平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 





大徳寺の総門をくぐると、勅使門(重要文化財)の辺に「平康頼之塔」あります。
鎌倉時代後期のもので表に地蔵立像、背面に仏塔を刻み
内部には多宝・釈迦が並座した珍しいものです。


大徳寺総門

勅使門

勅使門左手前にある高さ1,3mの康頼地蔵
「平康頼之塔」と刻まれた石標がたっています。


地蔵石仏はかなり風化しています。

この地蔵石仏宝塔が平康頼の塔といわれる理由について
『京のお地蔵さん』には、
「康頼が帰京後あらわした『宝物集』は仏法が唯一無二の
宝であることを
説いた説話集であり、
極楽往生を勧める啓蒙書として念仏僧に利用された。

紫野の雲林院は多くの念仏僧の集まるところであったから、紫野に
康頼の供養塔が
建てられる原因となったのではなかろうか。」とあります。


鹿ケ谷の謀議が発覚すると、この謀議に加わった後白河法皇の
近臣の
平康頼は俊寛、藤原成経とともに薩摩半島の
南の端から約40㎞のところにある鬼界ヶ島へ流されました。

熊野権現を篤く信仰する康頼と成経は、島内に熊野の地形に似たところを見つけ、
そこを熊野三山に見立て、毎日熱心に参詣し帰京を祈願しました。

また康頼は千本の卒堵婆を作り、
♪薩摩潟沖の小島にわれはありと 親には告げよ八重の潮風 
(薩摩の沖の小島に私がまだ生きていることを
親に知らせておくれよ。絶え間なく吹いてくる潮風よ)
と望郷の歌を書き海に流すとその1本が
厳島神社に流れ着き、
それを康頼の行方を尋ねてこの社に来ていた僧が偶然に見つけました。
僧は早速都に戻り、紫野(大徳寺付近)に住む老母のもとに、
この卒塔婆を届けたことから、都中の大評判となり、
清盛は娘の高倉天皇中宮徳子の懐妊を機に康頼と成経を赦免しました。


延慶本『平家物語』は、康頼は帰洛後まず紫野に隠棲中の
老母を訪ねましたが、すでに亡くなっていたと伝えています。

卒塔婆流し(卒塔婆石・康頼灯篭)  
 平康頼の墓(双林寺)   平康頼出家の地(光市普賢寺) 
 平康頼の墓(野間大坊大御堂寺 )  
平康頼の赦免状(光慶寺) 
平康頼建立の玉林寺・熊野神社  
『アクセス』
「大徳寺」 京都市北区紫野大徳寺町53 市バス「大徳寺前」下車徒歩すぐ。
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂 「京の石造美術めぐり」京都新聞社
竹村俊則「京のお地蔵さん」京都新聞出版センター 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
 





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平康頼の分骨を埋葬してある双林寺(天台宗)は、
桓武天皇が最澄を開基として創建したと伝え、
八坂神社の東方、円山公園のすぐ南にあります。

昔、双林寺のある辺りは、真葛やすすき・茅などが生い茂る
真葛ヶ原とよばれる和歌の名所で、文人や歌人が隠棲していました。

今は本堂と飛地境内に西行庵(西行堂)を残すのみで見る影もありませんが、

鎌倉時代までは広い境内と多くの子院塔頭を擁する大寺でした。
南北朝の兵乱や応仁の乱で寺は荒廃し、江戸時代には東大谷廟が
境内東方に造営され寺域を削られました。
さらに明治時代の円山公園の設置により寺地の多くを
買い上げられ、その大部分が円山公園になってしまいました。

本堂傍には、この寺の境内に庵を結んだ平康頼の墓や西行、
西行を慕った南北朝時代の歌人頓阿(とんあ)の供養塔が建っています。
康頼の山荘は、現在の双林寺の東、
東大谷廟辺にあったと推定されています。

双林寺(雙林寺)
山号は霊鷲山(りょうじゅざん)正式寺号は沙羅双樹林寺(さらそうじゅりんじ)
この地が中国の沙羅双樹林寺に似ていることから名づけられたと伝えています。

双林寺本堂 本尊木造薬師如来坐像(国重文)

鹿ケ谷の謀議発覚後、事件に加担した俊寛僧都と平判官康頼それに
父成親に連座した丹波少将成経は、
鬼界ヶ島に流されました。
三人のうち康頼と成経は熊野権現の
熱心な信者だったので、
島に着くと熊野三所権現を勧請して、自分たちの帰京を
祈願しましたが、
生来不信心の俊寛はこれに加わることはありませんでした。


この島で康頼は故郷恋しさに千本の卒塔婆に和歌を書いて海に流しました。
恩赦のきっかけは、その卒塔婆の1本が厳島神社に流れ着き、
康頼と知り合いの
僧に拾われたことによるといわれています。
そして中宮徳子の懐妊を機に
流人たちに赦免が下りましたが、
使者が読み上げる赦免状の中に、なぜか俊寛の名前だけありません。
それは自分が目をかけた俊寛が自分を裏切り、
密議の場所まで
提供したことを清盛はどうしても許せなかったからであるとし、
また二人の恩赦を
熱心な熊野信仰によると『平家物語』は語っています。

帰京を許された成経と康頼は途中、成経の父成親が
清盛によって惨殺された備前・備中境(岡山県)の
有木の別所を訪ねて
墓をつくり、七日七夜供養を行い都に戻りました。

康頼は双林寺にあった自分の山荘に落ち着き、
つらかった流罪中のことを思い出し、

♪ふる里の軒の板間に苔むして思ひしより程は洩らぬ月かな
(懐かしい山荘の板間は、留守中にすき間だらけになってしまったが、
軒には苔が生えてふさがっているため、
屋根をもる月の光は思っていたほどではなかった。)と
荒れ果てた山荘を眺めつつ述懐しました。
和歌と説話をおりまぜて仏の教えを説く仏教説話集
『宝物集』の編集執筆にとりくんで時を過ごしたという。


『ふるさと森山』には、「
双林寺には当時、康頼の伯母が
尼となって身を寄せていた。」と書かれています。

やがて思いがけない幸運がおとずれました。かつて尾張に目代として
赴任した時、
尾張野間庄(愛知県知多郡美浜町)にある
源義朝の墓を整備し、水田30町を
寄進したことに感謝した源頼朝によって
阿波国麻殖保(おえほ)の保司(ほじ)に任じられました。

(『吾妻鏡』文治二年(1186)閏七月二十二日条)

麻殖保(現、吉野川市鴨島町字森山付近の荘園)に赴任すると、
職務の傍ら亡き母や後白河法皇、藤原成親、俊寛など鹿ケ谷事件
関係者の
冥福を祈るため、
後白河法皇から賜った
千手観音を本尊とする
玉林寺(現・吉野川市鴨島町山路)や熊野神社などを建立しています。

20年ほど保司を務めて後、康頼はこの職を嫡男清基に譲り、
75歳で没し、遺骨は分骨されて当寺に葬ったとされています。

京都の康頼の歌人としての活動は建久二年(1911)、
正治二年(1200)
石清水八幡宮若宮社において催された「若宮社歌合」
そして建久六年(1195)「民部卿家歌合」などに出詠が知られています。

康頼は平姓を名乗っていますが、『倭歌作者部類』によれば、
父は信濃権守中原頼季(よりすえ)ですから、
康頼は改姓したものと思われます。
平姓をもらったという説もありますが、

家系に関する資料が少ないためその時期や理由は定かではなく、
また平家一門との関係も不詳。
 
双林寺本堂から道路をひとつ隔てた飛地境内の西行庵(西行堂)へ



西行堂はもと洛西双ヶ岡の麓にあった頓阿法師の
蔡華園(さいかおん)を移して再興したものと伝えています。
卒塔婆流し(卒塔婆石・康頼灯篭)   平康頼の塔 (大徳寺)
平康頼出家の地(光市普賢寺)   
大御堂寺境内にある康頼の墓 平康頼の墓(野間大坊大御堂寺 )  
平康頼の赦免状(光慶寺)  平康頼建立の玉林寺・熊野神社  
『アクセス』
「双林寺」京都市東山区鷲尾町 円山公園南 
八坂神社南楼門より徒歩5、6分

『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東・上)駿々堂
 竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 
新潮日本古典集成
「平家物語」(上)新潮社 
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館 
村井康彦
「平家物語の世界」徳間書店 
「ふるさと森山」鴨島町森山公民館郷土史研究会 
「国史大辞典」吉川弘文館 「徳島県の地名」平凡社
「ふるさと阿波」(134)阿波郷土史会 

 

 

 

 







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