平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



鎌倉市雪ノ下の小町大路沿いの民家の間に
土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん)邸跡の石碑が建っています。

土佐坊昌俊は源頼朝の命を受け、京の義経を襲い敗れて殺された人物ですが、
その素性にはさまざまな説があります。



『延慶本』・『長門本』によると、土佐坊昌俊(昌春・正俊とも)は、
もと興福寺の西金堂の堂衆の観音房で、『平家物語・巻1・額打論』に
登場する乱暴者で有名な僧兵です。

当時、天皇の葬儀の際には、京都と奈良の寺の僧侶がお供をして、
それぞれが自分の寺の名を記した額を墓所に掛けるという決まりがありました。
その順番は東大寺次に興福寺、その向かいに延暦寺、
次に園城寺(三井寺)とされていました

二条天皇葬送の時、墓所に額を掛ける順を争って
興福寺と延暦寺の間で衝突が起こりました。延暦寺の僧が
先例を無視して、興福寺より先に延暦寺の額を掛けたのです。
これを見て、興福寺の観音房、勢至坊(せいしぼう)という2人の僧兵が
延暦寺の額を切り落とし、打ち壊したという。(『巻1・額打論』)

『平家物語』増補系の弘本・延慶本・長門本では、
この悪僧観音房は、平家滅亡後、頼朝の密命を受け都の義経を
襲い敗れて殺された土佐坊昌俊がその後身だとしています。

さらに弘本系・延慶本・長門本、四部本、『源平盛衰記』は、
土佐坊昌俊が頼朝に仕えるきっかけとなったいきさつを語っています。
大和国の針の庄は、興福寺西金堂の御油料所
(西金堂の灯油をまかなうための領地)でしたが、代官小河遠忠は、
興福寺の上位の僧官快尊を味方にして、年貢を停止しました。
西金堂の堂衆らは、土佐坊と改名した観音房を仲間に引き入れ
代官を夜討にしたため、昌俊は大番役として上洛していた
土肥実平(さねひら)に預けられました。
月日が経つうちに実平と親しくなった昌俊は、
今更興福寺には帰れないので伊豆北条に下り、頼朝に
仕える身となり、
悪僧上がりの剛の者だったので、
頼朝の側近くに召し使われました。 

『玉葉』文治元年10月17日に、堀川夜討ちに該当する記事があります。
武蔵国在住の児玉党が院御所に近い義経館を襲い
敗北したとしていますが、昌俊の名は見えません。
『四部本』に土佐坊は実は児玉党であるとわざわざ記されていることから、
『玉葉』が記した児玉党とは、土佐坊の一行をいったものと考えられます。
『四部本』は、土佐坊が語らった在京大番中の武士が
児玉党だったことを『玉葉』をもとに付記したものと思われます。

平家物語諸本の中には、平治の乱の際、都に戻り常盤御前に義朝の死を
急報した義朝の童金王丸と昌俊を結びつけるものもありますが、
史料的には確認されません。これは如白本・南部本などが伝えるもので、
土佐坊は敵役(かたきやく)的悪僧ですが、その小気味よい生き方が
人気を博し数々の伝説が生まれていったようです。

平家追討に数々の功のあった義経ですが、頼朝の許可なく任官したため
頼朝の不興を買い、また義経と対立し遺恨を抱く梶原景時の讒言もあって
ますます頼朝から不信の念をもたれることになりました。
義経は鎌倉入りを拒否され、再び宗盛父子を伴い京へ向かい、
途中の近江国(滋賀県)篠原で宗盛、野路宿で子の宗清を処刑しました。

都ではいつしか頼朝・義経の不和が露わとなり、頼朝の命で
義経に従っていた者たちは、次々と鎌倉へ帰って行きました。
頼朝は梶原景季(かげすえ=景時の嫡男)を上洛させ、
早く源行家を探しだして追討するよう義経に命じました。
行家は源義朝の弟で頼朝・義経の叔父にあたり、以仁王の
平家討伐の令旨を諸国の源氏に伝え歩いた人物です。

行家は頼朝と義経の不和を知り、チャンスとばかり義経と手を組み、
後白河法皇に「頼朝追討」の院宣を要求しましたが、
鎌倉と対立するのを恐れる九条兼実らの反対もあって、
法皇はなかなか院宣を下そうとしませんでした。
土佐坊が上洛したのはちょうどそのころです。
京における義経の動向を探らせた梶原景季が鎌倉に戻り、
報告を受けて頼朝は、義経追討を決意しました。

頼朝は御家人を集め、討手を募りましたが、多くの者が辞退し、
梶原景時さえしり込みし退室しました。(『源平盛衰記』)
進んで引き受けたのが土佐坊昌俊でした。頼朝は
土佐坊が年老いた母や幼い子供たちが下野国(栃木県)にいるので
心残りと申し出たので、ただちに下野国の中泉庄を与えたという。
そして、昌俊を物詣でと称させて上洛させました。
中泉庄は、現栃木県大平町を中心に、
東西約6㌔、南北約8㌔ほどのかなり広い荘園です。

昌俊(?~1185)は弟の三上弥六家季ら83騎の軍勢を引連れ、
鎌倉を出発し都に到着しました。すぐ義経に会いに行きませんでしたが、
街中で義経配下の武将に出会い翌日、使いの弁慶が宿舎に
やってきて呼び出され、頼朝からの刺客と疑われます。
昌俊は熊野詣の途中と弁解し、7枚もの起請文(誓いの文書)を書いて
その場を取り繕い、在京大番中の武士を語らって
その夜のうちに義経を襲撃する準備を始めました。

街の様子が騒がしいので、義経の愛妾静が童を偵察に出しましたが、
帰って来ないので下女に見に行かせると、「童は土佐坊の宿の前で
斬捨てられていて、武士たちが出陣の準備をしています。」というので、
義経はすぐに武装し敵を待ち構えていました。
この時、義経の郎党はそれぞれの宿に帰り留守でしたが、まもなく弁慶を
始めとする味方の軍勢も駆けつけ、土佐坊はさんざんに駆け散らされ、
やっとのことで鞍馬山の奥に逃げ込んだのが運のつきでした。
鞍馬は義経が幼年時代を過ごした地なので、そこの法師に捕えられ
義経の前に引き出されます。義経は土佐坊の頼朝への
忠誠心に感心して命を助け鎌倉に帰そうとしましたが、
「命はすでに鎌倉殿に差し上げた。早く首を刎ねてくれ。」というので
六条河原で処刑されたのでした。
土佐房昌俊のその潔い態度を褒めない者はいなかったという。

『百錬抄』文治元年10月17日の項によると、義経の堀川館を襲撃した土佐坊軍に、
児玉党30騎も加わって相当手痛い攻撃を加えましたが、これを聞いた
行家も駆けつけ、義経勢は敵を追い散らし勝利を得ました。
(『平家物語・巻12・土佐房誅』)(『吾妻鏡』文治元年10月9日条、10月17日条)

観世弥次郎長俊作の謡曲『正尊(しょうぞん)』は、
土佐坊昌俊が主人公で、起請文を読む場面が中心となっています。
起請文とは、
神仏への誓いの言葉を書いた文書のことですが、『平家物語』には、
起請文の文面はないので、作者が書き加えたと思われます。

土佐坊昌俊の夜襲をいち早く気づいた静御前が、
寝ている義経に鎧を投げて窮地を知らせるところを描いたものです。
 堀川御所夜襲之図 歌川年英作 高津市三氏蔵

平家物語絵巻・巻・12・土佐坊被斬(きられ)より転載。
右上の場面は静御前に武装を手伝わせる義経です。
義経は武装し、敵が押し寄せるのを待ち受けています。

以下の画像は、国立国会図書館デジタルコレクション
「土佐坊昌俊義経が宿所に夜討の図」より転載。

源義経

武蔵坊弁慶

静御前


(碑文) 土佐坊昌俊邸址
堀川館に義経を夜襲し利あらずして死せし者 是土佐坊昌俊なり 
東鑑文治元年十月の条に 此の追討の事人々に多く以て
辞退の気あるの処 昌俊進んで領状申すの間 殊に御感を蒙る
 巳に進発の期に及んで御前に参り  老母並に嬰児等
下野の国に有り憐憫を加えしめ給ふべきの由之を申す云々 とあり
 其の一度去って又還らざる悲壮の覚悟を以て門出なしけん
此の壮士が邸は 即ち此の地に在りたるなり
大正十四年三月建 鎌倉町青年団

(大意)土佐坊昌俊は、堀川の館にいる源義経を夜襲し
逆に殺されてしまいました。吾妻鑑文治元年(1185)10月の条によると、
義経を討つ者を募っているとき、みんな辞退したい気持ちであったところに、
昌俊が進んで引き受ける旨申し上げると、頼朝は大層喜びました。
そして、出発の間際に頼朝の御前に参り、自分には年老いた母や
幼い子供たちが下野国にいるので、もしもの事があれば
情けを掛けてやって欲しい旨申しあげた、などと書かれています。
一度行けば、もう帰ってこないという悲壮な覚悟で
門出した土佐坊の屋敷が在ったのはこの場所です

土佐坊昌俊(冠者殿社)  
土佐坊が急襲した義経の館
源氏堀川館・左女牛井之跡・若宮八幡宮  
金王八幡宮(源義朝の童渋谷金王丸)  
『アクセス』
「土佐坊昌俊邸址」神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目14−23
JR鎌倉駅下車、徒歩約15分
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈」(上)(下2)角川書店、昭和62年、昭和52年
新潮日本古典集成「平家物語」(上)(下)新潮社、昭和60年、平成15年
「国史大辞典」吉川弘文館、平成元年 
「完訳 源平盛衰記」(8)勉誠出版、2005年
栃木孝惟・谷口耕一編「校訂延慶本平家物語(1)」汲古書院、平成12年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
角川源義・高田実「源義経」講談社学術文庫、2005年 
林原美術館編「平家物語絵巻」クレオ、1998年
「歴史人 源平合戦と源義経伝説」KKベストセラーズ、2012年6月号
奥富敬之監修「源義経の時代」日本放送出版協会、2004年
「栃木県の地名」平凡社、1988年
神谷道倫「深く歩く鎌倉史跡散策(上)」かまくら春秋社、平成19年
白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年

 



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最寄りのJR南草津駅
『図説・源平合戦人物伝』に載っている清宗の胴塚の写真を見て、
草津市の遠藤(権兵衛)家でこの塚が保存されていることを知りました。

駅傍に立つ南草津案内板。

「南草津病院を営む遠藤勉医師宅の庭には、
平家の悲劇の若武者・平清宗の胴塚(五輪塔)がある。
首は六条川原に晒されたが、当地に胴が残ったため胴塚が建てられ、
約820年を経た今でも遠藤家によって懇ろに保存されている。」
(「野路町内会HP」)

平清宗(1170―1185)は、平宗盛の嫡男で
母は中納言三位ともいい、平時信の娘清子です。

清子は清盛の妻時子の妹ですから、
宗盛は1歳年上の叔母を正室にしたことになります。

後白河法皇の寵妃建春門院滋子は、清子の同母姉です。
仁安3年(1168)滋子の生んだ高倉天皇が即位し、
その3年後に時子の娘徳子(建礼門院)が高倉天皇に入内し、
中宮になると、平氏内における時子系統の権威が高まります。
建春門院と血縁関係がある清宗は、法皇に溺愛され、3歳で元服・
内昇殿・禁色(きんじき=特定の位の人しか着用を許されない色)を
許され、従五位下に叙せられます。
このような極端な待遇は、他に例のないものでした。
そして13歳で正三位に昇ります。

宗盛は清子が亡くなると、翌年の治承3年(1179)2月、
権大納言・右大将を辞任し、
後に法性寺一の橋の西に堂を建て、
丈六の阿弥陀像を安置し彼女の冥福を祈っています。

宗盛は凡庸で武家の棟梁としての資質が備わっていなかったといわれ、
評判の悪い人物の1人ですが、妻子に愛情注ぐよき家庭人でした。
宗盛は、篠原で清宗と引き離される際、「十七年の間、一日片時も
離れることはなかった。西国で海底に沈まないで憂き名を流すのも、
右衛門督(清宗=うえもんのかみ)故なのだ」と言って涙を流したという。
物語で語られた生への未練極まりない姿も、我が子を案じ、
気づかう強い思いがそのような形で現れたようです。

そして、清宗も父を慕い案じています。
清宗は処刑の際、義経の厚意によって、宗盛父子の
善知識として招かれた湛豪という聖に向って
「父上の最期はいかがでしたか。」と
尋ね、
「御立派な最期でした。」という言葉に安心して
安らかに斬られたのです。

『平家物語』は、宗盛父子はともに近江国篠原(現、野洲市篠原)で
処刑されたとしていますが、
『吾妻鏡』文治元年(1185)6月21日条によると、
「源義経は近江篠原宿に到着し、橘馬允(うまのじょう)公長に命じて
平宗盛を誅殺させた。次に野路口に至って、堀弥太郎景光に命じて
前右金吾(うきんご)清宗の首をさらさせた。」と記されています。

現在、清宗の胴塚は「医療法人芙蓉会」の敷地内にありますが、
防犯上立ち入り禁止です。事務長のお許しを得て参拝・撮影させていただきました。





平清宗(1170―1185) 平安時代の公卿、平宗盛の長男、
母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、
3才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。
 源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年
壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。

 「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、
当家では代々胴塚として保存供養しているものである。 
  遠藤権兵衛家  当主遠藤 勉







清宗塚
 文治元年3月(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、
安徳天皇(8歳)は入水。平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、
遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、
鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都へ上る途中、
野洲篠原にて宗盛卿の首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。
 清宗は父宗盛(39歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い
静かに手を合わせ、堀弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。
同年6月21日の事、清宗時に17歳であった。首は京都六条河原にて晒される。
 平清盛は義経3歳の時、、あまりにも幼いという事で命を許した。
時を経て義経は平家一門を滅ぼし、又義経は兄頼朝に追われ、
奥州衣川にて31歳で殺される。

 夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、
歴史は我々に何を教えてくれるのか。



浄土宗 本誓山教善寺

教善寺の門前にたつ「草津歴史街道」説明板。

野路宿(駅とも)は、古代末から中世にかけて存在した
中世東海道の宿(しゅく)で、
現、野路町に推定されています。
 野路の地名は、『平家物語』、『平治物語』をはじめ、
多くの紀行文にもその名をみせています。

平治の乱に敗れた源義朝主従8騎は、野路(現、草津市野路町)を
通って落延びていきます。疲れ切った落武者たち、中でも初陣の頼朝は
豪胆のようにみえてもまだ13歳、なれぬ重い武具を身に着けての一日中の合戦。
おりからの雪に昼間の疲れが加わって馬上でうとうとしてしまい、
野路辺りから一行に遅れてしまいます。篠原堤(現、野洲市篠原)で
一行は頼朝がいないことに気づき、義朝の乳母子鎌田正清(政家)が
義朝の心を汲んで探しに戻りましたが見つかりませんでした。
(『平治物語・中・義朝奥波賀に落ち著く事』)
平家終焉の地(平宗盛・清宗胴塚)  
平宗盛、我が子副将との別れ(京の源義経の館)  
『アクセス』
「医療法人芙蓉会 南草津病院」滋賀県草津市野路5丁目2−39 
JR琵琶湖線「南草津駅」下車徒歩約10分
『参考資料』
「滋賀県の地名」平凡社、1991年 
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(下)」塙新書、1994年
 元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書504、平成24年
「図説・源平合戦人物伝」学研、2004年
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 



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最寄りのJR篠原駅

十数年前、「源義経元服の池」を訪ねた時、ここ平家終焉の地にも来ましたが、
草津市にある平清宗の胴塚を参拝したついでに野洲市まで足を伸ばしました。

琵琶湖の東、野洲市大篠原、国道8号沿いに
「平家終焉の地」と記された案内板が設置されています。


案内板に従って細い道を進むと「平宗盛卿終焉之地」と
彫られた石標があり、宗盛父子の墓碑が建っています。

以前に来たときは、鬱蒼とした雑木と雑草に覆われて薄暗い中に墓碑が建っていましたが、
藪はすっかり刈られて見違えるように綺麗に整備されていました。
清盛桜、宗盛桜、清宗桜と名づけられた桜の苗木も植えられていました。

清盛桜

宗盛桜

令和元年6月清宗桜

追善供養が行われたようです。

「平家終焉の地
平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなく、ここ野洲市である。
平家最後の最高責任者平宗盛は、源義経(?)に追われて
1183年7月一門を引き連れて都落ちをした。
西海に漂うこと二年、1185年3月24日、壇ノ浦合戦で敗れ、
平家一門はことごとく入水戦死した。しかし、一門のうち、
建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。
宗盛父子は義経に連れられ鎌倉近くまで下ったが、
兄の頼朝に追い帰され、再び京都に向かった。
途中、京都まであと一日程のここ篠原の地で、義経は都に
首を持ち帰るため、宗盛と子の清宗の二人を斬った。
そして義経のせめてもの配慮で、父子の胴は一つの穴に埋められ、
塚が建てられたのである。父清盛が全盛のころ、この地のために掘った
妓王井川が今もなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは、
宗盛父子にとっては、日本中のどこよりも安住の地であったであろう。
現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池があり
この池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れ
で蛙が鳴かなくなったことから、「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。
野洲町観光協会」(説明板より)

「蛙不鳴池(かわずなかずのいけ)および首洗い池
西方に見える池を蛙不鳴池と云い、この池は、元暦二年(1185)源義経が
平家の大将、平宗盛とその子清宗を処刑したその時その首を洗った
「首洗い池」と続きで、以後 蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、
蛙鳴かずの池と呼ばれている。別名、帰らずの池とも呼ばれ、
その池の神が日に三度池に陰を映されたのに、
お帰りを見た事がないとの言われからである。
昔は横一町半(約一六五m)、長さ二町(二二〇m)あった。
首洗い池は、蛙不鳴池の東岸につながってほぼ円形をしていた。
最近までその形を留めていた。
野洲市大篠原自治会 大篠原郷土史会」(説明板より)

江戸時代の諸国の名所図会

元暦2年(1185)5月に壇ノ浦合戦で生捕りとなった平宗盛・清宗父子は、
源義経に伴われ、鎌倉へ下って行く途中、野洲川を渡って三上山を望みながら
「篠原堤」を通過して「鏡宿」(現、蒲生郡竜王町大字鏡)に投宿した」と
『源平盛衰記』(巻45)に記されています。
篠原堤は東山道筋(中山道)に位置し、現在の国道八号沿いにある
西池の堤防堤といわれています。(『野洲郡史』)

西池は、、「首洗い池」と続きで蛙鳴かずの池ともよばれ、
現在も付近の農地に用水を供給しているため池です。

また京から鎌倉への道中を記録した紀行文である
『東関紀行』の作者は、
仁治3年(1242)に京を出発し、
「篠原といふ所を見れば、西東へ遥かに長き堤あり」と記しています。

義経は壇ノ浦で捕虜にした平家の総帥平宗盛父子を伴って鎌倉に向かいました。
鎌倉の手前で北条時政が宗盛父子を受けとり、父子は鎌倉に入りましたが、
義経は腰越に留められました。頼朝から対面を拒否された義経は、
兄の誤解を解こうと、腰越状を送り弁明しましたが、
梶原景時の讒言を聞いていた頼朝が心を開くことはありませんでした。
こうして元暦2年(1185)6月9日、宗盛父子は再び
義経とともに京に帰されることになりました。
橘馬允(うまのじょう)公長・浅羽庄司宗信らがその護送につけられました。

宗盛は道すがら「ここで斬られるのだろうか。」「ここでだろうか」と思いますが、
国々、宿々を次々と過ぎて行き、途中、尾張国を通りました。
尾張国内海は、義朝が騙し討ちに遭った地です。
しかし斬られることもなかったので、やや望みを抱き「ひよっとしたら、
命だけは助かるのかも知れない。」と思ったりもします。
清宗は「どうして命の助かることがあろうか。暑い頃なので首が腐らぬように
都近くで斬るのであろう。」と思いますが、父があまり心細そうなので、
口に出せず念仏を勧めました。

やがて都に近い近江国篠原に到着しました。
ここへ大原の本性房湛豪(たんごう)という聖がやってきました。
義経は、前もって宗盛のために使者を立てて呼び寄せていたのです。
湛豪を見て、ようやく宗盛も処刑が迫ったことを悟りました。
ここで父子は引き離され、それぞれ処刑されることになります。

宗盛は、「たとえ首は落ちても、むくろは子の清宗と一緒にと願っていたのに、
こうして別々にされたのが悲しい」と湛豪に涙ながらに訴えました。
湛豪もくずれそうになるおのれの心をおさえて、「そのように思いなさるな。
今はただ念仏を唱えれば必ず往生できると信じて、
南無阿弥陀仏と唱えればいい。」などと説いて聞かせ、戒を授けて
しきりに念仏をすすめるので、宗盛は妄念をひるがえして
西方に向かって声高に念仏を唱えます。
そこへ橘馬允(うまのじょう)公長が太刀を引き寄せ後方にまわり、
今まさに斬ろうとすると宗盛は念仏をやめ、「右衛門督(うえもんのかみ
=清宗)はもう斬られたのか」と聞いたのが最期の言葉でした。
最後まで息子の身を気にかけ、ついに悟り切れなかったのです。

人々はみな、公長がかつて平知盛の家人であったことを忘れておらず、
「権力者にへつらうのは世の習いであるとはいえ、
あまりにも無情な男よ。」と口々に非難しました。

同じ日、右衛門督にも湛豪は仏教の教えを説き、
鉦を鳴らして戒を授けました。
右衛門督が父の最後はいかがでしたか。と聞くので仕方なく、
「ご立派でございました。ご安心なさいませ。」というと非常に喜んで
「それでは憂き世に思い残すことはない。さあ斬れ。」と首を差しのべました。
今度は義経の郎党堀弥太郎が斬りました。
宗盛があまりに未練を残していたので、
遺骸は公長のはからいで、父子を同じ穴に埋めました。


同年6月23日、三条河原で検非違使が宗盛父子の首を受けとり、
三条を西へ東洞院を北へ引き回した後、獄門に掛けられました。
法皇は三条東洞院に於いて見物したという。
そしてこの日は、木津川の畔で平重衡が斬られた日でもありました。

宗盛を斬った公長は、かつて平知盛の家人でしたが、
平家の衰運を見こし、またその昔、源為義から恩を受けたことがあり、
加々美長清の仲介で息子の公忠と公成を連れて頼朝に帰順しました。
(『吾妻鏡』治承4年12月19日の条)

加々美長清(弓馬術礼法小笠原流の祖)も知盛に属して京にいましたが、
平家を見限り富士川の戦いで頼朝の下に参じたと伝えています。
(『吾妻鏡』治承4年10月19日条)

ところで、『延慶本』は宗盛の斬り手を息子の公忠としています。
こちらの方が年齢的に妥当と思われます。
橘馬允
父子はともに弓馬に優れ、頼朝は鎌倉での
武芸競技会に2人の息子を出場させています。

平宗盛に引導を渡す湛豪は、当時貴族たちの間にも
信敬厚かった大原来迎院(らいごういん)の長老です。
建礼門院の出家の際にも戒師を務めたといわれる聖で、
いよいよ処刑の迫った宗盛・清宗父子への授戒のために招かれたのでした。
壇ノ浦で捕虜となった平宗盛   平清宗の胴塚  
『アクセス』
「平家終焉の地」滋賀県野洲市大篠原86
JR篠原駅下車、県道158号を南方へ徒歩約30分。
国道8号と県道158号の交差点付近の国道に案内板が立っています。

又は、JR野洲駅南口から近江鉄道湖国バス
「三井アウトレットパーク」行き乗車約20分。
「道の駅 竜王かがみの里」バス停下車、西へ徒歩約10分。
『参考資料』
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
 「滋賀県の地名」平凡社、1991年
「日本名所風俗図会 近畿の巻」角川書店、昭和56年
 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年 
山本幸司「頼朝の天下草創」講談社、2001年

 

 

 

 



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