平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



早川城跡は、地元では古くから城山(じょうやま)と呼び、
鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。
城は早川地内を南北に貫流する目久尻(めくじり)川の東方、
相模野台地の南に突き出た部分を利用して築かれ、
その東・南・西側は急峻な崖で、天然の要害の地となっています。





綾瀬市教育委員会によって平成元年から平成6年にかけて行われた発掘調査の結果、
曲輪・土塁・空堀・物見塚などが確認されています。
これらの遺構と遺物などから判断して早川城は室町時代初期ないし
鎌倉時代にまでさかのぼる可能性のある城郭であることが明らかとなりました。
鎌倉幕府の御家人であった渋谷一族により築城され、
14世紀から15世紀にかけて使用されたものと考えられています。
明治19年の早川村の地誌には、
「鎌倉時代、渋谷荘司居城廃跡なり」と記されています。

日本のお城といえば壮麗な天守閣や積み上げられた巨大な石垣、
連なる櫓(やぐら=天守以外の建物)群などを思い浮かべるかもしれませんが、
中世の城は、戦国時代以降の城とは異なり、周囲に堀切を巡らし、その内側に
掘った土を積み上げ土塁を築いて、主郭(本丸に当たる部分)が造られました。

城跡は現在中世城郭の遺構を残した状態で保存され、
桜の広場・遊具広場・幼児広場・日本庭園などがつくられ、
城山(しろやま)公園として市民に親しまれています






桜の広場

遊具広場

堀切と土塁 現在も往時の姿をとどめており、その様子がはっきりとわかります。

発掘された早川城の画像は、綾瀬市役所市史だより第31号
「城山公園ぶらり歴史さんぽ」よりお借りしたものに一部文字入れしました。

早川城跡では三方を崖に囲まれた地形が利用され、北側の台地へと続く部分に深い堀切を設け、
内側に土塁を築き、さらに周囲の急斜面にも堀切と土塁が巡らされて主郭が形成されています。
主郭西部には物見塚があり、西側斜面二カ所では曲輪(くるわ)が確認されました。
この城郭は、常駐して城を守っているような性格でなく、
有事の際に防衛拠点として使われた山城であると考えられています。

「渋谷氏と早川城跡(じょうせき)
渋谷氏は平安の末期、綾瀬市域を中心に渋谷荘(吉田荘)という
荘園を支配し、勢力をもった武士でした。『吾妻鏡』によると、
平治の乱(1159年)に敗れて奥州に落ち延びていく源氏の重臣佐々木秀義を
渋谷重国が保護したとの記事があることから、
この頃までには綾瀬市域一帯を支配下に置いたものと思われます。
鎌倉時代になると、渋谷重国は源頼朝の家臣である御家人となり、
その子高重が後をつぎました。高重は早川次郎と名乗り、
早川に拠点を置いて一族を統率していたものと思われます。
1213年の和田合戦では高重は和田義盛に組したため高重はじめ
多くの一族が討たれましたが、1247年、宝治合戦の後、
その軍功により薩摩国入来院(いりきいん)ほかに所領を得、
地頭となり、その際多くの一族が移っていきました。
しかし、室町時代の初め頃までは綾瀬市域に渋谷氏の支配が続いたと思われ、
その一族が早川城を築城したものと考えられます。」

「堀切と土塁  鎌倉時代に築城されたと推定される早川城跡は、
天守閣を持つ江戸時代の城と異なり、自然の地形を巧みに利用し、堀切と土塁を
周囲に巡らした「砦」的な要素の強い城郭であることが発掘調査によって明らかとなりました。
堀切とは外敵の進入を防ぐため、城の周囲に巡らされた堀のことです。
堀切の内側には、堀切を掘った土を利用して、土塁と呼ばれる高い土手を築き、
さらに堅固な防御施設を作り上げています。早川城の場合、東西及び南側は
急峻な崖に囲まれ、自然の要害となっています。
しかし、北側は平坦なため、幅約11メートル、深さ5メートル以上という
大規模な堀切と土塁を築いて敵の侵入を阻んでいます。
早川城は、有事の際に周囲に暮らす武士たちが集結して、
外敵の進入に備える防御施設として、また、領民に対しては、
権力を誇示するシンボルとしてそれぞれ機能していたものと思われます。」
 

物見塚跡には、東郷平八郎が昭和7年(1932)に建てた
「東郷氏祖先発祥之地」の石碑があります。 日露戦争時の日本海海戦(1905年)で
ロシアのバルチック艦隊を壊滅させた際の、 日本連合艦隊司令長官東郷平八郎は、
当地から薩摩国東郷へ移った渋谷氏の子孫です。

渋谷氏略系図は、渋谷氏と早川城跡説明板より転載

「物見塚と東郷氏祖先発祥地碑
早川城本郭の西側に位置するこの塚は、物見塚と呼ばれています。
南北21メートル、東西23メートル、高さ約2メートルの塚です。
発掘調査の結果、表土直下に宝永火山灰(1707年、富士山の噴火による火山灰)が
見られることから江戸時代初期以前に築かれていることは明らかです。
また塚の作り方が土塁と同様の版築(黒土と赤土を交互に敷きつめて突き固めたもの)であることから、
城郭の関連遺構の一つであり、外敵の進入を見張るために築かれた塚であると思われます。
物見塚の上には、昭和七年に祖先発祥地東郷会により建てられた
「東郷氏祖先発祥地碑」があります。この碑は日露戦争で有名な
旧海軍元帥である東郷平八郎の祖先の地であることを記念して建てられたものです。
東郷家は、早川城主であったと伝えられる渋谷氏の末裔の一つでした。」

早川城跡では、中世城郭遺構のほかに
縄文時代および古代の竪穴住居址も多数確認されました。

『アクセス』
「早川城跡(城山公園)」神奈川県綾瀬市早川城山3-4-1
相模鉄道・JR・小田急線「海老名」駅よりバス(約15分)「城山公園」下車すぐ

『参考資料』
湯山学「相模武士(5)糟屋党・渋谷党」戎光祥出版、2012年
「神奈川県の歴史散歩(上)」山川出版社、2005年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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長泉寺は山号を宗福山といい、曹洞宗(禅宗)の寺です。本尊は釈迦如来で、
開山は寛永11年(1634)に没した格雲守存(かくうんしゅそん)です。

かつてここには、渋谷氏の菩提寺と伝えられる
祖師山(そしざん)菩提寺という寺があり、金王丸の山とよばれる
背後の山には、渋谷金王丸(こんのうまる)の墓があるといわれています。

ご住職のお話によると、「昔はこの寺の裏山に金王丸のものと伝えられる墓があり、
満州事変(昭和6年)の頃、先々代の住職がこの墓を掘ったら甕に入った
人骨らしきものが出てきたので本堂に保管している。
綾瀬市教育委員会の当寺の金属製の説明板もあったが、
不届き者に壊され今はない。」とのことでした。

『長後誌史』には、金王丸(高重)は和田義盛の乱で義盛に与したため、
北条氏に攻められて討死し、その首は綾瀬市早川の
長泉寺境内に葬られたとの伝承を記しています。

『相模武士』より転載。墓碑の周囲には玉石が敷いてあり、
 市史だよりの説明には、大正から昭和初期にかけて撮影されたとあります















平治の乱で敗れた源義朝が東国めざして敗走した時、最後に残った悪源太義平以下
八騎の中に金王丸はいました。青墓宿の東を流れる杭瀬川を下り、
重代の家人長田忠致(ただむね)を頼って尾張の知多半島の先端、
野間内海にたった四人で辿りついた時も金王丸は義朝に従っていました。

義朝は舅にあたる熱田大宮司家を頼りたかったのでしょうが、
すでに東海道の道筋は平家の手が回っていると考えられます。
海へ出れば道が開けるというわけです。忠致は義朝の乳母子鎌田正清(政家)の
舅でもあったので義朝もここならばひとまず安心と気を許したのでしょう。
ところが、忠致は「ここで東国に逃がしたとて誰かに討たれるであろう。
人の手柄にするくらいならば、我々の手柄にしてたんまり恩賞をいただこう。」と
息子の景致(かげむね)と諮り、義朝を湯殿に誘い謀殺しました。
義朝の最後の言葉は「正清は候はぬか。金王丸はなきか」の一声だったといいます。
そのころ、忠致に酒を勧められ問われるままに、軍(いくさ)の様(平治の乱)を
語っていた正清は、義兄弟の景致に騙し討ちにされました。
金王丸は郎党らを討ち取り、主君の訃報を伝えるため急いで都に馳せかえり、
その後出家して全国を行脚し義朝の菩提を弔ったと『平治物語』は語っています。

この物語は琵琶法師などによってくり返し語られたり、
他の芸能の素材に使われたりして
民衆の中で永く生き続けた結果、新たな伝承や異説を生みだし、
その内容も諸本によってかなりの異同があります。

江戸時代になると、金王八幡宮の周辺にはさまざまな伝説が生まれ、
各地に金王丸にまつわる伝承や史跡が数多く残っています。

渋谷金王丸が長森城(現、岐阜県岐阜市切通)を築城し、
羽島市の寺田山渋谷院西方寺は、渋谷金王丸の三男祐俊が
親鸞に帰依し西円と号して以降、
それまでの天台宗から真宗に改めたとしています。

藤沢市下土棚字渋谷の里の善然寺は、渋谷金王丸誕生の地とし、
その守り本尊を今に伝えているとしています。

三重県鈴鹿市にあった光勝寺には金王松があり、そこから関町までの四里の道は
義朝が殺された野間内海から金王丸が都へ引き返した道とされ
金王道といわれていたという。

「今日、金王丸の墓をいわれるものが綾瀬市早川の、徳治2年(1307)の銘のある
板碑を筆頭に、静岡県引佐(いなさ)郡引佐町、愛知県、滋賀県、
岡山県、長野県と数えあげられる。金王丸が渋谷氏の出身とする伝承に従えば
綾瀬市早川のものは当然としても、他の各地に点在する墓は義朝の死を語り歩いた
自称金王丸たちの足跡を示していると思われなくもない。」
(『平治物語の成立と展開』)

『平家物語』の中で、俊寛の童有王は鬼界が島へ渡り、島で主人の死を見とったのち、
俊寛の娘にこれを知らせに帰ります。その後、高野山で出家し、
諸国七道修行をしつつ主の後世を弔いました。

水原一氏は「有王の語り部の公式というものが金王丸の上にも見られ、金王丸は
義朝最期の物語を語った語り部の一人であった。」と言いきっておられます。
(『保元・平治物語の世界』)

「九州地方を中心に長門・四国・北陸などに俊寛の墓と伝える遺跡が
数多くあり
伝説の内容は少しずつ異なるが、鬼界が島の俊寛の話が
各地に伝えられているという。それは一人では
とても残しきれない数なので、有王と名のる語り手が複数存在し
旅の先々で多くの人々に俊寛の最期を語り歩いた。」
柳田國男『有王と俊寛僧都』)
それが金王丸にも見られるというのです。
金王八幡宮(源義朝の童渋谷金王丸)
『アクセス』
「長泉寺」綾瀬市早川3146 相鉄海老名駅から徒歩約20分

『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
日下力「平治物語の成立と展開」汲古書院、1997年 
日下力「古典講読シリーズ 平治物語」岩波書店、1992年
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
湯山学「相模武士(5)糟屋党・渋谷党」戎光祥出版、2012年
「柳田國男全集(9)」(物語と語り物)ちくま文庫、1990年

 



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三浦半島の中央部に位置する三浦氏の本拠衣笠城の周辺には
一族の建立した寺院が点在しています。
佐原城址にほど近い岩戸にある満願寺もその一つです。
現在は竹林を背景とした山懐に抱かれひっそりと佇む小さな寺ですが、
昭和63年の境内発掘調査により、今より数倍の広さをもつ寺域であったことが判り、
創建当時は堂々たる寺院だったと思われます。








 本堂右手の収蔵庫には佐原義連の面影を写すという像高2,24mもある
観音像(国重文)が安置されています。義連が平氏追討に赴く際、自らの姿を
運慶に彫らせ戦勝を祈願し、願が満ちたことから寺号を満願寺と称したと
伝えられていますが、実際は運慶派の地方仏師の作と考えられています。
収蔵庫には、この他に同じように大きな地蔵像(国重文)や
毘沙門天、不動明王像が残っています。


「 市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 満願寺の諸仏と佐原十郎義連の墓
臨済宗岩戸山満願寺は、三浦大介義明の子佐原十郎義連によって
建てられたと伝えられています。
本堂の左の石段をのぼると観音堂があります。
そこには、もと、等身大以上の観音菩薩(国指定の有形文化財)、
地蔵菩薩(同)、不動明王(市指定の有形文化財)、
毘沙門天(同)の立像が安置されていました。
現在、それらは、本堂右手の収蔵庫に安置されています。
観音菩薩立像は、十九歳の義連が平家追討のため、
西国へおもむくにあたり、鎌倉時代の代表的な仏像彫刻家運慶に
自分の姿を彫らせたと寺伝にあります。
また、三浦古尋録(こじんろく)と言う書物には、
「佐原十郎ヲ観音ニ祭り巴御前ヲ地蔵ニ祭り和田ノ義盛ヲ比沙門ニ祭り
朝比奈ノ三郎ヲ不動ニ祭ルト云四尊トモ運慶ノ作」と記されています。
佐原十郎義連は、十九歳で源平の合戦に参加し、一ノ谷のひよどり越では、
一番乗りの手柄をたてた勇者で、弓の名手でもありました。
また、落ち着きのある武士で、頼朝や北条家から深く信頼されていました。
その証拠に、頼朝の寝所の護衛を命じられたり、
北条政子の弟時連が元服の折に烏帽子親をつとめたりしています。
義連は建久二年(一一九一)、七十五歳でこの世を去りました。
そのとき、多数の家臣が義連を慕って死んだと言われています。
観音堂の右手に、義連の墓と伝えられる五輪塔があります。
空・風・火・水・地輪で構成された鎌倉時代の様式を備えています。
ただ残念なことに、空・風・地輪は、のちになって補ったものと
伝えられています。」(現地説明板)





本堂横の石段の上り口には、松尾芭蕉の句碑がたち、
♪まづたのむ椎の木もあり夏木立 と刻まれています。

芭蕉は菅沼曲水に提供された幻住庵に籠り

『幻住庵記』を書きましたが、これはその結びの句で、
浦賀奉行所与力で俳人でもあった中島三郎助の筆によるものです。
奥羽行脚の後、近江湖南の石山の奥にある幻住庵に入った芭蕉は、
庵の前にある夏木立の中に大きく枝を広げている椎の木に
さまざまな思いを重ねながら、何はともあれ、
この木陰で長旅に疲れた身を休めることにしようと詠んだのです。



石段を上りつめると、観音堂側の瓦塀の中に五輪塔があり、
義連の墓と伝えられています。





鎌倉時代の貞応三年(1234)、義連の子、家連が京都泉涌寺の
開山俊芿(しゅんじょう)を横須賀市佐原の三浦館に招いて
梵宇(寺)を供養しています。その梵宇とは、満願寺のことです。
家連は紀伊守護や肥後守を歴任していますが、
このような高僧を招くことができた往時の繁栄ぶりが偲ばれます。

鎌倉時代は権力闘争が絶えない時代でした。
鎌倉を舞台にして梶原景時・比企能員・畠山重忠父子・和田義盛などの
有力御家人が次々に北条氏に倒されましたが、北条氏に手を貸したのは
三浦氏嫡流の三浦義村(義澄の子)です。
三浦一族の和田義盛は北条氏と対立して滅亡、次いで三浦氏嫡流
三浦泰村(義村の子)も宝治の乱で北条氏に敗れて滅びました。
この時、一族の行動に加わらずに生き残ったのが、
北条氏の縁に繋がる義連の子、盛連の遺子六人です。

宝治の乱後、三浦氏一族の広大な領地は削られ、
勢力範囲は三浦半島南部に限定され、佐原城・衣笠城は廃城となりました。
義連は会津にも所領があり、会津に入部した子孫は後に、
伊達氏と並び称される有力大名葦名氏となり、
福島県喜多方市熱塩(あっしお)加納町満願寺(廃寺)にも、
伝佐原義連の五輪塔が残されています。

義連の居城址  佐原義連 (佐原城址アクセス)  
   『アクセス』
「満願寺」横須賀市岩戸1-4-9
京急線北久里浜駅よりYRP野比駅行バス「岩戸」下車徒歩7、8分
バス停の近くから北西に入る道を小川に沿って進むと右手に見えてきます。
『参考資料』
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社 「三浦一族と相模武士」神奈川新聞社 
「三浦一族の史跡道」三浦一族研究会 上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 
「神奈川県の歴史散歩」山川出版社 
「神奈川県の地名」平凡社
 「検証日本史の舞台」東京堂出版 魚住孝至「芭蕉最後の一句」筑摩選書 

 



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佐原城の主は「鵯越の逆落し」の立て役者、佐原十郎義連です。
義連は相模の豪族三浦義明の末子で、一ノ谷の鵯越で絶壁に立った時、
「何のこれしきの坂、これは三浦の方の馬場よ。」と
真っ先に駆け下りた勇者で、弓馬の名手としても知られています。

頼朝の父義朝は、鎌倉の亀ケ谷に居宅を構え東国に基盤を持ち、
義朝の長男・鎌倉悪源太義平と呼ばれた義平の母は三浦義明の娘でした。
義明は頼朝が挙兵すると、一族とともにいち早く同調しました。
頼朝は三浦半島の三浦氏、房総半島の千葉氏の
強力な支援を得て挙兵を決断したと思われます。

頼朝が鎌倉に入って間もなくの頃、三浦氏の本拠地を訪ねたことがありました。
この時、頼朝に対し皆が下馬する中で、当時の関東きっての大豪族
上総介広常だけは、馬から下りずに一礼しただけでした。
広常に向かって、まだ年若い義連が無礼な態度を咎め、その宴席で
広常と三浦義明の弟にあたる岡崎義実とがささいなことで喧嘩した時、
二人の間に割って入りその場をおさめたのも義連でした。


また『義経記』には、こんな逸話が載せられています。
義経の子を宿していた静御前は、北条時政によって探し出され、
母と共に鎌倉に護送されました。
頼朝に請われて鶴岡若宮八幡宮で歌舞を舞うことになり、
静御前が舞うとの評判に、当日は群集が門前に市をなすほど詰めかけ、
追出してもすぐに幕を潜って入ってくるので、大変な騒ぎになりました。
その時に義連が機転をきかせて廻廊の真ん中に
三尺(約90㎝)の高さの舞台を造らせました。
なにぶん急なことであり、若宮の修理用に積んであった材木を運ばせ、
にわか作りの舞台を唐綾や文様を織り出した紗で飾り、
頼朝を喜ばせたとあり、ここでは舞台を美しく飾る才能も見せています。

文治五年(1189)奥州合戦では、大手軍の先陣に属して奮戦し、
頼朝から会津四郡の地を与えられています。
武勇と思慮を兼ね備えた義連は、頼朝のお気に入りだったといわれ、
側近として常に近仕し、建久元年(1190)、東大寺再建供養のため、
上洛する頼朝に従い、勲功賞として左衛門尉に任じられました。
和泉・紀伊両国の守護も務め、
さらに遠州灘に面した遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市辺)の
惣地頭兼預所(あずかりどころ)となり、本拠地の三浦半島を
海上ルートでつなぐネットワークを形成していたことになります。

聖徳院奥の標高30mほどの台畑とよばれる南から北に舌状に
突き出た台地が佐原義連の居城址と伝えられる佐原城址です。
三浦半島は平地が少なく、起伏に富んだ地形で
小高い山が続き半島全体が要害の地となっています。
三浦一族は半島の中央部に位置する衣笠城を馬蹄形に取り囲むようにして、
半島にいくつかの城を構えて防備を固め、
佐原城は馬蹄形の大手入口にあたる重要な位置を占めていました。
平安時代末には、台地の東側は久里浜の深い入り江が
佐原城近くまで入り込んでいて、義連の本拠地の三浦郡佐原は、
入り江の対岸にあった怒田城とともに、三浦水軍の拠点でもありました。

いま、佐原城址の台地には、一面に畑が広がり、
見下ろすと麓は家並に埋めつくされ、僅かに雑木の中に建つ
「佐原十郎義連城跡」と刻まれた石碑だけが往時を偲ばせます。 
佐原城址の碑は、大変わかりにくい場所にあります。
聖徳院から石碑までの道順を画像にしました。

聖徳院





聖徳院からガードをくぐります。







やっと人一人通れる道幅です

細い道を上りきると視界が開けて畑に出ます。



左側の道を200mほど進むと佐原城跡の石碑があります。
車は別のルートから上るようです。







 佐原城址(現地説明板)
 康平六年(1063)、前九年の役の戦功により、
三浦半島を領地として与えられた平大夫為通は、三浦の姓を名乗り、
現在の衣笠町に衣笠城を築きました。
以後、数代にわたり三浦半島の各所に一族を配置して、衣笠城の守りとしました。
 この台地は、第四代三浦大介義明の子佐原十郎義連
(生年不詳~建仁三年・1203年)が、城を築いた所と伝えられています。
現在、この台地を中心に残っている地名に、
的場・射矢谷・殿騎・城戸際・駿馬入・腰巻などがあり、
自然の地形を上手に利用して山城を築いた当時の様子をしのばせてくれます。
 この台地の前方、北から東にかけての地域は、内川新田と呼ばれ、
工業団地になっていますが、当時は深い入り江をはさんで、
対岸に怒田城がありこの佐原城とともに衣笠城の東面を固めていました。
 また、この台地は、昭和五十一年の一部発掘調査で、
弥生時代中期(約2000年前)から飛鳥時代(約1400年前)にかけての
村の跡であることも明らかになっています。
七、八軒の家があって、この谷戸付近に初めて水田を開発し、
稲作農業を営んでいたと考えられています。  横須賀市 
佐原義連が活躍した義経の鵯越の逆落し(須磨浦公園) をご覧ください。 
佐原十郎義連 の墓 (満願寺)  
『アクセス』
「聖徳院」横須賀市佐原3-7-1

北久里浜駅から 京急バス「佐原三丁目」下車 徒歩5分
 『参考資料』
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社 「三浦一族と相模武士」神奈川新聞社 
「三浦一族の史跡道」三浦一族研究会 「神奈川県の地名」平凡社
 「検証日本史の舞台」東京堂出版 現代語訳「義経記」河出文庫 

 



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石橋山合戦で惨敗した頼朝は、土肥の椙山から真鶴半島へと辿り、
土肥実平が手配した船で岩海岸から安房へと船出しました。


真鶴湾の遊覧船乗場駐車場前の切りたった崖の前に、
頼朝に従った土肥実平・遠平父子、岡崎義実、安達盛長、田代信綱、
土屋宗達、新開忠氏の名を書いた旗が翻っています。
真鶴港


崖にある鵐窟(しとどのいわや)跡は、
源頼朝が治承4年8月(1180)石橋山の戦いに敗れたとき、
この地にあった岩屋に一時かくれて難をのがれました。
その時、大庭景親の追手があやしんで中をのぞくと
「シトド(ほおじろ)」といわれる鳥が急にが飛び出たので
人影はないものと立ち去った。ということから鵐窟といわれ、
かつては高さ2メートル深さ10メートル以上の大きさがありました。

度々の地震で崩れ、また第2次世界大戦中の軍用採石によって、
今は僅かに痕跡をとどめるだけです。


頼朝が窟に安置したという観音像を祀る観音堂

 鵐の窟は湯河原にもあり、湯河原駅から元箱根行バスに乗り
「バス停・しとどの窟」下車、20分ほどジグザグ道を下った斜面に
間口12・8m・高さ5m・奥行11・3mの岩穴があります。
付近はかって土肥の椙山(すぎやま)と呼ばれ、石橋合戦後、源頼朝主従が身を
潜めていた所といわれる山深い地で、洞窟内やその付近には多くの石仏があり
こちらの伝承も真鶴とほとんど同じです。

「神奈川県の歴史散歩」には、真鶴海岸の鵐の窟跡と土肥椙山の鵐の窟は、
昭和初期にはその正当性をめぐって吉浜町(現・湯河原町)と真鶴町の間で
激しい論争があったが、各地のこのような隠れ家を転々としながら、
頼朝は虎口(ここう)を脱することに成功したのだろう。」と記されています。


『源平盛衰記』には、この洞の話がドラマチックに描写されています。

「味方が思い思いに落ちていった後には、土肥次郎実平・同男遠平・新開次郎忠氏
土屋三郎宗遠・岡崎四郎義実・藤九郎盛長が残り、倒れた木の洞の中に隠れた。
佐殿その日の装束には、赤地に錦の直垂に赤糸縅の鎧着て裾金物
(鎧の袖や草摺りの端に打った金物)には銀の蝶が翅を広げた形を円にして
数多くつけてあった。暗闇の中で、その蝶がひときわきらきらと輝いて見えた。
大庭・俣野・梶原三千騎が頼朝一行の足跡を辿って山中をくまなく捜す。

大庭が倒れた木の上にのぼり、弓杖をついて『佐殿は確かにここまで

いらっしゃったはずなのに、ここで足跡が消えている。
この臥木(倒木)が怪しい、
中が空洞なれば何人でも身を隠せるぞ。
中に入って捜せ。』と下知する。
大庭景親の従兄弟の梶原景時が
弓を脇にはさみ、太刀に手をかけ進み出て、

臥木の中に入り、中を覗いた途端佐殿の目とかちあった。

佐殿は最早これまで、自害せんと腰刀に手をお掛けになる。

『しばらくおまち下さい。お助け申しあげます。軍にお勝ちになったら
景時を
お忘れなさるな。もし、運悪く敵の手にかかられたなら、
景時の武運を祈りたまえ。』と
申しあげて梶原景時は
蜘蛛の糸を弓や兜に引きかけて洞の中から這い出した。


佐殿両手を合せ、景時の後姿を三度拝んで『我が出世したなら、
この恩は決して
忘れないぞ。たとえ滅びても七代までは景時を守るぞ。』と
誓われた。
景時は『この洞には、蟻・オケラ一匹もいないが、
こうもりが多く飛び騒いでいます。それ、あそこをご覧あれ。
真鶴を駆けて行く武者七、八騎きっと佐殿一行であろう。あれを追え。』と
下知すると、大庭景親は海の方を見やって
『いや、あれは佐殿ではない。やはりこの臥木が怪しい。
景親が中に入ってもう一度捜してみよう。』と臥木から飛び降り、
洞に入ろうとする。その行く手に梶原景時が立ちふさがり『やや、大庭殿。
今は平家の御代でありますぞ。源氏は戦に負けて落ちていきました。
源氏の大将の首を取って、手柄にしたいと思わない者がござりましょうか。
景時の捜しようが足りないといわれるのか、
それともこの景時に二心があると疑われるのか。
中に人が隠れていたらこのように兜や弓に蜘蛛の糸がかかりましょうや。
お疑いになるのであれば、景時面目なし、自害しまする。』と詰め寄ったので、
大庭もそれ以上は何もいわなかった。


しかしやはり洞が気になり、中に弓を差し入れてからりからりと、

二、三度さぐると弓の先が佐殿の鎧の袖にあたった。
佐殿はひたすら『八幡大菩薩、八幡大菩薩』と念ずるとその験であろうか。
臥木の中から八幡神の使者である山鳩が二羽はたはたと飛び出した。

人が中にいるのなら鳩はいまいと大庭は思ったが、やはり臥木が気にかかる。
『斧、鉞をもってきて臥木を切ろう。』といい終わらぬうちに

今まで晴れていた空が俄かに掻き曇り、雷が鳴り響き大雨が降りしきった。
仕方がないので臥木を切るのは、雨が止んでからのことにしようと大きな石を
7、8人がかりで押し寄せ臥木の口を塞いで帰った。」
(巻第21 兵衛佐殿臥木に隠る附梶原景時佐殿を助くる事)

『吾妻鏡』には、「ここに梶原平三景時という者があり、確かに頼朝の御在所を

知っていたが、情に思うところがあって、この山に人が入った痕跡はない
と偽って景親の手勢を引き連れ傍らの峯に登っていった。」とあり、
頼朝が洞に隠れた話はありませんが、『源平盛衰記』と同様、梶原景時が
頼朝の窮地を救う人物として記されています。

これがのち、梶原景時が頼朝に仕える機縁となり、

景時は鎌倉幕府で大活躍します。
しかし源義経と対立して、あることないことを頼朝に告げ口して、
兄弟仲たがいの原因をつくったともいわれる人物です。

なぜ梶原景時は、頼朝を見逃したのでしょうか。
『鎌倉時代』には、次のように書かれています。

「明敏な景時は、平氏の盛運に影がさしはじめ、この流人が東国を
支配する日がくるかもしれないことを感じとり、頼朝に賭けたのであろう。」
しとどの窟 (湯河原町)


『アクセス』
「鵐の窟」神奈川県真鶴町真鶴
真鶴駅から箱根登山バス・伊豆箱根バスケープ真鶴行「魚市場前」下車すぐ
 又は真鶴駅より徒歩20分位
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 「源平盛衰記」(三)新人物往来社
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 「源頼朝のすべて」新人物往来社
 

 

 
 

 



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石橋山合戦で敗れた頼朝主従は、土肥椙山中を転々とし真鶴半島へ駆け込みました。
危機を脱した土肥実平が喜びのあまり思わず頼朝の御前で舞を舞ったと伝える
謡坂が真鶴駅から岩海岸へと続く道の途中にあります。
うたい坂の一つ手前のバス停は土肥道、バス停うたい坂から岩海岸までは
ゆるい下り坂になっていて頼朝にまつわる故事を偲ぶことができます。
岩海岸は頼朝が房総へ船出した「頼朝船出の浜」とされています。


バス停うたい坂の向かい側の路傍に「謡坂」「謡坂之記」と題する碑が二基あります。





このうち「謡坂之記」の方は、この地の謡坂荘主高井徳造氏が謡坂の由来を知り、
頼朝の遺跡を顕彰するために昭和9年1月にお建てになった碑です。
長い碑文を要約すると「治承4年8月23日、石橋山合戦に敗れ8月28日に
ここまで逃れてきた頼朝主従が土肥実平の館のある西の方を望むと土肥村から兵火が
上がり炎が空を覆った。実平は之を見て頼朝が危険を脱したことを喜び、併せて
その前途を祝福し『土肥に三つの光あり。第一には、八幡大菩薩、我君を守り給う
和光の光と覚えたり。第二には、我君平家を討ち亡ぼし、一天四海を照らし給う光なり。
第三には、実平より始めて、君に志ある人々の、御恩によりて子孫繁昌の光なり。
嬉しや水、水、鳴るは瀧の水。悦び開けて照らしたる土肥の光の貴さよ。
我家は何度も焼かば焼け。君が世にお出になったら広い土肥の椙山に茂る木を伐って
邸など何度でも造りかえる。君を始めて万歳楽我等も共に万歳楽』と
勇み踊り謡った地であり爾来此地は謡坂と称されるようになった。
この十二年後、頼朝公は建久三年征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府をお開きになった。
公の史跡は天下に多いけれども、この地は挙兵の当初、
敵の虎口を脱した地であることを石に刻んで後世に伝えるものである。」

「和光の光」とは仏が日本の地に神として顕れるその光をいい、
土肥実平が自分の家が敵勢に焼かれるのを見て「あの光は、我が君や我々の
未来を照らす光だ。」と謡い舞ったという『源平盛衰記』にちなむ話です。

「神奈川県の地名」によると、岩村について敵の追跡を免れた頼朝が
喜びのあまり「祝村」と命名したという村民の伝承を記しています。

頼朝主従が房総半島へ向けて船出した岩海岸





「源頼朝開帆處の碑」は「船出の浜碑」と背中あわせに建っています。

頼朝が安房へと船出したと伝えられる岩海岸の傍には
「源頼朝船出の浜」「源頼朝開帆處」と題する石碑が建てられています。
このうちの一基「源頼朝開帆處」の碑文は、文字変換するのも一苦労です。
そこで真鶴町生涯学習課にこの碑の解説をお願いしました。

源頼朝開帆處
 誓復父讎擧義兵石橋山  上決輸贏佐公雖昔開帆
 處謡曲長傳七騎名     文學博士 鹽谷 温 題   
            昭和十二年十一月建設 岩村保勝會

読み下しは、「誓って父の讎(あだ)を復さんと義兵を挙げ
石橋山に上(のぼ)りて輸贏(ゆえい)を決す  
佐公(さこう)昔を維(つな)ぐ開帆の処 謡曲長く七騎の名を伝う」
意味は、「(頼朝が)父(義朝)の名誉を回復しよう(汚名を晴らそう)と
兵を挙げて、石橋山にて(平家に)勝負を挑んだ。この場所は(敗れた)
佐公(頼朝)が再起を図り船出した昔を結びつける場所である。そのことは謡曲の中で、
長い間、(頼朝の船出の際に助け従った)七騎の名を伝えていることからも分かる。」

ここで『源平盛衰記』から頼朝船出の様子をご紹介します。
土肥実平は海人から小船を借りて、真鶴岩ケ崎から漕げや、急げ、とて4、5町ばかり
漕ぎ出して浦の方をふりかえると、伊東入道50余騎が馳せ来たり「あれ、あれ」と
叫び騒いでいる。背後には大庭三郎景親千余騎が続き、間一髪のところであった。
一行が安房の国洲崎(すのさき)を目指して舟を漕ぐうち、突然の強風にあおられ、
いずことも知れぬ渚に漂着しました。「ここはいずくやらん」と頼朝。
土肥実平が舷(ふなばた)に立ち見廻すと早川の河口。(小田原と石橋の間)
しかも、大庭勢3千余騎が土肥椙山で頼朝捜索の帰途、汀に幕を引き七か所に
篝火をたき、酒盛りをしている敵陣に吹きつけられたのでした。
幸い平家方は頼朝に気づいていません。土肥椙山で滅ぶはずの身が大菩薩の御加護で
ここまで生き延びたのに、終に八幡様にも見捨てられたのかと思いながらも
頼朝は懸命に祈られた。実平は「この辺には自分の家人でない者はいない」
酒肴を探してこようと船から飛び降り、片手に弓矢をもって走り廻り、「我が君が
この浦にお着きになった。実平に志あらんものは酒肴参らすべし」と大声で言うと、
或る者は徳利に、或る者は桶にと、我も我もと船に酒肴、食糧を運んで来ました。
敵の篝火の灯りを頼りに酒を呑むと全員飢えも休まった。
実に八幡大菩薩のお陰です。やがて風もおさまり波も静かになったので、
舟を出し安房の国洲崎にと向かいます。巻第二十二(佐殿三浦に漕ぎ会ふ事)

『吾妻鏡』治承4年(1180)8月28日条によると「頼朝は実平が土肥の住人である
貞恒に命じて準備させた船に乗り、土肥の真鶴崎から安房国に赴かれた。
頼朝は乗船の前に土肥弥太郎遠平を御使者として政子のもとに遣わされ、
離れ離れになってからの消息を伝えられた。」と記されています。
源頼朝上陸地(鋸南町竜島)  
『アクセス』
「頼朝船出の浜の碑」神奈川県足柄下郡真鶴町岩 
JR真鶴駅より伊豆箱根バス(17、8分)岩海岸下車すぐ
 バスの本数が少ないのでご注意ください。

『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社 新定「源平盛衰記」(第三巻)新人物往来社 
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館





 
 



 
 
 

 

 
 



 

 

 
 

 

 
 


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湯河原で土肥実平の館跡、城願寺などを訪れ、翌朝、湯河原駅前から
箱根登山バスで
箱根神社に向いました。


箱根山は古くから山岳信仰の中心地とされ、奈良時代に山岳修行僧
万巻(満願)によって
堂宇が建立され、箱根権現と呼ばれました。
中世には、修験道の聖地となり多くの僧兵をかかえて繁栄し、

鎌倉時代には、頼朝ら歴代将軍や幕府要人の崇敬を受け発展しました。

前面の芦ノ湖は古くから権現の御手洗池とされ山岳僧たちの修行の場でした。
境内には平安時代征夷大将軍坂上田村磨呂が蝦夷平定の際、
矢を献上したという
矢立杉があります。
前九年の役に出陣した源頼義や義家、頼朝、義経らが
この先例にならって
矢立杉に矢を献じ武運長久を祈ったと伝えられています。

また宝物の中には伝源義経奉納の太刀薄緑丸(うすみどりまる)があります。



芦ノ湖畔を行きます。



参道には杉の大木が聳えています。








吾妻鏡によれば、石橋山合戦で敗れ土肥山中に逃れた頼朝を
箱根権現別当行実、その弟永実が助けています。
行実は武芸に秀でた永実に食糧を持たせ
土肥山中に逃れた頼朝を探させました。全員餓えていたので
永実が献上した食事は千金に値したという。
その夜箱根山の永実の僧坊にかくまわれましたが、山木兼隆の祈祷師だった
行実の弟智蔵坊良暹(りょうせん)が悪徒を集め頼朝を襲おうとしたので、
翌日、頼朝らは土肥椙山に戻りました。

行実がこのように尽すのは、父良尋の代から源氏に仕え
為義から賜った下文には「東国の輩は行実が催促したならばそれに従うように」
義朝の下文には「駿河、伊豆の家人らは行実が催促したなら従うように」と
書かれていました。この縁で頼朝が伊豆に配流後、
箱根と伊豆を往き来して頼朝のために祈祷をし、忠義を尽してきたという。
(吾妻鏡・治承4年8月24日、同年8月25日条)
8月25日、頼朝らは山を下り、3日後には真鶴岬から小舟で安房へ落ちのびます

行実の恩に報いるため、鎌倉に本拠を構えた頼朝は箱根権現に
相模国早河本庄を寄進しています。(吾妻鏡・治承4年10月16日条)


頼家も建仁二年(1202)には早河庄を中分(折半)し、土肥弥太郎遠平の
知行を停止し箱根権現に寄進しました。(吾妻鏡・建仁二年10月16日条)
寿永元年(1182)8月頼朝は政子安産祈祷のため、土肥遠平を奉幣の
使者として箱根権現に遣わし、この時誕生したのが後の二代将軍頼家です。
以来、箱根権現・伊豆権現を関東の鎮護神として崇拝し、二所詣と称し
鎌倉幕府歴代の将軍みずから参詣、奉幣をおこなうのが恒例となりました。

とくに三代将軍実朝の参詣は八度を数え、その旅で十国峠から
相模灘に浮かぶ沖の小島(初島)を見て詠んだ和歌が残っています。
箱根路を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ〔金槐和歌集〕

長い間神仏習合の時代が続きましたが、明治になって外来の仏教を
排斥しようという流れがあり、明治元年神仏分離令により
箱根権現の別当寺金剛王院東福寺は廃寺となりました。
別当職は廃止され、別当は神主と改められ箱根神社と称するようになります。
なお金剛王院東福寺は、箱根神社境内駐車場付近にあったと推定されています。


箱根神社御由緒 (現地説明板より)
「御祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)
木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)箱根神社は、古来関東総鎮守

箱根大権現と尊崇されてきた名社で、「交通安全・心願成就・開運厄除」に
御神徳の高い運開きの神様として信仰されています。
当神社は、人皇第五代孝昭天皇の御代(二四〇〇年前)、
聖占仙人が箱根山の駒ケ岳より、主体の神山を神体山として
お祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場となりました。
奈良朝の初期(1200年前)、萬巻上人は、ご神託により現在の地に里宮を建て、
箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合しました。

平安朝初期、箱根道が開通しますと、往来の旅人は道中安全を祈願しました。
鎌倉期、源頼朝は深く当神社を信仰し、ニ所詣(当社と伊豆山権現参詣)の
風儀を生み、執権北条氏や戦国武将の徳川家康等、
武家による崇敬の篤いお社として栄えてきました。
近世、官道としての箱根道が整備され、箱根宿や関所が設けられますと、
東西交通の要(道中安全の守護神)として当神社の崇敬は益々盛んになり、
庶民信仰の聖地と変貌しました。こうして天下の険箱根山を駕籠で往来する時代から、
やがて車社会に変る近代日本へと移行しますが、その明治の初年には、

神仏分離により関東総鎮守箱根権現は、箱根神社と改称されました。
爾来、明治六年、明治天皇・昭憲皇太后両陛下の御参拝をはじめ、

大正・昭和・平成の現代に至るまで、各皇族方の御参拝は相次いで行われました。
最近では、昭和五十五年、昭和天皇・皇太后両陛下の御親拝に続いて、
翌五十六年、皇太子浩宮殿下も御参拝になりました。

現在箱根に訪れる年間二千万人を越える内外の観光客を迎えて、
ご社頭は益々殷賑を加えているのも、箱根大神の御神威によるものであります。」
『アクセス』
「箱根神社」神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80
箱根登山バス湯河原駅から終点元箱根まで約1時間 
元箱根バス停から二の鳥居まで約5分 
バスの本数が少ないのでご注意下さい。
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社 「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社 
奥富敬之「源頼朝のすべて」吉川弘文堂 現代語訳「吾妻鏡」(1)(7)吉川弘文堂
 
 
 


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しとどの窟からもときた道を展望所まで戻り、その上の尾根道を
上り下りしていくうちに視界が開け、右手眼下に湯河原の温泉街が
遠くに山々の稜線が見えてくるとやがて小高い尾根にでます。
ここはかって土肥氏の山城が築かれ、

いざという時には砦として使っていた城山です。















山頂には土肥城趾の碑が建ち、あちこちにアジサイの木が植えられています。
ここからの眺めは神奈川新八景の一つにあげられているほど。

相模灘はもとより真鶴半島、遠くには伊豆半島、
実朝が和歌に詠んだ初島(沖の小島)が一望できます。
城山から更に海に向って下れば、頼朝伝説の立石、兜石やアジサイの郷、

土肥実平の菩提寺城願寺などを巡り、
湯河原駅へと至る城山ハイキングコースになっています。

立石とは頼朝が運試しにこの石を投げて垂直に立てば、いつか自分が

天下を取る時が来るが、もし立たずに倒れれば、
このまま滅びるであろうと念じて投げたという石。
みごと山の中腹に立ち、そのお陰で運が開いたといわれている。
兜石とは頼朝が山中を逃げる途中、

休息するために兜を脱いで置いたといわれる石。
<城山ハイキングコース>
城山は湯河原でも特に風光明媚なところで、
神奈川新八景のひとつに数えられています。

この城山を中心とするコースには、しとどの窟や城山城址、城願寺など、
遠い昔をしのばせる見どころがあります。
箱根山の南麓、天昭山から城山にかけての尾根が北側に、
南側には日金山(十国峠)の峰々にいだかれた湯河原は古くから
温泉の湧き出るところとして知られています。

万葉集にも土肥の名がみえ、湯河原の温泉が詠まれています。
足柄(あしがり)の 土肥の河内に 出づる湯の 世にもたよらに 

子ろが言はなくに(巻14・東歌・3368・作者未詳)
足柄は足柄(あしがら)の子ろは娘子の方言。
足柄の土肥の河辺に湧き出る湯のように絶えるなんてことはないと
あの娘は言うのだけれどもとなんとも不安げな男の恋心を謡った民謡です。
東歌は東国庶民の生活の中から生まれた歌で、方言をまじえて

郷土色豊かに謡われ、そのほとんどが相聞歌(恋歌)です。
河内は千歳川と藤木川が合流する辺り、
そこには千歳川を遡るように温泉旅館が軒を並べ、温泉街に隣接した
万葉公園には万葉集に詠まれた植物が植えられています。

しとどの窟(いわや)湯河原町  
『アクセス』
「土肥城趾」 バス停しとどの窟から15
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社 「鎌倉幕府開運街道」湯河原町観光課
 犬養孝「万葉の旅」(上)(中)社会思想社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 





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しとど窟は「湯河原」駅から元箱根行きバスに乗り、山中に入り
バス停「しとどのいわや」から
城山隊道を抜け
20分ほど山道を下った所にあります。


しとど窟は
湯河原が土肥郷とよばれていた頃、
石橋山合戦に敗れた源頼朝が
土肥実平(さねひら)の案内で
土肥郷にあった洞窟に身を潜め、追っ手をかわしたという窟です。
平家方の捜索隊にいた梶原景時は、頼朝が洞窟に
隠れていることを察知しながら見逃します。
これが後に景時が頼朝に仕えるきっかけとなりました。


湯河原駅から「しとどのいわや」で下車、バスの進行方向に向って
右に入ると展望所らしい建物があります。

その下を通りすぎて
城山隊道を抜けます。
抜けた所に広場があり、弘法大師石像群が祀られています。

白い矢印がしとどの窟への入口です。
 広場から九十九折れの急な山道を20分ほど下るとしとどの窟に達します。
現在、道は観光的に整備されていていますが、かなり厳しい坂道です。
夏休み中のことでもあり、もっと多くの観光客があるのかと思いましたが、
2、3人の行楽客とすれ違っただけでした。

ここに安置されている石像はかって山麓に湮滅されていたものを遷座したという。

箱根・伊豆地方は関東山伏発祥の地で、この辺一帯は山伏たちの修行の場でした。
周辺には地蔵信仰・観音信仰・大師信仰の遺蹟が多くあります。

石灯篭や石仏が続く山道を辿ります。

苔むした石仏と道標

石灯篭には寄進者の名が刻まれています。

大岩をまわり込んで上ります。

辺りは湿地帯時々滑りそうになります。

湿り気の多い空気が熱気に押し上げられて霧にかわったようです。

黒い穴のように見えるのが窟です。

山肌をくり抜いたような真っ暗な洞窟です。
高さ5m、巾12・8m、奥行11・3m、頼朝主従が身を潜めるには十分です。
洞窟内や周囲には観音像が六十体余安置されていて大半は無銘ですが、
嘉永6年(1853)などが確認されています。
あたりは静まりかえっていて、岩肌からたえまなくしたたり落ちる
水音だけが聞こえる神秘的な場所です。


流れ落ちる水は小さな滝のようです。
源頼朝としとどの岩屋の由来
源頼朝は十四才の時 父義朝が平治の乱で破れ頼朝は捕われて清盛の母
池の禅師?(尼)のなさけによって一命を助けられ 伊豆の蛭が小島に流され
平兼隆の監視によって二十年間をすごした。治承四年八月望?(以)仁王の平家
討閥の宣旨が全国の源氏に伝えられた。頼朝は機を窺っていたが
八月十六日三島大社の祭典の晩 北条時政らと平兼隆の首を取り 伊豆の源氏に
組する者たちを集め十九日伊豆を出発 土肥実平を道案内で日金山を越え
土肥郷(現湯河原町)に着いた。土肥実平の館において作戦を練り三百騎を以て
館を出発、いよいよ平家追討の旗挙をし石橋山に於て平家の軍勢総大将
大庭景親三千余騎と戦ったが 十対一の多勢に無勢で破れ一旦土肥へ引返し
堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れ 土肥実平の守護とみちびきによって
土肥の椙山に逃げかくれ  実平のお陰で人の知らない谷底しとどの岩屋や
大木の洞(土肥の大杉)にかくれたり 又小道地蔵において僧純海の気転により
床下にかくれ一命を救ってもらった。 この岩屋に五日間かくれていた。
その間 食糧を運んでくれたのは土肥の女房である 源平盛衰記に残っている
漸くして敵も引揚げたので山から降りて来たら 吾が家が盛んに燃えていた 。
この情況を見た実平は頼朝を勇づけるため延年の舞を舞って慰めた 。
あづま鑑にはじょうもうの舞と記されている。 この岩屋は関東大震災のため
入口が崩れたが水は一年中湧いている。 実平のお陰で平氏を滅し 
鎌倉幕府大業成功させた実平の功績を称え土肥会では昭和五十五年湯河原駅前に
実平の銅像を建立した。このたび小沢通夫氏の寄進によって案内板を建立した。
平成八年十二月吉日 桜郷史跡保存会(現地説明板)

神奈川県指定史跡 土肥椙山巌窟(伝源頼朝隠潜地)
昭和三十年十一月一日指定
このあたりは今から七・八百年前には杉林でおおわれていたので、
土肥椙山と呼ばれていた。新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので
当時を想像することができる。「吾妻鏡」には、源頼朝が治承四年(1180)
八月十七日伊豆の蛭島に兵を起し、相模に入って土肥の館に集結、二十三日、
三百の兵で石橋山に陣し、大庭景親三千、伊東祐親三百の兵と戦って敗れ、
二十四日夜明け、椙山に追撃され山中の巌窟に潜んで九死に一生を得、
その夜は箱根権現の永実坊にやどり、再び椙山にもどって三日間椙山の
山中に隠れ、二十八日真鶴から安房に向かったとある。この巌窟は頼朝を救い、
後の歴史を大きく変えることになったところ、と伝えられている。
平成十四年三月 神奈川県教育委員会)(現地説明板)

湯河原町指定文化財 史跡土肥椙山巌窟内観音像群 
昭和五十四年四月一日指定
この観音像群は、立像及び座像六十一体で小松石に彫刻され、
これが安置されている巌窟と共に中世以後、近郷庶民の信仰習俗を知る上に
貴重な資料である。観音像は無銘が多く銘があっても解読不能であるが
中に嘉永6年、元治元年、新しいもので大正十五年のものがあり、これらが近郷の
人々により長期的に奉安され続けて来たこと、ひいては巌窟を含むの地が古くから
観音信仰の聖地であったことを物語るものである。湯河原町教育委員会(現地説明板)

しとどの窟から城山へ(土肥城趾)  
しとどの窟(真鶴町)
『アクセス』
「しとどの窟」JR湯河原駅から元箱根行き箱根登山バスに乗り
椿ラインで北へ30分から35分。
「しとどのいわやバス停」から徒歩25分位。道標が多くあるので
道に迷うことはありませんが、バスの本数が少ないのでご注意下さい。
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社 「「神奈川県の歴史散歩」山川出版社
 
 

 

 
 



 

 

 



 

 

 

 



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湯ヶ原温泉一帯は、源頼朝挙兵時に功績のあった土肥実平の領地で、
湯ヶ原駅前には、実平夫妻の像や館跡の碑が建っています。
城願寺(曹洞宗)は、頼朝を再起に導いた土肥実平とその一族の
菩提寺として建立され、室町時代に中興されたと伝えられています。

湯河原駅前から線路沿いに真鶴方向に進み、JR東海道線のガードを左にくぐり、
そのまま山手へ上って行くと、
城願寺(曹洞宗)が見えてきます。







参道の石段を上ると国の天然記念物に指定されている
巨大なビャクシンが
山門に覆いかぶさるように枝を広げています。

樹齢約800年、幹は大きくねじれ、樹高20m、幹の太さは6m、
根まわりが8mにも及び、土肥実平手植えとも伝えられています
説明板によると、ビャクシン(イブキ)は、

社寺や庭園によく植えられ、樹齢1500年に達するものもあるという。
今なお枝葉を豊かに繁らせたこの古木を見ていると、
平安時代末期のざわめきが聞こえてくるようです。

境内には、石橋山合戦で源頼朝と命運を共にした武者を祀る七騎堂があります。
源頼朝、土肥次郎実平、
岡崎四郎義実、安達九郎盛長、田代冠者信綱、
土屋三郎宗遠、新開次郎忠氏の7人。謡曲「七騎落」の舞台です。

(七騎堂現地説明板より)
「伊豆に流されて二十年間蟄居の生活を送っていた源頼朝が 源氏再興の
旗揚げをしたのが 今から約八百年の昔治承四年八月二十三日である
頼朝は石橋山(神奈川県片浦村)に陣を布き 手勢三百騎で平家方の大庭景親軍
三千騎と対戦したが衆寡敵せず 勿ち潰走して土肥の杉山に逃れ山中の洞窟に
身を隠し或は山中の堂宇に難を避くる等 辛じて大庭軍の目を眩らまし
八月二十八日に岩村の海岸から漁船に乗って房州に落ち延びたのである 
この時同船して落延びたのが頼朝以下主従七騎であったので 世にこれを
頼朝七騎落と呼んでいる 頼朝の決起によって平家が滅び 日本の王朝政治が終りを
告げて武家政治の時代が開かれ ここに日本歴史を転換させた最初の戦が
土肥郷(今の小田原から湯河原まで)を舞台として戦われ しかもこの合戦の
参謀として活躍したのが 当時湯河原町に居館を構え土肥郷を領していた
土肥次郎実平であったのである 吾が郷土の史実研究団体である土肥会に於いては
さきに郷土と縁の深いこの七騎落七武者の像を刻み 土肥次郎実平の菩提寺
城願寺本堂内に安置し 毎年七騎供養祭を執行してきたが 更に此の程この七騎像を
永く意義あらしめるため 境内に一宇の堂を建立しここに安置することになった
七騎堂即ちこれである  昭和49年4月吉日 湯河原町土肥会」

◆土肥次郎実平は中村庄司宗平の次男で、頼朝挙兵に嫡男の遠平ら
中村一族を率いて馳せ参じています。
石橋山敗戦後、頼朝を手引きして山中に逃れ、敵のすきをみて真鶴に脱出し、
手配した小舟で頼朝とともに安房に渡りました。

◆岡崎四郎義実は三浦大介義明の末弟であり中村庄司宗平の娘を妻とし、
石橋山合戦では長男佐奈田与一義忠を失っています。
◆土屋三郎宗遠は中村宗平の子で土肥実平の弟にあたり、
岡崎四郎義実の子義清(与一義忠の弟)を養子にしています。
中村一族と三浦氏の関係が読みとれます。
◆安達九郎盛長は頼朝の乳母比企尼の娘婿。流人時代の頼朝の
側近として仕え、
頼朝挙兵の際、源家累代の家人を招集する
頼朝の使者となり各地を奔走し活躍しました。

◆田代冠者信綱は工藤介(狩野)茂光(もちみつ)の娘が
当時の伊豆の国守藤原為綱との間にもうけた子で、
のち狩野荘内田代郷の領主となり田代を名乗りました。

信綱について源平盛衰記に「心剛に身健やかなりけり」とあり、

祖父の茂光は石橋山合戦で敗戦後、山中をさまよいますが
太っていたため険しい山道を登ることができず自害しました。
そこに通りがかった信綱が祖父の首を掻き落しています。
◆新開次郎忠氏は土肥実平の子新開荒次郎実重の養父といわれ、
源平盛衰記によると新開次郎忠氏、新開荒次郎実重ともに
石橋山合戦に参加しています。

謡曲「七騎落」と城願寺(現地駒札より)
 謡曲「七騎落」は、鎌倉武士社会の忠節と恩愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。
石橋山で敗戦し逃げ落ちる源頼朝主従八騎は、船で房総に向かう事になった。
頼朝は祖父為義・父義朝の先例を思い、八騎の数を忌んで七騎にするよう
土肥実平に命じた。主君の武運を開くために我が子遠平を犠牲にしようと覚悟して
下船させたが、折よく沖合いの和田義盛に救われ、歎喜のあまり酒宴を催して
舞となるという史劇的創作曲である。城願寺は土肥氏の持仏堂跡で、土肥郷主実平、
遠平父子がその城館の上の丘に創建し、大鏗禅師の弟子雲林清深が中興開山で、
足利時代である。土肥一族の墓所があり、七騎堂には七騎の木像が収められている。 
(謡曲史跡保存会)

本堂の左手から墓地に入るとその一角に土肥一族の墓所があり、
宝篋印塔はじめ宝塔・五輪塔・層塔など多種多様な石塔が66基並んでいます。



県指定の史跡「土肥一族の墓所



墓所より眼下を見下ろす
 『アクセス』
「城願寺」神奈川県足柄郡湯河原町城堀252 JR湯河原駅より徒歩12、3分

「五所神社」〒259-0304 神奈川県足柄下郡湯河原町宮下359-1

Tel 0465-62-5869/2955・Fax 0465-62-5869

毎年4月第1日曜日 五所神社からJR湯河原駅前にかけて
頼朝旗挙げ武者行列が催されます。
五所神社は頼朝挙兵の際、土肥実平が戦勝を祈願し、
腰につけていた刀を納めたといわれ、その刀が保存されています。
土肥実平館跡(湯河原)   しとどの窟から城山へ(土肥城趾)  
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社 「神奈川県の歴史散歩」(上)山川出版社 
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房
 日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店
 新定「源平盛衰記」(三)新人物往来社
 

 

 

 

 

 

 
 
 

 


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源頼朝の挙兵は我国中世の幕開けといわれています。
その時、三浦一族とともに頼朝を助けて働いたのは土肥実平です。
実平(さねひら)は相模国の豪族中村庄司宗平の次男で
土肥郷(現、湯河原町・真鶴町一帯)を本拠地としていました。

石橋山合戦で惨敗した頼朝は、平家方大庭景親のきびしい追撃をのがれ、

土肥椙山(すぎやま)から山伝いに箱根権現に至り、そこに匿われその後、
真鶴崎より
安房へと脱出するまでの間、実平の道案内で椙山山中に身を隠しました。
その間、追い詰められて自害まで決意した頼朝を沈着冷静に守りぬいたのが実平でした。

湯河原町観光案内所でいただいたパンフレットには、
JR湯河原駅から
土肥氏の菩提寺城願寺辺りにかけて実平の館があったと書かれています。
湯河原駅前のロータリーには、土肥氏館趾の碑や土肥実平と
実平を支えた妻の銅像が建っています。


土肥氏館趾の碑には、「乾坤一擲
 源頼朝が覇業を天下に成したるは 治承4年(1180)八月その崛起にあたり 
湘西における筥根外輪山南麓の嶺渓土肥椙山々中の巌窟など複離なる地利と此の地の
豪族土肥實平等一族竝びに行實坊・永實坊・僧純海など志を源家に寄せたる人の和と
天運に依る 石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う
「しとどの岩屋」)・小道の地蔵堂・安房を指して解纜した真鶴崎など まさに
千載画期の史跡である 茲に挙兵七百八十年を記念して 土肥氏館阯に碑を
建立するにあたり文を需めらる仍って誌す  昭和三十五年八月二十三日 
神奈川県文化財専門委員・武相学園長石野瑛」と記されています。

乾坤一擲(けんこんいってき)とは、のるかそるかの大勝負をすることで、
行實坊・永實坊とは、頼朝を助けた箱根権現の別当行実とその弟永実です。

『鎌倉幕府開運街道』によると、「純海和尚は石橋山の合戦に敗れた
頼朝主従七騎は、杉山山中をさまよいようやく星ヶ山中腹に純海の
お堂を発見した。堂主の純海和尚は、頼朝一行を堂の床下の穴の中に隠し、
自分は何喰わぬ顔をして夕勤行の座禅をしていた。
そこへ追手の大庭景親の軍勢が来て、「頼朝が隠れているだろう」と
青竹で純海を責めたが、ついに白状せず、息絶えてしまった。
間もなく追手は退散し、あたりは静まり返った。頼朝が
そっと床下から出てみると、哀れな純海の姿があったので、
愛憐の涙をこぼした。その頼朝の涙が純海の喉に落ち、彼は息を吹き返した。
頼朝はやがて鎌倉に政権を握るといち早く純海の忠誠に報いるため、
寺領を与え、お堂を建て、頼朝山小道寺の称を贈ったと伝えられている」とあります。




由来(プレート文面より)
土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。
治承4年(1180)源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、
土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として
多くの功績を残した。公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、
全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。
公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食糧を運び、
消息を伝えるなど、その"心さかさかしき"(源平盛衰記)は
武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。ここに、源頼朝旗揚げより800年を
迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、
土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、
その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものである。
城願寺(土肥実平一族の菩提寺)  
『参考資料』
「鎌倉幕府開運街道」湯河原町観光案内所でいただきました。

 

 

 

 
 

 

 
 





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三浦大介義明の廟所がある満昌寺前の道を向かい側に渡り、
小道に入ると木立に囲まれた鎌倉円覚寺末寺の清雲寺(臨済宗)があります。
この寺は、三浦義継が父為継の冥福を祈って建立したと伝えられ、
本堂裏にある廟所には、中央に三浦為継墓、
父為通、子義継の墓と伝えられる五輪塔が三基あります。

左右の二基は、昭和14年(1939)旧日本軍の施設をつくるために接収され
廃寺となった付近の円通寺跡から和田九十三将のものといわれる
五輪塔とともに移されたものです。左右いずれが為通、義継の墓か不明ですが、
いずれも擬灰岩製で鎌倉時代の様式を示しています。


本堂

本堂裏に墓所があります。


中央が三浦為継、左右が父の為通、子の義継の五輪塔と伝えられ、
ともに鎌倉期のものです。

為通は桓武平氏の流れをくみ、康平六年(1063)源義家より三浦の地を賜り、
衣笠城を築いた武将で、為継、義継も源氏に従い
共に武勇に優れた武将でした。


本尊の滝見観音像(国重文)は三浦氏が宋から
請来したといわれている渡来仏です。もとは円通寺の本尊でしたが、
江戸後期この寺に移され、その後、清雲寺の本尊となりました。
像は中国産の桜桃の寄木造で膝を立てた半跏(はんか)像です。

本堂内滝見観音像脇に安置されているもとの本尊である毘沙門天像は、
運慶派の仏師の手になる鎌倉後期の作とされ、
和田合戦の時に姿を現して敵の矢をうけたことで
「箭請(やうけ)毘沙門天」とよばれています。

和田合戦とは侍所別当和田義盛一族が滅亡した戦いです。
その発端となったのは、建保元年(1213)二月信濃の武士
泉親衡(ちかひら)が二代将軍頼家の遺児の一人千寿を
将軍に擁立しようとして失敗し、この事件に関係した和田義盛の息子
義直・義重、甥和田 胤長らが捕えられました。
上総伊北庄にいた義盛は鎌倉に駆けつけて実朝に懇願すると、
実朝はこれまでの義盛の功に免じて息子二人を釈放しましたが、
甥の胤長は事件の張本人であるとして許されず陸奥へ流罪となりました。

この事件を北条義時は、和田義盛を滅ぼす好機ととらえ、
策謀をめぐらし義盛が謀反を起こすように追い込んでいきました。
建保元年(1213)五月、義時の挑発にのってとうとう和田義盛が幕府、
義時邸を襲いました。ところがこの合戦の前に起請文まで出していた
三浦義村が北条氏に分があるとみて直前になって北条側に寝返ったため、
合戦は二日間で終結し義盛は討たれ一族は壊滅しました。
後年、三浦義村と下総の豪族千葉介胤綱の間に口論があった際、
「三浦の犬は友を喰うぞ。」と吐きすてたという。
これは義村が従兄弟義盛を土壇場で裏切り、
北条方に寝返ったことへの皮肉です。

『アクセス』
「清雲寺」神奈川県横須賀市大矢部5-9 満昌寺の西南の地にあります。
JR横須賀駅より三崎・長井行き衣笠城趾下車 徒歩約17分
満昌寺前から次の信号、自動車修理工場と民家の間の路地をはいります。
『参考資料』
「神奈川県の歴史散歩」(上)山川出版 「神奈川県の地名」平凡社 
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 「三浦一族の史跡道」三浦一族研究会鈴木かほる
 鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社

 

 
 
 



 

 

 
 

 

 

 

 

 



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「衣笠城趾」でバスを下り、バスの進行方向に歩くとやがて見えてくる信号を左折し
しばらく進むと道路沿いに臨済宗義明山満昌寺があります。
満昌寺は、衣笠城で戦死した三浦大介義明を弔うために源頼朝が建立し、
寺号は義明の法号に因み
「満昌寺」と名付けられました。

 

『吾妻鏡』建久5年(11949月29日条によると頼朝は義明を弔うために、
三浦矢部郷内に一堂を建立しようとして、仲原仲業に候補地の検分を命じています。
これが満昌寺の創建の基といわれています。


山門をくぐると本堂左手前に頼朝手植えといわれる大きなツツジの木があります。

本堂には本尊の宝冠釈迦如来坐像が安置されています。

御霊神社
境内裏山には建暦二年(1212)、和田義盛が建立したと伝える御霊(明)神社があり、
堂内は宝物殿も兼ねていて三浦義明の坐像が祀られています。


御霊神社の裏手、瓦塀に囲まれた義明の廟所には、義明の宝篋印塔、
右側の五輪塔が義明の妻の供養塔、左側に板碑が一基あり、
いずれも鎌倉時代のものです。

板碑(いたび)とは中世、主に関東で死者の追善のために立てられた
平らに加工された石で作られた卒塔婆をいいます。

義明の首塚といわれる宝篋印塔

(義明像は境内説明板の写真を撮影しました)

木像三浦義明坐像(国指定重要文化財)は、満昌寺の境内にある
御霊明神社に伝蔵されている。三浦義明は後三年の役で八幡太郎義家に
したがって勇名をはせた為継の孫で、治承四年(1180)頼朝の平家追討の
旗上げのさい源氏側に立ち、同年八月、平家勢の攻撃をうけ衣笠の地で
八十九歳で戦死。その後の三浦一族の繁栄の礎となった。
像は玉眼入り寄せ木造り、八十一・四㎝。両手先及び両足先などは差込み、
彩色は殆ど剥落(はくらく)している。頭頂に冠をのせ、右手に笏(しゃく)を
もって安坐し、腰にはたちを佩(は)く。長い顎ひげをはやした面部は、
気迫のこもった老人の表情をたくみに表出する。

特につりあがった目、頬から口元にかけての写実的な彫技は
この像をいきいきとさせている。制作の時期は鎌倉時代末期と
推定されており、
武人俗躰肖像彫刻として類例まれな等身大の
この像は、極めて貴重な存在であり、
没後祖霊として祀られ
神格化された、やや異質な武人彫像の古例としても重要である。

横須賀市教育委員会  (境内説明板より)
尚、宝物殿拝観には事前の予約が必要です。

寛延二年(1749)三浦氏の子孫三浦志摩守義次が満昌寺を整備し、
寛政十年(1798)には同じく子孫の三浦長門守為積が満昌寺に参詣し、
御霊神社に石灯籠を献じた。(義明廟所内手前の石灯籠)
また三浦氏の子孫には、徳川家康の側室となって紀伊藩祖頼宣、

水戸藩祖頼房を生んだ三浦於万(おまん)がいます。
水戸光圀は於万の孫にあたります。宝治の乱で三浦氏嫡流は滅亡しましたが、
北条氏側について生き残った盛連が宗家の三浦介を継ぎました。
盛連の父佐原十郎義連は三浦義明の末子で、
武勇と思慮を兼ね備えた人物として知られています。
この盛連の子孫が新井城主三浦義同(よしあつ)であり、
その義同の後胤が養珠院於万というわけです。伊豆韮山の代官江川太郎左衛門の

養女となった於万は、三島本陣における宴席で
徳川家康の目にとまり側室となって大奥に入ったという。
来迎寺(三浦大介義明の墓)  
『アクセス』
「満昌寺」神奈川県横須賀市大矢部一丁目 
JR横須賀市駅より三崎又は長井行きバス「衣笠城趾」下車 徒歩約10分
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社 「神奈川県の歴史散歩」(上)山川出版社 
現代語訳「吾妻鏡」(6)吉川弘文館 鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社
 「三浦一族の史跡道」三浦一族研究会鈴木かほる
 

 

 
 
 
 





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衣笠城は三浦一族が本拠をおく三浦半島のほぼ中央部に位置し、
半島各地に一族が支城を築いて防備を固め、
半島全体が城郭の役割を果たしていました。

桓武平氏の流れをくむ村岡平太夫為通が、前九年の役の恩賞として
三浦の地を
与えられて三浦氏を名のり、築いた衣笠城は、
大谷戸川と深山川を
自然の堀として、斜面に土塁、堀切を造り
自然の地形を上手く利用した山城です。
衣笠城を一躍有名にしたのは、治承4年(1180)8月の衣笠合戦です。



頼朝が伊豆で挙兵すると、それに
呼応した三浦一族が衣笠城において、
平氏方の畠山重忠らと戦って敗北し、三浦一族は
海上を安房へと逃れ、
一人城内に残った三浦大介義明が討ち死にしました。

丘陵の頂が本丸跡で、現在の大善寺の地が二の丸跡と伝えられています。

大手口から住宅が立ち並ぶ大手道を上りきった所に不動井戸があり、
その傍の説明板には、
「天平元年(728)行基がこの山に金峯蔵王権現と、

自ら彫刻した不動明王を祀り、その別当として建てられたのが大善寺である。
そのときおはらいをする水に困った行基が、杖で岩を打つと清水がわき出た。
その場所が不動井戸の辺りであるといわれ、居館は水の便のよい
この平場附近にあったのではないか。」と記されています。

不動井戸



不動井戸の右側にある石段を上ると、三浦一族の学問や仏教信仰の
中心的な役割を
果たした大善寺(曹洞宗)があります。
現在の本尊、不動明王は衣笠城主三浦為継が、後三年合戦で
義家に従って出陣した際、敵の矢を除けたという伝承があります。


本堂の左手から裏山に上ると、この城の最期の拠点となる
詰の城(本丸)といわれる平場です。
丘陵の頂には物見岩があり、
この下からは経筒、鏡、刀子などが発見され
平安末期の経塚であると考えられています。


「衣笠城跡 横須賀市指定史跡  昭和四十一年六月十五日 指定
 山麓の右側を流れる大谷戸川と左手の深山川に挟まれて
東に突き出た半島状の丘陵一帯が衣笠城跡である。
源頼義に従って前九年の役に出陣した村岡平太夫為通が戦功によって
三浦の地を与えられ、所領となった三浦の中心地域である要害堅固のこの地に、
両川を自然の堀として、康平年間(一〇五八~一〇六四)に築城されたといわれ、
以後為継・義継・義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地であった。

 治承四年(一一八〇)八月源頼朝の旗揚げに呼応して、
この城に平家側の大軍を迎えての攻防戦は、いわゆる衣笠合戦として名高い。
丘陵状の一番裾が衣笠城の大手口で、ゆるやかな坂を登って滝不動に達する。
居館は水の便のよいこの附近の平場にあったかと推定され、
一段上に不動堂と別当大善寺がある。さらに、その裏山が
この城の最後の拠点となる詰の城であったと伝えられる平場で、
金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。また、その西方の最も高い場所が、
一般に物見岩と呼ばれる大岩があり、その西が急峻な谷になっている。
要害の地形を利用して、一部に土塁や空堀の跡が残っている。

 このように、この地一帯は平安後期から鎌倉前期の山城で、
鎌倉時代の幕開けを物語る貴重な史跡である。

 平成三年三月   横須賀市教育委員会」(現地説明板)

大善寺から平場への途中に立つ三浦同族会建立の「衣笠城趾」の碑

詰の城(本丸)といわれる平場

平場はかなりの広さがあり、桜の木などが植えられています

「衣笠城址案内板」の横に建つ「三浦大介義明八百記念碑」

平場に祀られている御霊神社

説明板横の石段を上ると物見岩といわれる大きな岩があります。
かつてここから周囲が見渡せたそうですが、
今は木々に覆われて鬱蒼としています。

物見岩の横に建つ「衣笠城址」の石碑
物見岩の西は急峻な谷となっていて、
谷の背後にある平作に通じる坂道が搦手といわれています。
衣笠合戦の時、畠山重忠がこの搦手に押し寄せ、守ったのが
義明の孫和田義盛と義明の娘婿の金田頼次でした。


「衣笠城の搦手にあたる大善寺下の坂道を上りつめたところに
土塁の一部が残っている。」と『三浦一族の史跡道』に記されています。




そこで大善寺下の坂道を辿ってみましたが、
土塁跡を記す説明板はどこにもありませんでした。


源氏再興のために忠誠を尽した三浦一族は、鎌倉幕府に取り立てられて
繁栄しますが、
その後、執権北条氏との対立が深まり、鎌倉時代中期、

合戦に備えて山の斜面を削って急な崖にし、平場を廻すなど衣笠城を大改造し、
大矢部城・怒田城・佐原城など周辺の支城を含めた防衛施設を作りました。
宝治元年(1247)、鎌倉で三浦泰村が北条時頼に破れて滅んだあと、
衣笠城はさらに「戦国時代に後北条氏によって整備・拡充された。」と
『源平合戦の虚像を剥ぐ』に
あり、「平成12年には三浦縦貫道路の建設によって、

高さ3m、長さ35mほどあった土塁が崩され、大善寺下に
土塁の一部が残るのみ、
空堀も三浦縦貫道路建設の際消えてしまった。
『三浦一族の史跡道』に記されているように
現在の衣笠城は、当時の城郭とは大分異なっているようです。

衣 笠 合 戦
由比ヶ浜・小坪で戦った三浦義澄、和田義盛から軍の次第を聞いた
衣笠城主の三浦大介義明は「敵はきっと明日にでも押し寄せてくるであろう。
急いで戦の準備をしろ。」と下知しました。
『源平盛衰記』によると、この時、三浦義澄は「怒田(ぬた)城を拠点にすべきだ。」と提案します。
それは、この城(横須賀市吉井台先)の周りが岩山で守りやすく、
一方が海に面した要害堅固な地にあったからです。しかし、
父の義明は
「無名の怒田城よりも名所の衣笠城での決戦」とこれを退けました。
「先祖の聞こゆる館にて討死せむ」と
義明は曾祖父為通が築いたというこの城で死ぬ覚悟でした。

小坪合戦二日後の治承4年(1180)8月26日、畠山重忠、河越重頼、江戸重長、武蔵七党ら
三千余騎が小坪合戦の屈辱と平氏重恩のため、三浦半島に攻め込んだという
知らせが衣笠城に入りました。
この時、三浦軍の兵力は四百五十余騎、兵力に差がありすぎて
野外で戦っても勝ち目はない。義明は一族を集め
軍議を開き衣笠城籠城と決定しました。


大介義明89歳は敵を迎え撃つために次々と指図します。
「射芸の得意な者は弓を二張・三張、矢は四腰・五腰も用意しろ。
敵は大手(正門)、
搦手(裏門)二手に分かれて押し寄せるぞ。
木戸は三重にこしらえよ。大手口の方には道をつくれ、道幅はせいぜい馬二頭が
通れるほどにしろ。道幅を広くすると、敵が一気に押しよせてきて防ぎきれないぞ。
道の片側は沼であるからそのままにし、もう一方には大堀を掘れ、
道を三重に掘りきって、一の堀には広い橋を渡せ、中堀には細橋を架けろ、
堀には逆茂木(さかもぎ)をひき、堀ごとに掻楯(かいだて)を構え、櫓(やぐら)を築け。」

当時、堀は豊かに水をたたえた近世の城郭の堀とは異なり、ほとんどの場合空堀です。
逆茂木とはトゲのある木の枝を垣のように結い、搔楯は楯を垣根のように並べて、
いずれも敵の進路を遮断するために築かれたバリケード。この時期の城郭は
歩兵集団でなく騎馬隊の攻撃を防ぐために築かれた軍事施設です。

「馬は逆茂木、掻楯や段差のある堀を越えることができない。そうしておいて
敵が最初の橋を渡って細橋まで進入して来たら馬の太腹を狙って射よ。馬を射れば

武者は落馬し沼や堀に落ちるであろう。それを狙って竹やぶに隠れていた者が
出てきて杖で打ち殺せ。櫓に上っている者は矢を射よ。」というのです。

大手門の木戸口を三浦大介義明の次男義澄と末子佐原十郎義連が守り、
城の西側にある搦手にも三重の木戸が作られました。そこを防衛したのが
義明の孫和田義盛、義明の娘婿金田頼次でした。中陣は義明の息子長江義景と
大多和義久が担当し、衣笠籠城の支度はすべて整えられました。

『吾妻鏡』によると、8月26日の早朝、大手口から河越重頼、
搦手からは畠山重忠らあわせて三千騎が喚き叫んで押しよせました。
攻防一日、三浦軍は何とか城を守りぬいきましたが、二日前に小坪合戦があり、
今日は終日戦い続け、兵たちは疲れきり矢も尽きました。
いよいよ明日は討死と誰もが覚悟をきめたとき、

大介義明が一族を集めて口を開きました。

「私は源家累代の家人として、幸いにもその貴種再興の時にめぐりあうことができた。
こんなに喜ばしいことがあるだろうか。生きながらにしてすでに八十有余年。
これから先を数えても幾ばくもない。今は私の老いた命を頼朝に捧げ、

子孫の手柄にしたいと思う。汝らはすぐに退却し、頼朝の安否を
おたずね申しあげるように。私は一人この城に残り、軍勢が多くいるように
河越重頼に見せてやろう。」みずからの老齢を理由に自分一人を城に残して逃げよ。
生死も定かでない
頼朝の生存を信じ、落ちのびて頼朝の再起に全力をつくせ。」という。

義明の言葉に子や孫は涙を流してとりみだしましたが、
やむなく命令に従って城を出て、闇にまぎれて久里浜から安房へと船出し、
海上で頼朝らと合流、房総半島に上陸しました。
大介義明は一人城に留まり、翌日城と運命を共にしています。

ところが、衣笠合戦について『源平盛衰記』には
『吾妻鏡』とはかなり違った内容の話が見えます。
大介義明が一族をさとし、城を脱出させたところまでは同じですが、
「城で討ち死にするという義明を郎党がむりやり手輿に乗せて連れ出したが、
一里ほど行ったところで敵が近づいてきた。すると郎党たちは怖ろしくなり輿を捨てて、
散り散りに逃げ出してしまった。敵の下僕たちは、義明を輿から引き出して
太刀、鎧、直垂にいたるまで身ぐるみ剥ぎ取り裸にしてしまった。
せめて義明は外孫の畠山重忠に討たれて手柄を立てさせてやりたいと思ったが、
それもかなわず江戸重頼に斬られ、惨めな最期を遂げた。」と記されています。
衣笠城址(1)小坪合戦  
三浦義明の墓が近くの満昌寺にあります。
鎌倉市材木座の来迎寺には、義明と小坪合戦で戦死した
その孫の多々良重春の墓があります。
満昌寺(三浦大介義明の墓)   来迎寺(三浦大介義明の墓)  
『アクセス』
「衣笠城址」横須賀市衣笠町756(大善寺境内)
衣笠城址」バス停から横断歩道を渡り、道標に従って左折し、
太田和(おおたわ)街道入口手前の横断歩道を渡り、山科台方面に少し進み、
案内板を右折すると
城の大手口(正面)にでます。
そこから坂を上り、「衣笠城物見岩」までバス停から約35分
『参考資料』
新定「源平盛衰記」(3)新人物往来社 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館

 川合康「源平合戦の虚像を剥ぐ」講談社 奥富敬之・奥富雅子「鎌倉古戦場を歩く」新人物往来社
 三浦一族研究会鈴木かおる「三浦一族の史跡道」横須賀市
「神奈川県の地名」平凡社 「神奈川県の歴史散歩(上)」山川
出版社
「検証・日本史の舞台」東京堂出版 「平家物語図典」小学館



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衣笠城は三浦為通(ためみち)が源頼義に従った前九年合戦の功により、
三浦の地を領して三浦氏と称し、康平6年(1063)に築いたとされる山城です。
その子為継、孫義継は、ともに頼義・八幡太郎義家に臣従し、
奥州へ出陣し勇名を馳せました。

衣笠城址バス停から横断歩道を渡り、道標に従って左折し、
太田和街道入口手前の横断歩道を渡り、山科台方面に少し進み、
案内板を右折すると衣笠城址への上り口、
城の大手口(正面)にでます。
ここから坂を上ります。

バス停から横断歩道を渡ると衣笠城趾の道しるべがあります

石垣は割と遠くからでも見えるので、これを目標にして進みます

この坂道は、衣笠合戦の時に武蔵の武士団が押し寄せた大手道です。

大手口の一角に衣笠城追手口遺址」と刻まれた碑が建っています。
上る時には、この碑を見逃しましたが、本丸跡で出会った全国各地の
城址を訪ね歩いているという方に教えていただき帰りに撮影しました。

大手道傍のお地蔵さん

小坪合戦
治承4年(1180)8月、源頼朝が伊豆で挙兵し、石橋山に陣を布くと、
源氏にゆかりの深い三浦大介義明は三浦義澄ら300余騎を
加勢に向わせましたが、大雨による増水のため
酒匂
(さかわ)川を渡れず頼朝軍と合流できませんでした。
その頃、頼朝は大庭景親(かげちか)の軍勢に敗れ、真鶴から海路
房総半島に向かっていました。ところが三浦軍は
「頼朝軍敗北、前武衛頼朝殿の存否も確かならず。」との悲報を受け、
やむなく本拠地に引き上げました。その途中、
鎌倉由比が浜で平家方の畠山重忠一族と遭遇しました。

三浦軍が目の前を通り過ぎるのを黙って見ているわけにはいかない。
平家に知られたら困ったことになると、重忠は三浦軍の背後から攻めました。
重忠は父重能が京都大番中であったので、この時父に代わって弱冠17歳で
一族を率いて、遅れて石橋山に向かう途中でした。
京都大番役は、諸国の武士が三年交代で京都に滞在し、宮廷、京都警固の役に
あたったものをいいいますが、危急の時には人質にもなります。

畠山重忠は「今、我が父重能、京都に当参して平氏の六波羅邸に在り。されば、
源氏に方人(かとうど)する貴軍を眼前にして、なすことなくんば、平家の聞こえ、
父が安否、ともにもって憚りあり。なれば、そのためになせし一反の攻め、
すでに後聞に充分なり。しかるを、まだ戦わんとするや否や、
子細のほど承るべし。」と和睦を申し入れました。
三浦軍の和田義盛は「畠山殿は三浦大介義明には娘婿の子なり。
某はまた大介の孫なり。母方、父方の別はあれども、
大介の孫たるにおいては別の儀なし。
もしこのまま敵対に及ばゝ、ともにもって後の悔いに及ぶべし」と
和睦交渉はまとまり双方通過しようとしました。

畠山重忠は三浦義明の娘が重能に嫁いで生んだ子です。
和田義盛は、三浦義明の長男義宗の子、どちらも大介義明の孫です。
義盛は義明の長男義宗の嫡子ですが、
義宗が安房国長狭氏との合戦の際、討死にしたため叔父義澄が嫡流となり、
義盛は衣笠城の東南、現在の三浦市初声(はつせ)和田を本拠地としていました。

しかしこの時、思いがけない手違いが起こりました。
和田義盛から危急の知らせをうけた義盛の弟和田義茂が和睦を知らずに
杉本城(現・鎌倉市杉本寺)から畠山勢に突っ込みました。
「三浦が者共にたばかりにけり。こは心安からず。」と畠山重忠は激怒して
合戦となりこの時、三浦軍は4名が犠牲となり、畠山勢は50名余が討死しました。
畠山重忠は一旦退き、三浦軍はそのまま衣笠城へ戻りましたが、
重忠はじめ平家方が衣笠城へ押し寄せてくるのは時間の問題でした。

 衣笠城址(2) 衣笠合戦 
小坪合戦の地(由比ヶ浜)  
『アクセス』
「衣笠城址」神奈川県横須賀市衣笠町756 
JR横須賀よりバス三崎行または長井行「衣笠城址」下車
大手口まで徒歩約10分
『参考資料』
奥富敬之・奥富雅子「鎌倉古戦場を歩く」新人物往来社 「三浦一族の史跡道」横須賀市
新定「源平盛衰記」(三)新人物往来社 
佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房 野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成 「平家物語」(中)新潮社
「木曽義仲のすべて」新人物往来社 新訂「官職要解」講談社学術文庫
 「神奈川県の歴史散歩」(上)山川出版社 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 



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