平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



鎮守稲荷神社の境内の一角には、一ノ谷合戦で討死した平経俊を祀る五輪塔があります。
18歳の経俊はこの稲荷神社に近い西出浜へ落ち延びようとして戦死しました。

経俊は経盛(清盛の弟)の子で、兄が琵琶の名手経正、
弟が青葉の笛で知られる敦盛です。
兄の経正は助け船を目指す途中、敵に追いつめられ大蔵谷で自害したとも、
河越小太郎に討たれたともいわれ、弟の敦盛は沖の船をさして
馬を泳がせていた所を熊谷直実に呼びとめられて討ちとられました。


鎮守稲荷神社は国道2号線沿いにあります。







五輪塔は佐比江の埋め立ての頃、この神社の境内へ移されたとされています。
昔、佐比江の入江は湊川総門の東側まで入りこんでいました。


子供の夜泣きに効くといわれる経俊の五輪塔には、
赤いよだれかけが結ばれています。
 
経俊について書かれている資料は非常に少ないのですが、
『平家物語』・『源平盛衰記』には、その最期の様子が記されています。
「若狭守経俊、淡路守清房、尾張守清定、三騎つらなって敵の中に駆け入り、
散々に戦ひ、敵あまた討ちとり、ともに討死せられけり。」(『平家物語・巻九』)
淡路守清房は清盛の八男、尾張守清定は清盛の養子です。

「修理大夫経盛の子に、若狭守経俊は兵庫の浦まで落ち延び給ひけるを、
那和太郎に組んで討たれ給ふ。」(『源平盛衰記・巻三十八』)

陸路を馬で駆けても逃げおおせませんが、この合戦で源氏軍は船を
持っていませんでしたから、兵庫浦の沖に停泊している
味方の船に逃れたら助かっていたはずです。
しかし経俊らは次々と押しよせる新手の敵につかまり力尽きたようです。

下記の記事もご覧ください。
平経俊2(竹尾稲荷神社)

境内には引退するまで西出町に本店を置いていた
高田屋嘉兵衛寄進の石灯篭が残っています。

  
『アクセス』
「鎮守稲荷神社」兵庫県神戸市兵庫区西出町680
JR「神戸駅」下車 R2号線沿いに西へ徒歩7、8分
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社「兵庫県の地名」(Ⅰ)平凡社
「新定源平盛衰記」(第5巻)新人物往来社 神戸史談会「源平と神戸」神戸新聞センター 

 



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兵庫運河に架かる清盛橋の北側、松原通りの交差点に
清盛塚とよばれる十三重の石塔と琵琶塚の石碑が建っています。

兵庫運河に架かる清盛橋

清盛橋には、両側に「平家物語絵巻」や「源平合戦図屏風絵」の
ブロンズがはめこまれています。




清盛塚は市電松原線の道路拡張工事で大正12年(1923)、
北東へ11mの場所(現在地)に移されました。
この石塔は高さが約8.5mあり、台座には「弘安九年(1286)二月」と刻まれ、
平家滅亡から百年ほどたった鎌倉後期に建てられたということがわかります。


地元では大正になってから「清盛講」という集まりをつくり、
この石塔を平清盛の墓として毎年盛大に供養祭を行ってきました。
しかし移転の際に行われた発掘調査で、清盛の遺骨や遺品は発見されず、
地元の伝承を裏付けることはできませんでした。

ではこの石塔は何のために建てられたのでしょうか。
『地域社会からみた源平合戦』によると、
「この石塔は西大寺の叡尊が律宗の布教事業として造立したもので、
清盛とは直接関係がないとする説が有力である。清盛の墓ではないという
研究者の見解をめぐって、地元では数年にわたって議論した結果、
清盛の墓という伝承も地元の伝統文化として守っていくことになった。」とあり、
史実と伝承との折り合いが上手くついたようです。


石塔の周囲には有志によって整備された
八棟寺の無縁仏とされる多数の石塔が祀られています。




琵琶塚は以前清盛塚と小道をはさんで北西の地にあった
前方後円墳で、その古墳の形から一の谷合戦で討死した琵琶の名手
平経正の塚と呼ばれるようになりました。
石碑は明治35年、自然石を利用して有志が建てたもので、
道路拡張際、清盛塚とともに現在地に移されました。
経正は清盛の弟経盛の子で青葉の笛で知られる敦盛の兄にあたります。

移転の際に古墳は壊され、琵琶塚の石碑だけが移されました。

清盛像は柳原義達の作品で、神戸開港百年を記念して、
昭和47年(1972)、地元有志によって建てられました。

明石市源平合戦の史跡馬塚(経正最期)  
経正都落ち(仁和寺)
『アクセス』
「清盛塚・琵琶塚」神戸市兵庫区切戸町  JR兵庫駅から南東へ徒歩15分くらい

『参考資料』
歴史資料ネットワーク「地域社会からみた源平合戦」岩田書院

歴史資料ネットワーク「歴史のなかの神戸と平家」神戸新聞総合出版センター
「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター

 

 

 



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山陽電車「人丸前駅」北側の歩道上には、平経正の馬を埋めたという馬塚があります。
経正は祖父忠盛、父経盛の詩歌管弦の才を受けつぎ、特に琵琶に秀で
歌人としては『千載和歌集』に「読み人知らず」として収められ、
また家集『経正朝臣集』も遺しています。



経正は幼い頃、仁和寺の宮に稚児として仕え、
中国伝来の琵琶「青山(せいざん)」を賜りました。
義仲が挙兵した際に、副将軍として北国下向の途上、竹生島を訪れ、
竹生島弁財天の前で琵琶の秘曲を奉納すると、弁財天は感にたえかねて
白龍となって経正の袖に姿を現したという逸話が
「平家物語・竹生島詣」に見えます。北陸道で大敗した一門は、
平家館をすべて焼き払い、都を落ちることになります。
その朝、仁和寺を訪れた経正は別れを告げ、
戦火にさらされぬようにと「青山」を返上します。
守覚法親王は別れを惜しみ、自筆の「光明真言」をお渡しになりました。

一旦は九州大宰府まで落ちた一門も、徐々に勢力を盛り返し
福原に戻り、東は生田森、西は一ノ谷(須磨)、山ノ手(鵯越麓)に
城郭を構えて一ノ谷合戦を向かえました。
経正がどの方面にいて、陣を守っていたのかはわかりませんが、
その最期を『源平盛衰記』からご紹介しましょう。

平敦盛の兄、但馬守経正は、身を軽くして逃げのびようと
重い鎧を脱ぎ捨て、赤地錦の直垂に小具足姿で
長覆輪(ながふくりん)の太刀を帯び、助け船を目指してただ一騎、
黄腹毛の馬に乗り、大蔵谷(明石市大蔵谷)へと落ちて行きました。
それを見つけたのが、逃げ散る平家の姿をやっきになって探していた
武蔵国の住人、庄四郎高家「そこへ落ちて行かれるのは平家の公達と見るが、
お逃げになるのか。馬を返せ。返せ。」と追ってきます。
経正きっと見返して「逃げるのではない。東国の荒くれどもを嫌うのだ。」と
答えて駒を早めます。すると高家は腹を立て「何という殿のお言葉であろうか。
ここは戦場、敵の心情などくんではいられぬ。討てや、者ども。」と
主従三騎で馬に鞭を当て、追いすがってきました。
経正は「今は叶わじ」と思い、駒から飛び降り、いさぎよく自刃しました。
庄氏は武蔵七党の一つ児玉党の嫡流です。

討ち取られた首の髻(もとどり)には都落ちの日に賜った
「梵字の光明真言」が結びつけられ、「たとえ朝敵となって首を渡されても、
この真言を髻(頭の上に集めて束ねた髪)に結いつけてほしい。」とありました。

「梵字の光明真言」は、梵字で記した呪文で、これを誦えれば
仏の光明によって諸罪が消滅するといわれています。
さしもの坂東武者も哀れに思い、首の髻に真言を結びつけたまま、
都大路を渡し獄門の木に架けたのち、仁和寺が引き取って
骨を高野山に送り、追善供養を行いました。


小具足とは、籠手(こて)・臑当(すねあ)て・脇楯(わいだて)など
鎧の下の装具をいいます。

長覆輪の太刀とは、柄頭(つかがしら)から鞘尻(さやじり)まで
全体に金・銀・錫などで縁取りした太刀です。

大蔵谷(明石市大蔵谷)

明石市には、東西に走る山陽道(西国街道)、現在のR2号線が残っています。
南に明石海峡が迫る大蔵谷村は、
山陽道沿いに発展した近世の宿場町として賑わいました。

経正最期について、『平家物語』には、「修理大夫経盛の嫡子、但馬守経正は、
河越の小太郎重房が手にかかつて、討たれたまひぬ。」とあるばかり。
経正を討ち取ったという重房は、河越太郎重頼の嫡男です。
頼朝は義経の妻に重頼の娘を選びますが、義経と頼朝が不仲となった時、
重房は幕府の行事からはずされ、重頼は誅殺されました。

謡曲「経正」では、死後、詩歌管弦に興じた日々を懐かしむ姿と
弁財天が感応するほど琵琶の名手であったため、
琵琶への執着に苦しむ姿が描かれています。
清盛塚・琵琶塚  
『アクセス』
「馬塚」 山陽電車「人丸前」駅下車すぐ

『参考資料』
水原一考定「新定源平盛衰記」(5)新人物往来社 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
 奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会 上宇都ゆりほ 「源平の武将歌人」笠間書院 
白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫 「兵庫県の地名」Ⅱ平凡社 
「ひょうご全史」(下)神戸新聞出版センター 「神戸歴史散歩」創元社

 



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JR人丸前駅の少し西に玉垣に囲まれて建つ腕塚神社があります。
かつては、平忠度の腕を祀る小さな祠が山陽電車の踏切の傍にあり、
周辺は平家物語に語られている「忠度最期」に因んで
右手塚(うでつか)町と呼ばれていました。
昭和五十九年三月、山陽電車の高架化に伴って祠は、
現在地に移され、町名は天文町に変わりました。







 腕塚神社縁起には、次のように記されています。
「寿永三年(1184)二月七日、源平一ノ谷の戦いに敗れた薩摩守忠度は、
海岸沿いに西へ落ちていった。源氏の将の岡部六弥太忠澄は、
はるかにこれを見て十余騎でこれを追った。忠度につき従っていた源次ら
四人は追手に討たれ、ついに忠度は一人になって明石の両馬川(りょうまがわ)まで
きた時、忠澄に追いつかれた。二人は馬を並べて戦い組討ちとなる。忠度は忠澄を
取り押さえ首をかこうとした。忠澄の郎党は主人の一大事とかけつけ、忠度の右腕を
切り落とす。「もはやこれまで」と、忠度は念仏を唱え討たれる。箙に結びつけられた
文を広げると「行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度」とあり
初めて忠度と分かった。敵も味方も、武芸、歌道にもすぐれた人を、と涙したという。
清盛の末弟の忠度は、藤原俊成に師事した歌人であった。年齢は四十一歳。
忠度が馬を並べて戦った川をその後、両馬川と呼ぶようになり、つい最近まで
山電人丸前駅の北に細い流れが残っていたが、埋められて暗渠(あんきょ)になってしまい、
昔を偲ぶよすがもない。腕の病に霊験あらたかだとお参りする人が絶えず、
いま神社にある木製の右手で患部を撫でれば、よくなるといわれている。
これは地元の彫刻家が彫って奉納したものである。山電の線路脇に忠度の腕を
埋めたという小さい祠があった。昭和五十九年三月、山電の高架化工事のため
東三十メートルの位置に移されたものが現在の腕塚神社である。
町名もこれに因んで右手塚(うでづか)町と称していたが、天文町に変更された。
時代の流れとはいえ歴史や伝説が消えていくのは惜しい。
 地元の天文町右手塚自治会が、年間を通じて献花・清掃などに奉仕しているが、
毎年三月の第一日曜日に氏神の神官と共に祭礼を行い、謡曲『忠度』を連吟で
奉納して忠度を偲ぶ習わしである。謡曲の奉納は神社が現在地に移ってからであるが、
みたまを祭るご奉仕がいつの頃から始まったものか地元の古老も知らないから、
その起源は随分昔に違いない。地元民としては子子孫孫に至るまで
神社奉仕が伝承されることを切に願うものである。
参考文献 『新明石の史跡』明石文化財調査団編集」

腕塚神社南にある閑静な住宅街の一角に玉垣をめぐらせた忠度塚があります。
古くは、忠度塚周辺を忠度町(現・天文町)といい、
塚には鎌倉時代の五輪塔が祀られていましたが、江戸時代、明石藩五代藩主
松平忠国(在任1649~1659)が墓所を整備し、明石藩おかかえの
儒者・梁田 蛻巖(やなだぜいがん)が碑文を作り、石碑が建てられました。

阪神淡路大震災で墓所は倒壊しましたが、住民によって再建され、
「平成七年一月十七日午前五時四十六分の阪神淡路大震災により倒壊せる
石碑等を修復す平成七年四月十日 天文町町内会 忠度」と刻んだ碑がたち、
手水鉢には、正保三年(1646)の年号が刻まれています。









神社前の通りを少し西に行くと忠度公園があります。
明石市源平合戦の史跡1(両馬川旧跡)  
忠度都落ち(俊成社・新玉津嶋神社)
『アクセス』
「腕塚神社」明石市天文町一丁目 山陽電車「人丸前駅」下車すぐ
山陽電車高架橋脚のすぐ南
「忠度塚」明石市天文町二丁目 山陽電車「人丸前駅」下車徒歩5、6分

国道2号線の信号を渡って南へ進み、1つ目の辻を西へ入ります。
明石裁判所裏門横になります。

『参考資料』
「兵庫県の地名」Ⅱ平凡社 「新兵庫史を歩く」神戸新聞出版センター
 「ロマンあふれる街 明石」明石観光協会

 

 

 



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一の谷合戦に敗れた西の木戸の大将軍平忠度は戦場を離れ、
海上の船を指して逃れるところを、
源氏方の武将・岡部六弥太忠澄に見つけられます。
忠度は、一旦六弥太を組み伏せて首を斬ろうとしますが、
背後から近づいた六弥太の郎党に右腕を切り落とされ、
もはやこれまでと、念仏を唱えながら潔い最期を遂げたという物語は、
「薩摩守忠度の最期 腕塚堂」の記事でご紹介しました。


神戸市長田区には、平忠度ゆかりの腕塚堂・胴塚がありますが、
忠度が討死したのは明石市内と伝えられ、
人丸前駅周辺には、
「両馬川旧跡」や「腕塚神社」「忠度塚」があります。


平忠度が岡部六弥太に追いつかれ、二人の馬が川をはさんで戦ったので
「両馬川」という名前がついたと伝えられている。


かつて両馬川は両側に土手があり、石橋が架かり
道は土手の下にあり、北の丘には柿本神社(人丸大明神)が見え、
ここからの眺めは明石八景の一つと謡われました。


山陽電車人丸前駅の北側に両馬川の細い流れが
残っていましたが、現在は埋め立てられています。

橋本海関(かいかん)が著わした『明石名勝故事談』によると、
平忠度と源氏方の岡部六弥太との戦いの場は、
明石市天文町(もと腕塚町)の両馬川の辺りで、
六弥太の郎党に切り落とされた右腕は、当地に埋められたとあります。
ちなみに橋本海関の長男は画家の橋本関雪です。
当時、平家の軍船は福原沖(大輪田泊)で敗残の将兵を救いあげていますが、
播磨国明石浦にも平家の船が停泊していたのでしょうか。


「忠度都落ち」「忠度最期」の物語は、
琵琶法師が語ることで広く人々に浸透してゆき、
物語世界に魅了された人々によって伝承はさらに広がり、
形をかえながら庶民の中に根付いてゆきます。
能には平忠度を取り上げた作品が二曲あります。
世阿弥作の『忠度』と内藤河内守作の『俊成忠度』です。
能『忠度』は、俊成ゆかりの僧が須磨の地を訪ねると、
忠度の霊が現れて和歌に対する執着心を切々と訴え、
さらに一ノ谷合戦で岡部六弥太と戦って討死した時の最期の様子を語り、
自らの回向(えこう)を願って姿を消すという展開になっています。

ところが、忠度最期の地を語る確かな史料はなく、
忠度塚にどれだけの歴史的根拠があるかについては、
今後の研究を待たなければなりませんが、
忠度に心を寄せた人々によって建てられた塚や伝承が、
それを推測する手がかりとなっています。

さて戦地に赴いてさえ、歌人としての血がたぎっていたのでしょうか。
忠度が一ノ谷合戦の前に、須磨・明石、さらに三島江・玉川の里などの
名所・歌枕を巡り歩いたと『源平盛衰記』に記されています。
明石市源平合戦の史跡2(腕塚神社・忠度塚)  
 薩摩守忠度の最期(腕塚堂) 
 平忠度胴塚  
『アクセス』
「両馬川旧跡」明石市天文町1-1

山陽電車「人丸前」駅下車すぐ西の高架下
JR「明石駅」下車東へ徒歩約15分

『参考資料』
「兵庫県の地名」Ⅱ平凡社 NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞出版センター
歴史資料ネットワーク編「神戸と平家」神戸新聞出版センター
 AERAMooK「平家物語がわかる」朝日新聞社 「兵庫の街道いまむかし」神戸新聞出版センター
水原一考定「新定源平盛衰記」(巻5)新人物往来社 新潮日本古典集成「謡曲集」(中)新潮社

 

 

 



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神戸市長田区の腕塚堂からほど近い野田町にも、忠度ゆかりの
史跡があるというので訪ねました。

JR鷹取駅前の商店街をぬけ、自動車の往来の激しい国道2号線を
右にそれると、静かな住宅街に入ります。そこから南に少し行くと
駒ヶ林小学校の前に出ます。学校の脇をぬけ東南方向に進むと、
伍魚福(ごぎょふく)の横に「平忠度胴塚」という立札がたっています。











忠度の胴を埋めたと伝えられる場所には、忠度の墓やお地蔵さん、
源平合戦で戦死した名もない兵たちの塚が安置され、大きな石碑には、
「正四位下薩摩守平朝臣忠度墳」と刻んであります。

阪神淡路大震災で長田区は大きな被害を受け、この石碑もばらばらに崩れました。
石碑にかすかに残る痕あとが大地震の衝撃のすごさを物語っています。
掃き清められた墓所、道行く人が歩みをとめて手を合わせる姿に、
この塚が地域の人々に大切に守られていることを実感しました。
胴塚(首塚)現地説明板
由来 薩摩守平忠度(1144年~1184年)は平清盛の末の弟で、
文武に秀でいでた将に平家「一門の花」と云はれていた。
源平一ノ谷の合戦に於て源氏の武将岡部六弥太忠澄に討たれ惜しくも
この地で戦死したが最後は駒ヶ林の辺だと伝えられている。歌道は
藤原俊成に師事し「千載集」にも詠人知らずとして採られているほど武芸にも
歌道にも優れた良い武将であった。人は皆、敵も味方もこの武将の死を惜しんだ。
行きくれて木下かげを宿とせば 花やこよいのあるじならまし(旅宿花)
さヾなみや志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな(千載集)

腕塚堂は北東へ300mほど
薩摩守忠度の最期(腕塚堂)  
『アクセス』
「胴塚」神戸市長田区野田八丁目27

 JR「鷹取駅」下車徒歩15分
国道2号線の信号を渡り東に進み、野田4の交差点を右折、
駒ヶ林小学校と野田交番所の間の道を入り久保1-1の交差点を右折、
「伍魚福」隣が胴塚です。

 



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