖岸に向かって約350㍍進みます。
旧東海道との交差点を左折し、約50㍍進むと左手に義仲寺があります。

琵琶湖の西岸、寺の前の道は旧東海道です。
古くはこの辺りを粟津ヶ原と呼んだという。

武家屋敷のような山門の右手の地蔵堂は巴地蔵堂と呼ばれ、
古くから地元の信仰を集めています。



芭蕉がこの寺を初めて訪れたのは、奥の細道の旅から帰った
元禄2年(1689)、ちょうど寺の修理を終えた頃でした。

この年の暮れはこの寺で過ごして新年を迎えました。
その後も粟津の戦いで最期を遂げた義仲の武骨な生き方に共鳴し、
敬愛していた芭蕉はこの寺に
度々滞在しています。
湖南には芭蕉が信頼する膳所藩重臣の本田臥高・菅沼曲水や
曲水の伯父水田正秀などの多くの門人がいました。なかでも曲水は、
石山寺に近い国分山中にあった庵を幻住庵として芭蕉に提供し、
義仲寺境内には水田正秀によって無名庵が建てられます。

山門を入ると境内右手に寺務所、史料観・朝日堂その奥に翁堂が建ち並び、
左手に芭蕉ゆかりの俳書などを納めた粟津文庫・無名庵と続きます。
庭には山吹・巴塚・木曽義仲の宝篋印塔、その右隣には芭蕉の墓が並び、
芭蕉や無名庵主らの20基近い句碑が点在しています。境内奥に義仲寺鎮守の
木曽八幡社や曲水、昭和再建に尽力した保田與重郎などの墓があります。

















芭蕉翁真筆句の版木

朝日将軍にちなむ朝日堂

朝日堂には、本尊の聖観世音菩薩・義仲・義高父子の木造が納められた
厨子や今井兼平、芭蕉と門弟らの位牌が祀られています。




芭蕉像を安置する翁堂には、芭蕉と丈艸・去来の木像、側面に蝶夢の陶像、
壁には三十六俳人の画像が掛けられて弟子たちが今も寄り添っています。

天井は伊藤若冲筆四季花卉(かき)の図です。
尚、『義仲寺案内』には、「翁堂は安政3年(1856)類焼、同年再建、

現在の画像は明治21年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を
制作し奉納したものである」と記されています。



元禄7年(1694)9月、旅先の大阪で病に伏せた芭蕉は、
大坂本町の薬屋だったという弟子の之道(しどう)宅から
近くの南御堂前の花屋仁右衛門の貸座敷に病床を移します。
臨終の床で、大津の乙州(おとくに)に「さて、骸(から)は木曽塚に送るべし。
爰は東西のちまた、さざ波よき渚なれば、生前の契深かりし所也。
懐かしき友達のたづねよからんも、便わずらわしからじ。」
(路通『芭蕉翁行状記』)と語ったといいます。

治承4年(1180)、以仁王の平家追討の令旨を受けて挙兵した義仲は、
倶利伽羅合戦で平家軍に大勝し、北陸道から京へ入り平家を西国に追いやりました。
しかし、朝廷と源平の三つどもえの争いの中、後白河法皇と対立し、
法皇の命を受けた源範頼・義経軍と戦い寿永3年(1184)に粟津で戦死しました。


芭蕉は義仲をこよなく愛し、大坂で逝去の際、
義仲寺の木曽塚の隣に埋葬してほしいと遺言し建てられた墓。


無名庵

木曽塚は義仲寺にある義仲の墓所ですが、芭蕉は「膳所は旧里のごとし」と語り、
湖南蕉門らの集う無名庵を幾度となく訪れ交流を重ねています。
芭蕉の時代、比良・比叡の山なみが連なる琵琶湖に面し、道のすぐそばまで
波が打ち寄せる風光明媚な木曽塚の地は芭蕉が愛したところです。
東海道沿いにあるこの地は、懐かしい人たちが訪ねてくれるのに都合がよく
自分の死後も弟子たちが時折尋ねて来て句会を催すことを望んでいたようです。
ちなみに大津市打出浜・におの浜付近の湖岸は
市街地を広げるため、昭和30年代に埋立てられました。

元禄7年10月、芭蕉の遺骸は遺言通り、門人の手で花屋仁右衛門別宅から
川舟に乗せられ、淀川を遡って琵琶湖畔に到着し、木曽塚の隣に葬られました。
丈艸(じょうそう)筆による「芭蕉翁」の文字が刻まれた
塚の傍には冬枯れの芭蕉が植えられます。
芭蕉は悲劇の武将義仲や義経に心惹かれたといわれています。
ともに源氏再興を願い平家追討に身を捧げながら
やがて頼朝と対立し歴史の舞台から消えてしまったという意味では、
義仲と義経は同じ運命を辿ったということになります。

「おくの細道」の旅で芭蕉は平泉高館に上り
奥州藤原氏三代が滅亡したあとの夏草が生い茂る情景を
♪夏草や兵どもが夢の跡 と詠んでいます。
平泉は奥州藤原三代・清衡、基衡、秀衡が居を構え、
高館には義経の館があったといわれ、
父、秀衡の死後、鎌倉方と組んだ泰衡にこの館を襲われた
義経は妻と娘を殺害したのち自害します。
時に31歳、奇しくも義仲がこの世を去ったのと同じ年令でした。

この旅の途中に多太神社(石川県小松市)に参拝し、
幼い義仲を木曽へ連れてきてくれた斎藤実盛の
遺品の兜を拝見します。実盛は始め源氏の武将でしたが、
平治の乱後、平宗盛に仕えていました。
きりぎりすの鳴き声を聞き
実盛の無残な最期を思い起こし「むざんやな」と嘆き
♪むざんやな甲の下のきりぎりす の句を奉納、
やがて白山が見えなくなる旅の最後には、
湯尾峠を越えて源平古戦場の燧ヶ城(ひうちがじょう)へ。

義仲軍を迎え撃とうと、北陸路を進んだ平家軍はこの城にたてこもる
義仲方の軍勢を破り加賀に攻め入り、その後、
倶利伽羅峠の合戦で平家軍は義仲軍に大敗することになります。
♪義仲の寝覚めの山か月悲し と吟じ、
木曽塚の傍らの無名庵に滞在し、真直ぐで豪胆な義仲の性格を
雪の下でたくましく芽吹く草にたとえて
♪木曽の情雪や生えぬく春の草 の句を作っています。

『姓氏家系大辞典』によると、芭蕉は桓武平氏拓植(つげ)氏族で
平宗清の末裔により、宗房と名乗ったと記されています。
芭蕉が義経・義仲にとりわけ強い思いを寄せていたことについて
『芭蕉 最後の一句』には次のように書かれています。
「伊賀国は室町時代から群小の土豪の力が強く、織田信長の次男
信雄(のぶかつ)の侵攻も撃退していたが、天正九年、信長は
大軍で攻め寄せ、抵抗する伊賀の土豪を殲滅(せんめつ)掃討した。
芭蕉は伊賀の土豪の出身であると思われることから、
源氏の義経や義仲などの敗残者に熱い思いを
寄せることになったのではないかと推測できる。」

「義仲忌」が毎年1月第3日曜日、5月第2土曜日には、
翁堂に鎮座する芭蕉翁の像に白扇を奉納する「奉扇会」、
芭蕉翁の忌日「時雨忌」は、11月の第2土曜日に営まれています。

松尾芭蕉終焉の地 (南御堂) 
義仲寺2(芭蕉) 義仲寺3(芭蕉以後)  義仲寺4(巴塚・山吹供養塚)
                           

『アクセス』
「義仲寺」大津市馬場1丁目5-12

京阪電車石山坂本線「膳所駅」または
JR膳所駅下車徒歩約10
3月から10月:9:00から17:00 11月から2月:9:00から16:00
定休日月曜日(祝日除く) ※4・5・9・10・11月の月曜日は無休

『参考資料』
田中善信「芭蕉」中公新書 「松尾芭蕉」桜楓社 
「おくのほそ道大全」笠間書院 太田亮「姓氏家系大辞典」角川書店
魚住孝至「芭蕉 最後の一句」筑摩書房 「滋賀県の地名」平凡社
「滋賀県の歴史散歩」(上)山川出版社 光田和伸「芭蕉めざめる」青草書房 

 高木蒼梧「義仲寺と蝶夢」義仲寺史蹟保存会 「芭蕉翁 大津来遊のしるべ」義仲寺
長谷川櫂「奥の細道をよむ」ちくま新書 「平家物語を歩く」講談社



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『平家物語』(巻9)木曽最期の章段で
「あれに見え候ふは、粟津の松原と申し候。
三町(300m余)には過ぎ候ふまじ。あれにてご自害候へ」と
乳母子の今井兼平が義仲の死に場所に選んだのが粟津の松原です。
しかし松原に向かって駆ける途中、義仲は深田に馬の脚をとられて動けなくなり、
あとに残してきた兼平を案じて振向いた瞬間、矢が顔面を射ぬきました。

粟津の松原は旧東海道沿いの松並木で、
歌枕として知られ湖岸の美しい松原だったといわれます。
近代以降、旧東海道から琵琶湖側は埋め立てられ、
今では粟津中学校の西側の道沿いに数本の松の木があるだけですが、
近年、現在の湖岸にも松が植えられ、安藤広重の版画に見られるような
近江八景「粟津の晴嵐」の風景が復元されています。







粟津中学校

粟津中学校あたりに残る数本の松の木

『義経ハンドブック』に「木曽義仲の最期の地」として
膳所城勢多口総門跡(粟津の番所跡)の碑の写真が掲載されているので、
粟津中学校付近にところどころに残る
松の木を眺めたあと、この石碑をたずねました。
旧東海道を北西へしばらく行くと、道は左にほぼ直角に曲がります。
その手前の民家の玄関脇に碑はあります。

江戸時代に膳所城勢多口総門が建っていた所で、
本田氏六万石の膳所城下町の南入口にあたり、ここに番所を設けて
旧東海道を通って京へ向かう旅人に監視の目を光らせていました。
でもそこには石碑がたっているだけで、
義仲最期についての説明板はどこにも見当たらず
『滋賀県の地名』で、膳所城勢多口総門を調べてみましたが、
やはり義仲について何ら記述がありません。
ちなみに膳所城下町の北西の入口を北総門といい、
ここにも番所が設置されていました。

義仲最期の地について、『義仲寺略史』には
「当、義仲寺の地は、その昔は粟津ヶ原と云われ、寿永三年一月二十日、
征夷大将軍木曽義仲公はここで討死された。云々」とあります。
この件について「公益財団法人滋賀県文化財保護協会」に問い合わせたところ、
「義仲の最期については、粟津の松原あたりの深田に馬の足をとられたところを
弓矢で討たれたと伝えられるだけで、
具体的にその場所が
総門跡であったかどうかはわからないと思う。」というお返事をいただきました。





出家し伊勢で穏やかな生活を送っていた西行は、義仲討死の知らせを受けると
源氏同士の悲劇を次のように詠んでいます。
 木曽と申す武者、死に侍りにけりな
♪木曽人は海の怒りをしずめかねて
               死出の山にも入りにけるかな(聞書集)

「海の怒り」とは西海に逃れたのち、瀬戸内海を制覇しつつあった平家を指しています。
木曽育ちの義仲は海の怒りを鎮めることができず、死出の山に入っていったよ。

西行はもと鳥羽院の御所警護の北面の武士でしたが、
23歳で出家し歌道一筋の道を貫きました。
粟 津
義仲最期の地となった粟津は滋賀県大津市南部、
琵琶湖最南端部の瀬田川河口西岸に位置する広域の地名をいい、
古来より交通の要衝であるとともに壬申の乱や藤原仲麻呂の乱からも
知られるように軍事衝突の絶えなかった地点でもありました。

『枕草子』に「粟津野」「粟津の原」とみえ、『梁塵秘抄』には
近江の歌枕・名所として「粟津・石山・国分や瀬田の橋」などをあげ、
江戸初期には近江八景の一つ「粟津の晴嵐」として定着します。
義仲と今井兼平の最期をご覧ください。
木曽義仲の最期(打出の浜)  
『アクセス』
「粟津晴嵐の碑」日本精工の工場の裏手付近(大津市晴嵐一丁目)
JR石山駅下車徒歩約10分
「粟津中学校」大津市晴嵐一丁目20-20
「粟津の番所跡・膳所城勢多口総門」大津市御殿浜19-37
『参考資料』

「滋賀県の地名」平凡社 「義経ハンドブック」京都新聞出版センター
「義仲寺略史」義仲寺 五味文彦「西行と清盛」新潮社 白洲正子「西行」新潮文庫

 

 



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最期まで木曽義仲を守って奮戦した今井兼平の墓は、
JR石山駅に近い盛越(もりこし)川のほとりの木立の中にあります。
小公園のような墓所には、粟津史跡顕彰会の碑や改修記念碑とともに、
子孫によって建てられた鎮魂碑、顕彰碑、
灯篭や献花筒などが数多く建ち並んでいます。

 今年一月、兼平から三十五代目の子孫にあたる今井六郎さん(八六)

長野県岡谷市ら全国の百三十人でつくる「今井兼平同族会」が、
兼平の忠節をたたえる「表忠文」を墓の隣に復刻した。
六郎さんの妻密子さん(八五)は「古典にも立派に描かれている
兼平は『知る人ぞ知る』存在。本多氏ら滋賀の方々がつくってくれた
ご縁を大切に、今後も地味にお守りしていきたい」と話す。
『京都新聞』ふるさと昔語りより抜粋(2006年11月28日掲載)
 

今井兼平は木曽義仲の養父・木曽の豪族中原兼遠の子で、
義仲とは同じ乳で育った乳兄弟の間柄です。
『平家物語』には、忠実な乳母子の典型として描かれています。
兄・樋口次郎兼光、根井行親、楯親忠とともに木曽四天王といわれ、
義仲挙兵とともに有力武将として、各地を転戦し活躍しています。

説明板に記されている膳所藩主本田俊次が兼平の墓石を建立した
「中庄の篠津川上流の墨黒谷(すぐろだに)」について、滋賀県文化財保護協会に
問い合わせたところ、「墨黒谷の現位置はわからない」とのお返事をいただきました。
 
義仲四天王のひとり、今井兼平は粟津の戦いで
義仲が討たれたことを知るや自ら刀を口に逆立て馬から落ち、
壮烈な最期を遂げたという逸話が『謡曲兼平』にも残っています。


JR石山駅

石山駅から工場にはさまれた裏通りにでます。

墓所の傍を流れる盛越川



兼平庵について杉本苑子『平家物語を歩く』
(昭和46年淡交社より刊行されたものを昭和60年に文庫本として発行)
に次のように記されています。

(兼平墓所の)「地つづきの藪の中に、寺や宮ではなく、と言って
ふつうの住宅にしてはどこか古雅なひと構えが見えるので、
そこの住人らしきお婆さんにたずねると「兼平庵と申します」と
雑草取りの手を休めてほほえむ。墓守をしておられるのだそうだ。」
この本には、墓所には墓守がいたと書かれていますが、
兼平の墓には、10年以上前に一度と今回とで二度たずねましたが、

それらしき人は見かけませんでした。





今井兼平の墓









今井四郎兼平の伝承地
1)兼平は木曽から肥沃な北方の地に進出し、
現在の松本空港付近の信濃国筑摩郡(長野県松本市)
今井の地を領有し今井四郎と呼ばれます。
今井は近世後期に上・下に分かれ、上今井には今井神社があり、
下今井の諏訪神社には、兼平形見石と呼ばれる
梵字が刻まれた高さ1m余の板碑(いたび)があります。

2)義仲が中原兼遠の元から佐久地方に拠点を移すと、
乳母子の今井兼平も移動し、その際に兼平が居住したという
今井城址が佐久市今井にあります。

3)義仲が挙兵すると、義仲追討軍として越後(新潟)の平家方の
城長茂の大軍が信濃に進攻します。義仲は佐久の豪族根井行親一族に
擁され、信濃国を北上し横田河原の戦いで城軍に勝利します。
横田河原には、兼平が義仲から拝領した
更級郡富部郷今井(長野市川中島町今井)があり、
そこに今井神社が祀られ、道路を隔てた一角に兼平の墓所があります。

4)群馬県渋川市にある木曽三社神社
(上野国勢多郡北橘村下箱田)は元歴元年(1184)の創建。
社伝によると、木曽義仲が粟津で討死ののち、
その遺臣今井・高梨・町田・小野沢・萩原・諸田・串淵らが、
義仲が尊崇した信濃国筑摩郡の岡田・沙田・阿礼の
三社の神体を奉じこの地に祀ったという。

木曽義仲最期(今井兼平と再会した打出浜)  
『アクセス』
「今井兼平の墓」大津市晴嵐2
JR琵琶湖線「石山駅」または京阪電車石山坂本本線「京阪石山駅」下車 徒歩5分
『参考資料』
武久堅「平家物語・木曽義仲の光芒」世界思想社
「長野県の地名」「群馬県の地名」平凡社 杉本苑子「平家物語を歩く」講談社文庫
「図説源平合戦人物伝」学習研究社

 

 



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平家物語の圧巻「木曽の最期の事」は、
義仲と乳母子今井四郎兼平の深い心の絆を感動をこめて語っています。
今回は木曽義仲が東国軍の包囲網を逃れ、瀬田から敗走してきた
乳母子の今井兼平と出会った打出の浜をご紹介します。

児玉輝彦筆「再会」今井四郎兼平(部分。新潟県川西町歴史民俗資料館蔵)
範頼・義経の東国勢に勢多を破られた兼平は義仲を探し求めました。
(『図説・源平合戦人物伝』より転載。)

源頼朝は義仲追討の院宣を受けて
義経と範頼を総大将として、
寿永2年(1183)年の瀬に軍勢を京都に向かわせました。
範頼は勢多を通って西へ、義経は宇治から北上して都に進みます。
宇治川・瀬田川で敗れた義仲は、長坂峠から丹波街道へ落ちて行くとも、
大原から龍華越を北国へ抜けるとも噂されました。
しかし義仲はその道筋を取らず瀬田に向かいます。
瀬田川を守っていた今井兼平の行方が気にかかり、範頼軍が
都へ進軍してくる道を逆方角に、追撃する敵を振り払いながら
三条河原から粟田口、松坂(粟田口から山科に抜ける日ノ岡峠の西側)、
山科から瀬田へと進んで行きます。
日頃から「死ぬときは一所」と幼いころから約束していたのです。

去年、信濃を出た時には、五万余騎と言われた軍勢も、
今日、四宮河原(山科四宮)を過ぎる頃には、僅か七騎となっていました。
義仲は信濃から巴と山吹を連れていましたが、
山吹は病気のために都に留まり、巴はその七騎のうちにいました。

一方、八百余騎の手勢が五十騎となった兼平も、義仲の身を案じて旗を巻いて
都へ引き返す途中、主従は打出の浜で偶然に行き逢います。互いに遠くから
それと分かり、駒を早めて駆け寄り、手を取り合って再会を喜びます。
「兼平よ。義仲は、六条河原で討死するところであったが、そなたの身が恋しゅうて、
ここまで探しに来たのだ。」と言えば、「お言葉かたじけのうございます。
兼平とて同じでございます。殿の行方を案じてここまで参りました。」と答えます。

「味方の兵がまだこのあたりにいるかも知れぬ。ここで最後の戦を仕掛けようぞ。
そなたが持っている旗を今一度揚げてみよ。」兼平が旗を高く掲げると、
あちこちから残兵が駆け集まり、いつしか三百余騎となります。
こうしてここを死に場所と決め、最後の戦いを挑みます。
相手は甲斐(山梨県)の一条次郎忠頼率いる六千余騎です。

木曽左馬頭(さまのかみ)、その日の装束は、赤地の錦の直垂(ひたたれ)に
唐綾威(からあやおどし)の鎧着て、鍬形(くわがた)打ったる兜の緒を締め、
いかものづくりの大太刀をはき、
射残した矢を高々と背負い、名高い木曽の鬼葦毛(おにあしげ)という馬に
金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて乗り、鐙(あぶみ)ふんばり大音声をあげ
「日頃も聞きけん木曽の冠者を今こそ見よ。朝日将軍源義仲であるぞ。
それなるは甲斐の一条次郎と聞く。みごと義仲を討ちとって頼朝に見せるがよい。」と
散々に駆けめぐるうちに残ったのは五十騎、さらに続く土肥次郎実平の二千余騎を
駆け破り、駆け破り行くほどに手勢は討たれて五騎ばかりになってしまいました。

その五騎の中にも巴は生き残っていました。
ここで義仲が「お前は女であるから何処へでも落ち延びよ。
義仲が最後の戦に女を伴っていたといわれるのは恥だ。」と言っても
聞きません。しかし繰り返し諭され、やむなく戦場を落ちて行きました。

その後、五騎のうち篠原合戦で斎藤実盛を討取った手塚太郎は討死し、
その叔父の手塚別当も去りました。
最後に兼平とただ二騎となった義仲が「日ごろは何とも覚えぬ鎧が、
今日は重うなったるぞや。」とふと弱音を吐くと
「それは味方に続く勢がいないので、そのように臆病なことをおっしゃるのです。
一領の鎧が急に重くなるわけがありません。兼平一人を武者千騎とお思いになって下さい。
射残した矢でそれがしが敵を防いでいる間にあの松原の中で静かにご自害なされませ。」と
兼平は主を大将軍らしく立派に死なせてやりたくて精一杯励まします。

「そなたと一所で死のうと京からここまで落ちてきたのだ。共に死のうぞ。」と答えると
兼平は馬から飛び降り、主の馬の口に取り付いて、涙をはらはらと流し
「武士は日頃いかに功名をなすとも、最後に名もなき郎党の手にかかって
果てるのは末代までの恥です。御身はすでに疲れています。馬も弱っています。
味方に続く勢もありません。急ぎあの松原へ」と説得されてただ一騎、
粟津の松原目指して馬を急がせます。

ころは春まだ浅い正月二十一日のたそがれ時、厳しい寒さの中、
湖岸の田には一面に薄氷が張りつめ、そこに深田があることに気づかずに踏込み、
馬は脚を深く取られ、腹を蹴っても鞭で打っても動きません。
その後方では兼平が寄せ来る敵をただ一騎で防いでいます。
「兼平はどうしているか」とふと振り向いた瞬間、迫りくる石田次郎為久の
矢に内甲を射られ、深手を負い馬の首にうつ伏します。

内甲(顔面)というのは鎧武者にとって最大の弱点です。
それを守るため甲は目深にかぶり、顔は伏せるようにして前傾姿勢で
敵の攻撃から防御しますが、義仲は兼平の身を案じて振向き、
矢が顔面を貫いて結局、雑兵に討ち取られてしまいました。

「木曽殿を相模国の住人、三浦の石田次郎為久が討ち申したぞ。」
この名乗りを聞いた今井四郎兼平は、もはや戦う意味がないと
「これ見給え。東国の殿方たち。日本一の剛の者が自害する手本よ。」と
叫ぶや太刀の先を口に含んで、馬から真っ逆さまに飛び落ち、
壮絶な最期を遂げました。時に義仲三十一歳、兼平は三十三歳でした。

義仲を射とめた三浦氏一族の石田次郎為久は、
この功により近江国室保(滋賀県長浜市石田町)を安堵されています。

瀬田を攻撃した範頼軍の中心勢力は一条忠頼が率いる武田源氏でした。
『源平盛衰記・頼朝義仲、仲悪しき事』によると
「一条次郎忠頼の弟武田五郎信光が義仲の嫡子清水冠者義高を
婿にと申し入れて断られ、それを根にもって、義仲が平氏と組んで
当家を滅ぼそうと企んでいると頼朝に讒言した。」とあります。
義仲は武田源氏の自分自身に対する私恨を十分承知し
最後の覚悟をしていた筈です。

最期の戦いに奮戦する兼平。
歌川国芳筆「粟津ヶ原大合戦の四天王今井兼平力戦して寿永三年正月三十三歳にて
英名をとぐむる」穂刈甲子男蔵 (『図説・源平合戦人物伝』より転載。)

 打出浜
義仲寺のすぐ近く、京阪膳所(ぜぜ)駅と石場駅の間に
打出浜という地名があります。

京から逢坂越えの道は、
古くは東に直進して琵琶湖に向かっていたと推定され、
義仲と兼平が再会した打出浜は、打出た浜の意味で名づけられたようです。

市街地を広めるために実施された昭和の埋め立て事業が

行われるまで、湖岸は県道18号線の内側付近でした。
県道18号線の交差点「打出浜」の地名が往時を伝えています。

県道18号線沿いの打出浜の標識

現在の打出浜には、近代的な公共施設が建ち並び、
その一画に建つ琵琶湖ホールは、埋め立て地の上にあります。


琵琶湖ホールから湖岸沿いに続くなぎさのプロムナードを歩きながら、
義仲・兼平が生きた遠い過去の時代に思いを巡らせました。
義仲最期の地(粟津の松原・粟津の番所跡) 
木曽義仲の里 (徳音寺・南宮神社・旗挙八幡宮)  
  『アクセス』
「大津湖岸なぎさ公園打出の森」大津市打出浜「琵琶湖ホール」大津市打出浜
京阪電車「石場駅」下車徒歩5分
 JR「膳所駅」下車徒歩15分

『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 「源頼朝七つの顔」新人物往来社
 「検証・日本史の舞台」東京堂出版 「滋賀県の地名」平凡社
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社
水原一考定「源平盛衰記」(巻四)新人物往来社 「図説・源平合戦人物伝」学習研究社

 



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平忠度は都落ちの途中、引き返して藤原俊成に和歌を綴った巻物を預けた後、
一の谷で討死し、平家一門も滅亡しました。
世の中が静まると、俊成は忠度に託された巻物の中から
一首『千載和歌集』に「読み人知らず」として収めます。
『平家物語』は、忠度は朝敵となった身、とやかく云っても詮ないことであるが、
だた一首それも読み人知らずとして扱われたことに心から同情し
「子細に及ばずとはいひながら、口惜しかりしことどもなり。」と結んでいます。

 故郷の花といへる心を詠み侍りける 読人知らず
♪ささなみや志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな

この歌は『万葉集』の「近江の荒れたる都を過ぐる時、
柿本人麻呂の作る歌」の本歌取りになっています。
故郷とは郷里のことでなく、かつて都があったところ、
故郷の花とは古都の桜という意味です。
これは忠度が23歳の時に、寂念の家での歌合せで詠んだもので、
都落ちはそれから20年後のことでした。


志賀の都は、人々の反対をおして天智天皇が大和から遷都し
即位した所ですが天皇の死後、皇位をめぐる争い、
壬申の乱によってわずか5年で廃都となります。
柿本人麻呂はこの宮跡を訪れ、
「玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ 生(あ)れましし
神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに
天(あめ)の下 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和をおきて
あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか
 
あまざかる 鄙(ひな)にはあれど 石(いわ)ばしる
 近江の国の ささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ
 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども
大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ
春日の霧(き)れる ももしきの 大宮所 見れば悲しも」(万葉集巻1・29)


(橿原宮で即位された神武天皇の御代以来、歴代の天皇が、
次々に後を継いで、大和で天下を治めになったのに、
天智天皇は大和を捨てて奈良山を越え、どのようにお思いになったのか、
鄙の国近江の大津宮で天下をお治めになったという。
その大宮は、ここだと聞くが、御殿はここだというが、
今は春草が生い茂り、春の日がかすんでいて何も見えない。
荒廃した大宮の跡を見ると悲しいことよ)と叙事的に歌っています。


忠度は人麻呂のこの長歌を想い起こし、本歌取りの技法を用いて、
かつて華やかな都であった天智天皇の志賀の都は、
今はすっかり荒れ果ててしまったけれども
長等山の山桜だけは昔のままに咲いていることだ。と
「ながら」と「長等」を掛けて、移ろいやすいものと
いつまでも変わらないものの象徴として
志賀の都、山桜をやさしく歌いあげています。
この忠度の歌碑が長等山に、歌碑の写しが長等公園近くの
長等神社の境内のしだれ桜の下にあります。




長等山麓の長等公園



公園奥の長等山不動明王の横の階段を上ります。

 上る途中、木々の間から大津市内が見え隠れします。

長等山の忠度歌碑

 忠度は平忠盛の六男で清盛の末弟にあたり、
「伯耆守」「薩摩守」などを歴任し、薩摩守忠度とも呼ばれます。
父の忠盛は武勇だけでなく優れた歌人として知られています。
『平家物語・巻1・鱸の事』には、忠盛が備前国から都に上った時、
鳥羽上皇に「明石の浦はどうであったか。」と尋ねられ、和歌を詠んで答えると
上皇は大いに感じ入り、この歌はのちに『金葉集』に採られた。と記されています。

♪有明の月もあかしの浦風に 波ばかりこそよると見えしか
(有明の月が明石ではあかるくて、夜に見えないほどでした。
明石の浦吹く風に夜には、波が寄るのばかりが見えました。
「明石」「明し」、「寄る」「夜」の掛詞を使って
朝と夜との情景を交錯させて表現しています)
忠盛の和歌は勅撰集に金葉集以下、18首収録されています。

父の素養を受けて忠度は『平家物語』に熊野育ちの剛の者でありながら、
和歌の才をもあわせもつ文武両道を兼ね備えた人物として描かれ、
母は歌人・僧正遍照の子孫にあたる
高成の娘(藤原為忠の娘とも)と伝えられています。

『千載和歌集』などの勅撰集に十首入集、俊成に託した巻物の百余首は、
俊成によって『平忠度朝臣集』に収められています。
平家一門には歌人が多く、都落ち後も
忠度は一門の人々とともにしばしば都を懐かしむ歌を詠みます。

藤原俊成と平家一門との関係はその他に、
琵琶の名手経正(清盛の甥)も俊成のもとで学び、
『千載和歌集』の院宣伝達の使者であった資盛(重盛の二男)は、
俊成と姻戚関係にあり弟子の一人でした。

また俊成の息子定家に師事した平行盛は、
都落ちに際して日頃詠み集めた歌の巻物を定家に送ります。
忠度の歌の処置を残念に思った定家は、行盛の歌を
『新勅撰集』まで待って、左馬頭行盛と名を顕し入集させます。
♪流れなば名をのみ残せ行く水の あはれはかなき身は消ふるとも
行盛は清盛の二男基盛の長男、
父が早くに亡くなったために伯父の重盛に養なわれました。



長等神社

忠度歌碑
歌碑傍の駒札には、長等山の山上にある歌碑をより多くの人々に
見ていただくために、それを模して建てたと書かれています。
平忠度都落ち(俊成社・新玉津嶋神社)  
『アクセス』
「長等神社」滋賀県大津市三井寺町4-1
京阪電車石山坂本線三井寺駅下車、徒歩約10分
三井寺駅琵琶湖疏水に沿って山手に向かって進み、突き当たりを左へ、三井寺観音堂横。
「長等公園」大津市小関町1
 京阪電鉄京津線「上栄町駅」下車 徒歩 10 分または石山坂本線三井寺駅下車、徒歩約20分

長等神社からは、南方に進むと長等公園があります。
歌碑は公園奥の不動堂横の石段からつづら折の山道を上った桜ヶ丘(桜)
広場にあります。
『参考資料』
高橋昌明「清盛以前」文理閣 新潮日本古典集成「平家物語」(上)(中)新潮社
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「平家物語を知る事典」東京堂出版
古橋信孝編「万葉集を読む」吉川弘文館 犬養孝「万葉の旅」(中)教養文庫
五味文彦「西行と清盛」新潮社 新潮日本古典集成「謡曲」(中)新潮社

 



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琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島は周囲およそ2kmの小さな島です。
常緑樹に覆われ、全島が花崗岩の一枚岩からなる島の周囲は
船着き場を除いてほとんどが絶壁で、
その美しさから「深緑竹生島の沈影」として
琵琶湖八景の一つに数えられ、国の史跡・名勝に指定されています。

『巻7・竹生島詣の事』には、経正が木曽義仲追討の副将軍として
北陸道へ下る途中、竹生島の都久夫須麻神社の拝殿で、
琵琶を奏でたという逸話が戦乱の中のつかの間の
優美な出来事として語られています。

源頼朝が木曽義仲討伐の兵を信濃に進めた時、義仲は一族同士の

争いを避けるため、嫡子清水冠者義高を頼朝のもとに差し出して和睦し、
後顧の憂いを取り除いて全力で北陸道から京を目指しました。
この報を受け、寿永2年(1183)4月17日、
平維盛(重盛の嫡男)を総大将に平家軍十万余騎が都を発ちました。
飢饉によって物資の調達が不充分だったために、軍勢は琵琶湖の西岸を
志賀・唐崎・高島と物資を略奪しながら北上していきます。

先陣はすでに北国に進んでいましたが、経正はいまだに近江の
塩津・海津辺りでした。
湖岸からはるか沖に浮かぶ島を見て、
供に「あれは何という島か」と尋ね
「あれが名高い竹生島です」と教えられると、
経正は風流心をいだき侍5、6人を連れ小船で渡ります。

ころは卯月半ば、緑に見える木々の梢には春の風情がまだ残っているようで、
谷間に鳴く鶯の声はおとろえていますが、ほととぎすが初夏の訪れを告げ、
言葉に尽くせないほどに美しい景色です。

竹生島明神(弁才天)の前で戦勝祈願するうちに日も暮れ、

十八夜の月が出て湖面に照り渡り、この上ない風情です。
詩歌管弦に秀で、ことに琵琶の名手である経正の噂は竹生島にまで届いていました。
僧たちに請われるまま、上玄石上(じょうげんせきじょう)という
琵琶の秘曲を奏で奉納し、
澄んだ音色が社殿のしじまに響き渡ると、
弁才天も感極まったのか、
経正の袖の上に、白い竜となって姿を現しました。
経正は神に我が願いが聞き届けられたのであろうかと、
 
♪ちはやふる 神にいのりの かなへばや しるくも色の 表れにける

(竹生島明神に我が祈りが聞き届けられたのであろうか。
神の使いの竜が現れ、霊験を示して下さったことだ。)と喜びの和歌を詠み、
勝利を確信しながら月下の島をあとにしたのでした。

平経正は平清盛の弟平経盛の嫡男で、のち一の谷合戦で熊谷直実に討たれた
敦盛の兄にあたります。幼少の頃、仁和寺の覚性法親王に仕え、藤原俊成の
もとで和歌を学び、武将というより優雅な公達として育っていました。


 宝厳寺 竹生島神社(都久夫須麻神社)
神仏習合時代、「弁天堂」「観音堂」「都久夫須麻神社」などの塔頭を総称して
宝厳寺といわれてきましたが、明治初年の神仏分離令により、
宝厳寺と竹生島神社に分かれました。島内は傾斜地のため、
床下に長い柱を立てて支える懸造(かけづくり)となっています。





船着場から続く土産店の間を通りぬけ、正面169段の石段を
上りつめたところにある建物が日本三大弁天の一つ宝厳寺の本堂弁天堂です。





本尊の弁才天は、厳島(広島県)・江ノ島(神奈川県)両社の
弁才天と並ぶ日本三大弁才天の一つですが、非公開です。
宝厳寺の本堂近くの樹齢400年のモチは、片桐且元手植えの木という。



石段を下り、唐門(国宝)をくぐると西国三十三所観音霊場30番札所として
信仰を集めている宝厳寺の観音堂があります。

宝厳寺唐門

唐門は豊国廟の唐門を移したと考えられていましたが、最近の研究で
秀吉時代の大阪城の極楽橋を移築したことが判明しました。観音堂、唐門ともに
豊臣秀頼の命を受け普請奉行の片桐且元が移築したと云われています。



観音堂は渡り廊下によって竹生島神社の本殿と結ばれています。
この廊下は秀吉の御座舟を利用したといわれ、舟廊下ともよばれています。

観音堂は渡り廊下とともに急斜面に建つため、床下は高い
足代(あししろ)が組まれ、舞台造(懸造)をなしています。






本殿は伏見城の遺構とされ、飾り金具や装飾彫刻、天井画など
絢爛豪華に装飾され桃山文化の一端を伝え、国宝に指定されています。





本殿から石段を下りると平経正が琵琶を弾じたという拝殿にでます。
竜神拝所からは「かわらけ」に願い事を書き、
湖面に突き出た岩場に建つ鳥居に向かって投げる風習があります。

平安時代末に祀られた弁才天は琵琶を手にし、芸能をつかさどる神とされ、
竜神との関係が深く都久夫須麻神社は竹生島弁才天社ともいわれます。

平経正の参詣にちなむとされる6月10日の三社祭は
厳島神社・江ノ島神社と合同で行なわれます。
経正都落ち(仁和寺)  
明石市源平合戦の史跡馬塚(経正最期)  
清盛塚・琵琶塚  
『アクセス』
「竹生島」 長浜市早崎町1164
JR今津駅より徒歩5分 → 今津港 今津港から25分
 JR長浜駅より徒歩10分 → 長浜港 長浜港から30分 
詳細は琵琶湖汽船にお問い合わせください。
『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 
「滋賀県の地名」平凡社 「滋賀県の歴史散歩」(下)山川出版社

 



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