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比企一族の館があった谷戸(やと)を比企ヶ谷(ひきがやつ)とよびます。
丘陵地の谷状の地形のことを谷戸といい、
比企ヶ谷一帯は、古くから四季折々の風情が楽しめる山水納涼の地とされ、
頼朝はこの山紫水明の地に比企尼を呼び寄せたのです。
比企尼は将来の展望が全く見えない流人頼朝に20年もの間、
援助し続けた頼朝の乳母です。
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妙本寺の総門を入ると、左側に蛇苦止(じゃくし)堂へと続く上り道があります。
比企一族を徹底的に抹殺した北条氏は、その怨霊に悩まされることになりました。
比企能員(よしかず)の娘讃岐局は、比企の乱で命を失ったと思われ、
その60年ほど後の文応元年(1260)、北条義時(政子弟)の孫娘(政村の娘)が
俄かに物に憑(つ)かれ、狂乱するという事件が起こりました。
北条政村の娘に讃岐局の怨霊が乗り移り、その口を借りて讃岐局の霊が
語るところによると、讃岐局は死後、大きな角の生えた大蛇となって、
今も比企ヶ谷の土中で火炎の苦しみを受けているというのです。
その場にいた者たちは身の毛もよだつおもいで恐れおののいたといいます。
政村が経典を書写して讃岐局の霊を供養し、鶴岡八幡宮の別当僧正隆弁が
加持祈祷を行ったところ、政村の娘は快復したという。
その後、政村が蛇苦止堂を建立したと伝えています。
比企の乱の経過を見ると、讃岐局と若狭局は同一人物とも思われます。
『新編相模風土記稿』には、「比企能員の娘讃岐局は、最初若狭局という」とあり、
その記事に従って伝承も発展しています。
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蛇苦止堂は讃岐局を妙本寺の鎮守として祀っています。
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蛇形の井(じゃぎょうのい)
蛇苦止堂の手前右側に比企氏一族滅亡の時、若狭局が家宝を抱いて
身を投げたと云われる井戸があり、今も蛇に化身して
家宝を守っているといい伝えられています。
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「比企能員公一族之墓」と彫られています。
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比企一族墓の右手にある苔むした石段を上ると、
大きないちょうの木の根元に讃岐局の供養塔があります。
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墓標には「讃岐局蛇苦止霊之墓」とあり、比企氏一族滅亡の年月
「建仁三癸亥(みずのとい)九月」と刻まれています。
この供養塔は、千代保の五輪塔や一幡の袖塚を見下ろす位置にあります。
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祖師堂左側の石段上り口傍に「万葉集研究遺蹟」の碑が建っています。
この地にはかつて新釈迦堂がありました。そこの供僧(ぐそう)の
仙覚(せんがく)は、新釈迦堂とその僧坊で寺務のかたわら万葉集の研究をしたとされ、
その生い立ちは不詳ですが、比企氏出身という説が有力視されています。
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「万葉集研究遺跡
此地ハ比企谷新釋迦堂即将軍源頼家ノ女ニテ将軍藤原頼経ノ室ナル
竹御所夫人ノ廟ノアリシ處ニテ當堂ノ供僧ナル権律師仙覚ガ萬葉集研究ノ
偉業ヲ遂ゲシハ實ニ其僧坊ナリ今夫人ノ墓標トシテ大石ヲ置ケルハ
適ニ堂ノ須彌壇ノ直下ニ當レリ堂ハ恐ラクハ南面シ僧坊ハ疑ハクハ西面シ
タリケム西方崖下ノ窟ハ仙覚等代々ノ供僧ノ埋骨處ナラザルカ悉シクハ
萬葉集新考附録萬葉雑攷ニ言ヘリ 昭和五年二月
宮中顧問官 井上通泰撰 菅 虎雄書 鎌倉町青年團建碑」
大意「この地は、比企谷(ひきがやつ)の新釈迦堂があった所で、将軍頼家の娘であり、
また将軍頼経(よりつね)の妻でもあった竹御所夫人の墓のあった場所です。
供僧の僧権律師仙覚が万葉集の研究の偉業を遂げたのは、その僧坊においてです。
現在の夫人の墓として、大石が置いてあるところは、ちょうど堂の仏壇の
直下にあたります。堂は多分南に面し、僧坊は西に面していたと思われ、
西の方の崖下の岩屋は、仙覚など代々の僧侶の骨を埋めた所と推定されます。
詳しいことは、『万葉集新考 附録 万葉集雑考』に記されています。」
信仰する釈迦如来像(宋の陳和郷作といわれる)を祀る堂を建て、
墓所にするようにとの竹の御所の遺言によって、新釈迦堂は建立されました。
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石段を上ると、途中、右手に祇園山ハイキングコースへ至る登山道があります。
上りきると、妙本寺の墓地が広がっています。
その奥一段高い所に自然石の竹の御所の墓があります。
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説明の碑には、源媄子(よしこ)と刻まれています。
竹の御所は源頼家の娘で、母は木曽義仲の娘という説もありますが、
比企能員一族の館跡に住んでいることから若狭局とされています。
比企一族滅亡の時、生まれたばかりであったであろう竹の御所は難を逃れ、
比企ヶ谷に住んでいたようです。その後、邸内に竹が生い茂り、
竹の御所と呼ばれるようになったという。
竹の御所の旧跡の正確な場所は不明ですが、『新編鎌倉誌』に
「本堂に上る道の左にあり」と記されているので、
現在の本堂の左側にある寺務所の辺にあったと思われます。
健保4年(1216)、14歳になったとき3代将軍実朝の養女となりました。
その実朝が公暁(くぎょう)に暗殺されると、北条時政は京の摂関家から
幼い九条頼経(よりつね)を迎え、将軍としました。
頼経は、頼朝の同母妹(姉とも)坊門姫(一条能保の妻)の曾孫にあたります。
竹の御所が28歳、頼経が13歳になった時、2人は結婚させられ、その4年後の
文暦元年(1234)に竹の御所は男児を死産、自身も亡くなりました。
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方丈門の石段は、本堂、寺務所書院へと向かう道です。
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本堂
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竹の御所の邸があった辺に建つ寺務所・書院
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鐘楼を左に見ながら下ります。
比企ヶ谷妙本寺(1)比企尼・比企能員邸跡・比企能員一族の墓
『アクセス』「妙本寺」鎌倉市大町1-15-1
JR横須賀線鎌倉駅東口より徒歩約9分
『参考資料』
松尾剛次「鎌倉古寺を歩く宗教都市の風景」吉川弘文館、2005年
永井晋「鎌倉源氏三代記」吉川弘文館、2010年
神谷道倫「鎌倉史跡散歩(上)」鎌倉春秋社、平成19年
田端泰子「乳母の力」吉川弘文館、2005年
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年
「神奈川県の歴史散歩(下)」山川出版社、2005年