平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



兄頼朝と対立した義経は、西国で再起を図ろうと後白河法皇から
与えられた西国支配を認める下文(くだしぶみ)を携え、都をあとにしましたが、
摂津国河尻(かわじり=淀川につながる神崎川河口一帯)まで来たところで、
多田行綱、豊島(てじま)冠者
の手勢に行く手を阻まれたので、
これを蹴散らして先へ進み、大物浦(だいもつのうら)から
西国を目指して船出しました。
文治元年(1185)11月6日のことです。

最寄りの阪神電車大物(だいもつ)駅

大物浦(大物浜とも)は、現在の尼崎市大物町付近にあります。
同町は神崎川河口の三角州地帯にあたるため現在、
土砂が堆積し、海岸は埋立てられて工場地帯となり、
出船入り船で賑わった昔の面影は残っていません。

大物駅から南へ向かって歩くと、右側に大物主(おおものぬし)神社があります。
この神社の東側には、かつて船宿が軒を並べ、義経主従はそこで
文治元年11月5日の夜宿泊したと伝えられています。
この伝承にもとづいて大物主神社東側の道路上に
「義経弁慶隠家跡(かくれがあと)」の碑が昭和3年に
建てられましたが、
太平洋戦争の空襲で焼失しました。

『摂津名所図会』には、「大物橋爪(だいもつばしづめ)に
判官殿旅宿蹟(りょしゅくのあと)あり。今に公役免除の地なり。
武蔵坊弁慶借証文をこの地の仁木氏今に於いて伝来す。」とあります。

大物主神社の東側、
「大物主神社前」の信号



大物主神社南門

平安時代末期に大物で生まれ、太平洋戦争後途絶えた
「尼の生醤油」の醸造が40数年振りに復活した記念に
平成5年に建立された石碑が大物主神社にあります。
南門鳥居をくぐると、自然石に「汁醤油発祥之地  尼生揚醤油

(あまきあげしょうゆ)保存会会長 氏平競重」と彫られています。

大物主神社は、応神天皇の時代に草創されたと
伝えられていますが、詳細は不明です。
江戸時代には若宮社・若宮弁財天社などと呼ばれていました。
伝承によれば、平清盛が厳島神社へ参詣の途中大物浦で
風待ちのため暫く逗留していたとき厳島明神に
お祈りしたところ、波風が静まり無事に出発できたため、
当所に弁財天社を建てたといわれています。
明治7年(1874)、奈良県の三輪神社の主神である
大物主命(おおものぬしのみこと)を勧請したので、
現在の社名に改めました。
『「若宮(大物主神社)と大物橋」尼崎市教育委員会』

拝殿に架かる神額

拝殿に続く幣殿・本殿

社殿左手に、有志の声に応えて建てられた「義経弁慶隠家跡」の碑。
背面には、昭和54年建立 宮司畑中修と刻まれています。

義経・弁慶隠家跡碑
頼朝から追討された主従が西国へ船出 (1185) するために
当社東側にあった七軒
(間とも) 長屋に逗留したという口伝を
保存するため、有志の希望をうけ神社で設置
したものです。
昭和三年、昭和天皇御即位を記念して、市内の旧跡、口伝の保持を
目的に行われた、
尼崎市青年団、尼崎在郷軍人連合分会、尼崎市婦人会、
尼崎市教育会の四団体の
連合建碑事業の一環で、現在の神社東側の
道路上に建てられましたが、絨毯爆撃により
焼失していました。
様々な資料がありますが、この後、当時、当社前まで
波寄せていた
という大物浦から船出した一行は、
暴風雨のため押し戻されたかたちとなり、
堺から吉野、奥州藤原氏を
頼って逃れていきます。
関係資料 史料 『吾妻鏡』 鎌倉時代末期の史書」(説明板より)

謡曲「船弁慶」ゆかりの地(2007年撮影)
古典 「平家物語」には賴朝と不和になった源義経が
武蔵坊弁慶ら郎党と共に西国へ向うため 大物浦(尼崎市)から
船出したものの 烈しい風浪のため押し戻されたことが書かれ
これは 謡曲 「船弁慶」に脚色されているが
そのとき 一時身をひそめたところがこの若宮社
(大物主命を祀り 大物主神社ともいう) 付近だと伝える
神埼川の流域にあり 「九州宗像大社」 又厳島神社の祭神である
宗像3柱をも祀ってあり かって大物の浦は この社前まで
通っていたと云われている
なお義経は出帆を前に
愛妾 静御前と別れを惜しんだといわれ
近くに”静名残りの橋碑”もある。  謡曲史跡保存会
「義経弁慶隠家跡」の碑の傍にたっていたこの駒札は今はありません。)

かつての社号をしのばせる若宮公園



拝殿幣殿本殿

一、神社名 大物主(おおものぬし)神社
一、御祭神 大物主大神(大國主命) 市杵築姫命(弁財天)外
一、由緒沿革
今を去る二千余年前、第十代崇仁天皇の御代、日本全土が
悪疫病にさらされ滅亡寸前
になった時、帝が御幣を大物主大神に奉り、
平癒を祈願された。 その時、大和三輪山に
大物主大神が祀られ、
命を受けて大神八世の御孫大田田根子命の後裔鴨部祝が
祖神様を当地に奉斎したのが始まりである。
くだって平治元年 (1159年) 平相國清盛が芸州厳島参拝の時、
祭神市杵島姫命を
此の大物の社に合祀した。 
当時の大物の沖合は謡曲や浄瑠璃の舟弁慶千本桜などにも
謡われている。 
その頃、「若宮」 と呼ばれていた鎌倉の始め大物の浦から舟出した
源義経主従も 神社隣に宿を取り、無事平安を祈ったといわれている。
その後、寛永年間、約350年前、宗像三柱神の故事に習って、
多岐都姫命・多紀理姫命
を合祀、また相殿神として
西宮大神・菅原道真公等が配祀されている。 宮司記(駒札より)
『アクセス』
「大物主神社」
兵庫県尼崎市大物町2丁目7-6(TEL 06-6401-6069)
阪神電車「大物駅」下車 南口から徒歩約5分
 例祭日 7月21日 
21日の後の土曜日日曜日、子供太鼓の曳行や夜店が出ます。
『参考史料』
 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)角川書店、昭和62年
 「兵庫県の地名」平凡社1999年
「神戸~尼崎海辺の歴史 古代から近現代まで」神戸新聞総合出版センター
「摂津名所図会」(下巻)古典籍刊行会、昭和50年

『大物川緑地に建つ「若宮(大物主神社)と大物橋」
尼崎市教育委員会の説明板』

 

 

 

 

 



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最寄りの阪急電車石橋駅

石橋駅西口広場 いしばし餅つき大会(歳末たすけあい募金活動)
 2019年12月8日撮影





国道171号沿いの「池田警察署北豊島(とよしま)交番」の
隣に弁慶の泉(池田市史跡)があります。





文治元年(1185)、兄頼朝と不和となり追われる身となった源義経一行が
西国街道を大物浦(兵庫県尼崎市)へ落ちて行く途中、
武蔵坊弁慶がこの泉で喉の乾きをいやしたと伝えられています。

昔は大池でしたが、次第に埋没して「田畑の中の水たまり」といった
感じの小池になっていましたが、伝説にもとづいて昭和53年(1978)、
池田市が調査すると、水底の地下に1日千トンの湧き水を
保有していることが分かったので、事業費を集めて整備にとりかかりました。
水深を5mまで掘り下げ、周りを300mほど拡張し、
力自慢の弁慶にふさわしい巨石を運んで固め、高さ4mの石碑も建てて
「弁慶の泉」を再現し、池田市の史跡として生まれ変わりました。





事故防止のために泉は金網で囲まれています。
この泉の近くには、義経一行が通った西国街道が走っています。



「池田市(伝承)史跡 弁慶の泉(北今在家清水)
 この泉には、今から約八百年の昔、兄頼朝によって西国へ追放された
源義経主従がこの地を
通過した際に弁慶がこの水を飲んだという伝説があります。
箕面川の伏流水がここで湧き出ているものといわれ、
現在の大阪空港を含む下流区域約?十町歩の田畑の灌漑に利用されていました。
今も北今在家一帯の農業を営む人々には大切な湧水として利用されています。
この泉にまつわる伝説を後世に伝えるため、
毎年五月三日には「弁慶祭」が行われています。
この泉を? と池田の財産として、これからも大切に守っていきたいものです。 

昭和五十八年十二月吉日 弁慶の泉保存会 池田市豊島自治会 
池田市北今在家実行組合   
池田市北今在家婦人会」(説明板より)

「伝弁慶の泉由来記
この泉は、享保二十(一九三五)年の摂津志に
在今在家村 其味冷甘 谷伝弁慶  止渇干此としるされている。

文治元(一一八五)年 追われる身となった源義経が西国街道を逃れて
河尻(尼崎)まで行く途中 多田蔵人行網や豊島冠者の武士団に
前途をさえぎられたために 義経とともに武蔵坊弁慶もよく奮戦し
この泉でのどの渇きを潤したとつたえられている 
またこの泉は今在家村一帯の灌漑用水としても
重要な役割を果たしてきた由緒ある泉である。

池田市史跡名勝天然記念物 史跡第三号
昭和五十三年十月三十一日指定 池田市教育委員会」(碑文より)

『吾妻鏡』文治元年(1185)11月5日条には、次のように記されています。
「義経一行が河尻に着いたところ、追手の摂津国の源氏多田蔵人行綱や
豊島(てじま)冠者率いる手勢に行く手を阻まれたが、苦戦しながらも
それを駆け抜けたので、行綱らは戦を挑むことができなかった。
一方義経の軍勢もこの辺りから、これまで従ってきた武士らが
にわかに落伍しはじめ、残ったものは多くはないという。」

行綱は多田源氏の嫡流ですが、治承元年(1177)の鹿ケ谷事件で、
平家討滅の謀議に加担しておきながら途中で裏切り、
平清盛に同志を密告するような小ざかしい人物です。
その後も源義仲・源義経に近づき忠勤しますが、
源頼朝と対立しても何ら抵抗できない義経を目の当たりにして、
都落ちする義経一行を摂津国河尻に
追撃するという変り身の早さを見せています。

河尻(かわじり)は、現在の兵庫県尼崎市の南東部、
淀川と結ばれている神崎川河口一帯と推定されています。

国道2号線の左門(さもん)橋から眺めた河尻の風景
左手の塩野義製薬の辺りに、清盛に重用された
藤原邦綱の山荘・河尻の寺江がありました。
娘が六条・高倉・安徳天皇の乳母をつとめたことなどにより、
邦綱は清盛のもとで権勢を振るいました。



箕面川(みのおがわ)にかかる箕面川
大橋(豊島北2丁目10)

西市場村(現、豊島北1~2丁目・荘園2丁目)に、豊島冠者の館がありました。
『大阪府全志』に、西市場村の豊嶋(てじま)冠者宅址として
「東西40間(=72・7273m) 南北30間(=54・5455m)ほどで
西南北三面に濠梁をめぐらしていたが、後に荒廃してしまった。
その要因などは詳らかでない。
冠者の姓は源氏、当国の住人でこの地に居住していた。
源氏が凋落した時は、平家に従ったが、ひとたび
以仁王の令旨が出て頼朝が東国で挙兵すると、
関東に馳せ参じて諸所で転戦し、その功少なからず。後、
義経と頼朝が不仲になると、頼朝のために義経を苦しめた。」とあります。

豊島(てじま)冠者高頼の邸跡は、中国自動車道の池田インターチェンジ、
弁慶の泉からすぐ近くの
住宅地にありますが、今は何の名残もありません。

寺江亭跡(藤原邦綱別邸)  
『アクセス』
「弁慶の泉」大阪府池田市豊島南2丁目2-8
阪急宝塚線「石橋駅」下車、徒歩約20分。
または「石橋駅」より阪急バス「北今在家」停下車 徒歩約5分。
『参考資料』
 「大阪府志」思文閣、昭和45年 
三善貞司「大阪伝承地誌集成」清文堂出版、平成20年
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年 
井上正雄「大阪府全志」大阪府全志発行所、昭和60年
 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)角川書店、昭和62年 

 

 

 

 



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義経は土佐坊昌俊の夜討ちにあった翌日の
文治元年(1185)10月18日、その件を朝廷に報告し、
行家とともに再び「頼朝追討宣旨」を下されるよう要請しました。

当時、宮廷内は後白河法皇近臣の大蔵卿高階泰経のような
親義経派と頼朝に好意的な右大臣九条兼実に分裂していました。
兼実は頼朝には追討を受けるべき何の咎もないと主張しましたが、
法皇や公卿らは義経を怒らせる事態を恐れて、
頼朝追討宣旨を下しました。
このことを知った頼朝は、行家と義経を討つべく
10月29日に自ら大軍を率いて出陣し、11月1日に駿河国の
黄瀬川に到着し、ここで都の様子を見ることにしました。
この地は5年前、頼朝の挙兵を知って馳せ参じた義経がはじめて
兄と対面し、互いに手を取り合って涙を流した場所でした。
あの時の気持ちは、もう頼朝にはありません。

その頃、京では義経と行家が軍勢を招集しましたが、
時流を予知した畿内の武士らは与せず、思うように集まりません。
これでは鎌倉から攻め上ってくる大軍が相手では勝ち目がないと、
都を出て西国の緒方惟栄(義)を頼り九州に活路を見出そうと、
後白河法皇に要請し「義経を九州の地頭に、行家を四国の地頭に任命する。
西国の目代たちは、両人の下知に従うべし。」という院宣を賜りました。
緒方惟栄(これよし)は、かつて平重盛の家人でしたが、京から太宰府に落ちた
平家を一族で攻撃して追い落とした豊後(大分県)の豪族です。

同年11月3日、義経と行家に率いられた500余騎の軍勢は
静かに京を去って行きました。この潔い態度に感動した九条兼実は、
頼朝びいきにも関わらず、その日記『玉葉』に「法皇、公卿、
他の諸家も皆無事である。義経の所業は実に義士というべきか。
洛中の身分の高い者も低い者も喜び感謝しない者はない。」と記し、
義経を「義士」と称えています。洛中の人々は、義経が
西国落ちに際して狼藉を働くだろうと心配していたのです。
兼実などはなすすべがなく、伊勢大神宮と
春日大明神を念ずるばかりだったという。

『吾妻鏡』は、義経・行家に従う者として
前中将時実(平大納言時忠の息)・
侍従良成(義経同母弟、一條大蔵卿長成の息)・
伊豆右衛門尉有綱(義経の娘婿)・堀弥太郎景光 ・
佐藤四郎忠信・伊勢三郎能盛・片岡八郎弘綱・弁慶法師以下、
その勢200騎ばかり(『平家物語』には500余騎)と記しています。
京を出た義経一行は大物浦(兵庫県尼崎市)を目指します。

この報を聞いた太田城城主の太田太郎頼基は、義経に明日はないと判断し、
60余騎の手勢を率いて川原条(河原津)で合戦を挑みましたが、
義経一行に取り囲まれ、太田太郎は手傷を受け、郎党の多くが討たれました。

川原条は、太田城から西国街道を通って、安威川にかかる
太田橋の西側の地名、現在の茨木市西太田町辺をいいます。

絵図の右手に見える太田廃寺跡は、明治40年(1907)の開鑿により、
出土瓦に飛鳥時代後期(7 世紀後半頃)に遡るものがあり、
飛鳥後期の寺院と想定されています



最寄りのバス停「追大総持寺キャンパス前

バス停から太田一丁目へ進みます。

左手に建築中のイオンタウン、右手に
ビニール温室、
きれいに刈込まれたカイズカイブキの植込みが見えてきます。


説明板・旧跡太田城址と彫られた碑があります。


太田城跡
太田1・2丁目の旧住宅内を歩くと、道路は狭くてT字路に
なっているところが多くありますが、城下町であった特徴をしめしています。
この城は、平安時代末期(12世紀末)の平城で、太田太郎頼基(よりもと)という人が
築いた城であると言われていますが、くわしいことはわかっていません。 
頼基は、多田源氏の一族で、摂津国でも優秀な武士として名を連ねています。
その行跡のうち「平家物語巻12」に、源義経と近くの川原条
(かわらじょう=安威川と西国街道が交叉する
太田橋のすぐ西側)で合戦したことが記されています。

 それによると、平家を滅ぼした義経が都にとどまっていたとき、
兄頼朝が義経を討つため都に攻め入るという噂がたったので、
義経が文治元年(1185)11月3日の明け方、西国へ
逃げのびようとしました。頼基は、「我が門の前を通しながら、
矢ひとつ射かけてあるべきか」といって、
川原条(河原津)というところで義経と戦いましたが、
この時敗れたとされています。 茨木市教育委員会(説明板より)



太田太郎頼基は『平家物語』(巻4巻・源氏揃)にもその名が見えます。
源三位頼政がある夜ひそかに皇位継承の機会を窺いながら
過ごしてきた以仁王(後白河院の皇子)の御所を訪ね謀叛を勧めます。
そして
諸国にいる源氏に蹶起を促せば馳せ参じるであろう
50人もの源氏の名を数えあげるくだりがあり、その中に「摂津国の
多田次郎朝実(ともざね)、手嶋冠者髙頼、太田の太郎頼基」とあります。

太田城は安威川の東岸、西国街道に接した南側一帯の太田村に築かれていたと
推定されますが、今は「城の前」「城の崎」などの関係小字が残っているだけです。

「太田東芝町」交差点のところにある坂を雲見坂(くもみざか)といい、
東から西に向かって緩やかな下り坂になります。
この名の由来は『摂津名所図会』に、「太田村にあり、太田太郎頼基ここにて
天文を見て雲気を考え、軍の勝敗をさとりし所といふ」とあることから
この辺りから頼基が雲の流れを見て、天気や戦の
勝敗を判断したことから名づけられたようです。

地蔵菩薩と彫られた太田太郎頼基の墓と太田城跡顕彰碑。

自然石に「地蔵菩薩」その背面に
「太田野太郎丸(太田太郎頼基)」と彫られています。
黄瀬川の陣で義経、頼朝と対面  
『アクセス』
「太田城跡」大阪府茨木市太田1-4
阪急茨木市駅から近鉄バス 花園東和苑行き「太田」下車
阪急茨木市駅から近鉄バス「追大総持寺キャンパス前」下車
阪急茨木市駅から近鉄バス「東芝正面前」下車
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)(下2)角川書店、昭和62年、昭和52年
新潮日本古典集成「平家物語」(上)(下)新潮社、昭和60年、平成15年
「大阪府の地名」平凡社、2001年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
角川源義・高田実「源義経」講談社学術文庫、2005年 
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(下)」塙新書、1985年

 

 



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京都の繁華街四条河原町から四条通を西に行くと、寺町通に出る手前に
八坂神社御旅所(祭礼の神輿の休憩所)があります。
その右側にある小さな社が冠者殿社(かじゃでんしゃ)です。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の荒御魂(あらみたま)を祀るといわれていますが、
俗説では土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)の霊を祀ると伝えられています。

四条通に面して、観光土産物センターと八坂神社御旅所が並んでいます。





土佐坊は頼朝の密命を受けて上洛し、義経に堀川館に呼び出された時、
熊野詣の途中と弁解し、二心がないことを誓紙に書いたにもかかわらず、
誓いを破って義経を襲いました。しかし失敗し、引立てられてきた
土佐坊に義経が「起請文の神罰があたったな。
だが主君の命令を重んじて、自分の命を軽んずる。その志はけなげである。
命が惜しくば助けてやるが、どうだ」と言うと、「武士は名を惜しむ。
この命は鎌倉殿に差し上げた。情けがあるなら、早く首を斬れ。」と
いうので六条河原で処刑されました。(『平家物語全注釈・巻12
』)

死にのぞんで、「こののちは、忠義立てのため偽りの誓いをする者の
罪を救ってやるぞ」という願を立てたといわれています。これに因んで、
土佐坊は「起請返しの神」「誓文祓いの神」として崇められました。

土佐坊を祀る冠者殿社
毎年10月20日には、仕事の上の駆引きで、時には嘘をつかざるをえない
商人や遊女らが神罰を怖れ参詣したという。

「冠者殿社 御祭神 素戔嗚尊の荒魂 祭日十月二十日
冠者殿社は八坂神社の境外末社。 官社殿社と表記されることもある。
祭神は八坂神社と同じだが、ここは荒魂(あらみたま)を祭る。
荒魂とは和魂(にぎみたま)と対をなすもので、神霊のおだやかな
はたらきを和魂、猛々しいはたらきを荒魂といい、
全国の神社の本社には和魂を、荒魂は別に社殿を設け
祭るという例が多い。もとは、烏丸高辻にあった
八坂神社大政所御旅所に鎮座していたが、
天正19年に豊臣秀吉の命により、御旅所が現在地に移転した時、
樋口(万寿寺通)高倉の地に移され(現在の官社殿町)、
さらに慶長のはじめに現在地に移された。
明治45年、四条通拡幅に伴い旧社地より南方に後退している。 

毎年十月二十日の祭りを俗に「誓文払い」という。
昔の商人は神様に商売ができることへの感謝と、
利益を得ることに対する償いの意識をもっていた。
この感謝と償いの意識により年一回の大安売りをして、
お客様に利益を還元する商道徳がしっかり守られていた。
この本来の誓文払いの精神を継ぎ、商人の方々は商売繁盛を、
一般の方々は神様の清き心を戴き家内安全で過ごせるよう願って
十月二十日に大勢参拝されます。
八坂神社」(説明板より)

弁慶昌俊相騎図(べんけいしょうしゅんそうきず)絵馬(重要文化財)
京都北野天満宮所蔵   
京都国立博物館2010・4・10~5・9に開催された
「長谷川等伯展 没後400年特別展覧会」博物館パンフレットより転載。
1面 板地金地著色 縦275.0・横407.0 桃山時代(1608)制作

この巨大な絵馬は長い間、作者が分からないまま、北野天満宮の
絵馬所に懸けられていましたが、調査の結果、長谷川等伯70歳の時、
最晩年の作品と分かり、現在は宝物館に安置されています。

武蔵坊弁慶が源義経の命を狙った土佐坊昌俊の宿舎に乗りこみ
捕らえて堀川館へ引っ立てていく場面を描いた絵馬です。
(『義経記・巻4・土佐坊が義経を討ちに上京』)
土佐坊昌俊(土佐坊昌俊邸址)  
『アクセス』
「冠者殿社」京都市下京区四条通寺町東入御旅宮本町
阪急「京都河原町駅」下車 徒歩約3分 京阪本線「祇園四条駅」下車 徒歩約8分
『参考資料』
武村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂、昭和59年
「源義経と源平の京都」ユニプラン、2004年
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(下2)角川書店、昭和52年
現代語訳「義経記」河出文庫、2004年

 

 

 



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