平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




比企一族の墓は鎌倉の妙本寺にありますが、比企郡川島町の金剛寺にも後世の一族の墓があります。

比企尼は頼朝が伊豆に流罪となり、孤立無援の少年を二十年もの長い間、
陰になり日向になり、援助の手を差しのべた頼朝の乳母です。比企尼の甥で、
家督を継いだ能員((よしかず)も、頼朝の鎌倉幕府成立に功績を挙げ、
娘の若狭局を二代将軍頼家の側室にするなど、一族は頼家の後ろ盾となりましたが、
頼家が重病に陥るとその弟の実朝を担ごうとした北条氏との対立が深まり、
建仁2年(1203)の比企の乱で能員は殺され、能員の嫡男余一兵衛尉は
女人姿で逃れる途中討たれ、四郎宗員は自害し、一族は滅ぼされました。
しかし、その後の一族の弾圧にもかかわらず生き残る者がいました。

能員の末息で鎌倉妙本寺を開いた比企大学三郎能本(よしもと)と
将軍頼経の妻竹之御所(能員の孫)それに四郎宗員の息の員茂(寺泊兵衛)です。
岩殿観音(東松山市大字岩殿)に逃げのびた母親が民家において
員茂(かずしげ)を生み、岩殿山観音別当が養育しました。
16歳の時に伯父の東寺の円顕を頼って上洛し、能本の尽力により、
後鳥羽天皇の第三皇子順徳天皇を警護する北面武士となりました。

順徳天皇が父の鎌倉幕府打倒計画 (承久の乱)に参画し
佐渡に流されると、それに従って越後国寺泊に居住し、天皇崩御の後、
息子の比企員長(寺泊小太郎)を連れて比企郡に戻ったとされています。
当時、鎌倉四代将軍は頼経でした。その妻竹之御所の母は、能員の娘
若狭局でしたから、比企、高麗、吉見の三郡は竹之御所の領地となり、
員長は中山村に居住したという。

安田元久氏は、「13C始めの頃までの比企郡はかなり狭い地域であり、
現在の比企郡川島町と東松山市の区域だったとし、比企掃部允や
比企尼が帰住したと
伝えられる中山郷については、現在も
川島町西部の越辺川の左岸地区に中山の
地名が残るので、
その地域であったと推定されると述べておられます。」(『武蔵の武士団』)
ということは、平治の乱後、比企尼は比企郡川島町中山に戻り、
ここから伊豆の頼朝に食料や衣料などを届けたということになります。

JR川越駅前からバスで金剛寺へ



上中山バス停







比企一族は金剛寺の付近一帯に館を構えていたと考えられています。
『金剛寺略縁起』によると、金剛寺は天正年間(1573~1593)に
比企左馬介則員(のりかず)が中興したと伝えています。

本堂 
本尊の
阿弥陀如来像は鎌倉時代の作(町指定有形文化財)
「願主比企左馬助藤宗則」の銘があります。

金剛寺本堂新築記念碑



大日堂・比企氏墓地・鐘楼堂への案内



大日堂には、比企一族の位牌が納められ、その裏には江戸時代の
比企家二十代目則員(のりかず)の墓から現代に続く一族の墓所があります。
大日堂は則員の子で徳川家の家臣となっていた義久が建てたとされ、
一族の位牌が納められています。

則員は槍の名手として知られ、武蔵杉山城主上田上野介に仕えますが、
杉山城落城後、比企郡に蟄居したいましたが、
その名が徳川家康の次男結城秀康の耳に達して召しだされました。













比企ヶ谷妙本寺(1)比企尼・比企能員邸跡  

『アクセス』

「金剛寺」埼玉県比企郡川島町中山1198番
JR川越駅前から八幡団地行きまたは東松山駅行きバスに乗車約40分
「上中山」バス停下車北東600m
『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書、平成8年
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年 
「姓氏家系大辞典」角川書店、昭和38年








 



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東松山市の北部、滑川町にある武藏丘陵森林公園の東方に比企氏の史跡があります。





バス停森林公園南口

森林公園南口から東へ徒歩約55分、「比丘尼(びくに)山」とよばれる美しい丘があります。
比企遠宗の妻比企局が夫の死後、尼となってここに庵を結び
大谷山寿昌寺(じゅしょうじ)を創立し、
源頼家の死後、比企能員(よしかず)の娘若狭局(頼家の側室)が、
この地に移り住み草庵を結んだとされています。


その途中に「上郷集会所前」のバス停があります。

ここから3分ほど歩くと、扇谷山宗悟寺(曹洞宗)の山門が見えてきます。





寺伝によると、天正20年(1592)に鎌倉二代将軍源頼家の菩提を弔うため、
森川金右衛門氏俊が宗悟寺の西にある寿昌寺を当地に移して
自身の法名宗悟居士からとって宗悟寺(そうごじ)
と改め、
代々の菩提寺としたとされています。
なお、寺には若狭局が持参したと伝えられる頼家の位牌が残されています。

江戸時代の旗本森川氏俊は岡崎で徳川家康に仕え、文禄1年(1592)に
この地を領地として治め、寺の裏には森川氏の立派な墓が並んでいます。

山門を潜ると左手に比企一族顕彰碑が建っています。
「平安時代末期から鎌倉時代初期に亘る約百年の間郡司として
比企地方一帯を支配し、一族を挙げて源頼朝公を援け
鎌倉武家政権創立の原動力として大きな役割を果たした比企氏の足跡は、
その広さと歴史的意義において正に私たちの郷土の歴史の原点であります。(以下略)

平成六年十一月吉日 比企一族顕彰碑建設委員会 清水清撰文 吉田鷹村書」

本堂



宗悟寺の東の谷、城ヶ谷(じょうがやつ)の丘陵上に比企能員の館があったと
いわれていますが、現在遺構は残っていません。ただこの近くには、
修善寺谷、梅ヶ谷、扇ヶ谷、比丘尼山などの地名が残っています。

宗悟寺西方、比丘尼山の麓には、若狭局が頼家の命日に
形見の櫛を沈めたという串引沼があります。
 









伊豆修善寺町の篤志家より贈られた頼家桜



比丘尼山





金剛寺(比企氏一族の菩提寺)  
比企ヶ谷妙本寺(1)比企尼・比企能員邸跡  
『アクセス』
「宗悟寺」埼玉県東松山市大字大谷400
東武東上線「森林公園駅」前から川越観光バスに乗り、森林公園南口下車徒歩約45分
運行は土日のみ、1時間に2~4本
「比丘尼山」宗悟寺から西へ700㍍
『参考資料』
「埼玉県大百科事典」埼玉新聞社、昭和56年 
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
 「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年





 



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比企一族の館があった谷戸(やと)を
比企ヶ谷(ひきがやつ)とよびます。
丘陵地の谷状の地形のことを谷戸といい、
比企ヶ谷一帯は、古くから四季折々の風情が楽しめる山水納涼の地とされ、
頼朝はこの山紫水明の地に比企尼を呼び寄せたのです。
比企尼は将来の展望が全く見えない流人頼朝に20年もの間、
援助し続けた頼朝の乳母です。


妙本寺の総門を入ると、左側に蛇苦止(じゃくし)堂へと続く上り道があります。
比企一族を徹底的に抹殺した北条氏は、その怨霊に悩まされることになりました。
比企能員(よしかず)の娘讃岐局は、比企の乱で命を失ったと思われ、
その60年ほど後の文応元年(1260)、北条義時(政子弟)の孫娘(政村の娘)が
俄かに物に憑(つ)かれ、狂乱するという事件が起こりました。
北条政村の娘に讃岐局の怨霊が乗り移り、その口を借りて讃岐局の霊が
語るところによると、讃岐局は死後、大きな角の生えた大蛇となって、
今も比企ヶ谷の土中で火炎の苦しみを受けているというのです。
その場にいた者たちは身の毛もよだつおもいで恐れおののいたといいます。

政村が経典を書写して讃岐局の霊を供養し、鶴岡八幡宮の別当僧正隆弁が
加持祈祷を行ったところ、政村の娘は快復したという。
その後、政村が蛇苦止堂を建立したと伝えています。
比企の乱の経過を見ると、讃岐局と若狭局は同一人物とも思われます。
『新編相模風土記稿』には、「比企能員の娘讃岐局は、最初若狭局という」とあり、
その記事に従って伝承も発展しています。

蛇苦止堂は讃岐局を妙本寺の鎮守として祀っています。



蛇形の井(じゃぎょうのい)
  蛇苦止堂の手前右側に比企氏一族滅亡の時、若狭局が家宝を抱いて
身を投げたと云われる井戸があり、今も蛇に化身して
家宝を守っているといい伝えられています。



「比企能員公一族之墓」と彫られています。

 比企一族墓の右手にある苔むした石段を上ると、
大きないちょうの木の根元に讃岐局の供養塔があります。





墓標には「讃岐局蛇苦止霊之墓」とあり、比企氏一族滅亡の年月
「建仁三癸亥(みずのとい)九月」と刻まれています。
この供養塔は、千代保の五輪塔や一幡の袖塚を見下ろす位置にあります。

祖師堂左側の石段上り口傍に「万葉集研究遺蹟」の碑が建っています。 
この地にはかつて新釈迦堂がありました。そこの供僧(ぐそう)の
仙覚(せんがく)は、新釈迦堂とその僧坊で寺務のかたわら万葉集の研究をしたとされ、
その生い立ちは不詳ですが、比企氏出身という説が有力視されています。

「万葉集研究遺跡
此地ハ比企谷新釋迦堂即将軍源頼家ノ女ニテ将軍藤原頼経ノ室ナル
竹御所夫人ノ廟ノアリシ處ニテ當堂ノ供僧ナル権律師仙覚ガ萬葉集研究ノ
偉業ヲ遂ゲシハ實ニ其僧坊ナリ今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ
適ニ堂ノ須彌壇ノ直下ニ當レリ堂ハ恐ラクハ南面シ僧坊ハ疑ハクハ西面シ
タリケム西方崖下ノ窟ハ仙覚等代々ノ供僧ノ埋骨處ナラザルカ悉シクハ
萬葉集新考附録萬葉雑攷ニ言ヘリ   昭和五年二月
       宮中顧問官 井上通泰撰  菅 虎雄書  鎌倉町青年團建碑」

大意「この地は、比企谷(ひきがやつ)の新釈迦堂があった所で、将軍頼家の娘であり、
また将軍頼経(よりつね)の妻でもあった竹御所夫人の墓のあった場所です。
供僧の僧権律師仙覚が万葉集の研究の偉業を遂げたのは、その僧坊においてです。
現在の夫人の墓として、大石が置いてあるところは、ちょうど堂の仏壇の
直下にあたります。堂は多分南に面し、僧坊は西に面していたと思われ、
西の方の崖下の岩屋は、仙覚など代々の僧侶の骨を埋めた所と推定されます。
詳しいことは、『万葉集新考 附録 万葉集雑考』に記されています。

信仰する釈迦如来像(宋の陳和郷作といわれる)を祀る堂を建て、
墓所にするようにとの竹の御所の遺言によって、新釈迦堂は建立されました。

石段を上ると、途中、右手に祇園山ハイキングコースへ至る登山道があります。
上りきると、妙本寺の墓地が広がっています。
その奥一段高い所に自然石の竹の御所の墓があります。



説明の碑には、源媄子(よしこ)と刻まれています。
竹の御所は源頼家の娘で、母は木曽義仲の娘という説もありますが、
比企能員一族の館跡に住んでいることから若狭局とされています。
比企一族滅亡の時、生まれたばかりであったであろう竹の御所は難を逃れ、
比企ヶ谷に住んでいたようです。その後、邸内に竹が生い茂り、
竹の御所と呼ばれるようになったという。
竹の御所の旧跡の正確な場所は不明ですが、『新編鎌倉誌』に
「本堂に上る道の左にあり」と記されているので、
現在の本堂の左側にある寺務所の辺にあったと思われます。
  
健保4年(1216)、14歳になったとき3代将軍実朝の養女となりました。
 その実朝が公暁(くぎょう)に暗殺されると、北条時政は京の摂関家から
幼い九条頼経(よりつね)を迎え、将軍としました。
頼経は、頼朝の同母妹(姉とも)坊門姫(一条能保の妻)の曾孫にあたります。

 竹の御所が28歳、頼経が13歳になった時、2人は結婚させられ、その4年後の
文暦元年(1234)に竹の御所は男児を死産、自身も亡くなりました。


方丈門の石段は、本堂、寺務所書院へと向かう道です。

本堂



竹の御所の邸があった辺に建つ寺務所・書院

鐘楼を左に見ながら下ります。
比企ヶ谷妙本寺(1)比企尼・比企能員邸跡・比企能員一族の墓  
『アクセス』「妙本寺」鎌倉市大町1-15-1 
JR横須賀線鎌倉駅東口より徒歩約9分
『参考資料』
松尾剛次「鎌倉古寺を歩く宗教都市の風景」吉川弘文館、2005年
永井晋「鎌倉源氏三代記」吉川弘文館、2010年 
神谷道倫「鎌倉史跡散歩(上)」鎌倉春秋社、平成19年
田端泰子「乳母の力」吉川弘文館、2005年 
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年 
「神奈川県の歴史散歩(下)」山川出版社、2005年 

 

 

 

 

 



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