平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



神崎川と左門殿(さもんど)川の分岐点南方に鎮座する田蓑(たみの)神社は、
江戸時代には佃の産土神で住吉明神・住吉神祠などと称されていましたが、
明治時代に現在の社名に変更されました。
この社と佃のある中洲は、かつて難波八十(やそ)島を構成していた
島のひとつで、
田蓑島とよばれ、平安時代、天皇の即位儀礼の
一環として行われていた
八十島祭の祭場と推定されています。

『神社と祭祀』の著者田中卓氏は、「住吉大神は海の神であり、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらえ)際に
生まれた神である。伊弉諾尊は伊弉冊尊(いざなみのみこと)と共に
国生みの神であることは明白である。
八十島祭は、その起源において国生みの故事を踏まえ
伊弉諾尊の禊祓に始まり、住吉大神と結びついた。この神事にあずかる
大依羅(おおよさみ)の神・海(わだつみ)の神などは、住吉大神に
属する神々であり、祭儀においては主に住吉社神主が執り行い、
その祭場である熊河尻は住吉神領の難波津の田蓑嶋である。

また大八洲(日本国)の神霊は、もともと宮中において
生島巫(いくしまのみかんなぎ)の奉斎する神であるから、
宮中で執り行えばいいので、それをわざわざ難波津へ出向いて
行うというのは、伊弉諾尊の禊祓いの故事により、住吉大神が
鎮座する地を選んだのだと思われる。」と述べておられます。

『古事記』や『日本書紀』には、「伊弉諾尊が妻の伊弉冊尊の
亡くなったあとを追って黄泉(よみ)の国へ行き死の穢れを受けたので、
穢れを清めようと現世に戻り、筑紫の日向(現、宮崎県)の
小戸(おど)の橘の檍原(あはきはら)で禊をした。
するとこの時身に着けていた杖や帯などから十二神が生まれた。
さらに海の中に入って洗い落とすと、海神の
綿津見(わたつみ)三神、住吉三神など十一の神々が生まれた。
次に左目を洗い清めた時に生まれたのが太陽の神である
天照大御神(あまてらすおおみかみ)、右目を洗うと夜を支配する
月読命(つきよみのみこと)、鼻を洗うと荒ぶる神の建速須佐之男命
(たけはやすさのおのみこと)が現われた。」と記されています。
清盛の財力奉仕で行われた二条天皇の八十島祭  
八十島祭(熊河尻)  

最寄り駅 阪神電車千船駅

田蓑神社では、古くより神輿が練り歩き、この付近にあった御旅所で
神輿洗の神事が行われていました。しかし
慶応元年(1865)の水害で
神具一式を流失してしまい、翌年より中止となりました。
それを偲んで「田蓑神社御旅所跡碑」が阪神電鉄千船駅に
隣接する
千船病院前の植込みの中に建立されています。

「此の地(佃三丁目十三番地附近)は、昔清き波に洗われる
難波八十島の一つであり、
氏神 田簔神社の渡御の
神事が伝えられる旧跡である。
渡御の神事とは、
  慶応元年まで永年田簔神社の重要神事として
 近辺住民の尊崇を集めてきたもので、
  神社本宮から此の地御旅所との間約八百米を、報知太鼓を
先導に
神官、巫女、氏子連に護られた神輿が練り
 この御旅所で御休息と神輿洗の神事を営み
 夕刻に還幸される儀式であった。この神事は
 慶応二年の水害により中止となり今日に至った。
  今此の地は清き水は変り町のあり様も移って
 昔を偲ぶ面影もないが 変らぬ情に篤い人々の平和と健康を願い
 新しい町の発展を言祝ぎここに碑を建立するものである。
  昭和六十一年四月吉日 建立 奉納 医療法人愛仁会千船病院」

田蓑神社(たみのじんじゃ)は、清和天皇の貞観11年(869)9月、
住吉三神を勧請したと社伝にあります。



古風を残す正面の鳥居は、桃山時代作とされています。







田蓑神社(たみのじんじゃ)
貞観十一年(西暦869年)九月十五日鎮座

御祭神(住吉の四柱) 表筒之男命(うわづつのおのみこと)
中筒之男命(なかづつのおのみこと)底筒之男命(そこづつのおのみこと)
 神功皇后(じんぐうこうごう)
例祭日 秋季例祭 十月十六日 十月十七日
 夏季例祭 七月三十一日 八月一日

住吉大神は昔、日向の橘の小門の憶原というところに、
お出ましになりました大神で、伊邪那岐大神のお子様の
表筒之男命・底筒之男命・中筒之男命の三柱でございます。
伊勢神宮の天照皇大神の御兄弟神に当れる神様です。
三韓征討の時に 神功皇后みずから、住吉三神を守り神と奉り、
遂に三韓の王等を降伏、国におもどりに成る途中、
この田蓑嶋に立ち寄られ勝ち戦を祝われ三神を奉られました。
時の御船の鬼板を神宝として今も奉祀する。後に神功皇后も加わり
四柱となり、これを住吉四柱の大神という。(説明板より)


「紀貫之歌碑
土佐日記などで著名な平安時代前期の歌人で、
この歌は『古今和歌集』に収録され、旅の途中

田蓑嶋(現在の佃)に立ちよられ歌を詠まれました。
♪雨により 田蓑の嶋を けふゆけば
     なにわかくれぬ ものにぞありける(説明板より)」
 (雨にふられ今日田蓑の島に行ったのだが、
蓑というのは名だけで雨を防いではくれなかったよ)

昔、佃周辺の岸辺には、芦が群生していたことから、
謡曲『芦刈』の舞台として、
謡曲芦刈ゆかりの地の碑が建立されています。

謡曲「芦刈」と田蓑神社
昔、難波に仲の良い夫婦がいました。生活苦のため
相談をして夫と妻は別々に働きに出ることにしました。
夫は芦を売り妻は都へ奉公に出てやがて妻は優雅に暮らす
身分になりました。妻は夫が恋しくなり探すうちにはからずも
路上で巡り会いますが、夫はみすぼらしい身を恥じて隠れます。
妻は夫婦の縁は貧富などによって遮られるものではないという
意味の和歌を詠み交わすうちに心も通い合い、目出度く元通り
夫婦仲良く末永く暮らしたいという「大和物語」の話より作られた
謡曲が『芦刈』です。
その昔、淀川支流の佃周辺は川岸に沿って
芦が群生していた所で、謡曲『芦刈』の舞台とした面影はないが
田蓑神社はその史跡として今に伝えられています。
謡曲史跡保存会(説明板より)

佃漁民ゆかりの地(説明板より)
 天正十四年、徳川家康公が大阪住吉大社、摂津多田神社に参詣の折、
神崎川の渡船を勤めた縁より、後に漁業権の特権を与えられ、
献魚の役目を命じられ、佃の人等三十三名と
田蓑神社宮司平岡正太夫の弟、権太夫好次が移住した。
当初住居が与えられた安藤対馬守、石川大隅守の邸内に
住吉四神の分神霊を奉祭した。後に寛永年間に幕府より
鉄炮洲(てっぽうず)の地をいただき埋め立て造成し、天保元年、
故郷の佃村にちなみ「佃島」と命名し移住(現、東京都中央区佃島)
また、正保三年六月二十九日住吉大神の社地を定め、住吉四柱の大神と
徳川家康公の御霊を奉られた。(現、東京佃島の住吉神社)
昭和四十年、佃小学校と東京の佃島小学校とが姉妹校となり、
以降毎年交互に訪問、交歓会を開催される。
平成十八年
「佃漁民ゆかりの地」碑が、『未来に残したい
漁業漁村の歴史文化財産百選』に大阪府で只一つ認定される。
『アクセス』
「田蓑神社」大阪府大阪市西淀川区西淀川区佃1丁目18−14
阪神本線「千船」駅下車徒歩約15分
『参考資料』
田中卓「神社と祭祀 (八十島祭の祭場と祭神)」国書刊行会、平成6年
「歴史と旅」2001年8月号(『古事記』神話の風景)秋田書店
「大阪府の地名」平凡社、1988年

 



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平安時代、天皇即位の後、大嘗会翌年に吉日を選び、
難波の津で国家の繁栄を祈った八十(やそ)島祭が行われました。
当初、その祭場となった熊河尻(くまかわしり)は、
『栄華物語』長元4年9月25日の上東門院石清水住吉御参詣の条や
藤原頼通の『宇治関白高野山御参詣記』永承3年(1048)10月の条によって、
淀川の下流、江口を過ぎ、長柄橋を過ぎた河尻の辺りと推定されています。

古代、大阪湾に淀川、旧大和川などが運んできた土砂が河口に
堆積して洲をつくり、次第に幾つもの島となり難波八十島が生まれました。
八十島は淀川河口に浮かぶ沢山の島々をいい、現在、西淀川区に
佃島・出来島・姫島・御幣(みて)島・歌島・柴(くに)島・中島・
百島(ひゃくしま)・西島などといった島のつく地名が多いのはその名残です。

ところで八十島祭の行われた熊河尻は、大阪湾に注ぐ淀川の
川尻一帯を指しているとされていますが、鎌倉時代の後堀川天皇の
元仁元年(1224)12月を最後にこの神事は断絶し、
再興されなかったため、確かな場所は定かではありません。

生国魂(いくくにたま)神社(天王寺区生玉町)は、かつて
玉造にありましたが、秀吉が大阪城築城の際現在地に移しました。
生島神・足島(たるしま)神を主神とし神武天皇の頃、
国の鎮魂八柱神と一緒に島を護る神を祀っているので
熊河尻はここではないかと推察されています。


『摂津名所図会大成』には、八十島祭の祭場は
御幣嶋村(現、御幣島)と思われるとし、産土神に住吉大神を祀っている。
また近所の佃島にも住吉大神が祀られていることから、
この一帯が八十島の神の祭場だったのだろう。と記されています。
ちなみに佃の地は古くは田蓑(たみの)島とよんでいました


平安時代後期の有職故実書大江匡房(おおえのまさふさ)の
『江家次第(ごうけしだい)』にも、
八十島祭は難波の津で、宮中の神事をつかさどった職員である
宮主(みやじ)が壇を築き、幣帛(へいはく)を揃え、
住吉の神や大依羅(おおよさみ)の神、海(わだつみ)の神等を勧請し、
祓いをしたのち祭物を海に投げ込むとあり、八十島祭に用いる
幣(ぬさ)の名をとどめた御幣島(みてじま)辺りであろうとしています。

また熊河を現在の木津川(大阪市内を流れる淀川分流の一つ)
別名とみて、その下流にある田蓑島付近とみる説もあります。


田中卓氏は、「各説とも住吉大社と密接な関係をもつ地である。
御幣島(幣帛浜)には、住吉の姫神が祀られもともと住吉社の
神領であったらしいこと。
次の生国魂神社の旧社地であったという玉造説は、
古くより生国魂神社は住吉神社の末社であり、
室町時代の末になっても同様であった。

また『住吉大神宮年中行事』に見える記事から、昔、
難波津の島々はすべて住吉の神領であるか、
住吉の統治下にある
地域であった。」と述べておられます。(『神社と祭祀』) 

八十島祭が田蓑嶋で行われたと思われる和歌が
『新後撰和歌集』 に載せられています。

後鳥羽院御時八十島祭によみ侍ける津守経国 
 ♪天の下のどけかるべし 難波潟 田蓑(たみの)の島に 御祓しつれば
(これからは国家安泰に違いないぞ。
難波潟にある田蓑の島でみそぎをしたのだから)

詞書にある「後鳥羽院御時」というのは、建久2年(1191)11月の
八十島祭と思われますが、津守経国は『津守氏古系図』によると
文治元年(1185)出生、建久2年当時にはわずか7歳です。
神主となったのは承久2年(1220)のことですから、
「後鳥羽院御時」というのは、後鳥羽天皇のことか上皇としての
御代のことか明らかではありませんが、いずれにしても
八十島祭にしたがった津守経国が「田蓑の嶋にみそぎしつれば」と
詠んでいるので祭場は田蓑の嶋、御幣島の南、
田蓑神社付近と見るのが妥当だと思われます。

長暦元年(1037)以後、八十島祭の祭場は熊河尻から
住吉代家浜に移っていますから、
この時はたまたま
熊河尻で行われたようですが、それ以外はおおむね
住吉社(現、住吉大社)近くの浜が祭場だったと考えられています。
『参考資料』
田中卓「神社と祭祀 (八十島祭の祭場と祭神)」国書刊行会、平成6年
三善貞司編「大阪史蹟辞典(八十島祭)」清文堂、昭和61年
奥田尚・加地宏江他「関西の文化と歴史(動乱期の津守氏)」松籟社、1987年
大阪市西淀川区HP(地名の由来)大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年

 



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八十島(やそしま)祭は、即位大嘗会(だいじょうえ)が行わわれた
翌年、勅使が難波の海に遣わされ催行される宮廷儀式です。
新天皇の乳母で内侍(ないし)に任命された者が
祭使(まつりのつかい)になり、
生島巫(いくしまのみかんなぎ)や神祗官(しんぎかん)の
役人とともに難波を訪れ、大八洲(日本国土)の霊である
生島の神と足島(たるしま)の神それに住吉の神、
大依羅(おおよさみ)の神、海(わだつみ)の神などを祀るものです。

時代が下るにつれて禊(みそぎ)・祓(はらい)の要素が
強くなっていきますが、本来は海辺に祭壇を設け、
祭使が持参した天皇の御衣を納めた箱を開いて、
神祇官の弾く琴に合わせて海に向かって御衣を揺り動かし、
最後に祭物を海に投じるというものです。古代、
この淀川河口に浮かぶ島や中洲のことを八十島とよびました。
万物に精霊が宿っていたと信じている時代ですから、
その八十島を国土に見立て、島々の神霊を
新しく即位した天皇の体内に遷すという呪術的な祭祀です。

八十島祭は奈良時代には、天皇自身が難波津に赴き
挙行していたともいわれていますが、記録に残っているのは、
文徳天皇の嘉祥3年(850)の記事からで、
鎌倉時代に入って武家が勃興すると
公家は貧窮し断絶しました。

最初は祭場を「熊河尻(くまかわじり)」に置いていましたが、
長暦元年(1037)以後は住吉大社神主の申し出により、
住吉大社に近い「住吉代家浜」に変更して祀られたという。
(『平記』長暦元年9月25日条)
住吉の浜は大和川の付替え以降、土砂が堆積しさらに明治以降
行われた埋立開発事業・港湾整備によって海岸線は遠ざかり
現在、「住吉代家浜」は存在しません。

平安時代も半ばなると、住吉大社は多くの社領・荘園を持ち、
八十島祭の費用なども負担して
いつしか祭神も神威が高い住吉の神となっていったようです。

当初、この八十島祭の行われた熊河尻については淀川の
支流と考えられていますが、その所在地は
定かではありません。

永暦元年(1160)12月15日、二条天皇の八十島祭が行われました。
この時、典侍(てんじないしのすけ)を務めたのは清盛の妻時子です。

「時子が乳母になった時期は不明だが、
おそらくは平治の乱後であろう。」(『平清盛福原の夢』)

八十島典侍の賞として時子は、永暦元年12月24日に
従三位に叙されています。(『山槐記』同日条)

祭使の一行は、京を牛車を連ねて出発し淀から船に乗り換え、
難波津に至るのが通例でした。
神宝を入れた韓櫃(からびつ)2個、
勅使とその随行、次に平家一門の殿上人、地下人13人。
清盛の異母弟尾張守頼盛、常陸介教盛、伊賀守経盛のほかに、
時子の弟の右少弁時忠、異母弟蔵人大夫親宗(ちかむね)
それに14歳の息子淡路兵衛介宗盛がつき従います。
この日、美しく着飾った時子は唐車の左右につく8人の従者に
守られて車に乗り、騎馬で伊予守重盛が供奉し、
清盛腹心の郎党検非違使平貞能(さだよし)がそれに従います。
さらに6両の女房車が続き、警備のための衛府の武者が93人、
大型の長持4個等々という参加人数のきわめて多い華美な行列でした。
この豪奢な儀式には莫大な費用がかかりますが、
それを支えたのは平家一門の財力でした。
このことから清盛が後白河院の院司である一方、
二条天皇の有力な後盾であったことが明らかとなります。

ちなみに後白河上皇の皇子安徳天皇が即位した時には、
八十島祭の典侍に任命されたのは
重盛の妻経子(藤原成親の妹)でした。

後白河天皇の第1皇子の守仁親王(二条天皇)は、母が早世したため
美福門院得子(鳥羽院の皇后)の養子になっていました。
崇徳天皇が鳥羽院によって譲位させられ、
わずか3歳の近衛天皇が即位しましたが、この天皇が
跡継ぎのないまま若くして亡くなったため、鳥羽院や
美福門院らが次の天皇にと選んだのは聡明な守仁親王でした。
しかし、父の雅仁(まさひと)親王を差し置いて実現できず、
中継ぎとしてひとまず後白河天皇が即位したのでした。

その後、後白河天皇は退位し、二条天皇を即位させ
院政を開始しましたが、自分で政治を行おうとする二条天皇との
間には当初、政治の覇権を争う激しい対立がありました。
清盛は「あなたこなた」して、
すなわち「状況を見ながら双方に気配りをして
どちらにもいい顔をしていた」と『愚管抄』は伝えています。
こうしてその対立をうまく利用しながら清盛は出世していきました。
『参考資料』
田中卓「神社と祭祀 (八十島祭の祭場と祭神)」国書刊行会、平成6年
梅原忠治郎「八十島祭綱要」プリント社、昭和9年
三善貞司編「大阪史蹟辞典(八十島祭)」清文堂、昭和61年
「大阪府の地名」平凡社、2001年
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社、2007年
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書、平成24年



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住吉大社前に広がる住吉(すみのえ)の津は、古くから外交や
交易の港として栄えましたが、江戸時代の半ばより
大和川の付替えなどがあり、大量の土砂が流入して堆積し、
その後、埋立開発が急速に進み、海岸線は西に遠ざかってしまいました。

住吉公園は住吉大社の旧境内で、公園を東西に走る
「潮掛け道」は大社の表参道でした。

住吉公園

汐掛道東から

鎌倉時代の元寇の時は、西大寺の叡尊が再三当大社に参詣して
異敵降伏の祈祷を行い、また
住吉公園の前に広がっていた
住吉の浜では、住吉大社による住吉大明神への
大規模な「蒙古調伏の祈祷」が修せられました。



汐掛道の記
ここは昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所で、
社前から松原が続き、
すぐに出見(いでみ)の浜に出る名勝の地であった。
 松原を東西に貫く道は大社の参道で、浜で浄めた神輿が通るため、
「汐掛道」と称され、沿道の燈籠は代々住友家当主の寄進になり、
遠近の参詣や行楽の人々で賑わった。
 古くから白砂青松の
歌枕の地として知られ、近世には多くの文人・俳人がここを往来し、
大阪文芸の拠点の一つとなっていた。 財団法人 住吉名勝保存会

汐掛道西から

江戸時代には、徳川将軍家はじめ各大名の尊崇も篤く、西国諸大名は
参勤交代ごとに住吉大社で参拝するのが慣例となっていました。
また文人墨客の参詣も多く、芭蕉は当社の「宝の市」に詣でて
この祭の名物である「升」を購入し、
♪升買うて 分別かはる 月見かな と詠んでいます。





元禄7年(1694)9月、芭蕉は大坂で派閥争いをしていた門人、
酒堂(しゅどう)と之堂(しどう)の仲を仲裁するために
故郷の伊賀上野から奈良を経て大阪に入り、同月13日、住吉近くの
長谷川畦止(けいし)亭で月見の句会を予定していました。
その日は住吉大社で宝の市(升の市)が立って賑わう日でしたから、
この市に出かけ名物の升を買っています。去る9日来阪以来
何となく気分のすぐれなかった芭蕉は、その夜急に悪寒を覚え、
句会をすっぽかして早々に帰ってしまいました。
翌日にはすっかり快復して、芭蕉の不参加で延期されていた
会に出かけて詠んだ挨拶の発句です。
参加者一同が不参加の理由(気が変わったのではない)を
知っていることを承知の上で正面切って謝らず、
それを風流に詠んだのがこの句であると云われています。
芭蕉はその後間もなく病に伏し、大阪市内南御堂付近で亡くなったのでした。

 毎年10月17日に行われる宝之市神事(たからのいちしんじ)は
御神田で育った稲穂を刈り取り、五穀と共に神様にお供えする行事です。
昔は9月13日に行われ、黄金の桝(ます)を作り新穀を奉り、
農家で使用する升を売っていたので升の市ともよばれ、
相撲十番の神事が盛大に行われたので相撲会(すもうえ)ともいいました。
松尾芭蕉終焉の地(南御堂) 



古くは住吉津の河口部の入江に細井(細江)川が注ぎ、
入江は住吉(すみのえ)の細江とよばれ、住吉社の高燈籠が立ち、
風光明媚な海岸として知られていました。入江付近の浜を
出見(いでみ)の浜といい、『万葉集』にも詠まれています。
今、昔の名残を感じさせるものはありませんが、住吉大社参道と
国道が交差する角に立つ高灯籠がわずかに往時の港を偲ばせます。

国道26号に面して立つ住吉高燈籠は、住吉大社の灯篭で、
鎌倉時代創建の日本最古の灯台とされています。
現在の高灯篭は1974年に場所を移して復元されたものであり、
元は現在の位置より200mほど西側にありました。
その後埋め立てが進み高燈篭も海から遠ざかり、昭和49年に
現在地に石垣積みを移してコンクリート造で再建されました。

内部は資料館になっています。
 開館時間 第1・3日曜日 10:00~16:00

高燈籠復元の記
昔このあたりが美しい白砂青松の海浜であったころ 海上守護の神
 住吉の御社にいつの頃にか献燈のため建てられた高燈篭は
 数ある燈篭の中で最高最大のものであり その光は海路を遥かに照らし
 船人の目当てとなって燈台の役割を果たし 長峡の浦の景観を添えていた
寛永年年間の摂津名所図会に「高燈篭出見の浜にあり 
夜行の船の極とす 闇夜に方向失ふ時
◆中略◆
この燈篭の灯殊に煌々と光鮮也とぞ」と見えるが 
往時の面影が偲ばれる 旧高燈篭はここより二百メートル西にあって
 明治の末年迄度々大修理が行われた
戦後台風のため
木造の上部は解体され 更に昭和四十七年道路拡張のため
 基壇石積も全部撤去されたが住吉の名勝として永く府民に親しまれた
この文化遺産を後世に伝えるため 住吉名勝保存会を結成し
 その復元再建を計り 財団法人日本船舶振興会 
その他地元会社有志の寄附を仰ぎ 大阪府 市の援助を得て
 このゆかり深き住吉公園の地に建設されたのである
昭和四十九年十月吉日  財団法人 住吉名勝保存会



 高燈篭より二百メートルほど西の民家前(
住之江区浜口西1)に
「住吉高灯籠跡」の碑が立っています。



「住吉高灯籠跡」碑のすぐ近くに「従是北四十五間」の碑があります。
側面には「剣先船濱口村 立葭場請所」
「天保三年辰十一月」と彫られています。
濱口村の名の由来はかつて海浜に近かったことによるといわれています。

剣先船は、江戸時代の大阪の川船のひとつで、荷物運搬船として活躍した。
宝暦二年(1752年)の調べでは、三百隻ほど運航していたと伝えられている。
住之江でも大和川や十三間川の開削と同時に運航がはじめられた。
船首が刀のようにとがっていたことから剣先船と呼ばれたという。
剣先船の説明は、大阪市HPより転載しました。)
大阪市住之江区浜口西1-7
市バス「住吉公園」下車西約300m・南海本線「住吉大社」下車西600m


住友灯籠は江戸時代から昭和初期にかけて、
住友家の歴代当主によって奉献された灯籠です。
この灯籠は海辺に続く道「汐掛の道」に建てられ、海上安全と
家業の繁栄を願って寄進されたといわれています。

住友燈籠の記
古くからこの地を長狭(ながさ)と称し、海辺へ続くこの道は
汐掛道と呼ばれていた
 ここに並ぶ十四基の燈籠を始め、
公園内の住友家の燈籠は、江戸時代から昭和初年にかけ、
 住吉大社正面参道である汐掛道に添って
代々奉献されてきたものである。
 江戸時代の
大阪は日本における銅精錬・銅貿易の中心地であり、
その中核をなしたのが住友家であった。
 銅は主に伊予(愛媛県)の別子銅山から海路運ばれ、
大阪で精錬され、日本の経済を支えていた。
この燈籠も海上安全と家業の繁栄を願って寄進されたが、
長い年月を経て、一部は移築され、また周辺の
道路事情も変わったため、地元住民の意向を受け、
新たな考証に基づきここに年代順に移転再配置した
天下の台所「大坂」を偲ぶ貴重な歴史遺産として、
今後とも長く守り伝えて行かなければならない。
  平成六年六月  財団法人 住吉名勝保存会

『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年
「平成22年 住吉暦」住吉大社、平成21年
大谷篤蔵「芭蕉晩年の孤愁」角川学芸出版、平成21年
『アクセス』
「住吉高燈籠」 大阪府大阪市住之江区浜口西1丁目1
南海本線「住吉大社駅」下車徒歩約4分
住友燈籠」 大阪府大阪市住之江区浜口西1丁目1
南海本線「住吉大社駅」下車すぐ



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住吉大社前を通り抜ける昔懐かしいチンチン電車 (阪堺電気軌道)

住吉大社は古来、海上安全の神として信仰が篤く
王権と密接に関わってきた格式高い摂津国一宮です。

住吉は現在の大阪市南部の住吉区一帯で、
平安時代以前は「すみのえ」と読んでいました。

住吉津(すみのえつ)は、住吉大社の門前に広がる港で早くから
天然の良港として、外港としての機能を果たしていましたが、
干潮時には船底がついてしまうという難点がありました。
そのため依網池(よさみのいけ)から掘割水路で水を引いていました。
この池は近世の大和川の付替えによって大幅に縮小しましたが、
かつては10万坪もあったという。

住吉大社の南を流れる細江(細井)川の河口には、漁船や
外交船が発着する「住吉細江」という港津があったと推定され、
この沿岸一帯の入江には、同様の港がいくつかあり
外交や交易の場として栄えていたと考えられています。
遣唐使船は住吉大社で海上安全の祈願を行い、住吉三神を
船の舳先に祀り、住吉津(住吉細江)から出航したとされています。

住吉大社は海の神、航海の神として広く崇拝され、
津守氏一族が明治に至るまで代々宮司を勤め、
遣唐使船にも神主として乗りこみました。
当時は航海技術が高くなかっただけに、派遣された船の三分の一が
遭難するという
命がけの船旅の中で精神的な支えが必要だったようです。
「津守」の姓は田裳見宿禰(たもみのすくね)より
住吉の津を守るの意から賜ったという。

『万葉集』には、住吉という地名が41首も詠われています。
天平5年(733)の遣唐使に贈られた長歌に
 「住吉(すみのえ)の御津(みつ)に船乗り」とあり、
多治比(たじひ)広成を大使とする遣唐使が今まさに
住吉津から出航しようとしていることが『万葉集』に見えます。

♪そらみつ大和の国 青丹よし平城(なら)の都ゆ
 おし照る難波に下り
 住吉の御津に船乗り 直渡(ただわた)り
 日の入る国に 遣(つか)はさる わが背の君を(後略)
 作者未詳 巻19・4245
 (大和の国奈良の都から難波に下り、住吉の御津で船に乗って
まっすぐ海を渡り、
日の入る国唐に赴くよう命じられた私の大切な人よ)

池に架かる反り橋(太鼓橋)の左側に
埴輪古代船をかたどった万葉歌碑がたっています。







♪住吉(すみのえ)に 斎(いつ)く祝(はふり)が 神言(かむごと)と
 行(ゆ)くとも 来(く)とも  船は早けむ 
 多治比真人土作(たぢひのまひとはにし) 巻19・4243 

(住吉の神のお告げによると、行きも帰りも
船はすいすいと進むでしょうとのことです。)
住吉神社に幣帛を奉り、航海の安全を祈願したところ、
つつがなく旅を終えるとの神託を受けたというのです。

 ♪草枕 旅行く君と知らませば 岸の黄土に にほはさましを
 清江娘子(すみのえのをとめ) 巻1・69

 (あなたが旅行くお方と知っておりましたならば、
記念にこの岸の黄土で
 お召し物を彩ってさしあげましたのに。)
岸の黄土(はにふ)は、住吉の台地から採れる黄土のことで
染料に用いられ、
衣を黄金色に美しく染め上げました。

万葉時代の住吉地形には、万葉歌に詠まれた「しはつ道・得名津(えなつ)・
遠里小野(おりおの)・粉浜(こはま)・敷津の浦・出見の浜・
玉出・あられ松原・浅沢小野など」の地名が記されています。

住吉津の周辺には、得名津や敷津などの港が存在し、現在の
粉浜辺りまで潟(ラグーン)が延び、淡水と海水が入り混じっていました。
鎌倉時代末まで、住吉大社の前は潟をなしていましたが、
その後池となり、江戸時代の『摂津名所図会』には、
独立した池に朱塗りの太鼓橋が架けられている図が描かれています。

大阪平野を東西に直進する「しはつ道」によって、
大和地方と密接に結ばれ、あられ(安良礼)松原は、
今の住之江区安立(あんりゅう)町付近であったとされています。
古くは細江(細井)川は住吉津に注ぎ、河口部の入江付近の浜は
出見(いでみ)浜とよばれ、古来名所として歌に詠まれました。

手水舎の傍に「誕生石」があります。

丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したが、北条政子により捕えられ
殺害されるところを家臣の本田次郎親経(ちかつね)によって
難を逃れ、摂津住吉に至った。このあたりで日が暮れ、
雷雨に遭い前後不覚となったが、不思議なことに数多の狐火が灯り、
局らを住吉の松原に導いてゆき、社頭に至った時には局が産気づいた。
本田次郎が住吉明神に祈るなか局は傍の大石を抱いて男児を出産した。
これを知った
住吉の神人田中光宗(みつむね)は湯茶をすすめて
介抱し保護したという。是を知った
源頼朝は本田次郎を賞し、
若君に成長した男児は後に薩摩・大隅二か国をあてられた。
これが島津氏の初代・島津三郎忠久公である。この故事により、
住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ「誕生石」の聖地に
垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が続いている。

丹後局は頼朝の乳母・比企尼の長女で、丹後内侍と称して
二条院に仕え優れた歌人として知られていました。
惟宗広言(これむねのひろこと)に嫁いで島津忠久を生み、
その後、離縁し関東へ下って安達盛長に
再嫁したとされています。盛長は妻の縁で頼朝に仕え、
頼朝の挙兵前からの側近であったという。



『島津正統系図』によると、島津忠久は惟宗広言と
丹後内侍の間に生まれたとされていますが、
近年、広言の養子ではないかという説もだされています。

当時、妻以外に愛妾を迎えて子孫を増やしていくのが
一般的でしたが、北条政子は妾の存在を許しませんでしたから、
その嫉妬深さを伝説的に語る数々のエピソードが残っています。
流人暮らしの頃から仕え、丹後内侍が頼朝に近い
女性であったことや住吉大社が中世には和歌の神として
広く知られるようになっていたことから
こんな伝説が生まれたのではないでしょうか。

 住吉大社には、「一寸法師」も伝わっています。
難波の里に住むおじいさんとおばあさんには子供がいませんでしたが、
住吉大明神に参拝し子宝祈願をしたところ、
親指ほどの子を授かったというお話が『御伽草子』に記されています。

住吉大社(義経の親戚にあたる神主津守長盛)  
『アクセス』
「住吉大社」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89 TEL : 06-6672-0753
南海本線「住吉大社駅」から東へ徒歩3分
南海高野線「住吉東駅」から西へ徒歩5分
 阪堺電気軌道(路面電車)「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ
開門時間
・午前6時00分(4月~9月)・午前6時30分(10月~3月)
※毎月一日と初辰日は午前6時00分開門
閉門時間
・外周門 午後4時00分 ・御垣内 午後5時00分(1年中)
『参考資料』
金子晋「美しい水都が見えた」アド・ポポロ、平成23年
小笠原好彦「古代の三都を歩く 難波京の風景」文英堂、1995年
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年
「平成二十二年 住吉暦」住吉大社、平成21年「大阪府の地名」平凡社、2001年
犬養孝「万葉の旅(中)」社会思想社、昭和49年
駒敏郎「万葉集を歩く」JTBキャンブックス、2001年
富田利雄「万葉スケッチ歩き」日貿出版社、2000年
斎藤喜久江・斎藤和江「比企遠宗の館跡」まつやま書房、2010年
脇田春子「中世に生きる女たち」岩波新書、1988年
奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年

 



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