平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



玉龍山泉橋寺(せんきょうじ)は山城町の南端、泉大橋の北詰、
木津川の堤防下にある浄土宗の寺で俗に橋寺とよんでいます。

天平13年(741)に行基が泉川(木津川)に橋を架けた時、
供養のために建立した橋寺で、これに因んで寺名を泉橋寺としました。
以後、行基が建てた五畿内四十九院の一つとして長く橋の管理にあたりました。
往時は寺域も広く、本堂以下五重塔・鐘楼・経蔵・鎮守社
・方丈など多くの建物がありましたが、
治承4年(1180)平重衡の南都攻めの時に焼失しました。
その後金堂・講堂などが再建され、東・北・西の3方に堀をめぐらし
堀の外北東には五重の塔があったという。
しかし、寺は中世の兵火で次第に衰微していきました。

大正7年(1918)の発掘調査で寺より東北100mの畑の中に
創建当時の塔心礎が発見されています。

京都と大阪を結ぶ国道24号線の木津川に架けられた泉大橋。
行基によって泉橋寺の門前に架けられた橋は、川の流れが早いため、
洪水の際、たびたび流されるので、貞観18年(1893)朝廷は
船三艘を購入して泉橋寺に施入し、人馬の渡しに備えていました。

表門

日文研HP 『拾遺名所都図会』巻四 画像66より転載。

江戸後期の『拾遺名所都図会』の挿絵で見る寺は地蔵堂を主とし、
表門・庫裡および地蔵石仏からなっていますが、
現在は地蔵堂は観音堂となり、新たに本堂兼庫裡が建っています。
本堂には、鎌倉時代作の本尊地蔵菩薩立像を安置しています。
この像は上半身は裸形で、下半身に
裳(も=腰部につけるスカート状の衣服)をまとっている珍しいものです。

観音堂

本堂兼庫裡

『拾遺名所都図会』の挿絵に「神功皇后塔」としるした石塔、
かつて光明皇后の遺髪塔といわれた五輪石塔は、境内の東南隅にあります。

南都焼討の犠牲者を供養した五輪塔(重要文化財、鎌倉時代、高さ 2・4m)

基壇の側面を二区に分かち、格狭間を入れ、四方とも束・羽目・地覆を
一石で組み立てているのを特色とする。古来光明皇后の
遺髪塔といわれてきたが、先年移転に際して多くの遺骨が発掘され、
治承四年(1180)平重衡の南都攻めの折の犠牲者の
供養塔であることが分かった。(『新撰京都名所圖會 巻6・洛南2』)

「格狭間(こうざま)」須弥壇 (しゅみだん) や仏壇などの
基壇部の側面を装飾するために施された刳 (く) り物。

「壇上積」直角に加工した石材を規則的に積み上げた基壇です。
積み上げる石は、もっとも下層が「地覆石(じふくいし)」、
次に「羽目石(はめいし)」「束石(つかいし)」、
そしてその上に「葛石(かつらいし)」と積層構造になっています。
「反花(かえりばな)座」 仏像の蓮華座で上向きについた蓮弁。


寺の入口西側(左手)の山城大仏と称される地蔵石仏は
鎌倉時代作の花崗岩の巨大な丈六(458Cm)座像です。兵火を浴びて
仏身は焼けただれていますが、なお鎌倉時代の様式をとどめています。



泉橋寺
泉橋寺は、奈良時代の高僧・行基によって、木津川に架けられた
泉大橋を守護・管理するために建立された寺院である。
その門前にある地蔵石仏は、永仁三年(1295)に石材が切り始められて、
その十三年後の徳治三年(1308)に地蔵堂が上棟・供養されたもので、
またその願主は般若寺の真円上人であった。その時、
地蔵石仏の本体は ほぼ完成していたとみられるが、台座と光背は、
その後に完成が目指されたもので、この地蔵石仏の造立が
いかに大がかりなものであったかが偲ばれる。
一四七0年頃から応仁の乱の影響が南山城地域にも及び、
文明三年(1471)に大内政弘の軍勢が木津や上狛を攻めて
焼き払った際に、泉橋寺地蔵堂も焼かれて石仏も焼損、それ以来
地蔵石仏は露座のままとなっている。現在みる地蔵石仏の頭部と両腕は、
元禄三年(1690)に補われたものである。(説明板より)

平重衡南都焼討ち(般若寺・奈良坂・東大寺・興福寺)  
『アクセス』
「泉橋寺」 京都府木津川市山城町上狛西下55
JR上狛(かみこま)駅より徒歩約17分。
または、コミュニティーバスで山城線(木津駅行きのみ停車)泉大橋下車、徒歩約3分。

『参考資料』
竹村俊則「新撰京都名所圖會 巻6・洛南2」白川書院、昭和40年
竹村俊則「今昔都名所図会(洛南)」京都書院、1992年
「京都府の歴史散歩(下)」山川出版社、1999年

 

 

 



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醍醐の南、日野にある東光山法界寺(ほうかいじ)は、真言宗醍醐派の寺で
世に日野薬師とよばれ、古くから安産や授乳祈願の信仰で知られています。
藤原氏の一族である日野家の氏寺で、
先祖伝来の薬師小像を安置したのが始まりです。
薬師堂はじめ観音堂や阿弥陀堂など多くの諸堂が
建立されましたが、
中世の兵火に度々罹災して焼失、
阿弥陀堂は往時の火災を免れた唯一の遺構です。
それ以後、焼け残った阿弥陀堂を本堂としていました。

明治時代、奈良県龍田の伝燈寺(でんとうじ)の建物を
移して本堂としたため、
旧本堂は今は阿弥陀堂(国宝)と称し、
内部には平安時代の代表的な阿弥陀如来坐像(国宝)を安置しています。
本尊の薬師如来立像(重要文化財)は、本堂(重要文化財)の
中央厨子内に置かれています。

日野は日野家出身の親鸞誕生地ともされ、寺の背後の山腹にある
3m四方の大きな石を方丈石とよび、
鴨長明が方丈の庵を結んで念仏三昧にはいったあたりです。
また、ここは山科の勧修寺(かじゅうじ)辺とともに
念仏聖の集まる場所でした。









阿弥陀堂と本堂(薬師堂)

阿弥陀堂



本堂(薬師堂)

京都市指定史跡  法界寺境内
 法界寺は、別名「日野薬師」または「乳薬師」ともよばれ、
授乳祈願の信仰で知られています。
 文献では、この地には
藤原氏の支流である日野家の山荘がありましたが、平安時代の
永承6年(1051)に日野資業が一宇を建立し、
薬師如来像を安置したことに始まると伝えます。

 平安時代末頃にその伽藍は最も荘観を誇っていましたが、
承久3年(1221)に薬師堂ほか一堂を残してことごとくが焼失し、
法界寺は大きな打撃を受けます。その後再建されますが、
中世の兵火などにより度々焼失し、創建期に近い建物は
阿弥陀堂のみとなってしまいました。

 近世における法界寺の具体的な様相は、『都名所図会』から
知ることができます。阿弥陀堂と池とが対面し、東方に鐘楼、
現在の薬師堂の位置に草庵風の建物があり、
鐘楼の脇から坂道が東側の集落に通じていることなど、
全体の佇まいは現在のものと大差ありません。

 現在の主な建造物の内、阿弥陀堂(国宝)は、承久3年の
火災後の再建による、鎌倉初期のものと考えられており、
また、薬師堂(重要文化財)は、もとは伝燈寺(奈良県龍田)の
本堂でしたが、明治37(1904)年に法界寺に移築されたものです。

 鎌倉初期の再建と考えられる阿弥陀堂が現存すること及び
絵図などからみて、法界寺境内の中枢部については、
その創建時から現在に至るまで大規模な地形改変を受けずに今日に
至っている可能性が高く、京都の寺院史を研究する上で貴重な史跡です。
平成11年4月1日指定 京都市(説明板より)


南都焼討の大将軍平重衡は、平家滅亡後に木津川畔で処刑され、
その首は奈良坂に架けられましたが、重源の計らいで
重衡の妻大納言典侍(だいなごんのてんじ=大納言佐)のもとに
首はもどり、骸とともに日野において火葬し、
そこに灰塚を築き、骨を高野山に納めることができました。
そして近くの法界寺で追善供養を行いました。
さらに重源は仏教者として慈悲深い対応を見せ、大仏再建のために
重衡が所有していた金銀銅製品を寄進することを許しています。

『東大持続要録 造仏篇』には、「かの妻室、重衡の所持物の内、
金銅具を持って奉らしむ。上人(重源)慈悲を垂れ、
かの銀銅を以って大像を鋳加え奉らんと欲するの処、
炉忽ち破裂せしむ。」
とあり、
東大寺再建の大仏を鋳る時、平重衡の妻は重衡の所持物の内
金銅具を奉納したが、重衡の罪は大仏も許さず
炉が破裂してしまった。と記されています。

★重源と重衡の妻、その姉藤原成子との関係
俊乗坊重源(1121~1206)は、源平の争乱で焼失した
東大寺再建のための勧進上人に抜擢された僧です。
始め醍醐寺で出家し上醍醐寺に居住して密教の
修行に励んだ後、法然から浄土教を学び諸国を遊行し、
三度入宋したといわれています。(入宋を疑う説もあります)

重衡が斬首されたのち、妻の大納言典侍は重源に請うて
その首を貰い受け供養しましたが、彼女が
重源に
頼むことができたのは、姉の成子が重源と親しかったからです。
成子の夫参議藤原成頼は、重源が高野山に建てた専修往生院という
新別所の二十四蓮社友のひとりとなり、高野宰相入道と呼ばれていました。
重源が東大寺へ行って不在の間は、24人の念仏衆が2時間2人ずつで
不断念仏がおこなっていたことが、『発心集』からうかがえます。
重源は高野山で「蓮社(れんしゃ)」という
念仏集団を結成していたのです。

成頼(なりより)の高野隠棲はよほど評判だったらしく、
『平家物語・巻3・関白流罪』は、
平家の悪逆無道に反抗して
出家するものが多かった中に成頼もいたと記していますが、
史実は承安(じょうあん)4年(1174)正月、兄の葉室光頼(みつより)の
一周忌に出家し、高野山に入ったとされています。

文治2年(1186)1月、重源の意向で東大寺再建の成功を祈って
重源ら60名の東大寺の僧が伊勢神宮に赴き、大般若経の
転読供養が行われた時、その一部は平頼盛が料紙を提供し、
一部は成子が1セット(600巻)を提供しました。
ちなみに、頼盛は文治元年(1185)5月、東大寺で出家して
重蓮と名のり、そして翌2年6月に55歳で亡くなりました。

伊勢参宮はさらに建久4年・建久6年の三度に亘り実施さ
れて
大般若経が納入され、建久6年には、貞慶が導師を勤めたという。

貞慶は鎌倉時代前期の法相宗の学僧です。祖父は後白河上皇の
近臣として活躍した藤原南家の藤原通憲(信西)で、
藤原貞憲を父に持ち、興福寺に入って11歳で出家しました。
建仁3年(1203)重源が私財を投じて造立したという
東大寺俊乗堂の阿弥陀如来立像の導師も貞慶
でした。

藤原成子は六条帝の乳母を務め、帝の崩御の9年後、
文治元年(1185)帝の供養を下醍醐で営んだ時、
その導師を勤めたのが仏教界大物の権大僧都
醍醐寺座主勝賢(しょうけん =信西の息)でした。

後白河天皇の乳母子の勝賢は重源上人と親しく、
建久3年(1192)に東大寺別当に就任、以後東大寺復興のため
重源を支え続けた僧侶で、上人に請われ、東大寺の大仏に
舎利を籠めるため、上醍醐で百ケ日の供養を行っています。
『アクセス』
「法界寺」京都府京都市伏見区日野西大道町19
京都市営地下鉄東西線 「石田駅」 徒歩約20分
平重衡の墓のある公園から400mあまり南へ
京阪宇治線・JR奈良線「六地蔵駅」から京阪バス日野薬師下車すぐ。
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会(洛南)」駿々堂、昭和61年 
竹村俊則「今昔都名所図会(洛南)」京都書院、1992年
 「大勧進重源」奈良国立博物館、平成18年 
中尾 堯編「旅の勧進僧重源」吉川弘文館、平成16年 
角田文衞「平家後抄 落日後の平家(上)」
(第1章三位中将重衡の場合)講談社学術文庫、平成12年
「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
五来重「増補高野聖」角川選書、昭和50年
「平家物語を読む」講師:上横手雅敬氏(2011・2・14テキスト)

 



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JR木津駅の東北に心道山安福寺(あんぷくじ=浄土宗西山派)があります。

最寄りの木津駅

安福寺は木津河原で処刑された平重衡の菩提を弔うために建立されたと伝え、
これにちなんで哀堂(あわれんどう)とも呼び、
山門前には「平重衡卿之墓」と標した石碑が建っています。



山門を入って左手に建つ十三重の石塔(重要美術品・鎌倉時代作)は、
重衡の供養塔と伝えられ高さは4・5mあります。
小ぶりで細身の石塔は花崗岩製で、十三重目と相輪は
当初のものではありませんが、各層の屋根の勾配はゆるく、
軒反りもおだやかで、鎌倉時代中期の様式をよくあらわしています。

平重衡卿之墓と刻まれています。

本堂に安置する本尊阿弥陀如来像(非公開)は、平重衡の引導仏といわれています。

寺宝に狩衣姿で合掌する紙本淡彩(しほんたんさい)
「平重衡像」(江戸時代作)を蔵し、重衡との関係を示しています。

また、江戸時代の紙本著色仏涅槃図が残っています。

『山州名跡誌』は、この寺の北に重衡の首を洗ったという首洗池、
重衡が斬首される前、勧められて柿を食べ、後世その地に柿を植えたが
実がならないという不成柿(ならずのかき)などを記しています。

不成柿・首洗い池へは、安福寺からJR奈良線をくぐって1筋目、
47号線沿いにある吉川医院の角を北へ進みます。

土堤の下、民家の庭先の脇にある柿の木は、もとの木の何代目かにあたります。
傍には、池というより水たまりのようなくぼみがあるだけです。
地元の人のお話によると、昔、池はこの場所から少し離れたところにあったそうです。



平重衡首洗い池は、生垣で囲んであります。



「平重衡首洗池・不成柿(ならずかき) 平清盛の五男、平重衡は、
治承四年(1180年)十二月二十八日、源氏に味方する
東大寺・興福寺を焼き打ちしました。 その後、一ノ谷の戦いで
源氏に敗れた重衡は、虜囚となって鎌倉の源頼朝の
もとへ送られましたが、南都の衆徒の強い引き渡し要求に頼朝も折れ、
元暦二年(1185年)六月二十三日、木津の地まで送られてきました。
南都の衆徒は、木津川の河原で、念仏を唱える重衡の首をはね、
奈良の般若寺にさらしました。 その際、
この池で首を洗い持参したと伝えられています。
その後、重衡を哀れんだ土地の人々は柿の木を植えましたが
一向に実のらず、このことから不成柿と称せられています。
 国鉄奈良線の東側にある安福寺には、重衡の引導仏という
いわれをもつ阿弥陀如来を納めた哀堂と十三重の供養塔があります。
昭和五十三年三月 木津川町教育委員会」(説明板より)

十二(上)重衡被斬 元暦二年(1185)六月
『平家物語絵巻』より転載。

木津川は南山城盆地を流れる淀川の支流をいい、
京都府・大阪府の境付近で宇治川・桂川と合流し淀川にそそぎます。



平氏滅亡後、南都大衆の要求にとうとう屈した頼朝は、
重衡の身柄を引き渡すことにしました。鎌倉から日野まで戻ってきた重衡は、
北の方大納言典侍(だいなごんのてんじ)と今生の別れをします。
重衡が長年召し使っていた木工右馬允知時(もくうまのじょうともとき)という
侍がいました。今は八条の女院(鳥羽天皇皇女)に仕えていますが、
かつての主が木津川の畔で処刑されると聞き、
急いで都から駆けつけると、重衡は喜んで「仏を拝んで死にたいと思うが、
何とかならぬか。」と頼みます。知時は警護の武士に相談をして、
付近から阿弥陀仏(来世の救済を約束する)を捜し出し、河原の砂の上に据えました。
知時は自身の狩衣の袖口に通したくくり紐を引き抜いて仏の手にかけ、
重衡にその紐を持たせると、重衡は仏に向かってやむなく犯した
自分の罪の大きさを申し述べ、仏縁によって極楽浄土に導かれますようにと
高らかに念仏を唱えながら首を差しのべて斬られたという。

この様子に警護の武士、見物の群衆、南都の僧侶らまでもが
涙を流しその死を悼みました。
『愚管抄』は、頼朝が南都の要求に屈し、重衡を南都に引き渡したことの非情さを、
人々は忌々しく思いながら重衡が通り過ぎるのを見送ったと記しています。

首は重衡が南都攻めの時、戦いの指揮をとった般若寺の大鳥居の前に
釘付けにされましたが、重衡の北の方はせめて骸だけでも
とりよせて供養しようと思い、輿をむかえにやって日野に連れてこさせました。
「生きておられた昨日までは、立派であったけれども
暑いさなかのこととて(現在の暦で7月28日)、

もう目もあてられぬ姿になっておられた。」と遺骸が
腐敗していく様を平家物語は生々しく語っています。

『延慶本』によると、八条院は石金丸に重衡の最後の
有様を見てくるよう鎌倉に護送される重衡の供をさせています。
石金丸ももとは重衡に仕えていた舎人(使用人)でした。
莫大な荘園をもつ八条院暲子内親王は、以仁王(もちひとおう)の後ろ盾となり、
その遺児(北陸宮)に心を寄せ、重衡の運命にも深い同情を寄せ動いたようです。
人々は彼の罪を憎んでも、その明るい思いやりのある
人柄のよさは愛したのだと思われます。

『高野春秋』元暦元年七月には、「法然上人を介して重衡の首をもらい受けて

日野に送ったこと、木工右馬允知時が 重衡の髑髏を高野山の奥の院におさめ、
往生院(蓮華谷)三宝院に宿泊した。」ことが記載されているが、
法然上人でなく、東大寺大勧進の任に当たった重源が衆徒を説得して、
重衡の首を
奈良から日野に渡されたというのが実伝であろう。
(『平家物語(下2)』P30)
平重衡の供養を行った法界寺(重衡の妻と重源)  
『アクセス』
「安福寺」
 京都府木津川市木津宮ノ裏274 JR関西本線・奈良線・学研都市線木津駅から
400mほど北に行き、右折してJR奈良線をくぐるとあります。(約10分)
「不成柿・首洗池」 木津川市木津宮ノ裏 安福寺から約5分
『参考資料』
角田文衞「平家後抄 落日後の平家(上)」講談社学術文庫、平成12年
富倉徳次郎「平家物語(下巻2)」角川書店、昭和52年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
斎藤幸雄「木津川歴史散歩」かもがわ選書6、1993年
武村俊則「昭和京都名所図会(南山城)」駿々堂、1989年
武村俊則・加登藤信「京の石造美術品めぐり」京都新聞社、1990年
林原美術館「平家物語絵巻」㈱クレオ、1998年
「図説 源平合戦人物伝」学習研究社、2004年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 



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京都市伏見区醍醐外山街道町の住宅団地の公園には、
南都攻撃の総大将となった平重衡の墓があります。
小さな五輪塔を寄せ集めたような塚で、傍には
「従三位平重衡卿墓」としるした石標が建っています。

一ノ谷合戦で捕虜となった重衡は、鎌倉に送られ頼朝に厚遇されましたが、
南都の衆徒の強い要求によって木津川の河原で処刑され、奈良坂に首をさらされました。
遺骸は北の方に引取られ、日野で荼毘にふされた後、
火葬地に塚を築き、骨は高野山の奥の院へ納められたという。



公園近くの角に建つ「従三位 平重衡卿墓」の石碑。

墓標は団地に囲まれた小さな公園の一画にあります。
『山城名勝志17』に、「平重衡卿の墓法界寺の北五町許り
茶園の内に在り」とあり、かつて辺りは茶畑だったようです。
 


「平重衡塚
 この地は、平重衡の北ノ方大納言佐局が、平家没落後、
身をよせていたところと伝えられる。
一ノ谷の合戦で捕らえられ、鎌倉に送られた平重衡は、南都大衆の訴えによって
前年の南都焼打の責を問われ、文治元年(1185)鎌倉から奈良に引渡されたが、
途中、この地に立ち寄って大納言佐局と別れを惜しんだ。
その情景は、付近の合場川・琴弾山の名とともに、平家物語に美しく語られている。
木津河原において首をはねられた重衡の遺骸は、すぐさま引取られ、
火葬後、この地に埋葬されたといわれる。 京都市」(説明板より)

奈良へ護送される途中の日野には、北の方大納言佐局(すけのつぼね)が
住んでいたので、重衡は守護の武士に頼んで北の方との最後の別れをしています。
2人は離れ離れになってからこれまでのことを互いに語り、
重衡は自分の髪の毛を食い切って渡し、北の方は重衡が
よれよれのものを着ていたので、新しい浄衣に着替えさせ、
形見に何か書いてほしいと硯をさし出します。

 ♪せきかねて涙のかかる唐衣 のちの形見にぬぎぞかへぬる
(悲しみを抑えられずに涙で濡れてしまった唐衣を、
のちの形見に脱ぎかえておきます。)
と重衡は泣く泣く和歌を一首したためました。

北の方は返歌に
  ♪脱ぎかふる衣も今は何かせむ 今日を限りの形見と思へば
(脱ぎ変えて残してくれた着物も、今となっては何の慰めになりましょう。
今日限りの死出の旅路の形見と思えば。)

重衡は袖にすがって引き止める北の方を振り切り
「生きのびることが許されない身、また来世でお会いしましょう。
ひとつの蓮の上に生まれ変われるようにと祈ってください。
さぁ日も傾きました。武士たちが待っております。」と死地へと赴いたのでした。

後世、『平家物語・巻12・重衡の最後』に見える哀話から、
二人をいたむ伝説が生まれました。
付近を流れる川を合場川「阿以波(あいば)川」といい、
南都に送られる重衡と北の方大納言佐局が別れを惜しんだ場所といわれ、
「琴弾山(合場川の東の小山)」は北の方が平重衡と別れる際、
この山に上って琴を弾き、別離の情を
その音に託したところと伝えています。(『山州名跡誌』)

 牡丹の花にたとえられる平重衡(清盛の5男)は明るくて社交的、宮中でも
人気の好青年でした。一ノ谷合戦で生田の森の副将軍を務めた重衡が敗走する途中に
須磨で生捕りにされたのは、平氏滅亡の1年前の寿永3年(1184)のことです。
都で引き回された後、鎌倉に送られ頼朝と対面した重衡は、
東大寺・興福寺を焼く意図はなかったこと、しかしその罪は負うつもりであるといい、
「情けがあるなら一刻も早く我が首を刎ねてほしい」とだけ述べ
それ以上はいっさいの申し開きをしませんでした。
頼朝はその凛とした態度に感じ入って助命を考え丁重にもてなしました。

平家滅亡後、南都焼討の所業を憎む奈良の衆徒たちからの強引な
引き渡しの要求に結局、頼朝はこれに応じて奈良に下しました。
都に近づいて、大津から逢坂の関を越え、山科を経て醍醐路を通過すると、
日野(京都市伏見区日野)にさしかかります。

重衡の妻(大納言藤原邦綱の次女)は、安徳天皇の乳母をつとめ、
従三位典侍・大納言典侍・大納言佐などと称しました。
壇ノ浦合戦で安徳天皇のあとを追い入水しようとしたところを
捕らわれて京に連れ戻され、日野にいる姉の
大夫三位(邦綱の長女成子)のもとに身を寄せていました。

姉の成子は六条天皇(安元2年=1176年崩御)の乳母で、夫の
藤原(葉室)成頼は、承安4年(1174)に出家し高野山に入りました。
成子は夫の出家、六条天皇の退位(5歳)、崩御(13歳)の
後に尼となり、醍醐と法界寺の境の日野に住んでいました。

『醍醐雑事記・巻10』によると、
邦綱は醍醐寺と法界寺(伏見区日野)との境にお堂を建てるための
敷地を購入しています。このことから邦綱がこの地に建てた
お堂に成子が住んでいたのではないかと思われます。

姉妹の父の藤原邦綱は、諸国の国司を歴任して財力を蓄えた
人物として知られています。財力を基盤に平氏と結びつきを強め、
娘たちが六条・高倉(邦子)・安徳天皇の乳母を務め、権勢をふるいました。

治承4年(1180)11月、清盛が反平氏の拠点となった南都を抑えるために
重衡に命じて攻撃させた時、重衡を総大将とする平家軍は、邦綱の山荘
若松亭(現、京都市小松谷正林寺東側の清閑寺池田町)に集合しています。

若松亭(東山亭とも)の苑池・若松池の一部が江戸中期まで
残っていましたが、今は埋没して跡形もありません。
この地を清閑寺池田町と呼んでいるのは、若松池によるものと思われ、
山荘はそうとう広かったようです。
平重衡とらわれの松跡    
平重衡終焉の地(安福寺・不成柿・首洗池)   

『アクセス』
「平重衡の墓」京都市伏見区醍醐外山街道町15-10
京阪バス「合場バス停」下車徒歩約7分
(バスの本数が少ないのでご注意下さい。)
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語(下巻2)」角川書店、昭和52年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
 斎藤幸雄「木津川歴史散歩」かもがわ選書6、1993年
 武村俊則「昭和京都名所図会(洛南)」駿々堂、昭和61年
武村俊則「昭和京都名所図会(洛東上)」駿々堂、昭和55年 
「京都市の地名」平凡社、1987年 
「平家物語を読む」講師:上横手雅敬氏
(2011・1・17 2011・2・14テキスト)

 

 

 

 

 



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神戸市須磨区には、一ノ谷合戦に赴く途中、
那須与一が戦勝祈願したと伝わる北向八幡宮があります。

最寄りの妙法寺駅

屋島の戦いで両軍かたずをのんで見守る中、那須与一が波間に揺れる平家方の
小舟に立てられた扇を一矢で射落とし、「沖には平家、船ばたを叩いて感じたり。
陸には源氏えびらを叩いてどよめきけり。」と敵味方の双方から
喝采をあびた話は『平家物語』の名場面として知られています。
この時、与一は『平家物語』では20歳くらい、
『那須氏系図』では17歳とされています。
この功により、与一は頼朝から丹波国(京都府)、信濃国(長野県)、
若狭国(福井県)、武蔵国(埼玉県など)、
備中国(岡山県)に領地を拝領したとされています。

若きヒーロー那須与一は、幸若舞や能、歌舞伎などに多く取り上げられ、
伝統芸能を通して現代まで語り継がれ、全国各地にその伝承地があります。

大阪府豊中市「那須原山超光寺(ちょうこうじ)」は、那須与一の寺ともいわれ、
寺伝によると、源平合戦後那須与一は、当寺の住職空心に帰依して出家し
弓矢を奉納したので山号を那須原山に改めたとしています。
後、その子孫那須太郎が空覚と名乗り中興の祖となりました。
与一は後鳥羽上皇から武芸を愛でられ菊の紋を賜ったと伝え、
今も境内の手洗い石に菊の紋が刻まれています。(『大阪伝承地誌集成』)

壇ノ浦合戦に敗れた残党の一部が九州の山深く逃げ込んだことを知った頼朝は、
与一に
追討させようとしましたが、与一は病床に伏していたため、
弟の那須大八郎宗久がその任にあたり、清盛の末裔である鶴冨姫と恋仲になりました。
しかし幕府の命令で宗久は鎌倉へ帰っていったという。(『平家伝承地 総覧』)

『那須氏系図』によると、建久元年(1190)に源頼朝の上洛に供奉した
与一は山城国で没し、京都市伏見の即成院(泉涌寺塔頭)に葬られたとし、
『寛政重修諸家譜』では、文治5(1189)年8月8日に山城国伏見で亡くなり、
法名を「禅海宗悟即成院」と号したとしています。 
しかし、那須与一の名も所領拝領のことも『吾妻鏡』などの確かな史料にはみえず、
その真偽のほどは定かではありません。

那須氏は藤原道長の孫通家の子、貞信を祖とし、
下野国那須郡(栃木県)に勢力を張った豪族で、与一の父資高は
その六代目にあたります。与一は下野国(栃木県)那須の庄の出身で、
「与一」は正しくは「余一」で十一番目の子の意味です。
幼い頃から弓の腕で父資隆や兄を驚かせ、那須岳で弓の稽古をしていた時に
那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、
兄の十郎為隆と与一が源氏方に従軍したという伝説や弓の稽古のしすぎで
左右の腕の長さが変わってしまったというエピソードがあります。

与一がいつどこで死んだのか明らかではありませんが、故郷に墓所はあり、
京都の即成(そくじょう)院にも墓と伝えられる石塔があります。
須磨では屋島合戦のお礼のため北向八幡宮へ参詣して病に伏し、
この妙法寺地区の人達の懸命な手当ての甲斐もなく
息を引き取ったと伝えられ、地元の人々はそれを信じています。

妙法寺会館傍に「北向八幡宮」の碑が建っています。





北向八幡神社(北向八幡宮)
御祭神
八幡大御神(応神天皇)・(誉田別尊=ほんだわけのみこと)
大神宮(天照大御神)・春日大神(春日大明神)
寿永三年(一一八四)源平の一の谷の合戦、
時の総大将源義経は村人より御神威が高く、
飛ぶ鳥も社殿の上を避けて飛ぶ「社」があると聞き、
那須与一に先勝祈願の代参を命じ勝利挙げたと伝える。
又、大国主神を祀るとも云い出雲大社への敬意から北向に建立されたと伝わる。
 平成十七年一月吉日 妙法寺協議会
祭典日・新年一月 豊年祈願祭 八月 例大祭十月第二日曜日(説明板より)

「那須神社」大正10年(1921)ごろ、北向厄除八幡神社の境内に
与一をまつる那須神社が勧請されました。

北向八幡宮の向かい側、県道22号線をはさんで那須与一の墓があります。
「那須与一の墓
那須与一は源平合戦に際し、北向八幡神社を守護神として、
源義経に従い数々の戦陣に加わったとされ、屋島の合戦で
扇の的を射落とし賞賛を得た若武者。晩年に与一はこの地へ
お礼参りに訪れますが、病のためここで亡くなったと伝えられています。
この墓にお参りすると年老いてもシモの世話にならないとの言い伝えがあります。
また、道路を渡った東側には与一を祀った那須神社と
与一が信仰していた北向八幡神社があります。」(説明板より)


「那須與市崇高公御墓所」と書いたのぼりがはためく石段が続いています。

長い石段を上るとお堂が現れます。





この墓にお参りすると、年老いても「しもの世話をしてもらわなくてすむ。」との
信仰があり、祥月命日や月命日の7日には多くの参詣者が訪れます。

天井から吊り下げた献灯の提灯が並ぶお堂にある五輪塔が与一の墓です。



お堂の左手には、無縁仏の墓があります。周辺の谷あいに埋もれていた
源平合戦で亡くなった武士の塚や五輪塔をここに集めたといわれています。

屋島古戦場を歩く那須与一扇の的(祈り岩・駒立岩)  
那須与一の墓(即成院)   那須与一の郷(那須神社)  
一の谷へ出陣途中、亀岡で病になったという与一 那須与市堂  
『アクセス』
「北向八幡宮」兵庫県神戸市須磨区妙法寺宮ノ下 54−1
例祭日:10月第2日曜日
「那須与一の墓」神戸市須磨区妙法寺字円満林24-8
開門時間 9時から15時
月例祭(毎月7日):8時から15時
市営地下鉄「妙法寺駅」または市営地下鉄・山陽電車「板宿駅」から、
市バス5系統で「那須神社前」下車すぐ
または市営地下鉄妙法寺駅 から徒歩約25分
『参考資料』
「国史大辞典」吉川弘文館、平成元年 
NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター、2008年
 富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)、昭和42年 
三善貞司「大阪伝承地誌集成清文堂昭和53年
全国平家会編「平家伝承地総覧」全国平家会、2005年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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