平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 





平重衡(清盛の五男)は、各地の源平合戦において最前線で指揮をとり、
南都攻撃の際には、大将軍として出陣し興福寺・東大寺を焼き討ちにしました。
一の谷合戦では捕虜として捕えられ、八条堀川の御堂で
法然上人によって戒を授けられました。
これに基づいて、2011年、御堂があった地に
「平重衡 受戒之地」の石碑が建てられました。

八条堀川の御堂は、八条南、堀川東にあった
中の御門中納言藤原家成(鳥羽法皇の寵臣)の邸内の御堂です。
家成は忠盛・清盛と親交が深く、若い頃の清盛が家成の邸内に
頻繁に出入りしていたことが『平家物語』に見えます。

平家一門と藤原家成の家系とは深い姻戚関係にあり、
忠盛の後妻の池ノ禅尼が家成のいとこにあたり、
清盛の嫡男重盛は、家成の三男で後白河法皇の近臣の藤原成親の妹
経子を正妻にし、二人の間には、清経・有盛・師盛・忠房がいます。
さらに重盛の嫡男維盛と清経の妻は、成親の娘であり、
清盛の弟の教盛の娘は、成親の嫡男成経の妻です。
このように両家は、二重三重の姻戚関係によって結ばれていました。


南北に走る油小路通と東西に走る八条通の交差点辺に位置する重衡受戒の地

石碑は公益社南ブライトホールの敷地内に建っています。



このあたりは、昔「八条堀川の御堂」と呼ばれた所で、法然上人が
平重衡に浄土教の至極を授けられた地である。と刻まれています。


八条油小路交差点

平家一門の首が大路を渡された翌日、捕虜となった重衡は、
前後の簾を巻き上げた牛車に乗せられ、隋兵三十余騎を率いた
土肥実平に警護されて京に入りました。人目にさらされながら六条大路を、
刑場がある東の河原まで引きまわされ、そこから八条まで引きかえし、
八条堀川の御堂に入れられて土肥実平の監視下に置かれました。
土肥実平は、土肥郷(湯ヶ原)を領地とし、いち早く頼朝の挙兵に参加し、
石橋山の敗戦の際には、石橋山背後の山中を逃げまわる頼朝の危機を救い、
真鶴から小舟で安房(房総半島)へと脱出させています。

「お気の毒なことよ。重衡殿は、清盛入道にも、母の二位殿にもお気に入りの子で
いらっしゃったのに、いかなる罪のむくいであろうか。」と京の人々は同情しつつ、
「きっとこれは、東大寺の大仏を焼いた罰に違いない。」と囁きあいました。
一の谷から屋島に敗走した平家一門のもとに、「三種の神器を都へ返還すれば、
重衡を屋島に帰そう。」という法皇からの院宣が届き、
一門の人々は、どのように返事するかについて協議しました。
重衡の母、・
二位の尼は、宗盛(清盛の三男)らに涙ながらに
「私に免じて和平を受け入れてほしい。」と訴えますが、
人々は涙を浮かべながら目をそらすだけです。

新中納言知盛(清盛の四男)が「三種の神器を都へお返ししても、
重衡が帰ってくる保障はない。」と発言すると、宗盛はじめ一同もそれに賛成し、
院宣の返書には、次のように書きました。
「一の谷の戦いで、直前に法皇からの使者があり、和平の使者を送るから、
2月8日までいっさい戦闘を行ってはならない。このことは源氏方にも
よくいいつけてあるから。と告げられていたので、合戦はないものと安心し
法皇の使者をお待ちしていました。ところが突然2月7日に
源氏軍の総攻撃を受けて合戦となり平家は大敗しました。
平家は代々朝敵を滅ぼしてきた家柄ですが、頼朝は平治の乱で父義朝が
謀反を起こした時、殺されるところを、清盛の慈悲によって生き永らえた者です。
三種の神器は、高倉天皇が安徳天皇にお譲りになられたもので、
これをお返しすると、安徳天皇の正統性が主張できなくなります。
返すのであれば、宗盛に讃岐国を賜ること、源平相並んで召し使われたい。」

それでは頼朝が承諾しないだろうと、法皇や貴族たちは判断し、
この交渉は決裂してしまいました。この返書からも、平家一門が一の谷の
騙し討ちを強く非難し、法皇に対して不信感を抱いていたことがわかります。

鎌倉に下されることになった重衡は、出家したいと申し出ますが、法皇からは、
「それはならぬ。すべては頼朝に会った後の事である。」との返答がありました。
「それならば、長年師と仰ぐ黒谷の法然上人に対面して後世のことを
頼みたいと思うがどうか。」と土肥実平に尋ねると
「その方ならば。」と許され、八条堀川へお招きしました。

重衡は法然に向かい、涙ながらに己の罪を懺悔し、このような悪人でも
救われる方法があるでしょうかと問うと、どんな悪人でも改心すれば救われ、
ひたすら南無阿弥陀仏を称えれば、必ず極楽往生できる。と教え、
出家せぬまま戒律を授けられたいという重衡の願いに、
額に剃刀をあてて、髪を剃る真似をして戒を授けました。
重衡は上人へのお布施に硯石を贈り、この硯をいつも
お目に留まるところに置かれて自分の冥福を祈ってほしいと述べると、
上人は硯を懐に入れて、泣き声を忍ばせてお帰りになりました。

この硯石は、入道相国清盛が宋の皇帝に大量の砂金をおくり、
その返礼として贈られてきたもので、銘を「松陰(まつかげ)」といいました。

重衡生捕の事(平重衡とらわれの松跡) 
『アクセス』
「重衡受戒の地の碑」京都市南区西九条池ノ内町
八条油小路交差点西南 
JR京都駅八条口下車八条通りを西へ徒歩7、8分
『参考資料』
「平家物語」(上)(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(上)(下)新潮社
現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書 

高橋昌明「平家の群像」岩波新書 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館
安田元久「源頼朝」吉川弘文館 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館

 



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寿永3年(1184年)2月7日に一の谷で討たれた平家一門の首級は、
5日後、都に運ばれて鴨川の六条河原で朝廷の役人に引き渡されました。
主だった平家方の戦死者は、越前三位通盛、薩摩守忠度、若狭守経俊、
武蔵守知章、大夫敦盛、業盛、但馬前司経正、能登守教経、備中守師盛、
越中前司盛俊以上十人、それに本三位中将重衡が生け捕りにされました。

六条河原は、現在の五条大橋より南、正面橋辺りまでの鴨川の河原をいい、
罪人やその首級が都に入る際には、検非違使が六条河原に出向き、
武将の手より身柄や首を受け取るのが通例とされました。
処刑場としても使われ、保元の乱では、平忠正(清盛の叔父)が、
平治の乱では、公卿であった藤原信頼もこの河原で処刑されました。
平安時代、鴨川はひとたび大雨ともなれば度々氾濫しましたが、
普段は流れが浅く中州もあり、当時よく利用されていた渋谷越が
六条河原に通じ、葬送の地の鳥辺野が近くにあったことも関連し、
人目につきやすい公開の処刑場として適当な場所だったと思われます。


五条大橋の畔にある京阪電車清水五条駅

清水五条駅の南側から六条河原へ下りて撮影しました。

京に残っていた一門の縁者は、生きた心地もしませんでした。中でも、
大覚寺の北辺に隠れ住んでいた小松三位中将維盛(重盛の長男)の北の方は、
「一の谷合戦で一門の人々が多く討たれ、三位の中将という人が一人、
捕虜になったらしい」という噂を聞き、生け捕られたのは
夫に違いないと思い伏せっていました。女房が「三位中将というのは、
本三位中将重衡(清盛の五男)様のことのようです。」と伝えると
「それでは夫は討たれた首の中にいるのではないか。」とますます不安になります。
維盛から六代御前を託されていた斎藤五、斎藤六が、こっそり様子を探りに行き、
主人の首はないと見定めて大切な情報を仕入れてきました。
斎藤兄弟は、北陸の篠原合戦で、白髪を染めて義仲軍と戦い、
戦死した斎藤実盛の息子たちです。
「小松殿の公達は、三草山で義経軍に敗れ、船で屋島へ逃れたそうですが、
ご兄弟から一人離れた師盛様だけが一の谷で戦死され、維盛様はご病気で、
今度の合戦には参加されてはいない。と噂する者がいました。」と北の方に報告すると
「それは、きっと私たちを思ってのご病気なのでしょう。」と涙ぐんでしまいます。
維盛の妻は、鹿ケ谷事件の首謀者、藤原成親の娘で、
 二人の間には、六代御前という若君と夜叉御前という姫君がいました。

一方、屋島にいた維盛も家族の身を案じていました。
当時、屋島では、敗戦後の処理に追われていたので、
維盛は都への使いを出しにくかったと思われますが、妻と子供たちそれぞれに、
無事を知らせる手紙を書き、そっと使いの侍に持たせました。
妻には、「幼い子供達を伴われて、さぞや辛いことでしょう。
早く屋島にお迎えしたいとも思うのですが、そなた達には、ここはなお
つらい場所になると思うので、そうもならず…」などと細々と書いて、
 ♪いづくとも知らぬ逢瀬の藻塩草書き置く跡を形見とも見よ
(いつどこでまた逢えることができるかわからない、藻塩草のようにあてどなく漂う
私が書き置いたこの手紙を形見と思ってほしい。)という歌を添え、
幼い子供たちには、それぞれに「すぐ迎えに行くから。」と記します。
「どうして今まで迎えては下さらなかったのですか、早く迎えに来てください。
お父上が恋しい、恋しい。」という幼い子供達からの返事を読んだ維盛は、
深い悲しみに襲われ、俗世を捨てて出家しようという気持ちもくじけてしまい、
都に上り、妻子と会ってから自害しよう。と考えるようになりました。

源範頼・義経は、「平家一門の首は、大路を渡し獄門の樹に掛けるべし」と
後白河法皇に申入れましたが、摂政以下、五人の公卿たちは、
「昔から、公卿、大臣の位にのぼった者を都大路に引きまわした例がありません。
特に安徳天皇の外戚として朝廷に仕え、いずれも名のきこえた公達の首を獄門に
かけていいものであろうか。」と反対し、一旦、獄門にはかけないと決定しました。
しかし「平家の者たちは、保元の乱では、祖父為義の仇、
平治の乱では父義朝の敵にあたります。その首を獄門にかけないのであれば、
今後は朝敵と戦えない。」と範頼・義経が法皇に激しく詰め寄り、
彼らに押し切られるかたちで、仕方なく都大路を渡すことにしました。
首にはそれぞれの名前が記された赤札が付けられ、
長い槍刀に突き刺され、六条河原から東洞院の大路を北に渡され、
獄門の樹にかけられました。半年前までは、和歌の上手、
琵琶、笛の名手として都人にその名もよく知られた公達たち、
首渡しを一目見ようと集まった群衆は、その変わり果てた姿を見て、
憐み、悲しみに沈みました。

平安京の獄には、東獄と西獄があり、獄の入口の門のことを獄門といいました。
この時、平家一門の首は、今の京都府庁の西側にあった東獄に晒されました。
辺りを丁子風呂町とよび、中世までは獄門町といいました。
『アクセス』
「五条大橋」京阪電車五条清水駅下車すぐ 市バス河原町五条下車東へ徒歩約2分
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
「京都市の地名」平凡社「平安京の風景」文英堂 現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館
「京都学への招待」角川書店 上宇都ゆりほ「源平の武将歌人」笠間書院 

 



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五条大橋袂の植え込みにある「扇塚」は、
「扇発祥の地」を記念して建立されたものです。
五条橋西詰には、かつて御影堂と呼ばれた新善光寺がありました。
周辺には塔頭が多く存在し、寺僧たちが副業として
「御影堂扇」を作り販売していました。


五条大橋の西北詰にある扇塚です。

五条大橋の西側から撮影
扇塚の記 
扇 は平安時代 の初期この地に初めて作られたものである

ここ五條大橋 の畔は時宗御影堂 の遺跡であり 平敦盛 没後その室
本寺祐寛上人によって得度し蓮華院 尼と称し
寺僧と共に扇を作ったと言い伝えられている

この由緒により扇工この地に集まり永く扇の名産地として
広く海外にまでも喧伝されるに至った
いまこの由来を記してこれを顕彰する

昭和三十五年三月十五日 京都市長 高山 義三

五条大橋の上から扇塚を見ると


江戸時代初期に著された京都観光案内書『京羽二重』によると、
平安時代末に平敦盛が戦死した後、敦盛の妻が出家し御影堂に入り、 
寺僧と共に作りはじめた衵(あこめ)扇(貴婦人の正装用の檜扇)が、
宮中にも献上されて「御影堂扇」として有名になり、その後、
この界隈に多くの扇工が集まり扇子の製作を行った。と紹介されています。
江戸時代後期に刊行された『拾遺都名所図会』「御影堂扇折」の挿絵には、
女性らが扇を作り、僧侶が武士を相手に商談する様子が描かれています

『拾遺都名所図会』巻之一平安城御影堂扇折の図
 国際日本文化センターデーターベースより転載。

 新善光寺は、『山城名所誌』によれば、「嵯峨天皇の檀林皇后が造営、
初めは真言宗で東洞院三本木にあり、善光寺(長野市)の本尊を模した像と
弘法大師自作の像を安置し、御影堂と呼ばれていましたが、再興の王阿上人が、
時宗に帰依し一遍上人を招いて念仏三昧の道場にした。」と記されています。
寺地は転々とし、応永二十八年(1421)、六条佐女牛(さめうし)に移され、
天正十五年豊臣秀吉の命で今の地に移され、第二次世界大戦中の
五条通り拡張に伴い、滋賀県長浜市に移転しました。
五条通りの南側に御影堂町が残っているのはその名残です。

 『アクセス』
「扇塚」五条大橋西詰北側
 「新善光寺跡」京都市下京区御影堂町(五条大橋西詰)
市バス「河原町五条」下車東へ徒歩約2
京阪電車「清水五条駅」下車西へ徒歩約2分  
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 阿部泉「京都名所図会」つくばね会 
京都史跡見学会
「京都21コース洛中散歩」山川出版社

 



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晩年の芭蕉は旅から旅への日をおくり、歳月の大半は旅の空の下にありました。
『平家物語』をこよなく愛し、『奥の細道』の旅では、義経が自害した場所、
奥州平泉にある衣川の高館を訪れて、
♪夏草や兵どもが夢の跡 と吟じ、
多太神社(石川県小松市)では、斉藤実盛がつけていた兜を拝観し
♪むざんやな甲の下のきりぎりす と詠んでいます。
斉藤実盛は、幼い頃に父を討たれた義仲を木曽へ逃がしてくれた
恩人でしたが、皮肉なことに北陸の篠原合戦では、
義仲と敵味方にわかれて戦うことになります。
実盛は老武者と見くびられるのは悔しいと、
髪を黒く染めて戦いに臨みましたが、奮戦むなしく討取られます。

吉野、奈良と『笈の小文』の旅を続けた芭蕉と弟子の杜国(とこく)は、
享保五年(1688)4月、大坂に出て尼崎から船で兵庫の津(神戸市)へ行き、
須磨・明石へと向かいます。ころは旧暦の4月20日、
須磨寺の境内には木々がうっそうと生繁り、そのうす暗い木立ちの中に佇むと、
敦盛の吹く青葉の笛の音がどこからともなく聞こえてくるようだと
 敦盛を偲ぶ句を作っています。

須磨寺書院前の庭園にたつ芭蕉句碑
♪須磨寺やふかぬ笛きく木下闇(こしたやみ) はせを(芭蕉の俳号)
昭和43年佐野千遊が建て、文字は橋間石の筆跡。


寺では、敦盛がいつも持ち歩いていた愛用の青葉の笛が公開されていましたが、
芭蕉は十疋(ひき)の料金が高すぎて、拝観はしなかった。と
伊賀上野の門人猿雖(えんすい)宛の手紙に書いています。
当時、二八そばが十六文くらいですから、笛の拝観料十疋(百文)は、
現在の価格に直すと三千円と思われます。

一の谷の古戦場を歩いた芭蕉は、「道案内の少年を供として、鉄拐山へ続く
険しい山道を何度も滑り落ちそうになりながら、ようやく上りつくことができた。
須磨海岸を見下ろすと、一の谷内裏の屋敷跡がすぐ下に見え、当時の
戦いのありさまが思い起こされ、様々な面影が次から次へと浮かんでくる。
安徳天皇を二位殿(清盛の妻)が袖の中に横抱きにして船に移し、
宝剣・内侍所をあわただしく船に運び入れ、建礼門院がお召し物の裾に
足がからまりながら転ぶように屋形船に入られる様子。
あるいは女官がいろいろな道具類を持ち運びかねている状況などが、
鮮やかによみがえってくる。」と『笈の小文』で感動を語っています。
この文章から敗戦の際の女性たちの混乱ぶりが目に見えるようですが、
平家物語の一ノ谷合戦には、このような描写はないので、
古戦場を見下ろしながら、芭蕉が想像した情景を記したものと思われます。

須磨海岸近くにある敦盛の墓を見て、「中でも敦盛の石塔には
涙をとどめることができない。磯近く道ばたの、松風がさびしく吹く木立の陰に、
古びた姿で石塔が残っている。
年齢もわずか十六歳(平家物語では十七歳)で戦場に出て、熊谷と組討ちをして
はなばなしい武名を残した。」と涙を流し、しばし感慨にふけっています。


山陽電鉄須磨浦公園駅を出て左へ行くと一の谷古戦場、
右は鉢伏山へ向かうハイキングコースが続いています。
右へ行き敦盛橋から遊歩道を進むと、

所々木立ちがとぎれ、木陰から須磨の海が見え隠れします。

遊歩道沿いに、♪蝸牛角ふりわけよ 須磨明石
(須磨と明石は接しているので国境が分かりにくい。
どちらが須磨か明石か蝸牛に角で示せ)と刻んだ句碑があります。


これは中国の蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)の争い
(つまらない戦いで多くの命を失ったということ)を念頭において、
芭蕉が摂津と播磨の国境にあった境川のほとりで作った句です。


のちに須磨浦公園駅から国道2号線(西国街道)を西に約 500m行った
境川岸に句碑がたてられましたが、
いつしかなくなり、昭和十一年に須磨浦公園に再建されました。
境川は、鉢伏山から流れ出て南面の谷を南流し海に注ぐ
全長800mほどの小さな河川です。
摂津と播磨の国境となったことから名づけられ、
現在はこの川が神戸市須磨区と垂水区の境となっています。

明石では、芭蕉は人丸塚に詣でています。人丸塚は万葉歌人の
柿本人麻呂の墓と伝えられ、今も塚は明石公園城跡に残っています。

柿本神社山門

天文科学館の北には、かつて人丸塚の近くにあった柿本神社があります。
社は江戸時代初期に明石城を築く際、人丸山の現在地に移されました。
柿本神社の長い石段を上ると目の前に山門が現れます。
その門前の展望広場の一角に、
♪蛸壺や はかなき夢を  夏の月
 (夏の月が照る海の中、朝になれば引きあげられる身とも知らず、
蛸は壺の中ではかない夢を見ているのであろうか。)と
芭蕉が詠んだ蛸壺塚がたっています。
「たこ」は明石の名産で、素焼きの壺に穴を開け
綱を通して海底に沈めておいて、翌朝引き上げます。


 蛸壺塚
 松尾芭蕉(1644~94)旅を栖とした芭蕉にとって明石は西の果てであった。
この句碑は芭蕉の七十五回忌にあたる明和五年(1768)青蘿が創建、
崩壊のため玉屑が復興さらに魯十が再建した。明石俳句会(説明碑より) 


現在、展望広場には、天文科学館のドームが迫り、明石海峡には、
明石大橋が架けられ、人麻呂・芭蕉時代の風情とは異なりますが、
目の前に明石海峡の大パノラマが広がっています。


芭蕉が訪れた最北の地は『奥の細道』の象潟、
『笈の小文』の明石は最西端の町です。
遠く西国・九州への旅を芭蕉は夢見ていましたが、
旅の途中、大坂で病に倒れ51歳の生涯を閉じました。
『平家物語』のなかでも特に木曽義仲に思いをよせた芭蕉の遺骸は、
遺言にしたがって義仲寺(ぎちゅうじ)の義仲の墓の傍に葬られ、
のちに芭蕉の意志を継いだ弟子たちが西への旅に出発しています。
須磨寺(源平ゆかりの地)  

義仲寺1(木曽義仲と芭蕉)  
『アクセス』
「須磨寺」山陽電鉄 「須磨寺駅前」 徒歩約5分 JR 「須磨駅」 徒歩約12分
「須磨浦公園内芭蕉の句碑」山陽電鉄「須磨浦公園」駅下車西へ徒歩約5分
須磨浦公園駅から鉢伏山への遊歩道を上ると、歩道の左側に与謝蕪村の句碑、
右側に芭蕉の句碑があります。
「柿本神社」 兵庫県明石市人丸町1-26  山陽電鉄「人丸前駅」下車、北西へ徒歩約5分
『参考資料』

「兵庫県の地名」(Ⅰ)(Ⅱ)平凡社 「兵庫の街道いまむかし」神戸新聞総合出版センター
「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター 新編日本古典文学全集「松尾芭蕉集」(2)小学館 
魚住孝至「芭蕉 最後の一句」筑摩書房 田中善信「芭蕉」中公新書 「松尾芭蕉」桜楓社

 

  

 

 



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