平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



屋島の合戦で義経に追い落とされ海上に逃亡した平氏は、
長門国彦島(山口県下関市)に集結し、いよいよ最終決戦に
挑むことになりました。一方、源氏軍は瀬戸内海の水軍に続き、
熊野水軍をも味方に引き入れることに成功し、
『平家物語』によると、元暦2年(1185)3月、
三千艘の大水軍が周防大島(山口県の南東部)に到着しました。

平氏の背後には範頼に従った三浦義澄が、北九州には範頼軍がいます。
東からは義経軍が迫り、彦島の平氏は完全に包囲され、
土壇場に追い込まれていきました。

熊野水軍の裏切りは平氏にとって大きな痛手となりました。
源氏・平氏双方より助力を請われた湛増は、
平家に重恩のある身でありながら、急に心変わりして迷い、
熊野権現に神意を占うと、源氏に味方せよとの託宣を受けた。
なおも疑って、紅白それぞれ7羽の鶏を戦わせ
白い鶏が勝ったので、神託にまちがいなしというわけで、
源氏につくことになった。占いをするまで湛増は、源平どちらに
味方すべきか迷っていたと『平家物語』は語っています。

湛増は始めから負け戦の平家を見限って源氏に味方すると
決めていました。しかし、揺れ動く熊野の人々を納得させるために、
わざわざこのような面倒な儀式をおこなったと思われます。

二千人余の兵を二百艘余の兵船に乗りこませ、壇ノ浦に
湛増が姿を現しました。この時、若王子(熊野十二所権現のひとつ)の
御神体を船に乗せ、旗には熊野権現の守護神・金剛童子が
描かれていたため、源氏も平家も伏し拝んだという。
両軍ともこの船団が敵か味方かと固唾を呑んで見守っていましたが、
源氏についたとわかると平家はたちまち興ざめして士気を失いました。

無類の強さを誇る熊野水軍は、源平合戦で源氏に
勝利をもたらせたことでも知られています。
この水軍は熊野海賊とも呼ばれる海の領主の集まりで、
彼らを統括したのが熊野三山、そのトップが熊野別当です。
熊野別当湛増は、表面上は
神仏習合(仏教と神道が結びついた)時代に
神社を管理した寺の僧侶ですが、宗教的には熊野権現の名において
山伏を統率する熊野修験道の管長であり、
いざとなると熊野水軍を操るリーダーだったのです。

熊野三山には、那智を含む新宮別当家と本宮から拠点を田辺に移した
田辺別当家という二つの家があり、源平双方と関わっていました。
源為義の娘、立田腹の女房(鳥居禅尼)は、湛快に嫁いで
21代別当湛増を生み、湛快の死後、行範(鳥居法眼)を婿にして
19代別当とし、22代別当行快を生みます。

平家は湛増を味方にするために多大の恩顧を与え、さらに
湛増の妹は平家の公達、平忠度の妻となっていました。そのため、
頼朝が挙兵したころは、湛増は平家方として源氏軍と戦いました。
新宮家は源氏と、田辺家は平家とつながりを持っていたため、
両家の争いは次第に激しくなっていました。そのような情勢の中、
熊野別当に就任したのが田辺家の湛増でした。


田辺市役所前左手、扇ヶ浜公園の噴水近くに
「熊野水軍出陣之地」と刻まれた自然石の大きな石碑があります。
田辺市観光協会が昭和47年10月に建立したものです。

平家に深い縁がある湛増のもとに源氏からも援護の要請が入り、
壇ノ浦の戦いでは湛増が源氏方につき、源氏を勝利に導きました。
熊野別当の軍勢は、動乱の時代において、
戦いの趨勢まで左右する鍵を握っていたのです。

扇を広げたかのようななだらかな砂浜が続く公園。
田辺湛増は200艘の軍船を田辺湾に浮かべ、
2000余の軍勢を率いて壇ノ浦に攻め寄せました。

紀伊田辺の絵図は「平家物語を歩く」より転載。

田辺市役所前に弁慶松と弁慶産湯の井戸が復元されています。

弁慶の誕生を記念して植えられたという弁慶松も六代目となりました。
三代目弁慶松は江戸時代、藩主の安藤氏が闘鶏神社の
裏山から移植したもので、高さ15メートル、周囲4メートルの
巨木となっていましたが、昭和50年に枯れました。
その種子から育った弁慶松が現在、田辺市役所前や
岩手県平泉の弁慶の森で育っています。


弁慶産湯の井
弁慶の産湯の水を汲んだと伝えられている産湯の井戸は、
昭和35年まで
湛増の屋敷跡の田辺第一小学校校庭にありましたが、
その上にプールが造られたので、平成元年現在地に復元されました。

弁慶の腰掛石
くぼみのついた弁慶の腰掛石は、田辺第一小学校
(田辺市上屋敷1丁目2−1)の裏手、八坂神社の社殿前にあります。

田辺第一小学校裏手



芭蕉の門人榎並舎羅(えなみしゃら)の句碑。
♪幟(のぼり)立つ 弁慶松の 右ひだり
この碑は弁慶松のところにありましたが、いつかここに移されたという。



闘鶏神社(熊野水軍本拠地)  
『アクセス』
「熊野水軍出陣の地」和歌山県田辺市1 JR紀伊田辺駅から徒歩約15分
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上)」原書房、1995年
森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年
五来重「熊野詣 三山信仰と文化」講談社学術文庫、2013年
荒俣宏監修「聖地伊勢・熊野の謎」宝島社、2014年
神坂次郎「熊野まんだら街道(105弁慶のふるさと)新潮文庫、平成12年
見延典子「平家物語を歩く」(歩く旅シリーズ歴史文学)山と渓谷社、2005年

 



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平安時代より熊野詣の要衝の地として栄えた田辺には、
弁慶にまつわる伝説が多くあり、
弁慶や熊野別当湛増(たんぞう)ゆかりの史跡が点在しています。

平治の乱の際、熊野参詣中だった清盛に湛快(湛増の父)が武具を提供し
京へ馳せ帰らせたように、熊野別当と平氏の関係は親密でしたが、
平家都落ち後、湛増は平家を離れ、義経の要請を受けて
熊野水軍を率いて源氏に味方しました。

『平家物語・巻11・壇ノ浦合戦』に壇ノ浦合戦直前の
熊野水軍の動向がドラマチックに語られています。
義経の誘いを受けた熊野別当湛増は、平家に深い恩恵を
受けた身でしたが、平家につくべきか、源氏につくべきか迷い、
新(いま)熊野権現(現、闘鶏神社)の神意をうかがうと
「白旗に味方せよ。」との神托でした。念には念をいれて、
赤い鶏と白い鶏を7羽ずつ権現の御前で戦わせたところ、
赤い鶏(赤旗を旗印とする平氏)が1羽も勝たず、みんな負けて
逃げてしまったので、湛増は源氏への味方を決意したという。

JR紀伊田辺駅前



牛と馬にまたがる花山法皇の熊野詣姿という牛馬(ぎゅうば)童子像の
モニュメント(紀伊田辺駅前で2009年10月撮影)

熊野地方の入り口である田辺は、口熊野(くちくまの)とも呼ばれ、
熊野三山を巡る中辺路(東の山中を進み本宮に向かう)と
大辺路(海岸線を南下し新宮に出、本宮を終点)の分岐点であり、
熊野水軍の本拠地です。


駅に降り立つと薙刀を構えた僧衣姿の弁慶が迎えてくれます。



「弁慶誕生の地  源平時代その武勇機略を以って活躍した
快傑武蔵坊弁慶は 熊野の別当湛増の子としてこの田辺の地にうまれた
 市内には弁慶井戸、生湯の釜、弁慶松、腰掛石等が遺っている
 弁慶衣川に死して既に七百八十二年 今ここに弁慶を顕彰するため
橘堅次郎氏の篤志により高岡市の彫刻家米治一氏に依頼し
昭和四十六年九月この像を建てた 田辺市 田辺市観光協会」
弁慶の出生地伝説は各地にありますが、弁慶は当地出身で
湛増の次男鬼若丸といい、田辺は弁慶誕生の地をうたっています。

お伽草子の『橋弁慶』は、「弁慶は熊野権現の申し子で
懐妊3年で生まれた異常児なので山奥に捨てられ、
虎や狼と遊んで成長した。
京の五条の新大納言が夢のお告げで熊野詣の途中、
拾い育てたのが弁慶である。」と記しています。

駅前通りを300mほど進んで左折し、150mほど行くと
闘鶏神社の一の鳥居があります。

二の鳥居

「闘鶏神社に熊野権現をまつり田辺の宮と称したが、熊野別当湛増が
社前で紅白の鶏を闘わせ白鶏が勝ったので. 源氏に味方して、
屋島壇ノ浦の戦に源氏を援けたことから
この名前が付いたと云われています。なお毎年七月二十四日・二十五日両日
紀南の大祭として田辺祭が行われます。 田辺市 田辺市観光協会」

二の鳥居をくぐると、右手に拝殿、その背後には
熊野造りの古い名残をみせる六棟の社殿
(西殿、本殿、上殿、中殿、下殿、八百萬殿)が連なり、
本殿には伊邪那美命(いざなみのみこと)が祀られています。

境内には、この他にも藤厳(とうがん)神社、
玉置神社、戎神社、弁慶社などがあります。

闘鶏神社は「権現さん」と呼ばれて親しまれ、壇ノ浦合戦で
源氏を勝利に導いた熊野水軍の伝説が今に伝わる神社です。

社伝によると419年(允恭天皇8年)の創建としていますが、
12C中頃、湛増の父湛快が口熊野の拠点として
田辺に本拠を定めた時、熊野三所権現(熊野三山の主祭神)を
勧請し、古くは「田辺の宮」「新(いま)熊野十二所権現」
「新熊野鶏合(とりあわせ)権現」などと
呼ばれましたが、明治初年に現在の社名に改めました。
社宝に弁慶産湯の釜、源義経遺愛の横笛白竜などがあります。

熊野三山の別宮的な存在として信仰を集め、当社から
本宮への中辺路は山中の道になるので、ここに参詣して
三山参詣に代え、引き返す人々もいたようです。

湛増は田辺に住んで田辺別当と称され、田辺は彼の統率する
熊野水軍の根拠地ともなりました。
境内の一角に闘鶏を並んで見守る湛増、弁慶父子の像があります。

源氏と平氏の戦いは、一の谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った
熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになり、
熊野水軍の統率者である熊野別当湛増に対する源平双方の
働きかけが激しさをきわめた。義経の命を受けた弁慶は、
急いで田辺に帰り、父 湛増の説得に成功。
湛増は白い鶏七羽と紅い鶏七羽を闘わせて神意を確かめ、
湛増指揮のもと、弁慶を先頭に若王子の御正体を奉持、
金剛童子の旗をなびかせて総勢二千余人、二百余の舟に乗って
堂々と壇ノ浦に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たした。
時に文治元年(1185年)三月のことであった。
昭和六十二年五月三日 武蔵坊弁慶・熊野水軍出陣八百年祭実行委員会
(説明碑より)

表参道から境内に入って左手、藤巌神社(とうがんじんじゃ)近くに
聳える
神木の大楠。 二度の落雷により中央部を失いましたが樹高14m、
樹齢約1200年と推測されています。歯病平癒の御利益があるとされ、
楠の下に立って楠の葉を患部につけ、祈願すると平癒するとか。 
(田辺市指定大樹天然記念物)


大楠の後方にある田辺藩初代藩主安藤直次(なおつぐ)を祭神とする藤巌神社。


武蔵坊弁慶を祭神とする弁慶社

弁慶社について
西塔の武蔵坊弁慶は中世の傑僧である。その生涯は、
悲運の武将源義経に仕え、
一の家臣として幾多の危機、
苦難から救ったことで知られている。
 後世、その様子は文学、芸能に表れ、智、仁、勇を体現した
日本人の典型として大きな影響を与えた。
出生地について諸説があるが、江戸時代の
正徳三年(1713年)に刊行をみた「和漢三才図会」では、
諸説を比較校合した結果、弁慶は熊野三山の
別当湛増(一名湛真)の子に生まれたとの記述があり、
また、当地においては、大庄屋の記録「万代記」(闘鶏神社蔵)に、
熊野別当の家系に異形の童子が生まれ、幼時に都の公家に養われ、
比叡山で修行した子が後の弁慶だと記されている。
田辺地域には、弁慶誕生にまつわる産湯の井戸、
産湯の釜、腰掛石などの遺跡が数多く残されている。
なかでも「弁慶松」は、弁慶が奥州衣川で義経を守り
壮烈な立ち往生を遂げた報を聞き、
その生涯を讃えて地元の人が植えたものと言われている。
弁慶松は初代から五代目まで、片町の一角に植えられており、
松の根方に弁慶大神のお社が設けられ、広く市民に
親しまれていたが昭和50年に枯死し、現在市庁舎前に
植え継がれている。五代目弁慶松の伐採以降、
弁慶松の根方にあった弁慶大神のお社は、
その後、有志の手により三十年の長きにわたり護られてきた。
今回、新たに弁慶社を建立したことにより、
その精神を引き継ぎ崇め、ひいては、田辺生まれの
弁慶が将来ともに語り継がれるよすがとなれば幸いである。
    平成十七年九月十二日  弁慶社建立推進協議会


戎神社 (御祭神 戎大黒二神)

玉置神社 
御祭神 手置帆負命(たおきほおいのみこと)建築・造船・大工の守護神
熊野水軍出陣の地(田辺湛増壇ノ浦へ)  
『アクセス』
「闘鶏神社」和歌山県田辺市東陽1-1 JR紀勢本線紀伊田辺駅下車 徒歩約8分
駐車場‎: ‎あり(約100台 60分100円)

電話番号‎: ‎0739-22-0155 ‎拝観料:無料
『参考資料』
「和歌山県の歴史散歩」山川出版社、1995年 
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
 佐藤和夫「海と水軍の日本史(上)」原書房、1995年 
五来重「熊野詣 三山信仰と文化」講談社学術文庫、2013年






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興国寺は葛山五郎景倫が源実朝の菩提を弔うために、安貞元年(1227)
真言宗西方寺として創建しました。実朝が頼家の遺児公暁に鶴岡八幡宮で
暗殺された時、葛山五郎は実朝の命で宋に渡るため筑前国博多にいましたが、
主の死を知るとすぐに入道願性となり、高野山に上って禅定院に入りました。
禅定院は頼朝の菩提を弔うために、北条政子が高野山に建てた寺です。
63歳で1人残された北条政子は幕府創業以来の功臣安達景盛(大蓮坊覚智)の勧めで、
また願性が高野山にいたこともあって、実朝のために承久元年(1219)、
禅定院を改建し金剛三昧院と改めます。堂宇の完成は
貞応二年(1223)で政子が施主となり、景盛が建立奉行を務め大伽藍を造営しました。
政子は願性を由良荘(和歌山県日高郡由良町)の地頭に任命し、
その収入を三昧院維持の資にあてています。

願性は次第に実朝がずっと憧れ続けていた宋の国に実朝の遺骨を納めたいと
思うようになります。老いた願性の宿願をはたしたのが、高野山で知り合った
若き心地覚心(法燈国師)です。覚心は宋に渡り実朝の遺骨を阿育王山の
広利禅寺(浙江省寧波市)に納めた後、浙江省の寺院を転々とし、建長6年(1254)、
経(きん)山寺で覚えた味噌の製法と尺八を吹く居士4人を連れて帰国しました。
帰国後、覚心は金剛三昧院に入り、その後、第6代長老となりましたが、
正嘉2年(1258)に願性から寄進された西方寺を禅宗に改め、開山の住職となりました。
覚心はわが国普化尺八(ふけしゃくはち)の祖といわれ、当寺は虚無僧の本寺となり、
普化尺八(一般的な尺八)の法を継ぐ者は興国寺で授戒する慣習となっています。
 覚心が修得してきた径山寺(金山寺)味噌の製造法は、
味噌造りに適した気候の湯浅に広められ、その過程から生まれたのが醤油です。
興国元年(1340)に西方寺は興国寺と改称し、その後、豊臣秀吉の紀州攻めで大半の
堂塔を焼失しましたが、紀州藩浅野家、徳川家代々藩主の庇護のもと復興されました。

JRきのくに線紀伊由良駅

駅から国道42号線を北へ200mほど進み、門前にある標識に従って左折します。

左折して県道をしばらく行くと臨済宗興国寺の山門が見えてきます。



山門から深い小立に囲まれた参道を上って行きます。







禅宗様の本堂

鐘楼



天狗堂

興国寺が度々火災にあって復興に困っていたところ、
赤城山の天狗が一夜にして七堂伽藍を建立してくれたという伝説があり、
毎年1月成人の日に天狗祭が行われます。

天狗堂の下には、願性が高野山以来、
大事に持っていた遺骨を埋めたという実朝の墓や歌碑があります。
願性は長生きをして金剛三昧院を守り、死後は由良荘を三昧院に寄進しています。

♪打ちはへて秋は来にけり紀の国や由良の岬のあまのうけ縄(金槐和歌集・157)

作者は由良岬の穏かな海に、漁師が張ったうけ縄(浮きをつけた網)が
遠く伸びているのを見ながら、
(その網のように長く続いた暑い夏がやっと終わり)秋の到来を感じています。

この歌は実体験ではなく、机上の作と思われます。
実朝は紀の国はもちろん箱根から西への旅をしたことはなく
『万葉集』から学んだ歌句を吸収消化し、独自の歌風を
確立しています
由良岬は現在の下山鼻のあたりと思われ、その北西に突き出ているのが、
真っ白な石灰岩の岬、岩門を思わす立巖(たてご)、白砂の海岸と真っ青な海など、
その美しさは万葉人を魅了し、見事な景色が『万葉集』に詠まれています。

実朝は兄頼家が北条時政によって幽閉された後、12歳で将軍職を継ぎましたが、
その実権は母の北条政子や叔父の北条義時の手に握られていました。
このような状況の中、実朝は王朝文化に憧れ、和歌、管絃、蹴鞠などを好み、
特に和歌をたしなんだことで知られています。14歳からの和歌の指南役は藤原定家の
門弟内藤知親で、『新古今和歌集』を中心にして、歌好きの側近たちと歌作に励み、
18歳の時に正式に定家の門に入ります。知親の家は代々検非違使などを務め、
父は定家の御子左家(みこひだりけ)に出入りの家人でもあり、
知親は父に従って東国に下り、鎌倉に勤務していました。
実朝の使者として、知親はしばしば定家のもとに赴き、実朝の詠んだ歌を
定家に届けたり、定家の和歌を実朝に届けたりしています。
『新古今和歌集』に定家の推薦によって
知親は「読み人しらず」として入集し、定家はこの和歌集の編集を通じて
後鳥羽上皇に認められ、歌の家を確立していきます。

実朝は定家から本歌取りの技法特に万葉歌の取り入れ方を教えられ、
『万葉集』の歌風を甦らせたといわれています。
実朝の家集『金槐和歌集』の評価は時代を超えて高く、

♪箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波の寄る見ゆ
(金塊和歌集・639)
♪大海の磯もとどろに寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも
(金塊和歌集・641)などに見られるように、歌風はこの時代と趣をかえて
大らかな万葉調に戻ったようなスケールの大きな情景を力強く詠んでいます。
定家は実朝の歌を高く評価し、彼が単独で編纂した
『新勅撰和歌集』には、25首も採っています。

歌人としての実朝には、さまざまな逸話があります。
歌を始めた頃、完成間近い『新古今和歌集』に亡父頼朝の歌が
2首選ばれたと聞き、矢も楯もたまらず知親を通じて定家に依頼したり、
22歳の冬に定家から贈られた『万葉集』に歓喜しています。

頼朝は武将・政治家ですが、和歌にも通じていました。
その歌は『新古今和歌集』以下の勅撰集に10首選ばれています。

♪道すがら富士の煙も分かざりき  晴るる間もなき空のけしきに
 前右大将頼朝(新古今和歌集・975 )
道中、富士山の噴煙と(雲と)見分けることができなかった。
晴れる間もない空のようすのために。
♪みちのくのいはでしのぶはえぞしらぬ ふみつくしてよ壺の石ぶみ 
源頼朝(新古今和歌集・1786)。
(親交のあった慈円が「手紙では意を尽さない」と書いてきた返事に)

陸奥の岩手信夫(しのぶ)ではありませんが、
言わずに我慢するのは分かりかねます。
陸奥の果ての壺の碑まで踏破するように、手紙に思いの丈を書いてください。)
陸奥、岩手、信夫、蝦夷、壷はすべて地名です。壺の碑のある辺は、かつての
陸奥国府・多賀城の南門跡にあたり、碑の名は正しくは多賀城碑といいます。

武家の歌を採ることのない『百人一首』に唯一首、実朝の歌が採られているのは、
実朝が武人としてより、歌人として優れていたからだと思われます。
♪世の中は常にもがもな渚こぐ あまの小舟の綱手かなしも 
鎌倉右大臣(百人一首・93)
(渚を漕いでゆく漁師の小舟が綱手を引かれる風景が何ともいとおしいものだ。
どうかこの世の中がいつまでも変わらないでほしいものだ。)
しかし実生活では政争に巻き込まれ、この願いは叶いませんでした。


実朝の妻は後鳥羽院とはいとこの間柄です。実朝は自身の名付け親でもあり、
限りなく尊敬していた院と姻戚関係になったことを喜び、
生涯に渡って院とは良好な関係を保っています。
♪山は裂け海は浅(あ)せなん世なりとも 君にふた心わがあらめやも
(金槐和歌集・663)
(山が裂け海が干上がるような世であっても、
後鳥羽院を裏切ることは決してありません。)
院に対する畏敬と忠誠の念が絶叫とも思われるこのような歌を詠ませています。

しかし院と幕府との摩擦が深まるにつれて、
こうした実朝の意識は幕府内で
孤立する一因となり、しだいに不可解な言動や行動をとるようになります。
『吾妻鏡』建保4年(1216)6月15日条によると
東大寺大仏鋳造の功労者、
陳和卿(ちんわけい)が鎌倉に下り、将軍に対面を許されると、和卿は
「前世、将軍は宋朝の
阿育王山(浙江省の禅寺)の長老で、私はその弟子でした。」と
語ります。すると実朝も以前、そのような夢を見たことを思い出して深く感激し、
その口車にのり、側近たちの反対にも耳をかさず、宋に渡る決心をし、
60余人の隋従者まで決め、和卿に唐船を造らせました。
完成した船を由比浜に浮かべようとしましたが、大型船が出入りできる海浦でなく
進水に失敗してこの計画は挫折し、和卿の消息は、ようとして分からなくなりました。
東大寺再興において多くの宋人が活躍しました。
日本に商人として渡ってきていた宋の鋳物師(いもじ)陳和卿は、
東大寺大勧進の重源にスカウトされ、大仏鋳造の功によって後鳥羽院や
頼朝から恩賞地を与えられましたが、全て東大寺に寄進しています。
当時、鋳物師が商人も兼ねて来日することがあったようです。
安達景盛(金剛三昧院)  
『アクセス』
「興国寺」和歌山県日高郡由良町門前801

JRきのくに線紀伊由良駅から山門まで徒歩約10分、山門から本堂までは約15分
『参考資料』
 「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社
 渡辺保「北条政子」吉川弘文館 新潮日本古典集成「金塊和歌集」新潮社 
脇田晴子「中世に生きる女たち」岩波新書 永井晋「鎌倉源氏三代記」吉川弘文館 
神坂次郎「熊野まんだら街道」新潮文庫 目崎徳衛「史伝後鳥羽院」吉川弘文館 
 川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館 中尾尭「旅の勧進僧重源」吉川弘文館 
現代語訳「吾妻鏡」(8)吉川弘文館 犬養孝「万葉の旅」(中)社会思想社

海野弘「百人一首百彩」右文書院 別冊太陽「百人一首」平凡社 「新古今和歌集」小学館
五味文彦「藤原定家」山川出版社 「古典を歩く(1)奥の細道」毎日新聞社

 



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湯浅は平安時代末期から鎌倉時代にかけて紀伊国各地に
勢威を振るった湯浅党の本拠地です。

熊野古道の要衝であった湯浅には、熊野御幸の際の上皇の宿泊所と伝えられる
深専寺
(西山浄土宗・本尊阿弥陀如来)があります。
承安の頃(1171~74年)には、湯浅宗重が
後白河上皇の
熊野御幸の際の宿営地の送迎及び接待役を務めています。

市街地のほぼ中央に広大な寺地を占める深専寺(じんせんじ)
屋根につけられている1m80cmもの大きなしゃちほこが目を引きます。

玉光山深専寺本堂

寺伝によると、行基が海雲院を開いたのが始まりで、
寛政3年(1462)赤松則村の曾孫明秀が再興し深専寺と改めました。

以後、火災による焼失と再建を繰り返し、承応年間(1652~55)の
大火で伽藍を全て焼失しましたが、寛文3年(1663)、
徳川頼宣の寄進により、本堂・諸堂宇が再建され、その後、
庫裏・書院・玄関が造営されると、書院は聖護院御殿といわれ、
聖護院・醍醐寺三宝院の門跡が熊野に入る際の宿所に充てられました。

室町時代には一般庶民の熊野詣が活発に行われ、熊野古道は
大勢の庶民であふれ、蟻の熊野詣といわれるほどでした。
このブームに先鞭をつけたといわれるのが、平安後期から
鎌倉時代にかけて盛んに行われた上皇や女院の熊野詣、
すなわち熊野御幸(くまのごこう)です。
後鳥羽上皇は院政を開始した年から
承久の乱までの24年の間に28度も熊野御幸を行っています。
一説には、一度の熊野御幸に2500人もが同行したとも
いわれるほど大規模なもので、
こうした参詣は上皇の権力を見せつける場でもありました。

上皇に討幕の挙兵を勧めたのは熊野三山検校の長厳だったといわれ、
承久の乱において熊野は鎌倉幕府方と後鳥羽方に分裂し、
新宮別当家には幕府方や中立派が多く、熊野の有力者や
田辺別当家は後鳥羽方として挙兵しています。
実力者が積極的に乱に加わった結果、
乱後、熊野は壊滅的打撃を受け別当家は衰退していきます。
承久の乱の際、幕府方に参戦したのは東国の武将、
上皇方に参戦したのは、西国の武将が多かったといわれています。

湯浅氏は鎌倉幕府に仕えていましたが、
主な仕事は京都と朝廷の警備にあたる御家人でした。
これを在京御家人といい、院の命令によって動いていたため、
朝廷の影響を強く受けるようになっていましたが、
この乱では幕府方についています。

建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇の4度目の熊野御幸に供奉した
藤原定家は選りすぐりの近臣に加えられたことを光栄に感じて、
『後鳥羽院熊野御幸記』にその様子を描いています。
鎌倉では2年前に頼朝が亡くなり、その嫡男頼家が後継者と
定まっていましたが、すぐに混乱が始まり、
鎌倉幕府の政情が不安な時のことです。
定家は新古今集選者の一人で、この旅行記には難路の寒風や
疲労と闘いながら、御幸に従う有様がつぶさに記録され、
熊野御幸の貴重な史料となっています。
同年同月1日、後鳥羽上皇一行は浄衣と折れ烏帽子姿で鳥羽の精進屋
(罪と穢れを滅ぼし、身を浄める場所)に入って精進し、
5日鳥羽から船に乗っていよいよ熊野に向かって出発します。
時に上皇は22歳でした。
鳥羽の地は後鳥羽上皇が承久の乱の際、鳥羽離宮の馬場殿である
城南寺(城南宮)の流鏑馬の武者揃えと称して、
兵を集め討幕に踏み切ったことでも知られています。


中世の上皇や貴族の参詣で先達を務めたのは、殆どが園城寺・聖護院の
山伏で、王子社奉幣などの儀式がある往路は原則徒歩ですが、
復路は馬などを利用することも多くありました。
上皇のこの日の装束は白頭巾・袈裟・草鞋、手には杖という
純白の山伏姿、先達は園城寺長吏覚実、時の権力者の
久我家一門や藤原定家らが随行しました。
定家は一行に先んじて、船を調達し、昼食所や宿所を
準備するなどの実務担当役です。途中、石清水八幡宮に参詣した後、
旧淀川の天満辺で上陸し、最初の王子・窪津王子で、経供養のあと
里神楽などの儀式を行い、四天王寺では、極楽浄土の東門に続くという
西門や金堂の仏舎利を拝観し、
和歌被講(和歌に独特の節を付けて詠み上げること)や
相撲を奉納し、その日は天王寺で宿泊しました。
平安時代、浄土信仰の隆盛の中で四天王寺は
「極楽浄土の東門」とみなされ、その西門から極楽浄土へ渡れるという
信仰が起こり、皇族・貴族の参詣が盛んに行われました。

翌朝は当時、和歌の神・音楽の神として信仰されていた住吉社に詣で
経供養や里神楽・相撲の奉納、和歌被講をした後、
若い上皇は参詣の途次に点在する王子から王子へと
旅を重ねながら熊野を目ざしましたが、この年40歳になる定家は
時には騎馬で、ある時は徒歩で御幸奉幣の準備をしながら
先行し、辛い旅を続けていくことになります。
やがて
湯浅の宿に着き、9日の宿をここでとることになります。
従者が探した民宿に定家が入ったところ、
憚りのある家(父の喪70日)だったので、臨時の
水垢離(みずごり)・潮垢離をとり、けがれを取り除いて
上皇の宿舎から3~400m離れた所にある小さな家に宿泊しました。
今回の御幸は新暦でいえば11月頃の事ですが、
一行の人々はかなり薄着です。
その上、熊野御幸は水垢離や潮垢離の連続で、
定家は寒さで体調を崩し、『熊野御幸記』には、
持病の咳や旅の苦しみを訴えた言葉が多く綴られています。

夜には雨が降り出しましたが、歌会があるというので、
立烏帽子を着けて御宿所に参上し、
歌会の講師役を定家は上皇のお傍近くで務めました。
翌日は雨もあがり、王子への参拝を繰り返しながら、
一行は熊野本宮大社を目指したのでした。

後鳥羽上皇が熊野参詣の際に催した歌会の歌は熊野懐紙として
一部が残り、上皇や著名な公卿の筆跡があり珍重されています。

道町(どうまち)にたつ立石は、紀三井寺・高野・熊野への参詣道を示し、
北面に「すぐ(まっすぐ)熊野道」、東面には「きみゐでら」、
南面に「いせこうや道」と刻まれ、
高さが2、38mもあり、熊野古道の中で一番大きな道標です。
この碑を左に曲がった所に深専寺があります。




深専寺山門左側にある「大地震津波心得之記碑」は、
本堂とともに和歌山県指定文化財になっています。

安政元年(1854)の大地震の2年後、深専寺住職善徴がこの碑を建て、
石碑には、大地震津波の概要と万一の時の心得、
具体的な避難経路などについて刻まれています。

深専寺を出て、古い町並みが残る小路を湯浅駅に向かいます。



熊野御幸(熊野速玉大社) 
『アクセス』
「深専寺」和歌山県有田郡湯浅町湯浅道町南 JR紀勢本線「湯浅駅」から徒歩約10分
『参考資料』

五来重「熊野詣」講談社学術文庫 「後鳥羽院のすべて」新人物往来社 
五味文彦「新古今和歌集はなにを語るか後鳥羽上皇」角川選書 
高野澄「熊野三山・七つの謎」祥伝社 「和歌山県の地名」平凡社 
「県史・和歌山県の歴史」「和歌山県の歴史散歩」山川出版社
 「四天王寺」小学館 目崎徳衛「史伝後鳥羽院」吉川弘文館 
「聖地伊勢・熊野の謎」宝島社 山田昭全「文覚」吉川弘文館

 

 



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天養元年(1144)に湯浅宗重が一族の守護神として創建した顕国神社は、
江戸時代には、湯浅・別所・青木・山田の四ヵ村の
産土神として人々の信仰を集めました。
祭神は、大己貴命(オホナムチノミコト)・須佐男命(スサノオノミコト)、
櫛名田姫命(クシナダヒメノミコト)・建御名方命(タケミナカタノカミノミコト)、
沼川姫命(ヌナカワヒメノミコトです。


延暦20年(801)、坂上田村麻呂が紀伊國有田郡霧崎菖蒲の里(湯浅町田)に
大国主大明神と称して祀り、
湯浅宗重がそれを現在地に勧請したのが
顕国(けんこく)神社の始まりと伝えています。

もと
国主(くにし)神社といいましたが、
紀州徳川家初代藩主頼宣が顕国大明神の社号を贈り、
藩儒学者の李梅渓に鳥居の扁額を書かせました。
頼宣が江戸往来の度に参拝するなど篤く崇敬したのが先例となり、
歴代藩主も篤い信仰を寄せています。
社域・社殿ともに広大であることから一般に「大宮さん」と呼ばれ、
10月18日に行われる例大祭は、昔、田中九郎助が馬を
社前に集めて流鏑馬をしたのが始まりといわれています。


大鳥居傍の手水鉢は、長さ1間(約1.818m)あり、
「在関東上総国 御宿浦 天王台 六軒町
 岩和田 岩船浦」と彫られています。
寛延元年(1748)9月、関東在住の湯浅村出身の漁民たちが氏神の
加護を祈願して奉納したものと思われます。(湯浅町指定文化財)


江戸時代になると、大型の鰯網が開発され、湯浅浦から
多くの漁民が関東や瀬戸内・九州などの漁場に進出しました。
栖原(すはら)角兵衛のように江戸の繁栄を見越して
房総に漁場を開き、のち北海道の漁場を開発して
成功する
者も現れました。

大門

拝殿

広々とした社域、拝殿背後の本殿は木々にうもれています。

大門と絵馬堂

 熊野古道の宿場町として栄えた湯浅は、醤油の醸造発祥の地です。
鎌倉時代に紀州由良の法燈国師( ほうとうこくし )が宋で禅を
学ぶかたわら、金山寺味噌の醸造方法を習って帰国しました。
まもなく湯浅にもその製法が広まり、
味噌造りをするうちに味噌桶に溜まる赤褐色の汁に
工夫をしてできたのが醤油といわれています。

江戸時代には徳川御三家紀州藩の手厚い保護を受けて
販路を拡大し、最盛時には醸造業者数100軒に達しました。
またこの時代には、漁場を開拓するために
多くの湯浅漁民が房総半島に移住し、醤油の醸造方法を伝え、
日本各地にその方法が広まりました。
しかし明治以後は徐々に斜陽化し、
今では町内に数件の醸造元があるだけですが、
工場で大量生産される醤油でなく、吉野杉樽で1年かけて
じっくり仕込む伝統的な製造方法が受け継がれています。


国道42号線沿いには、天保12年(1841)創業の醤油醸造の老舗
角長(かどちょう)国道店があります。 (有田郡湯浅町別所147)
『アクセス』
「顕国神社」 和歌山県有田郡湯浅町大字湯浅1914
JR湯浅駅から徒歩約20分
『参考資料』

「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 
県史「和歌山県の歴史」山川出版社

 

 



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湯浅城跡はJR湯浅駅の東方へ約2㎞の国民宿舎湯浅城の南側にあります。
平安末から室町時代初にかけて湯浅氏が本拠としていた城郭です。

青木山の小高い丘にあり、北は急斜面、その北側には中山丘陵が続き、
南は比較的緩やかですが、その背後には鹿ヶ瀬峠・白馬の連峰がそびえ、
西は湯浅湾に面した要害の地にあります。

城跡には土塁、廓跡、堀跡などが残る程度で大部分が破壊されていましたが、
2012年、地元のボランティア団体
「グリーンソサエティー」によって復元整備されました。

国民宿舎湯浅城の4階には、湯浅氏に関する資料が展示されている。と
いうので訪ねましたが、
昨年(2013年)この国民宿舎の経営者が変わり、
資料室は取り払われたということです。

麓から見た標高80mほどの湯浅城跡

屋島合戦に敗れ平家の軍勢が長門方面に敗走した時、
平忠房(重盛の六男)だけは別行動をとり、

湯浅宗重を頼って紀伊國有田郡に向かい湯浅湾に上陸しました。
丹後侍従と呼ばれた忠房は重盛の子で、母は兄の清経、有盛、師盛と
同じ藤原経子です。
重盛の正室経子は藤原家成の四女で、
鹿ケ谷事件の首謀者の一人
藤原成親(なりちか)は同母兄です。
忠房は末子ながら勇敢な武将であったようで、一の谷合戦や
藤戸合戦で奮戦し、都落ちの際には、一行に遅れてまで
妻子と別れを惜しむ異母兄、維盛を急き立てています。

忠房が宗重に匿われていることが知れると、近隣諸国に潜んでいた
上総五郎兵衛忠光や
悪七兵衛景清をはじめ、平家の家人や
残党が忠房のもとに集まり、
これに宗重の家の子郎党も加わり
500余騎の軍勢が湯浅城に籠りました。
頼朝の命を受けた
熊野別当湛増がこの城を攻撃し3ヶ月もの攻防が続きましたが、

守りは堅く容易に落ちません。そこで頼朝は城を囲み兵糧攻めにするよう指示する
一方で重盛には旧恩があるのでその息子は助命すると約束し、文覚に
宗重を説得させます。文治元年(1185)12月8日、鎌倉に送られてきた忠房に
頼朝は重盛の恩を述べて、ついで「都近辺でお住まいをお探しします。」といって
安心させて帰した後、すぐに追っ手にあとを追わせ、近江の瀬田の辺で殺害しました。

『吾妻鏡』文治元年(1185)12月17日条には、

後藤基清(ごとうもときよ)が降人となった忠房の身柄を預った記事が見えます。
平治の乱で捕えられた時、まだ十三歳だった頼朝に同情した池禅尼、弥兵衛宗清、
そして清盛の嫡男重盛までもが頼朝の助命を清盛に嘆願しています。
頼朝が忠房に重盛殿には恩があるといったのはこのことです。


湯浅宗重は平治の乱では清盛に加勢して軍功を立て、その際、宗重の四男
上覚も戦に加わりその後、上覚は出家し文覚の弟子となっています。
宗重は平家の中でも清盛の嫡男重盛との関係が深く、
落ち延びてきた忠房を温かく迎え入れています。
湯浅氏が都落ちした平家一門に積極的に味方していないのは、小松家の公達
(維盛・資盛・清経・有盛・師盛・忠房)が反主流派だったためとも思われます。
『平家物語』は重盛の系統を最後まで平家の正統として取扱っていますが、
実際は重盛の死後、重盛の腹違いの弟の宗盛(時子の子)が清盛の跡を
引き継ぎ、重盛の子らは主流から外された形となっています。

国民宿舎から山田川沿いの道を南へ進むと城跡の表示板が目に入ります。
入口には鍵がかかっていましたが、そこに記された連絡先に電話すると、
ほどなくボランティア団体の方が来て開けてくれました。

日本のお城といえば、大阪城のように天守閣がそびえる近世の城郭を
思い浮かべますが、こうしたお城が誕生するのは戦国時代も終わりごろです。
中世の城郭の多くは、天然の山や地形を利用し、天守や石垣などの大型の
建物を持たない、堀や土塁などで交通路を遮断しただけの粗末な軍事施設でした。




城跡への上り口

入口には鍵がかかり、連絡先の電話番号が書かれています。

上り口に設置されている湯浅城の測量図と鳥瞰図





復元された冠木門(かぶきもん)横木を一本渡しただけの屋根のない門です。



虎口(こぐち)曲輪の出入口をいい、曲輪の裏門の出入口を「搦手虎口」と呼びます。

曲輪(くるわ)山頂や斜面を削るなどして平にした場所で、周囲を堀や土塁で囲んで
防御を固めます。簡素な建物が建てられ兵士が駐在していました。
近世の城では、重要な曲輪から「本丸」「二の丸」「三の丸」などと呼んでいましたが、
中世の城では、中心となる曲輪を「主郭」、
それ以外を「一の曲輪」「二の曲輪」などと呼んでいます。


2012年、全国の湯浅姓の有志を集めてイベントが開催され、
主郭に湯浅宗重の碑が建てられました。


主郭に並ぶ湯浅氏の家紋の入った瓦

二の郭にたつ湯浅城址の石碑



追手虎口は三の丸などの曲輪へ通じる出入り口に
設けられた城門で正門にあたります。

野づら積み 土塁を強化するために自然石をそのまま積み上げた石垣。
土塁(どるい)とは、土を築き固めて盛り上げた土手のことで、
雨が降ると土が崩れるため、積み石で土止めすることもあります。


堀切(ほりきり)尾根筋に沿って進む敵を防ぐため、
山の尾根を断ち切るように作られた堀のことです。
堀は敵の侵入を防ぐため城の周囲に掘られ、近世の平城には
水堀が作られましたが、中世では水が張られてない空堀が一般的で、
山の周囲に流れる川を天然の堀として利用する場合もありました。


堀切と土橋(どばし)
土橋は堀切を渡るために架けられた土の橋で、木の橋を用いることもありました。

敵が攻めて来たときには、木橋を落として防御しました。

木々の間からは湯浅の町並や湯浅湾が望めます。

雑木の中に2㎝くらいの小さなお茶の花が咲いていました。
湯浅宗重の孫明恵が京都高山寺境内、日本最古の茶畑を造園する。(現地説明板より)
湯浅宗重(勝楽寺)  
『アクセス』
「湯浅城跡」和歌山県有田郡湯浅町青木 JR湯浅駅下車徒歩30分
『参考資料』

角田文衛「平家後抄(上)」講談社学術文庫 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書
 
山田昭全「人物叢書文覚」吉川弘文館 高橋修「熊野水軍のさと」清文館 
 富倉徳次郎「「平家物語変革期の人間群像」NHKブックス 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館 

「和歌山県の地名」平凡社 「大阪のお城がわかる本」高槻市立しろあと歴史館



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 醤油の醸造で知られる湯浅町は、平安時代末から鎌倉時代にかけて権勢を誇った
湯浅党の本拠地です。湯浅宗重は平安末期には、平氏の家人として重んじられ、
鎌倉時代に入ると、幕府の御家人に転身し湯浅党の基礎をつくりました。
宗重の四男上覚が、頼朝と深くつながっていた文覚の弟子となっていたために、
頼朝は湯浅一族に対して好意的な態度をとり、諸荘園の地頭職に任命しています。
しかし、南北朝時代には、後醍醐天皇の南朝方に味方したために
南朝の終焉とともに次第に衰退していきました。

平治元年(1159)12月、清盛は次男基盛と三男宗盛それにわずかな供を連れて
熊野参詣に出発しました。その隙に藤原信頼が源義朝を誘って兵を挙げ、
後白河上皇の御所三条東殿を襲撃し、上皇とその姉の上西門院を内裏の中の
一本御書所(いっぽんごしょどころ)に幽閉しました。平治の乱の勃発です。
清盛が六波羅からの早馬でこれを知ったのは、熊野古道沿いの田辺付近でした。

15騎の手勢しか連れてなかった清盛は動転し、初め九州へ落ちて兵力を整えてから
京へ攻め上ろうと考えました。そこに救いの手を差しのべたのが、湯浅宗重と熊野別当
湛快(湛増の父)です。湛快は7領の甲冑と弓矢を提供し、宗重は手勢37騎を
引き連れて駆けつけ、直ちに上洛するよう進言しました。清盛はこの進言を入れ、
急ぎ京へと引きかえし、この乱の勝利者となりました。
一介の小豪族に過ぎなかった宗重は、これを機に平氏の有力家人のひとりとなり、
同族らを統率して紀州最大の武士団を形成していきます。

一方の湛快も平氏との結びつきを強めます。『愚管抄』によると、
平治の乱の際、13歳の若武者上覚は、父宗重が率いる37騎の1人として
清盛に加勢し、宗盛に鎧(小腹巻)を着せています。
ちなみに腹巻とは、小形で袖がなく胴をまとうだけの簡単な鎧のことです。
『平家物語・巻10』には、妻子恋しさに屋島を抜けだした維盛(重盛の嫡男)が
紀伊の湊に上陸した後、高野山に上って出家し、次いで熊野に向かう途中、
平家方だった湯浅宗光(宗重の子)に出会うエピソードが見えます。
山伏姿に身をやつした維盛主従は、千里の浜の北・岩代王子の辺で
狩装束の武士の一行に出会いました。「もはやこれまで」
自害しようと
それぞれ腰の刀に手をかけましたが、一行は馬をおりてうやうやしく道をよけ、
維盛の変わり果てた姿に袖を濡らしたのでした。


国道42号線のバス停「紀文茶屋」の近くに、勝楽寺(西山浄土宗)があります。

三叉路にたつ道標

拝観(要予約)0737-63-2118

草創は明らかでなく、現在は新しい本堂と庫裏があるだけの小さな寺ですが、
本堂収蔵庫には、平安後期から鎌倉時代にかけての仏像十体が安置されています。
そのうち平安後期の本尊木造阿弥陀如来坐像をはじめ、木造薬師如来坐像、
木造四天王立像や、鎌倉時代の木造釈迦如来坐像、木造地蔵菩薩坐像 
計八体の仏像は、いずれも国の重要文化財に指定されています。
特に阿弥陀如来・地蔵菩薩は坐像ながら高さが2m以上もあり、
これらの仏像の存在だけでも、当時の勝楽寺の威勢が察せられます。
寺は湯浅氏の庇護のもと大いに栄えましたが、その没落と共に衰退していきました。
『和歌山県の地名』等によると、慶長3年(1598)豊臣秀吉の命により、
勝楽寺の本堂は解体されて京都醍醐寺に移築されました。
現在、同寺の金堂(国宝)として当時の姿を伝えています。


醍醐寺金堂
五大力さんの「餅上げ力奉納」が毎年2月23日金堂前広場で行われています。

金堂内陣 薬師如来坐像(重文)



かつての勝楽寺は、この巨大な本堂を中心に七堂伽藍が立ち並び、
境内には熊野古道が通っていました。



また、江戸元禄期に一代で巨万の富を築き、それを一代で使い果たした
紀伊国屋文左衛門生誕地の碑が勝楽寺境内にたっています。

文左衛門は湯浅町別所出身といわれています。

ある年、大豊作のみかんを江戸に運ぼうとしましたが、その年の江戸への
航路は嵐に阻まれ、運べなくなったみかんは上方商人に買いたたかれ、
大暴落しました。これに目を付けた文左衛門は、大金を借りて船を修理し、
ただ同然でみかんを
仕入れ、そして船頭を説得し、死をも覚悟して
幽霊丸と名づけた船で嵐の中を江戸へと漕ぎだしました。 
この船出が後に江戸随一の豪商にのしあがる基礎となり、のち材木商として
江戸に進出し、持ち前の才略と機知を駆使し、財をふくらませていきました。
ワイロ作戦で念願の幕府材木御用達商人となり、巨万の富を得た文左衛門は、
吉原で大尽遊びを競った話などの豪遊伝説が残っています。
しかし、文左衛門の末路は数多くの異説があり謎につつまれています。
平忠房の最期(湯浅城跡)  
『アクセス』
「勝楽寺」和歌山県有田郡湯浅町別所165 JR湯浅駅下車徒歩約20分 
『参考資料』
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 山田昭全「人物叢書文覚」吉川弘文館
 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 県史30「和歌山県の歴史」山川出版社
 「図説和歌山県の歴史」河出書房新社 「和歌山県の地名」平凡社
「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 
神坂次郎「熊野まんだら街道」新潮文庫
「産経新聞朝刊」平成17年9月29日(きのくに時空散歩44)

 

 

 

 

 

 



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10年ほど前の平成16年10月23日サンケイ旅行会主催の「熊野古道ウォーク」に参加し、
那智大社・青岸渡寺から大門坂を経て補陀洛山寺までの7km余
を歩きました
途中には、平宗清の荷坂の五地蔵、尼将軍供養塔などの史跡があり、
ゴールの補陀落山寺では、ご住職から境内に展示されている
補陀落渡海船(復元模型)について説明していただきました。

ここまでは熊野那智大社 青岸渡寺  文覚の滝 (飛瀧神社) 
実方院跡  熊野古道大門坂 をご覧ください。

大門坂からバス道に出て道標に従って左折し、那智川に架かる二ノ瀬橋を渡り
そのまま進むと小学校の先にこんもりとした森が見えてきます。
市野々王子神社です。その隣には周囲を石垣に囲まれた「お杉社」とも
「お旅所」ともいわれる市野々王子跡地があり、
天照大神が姿を現わしたという「影向石」があります。












集落の中の道を辿るとやがて補陀落霊園が見えてきます。その傍に
「荷坂の五地蔵」があり、すぐ先には「尼将軍参道入口」の碑がたっています。


斜面にたつ荷坂の五地蔵の説明板
「平弥平兵衛宗清が石屋の弥陀六(やたろく)と名を替えて
一の谷の合戦で亡くなった笛の名手平敦盛(清盛の弟経盛の子十六才)を
供養するため作ったと伝えられています。
宗清は平治の乱(1159年)の後捕えられた幼い頃の頼朝の命を
助けるよう働いた人。後に頼朝は優遇しようとしたが固辞し
屋島の戦いにも参加したが寿永三年(1184年)以後の消息は不明。
平成十六年度 和歌山県地域ひと・まちづくり補助事業
グランドデザイン那智勝浦」


平弥兵衛宗清は、平家の一族で池禅尼の侍です。
平治の乱の敗戦によって頼朝は父義朝に従って東国に向かいました。
義朝一行は不破の関を避けるために伊吹山に分け入りますが、雪が深く
途中で馬を捨て徒歩で山を越えようとします。しかし頼朝は大人にはついていけず
迷子になってしまいました。この頃、尾張守頼盛(池禅尼の子)は、宗清を目代として
任地に下向させます。青墓宿に着いた宗清は、頼朝を見つけて京都に護送し
身柄を預かりますが、やがて頼朝の助命に奔走するようになります。
『平治物語』によると、頼朝が早世したわが子家盛に生き写しだと
宗清に聞かされた池禅尼が清盛に助命嘆願した結果、
頼朝は死罪を免れ配流されることになったとあります。

実際は、頼朝が仕えていた上西門院(後白河院の同母姉)や頼朝の母方の親族

熱田宮司家らが動き、もともと上西門院と親しかった禅尼に働きかけた。
と推測される。ということは池禅尼と頼朝で述べさせていただきました。 

頼朝が伊豆に流される際、宗清は名残を惜しみ近江篠原まで見送っています。

頼朝はこれらの事を終生恩義に感じ、平家都落ち後も頼盛一家を特別視し、
頼盛と共に宗清も鎌倉に招きます。しかし、宗清はそれを潔しとせず一門と
運命を共にしました。頼盛と別れて屋島の宗盛のもとに馳せ参じます。
引き出物を用意し、宗清を心まちにしていた頼朝は、残念がりその意地に
眉をひそめたような言葉を述べたと『平家物語・巻10』は語っています。
その後の宗清の消息は明らかではありませんが、
荷坂峠の説明板によると生きのびて敦盛の供養をしたようです。
青墓(源頼朝・平宗清・夜叉御前) 


荷坂の五地蔵から道標に従って峠道を上ると杉林の中に祠があります。
これが尼将軍供養塔です。


北条政子は尼御台として弟の時房をともなって二度熊野参詣をしています。
一度目は承元2年(1208)頼朝の死から13年後のことです。
この間、頼家が修善寺で亡くなり、将軍は実朝に変わっていました。
亡き夫や子の冥福を祈ることもあったでしょうが、熊野権現に実朝の
後継者誕生を祈願することも目的の一つだったでしょう。

そして二度目は建保6年(1218)時房と政所執事二階堂行光を
従えての熊野詣でした。すでに政子は62歳になっていました。
京都で2ヵ月余りを過ごし、その間に熊野詣に出かけています。

実朝には子供がなく、将軍後継者を視野に入れての滞在です。
京都では藤原兼子に面会しています。この時の政子と兼子の会談の席で
「兼子が後鳥羽上皇の皇子を下すことを内々に約束した。」と慈円は推察しています。
兼子は後鳥羽天皇の乳母となって当時、権勢を振るっていた女性です。

兼子の姉範子は、夫の法勝寺の執行(事務長)能円(平時子の兄弟)が
平家一門とともに西国へ落ちて後、源通親に再嫁しました。
能円との間に生まれた在子を後鳥羽天皇に入内させ、
在子はその後、土御門天皇を生んでいます。


この祠からじめじめした道を下ると長谷川の土手に出ます。
途中で橋を渡り那智川沿いの県道を進みます。標識に従って県道を離れ
左手集落の中の道を少し歩くと、ゴールの補陀洛山寺の裏門が見えます。




ここからは平維盛供養塔(補陀洛山寺) 
維盛入水1(浜の宮王子跡・振分石)
をご覧ください。
『参考資料』
渡辺保「北条政子」吉川弘文館 上横手雅敬「鎌倉時代その光と影」吉川弘文館
 関幸彦「北条時政と北条政子」山川出版社 新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店



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大門坂は大門跡に向かう熊野那智大社への参詣道です。
熊野詣の人々が歩いた石畳が昔の姿のまま残り、
熊野参詣の歴史が色濃く残る古道のハイライトです。

大門坂バス停から案内板に従って古道に入ると、左手に「大坂屋旅館跡」、
赤い欄干の「振ヶ瀬橋」が見えてきます。




南方熊楠が3年間滞在した大坂屋旅館跡

南方熊楠は大坂屋旅館の離れを常宿として、
那智原生林の菌類・藻類などの採集研究をしていました。

ここからが那智山の聖域で、この橋は神域と俗界を分ける振ヶ瀬橋です。
橋を渡ると石畳と170本もの杉並木が続きます。


鏡石を過ぎるとやがて樹齢800年の夫婦杉が坂の両側に見えてきます

夫婦杉とよばれる幹周囲8.5mの2本の大杉です。

鬱蒼と茂る杉並木には、幹が祠となった大木もあります。



夫婦杉手前の大門坂茶屋では、平安衣装の貸出(1時間2千円)を行っています。

大阪から来られたという娘さんに夫婦杉をバックにモデルをお願いしました。

夫婦杉の近くには多富家王子跡」があります。
九十九王子の最後の王子社で、樹叢や峠の神仏に
「手向(たむ)け」をした
場所と考えられています。
江戸時代には社殿がありましたが、明治10年、
熊野那智大社の
境内に末社「児宮(ちごのみや)」として合祀されました。


熊野古道沿いには「九十九王子」とよばれる社が等間隔に置かれ、

奉幣・読経などの宗教行事の他、休憩地としても利用され、
時には歌会なども開かれて長い旅の疲れをほぐしました。

鎌倉積みの石段は苔むし1町ごとにたてられた小さな町石が所々に残っています。(2町)
ここから右手の小道を下りると、バス停「大門坂」があります。(2、3分)

大門跡手前にある唐戸石、そ
の上には小銭がたくさん置かれています。

大門坂を上りきると那智の滝が見えます。
熊野の自然に宿る神に会うために、やっと辿りついた
巡礼者たちはどのような思いでこの大滝を眺めたのでしょう。

かつて坂を上りつめた所には、仁王像がたつ大門があり、

通行税を徴収していましたが、今はなく那智山駐車場に出ます。
その先には土産物街があり、にぎやかな門前町の風情を漂わせています。
ここからさらに473段の石段を上ると、標高約500mの
高台にある熊野那智大社社殿に到着します。

南方熊楠は 和歌山市生まれですが、後半生を田辺で過ごしています。
毎日のように熊野の山々を歩き、植物を採集して粘菌の研究に没頭、
苔の新種を見つける大発見をしています。

明治39年「神社合祀令」が出されると、その反対運動に奔走するようになります。

そのために費やした時間とエネルギーは膨大なものでした。
「神社合祀令」とは、由緒ある神社を保護し、小さな社は1町村1社を原則として、
神社を整理統廃合する計画です。これが発令された時、熊野の森や鎮守の森も
伐採の危機に直面しました。社叢には神木としてヒノキなどの巨木が多くあり、これが
払い下げられて伐採され、利権の対象となりました。
強引に合祀が進められていく中、
熊野の森を守ったのが南方熊楠でした。

熊楠は合祀推進の官吏が来ている
県の講習会に押しかけて
家宅侵入容疑で拘束される一方で、
民俗学者の柳田國男・和歌山県知事を通じて
合祀反対のパンフレットを政官界に配布、

地元紙「牟婁(むろ)新報」にも、神社合祀反対の意見を発表し、
その主張を地元民に広めました。熊楠が展開した反対運動は
多くの支援者の支持を得て、神仏合祀令はしだいに沈静化していきました。
『アクセス』
「大門坂駐車場」JR紀伊勝浦駅又はJR那智駅から熊野交通バス20~25分
「大門坂駐車場」から「那智山駐車場」まで 徒歩約35分
『参考資料』

「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 「和歌山県の地名」平凡社
産経新聞朝刊「こころ紀行・世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」 平成16年7月~11月掲載記事
梅原猛「日本の原郷 熊野」新潮社 別冊宝島「図解聖地伊勢・熊野の謎」宝島社

 

 

 



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熊野那智大社の参道の急な石段を10分ほど上ると、左手に大社経営の宿泊所
龍泉閣の庭園が見えてきます。もとは実方院(じっぽういん)といい、青岸渡寺の
尊勝院とともに熊野御幸の際、上皇が宿泊所として使用されたところです。

説明板には次のように記されています。

実方院跡 和歌山県指定史跡 中世行幸啓(ぎょうこうけい)御泊所跡
熊野御幸は百十余度も行われ、ここはその参拝された上皇や法皇の御宿所となった
実方院の跡で熊野信仰を知る上での貴重な史跡であります。 熊野那智大社


実方院の庭園にあったモッコクは樹高10m余、
幹回り1.8m樹齢400年余という大樹で、7月頃に白い花が咲きます。
 和歌山県の天然記念物に指定されています。

実方院は熊野別当湛増の子孫と称する米良氏が代々相続し、
同氏は高坊法眼(ほうげん)とよばれました。
また池大納言平頼盛(清盛の弟)の子孫潮氏が尊勝院を管理し、
代々那智山執行職を出しています。


熊野御幸は宇多上皇、花山法皇はじめとし、最盛期には白河・鳥羽・
後白河・後鳥羽の4代の上皇が約百年の間に100回近く行いました。
後鳥羽上皇は上皇となってから
承久の乱までの24年の間に29回も熊野に参拝しています。
後白河院政の末期には、実際の政治の実権は鎌倉幕府に移ったので、
後鳥羽上皇は政権奪還を図り承久の乱を起こしました。
しかし失敗し隠岐の島に流されてしまいます。
倒幕の挙兵を進言したのは熊野三山検校の長厳だったといわれています。
熊野では熊野別当がリーダーですが、
別当と上皇の橋渡し役を務めたのが熊野三山検校でした。

那智山の経営維持は皇族・貴族の寄進に負うところが大きかったのですが、
承久の乱後、熊野は有力な支持者を失いました。鎌倉幕府の意向をおもんばかり、
上皇・公卿の参詣はほとんど行われなくなり、また幕府は上皇側についたとして
熊野への補助を打ち切ったため、熊野三山は壊滅的な打撃を受けました。

これ以降、熊野詣の中心は武士・一般庶民へと移っていき、
熊野の経済的基盤を広く武士や民衆の結縁に求めるようになりました。


参詣を斡旋誘導したのは、先達・御師(おし)でした。
熊野を中心に修行した山伏が先達となり、
全国各地の参詣者を案内して熊野参詣を行います。
地方にいる先達を末端として熊野信仰に関する
全国的なネットワークが作られ、祈祷師でもある御師は
先達を傘下に収め、先達から引継いだ信者を宿泊させるだけでなく、
三山の社殿を案内します。

熊野参詣を行う地方在住者を旦那とよび、旦那は代々同じ御師に
世話になる慣習ができたので、御師には宿代や寄進料などの多くの収入が
安定的に入るようになり、莫大な富と権力を得るようになります。
結果、御師の権利が売買や質入れの対象として盛んに取引されるようになります。

実方院・尊勝院などが那智山の御師として大きな勢力をもつようになり、
両院に属する坊や院が一山を形成し、参詣者を宿泊させていました。
近世初頭には、実方院の旦那場は北陸を除くとほぼ全国に及んでいましたが、
明治初年の神仏分離令で両院は還俗し、実方院跡は那智大社の所有となり、
尊勝院の建物は青岸渡寺の所有になり、現在宿坊となっています。

『参考資料』

五来重「熊野詣」講談社学術文庫 梅原猛「日本の原郷 熊野」新潮社
豊島修「熊野信仰の世界その歴史と文化」慶友社 「和歌山県の地名」平凡社 

 



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那智山バス停から参道の長い石段を10分あまり上ると石段は二手に分かれ、
左へ行けば熊野那智大社へ、右手は青岸渡寺へと続きます。





熊野那智大社の起源は那智の大滝を神とする自然信仰に始まり、大滝のところにあった
社殿を仁徳天皇の時代(4C)に現在の社地に移したと伝えています。
ちょうどその頃、那智の浜に漂着したインドの裸形上人が那智大滝の滝壺で
観音像を見つけ、草庵に安置したのが青岸渡寺のはじまりとされています。
熊野三山にはそれぞれ共通の12柱の神々が祀られています。
熊野那智大社には熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)を主祭神として、
12柱に大滝の神・飛滝(ひろう)権現をあわせて13柱の神々を祀っています。
平安後期、神仏習合の時代になり仏教と神道が結びつくと、熊野夫須美神は千手観音の
仮の姿(権現)とされ、那智山は観音浄土につながる霊地と考えられようになります。
そしてはるか南の海の彼方にある観音浄土(補陀落浄土)に船出しようと、
那智の浜から補陀落渡海を行う人々がいました。現在、補陀落渡海の
出発点とされた補陀洛山寺の境内には復元された渡海船が展示されています。

那智大社のすぐ隣にある青岸渡寺の本堂は、江戸時代までは熊野権現の如意輪観音堂でした。
本尊は如意輪観世音菩薩で、西国三十三所観音霊場の第一番札所となっています。
信長の焼き討ちにあい、秀吉の命によって弟秀長が再興したというこの本堂は、
桃山時代の建築様式を伝える国指定重要文化財です。



西国三十三所参りは花山法皇によって始められたという伝承があります。
花山天皇には数人の女御がいましたが、天皇は特に祇子を寵愛し
彼女は弘徽殿(こきでん)の女御とよばれていました。
その祇子が亡くなり天皇は大そう悲しみ絶望的になっていました。
それを上手く利用したのが藤原道長の父兼家です。兼家は天皇と親しい四男道兼に
命じて出家して女御の菩提を弔うよう勧めさせます。道兼も一緒に出家するというので、
天皇は決心し夜更けに内裏を出発、元慶寺に向かいました。

途中から源満仲率いる武士が、一行の前後を固め邪魔が入らぬようにしました。
元慶寺で天皇が剃髪するのを見届けると、道兼は用事があると嘘をついて逃げ帰り、
兼家は外孫の一条天皇を即位させます。こうして19歳の若さで兼家・道兼父子の陰謀により、
在位2年で皇位を追われた花山法皇は、千日間那智山に篭って修行し、
更に広く観音の大慈大悲を求めて、観音を祀る寺を巡拝する旅に出たことから、
青岸渡寺は西国三十三所の第一番札所、元慶寺(京都市山科区)は番外札所となっています。

拝殿の奥には、華やかな黒地の千木と鰹木に金箔、
まばゆいばかりの丹塗りの社殿があります。
向かって右から滝宮(第一殿)、証誠殿(第二殿)、中御前(第三殿)、
西御前(主神・熊野夫須美神を祀る第四殿)、若宮(第五殿)、
その左側には第六殿(八社殿)が並んでいます。

正面が拝殿、左端は熊野那智大社の宝物殿。

宝物殿には室町時代に描かれた「那智権現曼荼羅」や「那智経塚」からの出土品、
熊野三山の歴史を伝える貴重な文化財が展示されています。

参拝者で賑わう熊野那智大社、大きく枝を広げる重盛手植えの大楠(右上)

拝殿右の大楠は高さ27m、幹まわり8.5m、枝張りは南北25mもあります。
平重盛が参詣した際、手植えしたと伝わる樹齢850年の巨木です。
大楠後方の朱色の小門をくぐると青岸渡寺の本堂前広場に出ます。

本堂前広場は絶好の撮影ポイントです。

本堂前広場から大滝へ下りる途中にたつ青岸渡寺の三重の塔。

明治政府による神仏分離令・修験道禁止令・神社合祀令をきっかけにして、
全国各地で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、多くの寺院や仏像が破壊されました。
神仏習合の最も進んでいた熊野三山はその影響をまともに受け、熊野古道沿いに点在する
神社は合祀となり、如意輪堂も廃され本尊は市野々の宝泉寺に移されました。
その後、山内の信者らによって廃堂が復興され、
これを本堂として天台宗青岸渡寺が創立されました。
『参考資料』
梅原猛「日本の原郷 熊野」新潮社 五来重「熊野詣」講談社学術文庫 「和歌山県の地名」平凡社
 天川彩「熊野その聖地たる由縁」彩流社 大津透「道長と宮廷社会」講談社



 



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飛瀧神社(ひろうじんじゃ)は那智ノ滝をご神体とする神社で、熊野那智大社の別宮です。
本殿はなく、大滝前広場の左脇に飛瀧神社拝所、正面に鳥居がたっているだけです。
青岸渡寺から那智の滝への参道を下り「滝前」バス停に出ます。
そこから鳥居をくぐり、うっそうとした杉木立の中を鎌倉時代の石段を下ると
目の前に雄大な滝を拝むことができます。








古くから那智の滝は修験者の聖地とされてきました。

那智山中には那智大滝(高さ133m・巾13m)はじめ多くの滝があり48滝と総称され、
滝篭修行の行場として、役行者や花山法皇、最澄、弘法大師などが
千日行を行ったと伝えています。その中に文覚が21日間修行したといわれる
落差8mの「文覚の滝」があります。室町時代に作られた『那智参詣曼荼羅』にも、
滝行をする文覚とそれを助ける不動明王の使者の二童子が描かれています。


文覚の滝はお滝拝所(飛瀧神社拝所)の右手下方、岩の向うにかかる滝です。
「文覚荒行の滝」、「曾以(そい)の滝」ともよばれ、
文覚上人が荒行を果たした滝といわれています。

平成23年9月台風12号による大雨でこの滝は崩落しました。

那智山から帰って20日ほど後の平成26年11月1日、
「那智勝浦町観光協会」に崩落後のこの滝について問い合わせたところ、
「文覚の滝は作り直され、つい最近完成した。」というお返事をいただきました。
大滝前広場の右手にトイレの案内板がたっています。
そこから下りると河原にあるトイレの正面に、新しく作られた文覚の滝があるそうです。


社務所から飛瀧神社拝所に入ると、那智の大滝や滝壺をより間近に見ることができます。
(料金:300円)

御瀧拝所手前の龍の口からは「延命長寿の水」が出ています。 

頼朝に謀反をけしかけ、時代を大きく動かす重要な人物として
文覚は『平家物語』に登場しています。

文覚は上西門院統子(むねこ)に仕える武士で、もとの名を遠藤盛遠といいました。
誤って人妻の袈裟御前(けさごぜん)をあやめ、十九歳で発心し文覚と名を改め、
日本国中の修験霊場を訪ねて13年にわたって修行を続けます。
『平家物語・巻5・文覚の荒行の事』から、那智山での文覚修行の様子を見ていきましょう。
「那智の山では、風花が舞い滝の水もつららとなって垂れさがる寒さの中、
文覚は滝つぼに下りて首までつかり、2、3日の間は呪文を唱えながら
そのままじっとしていました。4、5日にもなるとさすがに耐えられず浮き上がり、
滝の勢いで流され浮きつ沈みつしながら生死の境をさまよいます。
すると童子が現れ助けます。息を吹き返した文覚は再び滝壺に入りましたが、
とうとう息絶えてしまいました。そこに2人の童子が舞い降り、
文覚の冷え切った体を撫でまわすと、文覚は再び息を吹き返しました。
こうして文覚は不動明王の使いの童子らに助けられ、無事に大願を果たしました。
不動明王が文覚の勇猛な荒行に感じ入り、従者たちに「助けよ」との命を下したのでした。」
この逸話は那智の滝が再生の地と見なされていたことを物語っています。

その後、都に戻り、高雄の神護寺の荒廃ぶりをみて、再興しようと
寄付を集めてまわります。勧進のため後白河院の法住寺殿へ押しかけますが、
あいにく御前では管弦の遊びのまっ最中、そこへ文覚が制止を振り切って入り込み、
無礼を働いたため伊豆へ流されました。そこで頼朝と運命的な出会いをします。
頼朝に挙兵を促す文覚は、義朝(頼朝の父)の髑髏だといって偽の髑髏を見せて迫った後、
文覚自身は後白河法皇のもとに行き、法皇の近臣藤原光能(みつよし)を介して、平家追討の
院宣を手に入れます。ついに頼朝は文覚の説得を聞きいれて平家打倒を決意したと
『平家物語』は語っています。実際には、文覚は頼朝挙兵の2年前には許されて都に
帰っているので、治承4年(1180)の頼朝挙兵の頃、文覚が伊豆にいたというのは
史実と食い違い、『平家物語』の虚構と見られています。しかし頼朝と文覚の間には
何らかの関わりがあって、文覚が頼朝に挙兵を勧めたという噂があったことは確かです。
『平家物語』の作者はその噂話をドラマチックに脚色して物語を作ったようです。


ところが頼朝は平家討伐後、生涯文覚を敬い一目おいていたことが、
いろいろな史料からもうかがえます。よほど恩義を感じていたのか、
頼朝は文覚が持ちこむ無理難題をも言われるがまま叶えてやっています。
後白河法皇の院宣を文覚が入手したという裏づけはないものの、
勘勅を解かれて一旦都に帰った文覚が再び伊豆に下り、何か頼朝の心を
動かすような強い働きかけをして、挙兵の決意をうながしたものと考えられます。 

文覚と源頼朝との結びつきは、文覚が上西門院に仕える武士であったためと思われます。
上西門院は鳥羽天皇と待賢門院の皇女として生まれ、母待賢門院の死後、
後白河天皇(同母弟)の准母として皇后となり、院号を宣下され上西門院となりました。
この時、頼朝は上西門院の蔵人に任じられています。
頼朝の母の実家(熱田大宮司家)は、女院と関係が深く、熱田大宮司家の人々の多くが
上西門院に伺候し、母は熱田大宮司藤原季範(すえのり)の娘で父義朝の正室でした。
 文覚上人の墓 (神護寺)  恋塚寺(文覚と袈裟御前)  
恋塚浄禅寺(文覚と袈裟御前)  
『参考資料』
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 
山田昭全「文覚」吉川弘文館 富倉徳次郎「平家物語」日本放送出版協会 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 「和歌山県の地名」平凡社




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丹鶴城(たんかくじょう)の名は、丹鶴山東仙寺に由来します。
東仙寺は丹鶴姫が夫・熊野別当行範の死後に建てた寺ですが、
慶長6年(1601)新宮城(丹鶴城)築城の際に他所に移されました。


源為義は熊野別当の娘・立田御前との間に娘と息子を儲けています。
それが丹鶴姫(鳥居禅尼・たつたはらの女房)と弟の新宮十郎行家で、
2人はこの地にあった新宮方熊野別当館で一緒に育ちました。
為義は多くの地方有力者の娘と縁を結び男の子を多数生ませ、
その子らは列島各地にそれぞれ進出しています。
熊野別当家との婚姻関係を背景にして、熊野水軍と提携した為義は、
太平洋沿岸各地を結ぶ水上交通のルートを確保しています。

丹鶴姫は成長すると熊野別当湛快に嫁いで湛増を生み、湛快の死後、
熊野別当行範(鳥居法眼行範)に再嫁し多くの子女を儲けています。
行範が亡くなると鳥居禅尼とよばれて東仙寺に入り、
その菩提を弔いながら暮らしたとされています。
熊野別当に関する歴史には不明の部分が多くあり、
湛増は鳥居禅尼の娘婿という説もあり混乱が見られます。


平安から鎌倉時代初期にかけて、鳥居禅尼がこの地に住んでいました。
江戸時代、新宮城(丹鶴城)は家康の従兄弟水野重仲が城主となり
以後、明治の廃藩置県で廃城になるまで水野氏が代々新宮を統治しました。
現在、丹鶴城は公園になっています。

熊野別当は熊野三山を管理する役職の事です。
寛治4年(1090)、白河上皇の最初の熊野御幸が行われた時、
上皇を案内した長快が初代熊野別当に任命されました。
それまでにも熊野別当職はありましたが、
朝廷から承認された公式の役職ではありませんでした。
熊野別当は僧侶ですが、熊野の政治的、軍事的権力を一手に握り、
いざとなると熊野水軍を率いるリーダーでもありました。

平治の乱の際、熊野詣の途上にあった清盛が熊野別当湛快から武具や軍勢を
提供されたように、熊野は熊野悪僧とよばれる僧兵を多く抱えていました。
鳥居禅尼と行範との間に生まれた息子には、
行快や範命・行詮・行増・行遍らがあり、行快と範命は熊野別当、
行詮と行増は権別当となり、行遍法眼は西行に和歌を学び
『新古今和歌集』に入集、歌人としても活躍しています。

鳥居禅尼は源氏嫡流の為義を父にもち、熊野別当を祖父や夫とし、
子が熊野別当になるなど熊野諸勢力を陰で操った女性といわれています。


当時、熊野三山では熊野別当家の主導権争いが起こり、
「田辺家」と「新宮家」とに分かれて内乱となっていました。
熊野別当の中でも特によく知られているのが田辺湛増(たんぞう)です。
『平家物語』には、「以仁王の謀反は1ヶ月後には平氏に知られ、
平家方の湛増は、本宮・田辺方を率いて新宮へ攻め込んだが、
源氏方の新宮・那智に敗れて本宮に退いた」と記されています。
この時、新宮・那智方の中心となって活躍したのが鳥居禅尼でした。
新宮を襲撃した湛増について『熊野詣』に次のように記されています。
「湛増は新宮の行快らと母は同じ鳥居禅尼でも、父は異なるのであるから
その確執があるのはやむをえない。湛増はおそらく父湛快の死後、
自分を捨てて再婚した母にすら反感を抱いたのであろう。」


『源平の争乱』によると、「当時、熊野では田辺別当家の地位をめぐって
湛増とその弟湛覚の争いが、時の別当範智や新宮別当家の
行命を巻きこんで激しさを増していた。」とあり、
このような背景もこの合戦にはあったと思われます。

『平家物語』は「源平の戦いで源氏が平家を圧倒する勢いを見せると、
湛増は紅い鶏(平氏の旗色)白い鶏(源氏の旗色)を7羽ずつ戦わせて
熊野権現の神意を占わせた。その結果、白い鶏が圧勝したので
平家を裏切り源氏軍への参加を決意した」としています。

源平合戦後、頼朝の叔母にあたる鳥居禅尼は厚遇され、
紀伊国佐野庄(新宮市佐野)、但馬国多々良岐庄(現兵庫県朝来町多々良木)の
地頭職に任命されて女地頭となっています。
承元元年(1207)鳥居禅尼は
熊野を参詣した政子の訪問をうけた後、
かなりの高齢になるまで生き、承久の乱(1221)後にその生涯を終えました。
『アクセス』
「新宮城跡(丹鶴城跡)」新宮市新宮7691-1JR新宮駅から徒歩14、5分
『参考資料』

上杉和彦「源平争乱」吉川弘文館 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書
 五来重「熊野詣」講談社学術文庫 野口実「武門源氏の血脈」中央公論新社
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 高野澄「熊野三山七つの謎」祥伝社 
「検証・日本史の舞台」東京堂出版 「和歌山県の地名」平凡社 

 



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新宮十郎行家(源義盛)の屋敷跡が新宮市熊野地にあります。
行家の屋敷は市田川の左岸、古熊野街道の東側にあったといわれていますが、
現在屋敷跡の推定地は駐車場や民家となり、そこには説明板があるだけです。

「このあたり1丁(約百m)四方に渡って、源平時代の武将新宮十郎行家の
屋敷があったと伝えられている。現在遺跡らしい物は見出せないが、
江戸時代初期の「新宮古図」に記されている。
行家は別の名を源義盛といい、
源為義の十男で新宮の神官鈴木重忠の娘(熊野別当の娘との説もあり)との間に
生まれたと言われている。保元・平治の乱で兄弟を早く失ったが、
ただ一人生き残った。
 兄義朝の子である源頼朝や義経、木曽義仲の叔父にあたる。
 また、丹鶴姫(鳥居禅尼)は行家の実姉であり、紀宝町鮒田の地で
生まれたと言われる弁慶も義経を通して行家とのかかわりが深い。
行家は新宮に居住し、平家追討の令旨を諸国の源氏に伝え、
蜂起を促したことで有名である。源平の合戦が続く中、頼朝や義仲と戦ったり、
平家打倒に大きな役割を果たし、多くの人物と関わった珍しい武将である。
平家滅亡後は頼朝と対立する義経と行動をともにしていたが文治2年(1186)5月、
和泉の国で捉えられ最期を遂げた。
平成16年3月 新宮市」 (現地説明板)

行家の屋敷跡はJR新宮駅の東方に位置しています。

屋敷跡周辺の路地は狭く、分かりにくい場所にあります。

10月も半ば近く日の暮れるのは早く、辺りは急に薄暗くなってきました。



行家の屋敷跡付近を流れる市田川

行家は保元の乱で敗れた源為義の末子で、以仁王(後白河上皇の皇子)の
平家追討の令旨を諸国の源氏に伝えたことで知られています。平治の乱後、
姉で熊野新宮別当家の行範の妻である鳥居禅尼に庇護され新宮に隠れ住んでいましたが、
以仁王の挙兵を機に都に呼び寄せられました。義盛という名を行家と改め、
八条院子(しょうし)内親王の蔵人に任命されて東国へと旅立ちました。
子内親王(後白河上皇の異母妹)は鳥羽天皇と美福門院得子の間に生まれた皇女で、
両親から数百ヶ所に及ぶ荘園を譲られ、莫大な富を背景に大きな権力を持っていました。
以仁王が八条院子の猶子(養子)であることや王が八条院に仕えていた
三位局との間に若宮と姫君を儲け、子らが女院に養育されていたことなどから、
以仁王謀反の時には八条院の御所も厳しく詮索されました。

行家は源氏一族に以仁王の令旨を配るという重要な役割を果たしたものの、
その後の合戦では連戦連敗を続けて頼朝に疎まれ、
やがて甥の木曽義仲のもとに身をよせます。義仲は平家の軍勢を
倶利伽羅峠・北陸路で破り行家と共に都に入りますが、
恩賞をめぐって次第に両者は不仲となりました。
壇ノ浦合戦後、行家は今度は義経の前に現れ、頼朝と対立する両者は、
京を出て摂津の大物浦から出航します。しかし暴風雨のため遭難、
行家は和泉国に漂着し、同地に潜伏しているのを北条時政の甥の時貞に探し出され、
奮戦の後に息子光家とともに捕えられて斬首、首は都大路を渡されました。
下記の記事もクリックしてご覧ください。
新宮十郎行家と義仲(行家の墓)  
『アクセス』
「新宮十郎行家屋敷跡」和歌山県新宮市熊野地2丁目 JR新宮駅徒歩14、5分
新宮駅からまず徐福公園を目ざします。
公園の前を通りオークワ新宮駅前店(スーパー)を過ぎると

レンタカー店が見えてきます。そのすぐ先の漢方の森本薬店の四辻を南に進み、
さらに次の辻も南方向に進みます。

『参考資料』
「和歌山県の地名」平凡社 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書 
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社 
安田元久「後白河上皇」吉川弘文館 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館

 

 

 

 



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熊野三山が広く知られるようになるのは、平安時代から鎌倉時代にかけて
盛んに行われた熊野御幸によってです。
熊野は古くは自然信仰の神々を祀る社でしたが、その原始信仰に外来仏教が加わり
独自の展開を見せて神仏習合が広まると、本宮の祭神は阿弥陀仏、
速玉の祭神は薬師如来、那智の祭神は観音菩薩の化身だとされ、
熊野における浄土信仰が盛んになっていきました。

すると上皇や貴族たちは多くのお供を連れ、大規模な熊野詣を行いました。
その後、院政が途絶え武士の世になると、熊野詣での中心は武士や一般庶民へと移り、
熊野街道には切れ目なく旅人の行列が続いたのでした。
そんな熱狂的な信仰を集めたのは、熊野権現が浄不浄をとわず、
貴賤にかかわらず、全ての衆生を受け入れてくれる神だったからです。
上皇(法皇)の熊野詣を特に「熊野御幸(ごこう)」といいます。

ちなみに「御幸」とは、上皇・女院の外出をいい、
天皇が御所の外にでるのを「行幸(みゆき)」といいます。
天皇は一年中行事や儀式にしばられ勝手な旅行などはできませんから、
天皇の熊野詣は一度も行われませんでした。上皇にはそういう制限はなく、
富と暇を手にした上皇たちは競うように熊野御幸を行いました。
院政期において、当時の天皇は幼帝が多く上皇はその父であることがほとんどで、
上皇は皇位を退いても天皇以上の権力を握り、その行動を規制する人がなく、
自由に熊野を参詣することができたのです。


速玉大社社務所横に「熊野御幸」の大きな碑があります。

熊野へは紀伊路と伊勢路の二ルートがあり、
京からは紀伊路を辿り、熊野三山を詣でるのが一般的でした。

延喜7年(907)宇多上皇が初めて熊野に参詣し、弘安4年(1281)の亀山上皇まで
約400年もの間、熊野御幸は続けられました。 
上皇たちは鳥羽から舟で淀川を下り、天満橋辺りの渡辺津で上陸したあと、
街道筋に点々とある王子社を巡拝しながら、紀伊半島を海岸沿いに南下し、
紀伊田辺から中辺路に入り本宮に到着しました。本宮より新宮へは舟で熊野川を下り、
新宮・那智を巡り、その背後にそびえる妙法山に上り、
大雲取・小雲取山を越えて再び本宮に出て都への帰路についたというのが、
当時最も多く利用された経路です。(約20日長くても1ヵ月)

後白河天皇が上皇になった翌年、平治元年(1159)12月、
平清盛が熊野詣に行った留守中、保元の乱の恩賞で清盛に水をあけられた源義朝が
藤原信頼と共謀して藤原信西を殺害し、後白河上皇を拉致しました。
平治の乱の勃発です。これを聞いた清盛は熊野詣から引きかえしこの乱に勝利します。
清盛と連携し平治の乱をのりきった後白河上皇は、永暦元年(1160)10月、
三井寺の法印覚讃(かくさん)を先達にして初めての熊野詣を行いました。出発早々、
上皇は「今様を熊野権現に手向けようと思うがどうか」と供の清盛に相談すると、
「お謡いになるべきです。」と清盛は返事し、ふとうとうとすると
夢の中に
王子社の前に後白河上皇の今様を聞きに熊野権現が現れました。
この夢を上皇に語ったことにより、上皇は熊野参詣の折々に
社前で今様を謡うようになったと『梁塵秘抄口伝集』に記されています。

後白河上皇は上皇になってからの35年間、まるで憑かれたように熊野へ
足を運び、熊野詣は34回(33回とも)にも及んだと伝えられています。
それは平家一門台頭から源平争乱の相次いだ時期と一致しています。
後白河上皇だけでなく、後鳥羽上皇28回、鳥羽上皇23回など
皇族23人が延べ140回も熊野詣を行っています。

京から遠く道の険しい熊野への旅は、楽でなかったことが
『梁塵秘抄』からもうかがえます。『梁塵秘抄』は、今様の歌詞を集めて
後白河上皇によって編纂されたものです。
また今様の謡い方や名人の伝承などを自叙伝の体をとって
『梁塵秘抄口伝集』に記しています。


♪熊野へ参らんと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山きびし 
馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ 羽賜(た)べ若王子

(熊野にお参りしようと思うけど歩いて参れば道が遠い。とりわけ山が険しい。
馬で参詣すれば苦行にならずあまりご利益がない。それでは空からお参りをしよう。
どうか私に羽を下さい。若王子の神よ。)
若王子(にゃくおうじ)とは、12所権現の1つに数えられる若宮のことです。
この頃、熊野詣は苦行と考えられ、苦労して参れば参るほど
功徳が大きいと考えられたことがこの今様からわかります。


参道にたつ梁塵秘抄の碑

♪熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し 
広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず

(熊野へ参るには紀伊路と伊勢路のどちらが近いであろう。
どちらが遠いであろう。一切の衆生を救おうという広大な熊野権現の
慈悲のもとへ参る道であるから紀伊路も伊勢路も遠くはないよ。) 


歌碑には後鳥羽上皇が熊野御幸の際に詠まれた和歌が刻まれています。
♪岩にむす 苔ふみならす み熊野の 山のかひある 行くすゑもがな
(岩に生えている苔を踏みならして 熊野の山を行く
それだけ甲斐のある行く末であってほしいことよ。)

熊野速玉大社   熊野御幸(深専寺) 
熊野街道起点碑 熊野権現礼拝石(渡辺津~四天王寺)  
『アクセス』
「熊野速玉大社」和歌山県新宮市新宮
JRきのくに線「新宮」駅より 熊野交通バス「権現前」下車すぐ、又は徒歩約20分
『参考資料』

五来重「熊野詣」講談社学術文庫  梅原猛「日本の原郷 熊野」新潮社
 「梁塵秘抄」角川ソフィア文庫 別冊宝島「聖地伊勢・熊野の謎」宝島社
新編日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館

 



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