平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




JR大正駅前

元暦2年(1185)2月、屋島にいる
平家軍を攻撃するため、義経が摂津渡辺津から
阿波へ
渡海した時には、暴風雨が味方してくれました。

ところが文治元年(1185)11月、都を落ちた義経が
九州へ向かうため大物浦(兵庫県尼崎市)から出航した際には、
船は嵐のため難破し、一行は離散し

義経は大阪市大正区の専称寺付近に流されました。
これまで数々の危機を乗り越えてきた義経も
この時ばかりは神に見放されたようです。




姫島山専称寺

この時、義経に同行した者は源有綱と堀弥太郎景光
(義経の郎党)、武蔵坊弁慶それに静御前の僅か4人でした。
義経主従は木津川を泳いで対岸の木津に渡り、
四天王寺辺りで1泊しました。
源有綱は源頼政の孫です。
伊豆守仲綱の息子で、義経の娘婿だった人物です。





木津川に架かる大浪橋。大正区と浪速区に架かる橋で幅約150m。

これには、渡辺津に本拠を置き、四天王寺とも関わっていた
渡辺党の支援があったと思われ、『義経記・巻4』には、
摂津渡辺(大阪市天満辺)に立ち寄ったと書かれています。
渡辺党の助けがなければ、義経が無事に
吉野山に
げこめたとは思われません。

『古今著聞集』によると、義経は頼朝と対立し西国へ向かう時、
渡辺緩(ゆるう)、番(つがう)のもとに立ち寄り、
事の次第を説明すると、番は悲しんで見送りました。

後にこれが頼朝の耳に入って番は勘気を蒙り、関東に召され
梶原景時に預けられましたが、頼朝の平泉攻めの時、
活躍して許され本領渡辺を安堵されたという。
武勇の誉れ高い渡辺党が、義経に同情し
不遇な歳月を送ったことを語っています。

渡辺津は大江渡(おおえのわたり)ともいわれ、
淀川河口の要地で、水と陸との交通の要衝です。
熊野参詣のコースであり、陸路の起点となったところです。

四天王寺、座摩社とも関与していた渡辺党は、
その性格からいっても住吉社とも関わっていたと思われますが、
明確な史料は残されていません。

『義経記・巻4』は、義経が九州へ渡ろうとして
大物浦から
船出し遭難した時、渡辺津から住吉へ赴き、
その夜は住吉社の神主津守長盛のもとで過ごしたとしています。

大江山の酒呑童子や土蜘蛛退治の説話でも知られる源
頼光
その四天王の一人、渡辺綱(つな)の子孫が渡辺党です。
代々一字名を称したので「渡辺一文字の輩(やから)」と呼ばれ、
綱の子の「久」が九州に基盤をつくり松浦氏の祖となっています。

渡辺氏より早く渡辺に住んでいた遠藤氏は、
一文字の輩渡辺氏と姻戚関係を結び、渡辺氏の一族となります。
のち文覚上人となった遠藤武者盛遠も渡辺党の一員です。

保元の乱では、源頼政軍の主力となったのが、
省(はぶく)、授(さずく)、連(つらね)、競(きおう)、
唱(となう)などの弓矢の芸に優れた渡辺党の面々でした。

宇治川合戦で頼政が切腹した時、その首を落として敵に
奪われないよう、石をくくりつけて宇治川に沈めたのも「唱」です。

宇治川合戦で頼政に従った渡辺党の多くの者が合戦後、捕えられ
首を斬られましたが、源平合戦では、源氏軍として活躍しました。

壇ノ浦合戦で建礼門院を海中から引きあげたのは、義経に従った
番の父の源五馬允昵(げんごうまのじょうむつる)です。
(『平家物語』巻11・能登殿最後)

さて、四天王寺辺りに宿泊した義経は、静に一両日は迎えを待ち、
約束の日が過ぎたらすぐ逃げるようにと言い置いて
静一人を残して吉野へ向かいます。

やがて天王寺に留まった静に迎えの馬が来たので、
それに乗り3日かけて義経の待つ吉野山に到着しました。
義経鎧掛け松四天王寺  
『アクセス』
「専称寺」大阪市大正区三軒家東2
JR大正駅下車 徒歩約10分

『参考資料』
加地宏江「中世の大阪 水の里の兵たち」松籟社、1984年
前川佳代「源義経と壇ノ浦」吉川弘文館、2015年
三善貞司編 「大阪史蹟辞典(専称寺)」清文堂出版、昭和61年
角川源義・高田実「源義経」講談社学術文庫、2005年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年
現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館、2008年

富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
現代語訳「義経記」河出文庫、2004年

 



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かつて昭和大典記念(昭和天皇即位)に建てられた
「伝静なごりの橋」の石碑が大物川の畔にありました。
現在、この石碑はもとの場所から少し離れた
辰巳八幡神社(尼崎市東本町1丁目)の境内に移されています。



『摂津名所図会』によると、大物川にかかる大物橋のたもとに
義経の旅宿があったとしています。また尼崎市東本町1丁目には、
静が化粧の水を使ったと伝えられる静化粧の井があったいわれ、
現、東本町1丁目には旧小字「静ノ井」がありました。

辰巳八幡神社の境内に建つ「傳静なごりの橋」の石碑。
謡曲『船弁慶』では、義経と静は大物(だいもつ)で
別れる筋立てになっているのに因んで建てられた石碑です。

義経公東下り絵巻「都落ち」中尊寺蔵

謡曲『船弁慶』 作者観世小次郎信光 
あらすじ
源義経は兄頼朝と不和になり、船で西国へ落ちのびようと
大物浦に到着しました。人目を忍ぶ旅なのだから
愛妾を伴うのは世間に憚るという弁慶の助言で、
義経はそれまで従ってきた静御前に帰京を命じます。
静は悲しみますがどうしようもありません。
義経の前途を祈って別れの舞を舞います。

舞い描くのは四季の京都の名所を綴る歌詞に乗った「都名所」、
静、最高の見せ場です。船頭が一行に乗船を勧め、
いよいよ別れの時がきました。静は名残りを惜しみ、
憂いの思いで花道を引っ込んで行きます。

一行が慌ただしく出航すると、突然暴風雨に襲われ、
次第に波が高くなるので、船頭は必死に船を操ります。
この時、海上に平家一門の亡霊が現れ、「早笛」にのって
壇ノ浦で入水した平知盛の怨霊が登場し「そもそもこれは、
桓武天皇九代の後胤、平知盛、幽霊なり」と名乗ります。
知盛は平家一門の恨みを晴らそうと現れたのです。

髪を振り乱し凄まじい形相で義経を海に
引きずり込もうと長刀を持って襲いかかりますが、
義経は少しも騒がず刀をとって戦います。
弁慶は刀では適うまいとそれを押しへだて、
陀羅尼を読んで怨霊を調伏します。
それでもなお追いかけてくる知盛を数珠を激しく揉んで
必死に祈ると、知盛の霊は花道へ押し戻され、
次第に遠く去っていき幕切れとなります。

義経は本来は大人の役ですが、静との情愛を
露骨に表現しないよう子方(こかた)が演じます。
相(あい)狂言(狂言方がつとめる役)の船頭は荒波に揉まれ、
木の葉のように船が翻弄されるさまをおもしろおかしく表現します。
謡曲『船弁慶』の見ものの一つです。

船頭  右手前は義経






辰巳八幡神社
 鎮座地 尼崎市東本町1丁目四十二番の二 祭神 応神天皇

旧社伝に宇佐八幡宮よりの勧請であるとされ、応永二十六年(1419)
日隆上人が日蓮宗本興寺を当社地内に開基されたと寺伝にあり、
境内に現存する青面金剛童子碑台石の
文保三年(1319)の年号も当社創建の古さを物語るものであろう。

昭和二十年第二次世界大戦の戦火に罹り焼失し、
現在の社殿は昭和三十二年に復興されたものであり、
旧氏子町は辰巳町と稱え東大道町・西大道町・北浜地・
西渚町・南浜町・末広町の七町で構成されていた。 
大祭日 十月十五日 末社 金子稲荷大神
 大祭日 五月十二日 (駒札より)

昭和大典記念に建てられた「辰巳渡仇討址」碑。
左門殿川(さもんどがわ)に架かる辰巳橋近辺 、
辰巳の渡し場で
慶長8年(1603) 9月、仇討ちがあったと伝えています。
藤堂高虎の家臣高畑寿教の妻槇が、家来端四郎の助太刀により
亡夫の仇佐和新九郎を討ち取り自刃しました。
『アクセス』
「辰巳(たつみ)八幡神社」兵庫県尼崎市東本町1丁目42
大物駅南出口から徒歩約15分 
国道43号線の左門殿川手前、
川沿いを南へ下って、松島ポンプ場の西隣りにあります。

『参考資料』
「摂津名所図会」(下巻)古典籍刊行会、昭和50年
金子直樹「能鑑賞二百一番」淡交社、2008年
白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年 
「謡曲集(2)」小学館、昭和54年
「京から奥州へ 義経伝説をゆく」京都新聞出版センター、2004年
「平清盛と源平合戦関連文化財群の調査研究」 兵庫県教育委員会

 

 



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大物川緑地はかつて大物浦と呼ばれた入り江の名残で、
源頼朝に追われた義経が船出をしたのはこの付近といわれています。
源平合戦で大活躍をしたにもかかわらず、 兄頼朝と不和になり、
窮地に立たされた義経は都を出て西国で再起を図ろうと
大物浦から船出しました。
文治元年(1185)11月6日のことです。
しかし折からの強い西風に煽られて船は難破し、
あえなく住吉の浦に打ち上げられて住吉の浦に漂着し
その夜は摂津の天王寺辺りに泊ったという。
当時の風説は、これを平家の怨霊のしわざとしています。

(『摂州大物浦平家怨霊顕るゝ図』高津市三氏蔵)

大物浦は平安時代以来、船舶の発着地として繁栄していた港町です。
大物は大物川の北側にある大物砂州に位置し、いち早く発展し、
大物川の南側にある尼崎は、それよりやや遅れて発達しました。
室町期以降尼崎が港湾都市として繁栄すると、
大物は尼崎の内とされることが多くなります。

長岡京の造営が始まってまもなくの延暦4年(785)、
淀川と神崎川をつなぐ水路が開かれたことから、平安時代には
神崎川の河口一帯は、河尻(かわじり)と呼ばれるようになります。
この地から直接淀川に船を漕ぎ入れることができるようになり、
河尻は都と西国を結ぶ重要な港として発達していきました。
大物浦は河尻の一翼を担う港町で、大物一帯は、神崎川水系の河口近くにあり、
海の潮流や河川が運ぶ土砂の堆積によって砂州が形成され、
時代とともに地形が変化する場所でした。

戦前から戦後にかけて尼崎市では、工場排水などによる
工業用水としての地下水汲み上げによる地盤沈下が起こり、
ゼロメートル地帯を流れる大物川は水質汚濁が進み、
昭和40年代に埋立てられて延長約6キロメートルの跡地が
大物川緑地となり、公園として整備されました。
所々にある
橋の名の碑がかつてここが川であったことを偲ばせています。

大物川緑地は阪神電車「大物駅」東側から続き、
春には、300本近い桜並木が続く美しい公園です。
「伝静なごりの橋」の碑は、辰巳八幡神社に移されました。
次回ご案内させていただきます。

歴史の散歩道「蜆(しじみ)橋跡」




「大物橋北」交差点西側、大物川緑地にある大物橋跡の碑。

石碑の背面には、「昭和五十七年三月 長久勝一書」とあります。

「大物橋北」交差点



「着船橋」こども広場  この近くに「着船橋跡」の碑があるはずですが、
見つけることができませんでした。

若宮(現、大物主神社)は創立年代は不詳ですが、平安時代末期に
平清盛によって勧請されたという伝承があります。
この社の北西には、大物遺跡があり、近年行われた発掘調査の
遺物の出土状況からみて、最も活発に活動していたのが
平安時代から鎌倉時代、特に12世紀後半から
13世紀前半の遺物が大多数を占めています。

このことから大物がもっとも賑わったのは、平氏政権誕生から
鎌倉幕府の執権政治確立期にいたる約100年間でした。
瀬戸内海沿岸各地の土器とともに多量の貿易陶磁器が
出土していることから、当地は物資流通の一大拠点だったようです。

大物橋跡の碑近くに建つ「大物川緑地 歴史の散歩道案内図」と「大物」の説明板。

大物(だいもつ)
尼崎城下の一つ、大物町は平安時代以来繁栄した町場です。
現在地付近の江戸時代の風景を描写した「摂津名所図会」には、
大物橋の北に大物社若宮(現在の大物主神社)が描かれ、
遠くに大物と接する長洲の長洲天神(現在の長洲天満宮)が見えます。
大物橋にかかる水路は大物川の一部で、庄下川の分流でした。
橋の南側一帯には城下町建設前に尼崎の中心であった
大覚寺(現在の寺町へ移転)の寺域がありました。現在地は、
この大物川を埋め立て緑道とし、「歴史の散歩道」として公園整備された所です。
大物の地名由来には、諸説ありますが、平安時代に港町として栄えていた
尼崎の材木集散地がこの地にあり、この巨材を「大物」と呼ばれていたことから、
いつしかこの地を大物と呼ぶようになったという説が有力です。
大物浜から、平安時代末源義経が兄の頼朝の追討を逃れるため、
船出した史実が、のちに謡曲『船弁慶』や歌舞伎の世界で庶民の胸に荒々しき
大物浦のイメージを与えることになりました。尼崎市教育委員会」
(説明板より)
大物浦・大物主神社・義経弁慶隠家跡(源義経の都落ち)  
義経鎧掛け松四天王寺   伝静なごりの橋の碑 辰巳八幡神社  
『アクセス』
「大物川緑地」 兵庫県尼崎市大物町1丁目18
『参考史料』
 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)角川書店、昭和62年
 「兵庫県の地名」平凡社1999年
「神戸~尼崎海辺の歴史 古代から近現代まで」神戸新聞総合出版センター
「歴史人 源平合戦と源義経伝説」2012年6月号、KKベストセラーズ

 

 



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兄頼朝と対立した義経は、西国で再起を図ろうと後白河法皇から
与えられた西国支配を認める下文(くだしぶみ)を携え、都をあとにしましたが、
摂津国河尻(かわじり=淀川につながる神崎川河口一帯)まで来たところで、
多田行綱、豊島(てじま)冠者
の手勢に行く手を阻まれたので、
これを蹴散らして先へ進み、大物浦(だいもつのうら)から
西国を目指して船出しました。
文治元年(1185)11月6日のことです。

最寄りの阪神電車大物(だいもつ)駅

大物浦(大物浜とも)は、現在の尼崎市大物町付近にあります。
同町は神崎川河口の三角州地帯にあたるため現在、
土砂が堆積し、海岸は埋立てられて工場地帯となり、
出船入り船で賑わった昔の面影は残っていません。

大物駅から南へ向かって歩くと、右側に大物主(おおものぬし)神社があります。
この神社の東側には、かつて船宿が軒を並べ、義経主従はそこで
文治元年11月5日の夜宿泊したと伝えられています。
この伝承にもとづいて大物主神社東側の道路上に
「義経弁慶隠家跡(かくれがあと)」の碑が昭和3年に
建てられましたが、
太平洋戦争の空襲で焼失しました。

『摂津名所図会』には、「大物橋爪(だいもつばしづめ)に
判官殿旅宿蹟(りょしゅくのあと)あり。今に公役免除の地なり。
武蔵坊弁慶借証文をこの地の仁木氏今に於いて伝来す。」とあります。

大物主神社の東側、
「大物主神社前」の信号



大物主神社南門

平安時代末期に大物で生まれ、太平洋戦争後途絶えた
「尼の生醤油」の醸造が40数年振りに復活した記念に
平成5年に建立された石碑が大物主神社にあります。
南門鳥居をくぐると、自然石に「汁醤油発祥之地  尼生揚醤油

(あまきあげしょうゆ)保存会会長 氏平競重」と彫られています。

大物主神社は、応神天皇の時代に草創されたと
伝えられていますが、詳細は不明です。
江戸時代には若宮社・若宮弁財天社などと呼ばれていました。
伝承によれば、平清盛が厳島神社へ参詣の途中大物浦で
風待ちのため暫く逗留していたとき厳島明神に
お祈りしたところ、波風が静まり無事に出発できたため、
当所に弁財天社を建てたといわれています。
明治7年(1874)、奈良県の三輪神社の主神である
大物主命(おおものぬしのみこと)を勧請したので、
現在の社名に改めました。
『「若宮(大物主神社)と大物橋」尼崎市教育委員会』

拝殿に架かる神額

拝殿に続く幣殿・本殿

社殿左手に、有志の声に応えて建てられた「義経弁慶隠家跡」の碑。
背面には、昭和54年建立 宮司畑中修と刻まれています。

義経・弁慶隠家跡碑
頼朝から追討された主従が西国へ船出 (1185) するために
当社東側にあった七軒
(間とも) 長屋に逗留したという口伝を
保存するため、有志の希望をうけ神社で設置
したものです。
昭和三年、昭和天皇御即位を記念して、市内の旧跡、口伝の保持を
目的に行われた、
尼崎市青年団、尼崎在郷軍人連合分会、尼崎市婦人会、
尼崎市教育会の四団体の
連合建碑事業の一環で、現在の神社東側の
道路上に建てられましたが、絨毯爆撃により
焼失していました。
様々な資料がありますが、この後、当時、当社前まで
波寄せていた
という大物浦から船出した一行は、
暴風雨のため押し戻されたかたちとなり、
堺から吉野、奥州藤原氏を
頼って逃れていきます。
関係資料 史料 『吾妻鏡』 鎌倉時代末期の史書」(説明板より)

謡曲「船弁慶」ゆかりの地(2007年撮影)
古典 「平家物語」には賴朝と不和になった源義経が
武蔵坊弁慶ら郎党と共に西国へ向うため 大物浦(尼崎市)から
船出したものの 烈しい風浪のため押し戻されたことが書かれ
これは 謡曲 「船弁慶」に脚色されているが
そのとき 一時身をひそめたところがこの若宮社
(大物主命を祀り 大物主神社ともいう) 付近だと伝える
神埼川の流域にあり 「九州宗像大社」 又厳島神社の祭神である
宗像3柱をも祀ってあり かって大物の浦は この社前まで
通っていたと云われている
なお義経は出帆を前に
愛妾 静御前と別れを惜しんだといわれ
近くに”静名残りの橋碑”もある。  謡曲史跡保存会
「義経弁慶隠家跡」の碑の傍にたっていたこの駒札は今はありません。)

かつての社号をしのばせる若宮公園



拝殿幣殿本殿

一、神社名 大物主(おおものぬし)神社
一、御祭神 大物主大神(大國主命) 市杵築姫命(弁財天)外
一、由緒沿革
今を去る二千余年前、第十代崇仁天皇の御代、日本全土が
悪疫病にさらされ滅亡寸前
になった時、帝が御幣を大物主大神に奉り、
平癒を祈願された。 その時、大和三輪山に
大物主大神が祀られ、
命を受けて大神八世の御孫大田田根子命の後裔鴨部祝が
祖神様を当地に奉斎したのが始まりである。
くだって平治元年 (1159年) 平相國清盛が芸州厳島参拝の時、
祭神市杵島姫命を
此の大物の社に合祀した。 
当時の大物の沖合は謡曲や浄瑠璃の舟弁慶千本桜などにも
謡われている。 
その頃、「若宮」 と呼ばれていた鎌倉の始め大物の浦から舟出した
源義経主従も 神社隣に宿を取り、無事平安を祈ったといわれている。
その後、寛永年間、約350年前、宗像三柱神の故事に習って、
多岐都姫命・多紀理姫命
を合祀、また相殿神として
西宮大神・菅原道真公等が配祀されている。 宮司記(駒札より)
『アクセス』
「大物主神社」
兵庫県尼崎市大物町2丁目7-6(TEL 06-6401-6069)
阪神電車「大物駅」下車 南口から徒歩約5分
 例祭日 7月21日 
21日の後の土曜日日曜日、子供太鼓の曳行や夜店が出ます。
『参考史料』
 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)角川書店、昭和62年
 「兵庫県の地名」平凡社1999年
「神戸~尼崎海辺の歴史 古代から近現代まで」神戸新聞総合出版センター
「摂津名所図会」(下巻)古典籍刊行会、昭和50年

『大物川緑地に建つ「若宮(大物主神社)と大物橋」
尼崎市教育委員会の説明板』

 

 

 

 

 



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最寄りの阪急電車石橋駅

石橋駅西口広場 いしばし餅つき大会(歳末たすけあい募金活動)
 2019年12月8日撮影





国道171号沿いの「池田警察署北豊島(とよしま)交番」の
隣に弁慶の泉(池田市史跡)があります。





文治元年(1185)、兄頼朝と不和となり追われる身となった源義経一行が
西国街道を大物浦(兵庫県尼崎市)へ落ちて行く途中、
武蔵坊弁慶がこの泉で喉の乾きをいやしたと伝えられています。

昔は大池でしたが、次第に埋没して「田畑の中の水たまり」といった
感じの小池になっていましたが、伝説にもとづいて昭和53年(1978)、
池田市が調査すると、水底の地下に1日千トンの湧き水を
保有していることが分かったので、事業費を集めて整備にとりかかりました。
水深を5mまで掘り下げ、周りを300mほど拡張し、
力自慢の弁慶にふさわしい巨石を運んで固め、高さ4mの石碑も建てて
「弁慶の泉」を再現し、池田市の史跡として生まれ変わりました。





事故防止のために泉は金網で囲まれています。
この泉の近くには、義経一行が通った西国街道が走っています。



「池田市(伝承)史跡 弁慶の泉(北今在家清水)
 この泉には、今から約八百年の昔、兄頼朝によって西国へ追放された
源義経主従がこの地を
通過した際に弁慶がこの水を飲んだという伝説があります。
箕面川の伏流水がここで湧き出ているものといわれ、
現在の大阪空港を含む下流区域約?十町歩の田畑の灌漑に利用されていました。
今も北今在家一帯の農業を営む人々には大切な湧水として利用されています。
この泉にまつわる伝説を後世に伝えるため、
毎年五月三日には「弁慶祭」が行われています。
この泉を? と池田の財産として、これからも大切に守っていきたいものです。 

昭和五十八年十二月吉日 弁慶の泉保存会 池田市豊島自治会 
池田市北今在家実行組合   
池田市北今在家婦人会」(説明板より)

「伝弁慶の泉由来記
この泉は、享保二十(一九三五)年の摂津志に
在今在家村 其味冷甘 谷伝弁慶  止渇干此としるされている。

文治元(一一八五)年 追われる身となった源義経が西国街道を逃れて
河尻(尼崎)まで行く途中 多田蔵人行網や豊島冠者の武士団に
前途をさえぎられたために 義経とともに武蔵坊弁慶もよく奮戦し
この泉でのどの渇きを潤したとつたえられている 
またこの泉は今在家村一帯の灌漑用水としても
重要な役割を果たしてきた由緒ある泉である。

池田市史跡名勝天然記念物 史跡第三号
昭和五十三年十月三十一日指定 池田市教育委員会」(碑文より)

『吾妻鏡』文治元年(1185)11月5日条には、次のように記されています。
「義経一行が河尻に着いたところ、追手の摂津国の源氏多田蔵人行綱や
豊島(てじま)冠者率いる手勢に行く手を阻まれたが、苦戦しながらも
それを駆け抜けたので、行綱らは戦を挑むことができなかった。
一方義経の軍勢もこの辺りから、これまで従ってきた武士らが
にわかに落伍しはじめ、残ったものは多くはないという。」

行綱は多田源氏の嫡流ですが、治承元年(1177)の鹿ケ谷事件で、
平家討滅の謀議に加担しておきながら途中で裏切り、
平清盛に同志を密告するような小ざかしい人物です。
その後も源義仲・源義経に近づき忠勤しますが、
源頼朝と対立しても何ら抵抗できない義経を目の当たりにして、
都落ちする義経一行を摂津国河尻に
追撃するという変り身の早さを見せています。

河尻(かわじり)は、現在の兵庫県尼崎市の南東部、
淀川と結ばれている神崎川河口一帯と推定されています。

国道2号線の左門(さもん)橋から眺めた河尻の風景
左手の塩野義製薬の辺りに、清盛に重用された
藤原邦綱の山荘・河尻の寺江がありました。
娘が六条・高倉・安徳天皇の乳母をつとめたことなどにより、
邦綱は清盛のもとで権勢を振るいました。



箕面川(みのおがわ)にかかる箕面川
大橋(豊島北2丁目10)

西市場村(現、豊島北1~2丁目・荘園2丁目)に、豊島冠者の館がありました。
『大阪府全志』に、西市場村の豊嶋(てじま)冠者宅址として
「東西40間(=72・7273m) 南北30間(=54・5455m)ほどで
西南北三面に濠梁をめぐらしていたが、後に荒廃してしまった。
その要因などは詳らかでない。
冠者の姓は源氏、当国の住人でこの地に居住していた。
源氏が凋落した時は、平家に従ったが、ひとたび
以仁王の令旨が出て頼朝が東国で挙兵すると、
関東に馳せ参じて諸所で転戦し、その功少なからず。後、
義経と頼朝が不仲になると、頼朝のために義経を苦しめた。」とあります。

豊島(てじま)冠者高頼の邸跡は、中国自動車道の池田インターチェンジ、
弁慶の泉からすぐ近くの
住宅地にありますが、今は何の名残もありません。

寺江亭跡(藤原邦綱別邸)  
『アクセス』
「弁慶の泉」大阪府池田市豊島南2丁目2-8
阪急宝塚線「石橋駅」下車、徒歩約20分。
または「石橋駅」より阪急バス「北今在家」停下車 徒歩約5分。
『参考資料』
 「大阪府志」思文閣、昭和45年 
三善貞司「大阪伝承地誌集成」清文堂出版、平成20年
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年 
井上正雄「大阪府全志」大阪府全志発行所、昭和60年
 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)角川書店、昭和62年 

 

 

 

 



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義経は土佐坊昌俊の夜討ちにあった翌日の
文治元年(1185)10月18日、その件を朝廷に報告し、
行家とともに再び「頼朝追討宣旨」を下されるよう要請しました。

当時、宮廷内は後白河法皇近臣の大蔵卿高階泰経のような
親義経派と頼朝に好意的な右大臣九条兼実に分裂していました。
兼実は頼朝には追討を受けるべき何の咎もないと主張しましたが、
法皇や公卿らは義経を怒らせる事態を恐れて、
頼朝追討宣旨を下しました。
このことを知った頼朝は、行家と義経を討つべく
10月29日に自ら大軍を率いて出陣し、11月1日に駿河国の
黄瀬川に到着し、ここで都の様子を見ることにしました。
この地は5年前、頼朝の挙兵を知って馳せ参じた義経がはじめて
兄と対面し、互いに手を取り合って涙を流した場所でした。
あの時の気持ちは、もう頼朝にはありません。

その頃、京では義経と行家が軍勢を招集しましたが、
時流を予知した畿内の武士らは与せず、思うように集まりません。
これでは鎌倉から攻め上ってくる大軍が相手では勝ち目がないと、
都を出て西国の緒方惟栄(義)を頼り九州に活路を見出そうと、
後白河法皇に要請し「義経を九州の地頭に、行家を四国の地頭に任命する。
西国の目代たちは、両人の下知に従うべし。」という院宣を賜りました。
緒方惟栄(これよし)は、かつて平重盛の家人でしたが、京から太宰府に落ちた
平家を一族で攻撃して追い落とした豊後(大分県)の豪族です。

同年11月3日、義経と行家に率いられた500余騎の軍勢は
静かに京を去って行きました。この潔い態度に感動した九条兼実は、
頼朝びいきにも関わらず、その日記『玉葉』に「法皇、公卿、
他の諸家も皆無事である。義経の所業は実に義士というべきか。
洛中の身分の高い者も低い者も喜び感謝しない者はない。」と記し、
義経を「義士」と称えています。洛中の人々は、義経が
西国落ちに際して狼藉を働くだろうと心配していたのです。
兼実などはなすすべがなく、伊勢大神宮と
春日大明神を念ずるばかりだったという。

『吾妻鏡』は、義経・行家に従う者として
前中将時実(平大納言時忠の息)・
侍従良成(義経同母弟、一條大蔵卿長成の息)・
伊豆右衛門尉有綱(義経の娘婿)・堀弥太郎景光 ・
佐藤四郎忠信・伊勢三郎能盛・片岡八郎弘綱・弁慶法師以下、
その勢200騎ばかり(『平家物語』には500余騎)と記しています。
京を出た義経一行は大物浦(兵庫県尼崎市)を目指します。

この報を聞いた太田城城主の太田太郎頼基は、義経に明日はないと判断し、
60余騎の手勢を率いて川原条(河原津)で合戦を挑みましたが、
義経一行に取り囲まれ、太田太郎は手傷を受け、郎党の多くが討たれました。

川原条は、太田城から西国街道を通って、安威川にかかる
太田橋の西側の地名、現在の茨木市西太田町辺をいいます。

絵図の右手に見える太田廃寺跡は、明治40年(1907)の開鑿により、
出土瓦に飛鳥時代後期(7 世紀後半頃)に遡るものがあり、
飛鳥後期の寺院と想定されています



最寄りのバス停「追大総持寺キャンパス前

バス停から太田一丁目へ進みます。

左手に建築中のイオンタウン、右手に
ビニール温室、
きれいに刈込まれたカイズカイブキの植込みが見えてきます。


説明板・旧跡太田城址と彫られた碑があります。


太田城跡
太田1・2丁目の旧住宅内を歩くと、道路は狭くてT字路に
なっているところが多くありますが、城下町であった特徴をしめしています。
この城は、平安時代末期(12世紀末)の平城で、太田太郎頼基(よりもと)という人が
築いた城であると言われていますが、くわしいことはわかっていません。 
頼基は、多田源氏の一族で、摂津国でも優秀な武士として名を連ねています。
その行跡のうち「平家物語巻12」に、源義経と近くの川原条
(かわらじょう=安威川と西国街道が交叉する
太田橋のすぐ西側)で合戦したことが記されています。

 それによると、平家を滅ぼした義経が都にとどまっていたとき、
兄頼朝が義経を討つため都に攻め入るという噂がたったので、
義経が文治元年(1185)11月3日の明け方、西国へ
逃げのびようとしました。頼基は、「我が門の前を通しながら、
矢ひとつ射かけてあるべきか」といって、
川原条(河原津)というところで義経と戦いましたが、
この時敗れたとされています。 茨木市教育委員会(説明板より)



太田太郎頼基は『平家物語』(巻4巻・源氏揃)にもその名が見えます。
源三位頼政がある夜ひそかに皇位継承の機会を窺いながら
過ごしてきた以仁王(後白河院の皇子)の御所を訪ね謀叛を勧めます。
そして
諸国にいる源氏に蹶起を促せば馳せ参じるであろう
50人もの源氏の名を数えあげるくだりがあり、その中に「摂津国の
多田次郎朝実(ともざね)、手嶋冠者髙頼、太田の太郎頼基」とあります。

太田城は安威川の東岸、西国街道に接した南側一帯の太田村に築かれていたと
推定されますが、今は「城の前」「城の崎」などの関係小字が残っているだけです。

「太田東芝町」交差点のところにある坂を雲見坂(くもみざか)といい、
東から西に向かって緩やかな下り坂になります。
この名の由来は『摂津名所図会』に、「太田村にあり、太田太郎頼基ここにて
天文を見て雲気を考え、軍の勝敗をさとりし所といふ」とあることから
この辺りから頼基が雲の流れを見て、天気や戦の
勝敗を判断したことから名づけられたようです。

地蔵菩薩と彫られた太田太郎頼基の墓と太田城跡顕彰碑。

自然石に「地蔵菩薩」その背面に
「太田野太郎丸(太田太郎頼基)」と彫られています。
黄瀬川の陣で義経、頼朝と対面  
『アクセス』
「太田城跡」大阪府茨木市太田1-4
阪急茨木市駅から近鉄バス 花園東和苑行き「太田」下車
阪急茨木市駅から近鉄バス「追大総持寺キャンパス前」下車
阪急茨木市駅から近鉄バス「東芝正面前」下車
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)(下2)角川書店、昭和62年、昭和52年
新潮日本古典集成「平家物語」(上)(下)新潮社、昭和60年、平成15年
「大阪府の地名」平凡社、2001年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
角川源義・高田実「源義経」講談社学術文庫、2005年 
上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(下)」塙新書、1985年

 

 



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文治元年(1185)11月、頼朝と対立した義経は、
都を去り
九州をめざし大物浦(兵庫県尼崎市)から出航したものの、
大風のため専称寺(大阪市大正区三軒家東2)付近に流され、
義経主従は泳いで対岸の木津に渡って四天王寺に潜み、
住吉大社の神主のもとで一夜を過ごしてから
吉野へ逃げ込んだという伝承があります。

義経主従が泳いで渡ったという木津川

大阪市の大正区と浪速区を結ぶ木津川に架かる
大浪橋(おおなみばし)のたもとに
「わたし勘助島」の碑がたっています。
勘助島とは、慶長年間に船着場の整備等を行った中村(木津)勘助のことです。

右面には「すぐちかみち なんば 今宮 
天王寺 住吉  あみ田池  道頓堀」と刻まれています。
現在の橋は、昭和12年(1937)に架けられたもので、
ここに初めて橋が架かったのは江戸時代の末期です。




四天王寺南大門

西重門



極楽門(西大門)付近に義経鎧掛け松があります。

1984年11月2日 大阪市28ロータリークラブより寄贈された義経よろい掛け松

この松について四天王寺の文化財係にお尋ねしたところ、
次のようなお返事をいただきました。

「四天王寺の記録では、江戸後期に作成された資料(絵図)から
この松が載っていて、
それ以前のものにはなく、
義経鎧掛松に関する資料は他になく、その理由は分からない。
明治40年頃発行された生田南水著『四天王寺と大阪』に
義経鎧掛松の記事が載っているので、
パソコンで検索すると見る事ができる。」

 その本が大阪市立中央図書館の書架にあったので
閲覧させていただきました。

一、四天王寺案内記 鎧掛松(P26)
法器庫の南方西大門の内にあり世俗義経のよろい掛松といふ
所伝詳ならず。と記されています。 

屋島、壇ノ浦合戦で平家を滅ぼし源氏勝利の立役者となった
源義経は、兄頼朝との行き違いから一転、追われる身となり、
京都から吉野へそして奥州藤原氏三代秀衡を頼って
平泉に落ちのびましたが、
秀衡没後、
四代泰衡に攻められ高館で自害し、報われない最期を遂げました。

江戸時代、木版印刷技術の向上で出版文化が花開き、
さらに寺子屋の普及による識字率の高まりで、
『義経記(ぎけいき)』が庶民にさかんに読まれるようになり、
能、歌舞伎、大衆芸能、読み本などの題材に義経の姿は
魅力的に脚色されて取り入れられ、数々の伝説と
エピソードに彩られた悲劇の英雄が誕生しました。

源平合戦でめざましい活躍を見せた義経の人気は、
軍事の天才によるものだけではありません。
華々しく活躍した後、兄に疎まれ非業の死を遂げたことから、
「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉まで生まれるほど
その波瀾万丈の人生は、幅広い世代の人気を集めました。

江戸時代、「義経鎧掛松」が四天王寺の絵図に
載せられるようになったのはこのような理由からでしょうか。

『アクセス』
「大浪橋」
JR環状線大正駅下車徒歩約9分

「四天王寺」大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
 tel. 06-6771-0066
地下鉄 御堂筋線・谷町線天王寺駅 から北へ徒歩約12 分
地下鉄 谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘駅から南へ徒歩約5 分
近鉄 南大阪線阿部野橋駅から北へ徒歩約14 分
『拝観時間』年中無休
お堂・中心伽藍・庭園
4~9月 8:30~16:30  *毎月21・22日 ~17:00
10~3月 8:30~16:00  *毎月21・22日 ~16:30
六時堂 8:30~18:00  *毎月21・22日 8:00~
本坊庭園 9:00~16:00
なお、四天王寺の門は24 時間開いています。
お堂の外からのお参りはいつでもできます。
毎月21 日、22 日、3 月の春季彼岸会と
9 月の秋季彼岸会は
中心伽藍の拝観料は無料です。
『参考資料』
三善貞司編 「大阪史蹟辞典(専称寺)」清文堂出版、昭和61年
 上横手雅敬「「源義経流浪の勇者」文英堂、2004年
生田南水「四天王寺と大阪」木下翠香、明治43年初版 昭和9年再版
現代語訳「義経記」河出文庫、2004年
週刊古寺をゆく「四天王寺」小学館、2001年


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